鶴澤 新造

   
   
 
東都の義太夫界目下甚だ男太夫寂寞(さびし)く名太夫の上京出席することもなきより随つて三味線弾の名手も寄席に顕はれずなり行き、弾人(ひきて)より頭を下げ願ふて弾くほどの太夫もなしとて三味線引きは多く稽古屋に隠れ、素人を導き、子供を教へ、若くは田舎稼ぎに出るに至れるが多き中に、娘太夫を弾きて、花方の花を彩(いろど)り、人気を補ひ、伎芸を助けつゝあるもの独り鶴澤新造丈に於て之を見る、丈は浪華出身にして鶴澤豊造(目下玄治座に在り)の門人なり幼(いとけ)なくして斯道に志し九歳の頃より坂地文楽座に出勤し故竹本山城太夫、豊竹若太夫、かな太夫、勢見太夫、島太夫、呂太夫等数多名太夫を弾たる腕を齎(もたら)して初めて上京せしは今より殆んど二十余年前にして其頃夜席は稀にて義太夫の昼席は唯一ツの領国に新柳亭ありしのみ丈は若太夫を弾きて暫く同亭に出席せしが、後ち去つて新潟地方へ赴き、帰京後一と度津賀太夫を弾けり、爾来休席し居りしが四年前より現今娘太夫の花方として評判よき門人竹本新吉を扶け弾きて今尚各席に嬢が人気を得、其芸道の日々に進歩せるは全く新造嬢の素授尽瘁に基くものなり、丈は元来本称を谷川新造と云ひ、姓字だけを僅に鶴澤と改め最初より本名を其儘に新造と呼び来りしが遠からず師の名を継ぎて鶴澤豊造と改むると聞く、丈も又弦界の老練株といふへし
【義太夫雑誌30:15-16評判】