豊沢 新兵衛
丈が始めて上京せしは去る明治廿五年にして、曩に大坂に在りし時は初め豊沢新之助と名乗り、豊沢新左衛門に就て専ら斯道(このみち)を修業し、新三郎等と倶に門中出色の若手なりしが新三郎の没後、その名を嗣(つい)で新三郎と称し額太夫を弾きて東北仙台地方へ旅興行に出でしは丈が二十歳の頃なり、夫より一旦帰坂後飄然去つて上京の途に就きしも別段見掛けたる山とてもなく、唯普通の都見物と一般なる考へなりしが、嘗て在坂の頃一と度新呂太夫を弾きたる事ありしより、着京後それ等の行き掛りより端なくも同太夫を弾くことゝなりしも都合ありて分離し、暫しく敏腕を埋め居たりしが其後岡太夫を弾く事となり今猶ほ継続して、都下各席に音〆め爽やかに撥冴へ高き好評を博しつゝあり、丈は曩に上京するや、他に同名なる豊沢新之助といへる三味線弾きのあるより営業上同名にては甚だ不都合なるを以て直ちに新之助の名を改めて今の名の豊沢新兵衛と称しぬる事とはなりぬ
【義太夫雑誌24:12-13評判】