竹本 昇太夫
数多き都下幾百の義太夫語り中チヨボ語りを数へ来らんには殆んと屈指の数にも満たずして、随つて世に知らるゝ事の少きが中に独り斯道(このみち)斯派を以て世人の歓迎を受け居るものは、それ特(ひと)り竹本昇太夫なるか丈は素(も)と竹本識太夫(今の岡太夫)の門人にして初め幟(のぼり)太夫と名乗りしも字体師匠の名と紛らはしく且つ其本名の昇吉に象(かたど)りて昇太夫と改めぬ、初めて出席したりしは丈が廿二歳の頃ほひなりし後ち明治廿五年中、師の一座と倶に、其郷里なる新潟に赴き同地方を興行(うち)めぐり、帰京の後廿六年の頃より三遊派の色物席に出勤し各席に愛嬌を添へつゝありしが、同廿八年より春木座に興行せし故家橘一座の演劇(しばゐ)にチヨボ語りとして出勤せし以来続いて明治座に出勤し、頗る高島屋の好む所となりて今は明治座に据り切りのチヨボ語りとはなりぬ、丈は元来体格肥満の大柄にて咽(つゝ)確かに音声に富みたれば艶物は嵌りよく、十種香、柳、本蔵下屋敷などは尤も得意なるものなり、その明らかにすゞしき艶の響き徹るなどチヨボ語りには妙といふべく、先年嘗て三好屋が春木座に於て一の谷組討を演ぜし時チヨボは丈と定り居りしに折柄明治座の開場せしかば同座へ出勤するに就き組討のチヨボに欠きし為め九蔵は一時一の谷を見合せたりし事などあり、以て如何に丈が俳優間にチヨボ語りとして歓迎されあるかを知るべく、併せて其伎芸の評価をも推し得べし、且つ丈は芸園中に生活して芸臭に泥まざる一種変たる処に愛嬌の存するあり
【義太夫雑誌37:15評判】