竹本 清助
今や東都出席の女義太夫中その古顔なるものを数へ来らんには嬢は必ず五指に漏れざるものならん、夙に専吉と呼ばれ、其後綱清と名乗り今又清助と改む、其間殆んど二十年余、嬢や芸界に忠なる亦壮んなるものと謂ふべし、今例に依て聊か其経歴をの一班を紹介せん
嬢は素(もと)鶴澤専糸(鶴澤友次郎の弟子)の門人にして専吉と呼び始めて寄席に顕はれしは明治九年にして嬢が十一歳の頃なり、後明治十三年竹本綱太夫(六代目)の門に投じ綱清と改め東橋亭に看牌を上げしは同年四月なりけり、以来各席に好評を以て迎へられつゝありしが其後彼の睦、正義両派の軋轢盛なりし時、嬢は何れにも属せず両派の関係を避けて単行独立に興行し居たりしより正義派の滅後といへども自然睦派には出席せざる場合と成り居りしが屋根屋、濱の屋等の斡旋する所となり勧められて遂に睦席に出づる事となり亡父の名を襲ふて竹本清助と改名し花澤宮造の糸にて昨年十二月領国新柳亭に看牌を上げぬ、付て曰ふ嬢が語物中逆櫓、忠四、柳の如きは得意物として歓迎さるゝ曲なりと
【義太夫雑誌 45:19評判】