豊竹 呂昇

    
    
 
 
浄瑠璃は多く阪地に起る、為に阪人(はんじん)能く是を聴く、故に若し阪地に於て其名赫々たるものあらは、是れ芸の秀逸なるものと見るも、敢て大なる過はあらざるべし女義太夫の豊竹呂昇、今や其位置こゝに在り、因て伝を試む。
呂昇、姓は永田、名は仲、明治の七年八月尾張国名古屋江川端町に生る。父を永田為吉と称ふ生来実業を以て起(た)つ。なか幼にして曲を駒吉に学び脩むるに従て達す、芸名を仲路と呼ぶ、父為吉、七福座を新設して浄瑠璃の大会を開く、仲路時に年十一、太功記の十冊目を演して評特に好し、翌十八年豊竹呂太夫の名古屋に来る、忽ち其門に入て学ぶ年余、後ち京都なる鶴澤友次郎が許に赴く。幾許ならずして旧師呂太夫の越路太夫と来(きたつ)て四条通りの北座に興行す、乃ち再び彼に学び傍ら越路太夫、津太夫、弥太夫、越太夫、豊沢広助野澤吉兵衛、野澤勝鳳、等の諸名師に従ふ、蓋し其特伎を脩めんと欲してなり、是より名も師の一字を得て呂昇と改む、偶(たま/\)小土佐の来京するあり、共に謀て興行せしが人気大に宜(よ)し、時に二十四年小土佐の上京に際し別れて阪地に赴く、以来五星霜、道頓堀播重席(はりしげせき)に興行して常に人気の焼点たり、其得意として聴客の喜ぶものは太功記十冊目、先代萩御殿、三十三所壺坂、女舞衣酒屋、河原達引堀川、等なり、
【義太夫雑誌2巻2:32-33豊竹呂昇の伝】
 
坂地女義太夫の団体として常に世に好評を博し居る都保美連の巨擘と称せられつゝある豊竹呂昇、今や坂地を辞して遠く備後尾の道の覊亭に在りて同地の寄席に連夜好況を占むると聞く、本誌今嬢が写影を掲げしと倶に聊か之を叙せんとせしが、嬢の小伝は曩(さき)に第二号の誌上にかすみ氏の稿を以て読者諸君に紹介したれば今更茲に贅記するの要なし、唯その芸品に就て評せんとせしも嬢は未だ一回の上京に接せず、其芸評を叙するも之を聴かざるの読者に於て興甚だ深からさるを覚ゆれば、今回は之を省き遠からず嬢が上京出席の時を待つて精細なる批評を試むる所あるべし読者諸君幸ひに此意を諒せられよ
【義太夫雑誌30:16評判】
 
巻頭の姿影
本誌本号開巻第一葉に掲げ来る所の姿影は現に茅場町宮松亭に毎夜興行し今や都下十有五区に評判隠れなき豊竹呂昇一座なり、一座中には嘗て上京したるもあれど多くは初上りの事なれば未だ諸嬢が技芸の真味を知るに由なければ芸評は漸次後号に記載する事とし先づ取敢ず一座諸嬢が略歴の一班を紹介せん
豊竹呂昇
阪地女義太夫界人気の大王として、都保美連の頭領として、今や斯界に持囃さるゝ嬢が這般(このたび)の上京は都下人士の待に待ちたる事とて初席宮松亭の初日以来今に至る連夜客留の好景気は一座の為め何より以て賀すべきの至りと謂ふべし、嬢が技芸の経歴は曩(さき)に本誌第二号の紙上に詳載しあれば今は之を記すを省き、茲に聊か都保美連の事を記さん
嬢が大阪と言はず京都と言はず若しくは九州、中国各地到る処に好評を以て迎へらるゝは多く都保美連組織以後に係るものにして同連の組織は実に嬢が人気を得たるの基因(もとゐ)なりし、今を去る六年以前坂地南区なる演舞場に於て共楽会の演芸を催せる際、大坂朝日新聞記者某は頗る嬢の芸風を愛し見処ありとて抜出だして同会に出演せしめぬ嬢が此時の語物は先代萩御殿なりき、是より嬢の好評一層坂地に囂(かまび)すしく其後同記者の斡旋する所ありて始めて都保美連なるものを組織し曽根崎橋の萬亭に於て興行せいが是れ同連の初席なりき、その当時の顔触は照玉、呂昇、末虎、愛之助、都、小弥儀等なり、後暫らく地方を廻り帰坂後明楽座、浪花座等に興行し何れも喝采ならざるなく今や斯道に遊ぶものにして同連の名を知らざるものなきに至りしは誠に同嬢の名誉とや言はん
尚呂昇が語り物中好評なるものを聊か左に紹介せん新口村、日向島、鳴門八(以上広助に)鰻谷封印切、湊町、沼津(以上津太夫に)天王寺村(以上住太夫に)四ッ谷、岩井風呂、十人伐、新地茶屋場(以上弥太夫に出来し物)等なるが曲(もの)に依りては越路太夫の節付もありと云ふ
【義太夫雑誌46:17-19評判】
 
参考 大阪の女義太夫 豊竹呂昇
 義太夫の花 豊竹呂昇(国立国会図書館デジタルコレクション)