豊竹 呂京

   
   
 
嬢が評判は其染之助と云ひし頃に於てしば/\本誌に記したりしか一昨二十九年三月一度その師と頼みし新呂太夫を便りて坂地に下り其紹介によりて更に其師なる豊竹呂太夫の門に入り傍ら鶴澤勝右衛門鶴澤重造の二人に就きて油屋、沼津、壺阪、賢女鑑など修業し又都保美連に加はりて彼の女義太夫の旅修業所とも謂るゝ同地の播重席に出勤し照玉、呂昇等と倶に暫らく好評を博し昨年三月帰京して染之助の名を改め師より名づけられたる呂京と名乗り鶴司の糸にて神田小川亭に改名の初看牌を掲げぬ、後(のち)綾瀬太夫の一座に加はりて此程まで切前(もたれ)に据り居たり、今日此頃の嬢が芸風これを下阪前の染之助時代に較ぶれば確かに一歩を進めたるは争ひ難き修業の効にして弁慶上使、阿漕浦、山科穏家の如きは尤も聴くべきあるものにて是ぞ呂太夫より学び得たる浪花土産とも謂ふべきものか、望むらくは此土産をして益々その修業の光を増しスケ比羅、切前(もたれ)などに満足せず再び真打の看牌に人気の花を咲したまえへ
【義太夫雑誌31:16-17評判】