竹本 峯太夫

   
   
 
丈は始め小長太夫と呼び組太夫一座に在りしが組丈去つて以来朝太夫の一座に加はり昨年秋頃峰太夫と改名したるがその語り振りの信切に熱心なるは男太夫の若手中に殆んど稀なり、丈初め大阪に在りし頃は豊澤団七に学び後ち組太夫に就て専ら修業したれば其芸風の組丈に似たる所あるは争ひ難きものにして殊に忠臣二段目の清書寺岡切腹の段などは能く其俤を写したるものと謂ふべし、丈は元来咽(つゝ)豊ならされども其車輪の語り振りは所謂精伎神に入るものとも謂ふべく情を語るに於て最も骨折の見ゆる所多し、丈が語り物も数ある中に就て評判よきものは概して時代物よりは世話物に多く即ちお軽身売、花菱屋、三勝縁切、沓掛村など其他時代にては太十、賢十、赤垣なども是亦聴くべきものなり
【義太夫雑誌31:15評判】