竹本 緑太夫
目下男太夫座として到る処に好評を以て迎へられつゝある竹本朝太夫が切前(きりまへ)に据りて真打の艶肌に彩るに丈のスコ寂ある咽(つゝ)を以てし、熱注車輪の語り振りは聴(きゝて)に満足を与へて宵より丈の曲を聴くを楽み待つもの少からず其意気込み、其の芸風犯し難き所あるは実に是れ師の趣きを写すものか、今や坂地文楽座の殿(しんがり)とも謂ふべく斯道の名人と聞へある竹本津太夫は是れ丈が年来養成されたる所の師にして、丈が今の名の緑太夫といへるは師の父の芸名なり、丈は以前津熊太夫と名乗りしが去る明治十六年師の津太夫、千駒太夫等と倶に始めて上京せし時緑太夫と改名し鶴澤八重造(先代)の糸にて暫く各席に興行せしが帰坂後一度文楽座に出勤し、後龍太夫、九重太夫等と倶に地方に出で、二十七年竹本組太夫一座と倶に再び上京し、組太夫去つて後ち相生太夫の一座に加はり、転じて目下朝太夫の一座に在り、丈が得意物も数ある中に御所桜弁慶上使は寄席に於る初日の出し物として尤も好評なるもの、其他本蔵下邸、岸姫松、百度平住家あり、世話物にては桜の下総屋、梅由の聚楽町など又頗る聞くべきものなり
【義太夫雑誌30:14-15評判】
新福井町一番地内山精造方 佐奈幸三郎事 竹本緑太夫