竹本 京枝

   
   
 
女義太夫にして初めて東京の席にかゝりしはこの京枝なり此嬢の初めて東京に来りし頃は席の方にて軽蔑し何れの席にても謝絶(ことわら)れ漸(よう/\)に下谷吹抜の承諾を得て爰にかゝることとなりたるも主は面目なしとて此嬢のかゝりし中は家に居らさし位なり然るに嬢は此所(こゝ)にて一つ江戸ツ子のあら肝ひしいでくれんづとさま/\の舎利や道化を入れてめちや/\にk語りしが大に人気を得大入を受けしより他の席よりも所望する様になり終に普通の者となりしのみならす今日女義太夫は何より評判よくなりたるは全くこの京枝嬢(今は嬢ではあるまいが)鼓舞せし勇気に基くとかや五名家の投票にはもれたりとてヘン悔む所はありませんよ
【義太夫雑誌4:16-17京枝の事】
 
今や幾百の数多き都下女義太夫中、絃師の泰斗老練家と仰がるゝ竹本京枝老嬢が、我東京に於る女太夫が現時の盛況を呈し来りたる指導、率先者にして、其身名古屋を去て夙に上京し以来二十余年間、一意斯道に熱心尽力し、一時斯芸界の各派に分れ、新旧睦両派の軋轢盛なりし頃に於ても屈せん撓まず遂に其円滑なる折合を得、今や竹本小政を輔けて各席に老骨妙腕の好評を博し、且つ数多後進を教導し、其門葉の壮嬢(わかて)、花方各席に喝采を博しつゝあるもの少からざるも畢竟其師たる京枝嬢の名誉と云ふ可く、実に嬢は満点列星の女太夫中、明皎たる太白北斗にも比し得べからん乎
【義太夫雑誌27:14-15評判】