竹本 京子
今や女義太夫の花方とし言へば、先第一に指を竹本京子嬢に屈す、嬢は当年芳紀二八その繊弱なるかよはき咽(のど)に優しくコナす節廻しの清喨、声源豊かに冴たる美音は、是ぞ第二の綾之助と専ら評し囃さるゝ所にして、人気の集点は蓋し其愛らしさと、伎芸外に属する天稟の姿勢(すがた)、品格の優美なるに存し、芸人には珍らしき上品は、人々の怪しむ程にて、竹本京子と名乗らんよりは寧ろ本名の寺田清子と呼ばれて束髪なんどに結ひたらんには宛(さなが)ら深窓の令嬢とや疑ひ得んか兎角容貌の美なる者は其美を恃みて怠り勝の者なれど嬢は芸道なか/\熱心にて初め友花、東玉、さては綱巴津等に就て学び傍ら綾之助にも教へられしもありと、昨年より津賀太夫の門に入りて専ら修業し、大文字屋の如きは同太夫より学び得たるものなり、今や同丈病気の故を以て綾瀬翁の許に通ひ目下修業中の蝶花形八ツ目は不日寄席に語り得るに至らん、嬢は寔に故豊竹岡伊の遺女(わすれがたみ)にして母に死別れし以来は今の三味線を引き居る鶴澤梅玉が万事引受け周旋して越子一座に出席し京富の糸にて始めてかんだ川竹亭に顕はれしは去廿六年五月にして嬢が十一歳の時なりし、同七月より梅玉の糸にて綾之助一座に加はり永らく同座に居据りしが綾嬢廃業以来綾瀬太夫の座に出席し大役なる切前を語る名誉に対しても、励まずばならぬ伎芸の道、踏み違へて他に翦るなく此上ともに勉強出精ゆめ/\怠ること勿れ
【義太夫雑誌32:9-10評判】