吉田 国五郎
丈の経歴、若しくは談話は、嘗て読売新聞毎日新聞その他諸雑誌等に紹介せられて世の人々の知る所なれば今更事々しく是れを掲げず、丈は是れ三代目国五郎にして初め文伍と呼びしが、廿六歳の時、父の名を襲ふて三代目なり、翌々年より両国の結城座に座頭として出勤したる当時は、恰も西川伊三郎(先代)が神田講武所の薩摩座に出勤し居りて東西並び立ちて人形浄瑠璃の全盛期なりしが、維新以来人形漸次に衰退の傾きとなり遂に両座も廃絶せしかば丈は東都を去つて暫らく北海道地方に旅興行を為し、帰京後は相変らず各席を打ち廻りて熱心昔しに変らねども、惜い哉床に名太夫の乏しきゆゑ折角の人形も殆ど使ふに甲斐なき有様にて可惜(あたら)名腕を空しく埋め置くの心地せられつるが此程より織太夫を始め柳、絹の二丈も加はり絃手(いと)は兵吉、勇三など出勤することゝなり殊に一座には文太郎、幸吉、文蔵、新五郎、国三郎の腕も揃ひ居れば、劇と曲と相待て人形浄瑠璃の再び花咲く時も遠きにあらざる可し折角後進輩の面倒を見られん事こそ偏へに丈に望ましけれ
【義太夫雑誌39:21-22評判】