竹本 小弥儀

   
   
 
年々歳々大坂、京都、名古屋、阿波、その他の各地より上京し来る女義太夫少からざるも克(よ)く都人の耳孔に適して客足を連夜に糾(つな)ぎ得るもの甚だ稀なり今春長広一座の去て以来、新上りの女流にして好評を以て迎へらるゝもの少く、前年(さきに)団鶴(だんかく)来りて路太夫の切前(もたれ)として顕はれしも世評芳ばしからず後に重八上京(のぼり)て看板牌を挙げしも是亦思はしからず、都人の耳も亦大に肥へ来りければ無闇に艶を振り舞してのみ好評を博し得べき時代にあらず、該際(このさい)上京(のぼり)来りて連夜満場立錐の地もなき客足を引く嬢が伎芸(うてまへ)、確かに聞くべきものあるに非らされば能はず、素(もと)より小清と云ふドツサリの真打(トリ)を控へ其切前(もたれ)に据りたる事とは言へ、又嬢が伎芸の秀る所なきにあらずして何為(なんすれ)ぞ清吉の代りとして其跡釜に据るを得ん、宜(むべ)なり満場の七分通りは明らかに嬢が吸収する所の聴客なり、流石は故竹本弥儀太夫の遺弟といふべし、嬢は師の没後遺言によりて弥太夫に托され、傍ら鶴澤勝右衛門に就て学び一昨年より豊竹呂昇の門に列して都保美(つぼみ)連の花方と評されつゝありしなり、嬢は音声稍々豊かにして幅にも乏しからぬ咽(つゝ)なる上艶やかなる節廻し嚠喨転玉とまでは行かずも巧みにこなす自在の手際まづ下戸にも上戸にもといふ四方向の調(てう)にて且つ語り振りに一種の愛嬌を含みたるは是れ嬢が伎芸外に属する天稟の一伎と謂ふべし、其伎芸の細評に至りては評者未だ耳にするの日浅ければ他日時代、世話、大物、艶物など親しく聞込みし上にて評する所あらん、嬢は芳紀未だ二九を越へず前途尚ほ遙かに希望(のぞみ)いよ/\多々なれば夢々かんまへて怠たらざれ
【義太夫雑誌25:14-15面影抄】
 
嬢は一昨三十年の冬上京の折、その評判の一班を其際本-誌に掲げたるが帰坂後は常に呂昇に従ひて都保美連に加はりつゝあり、嬢は故弥儀太夫の遺弟にして同丈の没後は今の弥太夫の門に入り傍ら勝右衛門にも学べり、其の得意物として評好きものは菅原寺子屋、安達原三段目、国性爺楼門、白木屋にして殊に珍らしきは忠臣義士伝お軽の注進にして是(こ)は弥太夫より学ぬ得たるものなりと
【義太夫雑誌46:18-19評判】