竹本 小土佐
小土佐性は本多名はつま明治六年四月愛知県名古屋に生る初め湊太夫につき義太夫を稽古せしが程なく死去に逢ひ後照吉に学ぶ十歳の時妻吉と称し照吉の一座と名古屋富本亭にて興行せしが偶(たま/\)土佐太夫妻吉の『谷三』を聴き音調の巧みなるに感し遂に請ふて我子の如くし稽古に怠らざりしが果して其甲斐ありしかは是より小土佐と名乗らせ柳枝京富小柳文綱の連中に加り地方に出で至る処評判よく就中(なかにも)岐阜にて興行の時は体の見台に隠れて見へざるにより聴衆(けんぶつ)の中より取去れと屡々声のかゝりしかは遂に無見台(けんだいなし)にて語りしと土佐太夫は毎(いつ)も此座の真打(とり)なりしが京都にて興行の際(とき)土佐太夫の順(で)になれは聴衆帰るもの多き為席主(せき)の依頼(たのみ)にて小土佐追出しを語り毎晩二段つゝ勤めたりし十四歳初めて土佐太夫東(あづま)太夫土喜太夫等と上京し自ら真打(とり)となり興行せしに大に人気を得後分れて女の一座となりしが翌年病気(やまひ)の為め帰国し暫く休業(やすみ)せしが或人(ひゐき)の勧めにて又地方に出で昨廿六年八月再び上京するに至る嘗て大坂の大番付に記名(の)せられし事あり女子(おんな)にして此栄ある実に例外なり今回(こんど)又投票の五名家に加はり愛嬌家の位置を占めしは其当否は兎に角人気の一班を知るに足る小崎知事嘗て小土佐の先代萩を聞き左の一句を贈られしと因に記す
五月雨や萩の若葉にぬるゝ袖
【義太夫雑誌 5:5-6竹本小土佐子伝】
竹本小土佐これぞ女義太夫の名前、妻吉の昔われは知らず、禿切(かぶきり)の延て間もなき優美(やさし)き体に憶面なく吾ぞ師匠が一粒撰(えり)の門弟、土佐太夫が化たと思召て幾久敷御愛顧(ひゐき)をと一枚看板に勘亭流の銘打て片頬の靨(えくぼ)に聴客を丸め涼き瞼に仲間の膽を拉(ひじ)き、横紙破りしは抑や十四の暁、京橋の鶴仙が名を売る三番叟の舞台、白石の揚屋安達の三、廿四孝の四、先代の飯焚(まゝたき)は小さ喉から馴染のある語物、やんやと誉らるゝ噂の種なりしも、大隅太夫が先年上京の折、手づから受けし壺阪の一曲、珍らし〃とて人も好めは己も励み、一席ごとに味を遣(や)るが人気に嵌り壺坂の小土佐と今は世間に唄はるゝ身の上
【義太夫雑誌 45:18-19評判】
天神町三丁目三番地 本多ツマ事 竹本小土佐