豊竹 小巴

   
   
 
坂地播重席の古株として人に知られたる小巴嬢は初め先代豊竹巴太夫(後ち柳適太夫と改名む)に就て修業し十四五才の頃師に命名されて小巴と名乗り播重出席の其の一と度竹本東猿の席なる宝席に出勤したり、師の没後は団昇と同じく豊澤団七に就て専ら学び常に団昇と出席を同ふし此度相携へて上京したり、恋十、遠州屋、鈴ヶ森、紙治の如きは稍々得意のものにして概して世話物の方好評あり
【義太夫雑誌42:21-22評判】