竹本 越子
一時は種々()いろ/\の誹評艶聞の矢の攻撃を受けたる竹本越子、この春新睦の陣伍を脱して睦派へ帰参後は、トンともふ見違へる程の勉強、その為が技芸(げい)もメキ/\と進歩し第一嬉きは詞に寂を帯び来りしにて、随て節回も中々巧者に、先づ娘義太夫として真打に据ても差程見苦しくもなし此上は生意気と艶的(ゑんてき)を慎むのが肝心要なり、嬢が語物中十八番とも聞へたるは先づ大文字屋を始め本蔵下屋敷、中将姫雪責などあり此等デン通の批評家既に評したれば今更評するも管ゆゑ略す、爰に拙者が近頃珍らしき嬢の語物を聞きたれば聊か是が素人評を試みて諸君に紹介せん、去水無月三日浅草東橋亭の昼席を聴く此日如何なる都合にや三味線弾の三吉出席せずして嬢の弾語り、夫さへ珍さしきに語物は常になき女鉢木即ち佐野常世の住家《付けて曰この女鉢木といへるは近松門左衛門の作にして最明寺殿百人女臈の中なる道行の一節なり■(そ)を節略して佐野常世が住家の段とはせしなり》噂を聞けば此語物は目今(たうじ)嬢が豊沢松太郎に習ひ居る稽古中の物なる由なれば悪き処もある迚も太した小言も言ぬ次第なり、扨語り出しの謡「是は一所不住の旅なれば」は浄瑠璃の謡ひとして先づ上出来の部なり最明寺入道の詞は総じて悪くと言にあらねど何しろ執権たる北条時頼なれば尋常一般の旅僧と異る様に今少し貫目を保ちたし「夫雪は鵞毛に似て飛で散乱し人は鶴裳を着て立て徘徊す」云々(しか/\)の処コハ元来謡曲鉢木の常世が詞を茲には女房白妙の詞として浄瑠璃の地の節にしたるものなれば何処までも落付て上品に語る可きが至当なるを然(さ)もなくサラ/\と遣りしはチト物足らぬ心地せり併し「ノウ/\旅人お宿参らせう」の玉章(たまづさ)の詞は難なく又姉白妙が物語中「然候へど取伝へたる梓弓」「鎌倉に事あれば此具足取て投掛け」「女房に口取らせて一番に馳参じ」云々(しか/\)の処旨い事/\殊分(とりわけ)「一門佐野源東吾常景に押領せられ」の処に至つては如何にも遣方なき無念憤慨の語気を優しき女性(によせう)の詞の裡に含ませて何たる旨さぞ「何をか包まん吾こそは時頼入道最明寺僧なり」云々(しか/\)は最初の時頼の詞に引換へ執権の貫目も確かに聞取られて目前時頼に接する如く「中に常世は/\」の終りの謡ひも難なく遣て退けしが只だ憾むらくは三味線の引立たざる事併しコハ弾語りと言ひ殊に稽古中の物なれば無理ならぬ事と悟(あき)らめぬ、兎に角嬢が此語り物、同じ真打の人気者なる綾之助、小房、小大、新吉の諸嬢亦よく越子嬢の如く語りこなし能ふや否、恐らくは能はざるに近からん、シテ見れば流石は越子、イヨ竹本越子嬢万歳桜井むら女君万々と祝評し置かん。
【義太夫雑誌2巻3:20-】
馬道五丁目十一番地桜井三之助方桜井ムラ事 竹本越子