豊竹 駒子

   
   
 
絃に巧手(たくみ)なるもの、語るに於て不充分なるあり、咽(のど)に差支へなきもの、糸に於て頗る欠くる所あるは女義太夫の一般普通にして、東玉花友若しくは小住綱巴津の老練家は更にも言はず、是れを若手に求めんか弾語りに妙を得たるもの甚だ多からざるは寄席出勤の女太夫を数へ来つて稀なる所、偶(たまた)ま絃に巧みなれば其巧みに任せて勝手自儘に語り崩して顧みざるもの少しとせず、嬢は元来糸を以て知らるゝもの、而して又弾語りに於て却て大いに聴くべきものあり、初め団平の門人なる豊澤広造といへるに随ふて一意斯道を修め、広秀と名乗り、一と度竹本氏八の一座に加はりて出席せしは嬢が十五歳の頃ほひなりし、後ち豊竹駒太夫の門に入り豊竹駒子と改名し益々励む所あり、その花方を弾き、切前(もたれ)を弾き、若しくは時に若手の真打を弾く、以て如何に漸次その伎芸の上達したるかをも見るべし、目下竹本小政の一座に据りて弾語りの傍ら政子を輔け弾きつゝあり、若それ嬢の芸品に至りては寄席通の既に知る所、今更めかして事々しく記さゞるも此上一層腕を揮つて撥のみならず、併せて咽(のど)をも惜しまず聴かせて弾語りに好評の喝采を得られよ
【義太夫雑誌34:11-12評判】
 
馬道五丁目十一番地青柳キン事 豊竹駒子