竹本 小巴津

   
   
 
綱巴津の門下に噂高き竹本小巴津嬢、母は鶴澤文玉と呼びて古くより東都女義太夫社会に知られたる老嬢の一女(むすめ)ほどありて早くより斯芸に志し、母文玉の糸にて初めて真打の看牌を上げしは今を距る九年以前嬢が十一歳の時にして即明治二十四年なりし、後ち師綱巴津の糸にて都下各席に顕はれ、其八方美人的の愛嬌にドースル連の歓迎を得たるの結果、折に触れては兎角の評判を新聞に謡はるゝ事ありしも是れ畢竟嬢が人気の盛況を窺ふに足るものと謂ふべきか昨年四月思ふ所ありてや和泉亭を名残に一と先真打の看牌を収め暫らく各座をスケて出席居たりしが本年二月大いに悟る所ありて奮発一番修業を志し、同月下旬坂地に下り目下天満の南歌久席に出勤し、日未だ浅きに拘らずなか/\に人気ありと、嬢が物語中尤も得意なるは湊町、野崎村、遠州屋、宗吾子別にして明烏、先代御殿なども之に次ぐ曲(もの)なりと
【義太夫雑誌41:20-21評判】