竹本 小豊後
嬢は初め竹本仙之助と呼ばれて出席一と度去て父豊後太夫と倶に仙台地方を興行し、帰京後小豊後と改名し昨年八月一躍して真打の看牌を神田小川亭に掲げたり、後ち一とたび竹本政子と名乗りしが去月より又もや前名の小豊後に復しぬ、嬢は芳紀(とし)未だ二九に上らす目下女義太夫花形中の花形なるものにして各席に少からぬ人気を博するも蓋し美を好む当世の人情に迎へらるゝもの歟、音声稍々渋りて饒(ゆたか)ならざる所あるも節調確かに鍛ひ込んだ伎芸(うでまへ)の顕はるは流石に父豊後太夫の仕込程ありと謂ふべく、且つ当世流のケレンの少なきは頗る賞すべきもの、元来素性悪しからぬ伎芸なるも如何せん適当恰好の弦手(ひきて)を得ざるは嬢の為に尤も惜む所にして是れが為めに人気の幾分を剥奪さるゝは残念なる次第といふべし、弁慶上使、太十、柳等は嬢が語り物の得意として迎へられ傾聴の価値あるものと伝へらる
【義太夫雑誌25:15-16評判】