野澤 吉弥

   
   
 
丈は素(も)と初代野澤吉三郎の門に入り、師の没後一と度師の名を襲ふて吉三郎と称し、後五代目野澤吉兵衛に随ひ去る廿三年七代目野澤吉弥となり彦六座に出勤せり、一昨廿八年の菊月、初めて東都(あづま)に上り来りし以来、香ばしき好評を以て迎へられ、目下若手の弾手中天晴れの花方と称せらるゝも道理(ことわり)、その意気込みに隙間なく、撥捌きの軽妙なる多く其比を見ざる所なり、宜(うべ)なり曩(さき)に竹本組太夫は丈を坂地より招き寄せて以て其弾手となしぬ、組丈帰坂の後は休席して唯だ後進の教授のみ腕を埋めしが、又もや望まるゝ所となりて相生太夫を弾くに至りしは、所謂これ蛟龍永く池中のものならざるの譬へならんか
【義太夫雑誌23:16評判】