竹本 絹太夫
伎芸の出来は時に巧拙あり、人気の有無は時に消長あり、口を語り、中を勤むるもの時に或は真打を凌駕するの出来なしとせず、都の地に人気豊んらざるもの却つて地方に歓迎を受け、好評を博するものなきにも非ず、不評好評は畢竟(つまり)その人の芸運にあるものか、去り乍ら年来鍛ひ込みし伎芸の光は何時かは輝き顕はるゝ事のなからすやは、目下織太夫一座に加はり居る竹本絹太夫は初め鞆太夫と名乗り豊澤仙八の糸にて織太夫一座に出席したりしは今より去ること殆んと十年ばかり以前なりしが後ち去つて西川伊三郎一座に伍し、諏訪太夫と改名し清糸(今の清左衛門)の絃にて北陸地方より北海道函館等の各地を興行巡(うちめぐ)り、帰京て後ち絹太夫と改名し始めて神田新声舘に出席せしは去る廿八年なりし、以来都下の各席各座に出勤し少なからぬ好評を博しつゝあり、丈は素(もと)坂地の在りし頃は竹本土佐太夫(今の播磨翁)を師とし、上京以来鶴澤文蔵に随ふて学ぶ所あり、其芸品に至つては左程大きからざるも、時代物大物をも可なりにコナし退け、世話物、艶物にも敢て差支ふるなき至極重宝なる咽(のど)と謂ふべし、其評の如何は聴人(きゝて)の耳に任すも語り込みし年来の伎芸は今の名の絹太夫よりは前名の諏訪太夫と言はゞ東北地方殆んど其名を知らざるものなし、以て如何に丈が地方に人気好評を得たるかをも推し得べし
【義太夫雑誌34:10評判】