竹本 重八

   
   
 
嬢は素(もと)備前岡山の産、幼なふして大坂に出で、彼の三味線に名を得たる二代目鶴澤重造の門に入り、内弟子となりて、十六歳まで修業し、傍ら一年計り鶴澤勝右衛門に就て学び、明治廿六年の頃より始めて坂地天満の南歌久席なる竹本照玉一座に出席し、爾来同地の各席に出勤せしが、昨三十年六月始めて上京し三ッ大を切前(もたれ)に、素行、土佐玉のスケにて、同七月一日より花川戸なる東橋亭に初御見得の看牌を上げ、以来各処に出席し、今や女義太夫真打中の花方と称せらる、全体音声豊かにして艶に富み節廻し自在に過ぎて却つて節足の長き嫌ひなきにあらざれど、其段数に富み普通娘義太夫の匂ひだも嗅ぎ知り得ざる曲を修めたるは其齢に比して感心と謂ふべし、其得意(おはこ)中の先代御殿、小春茶屋場の二曲は師の許し物と聞く、其他菅原寺子屋の如きは是れ嬢が最近修曲にして最も黽(つと)めて得たるの語物なりとぞ、嬢は元来三絃家を以て其師と仰ぎたれば其曲、其絃と相待て演ずる所或は絃の勝るなきにあらず、目下数多き花方の娘義太夫中、嬢は是れ弾語りに於て好評を博しつゝあるもの、尚一層の励精を積まば前途の上達大いに見るべきもの有らん
【義太夫雑誌29:16-17評判】