竹本 瓢太夫
目下播磨一座の切三に据りて花方の花を咲かせつゝある丈は他の太夫に比して其先輩を伍する事早く、九歳にして津賀太夫の門に入り小津賀太夫と名乗りて出席せしが翌年坂地に赴き津太夫に師事して津葉芽太夫と改名し去る廿三年十一月初め文楽座に出勤し苅萱高野山を語りぬ、後ち一と度帰京し豊竹睦太夫(二代目和国)の一座に加はりて切三に出席居たりしが彼の大隅太夫一座の上京せし時其太夫元たりし播半の為めに伴はれて再び下阪し又もや文楽座に出勤せしが後ちしばらく地方興行に赴き居り帰阪後一昨三十年の七月帰京せい以来竹本播磨太夫の一座に出席し本年一月より瓢太夫と改名したり、丈が語物中尤も好評あるは本蔵下邸、勘平蔭腹にして太十、天拝山、四ッ谷沓掛なども前者に次ぎて聴くべきものなりと
【義太夫雑誌43:20-21評判】