鶴澤 花友

   
   
 
数多き都下女義太夫中、京枝東玉に継で上京以来馴染古き鶴澤花友嬢は今は一と昔にも余る十四年前即ち明治十八年十月、嬢が初めて上京して、勘理、八重松などを前に置き瀬戸物町なる伊勢本亭に於ての初席以来、今に至つて盛り久しき工芸妙手は各席に好評を博し、其絃と云ひ、咽(のど)と云ひ寔に故鶴澤友治郎の遺風を写し、悪びれぬ芸品、流石は友治郎の遺弟にして、且つ其修め得たる段数の多きことは恐らく東都女義太夫中類ひ稀なるものならん、寄席に於ける語り物は聴客の受け宜きと席亭の好みとに是非なく、千扁一律的の流行物(はやりもの)を演じつゝあれども、元来嬢は大物に巧みにして大塔宮(盆踊)、日向島(景清)、橋供養(文覚)伊勢物語(豆四郎切腹)、道明寺(菅原)獅子ヶ城(国性爺)抔大に聞くべきものなり、尚珍らしき物に至りては義仲勲功記の地蔵経、鴈金文七などの好曲も自ら埋め一度弦手となりて嘗て越子、住龍(今の三大)綾之助等を弾きしが一昨廿九年六月門人竹本友之助が看牌を挙ぐるに就て是を助け弾きぬ
【義太夫雑誌35:14-15評判】
 
福富町十六番地川口トモ事 鶴澤花友