鶴澤 燕作

   
  
 
丈は素大阪にて明治八年の頃より竹本氏太夫の門に入り氏栄太夫と名乗りて同地文楽座に出勤し後ち転じて古靱太夫を師とし御霊の芝居に出勤し、其後呂太夫に貰はれ豊竹呂子太夫と改名し各所へ出席せり、明治廿二年五月初めて上京し士鳳と名乗りて絃専門とはなりぬ、蓋し士鳳の名は呂太夫の俳名なり以来、磯、生駒、美濱、綾瀬の各太夫を弾き、先年実父(先代燕三の門人)の名を嗣ぎて鶴澤燕作と改名し目下専ら後進の稽古を為し併せて鶴宝連を弾きつゝあり。
【義太夫雑誌 51:14-15面影抄】