豊澤 団登
明治廿四五年の頃ほひ都下女義太夫中に名ありし師匠株豊澤団玉といへるは弟子数多養成したる中に擢(ぬき)んでゝ頭角を顕はし興行(うち)めぐる各席に好評を博しぬるは豊澤団登嬢なりとす、嬢は其初め徳助と呼びしが後ち団玉の門に入りて一意芸道に身を委ねしが其頃団玉の師なりける豊澤団平上京し居たりしかば師より団平師に乞ふて即ち今の名の豊澤団登なる芸名を得たり、斯くて去る廿六年の夏竹本小政の一座に加はりて花川戸なる東橋亭に改名出席し、爾来六年の久しき今に至つて花方の花も凋まず声源豊かなる咽(つゝ)に稍々寂(さび)を帯び来つて時代と言はず世話と言はず弾語りにコナす達者の腕前、殊に其豊澤出身なるを以てか音〆さわやかに撥冴へよきは引語り連中に多く見ざる所なり、去乍ら嬢は団玉師を離れてより数年間の独り歩き、語り物によりては稍々その節の崩れかゝりしを間々自己流義に補ひし所なきにあらず是等は耳立ちて甚だ芳ばしからず克々(よく/\)注意すべき事なりかし、中たび花友に就きて修めたる湊町、壺阪、勘作住家などは最も評判よきものとす、嬢は年増しに寂の添ひて詞に何となく味はひの付き来るは是れ自然とは言へ、又芸才あるにあらざれば能はさる事なり今や越子一座に加はり切前(もたれ)に据りて老実めく越子の芸品と声に富みし嬢の派手やかさと恰も是れ花実両全とも謂ふべき配合(とりあは)せよく此分ならば一座の栄えは請合々々
【義太夫雑誌31:15-16評判】