竹本 団昇

    
    
 
嬢は元来豊澤団七の門にして初め染子と名乗りしが去る廿三年初めて上京し其節竹本小政の門に入り小染と改名して同一座に加はり後ち転じて竹本小清の一座に伍して長らく同座の切三に座り居たりしが昨年八月芸道修業の為一と先坂地へ下り再先師団七に就て大に修むる所あり団昇と改名して同地播重、靱舘などに出席し頗る好評を博しぬ、本年二月再び出京せしに頻りに看牌を勧むるものあるを辞し難く去る三月一日より東橋亭に於て真打の看牌を挙げぬ、一座は上京同行の豊竹小巴を切前とし以前師弟の因みを以て小政をスケに尚鯉之助をも加へたり帰京の当時は差詰美根造の糸を以てせしも今や東玉の絃に代りたれば伎芸の上に一段の貫目を添へぬ、嬢の伎芸その以前に比して稍々(やゝ)サビを負び来り語り振りの大々的になりしは何より嬉し、其得意として語る所のものハ何れも流行を先としたるが就中評判よきは花川戸、本蔵下邸、合邦、宮守酒、百度平住家、沼津、酒屋等なり、嬢や尚此上とも益々磨きて大いに先輩を凌駕する所あれ
【義太夫雑誌42:21評判】
 
常に小清の一座に出席し、兼ては団之助の弦として長広一座に顕はる、団之助が好評の大部分は一に嬢の補佐によるものなり
【義太夫雑誌52:18面影抄】