竹本 文福
嬢は先代鶴澤文蔵(三代目)の門人にして幼(いとけ)なきより斯芸に志し、十一歳の頃小千代と云ひ、後ち文福と名乗り姉なる鶴澤中八の絃にて寄席に出勤し、十四五歳の頃ほひには盛んに聴客の歓迎を受け、今の竹本素行が三福と云ひし頃久しく同嬢の一座に加はりて各席を打ち廻りしが都合ありて一と度同一座を去りて、看牌を挙ぐるに際し文福なる名は余り滑稽じみて異様なりとて、文治と改名し横浜に赴き熊玉(今の咲広)の絃にて真打の看牌を掲げぬ、帰京後一とたび彼の新睦派なりし豊竹呂久助の切前(もたれ)に据り巴菊の糸にて暫らく出席せしが幾くもなく同座を辞し、以来久しく休席し居りしが昨年七月素行が一座を組織せる頃より同座の切前に出席したるが、去る八月下より京子が切前に据りて鍛ひ込みし老練の咽(のど)に渋かりの客足を吸集せるは同座の為めに少なからぬ幸福といふべし、嬢は元来大物の方得意にして尤も客受けよきものは宗吾三枚橋、躄仇討瀧場、赤垣出立、本蔵下屋敷などにて、志度寺、逆櫓の如きも亦聴くべきもの、世話物にては鰻谷、橋本など評よきものなり
【義太夫雑誌36:11-12評判】
宮田千代 慶応3.10.10 神田区小川1【芸人名簿1915.5】