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【 石割松太郎 「人形芝居雑話」の正誤 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
「人形芝居雑話」の正誤
石割松太郎
演芸月刊 第18輯 昭和五年十一廿日 pp.10-12
「人形芝居雑話」といふのは、私の小著である。人形芝居の概論、--人形芝居の一通り、人形芝居とはこんなものかといふ事を、極くの初心者にも判るやうにと「人形芝居入門」のつもりで認めた小著である。この拙い小著が頃日春陽堂から出版された。或は演芸月刊の読者のうちに一読を賜ふた方があるかと思ふ。--と己申して、私は茲でそれを吹聴するのではなくて、製本の出来上りを見て、誤りのある事を自ら発見したので、こゝで訂正、正誤をしておきたい。
尤も、判りきつた誤植は申さない。例へば序文で「朞年」とあつて「朞」の字に「、」が付いてあるのは、全く衍で何かの誤植であつたり、「議」が「義」となつてゐたり、清水町[まち]が清水町[ちよう]、博労町[まち]が博労町[ちやう]、国性爺の楼門[ろうもん]が楼門[さんもん]となつてゐるなどルビの正誤は省くが、数字の誤植は厳密にしておく。
◇二〇頁-彦六座の旗揚を「安井の席」とあるのは俚称で、沢の席がほんとの呼名、一七九頁を参照されたい。安井道頓、道卜の屋敷付近にあるもので、安井の席とも云つたのである。
◇二〇頁-彦六座の系統を「彦六座-稲荷座-文芸株式会社-堀江座-明楽座」とあるが、「明楽座」から「堀江座」になつた、順序を訂正。又「文芸株式会社」とあるが、これは仕打、金方の変遷の一つで、座名の変遷としては「文芸株式会社」は除く。
◇三一頁-新左衛門が団平卒に「師事してゐた」とあるが、新左衛門の師匠は豊沢松太郎で、若い時から「師事して仕へた」といふ意。系譜では団平の弟子ではない。
◇六三頁-二行目「弥太夫」は住太夫の誤り。
◇八〇頁-享保十九年の豊竹座に藤井小三郎、藤井小八郎等が「人形出遣」をやつてゐると、「出遣」の始めを享保十九年であるかのやうに聞えるが、この意は、「三人遣」の「出遣ひの始」をいつたので、「出遣」の始めは、勿論宝永二年の「用明天皇職人鑑」の辰松八郎兵衛といふ通説に従ふ。或はこの宝永二年をもつと遡りはしないかといふ疑ひは持つてゐるが、確証を得ないから、今日暫く宝永二年説を採用する。享保十九年といふのは「三人遣」ひの「出遣」を意味します。即ちこの豊竹座で、始めて正面の床を上手の横に斜にとつた、この時が三人の出遣ひぢやないかといふ意味。
◇八八頁-団平が、間をとるに一々左手を棹から離して、膝においたといふのは、先代の政岡の米洗ひの間であるといふ事を脱漏。
◇九〇頁-竹本駒太夫(今の)が、動物の啼き声がうまかつたので、団平が太夫に導いたやうに書いたが、それは誤り、駒太夫が啼き声がうまかつたので一夕、その啼声を所望して聞いただけで、太夫への道は、団平には関係
◇九三頁-十行目の前垂は勾欄の誤り。
◇一四三頁-友松(今の道八)を団平の孫弟子としたのは誤り、友松は鶴沢勝七の弟子、従つて豊沢友松は鶴の誤り。が、友松は団平を慕うて、団平に師事したのである。
◇一五五頁-十行目の鶴見太夫は勢見太夫の誤り。
◇一七四頁-団平名と広助名との曲折は、こゝで十分に説かれなかつた、こゝの文字では意が尽してゐない、これには却々の経緯があつた。それは私の「近世人形浄るり史」の団平伝中の十数頁を費やしてゐる事件であるからこれだけでは意が至つてゐないといふだけを今は述べておく。
◇一七五頁-この団平の写真は、団平が始めて撮影した写真で、且つ髷を切る断髪当時の記念写真で、且つ大きかつた手が出てゐるといふ三重の意味のある写真である事を書落した。
◇一七六頁-団平が長門太夫を弾いたのを、廿五歳とあるのは、廿八歳の誤植。即ち安政元年八月天満の芝居で、忠臣蔵が出た時に、六ツ目の長尾太夫と、九ツ目の長門太夫を弾き、且つその上に稲荷の芝居で三光斎を弾いたのである。
◇一八二頁-五行目に「座名も「いなり座」となり」とあるが、意を尽してゐない。即ち「彦六座は灘安の経営で彦六座、次に金方が花里になつて稲荷座となり、金方が又「文芸株式会社」となつて、座名は依然「稲荷座」の意で、文芸株式会社の経営のために稲荷座となつたのでない事を明かにしておきたい。二〇頁のと同じ誤りを茲に繰返へした事を訂正。
◇一八二頁-六行目「春太夫(五代)とともに」の九字を削る。
◇一八二頁-十二行目「東隣り」は「西隣」の誤り。
◇一八六頁-「伊勢音頭」の十人斬の節付の苦心を伊達太夫のための苦心としたが、これは年代が誤つてゐる。組太夫のための苦心の時の逸話である。それは尚団平の妻女ちかが生存中の話で、この松江の旅舎の、行燈落書の一件をちか女に団平が帰来話してゐるのをちか女が日記に記してゐるので組太夫の時の苦心と判明する。
◇一八六頁-五行目「十番斬」と二ケ所にあるは共に「十人斬」の誤り。 ◇一八八頁-四行目「御所」とあるは、備前の池田侯の邸の意で、ちか女は、こゝで池田の側妾であつた、そのちか女の生むところの男子は、今現に某華族の当主である、これはちか女の伝記中面白い一節でこれも別に「団平伝」の幾頁かを占めて詳記しておいたから、こゝでは詳しい事は省く。
◇一九五頁-団平の三味線で、玉造がその腹帯を切つたのを「志渡寺」としたのは誤り、千本の鮓屋、権太の這入りであつた。
◇一九六頁-団平が床で死んだのを「志渡寺」の「跡見送りて菅の谷は」のところだと記したのは実は私は、当時(明治三十一年四月二日)の大阪毎日新聞に「二三枚を語つたところ」とあるのと、私が偶然に蒐集した当時の番付の欄外に何人か知らぬ好き者が認めておいた朱書の註とによつて、右の如く断じて記したのであつたが、幕内では、「早やせぐり来る断末魔」といふ曲中のお辻の断末魔と、団平の断末魔と同じであつたといふ話が伝へられてゐる。私はこの幕内の話に伝説的の作意のある事を厭うて、これは決して真実でない、後とからの作意ある点に真実がないと断じた、かく真実に「断末魔」が相一致したらば、当時の新聞の記事に見逃がす筈がないとして、この幕内の説を採らなかつたのであるが、それでも、不安を感じたので、取調べると、団平が死んだ翌日の稲荷座で、竹本隅栄太夫が、看客に団平不慮の死についての口上を述べてゐる、その下書を発見した、これによると、
「九分通りを弾き終り、一枚ほどを残して」と述べてゐる。私はこの隅栄太夫の口上下書を最も信ずべき資料だと思ふ。これが丁度「断末魔」に相当するか否かは、今でも私は俄かに承引は出来ない。何故ならば、口上に最も相応はしいこの事実を当時隅栄太夫が逸する筈がないから、私は依然この伝説に作意を認めるが、「跡見送りて菅の谷は」のところでなかつた事は確かだ。この隅栄太夫の口上下書を真実として、私の誤りを正しておく。
◇一九七頁-団平が病院への途中落命した町名を、「安堂寺町三休橋筋角」としたのは、「塩町三休橋筋角交番の後ろ手」の誤り。
◇二〇二頁-五行目の「呂太夫」の三字を削る。
◇二〇六頁-四行目「兵一」は「兵市」
◇二一八頁-「絵入八行本の発見」藤井紫影博士の示教で、私は私の蒙を啓いた。藤井博士の説は、「加賀椽の「本朝中古花鳥伝」は初め八行本と、絵入細字本(しらみ本)との二種類の出版があつた、後にこの八行本の版木と虱本の絵の版木とを組合せて、物ずきに出版したのが絵入八行本だらう。その証拠に絵入八行本と、細川鵺声氏所蔵の絵入らず八行本とは同じ版木と認める。即ち絵入八行本といふ形式があつたのでなく、偶々のなぐさみ、物ずきの一つと想像する」との事である。