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【 石割松太郎 劇評の劇評(第15輯) 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
劇評の劇評
石割松太郎
演芸月刊 第15輯 昭和五年八月廿日 pp.18-19
◇道頓堀に芝居がなく--芝居らしい芝居がなく、随つて劇評も寥々。この欄は材料薄だ。
◇大阪日々新聞の「演芸よしあし草」記者は、大阪の新聞劇評家中の唯一の歌舞伎耽美者、大阪劇壇現状支持論者であるが、狂言の選択と俳優の配役とで歌舞伎が興隆すると説いてゐる。「不世出の名優鴈治郞の健在なる」間はといふのが、そのいつもの論調だが、私は付加へたい、「不世出の名優」鴈治郞を年に精々二度位出演させて、他は所謂若手に任すべし、然らずば、大阪俳優といふものがあつたのか知らんといふ事、恰も京役者の滅亡と、同じ運命を辿るだらうと断言する。しかもそれが、さう遠い将来でなく、もうついそこまで、忍び寄つてる事が、鴈治郞絶讃党にはお分りがないらしい。
◇文楽座には絶対に新作を排くべし。歌舞伎の新作は大に振興すべきである。然し鴈治郞を煩はさうとは思はない。こゝが「よしあし草」記者と吾れらの考への違ふところだ。
◇東京の人気の覇者は、左団次から猿之助に移つた。その王座から左団次が退いたと大阪日々は報じてゐるが、これは数年前から筆者が言つてゐるところ、大正十三年、十四年の「毎日年鑑」に二年続いて私が書いたのであるが、やう〳〵世間は、今それに心付いて来たらしい。
◇「よしあし草」では又、「老名優(鴈治郞)を芸術的に若返らし得る秘薬は大阪人の支持と我々のジヤーナリズムの鼓舞刺戟あるのみだ」と言つてゐるが、もう沢山だ、この上若返つて悩まされたくはない、そんな秘薬は七里結界。もう大阪の人心は「老名優」からとうに離れてゐる事が見えないかしらん。見えても見えない風を装ふ必要があるのか知らん、吾等の忖度の及ばざるところ。尤も心配するがものでもない。大阪の今の時代の支持は大阪から長崎まで逆立ちしてカンカン踊りして道中が出来る法もあれ、支持それは不可能だし、ジヤーナリズムの過信は、ドン・キホーテの描く夢だから。
◇「よしあし草」記者は更らに、第一劇場が、一周年を迎へて存在がハツキリしてゐるといふが、吾らはこれほど存在の不鮮明な団体は、近頃にないと思ふ。当初のあの宣言が尽く雲煙の如く霧散して、しかも存在がハツキリしてゐるといふのは、モノは言ひようによるものだ。私にいはしむれば、これほどハツキリと屍をのみ、形体をのみ懐いて崩壊した劇壇も少い。--といふ。
◇寿三郎の影の薄さよ。「男重の井」を見よ、与右衛門のボヤケさ加減を見よ--。これは何が故だ。いふまでもない、形体のみがハツキリと存し、精神の滅んだ一劇団の盟主の存在はいつも、かう影がうすいものだ。
◇その「男重の井」が抜群の出来だといふのが、大朝の松本憲逸氏。世の中は広いものだ。寿三郎冥すべし。その寛大宏量なる松本氏でもこの劇壇の山口俊雄だけは「別として」とその技を認めてゐない。酒を利くものゝ話を聴くに、どんな初心の人でも一等の灘の生一本の酒と、地方の下々の下の濁酒のやうな地酒とだけは、まづ解るものであるさうな。さうなくては舌のあるのも無いのも同じだから、これは尤もの話だ。
◇大毎、高原慶三氏が文楽座「夏祭」の評に、鏡太夫の「駕返せ」を「いつまでも耳にこびりつく」といつてゐるのは、褒めた意味で長く鏡の声が耳底に残るといふ意味だらうと思ふが、果してさうだらうか。私は全く反対の事が考へられる。別項の文楽座評を参照されたい。
◇又、南部の「柳」が亡き呂昇を偲ばしむるといつてゐるのは言語道断。全るで浄るりを聴く耳が違つてゐる。巧拙はとにかく呂昇の美音と南部のとでは全く性質が違ふ、それで「呂昇を彷彿させる快よさ」を味つたといふならば、高が精々有楽座あたりの美音会程度の、「浄るり耳」さればこそ、「島太夫は非常な損な籤を抽いた」などといへるのだ。何んといつても島太夫と南部とぢや修業が違ふ。あの南部の声で島太夫が少しも損な籤は引かない。段違ひの芸を聴かしてゐる。
◇これは寧ろ「無題録」に入る材料だが、頁の都合で、こゝへ紛ぎれ込む。--それは曾我廼家五郎がその全集を出した。出版元が、大した努力、至り尽した広告方法をとつて「五郎全集マツチ」までバラ撒いてゐるが、堺市は五郎が出生地とあつて、堺の各戸へは五郎の挨拶状、市長、商工会議所頭取、選出代議士と、かういふ人達の自筆を状にして宛名を記した推薦状を郵送するといふ選挙騒ぎのやうな宣伝状態。その推薦状が、市長、商工会議所頭取の二人はまづ通り一辺の文句で何の奇もない平凡だけに無事だ。
◇今一人の堺の選出代議士の山口義一氏の推薦状が振つてゐる。--「行文の流暢、字句の洗練せるに加へて諷刺に富み人情美道義に重点を置き」まではまづいゝとして、「性の含蓄深きは」とあるのは、何を意味するのだらう。今を時めく政友会総務。前大蔵政務次官といふのが、これだ。勝手の違ふ解らん事は書かぬことだ。往々その御人体に関はる事にもなり、推薦された五郎も嘸かし迷惑だらう。(石割松太郎記)