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【 石割松太郎 夏場の人形芝居 --若手の文楽座-- 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
夏場の人形芝居 --若手の文楽座--
石割松太郎
演芸月刊 第15輯 昭和五年八月廿日 pp.14-17
昔から人形浄るりは、夏場を休んだ。性質が夏の興行にふさはしからぬがためであらう。そして九月の盆替りに新鋭の意気を以て臨んだのであるが、四ツ橋に新築以来、看客層の拡大とともに、珍しや、夏場の人形芝居に大入を占めてゐる。仮令若手太夫の組見、連中狩出しの効を奏してゐるにしてもだ。そして文楽座の夏場は「年中行事」として若手太夫の独占に任すらしい意向を示してゐるのは、いゝ思付だ。私は前々号に論じたやうに、七八九の三ケ月をこの若手に文楽座を任せて、本格的の興行に、浄るりの修業場とすることが、最も適当な施設だと思ふ。が、八月の夏場だけでも、やらないよりは、やるがいゝ。
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今月の配役その他を見ると、素浄るりで東京で津太夫、古靱太夫、錣太夫なとが出た跡の留守師団長格が大隅太夫、これに配するに、島太夫、和泉太夫、つばめ、南部、鏡といふ若手中堅。それに人形は常興行の如く尽く大頭も出演してゐるのであるから、狂言の立て方次第で常興行よりは、観て聴いて面白かるべきだと予想されたが、果して予想は的中した。疵の多い浄るりを聴きながらも面白いのは、太夫、三味線、人形の真剣味が、ヒシ〳〵と看客席に迫るのを覚ゆるがためであらう。演者の迫力が看客席に充実してゐるのを感じて心強く思つたのである。
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が、狂言の立て方は間違つてゐる。夕五時開演の短時間で、いろ〳〵な狂言を並べようとする。狂言の品目においてヴアラエチーを穫んとするヂヤナリズム仕立のやり方は文楽座のためには採らぬところ。通し狂言の各場にヴアラエチーが各自に存在してゐるのだから、今度の例からいふと「夏祭」が立狂言になるのが当然ぢやあるまいか。
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その「夏祭」は、久しぶりの上演で面白く見た。--人形浄るりの舞台を見たといふ事は不当のやうである、又人形よりは浄るりを偏重する人は近来のこの文楽座の傾向を異端視してゐるやうであるが、私も人形偏重の今日の文楽座を良しとはいはない。人形、浄るり、三味線は一様に進むべきで、何れに偏重してもならぬが、人形浄るりの歴史に徴するご、いつも何れかに偏つてゐる。人形発生当時は勿論人形が主であつたが、その後は三業の各部に傑物が現はれた部に偏つて発達するのは数の免れざるところだ。今日は浄るり道が陵遅したから人形が偏重されてゐる。私が「人形芝居」と爰に題をおき、「観た」といふのは、この理由からである。
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「夏祭」は例の人形遣の傑物吉田文三郎が帷子衣裳を、人形に初めて用ゐたと伝ふる由緒付の代物。延享二年といふから人形の最全盛時代、歌舞伎などは圧倒して、あるか「無きが如し」とまで言はれてゐるから、人形興隆の今日最も適当な出し物であつた。ところで、文楽座で近く「夏祭」の出たのは、いつであつたかを見ると、明治四十二年六月廿日初日で、三婦の内を七五三太夫、長町裏を、義平次を文太夫(今の津太夫)、九郎兵衛を源太夫が語つてゐる。人形は、義平次を紋十郎、九郎兵衛が矢張今日の同じ栄三が遣つてゐる。栄三のためには、二十一年ぶりの思出の深い舞台であらう。
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三婦の内は掛合で、つばめ太夫のおたつが一等の出來、女達の達引がカツキリとして鮮やか。和泉太夫の釣舟の三婦はおたつとのイキがシツクリと行かない。長尾太夫の九郎兵衛は考へもの。団六の三味線は鮮やか。
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人形では政亀の三婦がよかつた。紋十郎のおたつは姿で見せ、魂が女達でないのが遺憾だ。
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長町裏は九郎兵衛がつばめ太夫、義平次が鏡太夫。人形では栄三と玉松とで、今度の興行の興味は、この一場に尽きる。実に浄るりも人形も近来にない熱の籠つた演出、この所謂夏場の若手興行で始めて見る見ものであつた。聴きものであつた、つばめの九郎兵衛の隠忍、目的の前に恥を忍んで舅に打つつかる男泣。あの悲痛がつばめの内に籠る浄るりの力でよくこの場の九郎兵衛になつてゐた。鏡太夫の義平次もよく、丁度いゝ取組の火の出るやうな競演ぶりを示した。が、鏡の義平次の山は「駕戻せ」にあるが、「駕戻せ」が義平次を忘れて、義平次の年配を若くしてしまつた。そして見物に対して「どうだもう一つやりませうか」といつたやうに又「駕戻せ」がうまからうといつた風が見れる。即ち鏡の義平次は、義平次をうまく描かうとしてゐる、義平次を説明しようとする、第三者の態度が鏡に仄見える。義平次を語らうとする説話者の位地に自分をおいてゐる。つばめ太夫は、自らが九郎兵衛になり切つてゐた。九郎兵衛の悲痛な心持が語る太夫と同化して了つてゐる。然るに鏡が地を語る時に冷静を失してゐるに反して、つばめは、説明句である地を語るに極めて冷徹して、九郎兵衛から離れて太夫の位置に戻つてゐる。そして九郎兵衛の心情を語る地合になると、九郎兵衛の心になり、辞に至つて全く九郎兵衛に成り切つてゐた。このけぢめが鏡よりはつばめ太夫の方が鮮やかで、語り物に対ずる太夫の態度が厳正であつた。この意味において、この競演はつばめに七分の勝ち目があつた。--これを約言すると、鏡には眼前に看客がある。つばめには看客がなかつた。浄るりあつて看客を忘れたつばめの九郎兵衛を、私は十分の讃辞を尽して推賞したい。そして三味線の勝市が何の奇もなく、しかもこの太夫を生かした効を認めたい。
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人形では栄三の九郎兵衛絶品、いろ〳〵な形式美を約束の如く、十分に現はした上に、九郎兵衛の心を以て心としてゐた。栄三の傑作の一つであらう。玉松の義平次もいゝ、玉松の作品で今度ほどいゝ人形を見たのが始めであつた。ともすれば繊細なる感情が玉松に出ないのを遺憾としたが、今度の義平次はよく遣つた。「兄ヨ暑いナ」のあたりいゝ義平次だ。いゝ舞台といへば、人形全盛期に人形遣が傾倒した舞台面だけに、蔭囃子で駕を舞台に出す手法などがうまいがこの囃子は祇園囃子(?)。このあたりだいがくの囃子が土地の情景に相応すると思ふが、これはその道の専門家に両者の違ひを聴いてみたい。とにかくこの泥場は人形として上乗。「諸事聞書往来」の著者が歌舞伎など「無きが如し」といつたのはさもある事で、昔からのいゝ舞台は、栄三と玉松とで更らに再現された事を夏場の文楽の収穫として記しておきたい。
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中狂言が寺子屋、口の寺入が和泉太夫、絃が綱右衛門。普通--といひたいが、若手の連中が懸命のこの舞台としては、この人のこの場に感興の薄いのが物足りない。
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切が大隅太夫、留守師団長の格合。大隅の姑券にも拘はる興行だ。ところが大隅太夫の近来は、芸に非常にムラがある。廻りくどい比喩だが大隅の浄るりを聴いて、私は常にかういふ話を思ひ出すのだ。--酒造家の仕込の細槽の木材を選ぶに、杉に限るが、その杉に赤味の芯のあるのは吉野杉に限ると堺あたりの酒屋は吉野の杉を選ぶ、吉野以外だと、芯に赤味がない、削つても〳〵芯がないから、吉野材以外が悪くて用ひられないといふのだ。--大隅の声にこの「赤味」が常に欠けてはゐないか。といふは天成なれば仕方がない、が、工風鍛練の力は、後天的に赤味が或る程度まで創造されるのぢやないか。--といつも私は思ふ。その工夫鍛練の途中にあるのが、今の大隅か。今度の寺子屋など「持つべきものは子なるそや」などが、延びる、馬鹿〳〵しい長い。かういふ聴かせどころが、このやうに延びるのはどうしたものか 或る意味において幸四郎独爾のせりふを連想させられる。それが幸四郎と同系のものである場合、それは全く失敗である。今度の寺子屋でも松王の泣笑ひの如きは私は採らない。故大隅太夫の系統だと聞くが、故人大隅にして初めて用ふべき手法で、他の模すべからざるものぢやないか知らん。私は今度の寺子屋では源蔵が一等面白い出来だと思つた。絃の道八うまい、流石は鮮明、明快、快朗な三味線を聴かした。
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人形では扇太郎の戸浪内輪に遣つてシツカリしてゐる。文五郎の千代は「そんなら連れて帰りましよ」とじつと上手へ行きかけ、油断を見せないで、心持頭を右から後に心を付けてゐるから、「ずつと通るを後より」の浄るりになつて、「女もしれ者」のイキがうまくゆく、歌舞伎では何時も千代役者は他が宜くてもこゝのイキがどうもうまくない。いつか梅幸が中座へ来た時にこゝで二重へ一歩行きかけて、心持身体を後へ引く、その時に「すつと通るを後より」のチヨボになつたが、うまいと思つた。丁度文五郎のこゝと同巧異曲。源蔵は私が見物の日は、玉次郎が病気で光之助が代役をしてゐた。懸命に遣つてゐたが、実験の間、鯉口くつろぎ後ろ姿で極るところ、腰がふら〳〵する。この瀬戸際に源蔵の姿が据らないのは困つた。が、代役、--この人の身分にはこの位であらうか。栄三の松王寸分の隙のない出来、この場ではこれが一等。いつも申す事だが、華を捨て、実を採る手堅い演出、それで一切の小細工をやらないいゝ松王だつた。
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次が柳の平太郎住家、前が南部と吉弥。南部はいゝ声だ、澄んだ声だといふが、どうも硬い、情味がない、潤ひに乏しいのが何んとしても疵だ。わけてこんな浄るりになるとそれが特に耳立つて来る。これに引返へ、奥の島太夫、情と潤ひに世話が利く。絃の芳之助、イヤ味がなくてサラリとして上乗。
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人形では紋十郎のお柳、文五郎写しの姿はいゝが妖気がない、人外の精霊であるといふ心持が出ない。小兵吉の母、政亀の平太郎など一通り。
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切がお七の火の見櫓の段。太夫は町太夫以外ズラリと並んだが、文五郎のお七が櫓登りを見せるだけのもの。これらを人形のホントの芸だと思つてゐては、ものが間違ふ、これは芸でなく人形のケレンである。何も文五郎を煩はすほどのものでもない。打出しの賑やかな景容と見ればそれでいゝ。(三日目見物)