FILE 150
西沢一鳳 伝奇作書
(2022.11.30)
(2023.08.04)
提供者:ね太郎
『新群書類従』第一・第三掲載の翻刻をテキストファイル化した。(校正未了)
原翻刻にはない句読点を適宜加え、次の記号を用いた。
():原翻刻の()に用いた。〔〕:原翻刻の二行割注に用いた。[]:原翻刻のふりがなに用いた。
【】:原翻刻の()を含め、異本・校異等の記事に用いた。
《》:テキスト作成者の補記・注記に用いた。
上演外題は太字とし、書名には『』を用いた。
各項右の『新群書類従』へのリンクは国立国会図書館デジタルライブラリー(個人送信)のページへのリンクです
新群書類従第一
演劇
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)の序 新群書類従p1 Hathi 《霞亭文庫本、U Michigan本とも序は竹田出雲掾の伝の次に置かれる》
夫言狂作書とは『元亨釈書』の地口にして、戯謔の著作に名高き先哲の小伝を挙げ、此道の好人[すきひと]にしめす西沢一鳳軒が例の戯編也、予幼年より梨園[しばい]を好む癖有て遂に其門に入り、狂言著作郎[ちょさくろう]となり、三都を遊歴して戯場伝奇の異なるを知りぬ、されど短き才をもて何を書べきや、多くは故人の糟粕を嘗るのみ、近来或人のいはく、いかに珍らしからしめんとて商売往来の表号[げだい]を転語して往来商売と唱へたらんには、飛脚屋の看板となるべしとの譏を得脱[まぬが]れずと雖*も、狂言に不易流行の論、作者と呼るゝ早学問、付ては小説・稗史・操浄瑠璃・歌舞妓道の著作を真草行の三つに註釈[ときわけ]脚色[しぐみ]の大概[おおむね]を叙て梨園[しばい]遊客[すきひと]にあたふる事しかり、斯く演[もふす]は元和時代より連綿[つたはりし]旧書林[ふるほんや]の隠居
時天保癸卯年晩春
西沢一鳳軒李叟誌
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)上の巻
《西沢や東まて名は
高砂の松のねもとの
株そ久しき
〈松の絵〉
四方真顔自画》
日月燈江海油風雷鞁版
原天地一大戯場
尭舜且文武末走莽浄丑
古今来許多脚色
大清康煕帝聯句
台門揚西亭
世事是狂言綺語
戯場著作郎書応
西沢綺語堂先生属 顧少虎
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書〕上の巻
西沢綺語堂李叟著
井原西鶴は難波俳林松寿軒と号して俳諧師なり、宗因の門人にして大坂鎗屋町に仕り、此人よく世情にわたりて戯作の冊子数多を著せり、其書は『男色大鑑』・『西鶴織留』・『世間胸算用』・『一目玉鉾』・『日本永代蔵』・『西鶴置土産』・『西鶴彼岸桜』・『西鶴名残友』此余いくばくも有べし、今日目前に見る所を述て滑稽を尽す事は此翁より始れり、近松門左衛門も俳諧は此翁にならへり、元禄六癸酉年八月十日に歿す、年五十二、墳墓は大阪八町目寺町誓願寺にあり、辞世前文略、
浮世の月見過しにけり末二年
《Hathi・霞亭文庫 肖像あり》
西沢一風は正本屋九左衛門とよびて大阪心斎橋南へ四町目に住す書林板元なりしが、戯作を好み浄るり本*数多を著せり、其書は日本五山建仁寺供養・井筒屋源六恋寒晒・頼政追善芝・女蝉丸・昔米万石通・南北軍問答・身替弓張月・本朝檀特山・北条時頼記、此余『操年代記』等有り、中にも近松が国姓爺は竹本座に名高く、豊竹座には*西沢が時頼記と当りを競ひ二ケ年が間打続たる狂言を残せり、享保十六辛亥年五月廿四日歿せり、年六十七、墳墓は大阪下寺町大蓮寺にあり、法号常誉貞寂禅定門、紀海音・田中千柳・並木宗助は一風が門人也、
辞世
ちりゆくや風に常磐の木葉雨
《Hathi・霞亭文庫 肖像あり》
八文字屋自笑、*姓は安藤八左衛門と呼て京師麩屋町通誓願寺下る所に住す書林也、此人戯作の冊子を著す事幾百番、八文字屋本とて今に呼べり、『傾城禁短気』・『同曲三味線』・『同友三味線』・『同歌三味線』・『同玉子酒』・『野傾色孖分里艶行脚』[やけいいろふたごわけさとあんぎや]・『都鳥妻恋笛』・『富士浅間裾野桜』・『風流御伽曽我』・『同東海硯』・『同東鑑』・『同軍配団』、猶此余『浮世親仁形気』など数多あり、延享四年卯冬『自笑楽日記』を書納めとして以後は忰其笑・孫瑞笑に作意を任せぬれば常磐木の色かへずいや栄に御求め下されかしと序に書、自像を画かせ南溟の大鵬寓言かと思へば終に教となる、
霜枯はさもあれ亀の長齢草[よはいぐさ]
九十歳にちかき自笑しるすとあり(*延享四卯年十一月十一日八十余にて卒す)
《Hathi・霞亭文庫 肖像あり》
近松門左衛門、*姓は杉森名は信盛平安堂巣林子と号し*越後の人、少して肥前唐津近松寺に遊学し後に洛に住す、生涯武林を出て一度は浮屠に入り夫をも捨て、浄るり数百番を著す、其あらましは蝉丸・浦島年代記・嫗山姥・曽我五人兄弟・加古教心七墓巡・用明天皇職人鑑・傾城反魂香・碁盤太平記・相模入道千匹犬・楓狩剣本地・持統天皇歌軍法・国姓爺合戦・嵯峨天皇甘露雨・天神記・日本振袖始・本朝三国志・信州川中島合戦・お千代半兵衛霄庚申・平家女護島・鎗権三重帷子・河内通・おふさ徳兵衛重井筒、此余あまた有、享保九*甲辰年霜月十一月廿二日歿せり、法名は阿耨院穆矣日一具足居士、
此人の事跡は南畝莠言にくはしければ是に略しぬ、
辞世*は
残れとは思ふもおろか埋火の けぬ間仇なる朽木書して
《Hathi 霞亭文庫本 肖像あり》
江島屋其磧は*俗姓市郎右衛門と呼びて京師四条御旅町に住しが後六角通柳馬場の角に移り又綾小路通柳馬場西へ入所へも宅をかへたり、*八文字屋と同時の*書林にて〔俗称江島屋市郎右衛門と呼で是も戯作の名高き人にて、始自笑と心を合せ著せし戯編[げさく]数百番估客老圃の頤を解せしが、後自笑と中違ひしてより江島屋本とて一派を立、世に行れたり*〕【以下欠文但し次の異本に詳なり】
【異本、京師四条御旅町に住す、大仏餅を鬻ぎて業とし自笑が戯作の代作す、自笑・其磧と両名の本行はれて利を得ること夥し、其書は『傾城禁短気』、『風流軍配団』、『風流御伽色紙子』、『略平家都遷』、此余質気物とて数百番を著はして估客老圃の頤を解かせしが、後自笑と絶交して忰に書林をさせ、六角通柳馬場角に移り綾小路通り柳馬場西へ入所へ宅を転へ江島屋本とて一流をたてたり、才は自笑に増したれどもその名自笑の右にいづることあたはず、豈不幸にあらずや】
《Hathi・霞亭文庫 肖像あり》
竹田出雲は享保の頃浄瑠璃名誉の作者にて座本を兼て受領して出雲掾と成、又千前軒とも云、著せし伝奇は大塔宮㬢鎧・大内裏大友真鳥・加賀国篠原合戦・男作五雁金・芦屋道満大内鑑・楠昔噺・平惟茂凱陣紅葉・菅原伝授手習艦・双蝶々曲輪日記・源平布曳瀧・小野道風青柳硯・義経千本桜・仮名手本忠臣蔵、此余数多あり、百余年の今に廃らず、院本歌舞妓に仕はやせる*狂言は大約出雲が作意のもの也、*辞世と聞えしは「影すゞし水に弥勒の腹袋」、小出雲が作も又尠からず、時代世話新薄雪物語・軍法富士見西行・日高川入相花王・夏祭浪華鑑等也、三好松洛・並木千柳・長谷川千四は千前軒が門子也、
《Hathi・霞亭文庫 肖像あり》
或偏屈者近松半二に逢ひて浄るりの作者*となるは如何すればなれる事ぞ、又文句の内不分明の事かつ古語古実の謬を正して難問す、半二が曰、堂上の事実をしらば有職者となるべく、弓箭の故実をしらば軍学者となるべし、仏教を覚悟せば大和尚と成べく、聖経記典を記臆せば直に博識の儒者となるべし、菅丞相が事も楠正成が事も丸のみに似つこらしく書て聞た程の語を奥深げにつばなかし、和歌管絃より万の道何ひとつ正しく覚えたる事なく、聞取法問耳学問根気をつめて学ぶことのならぬ自惰落者が則作者となる也、と答へしかば、口をつぐみて退きしと『独判断』の跋にものせし如く、歌舞妓作者も是と同じく経学国学詩文などに長じたる人は作者には成難し、牛刀割鶏其学力をたのみて下情に移らず、歌舞妓の作は商家・民間・工匠・遊里・婦女子の情に通ずるを要とす、然れ共『小野の篁歌字尽』を崇み『実語教』・『童子教』を聖作也と心得たるも無下に拙なく、四書五経は素読して『唐詩選』・『徒然草』を記臆せし程こそ其器に当れりとかいふべし、其余は『和漢三才図会』、和漢の軍談、古今物語類、和歌三代集、国花万葉名所類、花実年浪草、王代一覧、内外謡曲本、琴曲唱歌の本、俳諧発句文集、諸家随筆物、八文字屋本、近来の小説稗史類、此外眼力[まなこ]の及ぶ程は懈怠なく野史雑書を見るべし、さりながら是程の書は作者ならず共見るべし、是を読得るまでに浄瑠璃本歌舞妓の正本古今来の仕くみいくらありともはかり難し、是をあまさず熟覧せしうへ、歌舞妓芝居浄るり操り芝居を見て、是何の役はかようなる衣裳、かの役は此様な拵[こしらへ]と胸に覚え置べし、昔の作者には浄るり歌舞妓に残りし正本なかりしゆゑ、古今の書籍に渉臘[あさり]て狂言にせしが、今は舞台にて役者の出来る様先哲達の書のこせし正本あり、是を読ずに外の書物をよむは廻り遠しとやいはん、芝居には芝居の学問せし者ならでは作者には成難し、三都の浄瑠璃歌舞妓の正本を熟覧せしうへ此門にいらば建作者に随身して筆採[ふでとり]を勤む、筆採とは書役にて連俳の執筆とおなじ、先作者の前に机を直し作者の詞にしたがひ正本の草稿に筆を下す事也、其作者案文の内に和漢の故事、古歌のてにはなど聞違へる事なく、文字にあて字をかゝず、道具の模様・衣裳の好み・囃子の取合・詞書[せりふ]の運び・*一トがきの差くり、其場の国は何国ときはめ、又は四季時候の月を定め、時は何時と昼夜のわかちを聞置、作者口拍子に乗り段々と詞の通りを書く内にも、重復あらば前にかようなるせりふありと批判を言ひ、我得心せぬ詞あらば作者にとくと問きはめ、一場の草稿を書を作者道の修行と言なり、又*作者にも一日の趣向を立、一幕の趣意をもふけ、貴賎の詞[せりふ]をよく正し、唄より唄までの一件[ひとくだり]を或は三人又は五人とおなじ人数のつゞかざる様に、愁の次へはをかしき事、花やかなる色情の跡には見所ある詰合なんど、都て同じ意[こころ]の重ならぬやう一場〳〵の算用して、詞付[せりふづけ]はなるだけ小短かく、知れたる事は見物の眼にあづけ、くどからずして余情を含ませる事第一の心得也、尤道具立は工匠[だいく]、鳴物は囃子方の預かる所[ところ]、*容[つくり]と衣裳は役者の好によるものなれ共、其源はみな作意より出れば軽卒に扱がたし、然共余り理屈詰にも成がたし、いはゞ菅原伝授の判官輝国に野袴ぶつさき羽織を着せ、挾間合戦の五右衛門に裏付の継上下を着せたらば見苦しからん、道具にても、峨々たる山谷・宮殿・楼閣をわづか七間の舞台に錺る事なれば是非なし、囃子鳴ものにても、太功記の本能寺禅囃子は聞苦しとて太鞁拍子木をいれず、題目にて幕明たらんにはお七吉三が吉祥院と思はれん、是らは狂言綺語の迯道有て、世に托鉢坊主が浄土の門には南無阿弥陀、仏禅の家には禅語をちらつかせ、真言宗には陀羅尼のようなる事をつぶやき、律僧には虫も殺さぬ顔にて付合、日蓮宗にはだゝぶだゝ〳〵〳〵、一向宗にはあゝ〳〵〳〵と計にて済するが如し、如此作者の脚色[しぐみ]様を覚へ詞書[せりふ]の付様を習ふには、筆採をつとめ修行すれば追々骨髄を知り、後には作者の三枚目二枚目ともなり、手軽き場は作する様になる事也、それも建作者より一幕か又は一件[ひとくだり]の筋書を請取書上て、筆頭[ふでかみ]の作者に批判を請、用ひがたきは幾度も添削して舞台にかける事也、当時は筆採をつかふべき作者もなく、又筆とりをつとめ此道の修行するもの絶てなし、作者のみばへは狂言方とて道具付・小道具・小裂・衣裳付・詞[せりふ]の書抜なんどする役也、此書抜にも心得有て、せりふのくい切、その役者の心に成て口調[くちつかひ]の能ように書を専一とし、耳馴ぬ故事などにはかな付をして遣はし、稽古読合せの折、書損・落字・かな違ひ等なき様文字あらく書を要とす、役者は皆文盲なるものと心得、書ぬきの内、我会得せぬ事は不審祇を張、作者によく聞置事也、而うして稽古の時役者是は何の事と尋ねし折、夫は何々の事と即答の出来る様にせねば、正本のまゝ書抜、文字違ひ一字二字の書謬より役者わからぬなりに覚えて仕舞ふ時には、舞台に於て見物に鄙言[かたこと]を聞せ譏をまぬかれず、若後に言替させんと思ふ共、口癖に成て改る事あたはず、悔共詮なし、日々幾万人の看官[けんぶつ]に対したわいもなき詞を聞す時は、作者の誤り・役者の麁相と成物なれば、能々書ぬきの時心を付るを狂言方の修行とは言なり、それより馴るに随ひ正本をひかへ稽古をする様に出世することなり、稽古とは則俳諧の執筆を本式にするが如く、本をひかへ其場々々に出る*役者に心を配り、いかなる建ものゝ役者たりとも呼び流しに名を呼び、詞の言違ひ等ある時は遠慮なくかよう〳〵と教ふる事、いはゞ寺子屋の高弟[あにでし]が新弟子に筆の運びを教ふる如くするなり、其内役者より「此間に今一口づゝ詞をふやし呉よ」などあつらへある時は能々覚え置、建作者へ言継、一口の詞たり共其場を書し作者の下知を受て殖す事第一なり、追々修行の功を積み出這入りのせりふ作者へ言ひ入るゝ迄もなく即刻に我拵へる様になりても、其詞をならべ見て作者へ断り相談の上計ふべし、さなくては作者の意に違ふ事あり、此稽古と筆採をよく手練して後作者とは成べし、万芸とも地に落たるは時運のしからしむる所*是非なけれ共、狂言方より作者になるはかく修行の功をつまではならざる事也、*今時の作者狂言方と名乗るもの書抜・筆採・稽古ども然するもの稀なり、たゞ解らぬまゝに書写し、むづかしき字は考へもなく勝手にかなをふり、稽古の折にも役者の見識におどされ閉口するがゆゑに、一日の狂言は扨置一幕の算用立ず入我我入にてする事とはなりぬ、稽古するとは何がゆゑに呼ぞや、正本を前に控へたるのみにて湯屋の銭取番にもおとるべし、*東都[えど]にては道具方より勤めて狂言方の預る役ならねど、京摂の戯場にては影を打とも付[つけ]を打共号て、拍子木を狂言方に打しむる事例なり、此木さへ打ば皆狂言方と思ひ作者の見ばへなりと思ふこそはかなけれ、たゞ梨園を好み作者道[どう]を学び伝奇[きやうげん]の一番も著さんと思ふ者は、右に演る如く院本[じやうるり]正本を熟覧して閑暇には俳諧をすべし、俳諧は普く世情に渉り俗に近くて作者はや学問とは此事なり、往古より戯作を好む人大約俳諧をせぬ人なし、東都に菜翁巣兆といへる俳諧師あり、此人の著編の発句集に、七代目市川団十郎幼き時下総の成田にて巣兆と同宿せし時、三升巣兆に俳諧を教へ呉よと頼む、其ゆゑは五代目祖父〔反古庵白猿のこと〕常々のしめしにも「役者は俳諧を学ぶべし、諸芸に通じ俗に近くてよき学問也との義ゆへ執心なり」と語りしかば暫らく滞留の中懇に物語りせしとぞ書り、実に尤なる事にて仮初の話にも故人の語には味ひ多し、一巻の俳諧の変化は公家かと思へば乞食となり、恋かと見れば無常と成り、貴人の館も埴生の小屋と変ずる所、実に歌舞妓狂言は俳諧の変化の如し、手など拙なからず書人能弁の人数万巻の書に眼をさらせし人作者とならば、寺子屋の高弟・物書・手代の放蕩者・講釈師の前座に出る人・腐儒者など皆作者に成べき物なれど、論高ければ俗に落ず、普く諸芸に渉り遊里洞房[いろざとちやや]にはまる粋と称する人にても押て作者とは成がたし、かかる拙なき業にも所謂五徳を兼備せずんば真の作者と呼るゝ事かたし、爰に此年頃詩歌連俳あるは乱舞音曲をすこしく学び、放蕩に身を持崩せし人梨園の楽房[がくや]這入[はいり]に狂言の穴を探り、遊里に行ては芸子・幇間の悪評をいふのみを是とする輩、時々尋来て著作道に*入りたし門葉にならん名を付呉よと抔いふ*人数多あれども予決して許さず、既に尾陽[をはり]の俳人半掃庵也有先生は文集『鶉衣』など著し中興俳諧の名家なれ共生涯門人は一人も許さず断られしよし、たとへ門人となすとも初心の内は師匠〳〵と尊めぬれ共五七五の詞少しわかれば芭蕉の弟子・其角が門葉のと言ばかり、一たん師とたのみし人の批判をいふもの多かればとあり、諸芸とも此境へはまるもの多し、和歌をはじめ俳諧に師なしといへばましてや狂言の作に師あらん筈もなし、也有叟が確言を思ひ出で断りて教へず、よしや師弟といはば師たる者の覚悟せし程の事悉く教へざれば詮なし、其道をくはしく習ふべきの人もなし、当時[いまどき]の張良は黄石公の沓を取上たらば其座にて一巻を譲り受ずんば承知せぬ事にて、孫呉が秘書も虎の巻もはした銭にて買る時節なればさもあるべし、詩歌連俳にさへかくの通り、いはんや薄情なる*戯作者ものに於てをや、ゆめ〳〵好んで歌舞妓作者とは成べからず、されど予が作者となりしは遁れぬ由縁あり、祖一風が父西沢太兵衛は天和の頃よりの書林にして、*其子一風は享保に歿し元文より安永迄の内に其子九左衛門・利兵衛と二代を経るうち浄瑠璃大にすたりて歌舞妓新作日々に流行す、爰に於て太兵衛より五代目父利兵衛*〔俳名一風〕は歌舞妓を好み其比の名たゝる作者を集め三都の正本を悉く所蔵し、自ら筋書をして作者に書しめ、戯場[しばゐ]者流のみならず素人にても読易き様読方の法を口に書き世に弘めしより、屋号を呼て正本といふ、故に院本正本数万巻を閲し戯編を好むの癖あるを梨園[しばゐ]者流に知られ、誰かれにそゝのかされていつしか狂言著作郎とはなりぬ、是所謂蓼蟲[りうちう]の一癖ならん
古今の序にも倭歌は人の心を種としてよろづの言葉とぞなれりけると、我伝奇にも種なくては綴りがたし、其狂言の種に一話あり、『大岡忠相録』の中に板倉周防守殿京師所司代勤役の砌、綾小路辺に高城瑞仙とて外科を業とする者あり、或時奉行所へ訴へ出しは、拙者独身にて候所此廿日ばかり以前黄昏過ぎに宿に唯一人罷り在候へば、何もの共しれざる大の男四五人来り私を引立て無二無三に縄をかけ口に手拭を押込声を立る事ならざる様に致し外へ出候と、駕に乗せ上より物を打かけ道を急ぎ何国共なく連行申候、尤先の東西曽て知れ申さず、やがて彼所へ着し所山の奥と覚しくて森々として松風の音のみ聞えし、其所に一つの大家あり、近所隣家と申もこれなき離れ家にて御座候、其所へ私を引出し主人と覚しき大男立出て申は、其方外科の聞え高し、今我手下の者共悉く手負金瘡に悩めり、何卒療治いたし呉よと申し、否といはゞ打殺すべき体なるゆゑ、拙者も一命にも及ぶべきかとまづそれ〴〵に療治仕り膏薬をつかはし、大疵には縫遣し申し五六人も疵付候もの御座候より様々の療治にて大方快気に及候へば、今は古郷へ送るべし大義なりとて薬代金五両を呉候て最初連行候時のごとく駕に乗[のせ]て夜中にもとの私宅へ送り届け、駕のものは何方へやら逃行けるが更に行方知れ申さず、此段不審に存候へば隠し置て後日に相知れ申候ては如何と御訴へ申上候とあり、板倉殿之を聞給ひ奇怪なること也、先方角といひかた〴〵しれぬとあれば手掛りもなし、然れども其方廿日余りも居し内に何ぞ替りし事はなきや、食事等その外別義なかりしやとお尋ねあるに、さして相替りし事御座なく候、然し諸山にこれなき鳥の音折々相聞え申候、仏法僧〳〵と鳴申候、承り候へば烏の名も仏法僧と申よし、下野の日光山・紀伊の国の高野山の外にはなき烏なりと咄し申候もの御座候と申上ければ、板倉殿聞玉ひ「よし〳〵夫にて相解りたり、其金瘡の者はみな強盗の徒党なるべし、捕手をつかはすべし」とて速時に役人を松の尾山の奥へと向はせらるゝ、与力同心等はいかなればさは宣ふぞと伺へば、板倉殿仰せらるゝやう、「彼医師が申には仏法僧といふ鳥の鳴しよし、彼鳥は高野・日光の外になしといへども、よもや高野・日光にまでは連行まじ、推量するに松尾山の奥なるべし、子細は藤原俊成『千載集』の歌に「松の尾の山の奥にも人ぞ住仏法僧の鳴につけても」此歌を聞く時はかならず松の尾山の奥なるべし」と申されけり、果して松尾山の奥より盗賊数人を搦め捕来りけるとなり、されば板倉殿和歌の道にも委敷ゆゑ此裁判いたされし也、此仏法僧の物語は世によく人の如りたる事なれば近頃の小説物にも粗[ほゞ]遣ひしを見る、中に享和の末か文化の始か東都の戯作者山東京伝が著作せし『優曇華物語』の巻中にきりはめ、盗賊の頭を大蛇太郎とか呼び黒髪山にかくれ、本文の如く手下数多疵を承しゆゑ近在の医を盗ましめ医に療治させるまでは聊もかはる事なし、数日の滞留に手下の輩あら方快気に趣く時賊首酒肴をもふけて医をもてなす折節、空に仏法僧の鳴声聞ゆ、医はたと手を打、奇也〳〵山海の珍美佳肴より彼「松の尾の峯静なる曙に」とよめる仏法僧の声こそ嬉しけれと言、その時賊首「足下はさすが識者なれば仏法僧の声をしらるゝが、鳥の声聞ゆるからは此山寨は何国いかなる所と思はるゝや」と問ふ、医の曰、「『三才図会』などにも見えて此鳥は紀の高野・洛の松尾、東国にては日光山に住と言ひ、我栖[すみか]より里数と時刻とをはかればまさしく爰は黒髪山とも思ひ候ひぬ」といふ、賊首あつぱれの名智褒美呉ん今一献と盃をさし出す、医是を取んとする時抜打に医の首は遙に飛んで崖の下へぞ落たりける、是予が空覚なれば人名居所等確とは覚えず、されども醒々斎が著述誠に骨髄にしみおもしろく覚ゆる也、今時生物知りの医が良もすれば博識ぶりていへる所又賊送りかへさず藤戸の盛綱めきて只一討に切殺すなど人よく知りたる話を其まゝに書入れ終を転じたる働、実に感ずべし、都て山東京伝が戯作の小説は比類多し、近来小説稗史作者の冠たるべし
扨仏法僧のはなしを種として浄瑠璃に編りしは宝暦六七年の頃三好松洛が姫小松子の日の遊三の口切なり、嵯峨の里に俊寛が家来亀王丸若君徳寿丸をかくまひ小弁と呼びて女の子にして女房お安には乳呑子あり、はへぬきの岩といへる賊手下四五人を連来つてお安を盗みかへるにお安の親さゝへるを乳母を置けよと金の包を置小弁と共に連かへる、是本文の医者を盗みかへるの条也、三の切【異本口トアリ】松尾山を転じて男山の南洞が峠の岩窟にて主[あるじ]来現が前にお安小弁を連帰る、来現手下の賊をよけて小督の局の懐胎ゆゑ産婦になれたるお安を盗ませし事を語り、後お安鏡の金打より俊寛と本名を明し島物語をかたる、此来現はこの賊首にてお安は医師なり、金瘡をば産婦の介抱に引直せし作意和らかにして誰か仏法僧の話を種とせしと思はん、院本作者の見付所は小説[よみほん]を書とはまた格別の案じかたならずや、同好のかた〴〵能々味ひ玉へかし
我歌舞妓にも是を種とせしは安永六酉年奈河亀助なるもの伊賀越乗掛合羽を作せしに四幕目に般若坂の場有、癩病の乞食共我身に飽[あき]、冠山【異本郡山ニ作ル】の俗医奥山左内癩病の療治に妙を得たりとて駕籠に乗せ盗みかへる、此医者はえせものにて始癩病になる薬を飲せ癩病ならぬ者に煩らはせ、のち又一服の解薬にて本復をさせるの方はしれど、真の癩病は治する事あたはずと云、此時小屋頭の乞食出る時奥より骸骨の癩病といへる文句あり、これ則姫小松の院本を翻案して奥山左内はお安也、小屋頭は岩窟の来現といへる地口なり、股五郎言号の娘お園を連、癩病石へ腰を掛るより癩病の仲間へ入よとて奥へ入しゆゑ骸骨の癩病のせりふに「今客人もすや〳〵と寐入花」とあり、是来現が出の詞にて姫小松を其侭きりはめしと聞せたる作意なり、後に混じて何れの狂言が先なりや跡なりや作者の趣向を失ふがゆゑ爰に出す、此伊賀越は中の芝居にて二の替に出し大当をとる、唐木政右衛門に中山文七〔元祖世ニ黒谷文七〕、誉田内記・佐々木丹右衛門二役中山来助〔黒谷文七弟二代目新九郎也〕、沢井城五郎・馬方の胴々大八二役中村歌七〔加賀屋歌七祖中村歌右衛門〕、沢井股五郎・奥山左内・母鳴見三役浅尾為十郎〔実悪の名人奥山の事也〕、原来敵討の狂言を時代に取組遠責などを遣ひ世界を大きく書たるは亀助の手柄なり、味はふべし、始歌舞妓にて当りしゆゑ後浄瑠璃にそのまゝ語る事とはなりぬ、のち天明三近松半二院本にて伊賀越道中双六を出す、是又大当せしゆゑ歌舞妓にも取立する事とはなりけり、此二狂言とも歌舞妓院本兼たる名狂言也、扨此仏法僧の本文を種として京伝が小説は是真也、松洛が姫小松は行也、亀助が伊賀越は草也、同じ作意の内に真行草と三つにわかるは此話のみにあらず容をわけて解べし
真の位の小説をかくには七つの法則あり、一に主客はシテワキの如く一部の主客を定めて筆を採也、二に伏線後にかならず出すべき趣向を前に墨打をする事也、三に襯染[しんせん]は仕込みをして後に出す是を縯染[せんせん]共言て下染の如くせよとなり、四に照応とも照対共言て対句の如し、重復に似たれど然らず、態と対にてらし合す也、五に反対、照対は物おなじくて違ひ、反対は其人は同じけれどする事の違ふ事也、相背いて対する事也、六に省筆、事を人に立聞せ筆をばはぶき後話にていはす、七に隠微は作者文の外に深き意ある事を云、是らは唐山の湖上李笠翁などが作れる稗史にならひ、国史・経史・歌書・軍記をあさり、あるは唐山の小説を通俗にして此頃の夜話に往古の年号月日を書入文花をかざり、誤字書損ひ等をよくあらため梓にのぼし世に弘るもの也、然し稗史小説の今の如くに読はやらし出板の多くなりしは享和・文化より此かた也、その前には西鶴・自笑・其磧等が著せしものを八文字や本とて見はやらしたるが、其後は橘南蹊が出せし『東西遊記』より、奇談怪談を書しものまれ〳〵に出しのみなるを、『英艸紙』・『繁夜話』・『雨月物語』・『西山物語』〔『吉野物語』・『桟物語』アリ〕など戸河六蔵・建部陵岱・上田余斎の人人が著作せしより、東都に平賀源内〔福内鬼外・風来山人と云〕が滑稽本も廃りて、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬など我も〳〵と小説稗史を著し出板する事、月に数百部、凡元禄より此方の戯編を見れば連歌俳諧師あるは儒者・医者なんどの著せしものにて別に戯作[げさく]者とて業とする者まれ也、よつて戯編には戯名を書て実名をのする事なし、近来戯作者追々にふえて京伝・馬琴が筆意に倣ひ、一部の趣向も立ず、ましてや法則も弁へぬ輩あらぬ外題をつけて出板するがゆゑに、看官[けんぶつ]も読に飽て売ぬ事とはなりぬ、小説稗史[よみほん]の戯作にかけては往昔と今とはいはず京伝を冠として次に曲亭なり、京伝が作には西鶴・立圃が口調に譲りて新に案じを出さず、馬琴は博識なれ共文中に癖有、偽作類板を嫌ひて近来出板の小説にも名を売らるゝ事を歎く断りまゝ見及べり、尤京伝は文化に歿し、曲亭は今に存命なれば、年々に書を閲[けみし]月々に発明する事も多かるべし、誰も生れながらの博識はなし、学ぶに付てわかり習ふにつけて上達す、幼き折に書しものは老て後読で心恥かしくなる物也、きのふの我に飽ものは俳諧の上手也とは森川【異本 五老井】許六が詞也、過たるは猶及ばずと頓着すべからず、安永の頃『都名所図会』を著はせし秋里籬島[りとう]は博識にて、五畿内を始東海道・岐蘇街道の名所図会まで世に著せしは此翁の功なり、悉く引書をあらはし吾癖案を交へず実に感ずべき人なれど、所々に湘夕[こせき]・斑竹[はんちく]とて下らぬ狂歌・発句を書入たり、変名ながら愚詠を書入るゝは拙し、詩歌連俳ともにその輩あり、変名なり共我句を入しは誤なり、曲亭の稗史にも玄同簔笠抔とて詩歌連俳を書入しは拙し、名を売らるゝをいとはゞ魚魯のあやまちよりは先に是をつゝしむべし、醒々斎には絶て此事なし、天保の今に存命せば此誤りあるかもしらねど著作堂よりは一段勝れし所ありと予は思へり、天保の今に至つては戯作者といへるものます〳〵尠し、近来中本と唱へて出板するものは浮艶鄙猥にして八文舎にもよらず院本にもよらず、笑本[まくらゑ]の文談[せりふ]をよむ如くにていと浅猿し、小説稗史の出し始の比は、近世の如くいつ幾日迄に作せよとの誂もなく、我閑日のまに〳〵書綴しを、やがて書肆の手に渡し梓に彫、世に弘めて評よければ売もし、其頃の人気に叶ひし物は再板せられ、評よからぬものは買はやらさず読はやらさぬのみにて、おのづと摺本もなくなるのみなり、作意其比の情に通ずれば書林は利を得、売れぬ時は書肆が彫損・摺損なればさまで作者の汚名も受ず、作者のちからは一部の趣向文談に善悪はあらはるゝ物なれば、草稿のゝち筆工彫刻の度に校合をさへよくすればよき物と知るべし
行の位に表したる浄瑠璃は又小説稗史とは事かはり、年号・人名・国所等にてもさまでくどく糺さずともよく、昔古流井上播磨掾・山本土佐掾・岡本文弥・宇治加賀掾・道具屋吉左衛門・表具又四郎の頃は、扨もそのゝちとのかかりにて文談もさら〳〵として、道具立もなく木偶もなく、謡曲の如く三段計につゞり、所々に節をつけしのみにて、外題とても俵藤太・中将姫・蝉丸などとつけ院本に残りしも謠本の如し、のち延宝・貞享の比当流竹本筑後掾〔義太夫ノコト也〕・当流豊竹越前少掾より追々にひらけ、豊竹を東、竹本を西ととなへ、竹本には近松門左衛門、豊竹には西沢一風とて作名をあらはす事とはなりぬ、尤五段つゞき三段続にて狂言を作するには、其折々の太夫の音声・咽喉を弁へ木偶をつかはせ、よく世界をたて趣向をもうけ、文談を綴り満尾して印行し、丸本とて後代に残すにも手爾於葉・仮名違ひをとがめず、譬へあて字あり共早く俗に聞え易きを専として、節に耳をたのしめ木偶にめをよろこばせるをよしとす、されば近松が国姓爺・反魂香、西沢が時頼記・万石通も東西の当り狂言にして其頃は名を噪[かまびすし]うせり、其後竹田出雲・三好松洛・並木宗助・近松半二等出で浄瑠璃の脚色段々巧になり、一通りの作にては聞者[きゝて]も看官[けんぶつ]も承知せぬことに成り、譬はゞ作者三人あれば場割とて、建作者[たてさくしや]より、誰は二の切、かれは序切、誰それは四の切と二の口、我は大序と三段の切を書なんど、一場〳〵と割付合作する様になり行、ふし付等も大落し・表具などは三の切よりつかふ事ならずと法則を極めて作する事にはなりける也、是より銘々文談をはげみ書籍を見たる力をあらはさんとて、あるは恋女房の沓掛村に「金石皆なる秋の夜の」と秋風の辞をつかへば、源平躑躅の扇やには青葉の笛の音に「恨むが如く慕ふが如く愁ふが如く」と赤壁の賦をきかせ、薄雪の腹切に虎渓の三笑をつかへば、姫小松の岩窟に漁父が辞をきかせるが如し、是らはかく文章を自由につかひまはして世話物所謂お染久松・お千代半兵衛の類ひ心中情死の狂言にしては其頃の人情流行の詞をうがち、よく其実説をしりながら世俗にはやく聞せんが為人名居所を引直す事、譬はゞ小野の道風青柳硯に伝法転所の文字を道風にかゝせるゆゑ、文盲人は四天王寺の花表の額を見れば道風の筆なりと思ひ、軍法富士見西行を見ては「此春ばかり墨染に咲け」と詠しは西行なりと思ふ人も多からん、ましてや忠臣蔵は塩谷判官・高の師直も太平記の世界と混じ、近江源氏の佐々木高綱・北条時政は辛崎・坂本辺にて戦ひしものと思ふものもあらん、此浄るりの作者も寛政の中頃までは日々新に名狂言も著せしが、そのゝちは只古き当り浄瑠璃を幾度もかへす事にて、新作はまれ〳〵にて、邂逅[たま〳〵]新外題を付しものもあれども所謂焼直しにて二番煎[せんじ]の茶と同じく味ひなし、太夫・木偶遣ひ・三味線ども追々故人と成ゆくに随ひおのづと此道の作者もなく衰へし物か
草と見立たる歌舞妓狂言の作は、小説稗史の作者・浄瑠璃の作者とはかはり、師の教ゆる規矩もなく、又弟子の習ふ準縄もあらじ、往古の歌舞妓には作者たるものなく、一座集りて何々の世界と定め、誰は何役彼は此役と配当して詞は互ひに言合せ、打囃子もその場に休座[あきて]の者勤しを、正徳の比京師に橘良平と云外科医有て、此人芝居を好み日々に見物し都万太夫座の役者と熟魂になる、一座良平を頼みて狂言を作らしむ、謝物として役者よりは衣類調度を贈り、座本よりは家内の雑費を運び各師父の如く尊敬せしを、いつしか謝儀を約金にて納ることになりたるゆゑ後々は作者役者朋友の如くなりぬ
【異本、浪花にても狂言は一度に仕組しまゝにて役者が覚ゆればそれにて済みしを、狂言本に委しく書くことにて金子一二両より始まる】
是によつて今時の識者には【異本 歌舞妓作者は】いと賎しめらるゝこともあるべし、さりながら上は公卿・大夫より下は乞食・非人に至るまで常に其通語を記臆して用ゆる事勿論なり、一体の世情にわたり遊里洞房の癡情は親しく交らずとも其佳境はしり安し、高貴のいみじき人々に交はらざれば高情の場は知り難し、作者さへ知らざれば来看[けんぶつ]も又知る人稀也、是狂言綺語の場にて、公家は公家らしく、女﨟はいかにも女﨟らしくし、『源氏物語』・『伊勢物語』あるは『春曙抄』をはじめ古代の物語の詞を交へ、俗に通易き様に用ひ、武士は武士らしく、源平時代ならば『盛衰記』(義経記)の詞を用ひ、北条・足利の世界ならば『太平記』の詞をかるべし、ましてや世話・時代交へし狂言の武士には東都の方言をまじへていはせ、傾城は里訛とて新町の「なます」、吉原の「ざんす」などそれぞれの方言を用ひ、一日の世界を定め【異本 一場の国は何国と四季の時候を心に留め、何時頃也と時刻を定め】小説にもある如く法則を極め、切瑳琢磨の功成て一部の大筋をかく事也、此階級をへざれば真の歌舞妓作者とは唱へがたし、かくの如く千思万慮を累ね辛労するにあらずんば、いかでか日々幾千万人の看官を引受、尊卑・上下・男女・老若の情に通じて、あらぬ事をかなしみ又は嬉しと思はしむるの感動あるに至らんや、小説は編安きとにはあらね共、譬はゞ往事をかたるにも、細字にて書たるを数千枚が内につゞけて語る事あり、歌舞妓は俳優いか程の弁者にても、八行に書きて紙二枚ばかりよりは声もつゞかず、譬へ能弁にて語る共、講釈の素読を聞が如くにて看官の心にとめねば詮なし、文字に書には口には善をいふ共心には悪計を巡らすなど、まゝあれど、歌舞妓は役者の詞にていはせるが、心工みの悪計を見物によく見せて置かねば情通ぜず、此余に小説には数十年の間にかく者を、歌舞妓にては一日にかき縮め、一場は長くとも一昼夜よりのびたるはなし、また院本操りは文中にゆとり有て、既にその夜も明方の【異本 詮方泪暮六つのなどゝ伸縮自由に利かせ】あるは屠所の歩の未の刻など、又時ならぬ花の盛りなどは枕の文に出す事まゝ有て、詞にきかせぬ事は「いはんとせしがまて暫し」との遁道いくらも有て、せりふの次にふしあれば、木偶にふりあり、歌舞妓には此自由なければ浄るりの作よりは一倍辛労多し、その上木偶は死物、役者は活物なれば一口に論じがたし、譬はゞ小説の主客に用ひし者も操りの木偶にも役不足をいふ事なし、まづ仮名手本忠臣蔵にても師直の役にあたり、大序兜あらためより三段目殿中刃傷の場までは立者の遣ふ役なれ共、それより大切迄役なしにて敵うちには柴部屋にて討れさへすればよき役也、手摺〔人形遣也〕の建もの、大序と三つめをつかひ外に由良之助とか平右衛門とか本蔵とかつかひ、敵討の働のなき場にて外の役の差合ふ時には、柴部屋より出る師直は門弟に遣はせても済がゆゑに役不足をいふ事なし【異本 又楓狩剣本地にて艾屋久作は敵役にて二代若君にもろく討れし侭にても済むべし】、歌舞妓は活物の役者をつかふ事なれば、役のよき場は勤めても役あしき場は不承知なりとて作者へ対して断る輩まゝあり、是等は行義作法もしらぬ役者なり、一日の狂言は勧善懲悪のすゝめなり、役者は絵にかくべき者を活して働らくが役なる事をしらず、我仕勝手をいふなんど論ずるにたらず、作者も常に一座の役者に親しみ人々の性質をよくしりて、立役・実役・敵役・女形・道外及び小詰に至る迄各人品により行状を弁へ、役と人と相応ずる様に作する事第一の心得也、医の病に応じ薬をあたへ、僧の説法して仏道にみちびくに等しく、仕打方〔太夫元とも又世に銀主と云〕にも読きかせ一座の役者よく合点させて稽古にかゝらせ、その内道具・鳴もの・衣裳等の差図をして、熟してのち初日を出させること也、かくの如く苦心して狂言を著はせし作者も其時々の番付にのみ名をのせ、後世にては誰々の作せしとあげつらふは、纔に狂言見功者の人と其ころの俳優のみ也、此歌舞妓作者といへる者も明和・安永の比[ころ]、寛政の末までにて、享和・文化に移りて一両輩も残り居しが其後は一人もなく、大方は狂言方とて拍子木を敲くもの、鼻垂も次第送りとかにて、おこがましく作者と番付に名をのするのみにて、役者も年々衰へ愚痴文盲なるゆゑ、耳新らしき故事古歌など書入ても得覚えず癖言のみいへば詮なし、いはんや月卿雲客の狂言にも、容さへ公家女﨟に出たてばよきと心得、詞は覚えず拙き卑賎の詞をつかひ、作者の意に違ふ事多く、たま〳〵小文才の走る役者は、作者に相談もなく仕勝手にせりふづかひを直す事有てうるさし、今時作者と名乗もの其身不学にして、立物役者に諂らひ、応ぜぬ高金を貧るゆゑ、役者の無分別なる狂言の筋をいひ出すを聞書に書ことはかたく、あれこれ取合すが故画にかける鵺の如く首尾手足とも違ひ、狂言作者とあらはす者は役者の奴隷の如く皆人思へり、著作道のすたれたる事、嗚呼時のしからしむる所にやいと浅まし、故名人の作者とひとつに混ずる事なかれ
往古より歌舞妓狂言尽しを四番続と定めしは喜怒哀楽の四情にもとづくと見えたり、口明は多く若殿の遊興、花見茶屋場は是喜也、中入謀反人国家を傾け忠義の家老切腹するは怒也、次に小幕と号し次幕への仕込み、道外のちやり事あるは若殿・傾城・姫君抔の道行を見せ、引返して世話場は愛子を身替りに殺し、宝物の質請に女房を廓へ売悲しみを見せるは是哀也、大切にて悪人亡び宝もとへ返つて家国治るは楽也、人間鳥獣に及ぶまで四情の外に何をか慮[はか]らんや、又詩作の起承転合とも合せ見るべし、大序は起、二つ目[なかいり]は承、三つ[みまく]目より一変して世話場[よつゝめ]は転、大切[おゝづめ]は合也、是より元禄・宝永・正徳・享保の頃の脚色には未だ法則も定まらず、昔物語のかな本をよむが如し、元文・寛保・延享より追々ひらけ、宝暦・明和に至つては法則備はり、ます〳〵巧みになりぬ、右に云四情は不易にして実也、人気の好む所を計るは流行にして文花也、一部の趣向〔一日の狂言〕を大筋といふは是も不易なれば実より入を要とす、一場の趣向を仕組といふ、詞書は流行なり花也、実より入りて花を得ざれば妙作とは云べからず、花実相対したる狂言は甚稀也、古作の後世に残て時々に用ひらるゝを見て知るべし、流行にのみなづみて不易の実情を失ふが故に、一旦は見物の心に叶ひ繁昌する様なれ共、日数纔にて永くたもつ事なし、いはんや再三と用ゆべき役者も又しか也、いにしへは作者役者共下手也、しかれ共妙あり、近来は上手にて妙なし、梨園に限らず万芸共亦しかり、年々歳々気根衰へ業に倦て淵底を探り得ざるは時のしからしむる所にや、強て是非すべからず、或人の曰、万の芸道古人には及びがたし、今人にまさる様に心がくべし、とは実に今時の金言なりとこそ覚ゆれ、世の流行は十年或は五年にて一変す、戯場年々に変じ月々に移る、その故いかんとなれば、けふの歌右衛門はきのふの鶴助にあらず、即今の団蔵は昔の団三郎ならず、其余もしかなり、能々弁ふべし
不易流行を考、喜怒哀楽の四情を案ずる時は、先筆を下すまでに世界を定むべし、世界定めとは新作を著さんと思ふ時は、大名題〔俗に一枚看板の事也〕に載る建役者五人とか七人とかを集め、伝奇[けうげん]の脚色[しくみ]により源平とか又足利とか其頃の時代を定むる事也、又世話物なれば小稲半兵衛にせうか於三茂兵衛にせうかと相談をする事にして、是を世界定めとは云也、此世界にも四世界あり、一に王代と言は禁裡公卿都て堂上の事を綴るを云、浄るりにては大友真鳥・妹脊山の類ひ、歌舞妓にては伊勢物語・菜種御供その余推て知るべし、時代ものは是に継ぎ二の位にて、北条・足利あるは大友・菊池など軍記にもとづき武将歴代の名を仮るなり、京摂の二の替り狂言は多く此時代もの也、所謂太功記の世界と定むる共、御当代にかゝるは遠慮あるべし、三に御家とは一国の騒動、時代にあらず世話によらず中庸をもちふ、千代萩・鏡山等、院本にては薄雪物語の類也、敵討は御家に属す、四に世話ものとは男達・角力取又は心中情死の狂言いづれも農工商にかゝりしを云、此世界の中にも御家には騒動と復讐と二種にわかり、世話にも侠客[おとこだて]・情死[しんぢう]の二種あれ共、四品にわかち、世話・真世話など唱へるも頗る佳境[くろとなかま]に入し者のいふ事なり、此世界を定めし上にて表号[げだい]をつくる、外題は一部の惣評にて、外題を見れば趣意はあらかじめ知るゝ物なれば深切に心を用ゆべし、諺に流行戯場[しばゐ]は外題より知るゝといへば仮初に付べからず、下語[とめ]には必ず熟字を置べし、下の文字熟せざれば止りがたし、近来江戸作者元祖桜田治助、五十韻の仮名返しによりて秘訣あるようにいへ共、韻鏡反切の外に亦かな返しあるべくも非ずと知るべし、又自字を造りしは中古大坂の作者並木正三三拾石艠[よぶね]始と登舟の二字を合せて一字とす、是より専用ひ来れ共道の本意には背けり、音訓をよく〳〵正し理なき仮名を用ゆる事勿れ、其後、並木五瓶日本花赤城塩竈[はなはさくらぎあかほのしほがま]此かなはよく叶へるといふべし、春狂言二の替り外題の上に傾城と置事は、宝永・正徳の頃京師より始まり今は京摂とも風儀とは成ぬ、春は仮名にてけいせい、次には傾城、秋冬には契情[けいせい]と法則を定めしといふは非也、下の文字によるべし、又傾城の文字を外題の中に用ゆるは目出度、かしく傾城始・国花万葉傾城桜・味方原傾城容気[かたぎ]など例なきにあらねど、故名人作者は字義をよく穿鑿して聊誤りなし、近来は一部の新作まれなれば、外題も共に古き外題を呼ぶはよけれど、其世界さへわからぬ者勝手に外題を付る事ゆゑ、画組とはなれ看板に偽り有と譏るべし、邂逅[たま〳〵]に新外題を付る時には遖傾城花大矢数[あつぱれけいせいほまれのとほりや]などゝ無理に誣[こじつ]け訳もなき仮名をふり、不通の文字を我侭に作る事、いかに賎業なればとて文筆の冥加に尽、恥を後来[のちのよ]に残さん事浅ましき事ならずや、近来曲亭馬琴が著作の『南総里見八犬伝』は数帙を重ね評よかりければ、予は歌舞妓に潤色して、春狂言にはあれど傾城は角外題に書入〔角外題とは大外題の肩に書を云、割外題とは大外題の脇に書をいふ〕花魁莟八総[はなのあにつぼみのやつぶさ]と居たり、其後浄瑠璃に取立しもの夏か秋か開肇たるに、外題の仮名を其まゝ梅魁莟八総と花の文字を梅と書替て看板に出しけり、元来予が作意とは脚色異なれば外に新外題を付る共よきに、なまなか外題をかるのみか、花と梅の文字をかへしは余りに拙なしと独笑うて過しが、作者も心付しにや院本には花魁と改めけり、浪華[なには]の顔見世狂言の外題と東都三座ともに道行所作事の外題の付方〔所謂常盤津・清元・富本のこと〕は祝の語を置、或はその一座の首領[ざがしら]又は新参俳優者の表徳など組合せるを趣向とすれば論の外なり、東都作者瀬川如皐が、瀬川仙女が【異本 東都元祖桜田治助が阪東彦三郎河原崎不座の時】道成寺の所作の外題に珍らしいものが振袖と付たり、近来中村芝翫〔当時の歌右衛門〕江戸より上りし時、御目見え狂言として嫗山姥しやべりの場を勤し折、予が付し外題に七重膝希八重桐[なゝへのひざをりてやへぎり]此類也、予不学文盲なれ共博覧の識者に随がひよく問明らめ筆を下すゆゑ、甚敷誤りはあらじと思へ共猶五十歩にして百歩の譏あるか
三都劇揚の狂言の異なるは、東都は武国なれば人気濶達にして滞るを嫌ひ俗に侠勇[きをひ]といふ、早春の世界は往古より曽我物語を吉例とす、年々三芝居とも同遍なるゆゑ趣向に尽、江戸古作者壕越薺陽・金井三笑のころより油屋お染実は化粧坂の少将、丁児[でつち]久松は五郎時宗などと付合して綴り、享和中大坂の作者元祖並木五瓶彼地へ下り、その実情を失はん事を愁ひて二番目と号け、別に外題をもうけ世話狂言を作せしが例となり今に絶ず、京摂に云切狂言也、惣体の看板・道具甚麁末にて狂言始り二幕ばかりは中通り小詰にて済し、夫より次幕に黙[だんまり]とて花方役者或ひは新参の立物など宝物などを奪合事を見せ、是より続て狂言を見せる事也、京師は公卿堂上の高情庶民に移りて温順なるを好めるゆゑに花車風流を専と書べし、浪速は商家のみにて中にも東都に似たる風は北地に有て、所謂黒船忠右衛門・根強[ねづ]四郎右衛門なんど堂島の侠客也、船場は豪家軒をつらね人気僭上也、江南は青楼[ちやや]多く陽気を好む、此三情を合して作すべし、洛は勿論東都にても神社仏閣雪月花に遊ぶ景地数多あるがゆゑ見る目にともしからず、浪華はさせる遊覧の雅境もなき所にや、見聞識者多く作文役者の誤りを見出す人多し、是を俗に穴を探すといふ、格別骨の折る地なれば心を尽して作すべし、都て梨園の上賓[おきやく]とするものは町家の御家・御寮人・嬢様・若旦那等也、よく〳〵其情を考ふべし、詞を書にも傾城と芸子は書分るに易けれども、遊女と芸子の詞は書わけ難きものなれば必うち混じぬ様書を作道の心得と知るべし
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)上の巻終
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)中の巻
抑歌舞吹弾の伎は梵邦[てんぢく]漢土[もろこし]に其例[ためし]少なからず、殊に吾皇朝[みくに]は磐戸神楽に始り催馬楽は乙女廿五節の風曲万世に伝れり。伶倫は推古の御代聖徳太子泰の川勝に命じ異邦の正楽[せいがく]を伝へしめ玉ふ。其官荒陵山に残りて千歳を経り、後平氏繁昌の時は白拍子と号る女楽有て朗詠今様に堪能の者尠からず。室町殿の代となりては乱舞・謡曲行れ、今公門侯家の翫弄[もてあそびもの]となれり、当時の歌舞妓は世上よりして伝はれる舞曲の余風一変して一劇苑を闢[ひらき]、天正の頃濫觴するとなん、其顛末は『歌舞妓事始』[じゝ]・『役者大全綱目』の七書に委し、操浄瑠璃の事跡は『竹豊故事』・『東西評林』・『操年代記』等に著せしかど、未梨園作者道の意得・規矩・小伝を挙たる書を見ず、故に言狂作書と題して既に肇巻に著、近世歌舞妓作者の名高きを八景に准へ其小伝に及び、楽屋雑談[ばなし]・釈文[はめもの]・伝奇[けうげん]の説を編[つゞり]、此門に遊ぶ者に作業の径路[ちかみち]を演るものなり、曩には西沢一鳳と名乗今は李叟と改めつる
狂言綺語堂主再識
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)中の巻
西沢綺語堂李叟著
並木晴嵐 | 朝嵐吹すさむ共幾もとのなみ木の梢おひしけるらん | 並木五瓶ハ始吾八ト云、浪花ノ産正三ノ門ニ入テ後東都ニ住並木舎浅草堂ト云 |
近松夜雨 | 降雨のいく夜重ねて近松のむかしも今も常盤なるかな | 近松徳三又徳叟、半二ノ門ニ入テ歌舞妓ノ作ヲナス、浪花阪町ニ住大桝屋ト云 |
鶴屋夕照 | 夕日影むかふ鶴やの千代かけてみなみに北にてり渡るなり | 鶴屋南北ハ始三代ガ間東都役者ナリ、四代目ヨリ勝俵蔵改名シテ作者トナル |
奈河帰帆 | 漁舟かへる奈河の水馴棹さしての後もなほ流るらん | 奈河一洗ハ始篤助、亀助ノ門ニ入テ後洛東山真葛原ニ隠レテ一服一泉ト呼ケリ |
桜田落雁 | 匂ひさへ色浅からぬ桜田に雁もこゝろやなほ残すらん | 桜田治助ハ俳名左交ト云、東都常盤津・富元・清元ノ浄瑠璃ヲ数多著ハセリ |
辰岡幕雪 | 暮る日のはては其名も辰岡につもれる雲の消る時なき【異本 いく代消なく】 | 辰岡万作ハ始狂言方ヨリ功ヲ積、浪花河南ニ住、時代狂言ヲ著ハス事ヲ得 |
福森晩鐘 | 風さそふ森の木の間に入相のかねの音遠く世に響く也 | 福森久助ハ又喜宇助ト云、俳名ヲ一雄ト呼、東都ニテ京摂ノ狂言ヨクハメタリ |
西沢秋月 | 曇りなく世にすみ渡る西沢の水の面てる秋の夜の月 | 西沢一鳳ハ祖一風ヨリ書林ニテ浄瑠璃歌舞妓ノ作ヲ兼タリ、本町本理トヨブ |
奈河亀助は中古歌舞妓作者の祖にして、前にのぶる四情四番続の法則を定めしも亀助より始れり、此人もと奈良の産にて放蕩より家業を捨、河内の縁家に食客の内も遊里・戯場に通ふの癖有て、遂に浪華に来つて作者道に染たり、奈河と呼は奈良と河内に身を漂泊[さすらひ]ぬとの洒落より付たると也、此頃は仕打・興行人は何事も作者に任す事にて、一座の役者を抱へるも作者の指図を請、狂言により一座の進退は諸事作者のまゝなりければ、銀主・興行人と同格にて威勢強く、一座の俳優者流は作者に取入り出世をする事なれば、近世の作者とは雲泥の相違なり、亀助中にもよき金主有て諸事亀助次第なれば一座の尊敬も格別なる事也、此人狂言数多著せし内にも競[はでくらべ]伊勢物語〔大願成就〕殿下茶屋聚[ちややむら]・伊賀越乗掛合羽・加賀見山廓写本[さとのきゝがき]等皆当狂言にして、安永・天明より今に廃らず、興行の度毎に大入せずといふ事なし、尤和歌俳諧にても人口に膾炙の句一句あればよきとおなじく、作者道にても数十番の狂言悉く当るとは及び難き事にて、外題一つ二つも残ば至極の手柄にて、亀助が如きは実に稀なるべし、都て京摂[かみがた]の狂言には四季の時候によつて狂言にも亦規矩あり、春二の替には陽気に花やかなる事を書、世界も時代を用ふる、所謂大名の若殿の放蕩より謀反人幻術をつかひ、或は遠責にて反逆人を亡す抔賑はしく有べき事、三月狂言は永日[ひなが]の頃なれば時代世話を交へ御家復讐の仕組にして、五月替りは前狂言に院本の時代・王代もの、切狂言を真世話とて心中・角力の世界とわかち、永日[ひなが]の頃は看客に見飽せぬやう心得、盆替りは極暑の頃故侠客の水試合なんどいさぎよきを専一とし、九十月は陰気に趣く時節ゆゑ、伝奇[けうげん]の脚色[しくみ]をつゞまやかに御家敵討を取組、顔見世は前巻にも演たる如く一年[ひとゝせ]の終りなれば、道外交かに種々と容[すがた]をかへ入込せ、所作事様のめざましき様書を法とする也、然るに此亀助は伊賀越は復讐[かたきうち]なれば三月又は九月に出すべきを二の替に仕組、大序靱負殺しより中入円覚寺までを足利時代に取なし、狂言を手広く書たるは自在を得たりといふべし、されど此人の作は余りに細密過てくどき所あり、乗掛合羽の伝法屋、殿下茶屋の人形屋、又伊勢物語の春日野の場、加賀見山の菊酒屋各正本にて百余枚づゝあり、此中に略せんといふ所もなく詞にも省く所なし、是ゆゑ正本にて読時は当時の稗史に増り面白き事限なけれど、後世の役者は気衰へ下根になりしか、紙数多き場は来賓[けんぶつ]より役者の飽ものか、短かき場を好んで所々を略するがゆゑ、自と狂言の筋通じ兼る事多し、亀助後来の作者は一場を小短かく書、一幕に道具をかへす事度々也、〔かへしとは道具を廻し、あるは引道具などする也〕道具さへ替へる時は来賓[けんぶつ]の目も改まれば、役者よりも好める事也、いはゞ酒宴の席にて長座せんより、又亭をかへて飲直すが如し、是役者未熟なる故、長き場は持兼るより起ると知るべし、院本[じやうるり]操にはいか程長き場にても、幕明の飾付し道具よりかはる事稀也、歌舞妓も安永・天明の比は一幕に道具かへしは二遍又は二遍よりなし、廻り道具・糴上げなど出来しは皆此芸道の衰へにて、况や大道具を使ふは論ずるに足らぬ事ながら、道具を一座のシテと頼み惣座中はワキ師也、恥かしき事にあらずや、亀助加賀見山を作せしは天明元丑とし中の芝居春狂言也、前巻にもいへる世界寄をしてより脚色[しくみ]にかかり、筆稿出来上り一座を寄て本読をする迄に、首領[ざがしら]と立物[たてもの]一両輩には、内読とて惣座中に聞さぬ先に密に読聞す事也、その上役者の差繰をして改め一場〳〵に出る役者を寄せ、楽屋三階にて披講するを本読といふ、此内読の時、尾上新七〔南部屋芙雀後尾上鯉三郎〕の役は多賀大将・安田庄司と二役にて、鳥井又助・谷沢頼母の二役は嵐吉三郎〔元祖里環〕也、此又助の役と多賀大将と二役を早替りにして見たきものと、亀助へ所望せしゆゑ、谷沢頼母・安田庄司を里環に役を割替たれば、元より聞込し役と違ふゆゑ、此芝居を退座しければ、芙雀心のまゞになり、右二役を三保木儀左衛門〔始富士松三十郎俳名素桐〕出勤して、大将・又助の二役は芙雀が当り狂言とは成けり、望月長玄に山村儀右衛門〔俳名五斗〕、加賀の千代に山下金作〔俳名里虹〕何れも評よく、旧冬より始三月中旬[なかごろ]まで打続き繁昌しける、此後廿一ヶ年たち享和元酉年やはり中の芝居にて二の替に、故郷錦〔鏡山草履打〕と廓写本と類聚にして接合[つぎあはせ]北国梅と外題を付、望月源蔵・局岩藤に片岡仁左衛門、中老尾上に沢村国太郎、召使お初に〔江戸上り〕松本よね三、多賀大将・安田庄司に尾上鯉三郎、谷沢頼母・鳥井又助に嵐吉三郎〔二代目璃寛〕にさせたり、璃寛此又助役は中々我々が勤る役にあらずと達て辞退に及し時、芙雀以前の時はか様〳〵にて誠は先里環にて書し狂言なり、我その役のして見たく先里環を落して〔楽屋方言に退座させるを落すといふ〕又助の役を奪取り幸ひにして評よかりしかど、作者亀助始より里環と見こみ書たる故、里環ならでは勤がたし、今老衰して猶更こなせず、親里環への言訳に今の璃寛へ此役をかへせば、親の役と思ひ勤られよ、爰はかうせよ此間はかくすべしなど教へしまゝ、璃寛此役を勤る所、親里環の悌有て芙雀より遙に評よく、切腹の跡にて此身の運の筑間川との長詞[せりふ]は今に残れり、都て新狂言は役者を見込で書ものなれば再三返してする時は役と役者に足不足ありて、いかなる当狂言にても始ての折よりは劣る物と知るべし、此後又十八年目に中の芝居にて文政元寅年二の替り、望月源蔵・安田庄司に市川蝦十郎〔始市川市蔵俳名新舛〕、加賀の千代嵐小六〔始叶眠子俳名紫朝〕、多賀大将・鳥井又助に嵐吉三郎勤めし時も大当りにて、其時予に此物語をしけるゆゑ爰に出す、此余の役者も又助をすれ共二代目璃寛には及ぶべからず、因に云加賀見山は草履打と茶坊主の立身せしと二種あつて本文はよく人の知る所也、鏡山と云より江州多賀の名をかり、望月長玄後左衛門と名乗より、安田庄司友治の名をかりしは謡曲の望月を題にし、多賀の大将は加賀の宰相のもぢり、菊酒屋加賀の千代など名を集め世界は足利に仮しは是亀助が作意の功[いさを]なりけり
奈河七五三助は亀助が高弟也、此人天明より文化の末まで永く此道に染ながら、多くは院本を訳文[きりはめ]し物或は古狂言を添削するのみにて一部の趣向立たるもの少し、それ故戯場者流より洗濯物の七五三助と異名を付たり、然れ共著せし奇伝は■*11礎花大樹[めいしよのいしづへはなのこのした]、木下藤吉に市川団蔵〔今の団蔵が親なり〕、山口九郎治郎に浅尾為十郎〔浅尾奥山〕鎗の長短の試合を見せ、寛政四子年角[かど]の芝居にて古今の大当りを取たり、続て三の替りに其後日狂言と色競続箭戦[いろくらべのちのやあはせ]を出す、江戸尾上松助〔今の菊五郎が父松、綠化ものゝ名人〕に南巌寺の伴天連鏡[ばてれんかがみ]に人面[ひとのかほ]を写せば馬に見ゆる、木下藤吉の妻に芳沢いろは〔俳名巴江〕菊の枝を折り鏡に照せばやはり馬の容[すがた]に写るより、伴天連の謀逆をあらはす場を書たれ共、二の替とは見劣りして興行日も暫にて有しと、又寛政元酉年中の二の替にけいせい北国曙[こしぢのあけぼの]、世界は比良ケ嶽大徳寺の焼香など綴、世話場にて美濃と近江寝物語の場、堀尾小助に山村儀右衛門、免受勝助に叶雛助〔後嵐小六、世に小六玉と云〕、幕切本名は今川四郎義国にて関帝堂へ隠幻術にて関羽の容と変じ青龍刀を携へ花道へ糶[せり]上る、此幕大に利[きゝ]たり〔きくとは楽屋方言にて大当りをいふ〕、因に云、叶雛助は先嵐小六〔若女形のみせしもの〕の忰にて、始娘形より女形を勤しが所作に妙を得しうへ後殊の外肥満なれば、安永二巳の春けいせい花画合に始て小栗宗丹〔総髪長袖の実悪〕の役をせしが、もと女形なるゆゑ生温[なまぬる]しとて甚不評にてありしを、追々実悪色敵の役をせしかば後々には立役の逸人とはなり、右に云、北国曙の中入にて雛助柴田の奥方小谷の方秦の文花才に山村五登〔儀右衛門のこと也〕小谷の城落城にのぞみ郭公の一声に辞世を詠自害する段あり、此時雛助二役柴田勝重の切首を卓の上に置、文花才焼香する内は雛助は奈落〔ぶたいの下を云ふ〕より本首を出す、此の頃珉獅〔雛助が俳名〕首領[たてもの]にて威勢尤強く家僕金剛〔役者の下使の僕をいふ〕を責つかふ事の甚しきを恨み、奈落より珉獅の腰・膝或は脇の下を擽[くすぐ]りければ、来看者に頭[かしら]を見せ身体自由ならざれば悶苦しみ、漸く其場を勤、幕しまりければ楽屋に入て誰なればかゝる転合[いたづら]をせしぞと詈し時、僕金剛等詞を揃へて我々なりと名乗り、かれ是いはゞ、打擲も仕兼まじき体也、その時珉獅僕一人に金壱円[いちりやう]宛つかはし、召使の其方等がかく憎む程なれば嘸楽屋内にても我を憎むらん、けふの悪戯[いたづら]は我身の為にはよき異見也とて咎もせず免しけり、是より珉獅は玉じや、性根が違ふ親小六増りの玉也と賞しより、後改名して嵐小六となる〔又小七共いふ〕、小六玉と呼しは此狂言の時よりして也、扨此北国曙の三の替に七五三助書し大振袖粧湖[けはひのみづうみ]の世界は『太平碁軍伝』〔石田関ヶ原の書、写本六十巻あり〕を近江源氏に仮りて、北条時政に山村儀右衛門、石田為久に叶雛助、宇治の方に山下金作〔天王寺屋里虹といふ〕、序切和田義盛を始諸大名石田を憎み悪口の条に、石田は先君頼朝公に諂ひ宇治の方に出頭して威勢を張る、宇治の方の光を仮ば蛍大名也との詞あり、後時政和諭[あつかひ]をして舘へかへる、跡に諸大名と石田云合せの争論にて北条を欺く計略也との詞ありて、今に北条を亡し実朝公の世にすべし石田どのと声を揃へて云を、石田おさへて謀は密也〳〵との幕也、是は『碁軍伝』にて今もよく知つたる蛍大名又石田の密なりを潤色したるにて来賓の嬉しがる物也、此類誰々の作にも多し、奥にも解べし、此大振袖の三つ目に佐々木義秀に雛助、九度山に隠れ真田を織総領佐々木盛綱に中村京十郎、弟高綱に中村十蔵〔雛助忰小珉子のこと、〕兄は放埓にて勘気を受け詫に事よせ時政方に味方させんとする、弟は実朝方に仕ヘ軍術を農業に寄て習ふ、義秀妻微妙に山下金作、微妙の弟源次広綱に坂東岩五郎〔坂東寿太郎の親〕懐に短刀を隠し刺客に入込折節、家普請に壁の上塗の土こぼれ広綱にかかり、着物を着替させんとする時短刀を落すなど悉く軍記に倣へり、其後蝶花形名歌島台の院本は是を種としたるもの也、此狂言の時、時政と佐々木遠見にて子役二人立廻り有、時政の役は加賀屋福之助〔後中村歌右衛門梅玉のことなり〕、佐々木の役は叶春之助〔女形叶珉子小六のこと也〕、高綱をせし中村十蔵も秀次郎〔小珉獅幼名〕改名して子役上りの時也、栴檀は嫩より芳とかゝる名人役者の中に育ぬれば後々各名を 得たる俳優になるべき筈なり、当時の役者は修行もせず誰もゆるさぬ立物多くてうるさし
■*11
操浄瑠璃も昔は一人の作なりしが、中古より三人或は五人の作者場割とて合作する事に成り、太夫三絃[さみせん]も一座に多く成しより、五段続にては役人余り休座[あきて]の者あるがゆゑ、一の谷の三の切、妹脊山の三四、桂川の下などと見取浄瑠璃にて一座の場割出来る事とはなりぬ、何なり共通し狂言にてする事稀になりしは、素人が座鋪浄瑠璃と同じく此道衰へし物か、往古受領せし名太夫は口中切などゝ一場を割事なく、幕明より段切まで語りしを名人とも上手とも賞たりしを、中古悪声の太夫工夫を凝し、旦・末、浄、丑と老若の声を分け語出せしを、始の内は不評にて有しが追々と人気に叶ひ、今にてはいかなる美声妙音にても声の替らぬ時は駄曲といやしめ、微声小音にても言語のかはるを名人上手といふ事にはなりぬ、役者も昔は立役は立役計り、女形はいつも女形のみをして、今時招看板に〔実悪立役〕と書或ひは〔立役女形〕と書、甚しきは兼るなど書を是とする事とはなりけり、昔は敵役をするものは憎るゝ役なれば、建敵となれば外に役を取ず、いか程不座の時にても立役より女形をする事なし、譬はゞ色情[いろごと]の狂言にても元男子艶冶郎なれば実情移らぬものゆゑ、幼少より女の容にて育ちて成長後傾城にせよ娘にせよ出たては実の女より情を深くせずんば、濡事師と口舌痴話の時来賓に情移らず、往古水木辰之助と云女形は旦の名人にて男子なれ共月水[つきのさわり]を覚えしと云事『菖蒲艸』に出たり〔初代芳沢あやめ女形の心得を書たる書也〕、当時立役良もすれば旦娘形を勤るは何ぞや、世俗に餅は餅屋といへる如く、一道ならで妙は得がたし、前幕まで尻をからげ切合刎合[はねあい]などせし者が、野良帽子を当[あて]振袖を着たりとて色絵〔作者方言にいろ事の事をいろゑと云〕の情通じ兼、観的[けんぶつ]に気を悪くさせるなど絶てなし、今時何の役にてもよく仕こなす調法役者の所謂多芸は君子の恥る所にて、立役にても女形にても一つの妙さへ得ぬは、商人にていはゞ幾商売もする万屋なるべし、初代尾上菊五郎忠臣蔵にてとなせをすべき女形なかりし故、由良之助ととなせ二役勤しより此方仕来りとなり、浄瑠璃太夫は古竹本政太夫〔世に塩町といふ〕より言語[せりふ]を語り分[わけ]行儀作法も今の如く崩れし也と見聞識者の老人予が幼き頃話されしが、さも有るべき事ながら、今浄瑠璃を何にても一色歌舞妓も立役より外せぬ事とならば益下手也と誹るべし、移り行世の流行は是非なしと云ふべし
享和・文化の年間に豊竹麓太夫が大当りせし浄るりは蝶花形と絵本太功記・八陣守護城等也、此作者は長町河四郎といへる宿屋〔分銅河内屋といふ〕の主也人、七五三助と熟魂にて古浄瑠璃を能記憶して、そこ爰添削して若竹笛躬・中村魚眼・近松柳等に筆を採せり、麓太夫はいつも本読の席へは我女房を連行聞する事例也、段切まで本読仕舞ふ時は麓太夫女房の顔を見らるゝ時、女房には浄瑠璃の文談に聞入、愁を催し泣顔なれば即座に狂言納めらる、女房さまで愁傷にもあらぬ時は今少し作有べしとて断[ことはら]るゝと也、此内儀は遉[さすが]太夫に連添ふだけにや、詞容[ことばかたち]もやさがたにて至極涙脆き人にて、太功記尼が崎の場ならば重次郎の討死、初菊が愁を聞嘸かし母子や〔光秀妻操のこと〕婆御前〔老母皐月〕の悲しさ思ひやらるゝなど、我子や孫に死別れたらん様にくり言をいひ出大声を上て泣るゝ事也、麓太夫のいふ、世に女程さらでもなき事に泣たり笑うたりする物はあらじ、其女が泣ぬ浄瑠璃なればいか程上手に語共詮なし、夫ゆゑ語る我より先へ女房に聞せて試る也と申されし、名人と呼るゝ人は又一見識あるもの也、さればこそ一部の趣向はともかくも太功記の尼が崎の文句に「軍の門出にくれ〴〵もお諌申た其時に」、又蝶花形の八ツ目の文句に「姉はよろこぶ妹は手おひにすがり」など三歳の嬰子までが口唱むは是みな鍋屋が功也〔麓太夫家名也〕、往古山中平九郎が工夫をこらせし鬼女の姿に女房が見て気を失ひしも事こそかはれ同日の論ともいふべきか、何芸にても故人には一の妙あり
奈河篤助〔後奈河一洗又一泉とも云〕東都に一洗堂、帰阪して奈河亀助と呼び又金亀堂とも呼べり、もと泉州一向宗派の僧なりしが還俗して浪華に来て、七五三助が弟子と成り狂言方より取上り、老後洛東山真葛原に茶店を開き一服一泉といふ、天保十三寅年二月三日行年七十九にて歿しぬ、法号釈達応とあり、此人著せし狂言は復讐高音皷[たかねたいこ]〔曲亭馬琴作『三国一夜物語』〕・けいせい薺佳節[なづなのせつく]大切鴛鴦の景事〔浪花歌右衛門いろは、京三五郎友吉、江戸坂彦大吉〕・けいせい品評林〔山東京伝の作『稲妻表紙』〕、東都にて台頭緑色幕[だいがしらみどりのいろまく]〔三勝半七の母岩井半四郎七と治部右衛門中村歌右衛門〕早替り狂言けいせい繁夜語[しげ〳〵やは]等也、此人一日の趣向放曠[やりはなし]にして狂言を手広に書、首尾調はぬ事多し、初め七五三助より十九助と名をもらひ後篤助と文字を書替たり、頭の髪真赤なる故仇名を猩々の篤助といふ、一洗といふ名は故中村歌右衛門〔加賀屋歌七といふ加州金沢の浪人、梅玉が実父〕の俳名也、文化五辰年中村歌右衛門〔俳名芝翫〕江戸表へ行、同七午年篤助を浪華より呼び一洗の俳名を譲れり、同十酉年芝翫とおなじく浪華に帰り一両年立て一洗の作意当時の人気にかなはざりけるにや評よからず、依て七五三助が師亀助の名を継ぎ二代目亀助と成けり、是より芝翫と絶交して一洗の名をかへし、京友[けうとも]の抱作者〔京友は浜芝居の仕打、若太夫又は大西芝居等也〕となり名を金亀堂一泉と更め浜芝居の作者と成て果けり、此人本読の名人にて披講の間にて一座中の顔色を詠て正本を空読して、さも面白くよき役のように読がゆゑに俳優者手を打て納る〔狂言納る時は一座手を打祝ふ〕、後書抜をとればさまでよき役にもあらぬゆゑ、又一洗に欺されしと詃詢[つぶやく]もをかし、是を楽屋の方言に読生ると云、面白き狂言にても愚字[ぐじ]〳〵と読時は聞人退屈して眠出る、是を読殺すといひて甚忌嫌ふ事也、奈河の祖亀助も甚能弁者にて本読の名人也、前の条に叙る如く亀助威勢を振ひしゆゑ役者一両輩拒て休座せし事あり、是を楽屋詞に浪人といふ也、亀助は是に屈せず座敷〳〵へ鳴物囃子を連れ行き、戯場狂言正本講釈とて見台にかゝり院本[ぜうるり]の素語をする如くせしとぞ、奈河一泉も亀助の跡を追ひ妙を得たるが、芝翫と絶交の後京師に於て芝居狂言の正本講釈を座敷〳〵へ請招[せうだい]せられて披講せし事あり、此人『作意編』と号して著作道の一二を書し草稿を先年予に見せし事有、此中に或人一泉に云て曰、何ぞ新しく面白き趣向ありや、一泉無しと答ふ、難じて曰、作者にして趣向無しとは如何、一泉答ていふ、狂言は役者にあり、譬はゞ千金を求るもの千両の力あり、百両を与ふるものは百金の術あり、種々と並べ此一座にて趣向は如何と問ば、一昼夜勘考せば王代・御家・世話と各二番づゝ都合八組の趣向を立談話すべし、又曰、年々歳々狂言ならざるはなし【異本 書尽して新奇の趣向あるまじと、一泉曰、天地の間は森羅万象一として狂言ならざるなし】大千世界一戯場量うすく才微にして書得ざるは己が罪也、国土あらん限りは狂言もまた尽ること有べからずといへば彼人諾して去ると有、実に此辞の通り、生肴四五種も持来つて料理人に見せなば庖丁にかけいかなる会席料理にても出来るべし、魚は鯛か鱧か見合に遣ふべしなど有ては料理献立定らぬと同じく、狂言の料理には生魚精物の役者と取交、是々を吸物是を取肴と俎の机にかゝり加減塩梅のある事なれば、軽卒に庖丁の筆はつかひ難しと予も毎度話して笑ひぬ
奈河晴助後豊晴助は元京師の産にて宮島屋嘉兵衛と呼で素人俄狂言の作を好み、此門に入て一泉の門人となり京道場因幡薬師芝居の狂言を書き居しを、予が父浪華へ呼下嵐吉三郎〔二代目璃寛〕の狂言のみを書り、狂言の筋さら〳〵として能解[わか]れど世界狭くて〔狂言の筋狭きをいふ〕端手になくいつも九月狂言の如し、然共嵐吉三郎〔璃寛〕・嵐小六・浅尾工左衛門〔金田屋鬼丸〕など何れも老練なるがゆゑ、自然と移りよく狂言を仕生ること多ければ狂言今に残れり、〔女夫池駒か池〕敵討羲恋柵[かたきうちちかひのしがらみ]是は写本にては『雲水録』、絵本にては『若葉栄』[わかばのさかへ]とて二種あるを脚色[しくみ]しもの也、〔出村進平玉屋真平〕越前三国夫婦墳(是も写本に有)、〔那智山御利生〕敵討浦朝霧[うらのあさぎり]【異本 これは尾張伝内を小割伝内とし明石を網干とし世に説経チヨンガレにかたる女盗賊と巡礼殺しを寄せたるものにて大当りを取る】、遠州潟恋賊[こひのしらなみ]は日本駄右衛門の狂言なり、此頃遠州浜松侯に雑説ありしを取組、月本円秋に浅尾勇次郎〔後に改名して実川額十郎〕、玉島逸当に浅尾工左衛門、牙の於才に嵐小六〔俳名紫朝後湖鹿〕、日本駄右衛門に嵐吉三郎、中入にて、敵役の諸士円秋に向ひ悪口の条に密夫[まをとこ]府君[だいめう]、井の内の蛙侍向後は井の内蛙の守と名をかへさつしやれとあるは、前に云七五三助が石田を螢大名といふに同じく、作者が腹稿にもあらず一時の筆拍子より出るものなり、此外に又けいせい筑紫■*01[つくしのつまごと]一名を朝顔とよび、晴助の名にしあれど、こは故人芝屋芝叟が長話にて稗史にあるを近松徳叟が作れり、娘深雪〔後盲人となりあさがほといふ〕を勤る女形なきゆゑ遺稿なりしを、沢村田之助〔俳名曙山、宗十郎忰〕江戸よりかへりし当座にさせ當りを取しなり、中山由男[よしを]〔始一徳大弥と云〕叶珉子〔右にいふ小六、又子鹿とも〕等は琴三絃をひかず、田之助は三曲ともによく弾がゆゑなり、晴助終始多病の上二代目璃寛〔嵐橘三郎と改名す、俳名はじめ李冠ともいふ〕は文政四巳年九月廿六日に死しければ【異本 奈河の苗字を改めて豊晴助と更へ】晴助も中村歌右衛門〔作名金沢龍玉といふ〕に助作せしが、けいせい染分手綱三幕目頓々の場は晴助なり、是は江戸市山七蔵といへる役者が話にて、ある豪家の娘色男との忍路に裏の切戸口にて足駄をとん〳〵と鳴すを合図に切戸を明忍び込[こま]す約束あり、折節其夜雪降けるゆゑ、近辺の者軒伝ひに来て、足駄に雪の挾りければ露路口にてとん〳〵と敲きけり、内には合図と心得其ものゝ手を取咡きなどして娘は寝所へ連行しと云間違の話なり、都て狂言の種はか様なる思ひかけぬ事を佳とす、市山が話又外にあり、此奥に出すべし、爰に笑談あり、さきにいふ篤助の一泉は七五三助が弟子なれ共後には亀助が門人なりといふ、晴助は一泉が弟子なれど七五三助が門人なりと云しは、各其作意に倣ふて言ふもの成べし、肇巻に演る也有翁の確言思ひ出て予は笑ひぬ、七五三助の門人に奈河十八助[とはすけ]〔是は文化中浜芝居作者也〕奈河九二助〔是は歌舞妓狂言方〕と云有り、其余奈河の苗字を名乗るもの数多あれど挙るに足らず
■*01
芝屋勝助は芝叟とも又司馬叟とも書く、享和・文化中浄るり歌舞妓の門に遊びし畸人なり、元肥前長崎の産にて母は円山の遊女にて来舶清人の胤なりとぞ、僧にあらず医にもあらず、浪華に来つて浄瑠璃を四五番著せり、箱根霊験躄仇討・新吉原瀬川仇討・太閤艶書合等なり、常に長話とて小説稗史を綴、自素人好人を寄せ一夜読切講ずる事をし、此連中を組、其社中に話の種をいふ人あれば夫を稗史に綴り、重ねての席に講じ一夜の読切とはする事なり、長話数種あり蕣[あさがほ]〔今絵本あり、熊沢が事跡〕、油〔唐の小説売油郎今油商の狂言〕、首〔島の内の名妓首のぶがことを云〕、櫛〔三光の櫛呉服屋十兵衛、郷戸亀次郎がはなし〕、狗〔佐野の経世が事跡、源藤太犬と成はなし〕此余多数あり、皆一字題にて予も此人の長話の内に瘤〔お夏清十郎が婚礼の間違〕の一話耳底に残り覚え居しを、近頃角の芝居にてけいせい浜真砂〔中村富十郎の女五右衛門狂言〕第三段目四段目に用ひ、膳所の鮒屋より三井寺にて見合して、次幕滋賀の里へ聟人の脚色に浦辻十内に浅尾工左衛門〔二代目始大谷友次〕、娘お瀧に中村富十郎〔始松江又三光〕、乳母のお松に嵐璃光〔始中村重次郎又粂太郎共云〕、聟平野屋平平[へつぺい]に中村友三〔先友三忰始もも三九と云〕、贋聟鮒屋源五郎に片岡我童〔片岡仁左衛門之養子なり〕にて古今の大当をとりし事あり、是らは役者によくはまり看客[けんぶつ]の意にもかなふがゆゑに当りも取れ共、瘤の話の筋よければ也、この芝叟にをかしき説あり、或夕暮予が方へ芝叟来つて青銅百文借くれよと乞ふ、いと易き事也とて出せしを袂に入れ湖上の雑談をせられき、愚父存命の頃にて予はまだ幼少なり、傍にて話の面白さに聞居しが愚父が曰、鳥目は何を買玉ふにやと、芝叟が曰、此程本町の曲[まがり]によき夜発[やほつ]を見たれば其魁閨[でがけ]を買はんと思へど懐中空しければ拝借したりと云つゝ空を詠、時刻もてうど夜鷹の出旬又重ねてと帰られしが、誠に錺りなき畸人なりと愚父も跡にて感じられし事あり、予も幼心に覚え居て余りをかしければ筆の序に記置ものなり
鶴屋南北は東都近来世話事作りの作者〔前にも云二番目なり〕にして此名始三代が間は半道〔道外交りを云ちやりやく也〕の役者なりしが【異本 三代の娘に聟を取る】、四代目を勝俵蔵と呼び狂言道に入て後滑稽道化場を能書、後舅の名を継ぎ鶴屋南北とて建作者とはなりけり、此人肚裏に一字の文学なけれど狂言に一流あつて入組たる出し物なれど、筋からみ合て新しくこれを気世話と称へて其頃の人気に叶ふ、其上松本幸四郎〔二代目高麗や〕、坂東三津五郎〔大和屋秀佳今は秀調が父〕、岩井半四郎〔始岩井粂三郎今の杜若がこと〕此三人の役者の呼吸をよく知り、二番目狂言を著せし事数多、中にもお染久松色読販[うきなのよみうり]〔半四郎七役なり〕・東海道四ツ谷怪談〔今の菊五郎お岩の狂言〕古今の当りを取れり、隅田川花御所染[はなのごしよぞめ]〔半四郎女清玄〕は一番の佳作にて浪花狂言にも相似たる脚色なり、其余は文章猥褻にして所謂江戸狂言とて一部の趣向立たるもの稀なれ共、近世の痴情にやかなひけん、南北風とて一時作名を高くせり、文政十二丑年霜月廿七日行年七十五にて歿せり、この人常に棺桶を狂言につかふ事を好み、棺を用ひたる狂言を見れば作者は南北也と江戸の来賓は云事なり、辞世はかねて正本仕立に拵へ摺物として野送り〔江戸にては吊ひと云〕の節是を配れり、当る寅の孟春とせしは大方春まで生きるであらうとのつもりなり
寂光門松後万歳
新群書類従p33
菩提所は本所押上春慶寺と外題
【異本、元鶴屋南北は歌舞妓役者勤むるは三代深川雲光院に印を残す、下拙其名跡を継ぎて四代作者を業とす、文盲にして愚作を著すこと五十余歳と正本の如く書けり】
本堂正面三宝祖師大菩薩文珠普賢仏前には常燈香花を備へ旛[はた]天蓋を錺り能所に棺をすへ置、施主の輩並よく並び半鐘の知らせに付、住僧・所化がた花やかに出立、葬の鳴物に成り読経始まる、実にも妙なる法華経の功力によつて娑婆の苦患をまぬがれすみやかに往生極楽
ト南北思入には、自由になるなら野辺送り被下置候各様へ御目に懸り御礼申上度候へども、黄泉[めいど]の客と相成升れば心に任せず、よつて亡者が心底一冊につゞり御出の御方様へ御覧に入奉り升る
一 南北略儀ながらせまうはムリ升れど棺の内より頭をうなだれ手足を縮め御礼申上奉り升る、先は私存生の間永々御贔屓になし下されましたる段、飛去りましたる心魂にてつし、いか計か有難い冷あせに存奉り升る、扨私事もとくより老衰に及び升れば、皆々様の御機嫌をも損はぬ内早う冥途へ赴けと、是まで度々仏菩薩の霊夢を蒙り升れど、流石は凡夫の浅猿しさに、達て辞退仕升れど定業はもだしがたく、是非なく彼地へ赴き升れば、誠に是が此世のお名残いまはの際の死おくれ、万歳太夫才若兼まして、亡者の私舞納升る間、いく万々歳御長久の各檬御宗体の御回向の程、庫裏からすみ迄偏に奉希上升
ト是を聞て施主の人々、扨は仏に魔がさしたか、但しはよみじがへりしかと顔見合せて思入、此時住僧棺のそばに立より合掌して
一 住僧得入無上道速[どうさく]成就仏身南無妙法蓮華経
ト松明をもつてぽン〳〵とうてば棺砕けて内より南北額にごましほをあて経帷子にて桶ぞこをポン〳〵とうち鳴らし
一南「徳若に御りんぢうとは御家も戸ざしてましんますイヤ「葬礼ありける新仏の年寄親仁の火葬にはイヤ「しらんがあたまへごましほをハリヤノイヤ「末期の水を口に含んで樒の花をば手に持てイヤ「あら玉のやうなる涙をこぼしてイヤ「御客殿の御位牌堂に戒名並べて見てあればイヤ「常香盤の煙の中に白銀の剣の山をつかせけるイヤ「四十九日の餅をば喰んと烏が大ぶん舞遊ぶイヤ「住持と所化たちつらりやつんとおならびなされて引導お経始りけるは誠に悲しう葬ひけるイヤ「京の三十三間堂仏の数が三万三千三百三十三体あると申が誠にさやうでムるかのう「是なるお寺のゆかん場なんどは竹田の番匠飛弾ンの内匠が立たる所のゆかんばにて一本の卒塔婆が一仏一体誠に因果の守[まも]り神、二本のそとばが人面獣心、三本のそうとばはおんば三途の川原に譬へンたり、四本のそとばで死かね申せば、五本のそとばでごほりや〳〵と痰が手伝ひ、六本のそとばが六字の名号、七本のそとばが七字の題目、八本のそとばが八苦のくるしみ、九本のそとばが苦痛のお仕舞、十本のそとばでじゞいがとふ〴〵ごねられけるは誠にめでたうなられんける「ウンといふてたえられける是からそろ〳〵万歳「ハア万歳〳〵ヤレ万歳「さつても是からみんどもらが「才蔵なんどもほろりやほろりほつと泣つ笑ひつおくやみ申せばのうヤレのう「旦那寺へ当年のゑほから新仏がまゐる「さらりやさつとまゐる「ホホヤレまゐる「とんしの仏がまゐる「とんしと申せばわれらもとんしだ「なんで又とんしだ「ぽつくりごねたとんしだ「とんし〳〵〳〵〳〵エヽホホヤレとんし「穴ほりの三助なんどはかなてこやつるツぱしをおんがらかいてふつくりした餅のようなつゆ沢山な所をばかつぽじつてまゐらう「アアまゐらう「かよう申みんどもなんどはむつく起に雑煮なんどをその椀へ五六ぱいもかつくらつちやア餅がのどへつまつてギツクリ〳〵〳〵〳〵ぎくついてやアとんし〳〵〳〵「とんしとん病よい〳〵病で未来成仏なさしめ玉へ「百千万の御回向を皆様願ひ上升
ト舞納る、此時家主羽織袴にて施主大勢を引連
一家主「遠方の所御苦労様にムり升、御銘々様へ上り升る筈の所、是にてお礼申上升、万歳も相済升てムり升れば御勝手次第に御かへり被下升せ
ト葬礼打だし
文政十二己丑歳霜月廿七日行年七十五先祖代々叶俗名鶴屋南北
右は小杉原五枚の綴物とし存生中拵置しと也、余り洒落たる物故爰に出す、南北が忰に幼名阪東鯛蔵〔阪東彦三郎薪水の弟子〕後に阪東鶴十郎役者を止め直江屋十兵衛とて作名は出さね共、南北の狂言を能呑込て遺稿を綴り抔せしが続て故人と成けり、是も東都の名物男なりけらし
【異本、此忰孫太郎は幼名丑左衛門とて役者なりしが祖父の名を継ぎ南北とはなりけり、祖父南北門人に槌井兵七〔後に増山金八と改む〕、勝周蔵〔後勝井源八と云ふ〕、花笠魯助〔文京と云ふ〕、高麗金助等あり、南北の話残るは後帙に出す
並木宗助・並木丈助・並木永助とて三人とも浄瑠璃東ものゝ作者なり〔所謂豊竹〕、此後歌舞妓作者並木正三より並木五瓶へ伝はれり、其祖宗助は享保十二年安田蛙文と共に著せし院本数多、中にも清和源氏十五段〔大切山伏せつたい〕・摂津国長柄人柱・和田合戦女舞鶴・釜淵双級巴、寛延年間に死し遺稿名残の作は一谷嫩軍記也、並木丈すけが作は那須与市西海硯・苅萱桑門筑紫𨏍・容競出入湊[すがたくらべでいりのみなと]・東鑑御狩巻・摂州渡辺橋供養・八重霞浪花浜荻等なり、何れも不易の狂言ながら此八重霞は【異本 今に専ら流行せし中にも此浜荻は】寛延二巳年三月十八日天満砂原の兄殺しかしくの引廻しと、長ほり問屋橋材もく屋浜にて大工と南新やしきの女郎が情死と、神崎の渉し場の喧嘩と此三ツ同日の事なりしをすぐに作して、廿日に外題を出し、廿六日に初日を出せし所、古今の大当をとり同年七月末迄打通せしも、此三ツの咄は別々にて由縁もなきをひとつ狂言に著せしは並木丈助が手抦と云べし、因に云かしくが引廻しの時永々の牢舎にて色は透通る計白きうへ髪の艶よくうるはしく、誠に胡国に嫁す王照君の容もかくやと惜まぬ者はなかりしとぞ、此頃は科人落着の日はひとつの願ひは御聞届ある事にて、何にまれ好べしとありし時、油揚を三枚計望しゆゑ食する事と心得求あたへられしを、かしく戴取透上髪の上へかの揚豆腐の油を絞り付しゆゑ、色光沢[つや]よく今死する身にいらぬ事乍ら、女の身だしなみなりしとぞ云しを皆人聞て感ぜしとぞ、天満神明前にかしく寺とて辞世の印せし石碑あり、又南新屋敷の女郎お園といへるは、今云素湯具[しろゆもじ]の如く価の安き売女也、大工の穴彫なんど馴染なればさもあるべし、故に「是も流の島の内花珍らしき」との文句あり、福清の女房於梶が異見の詞にも、病気本復したれば郡内縞に紅[もみ]の一陽裏を着せて開帳参りに連行うなど、尤価の安き売女とはいへ其頃の質素なる事思ひやるべし、此浄瑠璃に限らず都て此頃は心中情死のある時は、一夜付とて日数十日も立ば操浄るりに取立し上【異本 板元より売出すこと也】、書林の店にて番頭・手代、丁稚を始、板摺工・表紙屋の職人まで手伝ひて本渡とて入口に丸太囲ひにて木戸を拵へ、何百冊何十冊と印せし切手を前に渡し置しを持来れば、かの木戸口より一人づゝ入取渡しにする事也、今時の如く画本の赤本のと諸処より売出す事なければ、買流行見はやらす事おびたゞしく、尤価も安ければ院本を好めるものも、ついに芝居など見ぬ者迄も一冊は買うて見し物と聞り、今書林に新本を拵らへ一部の手本の製出来たる折は杉原紙二つ折にして水引にて綴、価何程と書、部数沢山に求呉よと仲間をあるく、是を入銀帳と云又入銀にあるくともいふ、此訳解せず、こは右丸本売出しの時先に手本一冊をもて仲間へ披露の時、此方へは何十部求むるとて其代銀を先へ板元へ渡す、板元よりは切手を置かへり、来る幾日本渡也とてかへる、是ゆゑこの帳を入銀帳とも入銀にあるく共云し也、今は入銀は扨置延銀にても余計には売れぬ事とはなりぬ、いかにとならば愚作の書物に価高く諸処より出板する本の多ければ也、其頃予が家に出板せし入銀帳を近頃見出し発明せしゆゑ因にしるし置きぬ、並木永助が著せしは相馬太郎莩文談[みばへのもんだん]・天智天皇刈穂庵・岸姫松轡鑑等、豊竹千落・豊竹応律等と同作名を出せり、是は宝暦年間の事也、此東ものとは前にいふ豊竹座の通号也、西物〔所謂竹本〕にも並木千柳、是はもと田中千柳とて享保年間は西沢に随がひ東ものゝ作者なりしが元文・寛保には竹田出雲掾弟小出雲と共に竹本座の作者となり並木と改めけり
【異本、竹田小出雲が作も又少なからず、〔時代世話〕新薄雪物語・軍法富士見西行・日高川入相花王・夏祭難波鑑等なり、三好松洛・並木千柳・長谷川千四等は千前軒が門子なり】
扨丈助、氷助は浄瑠璃のみにもあらず歌舞妓の狂言も書、並木翁助・並木十助・並木利助等の門人あり
並木正三は道頓堀宗右衛門町に住高砂屋平左衛門といへる菓子屋にて年古く住町人也、若き比より戯場を好み並木宗助に入門して歌翻妓狂言を数多著せり、霧太郎天狗酒醼[さかもり]・けいせい天羽衣・〔きのにのやのはのもの〕桑名屋徳蔵入船話・三千世界商往来[やりくりわうらい]・日本第一和布苅神事[めかりのじんじ]・三拾石艠始[よふねのはじまり]等なり、和布苅神事を名残の作として安永二巳の年歿しぬ、墳墓は法善寺中に南無三宝正三が墓と碑に彫刻せり、作者道に訳文[はめもの]とて古作の狂言を遣ふ事あり、和歌は詞の古きを用ひて心を新しくせよと定家卿も教へ玉へりと聞り、狂言は此うらうへにて心の古きを詞あたらしくするをはめ物といふ、並木正三が卅石の神道源八・関口平太は浄るりの双蝶々のぬれ髪と放駒に上下を着せたる也と語りしと也、筆力なくては出来ざる活用実に奇才といふべし、近来のはめ物は趣向・仕組・詞付其侭にて役者の名付ばかりを改たるは切継敷写しともいはんか、恥べき事の甚しきといふべし、正三生涯に当狂言も多けれど世に名高きは宿無団七時雨傘〔一名岩井風呂〕の狂言にて団七茂兵衛に異見の間、沢村国太郎〔此頃ハ娘形〕、嵐三五郎〔是もようやく二枚目やつし〕両人狂言の相談に来るゆゑ七十余年先の故人乍ら拘欄好[しばいずき〕の女童にまで名を知らるゝ事也、是は明和五子年八月廿二日道頓堀太左衛門橋北詰【異本 岩井風呂利助抱女郎富と食客佐助といふ者色情より事起り、主利助を殺せしを此実説委しく予が著述『讃仏乗』にあり之を略す】の床に茂兵衛といへる毛剃女郎富を殺せしを、翌日若太夫の芝居にて急作の一夜付にて、敵役者中山卯八といふものその茂兵衛【異本 佐助に作る】に面体格好のよく似たれば、則卯八に茂兵衛をさせ【異本 元堺の者ゆゑ夏祭の団七九郎兵衛の名を仮り】大当を取し也、尤岩井風呂の狂言は比翼鳥部山〔小菊半兵衛永楽や孫太郎〕の古き狂言の名前、或は阿弥陀池の開帳場を堺の魚市場に直し抔して前に云訳[はめ]物也、是等をはめものの中にても活取[いけどり]と唱へ浜芝居の作者の仕事にて並木正三の作にあらず、夫ゆゑ始て此狂言を出せし時には高砂屋平左衛門と正本にも書、道具の錺付も菓子屋暖簾などかけあり、宗右衛門町の年寄を勤、作者にもあり太左衛門橋近所のことなれば幸ひにしてつかひしものなれど正三は甚迷惑がられし由所の老人に聞り、明和七寅六月中の芝居にても此狂言を出し、高砂屋平左衛門を並木正三と作名を直せしは正三歿後寛政二戌年五月角の芝居にて中山来助〔二代目也始中山猪八後二代目中山文七鬢付屋と云〕勤めし時なり、以前は近辺にてありし事にても直に一夜付とて構はず狂言にせし事也、後々は芝居にしらるゝを名聞に心中情死などする族あるゆゑ、風義悪敷なり行とて御差とめなされしと也、二代目並木正三は寛政五六年頃中の芝居前茶屋の主正三の名をつぎ、享和・文化の始迄に並木五瓶・近松徳三・辰岡万作らと共に此道に遊しかども一部の趣向立たる物を見ず、唯古き狂言知りにてこれを正三隠居と呼びなしけり、並木十輔も明和中に著せし狂言はけいせい陸[むつの]玉川・天竺徳兵衛聞書往来・敵討巌流島〔宮本武者之助佐々木巌流〕等也、安永に至つては並木五瓶が助作せられけり、
並木五瓶は天明・寛政中の作者にて始並木吾八といふ、狂言著作数百番かぞへ挙るに尽ざれ共名高きをのみ爰に出す、鍋祀[なべまつり]貞婦競・日本花赤城塩竃・金門五山桐・掉歌木津川八景・袖簿播州巡[そでにつきばんしうめぐり]・帰命曲輪■*02[あなかしこくるはぶんしよう]・けいせい黄金鯱[しやちほこ]・けいせい忍術池[しのばずのいけ]・けいせい倭荘子・入間詞・大名賢儀・天満宮菜種御供・けいせい飛馬始・けいせい蕗島台・けいせい誰伏水[たれとふしみ]・平井権八吉原街[がよひ]・島巡戯聞書[うそのきゝがき]、此狂言の三段目迄は琉球の狂言にて【異本、島津琉球攻を潤色】させる面白みもなかりしが、四ツ目より今三都にて専出る五大力恋緘これ也、古今珍らしき大当りを取り寛政六寅年より江戸表へ趣きかの地にても春狂言に二番目を仕始しは此人の功にして〔上の巻に委し〕、寛政十一未年に浪華に帰り沢村宗十郎同道にて傀雛儡浅妻船、源平柱礎暦[はしらごよみ]、隅田春妓女容性を著し、嵐助〔嵐小六玉躮小珉子〕、沢村宗十郎同道して享和酉年に東都へ趣きかの地にても五大力恋緘〔浪花にては菊野いろは源五兵衛新七なり、江戸にては小万菊の亟源五兵衛宗十郎なり〕、金門五山桐〔五右衛門小珉子久吉宗十郎〕是等を始都て江戸狂言を京摂風に直し、又東都にて仕組し狂言の中にても隅田春〔宗十郎の梅の由兵衛〕などは浪華にても五瓶の作りなとて来賓のよろこぶこと限なし、東都にては大門通高砂町に居を構へ浅草堂と号、表を雷神門の如くに立、風薬雷除香を商ひ、門人に風治〔並木陸六〕・雷次〔高柳宗治〕と呼びしは
【異本、江戸座の俳諧を好み其比ひ付合の句に「両国の二人かむろは柳ばし」といふ句に名を高くし、どこの俳席へも出たるが至つて女好にて、其頃蔵前に青我といへる行燈掛けたる水茶屋に廿四五の女あり、毎日観音へ参詣の道此女を見染め、此店に腰をかけ朝より晩方まで半日づゝ遊ぶ、狂言方柳川忠蔵〔俳名卜賀〕之を知つて五瓶に云ふ、毎日〳〵青我の店へござつて半日づゝをられてはさつても迷惑、女は承知してお手に入りしかと尋ぬれば、五瓶の曰、まだ半日では手に入らぬ一日ついてゐねば色にはなられまいといひし跡にて、此女は月囲ひにて三分出せば一月囲はるゝといふ、其女に高料の茶代を費すなど高名の人どこにか滑稽あり】
浅草並木〔所の名なり〕雷神門による戯号なるべし、文化五辰年二月二日東都にて歿せり
【異本、元日三節の摺物に上代の宝船を写させ辱くも百敷の御寿の画を略写奉りて、歳端奈加幾代のためし始ぞ今日の春春興七種の昔のよきかな皆目さめ歳暮いさぎよき浪乗船や年の灘右辰年並木舎五瓶これを配り、其二月二日京都にて歿せり年六十二】
辞世「梅は暁我は散行如月や」日頃風交の銘々より追善の摺物出る、其内両三句を爰に出す、並木五瓶ことし百敷の御賀の宝船を摹し、是に三節の句をつかねて年礼に来る、此方へと申せどはやいぬめりと聞て奴僕を走らせけれど呼得ず、西の方さして行けるが姿も見えぬよし申す、西方へ行て姿を見失ふとはいぶかしき事よと独つぶやきけるが、十日を過ずして二月二日身まかりしと聞て、もて来る三節を今は紀念と取出し遺文感情を動かし侍る「さればこそ彼岸に至る宝船」晋子堂芳川、浅草観音の境内に碑の残りたるに「碑に朽ぬ名悲し花の陰」梅路、「梅の花足も五の字の紀念かな」丞車、「並木にも残る匂ひや夜の梅」角馬、彩雲散じやすく美器のもろきためしおしめどもすべなし「名物の並木も海苔の脆さかな」四方歌垣真顔、花飛蝶驚てなんどはいとかしこき人の見所ぞかし、いつまで草のいつまでもと五瓶の作せられし五大力もかたみとこそはなりにけれ「散る花にをしき筆とめ候かしく」俳諧堂葛呂〔中略〕釈尊の方便も並木が胸の作に及ばず「嗚呼五瓶其如月の涅槃像」松甫、「春の霜並木を鶴の林かな」如皐、並木の高き恩は我が師の如く思ひ我を又丁稚の如く思はれ常に幸三々々とのみ「呼人のなくて淋しや春の雨」譲屋、作者の心持は色々教示せられしが今朝夕に思出られて「今迄の世話狂言や土の筆」金二、いかなるすぐせのえにしにや此東に下り廿とせにたらず住居つるに此はるの始つ比より心地常ならず悩みしとて打ふさがれしが
【異本、次第〳〵におもりはべればくすしも術の尽きたるにや、余の人に見せよなんどいへる悲しさに、神にいのり仏に申せども其甲斐も見えず如月云々】
如月二日の夕と申に称名の声と共に言きれはべりぬ、いかなれば〳〵難波を去て東なる梅の盛りに散行との一句を残されしを長き別の紀念と思へば今は泪の種とぞなりける「をやみなく降るや木のめも春の雨」五瓶妻美与、終焉の枕にありて称名を勧め侍るに正念に念仏して往生疑ふべくもあらず「今迄の狂言綺語や法の花」独歩庵、同七午年春三回忌の摺物に」
【異本、菜の花の画を薪水書〔坂東彦三郎後楽善といふ〕て此如月二日は並木五瓶の三回忌なれば志の一句を示しなほ諸君のお手向を希ふのみ】
「造り物三年の間梅並木」金二、「追善やよつて世話場の山笑ふ」譲屋、亡父より年比のよしみなれば「本読か経よみ鳥を聞泪」訥子、此摺物の絵は薪水也〔坂東彦三郎〕譲屋の松井幸三は〔始名新幸後に作者となる〕
【異本、右譲屋の松井幸三は古作者金井三笑の家に松井由輔といふあり、其苗字を名乗て五瓶に随ふ、元僧落にして仏事に委し、五瓶歿後暫く建作者となれり、此門人二代目幸三〔初名新幸〕大酒を好み吉原に住て牽頭を兼師の名を穢せり
金二は篠田金治後に二代目並木五瓶となる
【異本、金二は篠田金治後に並木五瓶となる、此人本所割下水の御旗本の次男にして狂言方とはなりぬ、性質下戸にして男色を好み一畸人なり、文化八未年五月堺町にて花菖蒲佐野八橋といふ狂言にて三浦荒二郎・佐野の兵衛政経・伝逸坊三役中村歌右衛門〔後年玉助〕、秋田城之助白砂大助に坂東彦三郎、源左衛門妾玉笹・新造船橋二役沢村田之助、船橋勇助・佐野治郎左衛門に尾上松助〔今の菊五郎なり〕佐野源左衛門・紀国や文蔵・二階信濃之助三役沢村源之助〔後宗十郎となり田之助の兄なり〕、万字屋八橋・勇助女房お袖に瀬川路考〔仙女〕、作者は奈河篤助〔後一洗〕、松井幸三〔譲屋〕、大切落合秋田屋敷の場を篠田金治〔後三代目並木五瓶〕書きけるが読ども〳〵納らず三度目の本読に誰ひとりも手を打ざりければ、金治如何と案じ皆皆の顔を詠めし時、思はずプツと放屁しにけり、皆々笑を堪へんとする程猶をかしく金治も赤面しける折から、路考曰、此場は難作場にて是より仕方もあるまじ、何れも今の放屁にめんじて打升うかと発言しけるゆゑ、皆々笑ひながら手を打納めたり、金治は五瓶の弟子故放屁で狂言を納めし故、四瓶であらうと興じけり、後二代目並木となり建作者とはなりぬ、此弟子に篠田宗六今三代目並木五瓶となりけり】
訥子は沢村宗十郎なり、江戸浅草金龍山の奥山に(人丸堂の前に初代)五瓶の狂言塚あり、浪花四天王寺西門前納骨堂の前(傍に同じく五瓶の)墓碑を営て、予が父を馴染の俳優者誰彼と施主の姓名を彫刻せり、浪花に並木三四助〔吾助伯父〕・並木長蔵〔坂町茶や井筒峯〕・並木吾助〔幼名並木清造後芝洛と改名〕・並木喜多助等皆祖五瓶が門人なり、並木五瓶『戯財録』とて劇場作者の秘事を門葉に教んが為書し自筆の一小冊予秘蔵したりしを、先年槌田万造といへる狂言方に【異本 江戸狂言方槌田万造なり】貸せしが其者相果行衛しれず、本意なき事してけりと悔めど詮なし、其中に大名題に乗る俳優者は味方の大将にて、作者は座中の大軍師なり、よく指揮して座中の軍兵をつかひ、或は魚鱗鶴翼に備へを立、諸万人の観的[けんぶつ]は敵方なれば是を日々に降参させずんば有べからずとの教へ、おもしろき見立ならずや、此人に付ては笑話また種々あり、一二を爰に記す、或人五瓶に難じて曰、奈河亀助が表号は字義にかなへり、曲輪■*02の外題に足下は帰命と書て穴賢とはいかゞと、五瓶笑つて曰、狂言綺語とは是をいへり、戯場の表号は学者に見せんとにはあらず、作者に学文の心あつて金門五山桐と呼ばるべきか、我書く所は芝居の外題とは云也と答ければ、彼人感じて去る、因にいふ金門の中入に此村大炊の助本名は唐の宋蘇卿、謀逆顕れ唐土に一人の躮を残す、素友と云〔日本へ渡つて明智左馬之助、盗賊となつて石川五右衛門と名乗〕我朝へ渡つて後瀬川采女傾城花橘三人を兄弟とする事は謡曲唐船を借し物也、御当代にさしてさはる事は世界を謡曲に借るなど歌舞妓作者の用心とは爰なるべし、日本花赤城塩竃の二つめに大星力弥元服する場に力弥役嵐雛助〔小六玉〕、由良之助に尾上菊五郎、お石に花桐豊松、小浪に嵐松次郎、幕切に至つて(花道へ駈出す力弥を由良之介呼止め)矢を一本出して折らせ、数本の矢を出して一時に折らすに折れず、一本の矢は折ても数多の矢は折れまじ、敵討も徒党をせねば大敵は討れぬと教諭して、小浪と婚礼をさせ時節をまてと諌める跡にて、心変ぜぬ誓の大石と、力弥手水鉢をこぶしにて打割る、由良之助の詞にこりやちからの程を隠すが肝要と云幕なり、是大石主税を匂はせたる詞にて竹田出雲が忠臣蔵にて、浅きたくみの塩谷殿とあるも同日の論なりと知るべし、文化三四年頃江戸堺町・葺屋町出火の次第予が家へ知らせの文体に、霜月十三日夜五ツ時前両芝居ともまづ今日は是切と打出し、扨葺屋町はわけて明日が第二ばんめ落合まで残らず御覧に入申候と口上書出し、則打出し後稽古にて各楽屋中皆残り、やうやく風呂に入ものも有り又は顔を落してゐる者も有り、此時そりや火事と騒立より早く直に燃立、四つ少し過迄に両芝居残らず葭町までずいと焼出し申候、誠に近比の急火ゆゑ芝居茶や其外も中〳〵道具其外一つも残さずやきすて申候、火元かづら師音羽屋友九郎・奈河七五三助殿は右友九郎居宅土蔵造の事ゆゑ、兼々正本幷に道具類等入置申され候所、火元の事ゆゑ灰も残らず焼失扨々気の毒に御座候、扨私義痰気にて火事さい中大なやみにて道具片付候所へ行かず、折節俳諧師杉甫と申人参り合せ、道具を入る籠長持へ熊の革を敷蒲団を入、此中へ五瓶這入是を金治と右俳諧師両人にて両国橋詰までかづき参申候、勿論両人共一向に非力にて肩もきかぬ事ゆゑ息杖の才覚もなく、折節見せに有合し候金剛杖、是は私此前富士山へ登りし時杖に突し金剛杖なり、此時五瓶右長持の中にて浅草観世音を信じ観音経三遍くりかへし候内、痰も漸しづまり安堵仕候、全体さのみ大火にても無御座候、此位の火事は随分ままある事毎晩〳〵小便に起候度毎にどこにか一つ宛ある火事に御座候、され共此度は町家の建家殊に両芝居焼申候事ゆゑ、さすが繁華の地何となく大そうに聞え申候、葺屋町市村羽左衛門座来る廿一日より普請に取かゝり、則取あへず正月七日初日やはり今迄の狂言ゆゑ一座へどこへも外へいてくれなとの事に御座候、堺町中村勘三郎座急に仮ぶしんにて正月二日より興行の由、何さま芝居は随分勢ひ宜敷是のみ安堵仕候、先は取急知らせ申上候、如此御座候以上、霜月十七日西沢様並木五瓶、右手紙の外に火事場の図をくはしく書送れり、病中に近火にあひ殊に葺屋町はわが住芝居、焼失しても洒落たる文体を書送る気質の闊達なる事推てしるべし、此余にも笑話あれ共事しげけれは略しぬ
■*02
都て役者は愚痴文盲にして記臆よきを最上とする也、なま中に文才の走りし者は自己の量見にて詞を引直して作意を失ふ事多し、役者にて作者と呼ぶ者江戸にては元祖市村羽左衛門・中村伝九郎・早川伝四郎、京摂にては明和・安水の頃初代中山新九郎の忰中山来助〔俳名舎柳と呼黒谷文七兄弟なり〕家名松屋と呼び松屋来助と作名を出す事久し、近来にては金沢龍玉〔三代目歌右衛門後玉助梅玉〕・井筒一斎〔二代目百村友九郎百猪三【異本猿之助】共伯父共云〕是等は文盲なる役者なれば作意有筈はなけれど、幼稚より古名人役者のせし狂言を爰かしこ見覚ゐるを思ひ出、我役のよき事を一番に見込み容衣裳体[からだ]のあがき迄勝手によき様に書がゆゑ、狂言の趣意はわからず共華美なり〔狂言の筋をかまはず見渡し美麗なり〕、譬はゞ自分所作事を得ば狂言の中に景事様の事を書、我能弁なれば狂言のくゝりに長詞を言ひ、又小男にて小手利なれば躄ながら立廻り、或は鳥目[とりめ]を隠して詰合など【異本 或はちんば鳥目などゝ癖を拵へ】己が常々得たる事にて仕組がゆゑ、相手の女形顔役などには念頃に詞[せりふ]も付れど、我休の揚の狂言又は中通役者の詞は一向放曠[やりはなし]になるものなれば、一日の趣向は立がたきものと知るべし
【異本、女形顔役などには念頃に詞も付れど一場の内二件か三件に過ぎず、一日の趣向一場の著作は出来兼、間々は一向放曠にて首尾揃へるには作者の手に掛けずんば成りがたしと知るべし】
井筒翁〔一才の事〕字は中[ちう]芝居【異本 浜芝居とあり】の役者にて、兄百村友九郎を始、中山楯蔵・柴崎林左衛門・萩野伊太郎〔大場共云近比沢村国太郎の親なり〕等が狂言のみ覚えし事ゆゑ、振付は相応に出来れ共作者など業とせん事難し、もとより浜芝居の狂言は一切〳〵に入替り、一日通しの来賓は稀なれば、狂言一部の趣向に拘はらず、一場毎に見渡しさへ面白ければ佳とせしものなり、尤浜芝居にも古来より作者数多あれど正本を残す事もなく、是を作道にては竹田狂言とよび、佳作の狂言有ても歌舞妓につかふを恥とせしものなり、譬はゞ幕明に出たる役者奥へ這入ていつの間にかへりしやら知れず、又花道より建者役者出て茶屋場とか世話場とかへ来て、道具替り奥座敷になる時又向うより其役者出て今始て出た様なるせりふまゝ有、此余時候昼夜の差別なく重復多しゆゑに、浜宮地芝居にては新作をする共新外題を付る事を禁じ、古来の狂言の外題を借つて付る、新外題は京摂とも大歌舞妓芝居より外付る事なし、是ゆゑ正本の草稿を月番の御公儀へ差上、作者誰々興行人誰々と書、伺済で狂言を始る事なれば、軽卒には付る事能はず、今若太夫・筑後・竹田、京都にては道場〔今島原へ退たり〕・薬師〔今宮川町へ退たり〕此余浪花北の新地・堀江市の側・天満社内【異本 天満天神・御霊・座摩・稲荷社内の小屋にてもとあり】等にては新外題つくる事ならずと知るべし、其内堀江・北の新地(両座)は新作の節は上本[あげほん]をして新外題を願ふ事あり、如此作法なれば一日の趣向を新作を著さんと思ふ者は大歌舞妓にて書べし、名利の欲を捨し好人か此道に離れては口に糊する事のかなはぬ者ならば不知、世に雑俳とて冠づけ折句等に苦心するも詩歌連俳に心を砕くも同じく、竹田狂言を綴らんより一場半幕にても歌舞妓狂言に筆を採るべし、爰に作者の名は出さねども役者にて作意有しものは尾上新七なり〔南部屋芙雀後尾上鯉三郎〕、然れ共自筆を削作する事をせず、其座には作者あるゆゑ我思ひし趣向あらば作者に咄、作者の手にて狂言に作らせ、首尾して当りをとらば我手抦にて我も則作者なり、天明の始新七ふと古代の枕画〔春画共いふ、わらひ画のこと〕の巻物を贔屓よりもらひ、是より趣向うかみ〔以下数行故ありて削る〕五瓶に是をかたる、五瓶諾して世界を柿の木金助・高阪甚内を斎藤時代にさだめ、黄金鯱是なり、龍興が新七、言号の姫仮に妼関屋に国太郎、鎧びつより画巻物を出しあら方承知といへる場今に残れり【異本 人口に膾炙すとあり】、かように筋を思付けば作者を見定め書せる事なり、舞台にかけてはいか程役者の名人にても、脚色は作者ならでは前後の連続仕がたき所あり、何にもせよ我して見たき筋あらば作者に噺し綴らせ、心に叶はねば幾度も再案をさせ其上にて狂言をいだせば、後世に誰々のせし狂言とて残るもの也、我納得せざる役を付焼刃にて急稽古にする事多ければ、芝居に当りをとらず、狂言の筋通らず、詮なき事なりけらし
近来故人と成し中村玉助〔三代目中村歌右衛門始芝翫後梅玉〕は曩に篤助一洗と絶交に及し、後は自ら金沢龍玉と作名を出し金沢芝助〔始奈河十喜助〕・金沢芝洛〔後並木吾助〕・金沢一洗〔始奈河恒助といふ【異本、といへる狂言方を取立金沢の苗字を名乗らせとあり】〕此余浜松歌国〔戯作者〕といへる狂言方を用ひ諂ふものを建作者二枚目の位に昇し、我も机に直り年頃三都にて見し狂言を所々に訳文[きりはめ]、邂逅[たま〳〵]新外題を付しものもあれど大約歌舞妓院本の古狂言を少しく添削するのみにて、筆を採るものにも誰か一人一日の趣向を立る筆力者なければ、多くは寄物にて一場は龍玉自作する事にて、予にも代作を頼みし事度々有り、前にもいふ如く役者にかけては古今の名人と呼るゝ者なれど、作道にかけては一文不才にて、時代人名の新古解[わか]らず片腹痛きことまゝあれど、首領[ざがしら]の勢に閉口して諌むるものなし、予は一場の代作なれば誂の筋まかせ、草稿出来れば前後読合す時、意の違ふ事多くして始のあつらへの筋とは世界かはれり、予は此役は市川蝦十郎〔始市蔵初代なり〕と見込書しも片岡〔仁左衛門のことなり〕とかはり、国太郎〔始荻野亀吉新升が事〕と見込し遊女も松江〔後富十郎このとなり〕とかはれり、姫君の身替りを此場の眼目と見込しも、前幕に子役を殺し血しほ用だつなど重復のみ多く、こはいかにと問ば前段の趣向につき取組たり、又役者の違ひしは誰々に合ひ一時の戯に役をふりかへんと云ひし故、趣向筆意の的も狂ひ片腹痛きこと【異本 的も狂い筆も立ざれど再案して与へし事とあり】まゝ有、され共当時首領にて其余は皆門人の役者の多ければ、師の権威に推れて役も納る事なり
【異本、既に頓々の狂言本読の時、序の筋世話場へ通らずして、奈河晴助は立腹して、龍玉と刺違死んものと相口に手をかけしを予もとゞめし事あり】
然共世にいふこぼれ幸とかにて、首尾わからぬ侭にも観客よろこび相応の当りを採りし狂言も有けり、けいせい廓大門〔美濃正九郎と椀久を混ぜし狂言〕・遖傾城花大矢数〔傀儡浅妻船を種とす〕傾城百万石・天満宮花梅松桜[あいじゆのめいぼく]、此外題の付仮名あまり拙きゆゑ再度せし時、愛梅桜松[みつのごあいじゆ]と予が一直せし事あり、花雪歌清水[はなふぶきうたのきよみづ]、此外題は薄雪の類聚[よせもの]にはかなへるといふべし、天保元寅伊勢御影参の年早春に石川五右衛門の狂言をあれ是集めてけいせい雪月花と呼しは龍玉の意より出たるにあらず、始けいせい価千金と出せし所、いかに歌舞妓の外題にても千金などゝ自賞せしは聞苦し遠慮すべしと、公儀より御差留ありける、夫より龍玉種々案じ外題を三つ四つも書て伺ひし所何れも悪しく、都て外題には花烏風月とか雪月花とか花車風流に付たらば上にも障らずよかるべしと其時の御役人申されしを聞、手代・頭取かへつて龍玉に曰、今日の外題も納らず花鳥風月とか雪月花とか二つの内にすべしと仰ありしと、龍玉も上よりの指図とあるにせん方なく、花鳥風月にては四季になれば雪月花に定め済しけり、是にては外題を付し作者はその時の御役人にて、作者の付し外題ならねば、何の狂言にても外題にも通うて調法なり、外題は肇の巻にも演る通り、一部の惣標にて何々の世界とわかるやうに付るを専一とす、表題を見れば五右衛門の世界ならば釜が淵双級巴是等は眉間尺の故事をとり、皇都七条の竈が淵は河原院融の塩竈の故跡残り有を、態と五右衛門が釜煎の跡なりと聞かせたる趣向にて奇なり、歌舞妓にては艶競[はでくらべ]石川染・けいせい忍逢淵[ふかまがふち]など古作者は付たり、此余にいくらも有べし、雪月花は五右衛門に限るべからず、是らは手代の聞違へと外題を付る事を知らぬ党のみなれば是非なし、予も此時三ツ目髪結床の場三二五郎七に歌右衛門、妾司[めかけつかさ]に中村松江、前野左島[さじま]に浅尾奥山〔始浅尾友蔵〕、家老治郎大夫に嵐璃寛〔始徳三郎世に目徳といふ〕にて一場代作せしが、此外題の間違を聞て、せめて仮名をかへて雪月花とすれば語路なり共よきにと笑ひしこと有り、此前年けいせい繁夜話[しげ〳〵やわ]の中へ薬種屋の番頭隣家の妾にほれ忍び合ふ夜盗賊に見付られ金をとらるゝ場を、龍玉自作にて書入たり、是は『蜑の藻汐艸』とて江戸芍薬亭長根の書し双紙の中にある噺を脚色せし物也、其のち東都より『役者必読妙々痴談』とて役者の常のみもち【異本 役者常住座臥とあり】を批評したる書出けり、此中に近松門左衛門、金沢龍玉をなじるとの口画を出し、文中に歌右衛門文化中にいまだ芝翫と呼びし頃、江戸中村座にてさるおやしきの贔屓より、扇面を携へ是に画なり共発句なり共書くれよと乞れしかど、風雅の心得なく甚迷惑せしが、是に達ての所望に是非なく麁画をしたゝめ芝翫写すと悪筆にて書けるを、其人もちかへつて後坂東彦三郎〔俳名薪水後に楽善〕に見せ【異本 芝翫の筆とあり】余り拙し、是に賛をして興をそへよとあるに、薪水は書画共に出来たれば「椽先や蚯蚓のたくる五月雨」と書そへ芝翫が拙画を補ひしと有り、都て江戸は役者の書画を愛する所なれば日々扇面など書く、されば恥をかく事あり、此後芝翫も少し宛は風雅の道を学、手跡もこるに上り後々は狂歌発句も少しは出来る様になりけり、東都にて蜀山先生に狂歌発句の代作を頼み、句帳に発句狂歌等蜀山自筆の書一冊龍王秘蔵して予にも見せたる事有り
【異本、江戸にて坂東三津五郎〔秀佳〕と二人奴の所作をせし時、太田南畝先生〔蜀山人〕秀佳贔屓にて芝翫を始て見物に來られたり、芝翫是を聞くと直に桟敷へ挨拶に行きしかば、蜀山芝翫の扇へ思案もなく書かれし狂歌「大和屋と加賀屋と二人奴らさこんのだいなし外にねば〳〵」是より蜀山も芝翫贔屓となり狂歌の発句の代作を句帳に書てあたへられし也、蜀仙自筆の書一冊龍玉秘蔵して予にも見せたる事あり
かくの通りなれば一日の狂言著す事はかたけれど、全体根気強く工夫に懲つては寝食を忘れ芸道にはげむがゆゑ、歿前には役者改名・妓女[げいこ]の名弘め等摺物にも追加の発句狂歌などあまたよみけり、語路てにをはの分らぬながら中には相応に出来たる句も有り、天保の始天保山の川浚の時銘々鈴を腰に付、テウ〳〵と懸声をして砂を運び或は踊歩行て土砂を踏かためし事有り、其時【異本 其時梅玉の狂歌にとあり】の狂詠に「呵らりよと侭よてんばの川浚砂といふ程踊る蝶々」此余にもあれどくだ〳〵しければ略す、惣じて京摂の役者には近来風雅の心がけあるは尠し【異本 元祖中村富十郎は画を英一蝶に習ひ英慶子と云、元祖中山文七は書を能書て黒谷浄光此両人の書し書画とも今に残れり】、東都にては諸所の御屋敷より扇面団扇(帛紗)など(に句を)好まるゝゆゑ、役者立ものは勿論安き役者にても俳諧ぐらいは嗜めり、中にも市川海老蔵〔七代目団十郎始三升今白猿〕は代々其角流の発句又狂詠をよくし手跡も拙なからず、五代目白猿〔向島隠居〕は相応の博識[ものしり]にて一代の狂詠甚だ多し、『長夜の書溜[かきだめ]』・『徒然文談』など文集今に残れり、当時の白猿御影年に浪華にての発句「主親もゆるさせ■*03○ぬけ参り」是等白猿流とて一派あり、前巻にも演る如く役者は芸道に凝り遊芸のたしなみには俳諧発句の一通り位は心得おかしたきもの也、奈河一泉が弟子に奈河元助後江戸にて本助といへるもの、是も元狂言方にて有りしが、東都にも中興作者ともしきゆゑ次第送りにて建作者と成り、天保六未年浪華に帰りしが、龍玉根気弱り狂言も仕尽し上、『妙々痴談』にたしなめられ(作者を止まりしかば)作名(龍玉)を譲り度心あり、此本助へ継さばいかにと予がすゝめに二代目金沢龍玉となりけるが、さまで残せる狂言もなく去寅の春黄泉の旅に赴けり、此人の書しは去る酉の春けいせい玉手綱三幕目に入間屋喜十郎に歌右衛門〔四代目翫雀〕、番頭彦七に玉助〔前歌右衛門梅玉〕、講釈師左内に工左衛門、娘お三富十郎、是は江戸市山〔前に云七蔵のこと〕の話にてテレメンコチリメンコと言ふ薬屋にてろくろ首也と嫁の悪名を付し活を先龍玉〔玉助梅玉〕が指図にて筆を採らせしはなしなり
■*03
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)中の巻終
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)下の巻
西沢綺語堂李叟著
独判断叙、近松半二的、浪速的人、穂積先生児子了、自年紀後生、好了破落戸社裏勾当、住在烟花陣裏、托地入抅欄部了、仍旧会造曲本児、那社裏各一位、擡挙做了竹本坐的伝奇作者、江湖上張揚了其名、大凡那舗謀定意院本数十百種、筆児上夾七夾八打張了、延握佗戦聞《→闘》的本事使看的列位打起精神掏乾了、演那悲哀伎倆使看的各位倬涙来叙這浄的本事使観的衆位翻腸一般胡蘆、演些消魂種女旦的、手段使叢人羅漢思情嫦娥相嫁、如他光掍紮圃的小〔十三〕幼児老大的老〔十三〕官粧紛的娼女児的飛絮瓢花的奶々小娘々的保児的幇間的做事、莫不写其真的弄出将来了、当真与門左做了一本帳築後伝奇的老手了、小道若年時於京師做有隣軒徒弟習学伝奇曲児有隣物故後虚華地撤了彼曲、近間做縁野居士寓在江南游聞名的染太的門、打起旧癖学院本児音操、只是小童一個老禿不記掛江湖上多口的譏誚、只顧習学了、因与那半二甜意投学只管相投、這箇漢子儀容上不十分招架、小道也是一箇躱懶的、借一歩做伴還京做了、《弄友暫時的抛撤小道帰浪速、災星臨身羅疾物故了、》不等近松千歳的壽、被無常的凮吹倒西方、小道凮吹児聆之了吃了一寒、倚于小几児仮寝、恰然鼓声鼕鼕裏隠々的抵面現了半二、髩鬚種々穿半晒夏布絆柳條綿束腰拿、若烟皮包旧短烟管。鼓歌一般的肝張音的謅道、小可有一件掛念、陽生裡著生涯的安心、做了一小冊子了、欲示同好、当不得俄子児点鬼簿了、紀官人異小可同好会造曲本児、深蒙青些難得二官人為小可将把小冊子去付著着棗則箇随手托庇成果得了、言畢也着了常套鼕裏消了、小道因与、紀上太商量了付了梓、普示江湖上的同好追薦法事云爾。
于時天明丁未十月上浣伝法門人平安疎懶堂仙人向十万億土的彼些聊振粋哩
右は近松半二が遺稿独判断の叙にて此人の伝にかへたり、著せし狂言実に数十百種中にも名高きは蘭奢待新田系図・姻袖鏡・本朝廿四孝・太平記忠臣講釈・近江源氏先陣舘・京羽二重娘形気・伊賀越道中双六・新板歌祭文・妹脊山婦女庭訓・関取千両幟・三日太平記・いろは蔵三組盃・心中紙屋治兵衛等枚挙に限りあるべからず、天明より天保の今に至つても院本歌舞妓にもてはやすこと全く此人の筆力の余光成べし、此独判断といへる一小冊は辞世にかへて疎懶堂と紀上太郎が梓に刻、同好の人々へ配りし書也、実に作者の一見識ありて当時の稗史小説を編る輩も半二に及ざる事遠し
近松徳叟は始徳三と言て浪華伏見阪町の娼家大桝屋と呼びけり〔俳名雅亮〕、幼き頃より芝居を好み院本作者近松半二が弟子となり歌舞妓作者となりけり、尤伏見阪町には〔大坂遊所〕伏善〔其の頃の興行人〕が歌舞妓の銀主なるが故、勧により始は並木五瓶・辰岡万作・並木正三〔二代目隠居〕等とともに作せしが、寛政八九年より建作者と成り、著せし伝奇は伊勢音頭恋寝釼〔伊勢古市十人斬のこと〕は伊勢古市にて大夫斎宮といふもの色情により大勢のものに手疵を負せしを、彼地より文通にて知らせしもの有て直に狂言に取立しが、当年は嵐小六〔前嵐雛助と云女形、夫より叶雛助とて立役〕三月廿九日死しければ忰嵐雛助〔始秀之助後珉子といふ〕四月五日より父の替り役をしたる、盆替り狂言にて小六生前増りの大当りを取り続て敵討安栄録〔小栗栖十兵衛〕・もゝちどり鳴門白浪・浅草霊験記〔印南数馬大川友右衛門〕・けいせい挾妻櫛・けいせい会稽山〔寺子屋慶二郎池上七九郎【異本 慶二郎なく新柳とあり】〕・紅楓秋葉話是は其一年前『桟物語』とて小説の中に岐蘇の山道にて寺に宿す、酒の中に毒を仕込み主僕大勢を殺す中に一人活残り蔦に取付虎口をのがる、千仞の谷底に孤家有、其主は老婆にて此日の盗賊の党也、内に小娘有てこの男を憐み老婆山寨へ知らせに出る間に訳を告、此男を落し母への言訳に死す、是『水滸伝』の棗商人、浅草の孤家石枕の話を合せし如し、夫を種として脚色しもの也、後京師にてせし時けいせい桟物語と外題に賦しけり、けいせい花山崎〔荒木摂津頭と古曽部主水 【異本 荒木村重斎藤内蔵介有と】〕・侠競廓日記〔芝叟が売油郎〕・けいせい筥伝授は中入に仕組、三つ目筑紫権六チギリンタイの齣[ば]は上田余斎が作の小説『秋雨物語』の中に有一話を取組り(後京にての外題は艶色秋雨譚と付る)・柵自来也譚〔栗枝亭鬼卵作の小説也〕・競かしく紅翅〔船越十右衛門に嵐吉三郎絞の吉兵衛に片岡仁左衛門〕、是は文化五辰の春北新地の或茶屋にて振舞有て蔵やしきの留主居行かれ、此供の者台所に居ける所へ名うての妓女来て二階へ上らんとする時、笄を落しけるを僕下に居けるゆゑ拾うて渡せり、芸子憚りと言さま僕の手と共に握つて戴取りける、此僕遠国に育ち始てかゝる美女に手をにぎられし事故、嬉しさ心魂にてつし屋敷へ帰りても片時も忘れられず、女郎と違ひ芸子なれば小金にては求められず、人の花と詠めさせんよりはと無分別なる了簡を発して、其後曽根崎〔北の新地をいふ〕の途中にて一刀に切殺しけり、芸子はもとより馴染にてもなく思ひもかけぬ者の手にかゝり、不便さ言ん様もなし、かの僕は其場を迯去り大仁村麦飯屋の簀の子の下に隠れ居しが、翌夕方空腹に成しかば這出て食を乞ひし所を召捕て出しけり、此頃は大仁村茶店賑ひし時分也、是を徳叟かしくの世界に仕組しもの也、名作切籠曙〔一名高槻騒動〕是も噂ものにて伏見京橋諍実録といふ古狂言に里見伊助といふ役名有り、それを借し者也、けいせい廓源氏〔物草太郎と金魚や金八〕・いろは歌誉桜花[めいぼく]は文化三寅年二の替りにて大当りせり、此四五【此四幕目カ】に岐蘇の畚おろしの場あり、百姓与市兵衛に二代目嵐吉三郎、滅法弥八本名斧定九郎に浅尾工左衛門〔初代鬼丸〕にて斧九大夫〔中山文五郎やんまといふ〕、山岡覚兵衛〔猪三郎【異本嵐猿三郎に作る】璃寛の兄〕両人争ひ【異本連判をとり合ひ)谷底へ落込、与市兵衛・定九郎是を助けんとて畚に入て釣下ろさるゝ狂言也、是は『四天王剿盗異録』〔馬琴作小説也〕の中より見出したる也、けいせい英艸紙・舞扇南柯話は『〔三七全伝〕南柯夢』〔曲亭の作〕、島廻月弓張は『椿説弓張月』〔馬琴の作〕等也【異本 斯の如く小説ものを脚色こと来賓も好ける故皆々当りを取けり】、此節は小説稗史も各読はやせし程有て、作も後々の物とは違ひ筋もよく面白かりしが、後は是を拘欄[しばい]にせよ此役は誰にさせよと歌川豊国・葛飾北斎等に書しめ、狂言作者の心得にて著述するがゆゑ、これを歌舞妓に脚色む時は却て古くなり作するに詮なし、文化七午年八月廿三日に徳三は歿せり、近松門喬〔後江戸にて歿す〕・近松加造〔桂寿と云〕・近松万兵衛等は皆徳叟が弟子なり(近松柳は半二が末弟子〔浄瑠璃浜芝居の作者〕近松千葉軒といふは此柳の弟子なり)
宝暦八寅年三月に浄瑠璃にせし敵討崇禅寺馬場は〔作者竹田小出雲・竹田瀧彦なり〕今写本にも画本にも有て世によく知れる所也、返り討となりし兄弟が墳墓は北中島にあり、此実説を去る老人の夜話に聞し所返り討にあらず合討にて有しとぞ、生田伝八郎は武術も鍛練してさまで卑怯なる武士にもなかりしが、郡山の藩中にて遠藤宗左衛門を意恨有て討取り、浪華へ来つて谷町弓師丹波方の食客と成て居しが、其頃浪華には剣術柔術を励む武士多く此生田が門弟と成けり、丹波は常に心易き曽根崎新地の妓家花屋何某が離れ座敷をかり受、伝八郎を入れ武芸の稽古場となしたり、此花屋何某その一両年前に死して後家と娘二人あり、姉は病身にて芸者を休ませ内にて保養をさせ、妹は舞子なれば勤に出し其外抱への女郎一両輩も有て相応に暮しけれ共、主なく成てより離れ座敷は茶室の好に建しまゝ空しく明家同前なれば、丹波が引請にて生田にかしける、伝八郎の武術もよきゆゑ追々に門弟ふえ豊に月日を送りける内、裏と表の事なれば病身の姉を伝八郎方に客来の節は茶の給仕等に出せしを、いつしかわりなき中と成り懐胎しけるを母親知りけれど、多くの門弟に尊敬せられ富るとにはあらねど暮しかたに不自由もなければ幸ひの事にして、娘が心のまに〳〵暮させけり、然る所ある門弟に誘はれ生玉辺へ伝八郎の出し途中にて、はからず遠藤【異本 遠城】治左衛門に出合ひ名乗かけて敵を討んと乞ひけれ共、傍には門弟も数多居る事なれば段々と言なだめ、明後日北中島崇禅寺にてと約してわかれぬ、跡にて門弟口々に尋ねける故伝八郎にも是非なく、郡山にての次第を物語りければ、若手の門弟血気にまかせ、先生のお手を労さるゝに及ばず我々が討取んと進むを段々と申なだめて曽根崎へ帰りぬ、扨も治左衛門には石町【異本 谷町】の借座敷にかへり弟喜八郎に其日の子細を語り約束の日遅しと待わび、当日崇禅寺馬場へ行けれ共見えず、空敷帰りがけに丹波方へ催促に行ける、丹波方へもとくより伝八郎の書面来てあり、今日はもだし難き用事出来、明日は相違なく彼所にて勝負を決せんとの文言也、翌日こそ優曇華勝りの敵討と兄弟諸共に小踊りして、翌日未明より宿を出長柄の渡場さして行けり、爰に伝八郎日限を延せしは、門弟の銘銘面白き事に思ひ、且は後学の為などゝ同道せん事を乞へ共、伝八郎にはまさか兄弟の者を討とて大勢の門弟を連行んも恥かしとて、此評定に日限一日延しけれ共、達てとのぞんでやまざりければ是非なく、翌朝門弟の銘々を同道して渡しを先へ越すより、兄弟も渡しを越へ勝負にかゝる迄は、大体写本の通りなれば略す、互に姓名を名のり立合ふ頃はまだ薄暗き頃にて人顔も朧に見ゆる計なれば、松影より遠矢にて兄弟共に射て取んと雨の如くに放しかけたり、兄弟是を事共せず伝八郎の双方より薙刀と刀にて打かゝる、伝八郎双方に受ながらまつしぐらに戦ひけるが、木陰よりは眼つぶし或は瓦石礫を投出し、誰か一人顔は出さねど投かけ射かけする程に、兄弟の眼へ砂や入けん、互に喜八兄者人と声をかけながら伝八郎に討てかゝりしが、伝八郎にも疵やあうたりけん、三人共に掛声もかすかに成りひつそと成て静まりける、夜も明きらば道通りの者の目にやつかんと、門弟共そこ爰より馳集り三人の傍へ立より見し所、三人共朱に染み伝八郎傍に分れ、兄弟は体をにじらせ負重なつてぞ息絶たり、門弟あはて伝八郎には印籠の気付をのませなどして介抱し、兄弟の骸には惣々よつてとゞめをさし、身に立し矢を抜とりし折、遠藤兄弟よりは伝八郎の身に立し矢数多かりしとなり、さも有べし、鼎の足の如く三人の向ふ所へ的も定めず遠矢を射しゆゑ、生田の身に立し箭の多きは是実説正銘也と思はる、斯て門弟共師の助太刀をせんと思ひしに、計らずも三人共に射殺せし事ゆゑ、人々周章、虫の息なる伝八郎を介抱がてら肩にかけ長柄の渡し場迄来し所に、川端にて生田はあへなく息絶けり、今更詮方なければ其侭長柄川へ投込み、互ひに後日は沙汰なしに済さんと言合せて帰りける、程なく往来の者の目に付ければ兄弟の年格好をしるし検死を願ひ、意趣切にて事済み、伝八郎の事は誰知らするものなければ、弓師丹波も花屋何某にも吟味もなくそのまゝ事済みけるとぞ
爰に哀をとゞめしはかの花屋の娘には生田が胤を懐胎し月も重なれど夫にはかへり来らず、其節噂にきけば崇禅寺にて二人の侍の死骸ありといふに驚き、もしやと家内より見せに遣はせし所、終に見知らぬ面体なりと聞き少しは心落付けど、咋日まで大勢来りし門弟誰一人も来らず、しかし幸に吟味もなければ、只家内のものゝ心の内には何方へか落延しものならんとひそひそ咄に日を送りし内、かの姉娘臨月来つて男子を産み小児は達者にて育てども、母は何角と心労せしにや産後に空しくなりければ、後家は小児を乳母にて育て、かの客人はかへらねば、残りある金子調度の類を皆幼子に付け、孤の事なれば不便さも一しほまし心の侭に育し所、追々成人にまかせ茶屋置屋の忰には似もやらず、書画琴碁は更也、詩歌連俳など高尚なる事を好みけるが、妹娘は芸者を勤居し内東国のよき客付て身をひかせけるゆゑ客に随がひ東都へ趣き、母も孫の成人のみ楽しみ居けるが、姉には死わかれ妹は他国へ嫁し便なく思ひしにや、孫が十七八の年終に空しく成にける、此孫実は生田伝八郎が忘れ筐なれど世を憚かり、花屋何某が内に育由緒ある武士の胤也と近しき人も思ひけゐが、誰か知らん此人成長して寛政の頃和歌及俳諧をよくし著述の書数多編せし上田秋成又余斎とも無腸共呼び近来名家の逸人也、其身は生田の姓を深く包み、母方は遊里者なれば風雅の友に賎しめらるゝを嫌ひてや、後には京師に住み心の侭に身をもち放蕩なる事、自笑・其磧等が口調にならひ『聞耳世間猿』といへる戯編を著はす、読て知るべし、其余前に言ふ『雨月』『秋雨』の稗史を著し近頃『癖物語』とて勢語に倣ひし滑稽書は無腸子が遺稿なり、又花屋某が妹娘東都に於て男子を産む、成人して俳優者中村大吉〔家名鳴尾屋俳名巴丈といふ〕始娘形の頃は〔藤川大吉後鳴尾弥太郎〕文化元子年坂東彦三郎同じく浪速へ来り、同十一戌秋東都へかへり、後役者を止め剃髪して彼地にはてけり、かゝれば無腸子と巴丈は従弟同士にて巴丈は生田伝八郎が為には甥也、然れ共余斎は気性高ければ是をいはず、大吉も深くつゝみ語ることなかりしとぞ、此咄しは無腸子が成立よりよく知りたる老人より伝へ聞く、虚実の程わかち難けれども、余斎が著作に縁あり、巴丈が俳優に成たれば劇場に因みあるにより此事をしるし置事しかり
桜田治助は俳名を左交と呼て、東都にて中古より作者も多き中に宝暦の末より劇場に出浄るりを著すこと百廿余段に及び、此道に遊ぶ事五十年、生涯の内浄瑠璃塚を築ん事を願ひしに計らず、文化三寅年六月廿七日歿せり、黙了院左交日念信士と号す、其志を遂げざる事を旧友門子悲しく、翌卯の六月一周忌に辞世の一句を彫り浄瑠璃塚と号して柳島妙見の境内に建てたり、此浄るりとは京摂にいふ院本と違ひ、東都にて所謂常盤津・富本とてそれ〴〵流義あつて所作事・道行等文談を演る、京摂にて云江戸歌の事也、いはゞ歌浄瑠璃也【異本清元〔富本より近来別る〕などの余流出来て京摂の浄瑠璃を東西の論なく義太夫と唱へ此歌の文句を浄瑠璃とゝのふる事也】、芝居にてする時は文談の長短によつて七枚十枚の綴本として売る事定例と成り、其俤浅間嶽・積雪恋関戸・戻駕色相肩の類なり、
【異本、この桜田左交は壕越二三次〔俳名■*05陽〕の門人にて師の■*05陽も豊後浄瑠璃を数冊著して其名高し、左交師■*05陽の文句を和らげて当世に演べたるこそ此人の才智といふべけれ、されば左交は吉原に至て心をよせ廓に遊びて女郎の痴情をよく呑込み、文句に傾城ごと多し、年七十に及べど毎夜〳〵吉原へ行て大門をくゞらねば寝られぬといふ程の崎人也、江戸の人気其土地の風儀をしらんがため、遊所場風景の地を望みて変宅すること度々、老人に及びて花川戸柳の井の隣なる家に住て柳井隣と戯号せり、又其頃左交吉原丁子屋に思を懸けたる女郎あり、何卒これに近付きになりたしと種々心を砕き、ふと思ひ付たる浄瑠璃の心を用ひ、つくり花の梅が枝に文を書き結び付け懸想文の見立にし、自分かたげて丁子屋の格子へ投込みければ、女郎皆々立寄り騒て、文の名宛を見れば誰の君さまへ桜田と書あれば、さすがの全盛丁子屋の名の誉と部屋に錺り、女郎より桜田へ返事を送りし事ありとぞ、是よき年をして真の恋にあらず、流行に遅れじと我が名を高く弘めんが為めなり、是等は余人の思ひよらぬ名弘めならずや、二代目桜田治助は始松島陽助とて笠縫専助の弟子なりしが、後桜田に取立られ松島半二〔俳名調布〕と云改名して桜田治助左交となる、師匠桜田風をよく呑込み浄瑠璃を書事妙を得たり】
阪東三津五郎〔秀佳〕が七化の所作事に著せし源太箙の梅、松風の汐汲など今京摂にても専諷ひはやして文談のこれり、此汐汲の文句に「よれる渚に世を送る」との唱歌は行平卿の歌なり、歌舞妓ものゝ作にはよく穿盤したりしと尾崎雅嘉〔浪華歌人〕も『百人一首一夕話』に賞められたり、二代目左交亡師の女房を五七年も扶助せしが不和となり名を返へして松島調布と改名して後終れり、此弟子初め松島音助後半二となり今三代目桜田治助左交とはなりけり
■*05
金井三笑は江戸古狂言作者の冠たる人にして壕越■*05陽と対せり、此三笑草稿を至つて細字に書く、我も本読の折は目鏡をかけて読事也、よつて紙数甚だ少し、悋嗇にて紙を惜まるゝかとも思ふ者あり、三笑曰く、細字に書くは本読の節脇外より延上り役者共が見たがるもの也、文字あらければ読るゝがうるさゝにかく細字に書也といはれし由、其上本読の席へはいつも長き刀をさしてゆかれ、ひやうし幕と読切るや否直に刀を取上げ柄を握て、サア宜しいか悪いかと、万一その場の批評をいふものあらば一刀に切て捨んとの勢ひにて、あたかも首実撿の場の竹部源蔵の如く八方へまなこを光らし長き刀をひけらかすが故、此権威に恐れ今少し有たしと思ふ所も我慢して直に納め手を打しとぞ、是らは実に年功にも身柄にもよるべし、予も毎度本読の時は三笑の心持にて利法権の三つの旨を以てすれど、若年といひ帯刀すべき身ならねば是非なし、御城代とか御奉行にて作者をすれば如何なる悪き役を書く共直に納るべきと独笑捨る事も多かりし、三笑は作者より役者の方上手にてありつらんと思ふ
■*05
元祖瀬川如皐は始女形にて瀬川乙女と云し者なるが、後作者の道へ入りしかどさせる狂言も残らず河竹文次〔又六児とも〕といへる者(二代目瀬川如皐となり)天明七未年東都より上り役者中村仲蔵〔俳名秀鶴〕に付て角の芝居へ出勤しけり、此仲蔵は志賀山一流三番叟〔世に舌出三番叟と云〕を始め翌申年帰国するまでに狂言数多作せしが、忠臣蔵の定九郎〔尤是までは丹前にほくそ頭巾にてせし〕を仲蔵江戸にて御家人の俄雨にあひ尻からげに蛇の目傘の破れしをかぶり走りしを見しより思ひつき、黒羽二重の紋付に朱鞘の大小とせしより、今誰にても此拵へとはなりけり、又千本桜の権太も〔銀あたまどてら姿〕もと鮓屋の忰なれば馬士めきたる拵にてはあるまじとて工夫の上、三の口〔椎の木かたりば〕は青月代の旅形にて主馬小金吾に中村京十郎、是を相手にかたりの時、「衒と知つて衒りとらるゝ廿両」と言ながら、荷物より卅両ばかりの包を出し廿両かぞへて渡す内、延上つて是を詠め、ヱヽまだあるなアとの仕うち、衒とてもまだ仕馴ぬ思入と拵らへのよかりけるより、是又今も秀鶴の形をとる様になりけり、鶏鳴吾妻世話事といへる狂言は江戸にて秀鶴、土手の道哲大切は姫と道哲の二面の所作事、垣衣[なつごろも]恋写絵大当りせしを市川団蔵〔今の団蔵の親なり〕かの地にて見置き、五ヶ年先に江戸より帰坂せし当座に、隅田川続[のちの]俤と外題を直し聖天町の法界坊とて秀鶴の当り狂言を我がものとして出し大当りを取りけり、この狂言の源は秀鶴なりければ、此鶏鳴をせんと云一座のものより、夫は団蔵が名をかへて仕てゐれば如何あらんかととどめしかど、秀鶴の曰く、市紅の〔団蔵の俳名〕しられしまね也、我は誠の道哲を見せる也と出せしが、又市紅よりは見所多く男はよし江戸訛の悪坊主の仕打にて、さすが秀鶴は名人なりと一座の役者までが感じけると也、河竹文次も秀鶴と共に江府にかへり後如皐と改め、瀬川路考に随がひ〔菊之亟後仙女〕享和三亥年に京摂へ来り、此時好繻子帯屋〔おはん路考長右衛門片岡〕道行瀬川の仇浪は此如皐が作なり、けいせい筥伝授二つ目長岡勇斎に片岡仁左衛門、小西行長に嵐吉三郎、同妻唐織に瀬川路考、宋蘇卿に大谷友右衛門、此場は如皐が筆を立たり、其秋瀬川路考は其悌浅間ケ嶽浅間巴の丞に中山庄太郎傾城奥州の霊に瀬川路考〕大切相生獅子余波英石橋の景事を暇乞として如皐もろ共江戸表へ帰りけり、近頃歿前には狂言を書ず外題のみを付けり、此人中古芝居作者に似合ぬ博識にて外題割書等は字義を正し聊も誤なし、仕組は時代王代ものを書く事を得たり、
【異本、其頃本屋宗七といふ二枚目作者あり〔初武井藤吉又豊島大作〕、豊島は江戸の郡名にして大作は大作者といふ心、自日本一といふ故日本〳〵と仇名せられし、元増山金八の門人にて、本所亀戸天神の社家より出でたる人なり、社人の頃吉原の女郎に馴染み金に支へて困り、宝蔵へ忍び入りまんまと首尾よく天国の宝剣を盗出し、さらば質屋へ持行き金にせんと門前へ出て柳島へさしかゝれば、俄に空掻きくもり業平橋を渡らんとせし時しきりに稲光して雷鳴轟き宝剣を持たる侭立すくみになり倒れし故、菅神の御罰恐しと心付取て返へし宝蔵へ元の如く納めしかば、天気快晴したり、不思議といふも恐れありと作道に入てより語りしと、さまでのこせる狂言はなけれども此道に入るもの皆一癖ある故をかし、今は斯様な話さへもなき輩計にて、風雅もなく滑稽もなき事是非なし
福森久助は後暫く【異本 玉巻恵助の門人にて始め玉巻丘治といふ後に久の家を憚る事ありて)喜宇助と書〔俳名一雄〕、如皐・南北等と同時の人也、並木五瓶〔元祖〕を見ならひ京摂の院本を江戸狂言に引直すことを得たり、譬はゞ関取二代鑑の秋津島を民谷源八に直し、鬼嶽を堀口源太左衛門とし、翌日殿の御前にて若殿の跡目を試合の勝負にまかせるを堀口門弟を連来て民谷を詈り額を割てかへる、内記は高倉隼人の如く推挙の誤りに切腹する分の事と屋敷へかへる、あとにて源八切腹して坊太郎に血汐を呑せ翌日の試合に勝すなんど無雑作に訳文[きりはめ]たり、安永・天明の頃中村重助〔俳名故逸〕と言建作ありけり、此人の頃にも専京摂狂言を世界人名を呼かへて遣へ共誰も是をしらざりしとかや、寛政中に江戸浅草御蔵前に敵討ありけり〔悉く実説予が著述讃仏乗に編てあり略之〕、直に狂言に仕組敵討覘鴈的といへるは京摂に古き狂言大和国非人実録を後外題を改め敵討郡山染ともいへるを近松門喬江戸へ持行き、松井由輔〔金井三笑の子也〕が作にて其まゝきりはめたる也、都て東都は京摂の院本を一向不知、近世女義太夫など流行して少しく浄瑠璃を覚えたるなり、夫ゆゑ右に演る常盤津・富本・大薩摩・河東・一仲・新内・説経などの古風今に残り真の浄瑠璃はしらぬ筈也、作者古浄るり本を秘蔵して訳文[きりはむ]る事有ども其道のものさへ知らぬ程の事也、付ていふ、東都にて琴歌とて近世山田検校が作調したるもの数種ありて京摂に弄ぶ端唄をしらず、婦女子に三味線を習すにも富本・常盤津・長唄などを教ふる事也、長唄とは安宅松などをさしていふ、上方の端唄をめりやすと唱へ、又上方唄ともいふて稀には弾諷ふて陰気なりとなじれり、並木五瓶の東都へ行し当座は端唄をかの地にてしらぬがゆゑ、めりやす本と唱へ黒髪・雉子・雪・いさゝめ・夕空などを拘欄にて諷はす折は、二上りとか三下りとか印[しるし]て五瓶調ぶるとして弘めしもの也、京摂にても中古までは宮古路・宮園・国太夫・重太夫など数種ありしが、当時は浄瑠璃・端唄の二種に止り、其余は江戸唄と号して常盤津、富本・清元・長唄を流行らす事とはなりぬ、元音曲鳴物は異国より渡り九州地より闢しにや、筑紫琴を始、豊後節・薩摩節などゝのふれば京摂にとゞまり、夫より東武へ移りしものゆゑ、〔竹本豊竹〕浄瑠璃琴三味線の唱歌を悉く知らぬも断りなりかし、東都狂言作者も藤本斗文・津打治兵衛・純通与三兵衛・常盤津田平・増山金八・宝田寿莱・松井由輔・松井幸三・木村園次・村岡幸治・田名円八より近年本屋宗七・田島此助・槌井兵七・重扇助・勝井源八・三桝屋二三治なんどの伝を挙るも事繁ければ後編に譲つて爰に略す、見る人予が杜撰を責る事なかれ
辰岡万作は浪華島の内畳屋町に住、寛政・享和中の建作者にて著作の狂言尠からず。けいせい楊柳桜〔護国女太平記淀屋辰五郎事蹟〕・東海道恋関札、此中入は伊達新左衛門に尾上新七〔芙雀〕、妼重の井に芳沢いろは〔後あやめ巴江の事〕、鷲塚官太夫に山村儀右衛門〔五登〕にて重の井に心をかけ口説ども落ず、其上何ものゝ胤にや懐姙しければ不義の相手を吟味する段に、新左衛門は家老なれば重の井を預り不義の合手を詮義する所、誰か知らん其男は新左衛門にて、有馬の入湯の折節酒の機嫌に湯女を嬲る、妼重の井は堅くろしき新左衛門の気性に惚て湯女に替つて添臥をせし一度の情に懐胎せし也と語る、是にて新左衛門は不義ものとなり上下大小をとられ追放となる、家門佐々木玄蕃頭に三枡大五郎〔初三升時蔵又他人といふ〕改て調姫の乳母とする、切前恋女房子別〔男の重の井新左衛門自然生お三円二郎〕の紋切形となる、此二つめは桂川長右衛門に上下を着せたる趣向也と万作は云けり、曩に云正三が卅石と同じ考へなり、けいせい春陽鷦は『大久保武蔵鐙』といへる写本を其まゝ仕組しものにて宇都宮騒動と日本橋〔大阪〕の馬切を書し本にて、一説には辰岡徳三と両人にて狂言に出さん為め先に写本にして出し置しといふは非也、此写本面白けれど虚説多きゆゑしかいふか、猶可考、世界を太功記に倣ひ三輪五郎左衛門〔大久保忠教〕・阿波屋太郎助・金井三九郎〔花井三九郎〕三役浅尾為十郎、柴田修理之進勝重〔本田上野〕河田歌左衛門に嵐小六、真柴久吉〔井伊掃部〕三七信孝〔長七どのを云〕二役に市川団蔵、此狂言古今独歩の大入大当りをせり、中入に五郎左衛門炮■*06頭巾長刀にて柴田の旅舘へ手に小松菜を一把提け杖を突き出て来て、先日は鶴によばれし返礼に鶴一羽進上申すと投出す、宅間玄蕃に山村友右衛門悪口の詞に、貴殿は大坪流の馬術達人也と見ゆれば〔大久保と聞せしせりふ〕鶴じや〳〵と、この小松菜どふして鶴じや扨は老耄めされしかと言ふに、イヤ三輪五郎左衛門虚言は吐ぬ、先頃爰にて鶴の馳走に預かりし時、お気に入らば何盃もかへよといふゆゑ、ヲヽ喰ふ〳〵といへば〔やはり大久保を云〕仕舞には吸物の椀の中に菜ばかりゆゑ、此様な鶴ならば手前の庭にいくらもあるから重ねて持て来ようと申たのだ、〔下略〕瀬川采女に泉川楯蔵、傾城園菊に中村野塩、両人を三輪の謳曲にて柴田釣夜具の中へ寝させる所、釣天井を和らかに仕組しなど辰岡が趣向也、此信孝の役も柳営の公達ゆゑ男も優にやさしき様中山文七〔二代目文七びん付や也〕にさせる積りにて書し所、中の座へ勤め是非なく団蔵にさせしが、此人小男にて移り如何と案じ居しに、市紅段々工夫をこらし大和橋にて早切の太刀打を役として勤めしより、今に市川流の狂言と也けり、銘々得たる所の工夫ありたきもの也、当世寄族撰是も写本にあり、白銀屋与左衛門に山村燈蔵、竹源蔵に新七、鶴木屋本の助に小六、序切に桃園に義を結ぶ容に合せ此三人をせり上にしたれど、悪口に「当世きふくせん」といひける故、狂言取替姉妹達大礎を出しけり、近松徳叟と両人の作にて辰岡は金襖物を得〔時代王代〕、徳叟は御家狂言を得意とすれば、序馬場より甚内殺しの和らかみは徳叟、二つ目出立は辰岡、三つ目岡崎徳叟、四つ目普伝の場は万作、五の返り討道行は徳叟、六敵討は万作也、時代世話と気のかはりめ双方共に筆力を震ひしゆゑか古今の当り狂言となりけり、艶競石川染も此両人の作にて稽古中嵐小六三月二十九日に死しければ、忰嵐雛助〔始秀之助中村十蔵〕小珉子に親の役、石川五右衛門石田の局をさせ四月五日始めしに大当りしにけり、けいせい遊山桜〔扇屋花扇遠山甚三〕吉原細見図・遠州中山染是は世に云中山問答也、忠孝誉二街・雪国嫁威谷・花艠淀川語〔馬士平太片岡仁左衛門渡守源八沢村宗十郎〕・傾城忍蓬淵〔五右衛門為十郎〕・浜真砂続石川〔五右衛門団蔵〕・けいせい高砂松を書納として文化六巳年九月三日に歿せり、辰岡は実より花を得、徳叟は花より実に入るの脚色にて、此二人歿してより後斯る作者を見ず、此辰岡も安永五申年未だ狂言方にて春狂言に北条五代記会説の中入に三浦弾正の役に三枡大五郎〔初代逸風〕謀逆あらはれ軍兵大勢相手に立廻りの時、万作は拍子木を持ち付を打けり、大五郎立廻りの内ふと万作を見し所如何したりけん、褌はづれて男根を出しながら一心不乱に木を打ゐけり、大五郎をかしく小声ながら万作陽物が出てあると言ながら立廻りけり、軍兵銘々之を聞て、万作まらが出てあるといひ様長柄の鎗にて突かけ之を知らすれ共、万作は耳にも入らず、大五郎始軍兵共立廻りながら、万作尿[まら]が出てあると大音にて掛声の如く口々にいへ共、万作更に心付かず此立廻を打しまひぬ、大五郎軍兵を皆々切すてんとする時ヱイと矢声をかけ、花形大仁に嵐雛助〔小六玉〕花道よりせり上げ反謀を請継、弾正の首を落し宗尊親王の還御に紛れて向うへは入、跡管紘残り嵐文五郎〔金打文五郎とて小男にて上手なり〕由解大助仕丁の形にて出て向ふを急度見る、姉川大吉北条時頼の御台にて出て、大助人も知つたるその面体ではといはれて、文五郎ツカ〳〵と戻り石燈籠の油烟を鼻の下に付る、ホヽ遖れと大吉あふぐ、文五郎長柄の傘をちよんとかたげるを拍子幕になる〔是昔より評判の幕也〕、近比浅草霊験記大川友右衛門に中村歌右衛門〔梅玉〕雷神門の幕に一文奴にて鎗をちよんとかたげる時、此油烟をつかひし事あり、尤文五郎のは時代狂言なれば面体をあやどる事勿論なれど、歌右衛門の折はお家狂言なれば、こじ付也共是らは人の喜こぶ仕打なれば、故人の芸風を移す事老練のなす所也、扨も辰岡万作は幕しまりてより楽屋へ入、皆々どつと笑うて前の事を語りければ、万作始て心付、付を大事に思ひ皆々の声の耳に入らざりしと赤面ながら笑ひける、大五郎万作を呼ぴ我役を大事に勤るは頼母し、後々遖れの作者となるべしと賞けるが、後建作者とは成ける、何の芸にても凝るとこらぬとは違のある者也
■*06
京摂にも寛保・延享の頃の作者には田木幸助・沢村文治・市山角志・為永文蝶〔浄瑠璃作者為永太郎兵衛の弟子也〕・藤川茶谷・松本佐流・長谷川伝治〔浄瑠璃作者長谷川千四が弟子〕・松屋久左衡門・豊田一東。宝暦後は高木里仲・英霞鳥・岡井正平・松田百花・境喜平など(番付評判記等に名前のれども)一部の趣向残らず残念也、中にも竹田治蔵は〔浄瑠璃作者竹田出雲の門人〕秋葉権現廻船話・清水清玄六道巡り・銀閣寺祈始・仮名草紙国性爺実録等を著せり
【異本、此秋葉権現の二つ目日本駄右衛門に中村歌右衛門〔加賀屋歌七梅玉の実父〕衒あらはれ花道へそろ〳〵と帰る月本円秋に中村四郎五郎呼びとめる所を、とくと呼ばずに仕舞ひし故、歌右衛門せん方なく花道へ入り、しばしあつて花道より帰り来ること普く人口に膾炙する所、爰に説く歌七は元加州金沢の浪人にて人品甚よく中年より役者となり、上下容はべつしてよく写れり、故に此歌右衛門にても伊賀越の沢井城五郎にても今のやうに燕天かづらはかけず青月代なり、品柄よく衒とは見えぬ故四郎五郎も呼びかねたるが今例となりて、誰がする時も呼びとめぬ也、役ものを見立する作者の第一の心得也、
安永後五十[いぞぢ]五十助・為川宗助・中村阿契・津打亭助・筒井半二・増山太郎七・春木元助・竹本三郎兵衛・佐川藤造〔江戸魚丸〕・市岡和七〔後江戸へ行市岡禎記〕是らの人皆建造りとなるべき才足らす残り多き事なりかし
曩に云、喜怒哀楽の四情の外に小幕と号して道外色敵半道等の勤る齣をかしみを旨として作る事也、是を此道に遊ぶ人まで手軽く書ける様に思へ共、謡曲乱舞の狂言浄瑠璃の滑稽齣とおなじく、来賓を笑はせんとて下がゝりの悪身差あひの事をいへば誰も笑ふものなれど、夫となく腮をはづすばかりに笑はせるはいとなしがたき業也、東都の風来山人〔平賀源内福内鬼外〕の洒落本・皇都の銅脈先醒の狂詩以来滑稽本年々歳々出板すといへ共、十遍舎一九が『膝栗毛』初篇より四五篇迄、本町庵三馬が『四十八癖』・『浮世床』に限るべし、狂言の四情は求めず共自然に有、【異本 此小幕ををかしがらせんとすれば今時の俄茶番の如くなりて拙し】小幕師とて古より芝居には絶ず一人づゝはありしもの也、大松百助といひしものはいつも狂言に舞台にて物を喰事をする故、今小児食滞せし時は大松が過し抔いふ、中古にては中村治郎三・中山文五郎〔やんまといふ〕・坂東岩五郎〔坂東寿太郎親〕・大谷徳治、其後は浅尾友蔵〔後奥山と云〕・浅尾国五郎・中村友三・嵐団八・桐山紋治〔始利八とて幇間なり〕等各顔つきよりをかしきとか形の不束なりとか見付所ある者を見立書事也、此うちにも中山文五郎・大谷徳治を此道の名人とする也、近来の滑稽役者は仮初にも尿桶・小便壼など穢きものを舞台につかひ、或は裸身になり陰嚢を出さぬ計の悪身をする事を是とし、譬はゞ人に笑はせんとて脇のしたをこそぐり笑はせるが如きいと浅猿し、近時は此役者もなければ作者は猶更なかるべし、狂言の書習ひに小幕なり共書せよとは了見ちがひの甚しと云べし、画にていはゞ細密なる画を書尽して麁画軽がきの墨画を書が如し、練磨の功を積ずば書事あたはじ、文五郎〔俳名美男やんまといふ〕が大船久右衛門ひよつくり兵蔵藤屋伊左衛門、徳治が湯屋泥坊治郎三が諸葛幸平の正本を見ても嘸かしと思はれ独腹をかゝゆる事也、昔咄の中に或人鰻を料理せんとてとらへしが手の股より首を上へ出しけり、左の手にもつ又上へ首を出す、又右の手にて段々に握りなどする内、鰻に付て空へ上り終に雲の中に入つて戻らずなりぬ、翌年それの月其の日一周忌の追善の半へ、空より短冊一葉落ければ見るに一首の歌あり、「去年のけふ鰻に付て昇りしがいまだに空へ上りこそすれ」裏に両手叶はず候ゆゑ代筆にて申上候と書たりける、此話など品よくてをかし、小幕の滑稽を書はかやうなかたちに有たき物なりかし、又新作の歌舞妓狂言に一齣か半齣かは浄瑠璃の文を書入るをちよぼ入といふ、是は始趣向の内に其役者を見立操仕立になくて叶はぬ事あり、其時は浄るり(ちよぼ)を加ふべし、文句は成たけ役者の振りの仕よき楼に書べし、余り文花になずみては舞台のびて面白からず、さればとて自他のわからぬ院本は書べからず、歌舞妓の来客にちよぼの文句まで聞とる人はなけれども、院本に気の有人は批判を言ふもの也
【異本、中昔迄は歌舞妓は浄瑠璃の真似をせず、浄瑠璃は歌舞妓を似せず、『続耳塵集』〔民屋四郎五郎俳名江音の撰〕の中に音羽治郎蔵は浄瑠璃に仕立ることを遂にせず、其故は元来操浄瑠璃は歌舞妓を真似て語り、人形も役者の真似をして行ふ也、然るを歌舞妓より操を真似こと歌舞妓衰微の基なりといへり、沢村長十郎〔宗十郎の祖也〕も其心にや、浄瑠璃事を勤むること嫌ひなりしに、銀主より望つよく国性爺に新四郎〔故姉川の祖〕和藤内、長十郎甘輝の役、元より心に入らぬにや当らざりしとなり、死物の木偶を活たやうに使ふが故、近世吉田辰五郎はおやま遣ひに妙を得、故人の格を外して端手に遣ふ、来的[けんぶつ]丸で活てゐる様など悦ぶ是尤なり、今歌舞妓役者やゝもすれば道具まで木偶舞台にて手摺を出し、黒子の後見人足音をさせちよぼ太夫出語りにさせ人形仕立にするを是とす、重井筒上の巻四ツ辻などなり、其後我も〳〵と木偶を真似る、来的も取違へ丸で木偶じやようする抔と誉めることとはなりぬ、活物の役者、人形の死物の真似をすること手柄なるまじと思ふ、近世中村歌右衛門〔梅玉のこと〕竹本組太夫〔藍玉のこと〕と同座にて娘景清八島日記島の場吉田千四に遣はれ首振をせし話あれど後編に譲り略す
所作事に歌と浄瑠璃〔所謂豊後〕掛合等の折は歌浄瑠璃【異本 歌豊後とあり】の文句ども成たけ筆力を尽して書べし、後々節付のうへ世上にも弾諷ふものなれば拙文にては心恥しくなるもの也、狂言により謠を囃子に遣ふ時は内外の内正しき謡を遣ふべし、新作の謠には節付あしくて聞にくきもの也、浄瑠璃にても新うた独吟の歌等にても新作をせし時は、役者へ書抜を渡す迄に早く床〔浄瑠璃三味線〕囃子〔鳴物方頭一人有〕へわたし、節付出来次第に先へ聞べし、文句のわからぬなりに非言を語り諷ふもの也、是は冠字とか故事人名とか言聞せ、語路の運びを呑込せ置ねば作意に違ふ事多し、心得べき事也、建道具も手放れ次第錺らせよく見届置ずんば書割等に誤りあつて、貧家のあしらひに築地塀足代垣を置、あるは貴人の舘に世話欄間をかけ、夏の山家に雪持のかき割をし、能舞台の橋懸りを左右に付なんどする事まゝ有、惣稽古にさしかゝり造作多き時は初日のび混雑するもの也、かゝる誤は作者の不穿鑿となる事也、道具付を渡すとき棟梁と対談しよく〳〵誂の道具は言含め置べし
我父西沢一鳳は祖正本屋太兵衛の頃は上久宝寺町三丁目に住、其節売出す院本の奥書にも音節は此道の父、清濁は文句の母なれば正本まことに珍重すべきもの也、豊竹上野少掾と印せり、其忰九左衛門〔俳名一風〕の奥書に伝奇新法判意扮戯未生且浄丑浄寓棊授文儀共武儀凜耶活手段具託弦誦談又伍齣付可笑楽院本掩的詞曲者清傚之云耳豊竹越前少掾【本ノマヽ】大坂心斎橋南四丁目西側西沢九左衛門板と印。此外に右伝ふる所の正曲の調は節博士何れも其品多し。七行和漢大字のかなづかひを世間あやまりて斯く類板を出す。甲乙てにはの違ひ纔なりとても正本にあらず。此故に西沢九左衛門義教改て梓に寿き予花押の記を添る事しかりとも印せり、こは宝永・正徳の頃なり、後享保の院本には【異本 右謳曲心通俗為要故文字有正有俗且加文采節奏】為正本云爾高弟豊竹越前少掾豊竹筑前少掾江戸大伝馬町三丁目鱗形屋孫兵衛・大坂心斎橋南四丁目西沢九左衛門板と記せり、一風著作のものは『南水漫遊』といふ書に万石通の小野屋膏薬の連ねを賞、曲亭が『燕石雜志』、種彦が『用捨箱』にも見えたり、享保に死してより忰九左衛門、其子利兵衛と連綿のうちに内本町二丁目に宅を移す、夫ゆゑ本町本利と呼けり、父祖より院本の板元なれど明和・安永の頃院本大に廃りて歌舞妓専ら新作興れり、依て父祖の志を一変して、戯場を好み作名を一鳳と呼び歌舞妓はじまりて以来の書を集め、作者奈河亀助・並木五瓶・近松徳叟・辰岡万作・芝屋司馬叟を贔屓にして筋書を渡し書上げさせ、本読内読にはいつも首頭[ざがしら]と並んで一番に聞、添削をする事例となりけり、戯場の書を筋書とも詞書とも根本共台帳ともいひ、三都の作者俳優のみ読事にて他見をゆるさぬ物にてありしを、素人の好人にも読せ、後世誰々が書きしと作者も残れかしと写本に製[した]て一部毎に読方の通言を書
▲一[てんがき]〔一の下にあるせりふを点書と云やくしやめい〳〵のせりふがき也〕
▲ト[とがき]〔トの下にある文をトがきと云役者のはたらき心得を書く也〕
▲ム[ござ]り舛[ます]〔御座りますの略字にて至急の作文なれば也記録書に傚〕
▲■*07[こなし]〔その場合相応の仕打銘々の振りにてするをいふ也〕
▲立廻[たちまはり]〔ちよつと切むすびあるは摑み合ふなど世話だち共大勢立廻るを大立とも〕
▲思入[おもいれ]〔詞を一寸思案するを気味合こなしに似て又思入はべつなり〕
▲宜[よろしく]〔その場の様子当意即妙を云〕
▲疾々[しかしか]〔とく〳〵とよめり手早きことを云〕
▲見[みえ]〔何となく見物への見へよきをいふ〕
▲留[とゞ]〔立廻り或は詰合のとゞまる略語也〕
▲丁々[ばたばた]〔組子とりて出ぬ内よりかげを打を云〕
▲合方[あひかた]〔役者せりふの内のあしらひ〕
▲唄[うた]〔舞台へ出這入あと合方になる〕
▲返[かへ]し〔まくなしに道具かはる〕
▲鳥屋[とりや]〔花道の口〕
▲橋懸[はしがゝ]り〔右の出口中古まで舞台は四本柱有てはし懸りあり能舞台の如し〕
▲臆病口[をくべうぐち]〔左の口ゆかの下〕
▲向[むか]う〔花道〕
▲屯々[ちよん〳〵]〔まく引拍子木〕
▲留[とめ]の拍子木〔是にて幕開くとかせり上るとか〕
▲心意気[こゝろゐき]〔じつとなるしうち也〕
様々あり、
呑込す・早める・屹度[きつと]なる・能所[よきところ]抔いち〳〵読方を記し売出せしゆゑ今時の如く弘まり、梨園など来賓に出難き貴人方にも読、又遠国の田舎芝居にも筋立言合せの世話なく正本を持行事となりぬ、故に今我家号を呼んで三都ともに正本と云ふ、文化九申年臘月四日に歿して釈浄西と法号す、此年の夏東都狂歌堂真顔〔天明ぶり狂歌連四方連の宗匠鹿津部の真顔俳諧歌場と称す〕息柳亭千万多画工辰斎浪華に遊歴の内狂歌の友たるがゆゑわが内に宿せり、其頃の俳優も風雅の友に加へ四方連を組、吉野・和歌の浦を始、紙園会・天神和歌祭に誘引して仲秋東都へ帰国に及び、留別の会の折から西沢の家号に倣ひ正本仕立のかたちにせし狂歌の摺物を製し風交のかた〴〵へ配りけり、外題に東都の書方を交へしは狂歌堂主に送るがゆゑ也、正本に因みあるゆゑ爰にあらはす、
当る申秋狂歌浪華土産月名残本町橋の場、雛雄・辰斎・真雛・珉子・真顔・かぶら坊・千万多・年布留・魚麟・真垣・百成・璃寛・太夫本〔とは父一鳳也〕、造り物舞台一面の橋舞台先波板下座の方障子屋体椽先に三宝かざり付いつもの所へ月出ると幕あく、仕出し大勢出で △一、噂すれば影さす月の太夫さん 〇一、アレ〳〵そこへ見えるは〳〵 珉子 一、さし向ふ月の桂の花道の、程よき所に峯の松がえ 魚鱗 一、珍らしや今宵くまなき月のまへトヒヨ〳〵と雁ぞ渡れる まがき 一、月にとぶからすのみかは鳩までも戸屋の内にてばた〳〵とする雁いち羽おつると月の 辰斎 一、あり〳〵と片敷袖や宿のさむしろ 百成 一、宵の間の黒まく切て落すより仕かけの月のいでゝさやけきチヨン〳〵で道具も廻る 吉三郎 一、盃の顔も傾く山の端の月下座の薮たゞみよりぬつと出て 本り 一、月のひかりはようムり升 年ふる 一、遠ぜめは宵の程より太鞁三昧月は峯にぞせり上となる 真ひな 一、月にほれまだしき宵と詠むうち夜あけの鐘のごん〳〵となる ひなを 一、いつしかに今宵もふけて月はゝや深山の奥ヘツイト這入れり 蕪坊 一、鎗ぶすませうじ取のけ見る月に気も浮瀬で大立と成る折々に月をもてなすこなし有て ちまた 一、あやしき雲のふるまひじやなア立かゝる雲を見事に投のけて うた垣 一、かまはずとゆけト月にいはまく
文化九年壬申八月大吉日日数六十余日大々叶
狂歌板元 西沢一鳳
右の内真雛といへるは家兄利兵衛幼名助市俳名を鳳堂と呼けり、此年の冬一鳳死したりと東都狂歌堂へ申送ければ浪華土産の外題と同じく月の名残にて有けりと真顔よりも申来りける、鳳堂真雛も父の跡を継し所天保十一子年二月廿九日歿す、法号ば釈鳳音、存生の句を探れば「元日もやすまず暮ぬ水の音」「漏屋根をついでに直す菖蒲哉」「栥[しとき]まで霧の香嗅し野の祠」「もちつとで時雨にあふぞ瀬田の橋」、 次男利助、幼名利蔵、幼少より戯場を好み、堺筋通清水町に住で書林正本屋利助(書林栄海堂は義弟に譲り)、父の名を継ぎ西沢一鳳軒、又狂言綺語堂共呼けり、俳名は秋声庵滄々、始蒼々亡父が良闇忌、祖一風が本然忌に当りし時、先中村富十郎も五十年に成ければ追善には女鉢木の増補を著せり、其時の番付を摺物にして今の慶子より配れり、
加賀の梅田による御馴染の〔梅〕定紋越中の桜井に寄る御存知の〔桜〕の替紋上野の松が枝に寄る御贔屓〔松〕の誂紋
将[いで]其時の着到に離[ちぎれ]具足の武者ぶりは思の外な焚火の返報情にこもる三木の其名芳経世が忠心
会稽雪後日鉢木 本領合三ケ庄
扨も其後の雪降に細布衣の艶容姿は以の外な子故の愛着筐に残す三人の其名懐し白妙が貞心
捻梅の紋は梅玉佐野源左衛門経世、裏桜は浅尾与六の紋にて佐野源藤太経景、光琳の松は今の慶子元松江共常盤とも言ひし頃よりの紋也、父祖の狂言を翻案して改名李叟とよぶは幼名利蔵と呼びしゆゑ也、
又天保の始の頃東都戯作者花笠魯助浪華に来り催主となつて一泉〔皇都東山真葛が原売茶園一服一泉〕、金沢龍玉〔梅玉〕等と共に本読会をせんと謀りしも魯助〔俳名文京〕は東都に帰り梅玉・一泉も故人となり画瓶とはなれりける
■*07
閑らくのつらね
天保辛丑の春、予東都に趣き、著述の内、其冬、中村座〔堺町〕、市村座〔ふきや町〕の戯場、焼失しければ、暫の連ねに倣ひ、閑楽[ひまらく]の連ねを演て、戯れし事有、■*08を紋にこぢ付、鉢の木の梅も桜も榾[ほだ]と成、雪を明りに冬龍、一陽松劇場[いちざのはるのまつのかほみせ]、第一番目に書て、三建目源藤太経景に、西沢李叟新場[しんば]座と印し、夫好は阿房に似て、飛で散財し、人は色情に依て、徘徊す、元より名題の情け者、梅の浪華の西沢から、花の吾妻の名所を、兼て見たさの雪の暮、古郷遠く立出て、勧めに
■*08
新狂言月並本読会
助声 奈河一泉堂
判者 西沢一鳳軒
湖上の李笠翁は、唐山編、戯文漢、其雷名を耳にきこらい、びんかん多冊の伝奇を編て、世に伝る事夥し、平安の自笑・其磧は、皇国の戯作を編出、操浄瑠璃の劇文も、門左・一風に益開け、出雲・半二に愈巧也、夫よりこなた、歌舞妓の脚色も、口建したる往古はしらず、正本に詞書仕肇てより、江戸に菜陽・三笑あり、浪華に正三・亀助有、其他は邂逅、作名ありといへ共、皆牽合付会たゞ糟粕を嘗るのみ、元来、演義小説は、文人才子の偶然に成ものなれば、或人の勧に随ひ、一日の狂言、一回の趣向、慰がてら作意ある諸君子、一場づゝ、御認有ならば、催主の幸福甚しからんといふ、時代物・世話物・御草稿の上、新古に拘らず、連続致候分は、判者校合有て、御作名のまゝ狂言に致させ申候、以上、【以下異本になし】浄瑠璃は、節付相成候て、出板申候間、役名は誰々と大座に御仕組の上、催主迄御知らせ可被下候、
会席 例月 十八日 なんば 松の尾
聴衆 歌舞伎惣役者中 上るり太夫連中
催主 金沢龍玉 花笠魯助
【異本 こゝに閑楽のつらねの図あり】
ふわと乗物町歌の名におふ成駒に、まてと一声かけられて、袖打払ふも古嗅く、客をふるのは女郎の野暮、ちぎれ具足のつぎ合せ、古狂言に飽果て、新場の魚の朝市に、柿の素袍や烏帽子籠、市川の流れ、一樹の影、逸物の木ばに跨、長刀ならぬ切筆追取勝鬨上げて着到に、罷出たる某は、祖父が作意の北条時頼記、子々孫々に至るまで、道崇殿のもて余し、源藤太経景といふ難作者、当年積つて十八歳、もひとつ重ねてやがて四十に手が届くも、何と若いじやムり■*09んか、明暮遊ぶ一鳳が、もふいくつ寝て正月と、松梅桜、三番叟、三座は此身の三箇の庄、是が株木の大太刀と、ホヽ敬白
文化十酉の春より卅余年の此のかた、戯場に遊び伝奇脚色する事、十万言に過たり、桜はいつも白雲と見、紅葉は常に錦と詠め、夏雪を降らせ、冬帷子の物好は、幼稚すかしの化物話にひとしく、狂言綺語の変体取るに足らざらんや、始、璃寛・梅玉に趣向をたてそめ、巌獅・慶子が首領[とめふで]の劇場に筆を弄び、東都にては、白猿・翫雀が首領の梨園に戯編をのべ、此春筆をとゞむるに就て、竊に己が著作の大概を告る、是自得の見にして、初入の門子に授るのみ、
時天保癸卯年晩春 西沢狂言綺語堂李叟
■*09
劇場伝奇作者新狂言を著述の時は本文に出せし如く、初めに世界寄をして筋書仕〔仕事にかゝると云〕・内読〔草稿のまゝよむなり〕・本読〔此内役者のあつらへを聞〕、狂言納まれば看板・外題を出す、次に書抜読合より稽古にかゝる、此内道具付・衣裳付・小裂付・小道具付は狂言方にさせ、番付・画本等をする内、鳴物・節付・調ひ稽古かたまりし時、中ざらへ又付立とも云ひつ、幾日より始ると日披露[ひびらう]を出し惣稽古これを惣ざらへとも足揃とも云、翌日初日なり、出揃目出度打納めの日を千秋楽と云、此余に口建[くちだて]・ぶつゝけ・小返し・急稽古の時に通言あり、又狂言を書ても遣はざる時は是を御蔵になりしと云
西沢文庫伝奇作書初編(言狂作書)下の巻終
玉の貴き瓦の賎き三歳の嬰児もよく分てり、されど玉に朝鼠あり瓦に銅雀あり。爰に此一帖古へ今の俳優に筆を弄び思を述し人々の伝をあげ、其玉の屑其瓦の美なるものを集めものしたれば、塞翁もみなむ日あらば楽しむべし、褒姒も見る時あらば笑ふべし、我楽しみ我笑ひて其しりへに一瓦を添ふ
白髪少年場の主
往昔北条越後守平顕時は武州金沢に文庫を営建して内に和漢の群書を納め、儒書には墨印、仏書には朱印を用ひ、世に金沢文庫と賞し、上杉安房守憲実再興有しかど荒廃して今は書籍散失せりと聞、此西沢文庫は予が友西沢李叟が其祖より伝はる竹豊両派の院本は素より、八文字舎が戯編を集めもて墨印を押、亡父の集めし三都戯場狂言の正本には朱印を押、数万巻の書を綺語堂に蔵むる、実に西沢文庫の名偽りならじ、曩に天保癸卯の春、康煕帝が天地一大戯場の聯句を世事是狂言綺語と賦し、言狂作書三巻を著し、翌甲辰の冬なにはづに作者此度冬籠と自詠し、『讃仏乗』三巻を輯録せしは狂言綺語堂の謂なるべし、弘化丁未再び東都に遊び、此夏帰坂して紀行の狂詠・戯文を集めて『綺語文草』五巻、『讃仏乗』の二輯三巻、『言狂作書』の拾遺三巻を著す、李叟は幼名利蔵と云しにや、湖上笠翁を象る物歟、書肆の通号を本利と呼て遊戯三昧風流一鳳軒伝奇脚色の名を賞して
月雪に花に日本李笠翁
時嘉永己酉初冬 洛東山の隠老
白髪少年場主識
西沢文庫伝奇作書拾遺上の巻
役者論語に『舞台百ケ条』を著す〔元祖坂田藤十郎師匠杉九兵衛と云花車形の書置く書にして心得を云〕『芸鑑』〔昔の作者富永平兵衛〕書置る書・『あやめ草』〔元祖若女形の名人芳沢あやめがはなしを福岡弥五四郎後人の為書とめたる書也〕・『耳塵集』〔名人のはなしを金子吉右衛門しるす〕『続耳塵集』・〔民屋四郎五郎江音書とめし書〕・『賢外集』〔染川十郎兵衛の俳名を賢外と云聞覚しはなしを狂言作者東三八書置る書也〕・『佐渡島日記』〔蓮智坊と云は佐渡島長五郎の法名也昔今芸者心得になる事を云〕右七部の書は俳優家の亀鑑なる物、安永五申の秋八文舎自笑の板なり、『芸鑑』に曰、何事も時に随ふ習ひなるに、わきて狂言の風は時代品替れり、昔狂言尽の頃古今大當りを聴し浪人盃氏神詣の狂言こそ古風なれ
萩山の家中高坂釆女といふ武士馬上にて使者に趣く途中にて道の景色などほめ家来迄せりふ渡り釆女が曰向うの舘は聟君のお国なれば国境より行義正しく何れも麁相なき様にといへば皆領掌の答あり謡に成ると釆女馬を廻らししと〳〵行向うへ深編笠着たる浪人者あゆみ来てしほ〳〵と平伏すれば家来咎めて何者なれば慮外もの笠を取て片よれろといへども答へなしイヤ推参なと侍共よらんとする所を釆女ヤレまて〳〵彼者我に向ひて平伏の体見ゆれば是全く慮外にあらず去ながら笠をとらぬは心得ず是そな男某に向ひ用有気に見えたるはいかなる人にて何の用事子細きかんとありければかの男諾て釆女殿には御堅固の体先以て大慶至極以前御懇意の拙者なれど年へたれば声も聞忘れ給ふべし今日此道筋を御通りと承りあまりおなつかしさに最前より待受御馬先に平伏いたし乍ら御勘気を蒙し身なれば顔を貴殿に見せるも恐れ有又面目なく存慮外の編笠まつ平御めんと詞の内釆女つく〴〵思入有てむゝ扨は貴殿こそ以前の傍輩轟弁右衛門殿な此方もなつかしく存る某は御用の道筋馬上は御免編笠を慮外と申にあらずお顔が見たいお断の段何かくるしかるべきさあ〳〵笠を取給へ弁右衛門殿に違ひはあらじと詞かけられ扨て〳〵よくこそ御推量いかにも弁右衛門が成の果お恥かしやと笠とれば先は御無事でおひさしやと互ひに経りし物語聊の事にて勘気を得られし貴殿申出さぬ日とてもなし何とくらし給ふやと問はれて弁右衛門あゝ忝なき御詞浪人の身なれば朝夕の煙もかつ〳〵習置し謳の袖乞無念とは存ながらもと諌言過て御勘当かならず時節を侍れよと其元の御詞をたのみに今日迄命永らへ候也御上使とあれば殿の御名代御目見いたす心地仕る是を浮世の思ひ出に致す了簡随分御無事に御勤あれおいそぎの妨名残りは尽ずお暇と泪ながらに立行を暫ととゞめ仰の如く今日は殿の御名代追付御勘気御赦免有て所領安堵の印の盃を致さんハツアこは有難しと又手をつけば釆女扇をひらき途中の馬上取あへぬ心ざしの大盃いざ〴〵つげと小姓にいひ付れば同じく扇を銚子としつぐ思入呑こなしさあいざと弁右衛門にさす此お盃といひお志の深切いつは呑ずとてうどたべんと三度戴き呑思入有て時刻うつると立ざまにお志の御酒に酔たりと足もとひよろ〳〵国を祝ひ礼をいふに舌廻ず小歌ぶしこなたは馬上に泪ぐみおさらば〳〵と別れ行幕
此一段にて狂言大当りせしとなり此余昔の狂言は多く衆道の趣向有けり若衆形の立ものは若女形より高給金なり其時分には町々にも衆道はやりし事は自笑其磧が両作の『傾城禁短気』に男色女色の大問答などあり読て見るべし
殿さま氏神詣遊され六法の出所作あり跡に曳馬行列踊り其頃の歌二上り殿のお馬はさび月毛連銭あし毛鹿毛かすげしと〳〵打てばかけあがりお江戸そだちの髭男お馬の口をしつかりとつりてん〳〵髭男つりてん〳〵〳〵つりてん〳〵りん〳〵〳〵〳〵りんとはねたるいさみ馬つなぎとめたる恋のせき札と此唄にて舞台へ来て殿皆々太義じや休め〳〵家来手をつき先殿様には神主方にて御休息と歌にて皆々はいる奴共はけしきを詠め小姓の器量を評判して艶之丞がよいいやおらは友弥殿に惚れたと色々噂するを侍出何をたはこと御小姓の噂今一言いふてみよと咎られてそりやこそと跡を見ずに迯這入れば神奴お神楽々々と呼はりて侍はいる所へ艶之丞出て神前に向ひ拍手打主君国家太平御武運長久と祈念する折から茶道珍才うしろに立艶之丞が袖をひき小声に成てそのもとのお為を申さん殿さまの御寵愛は其もとお一人と思ひしに此間は専ら友弥殿に御鼻毛を延し給ふ拙者はお使に参るこなたは神主へ参れと仰付られは跡にて友弥殿と殿様と契らせ給ふはかりごと御油断あるなと焚付てお使に走り入艶之丞腹を立様々友弥め憎やはらだちやと妬のせりふある所へ殿様おたちといふ内に家来数多出て並ぶ殿立出給ひ友弥に仰せて艶之丞を呼給へ共返事せず殿見給ひこりや艶之丞もはや帰らう是へ参れハウ爰へこいと手を取引よせ給へば艶之丞物をもいはず殿の顔を見てふいとふり切橋懸りへはいる是は扨きやつもついと行おつたと草履取を呼給ひコリヤ艶之丞の仕方はどうじやあろと思ふぞと尋ね給へば草履取又殿の顔を見てふいとふり切ついとはいるかくのごとく家来共を一人〳〵呼び問給ふに皆々同じくふり切はいる扨もめんようなる今ははや引馬計りに成たと馬を引よせこりや馬よ何と艶之丞がふいといた心のどうであろと思ふと問給へば馬も殿の顔を見てついとはいるが幕
今思へばかやうな狂言が大当りとはおかしな様なれ共その頃の見物かゝる狂言をあつさりと面白く思ひ又役者もかやうの狂言をよくこなし勤けるとぞおもはる
元文二巳年薩摩の侍早田八右衛門、大阪北の新地曽根崎三丁目大和屋十兵衛夫婦並桜風呂抱へ菊野と云女郎下女二人都合五人を殺せしあらましを尋ぬるに、八右衛門菊野に思ひ込み段々と欺かれしより事起りし也、八右衛門は留守居に付添ひ登り居たるが〔留守居の与力也〕此年の五月に帰国の日限来り留守居と共に国元へ帰るべき所、国許より時計のお誂へ有之ゆゑ先達て竹田近江方へ誂へ置しかど、甚だ六ケ敷細工なる故出来隙取止事を得ず、八右衛門は大阪に残り時計出来次第帰る積りなり、扨留守居は弥明日御帰国とて銀主より北の新地にて振舞いたしける刻、八右衛門も留守居と同道にてかの茶屋にいたりぬ、銀主よりは馳走として芸子・法師・幇間・其外野良まで呼よせ心を尽してもてなしけるに、留守居の相方いよといふ女郎此節病気にて引籠り勤なり難きゆゑ甚残念に思ひ、妹女郎の菊野に云々の訳を語り我代りに勤呉よと頼みければ、菊野も世話に成し姉女郎の事故早速納得して留守居の伽を勤めぬ、此時八右衛門は菊野を見染ぞつこん思ひ込て、何卒我相方にせばやと思ひ居たりけるが、座敷は手をかへ品をかへ走にて【走の上馳を脱するカ】各機嫌よく興に入夜も明方に成りければ、暇を告て留守居は帰国の出船しけり、跡に残りし八右衛門は夕見染たる菊野の事忘れがたく、夜に入るも昨日の茶屋は如何と思ひ、大和屋十兵衛と云茶屋に行て菊野を呼に遣しけるに、早速菊野来りて八右衛門を見ていふは、あなたは昨日のお客人様その席のお留守居様の御連中、逢舛事はおゆるしとふられて、八右衛門は当惑ながら、いや〳〵夫は苦しからぬ事、かの留守居といふは此度国元へ帰られては再び当地へ来らるゝ事なし、すりや昨夜限といふ物なりなどゝ詞を巧みにしていひければ、菊野もかれが真実思ひ込たる様子故、日柄内証の借銭の助にもと思ひ、そこ〳〵に相手に成て其夜は座敷計にて帰りける、夫より八右衛門は昼夜となく通ひし故、菊野も打解たる顔して簪買への、鏡袋拵るのと金をせがみ取、その上着物までも拵させ取る事はとれ共、兎角病気を言立逢はぬ様に立廻りしこそ道理、堂島中町銭屋善兵衛といふに菊野はふかくいひかはし居れば、日柄紋日は八右衛門に買はせて、その身はみす〳〵な病気をいひ立銭善方へ行て忍び逢ふ事毎度なり、八右衛門も初の程は左も思はざりしが、我を出し抜銭善に忍び逢ふ事を聞、其上誰がしたりけん狂歌に「させ〳〵といふても安い薩摩櫛とけて菊野がすく歟と思ひて」と云ふらしけるが、後にはすこし違へて「させ〳〵といふてもあらい薩摩櫛すかぬ此身は譬身をけづるとしてもときやせまい」と節を付三味線に合してはやり歌の様にうたひける、是に依て八右衛門今は早堪へ兼、おのれ売女め一討にして我も腹切死なん物と覚悟きはめしきつそうを伴助と云家来夫と悟り、涙をこぼして段々異見いたしける故八右衛門も納得して、先事済ぬ、然れども菊野にかゝり時計代の金百両の内廿両遣ひ捨て不足と成し故、是に行当り当惑いたしけるが、爰に傍輩の若侍に宅之進といふは八右衛門の親父に世話になり学問兵術の師範たるにより、八右衛門とは別て懇意に交りける、依之八右衛門が此頃の行跡合点ゆかずと思ひひそかに対面して深切に異見致し、其上詰らぬ事もあらば申候へ手に合候義ならば何にても承らんといふに、八右衛門大に悦び、菊野に欺かれし始終及金子不足せし事迄不残心底を打明語りしかば、宅之進も外ならぬ八右衛門が事ゆゑ早速金子調進してわたしければ、八右衛門押いたゞき〳〵扨々忝此御恩死しても忘不申と懐中し、最早此金ある上は当地に滞留にも不及、明日帰国致すべしとくりかへし〳〵一礼のべて別れける、夫より八右衛門は時計も取寄出船の用意を致し置て、知音の方へ暇乞に廻りしが、何方にても暇乞の盃とて酒を出せし故殊の外酩酊に及び、猶又しるべの茶屋へも行んと小唄を諷ひ千鳥足にて曽根崎三丁目大和屋十兵衛方へ趣ける、此節菊野は八右衛門が重ねて恨み有噂を聞、万一あやまちあらんかとて親方より外の店へ預け置、やがて八右衛門帰国なれば、暫しの間忍びて夜ばかり馴染の客は勤居しなり、扨も八右衛門は大十方へ来り暇乞を告、其上にて菊野が事を尋しかば十兵衛妻とめ答へて、菊野は京へ仕替にお出なんしたといふに、八右衛門も誠と思ひ田葉粉一二ふく呑帰るとて表へ出しが、そこ爰にて呑し酒ゆゑ益酔に乗じて見世付女郎をなぶらんと、新地中をかけ廻りてぞめきけるが、かの我方にとあてし小唄を往来の謠うて通るを聞と、忽怒りの心火くわつとせしが、能思へば此地に居ざる菊野なりと胸を押へて、そこ爰覗き歩行て帰らんとせし向うより、菊野何心なくわしや大十へすまぬ客で行わえといひつゝ摺違ふ計に行過る、頃は七月二日やみはあやなし掛行燈の灯の明りにて顔は定かにわからねど、声は聞しる菊野めのれ【本ノマヽ】振帰り見れば、ちよこ〳〵走りにて行後姿寸分違はぬ菊野めおのれ此まゝ置べきか、と跡より付て来たりしが、菊野は八右衛門をちらと見たるゆゑ、急いで大十へ走り入其まゝ二階へ上り声もせずして忍びゐる、此夜二階の客は堂島銭屋善兵衛・平野町絵屋仁兵衛・幇間磯八・仁兵衛相方湊といふ女郎と都合四人来合せて居たり、依之菊野を呼にやり菊野は泊りの約束にて来りしなり、扨引つゞいて八右衛門大十へ来り声をあらゝげて、大阪に居る菊野を京に居るというて武士を欺くかといふに、妻のとめはつと思へど隠しかけたる事ゆゑ、嘘付はいたさぬ京に居なさるに違ひはないと云に、八右衛門弥怒り二階へ上り、菊野めを引摺おろさんとは思へ共、さすが武士客座敷へふんごむも如何と胸をおさへて、「然らば京に居る菊野が今此内へ這入りしはいかに、我とくと見付跡より付て来たり」と云、とめ笑うて「夫は湊さんじや」と云、「いや菊野じや」と争うて居る所へ、家来伴助は土産物等買調へ主人を待共帰らざれば心元なく思ひ、先新地を尋んと此場所へ来り様子を聞て胸をいため、何卒無事に旦那を伴ひ帰らんととめにむかい「さほど湊に違ひなくばその湊とやらんを是へ出して旦那のおめにかけ候へ」と目でしらせければ、とめ早くもさとり「そんなら湊さんを呼び升て参り升ふ」と二階へ上り、湊にとくといひ含めやがて二階より連て下りしかば、湊は八右衛門がそばに行、「最前松みよの門で行合升たはあなた様かいな、わたしや爰へ気をせいて来たゆゑ、どなたやら覚ません、私を菊野と見ておくれなましたかヲヽ嬉し」と云に、八右衛門はこやつも同じ穴の狐どももう了簡がとも思ひしが、伴助の手前又場所も悪しと態と面を和らげ「いかさまさう聞ば身どもが見違に極まつたもうよい〳〵」と機嫌を直し暇を告て表へ出、おのれ夜更なば斯々と思案を極め、半丁計来てふと見かへれば後より伴助付そひ来れば、八右衛門立留り「コリヤ伴助その方も明日国もとへ帰れば又と当所へ来る事成がたし、最早今宵限りなれば大阪の女郎を買て国もとへ土産にせよ」と旅銀少々遣し見世付女郎を買はせ、其身は一人と成り、今は心安しと又新地中を歩行、夜の更るをぞ待居ける、大十家内は手に汗にぎり居たりしが、八右衛門機嫌直して帰りしかば、各吐息をつぎ先安堵致しぬ、銭善は最前より二階にふるうて居しが、気色あしきとて磯八を連て帰りける、跡は仁兵衛湊と二階にとまり、菊野はとめと下座敷の蚊帳に二人臥し其間に十兵衛臥、台所の蚊帳には下女二人臥居たるに、次第に夜も更皆皆前後も知らず寝入たり、扨八右衛門は既に丑満の頃になれば、時分はよしと立戻り、十兵衛が隣の路次より這入裏へ廻り、庭先の切戸を押はづし椽先へ来り見れば、暑にや雨戸を少し開かけあれば直に座敷へふんごみ、蚊帳の外より伺へば菊野とめは前後もしらず寝入ばな、しすましたりと釣手の四てんを切落し蚊帳の裾を一つに束ねねぢ結べば、袋に入し鼠の如く二人はいかにもがけども出る事叶はず、声を立る事【所カ】を蚊帳越に刀を次てぐさ〳〵と突ければワツと苦しむ、その声に十兵衛目を覚し、やれ盗賊よと呼はつて蚊帳より出る所を飛かゝり肩先一つ切付、返す刀に右の腕を切落せばそのまゝ爰に倒れたり、台所の蚊帳に寝入し下女二人はなきさけびて逃出んとする所を、八右衛門走りよりめつた切に二人を庭に切り倒す、二階には仁兵衛と湊最前より此のありさまを見て魂きへ手足の置所なく、ふるひ〳〵かけ廻り表の方の戸を明、庇の上なる目かくしを破り是より飛下んといへど、湊はとても飛ぶ事叶はねば、たとへ切らるゝ共爰に居んといふ、仁兵衛も湊をのこし置ん事不便に思ひ、さらばいづれにても隠れ忍ばんと、かしこの押入の中へはいれば長持の上に蒲団をのせたり、此ふとんを身にのせて二人は長持の上に忍ばんとする拍子に、天の助け給へる命にやわづかにせまき長持の向うへ二人共落たりしが幸ひにして忍び居たり、扨八右衛門は五人の死骸を片端より伺ひ、少にても息あるを突通し〳〵て今は心よしと悦び、猶二階に客ある体、助け置じとかけ上り爰かしこ尋ね廻り、釣たる蚊帳を引まくる拍子に傍なる行燈打転て灯きへ真くらがり、物のあいろもみえざれば抜身をふり廻し探りもて、押入の長持蓋引あけ抜身にて突廻れど、夫と手答へあらざれば、かく蚊帳釣り寝たる跡なれば何にもせよ居るに違ひなしと、猶二階中を尋ねめぐり表の方へ来りし所、戸明放し目かくし板の破れたるに、扨は爰より迯帰りしと思ふ折節、鶏の音八声を告るに心せき、今は是迄と走りもとに行、井水汲て刀を洗ひ身を繕らうて一さんに屋敷にぞ帰りぬ、扨夜も明百姓小便取に来り見付かくといひしかば、追々寄集り猶聞付て他町遠方よりも見舞やら見物やらその騒動大方ならず、直さま御公儀へ御届申、是に依て早速御検使下され御吟味の上、相手は大体八右衛門に極り直に薩摩屋敷へ仰遣はされたるに、八右衛門は早出船致したるにより、早船を仕立追かけ早速召捕牢獄仰付らるゝ、夫より明る午年二月十二日八右衛門死罪の御仕置に成、首は千日に梟首と成り、係り合ひの銘々も事相済けり、右の一件を廿一年立て浄瑠璃に取立薩摩歌妓鑑とて宝暦七年に出せり、歌舞妓には国言詢音頭とて出す、又薩摩歌五人切子とも外題をかへてせしかどもさ迄の当りもなかりしが、浄瑠璃には木偶の名誉吉田文三郎〔宝暦年間の人〕が遣ふ八右衛門の人形、楽屋にて夜な夜な動くなど人口に膾炙す、安永六年浄瑠璃にて置土産今織上布と外題して右本文の通りを取組たり、是を歌舞妓にとりたて初嵐元文噺とも呼けり、此頃の浜芝居にはあれど佐久間源五兵衛〔早田八右衛門の事柴崎林左衛門〕、中間伴助〔家来伊助萩野伊太郎〕、笹野三五兵衛〔傍輩宅右衛門百村友九郎〕其余銭屋善兵衛を絵屋伊三郎とし菊野大十などは名を其まゝにして大当りを取けり、此柴崎林左衛門は実悪なれど当芸多き名人にて八島日記の景清、釜ケ淵の五右衛門、文月の八郎兵衛など古今になしと嵐小六〔小六玉也〕もほめしとなり〔此柴崎の咄のちのとくべし〕、此源五兵衛にて五人切の所は故人吉田文三郎の木偶にせし通り、死骸の腹の疵口へ思はず足をふんごみ、足先に腹臓を引かけ上る思ひ入物すごき事、見物身の毛よだちしと毎度老人の咄に聞たり、此柴崎は実悪の役者なれば八右衛門の役を敵役にてする故かゝる凄みを思ひ付しものなり、今専ら用る五大力の源五兵衛は真立役なり一つに混ずる事なかれ、扨前編並木五瓶が伝に出たる五人切は寛政六寅年中の二の替りに島廻戯聞書とて島津の狂言の継に勝間源五兵衛に尾上新七、笹野三五兵衛に片岡仁左衛門、芸子菊野に芳沢いろはと見込、本文に拘らず書て狂言の筋一変す、前の時代の間は評あしゝ、富市の場より毎日大入をする故奥だけを裂て後に五大力恋緘と外題に改、三都に及び伊勢・尾張にても仕はやらせる事とは成けり、是五瓶の手柄にして五大力とは神か仏かの名にして、既に住居神宮寺にありて其頃のやはり神なり、状の封じめに五大力と書て送る時は、他見を忌て滞なく達するとて其頃は専ら流行しけり、五瓶三五兵衛との役名より計らず此五大力を遣ひしが今五人切といはんより五大力の方通名となりけり、元文二年より今年迄百十三年になりけり
大坂新靭町の八百屋半兵衛嫁お千代と心中情死したるを、直に霄庚申として出せしは誰もよくしりたる事にはあれど、予幼少の時新靭の老人の話に聞しは、実説も浄瑠璃の如く唯違ひあるは八百屋の姑婆には虫も殺さぬといふ程のよき人なり、伊右衛門といへる老人もあながち悪人ならねど、兎に角若い女好にて下女雇女を孕せる事度々にて、嫁お千代を口説事甚しければ、姑に是を告れど、まさか男の半兵衛には此事もいひ兼年月を過す内、半兵衛は用事有て遠方へ行長らくの留主中なれば、舅伊右衛門かゝる折にこそ本望を達せんとてか、昼夜とも透間さへあれば嫁をくどく、老婆是を気の毒に思ひ常盤町の伯母の方へ預け、世間の人の問ふ時には連合の悪性よりとはいはれず、よん所なく嫁の身持家風にあはぬ故預けし抔答へけり、半兵衛帰宅の上は子細なくお千代も呼戻せしが、伊右衛門ますます煩悩の犬の如く人めをかまはず口説、聞入ざるを根にもちて養子聟半兵衛すこしの仕あやまちも仰山に詈りけるにぞ、老婆も種々と諌言しけれど、伊右衛門は猶逆立物いひの絶ぬ故、義理にせまつて暇を出し、霄庚申の夜遂にはかなき情死をしたりとぞ、浄瑠璃に書く時には、老婆を悪人にせぬ時は憎み増さぬ故にや、門左衛門の作意より善人かへつて悪人といはるゝも、老婆の不幸なるべし、又皇都虎石町の帯屋長右衛門、信濃屋おはんの跡を町内の〔虎石町〕好者家穿鑿して百回忌の追善を営み遣はせしと云事、以前隣町に住友より聞し事有、是も歌舞妓狂言浄瑠璃とは違ひ、お半懐胎したれば身二つにせんと丹波の親類へ預んものと、長右衛門付添ひ夜深く立て樫原へ行んとする途中にて、盗賊にあひ旅用金着替等を奪とられ、両人共にしめ殺され跡の死骸を心中情死の体にして、桂川へ打込まれしなりとぞ、其後盗賊相知れお仕置になると聞、此狂言は安永元年歌舞妓にて立朧桂川と云、是を堀江市の側此太夫座にて安永五申年浄瑠璃に仕組、桂川連理柵とは云也、近来お勘長三とて〔おはん長右衛門〕の前生を拵らへしは『月桂新話』と云小語物より出たる也
本堂三宝の間七字の題目左右に四季の造花能所に浅黄の掛無垢をかけし棺を直し此前にいろ〳〵の飾物惣て南北葬式好の道具半鐘に連れ奉納の幕引あげる
ト直に葬礼の鳴物に成り向ふより袴股立棺脇四人蛇燈籠を持敷石の上に立並んで
一 四人 今度此度老人のよい年だけによい往生二つ合せてよい〳〵といへば四神は当りまへ夫にはあらぬ蛇どうろう四人一所に差かけべいか
ト又鳴物に成りみな〳〵本堂へ来る此時奥にて
一 よび 葬式の刻限
ト是にて施主みな〳〵宜敷住ふそれより
「今身より仏心に至る迄たもちたもつも法華経の御法の徳や題目の利盆の程こそ有難き
ト奥より仮僧呉服屋へ誂の袈裟衣所化二人後に上下の世話人天蓋を差かけ須弥壇の前へ押出す是を見て
一 施主 是は
一 世話人 けふ御住持の他行により仮りの引導
一 仮僧 一天四海皆帰妙法落る所は法華一人の成仏と祖師の極めし宗旨のいしづえ皆題目をとなへろヱヱ
一 皆々 唯々御悔み申上舛る
ト此時向うばた〳〵にてのりおくれの施主高股立にて薬鍋と帛紗づゝみの短冊を持走り出で
一 施主 まつた〳〵成仏解脱の御引導暫御待被下升うけふ葬式の供にもおくれ参りしも南北をせめてま一度いかしたくそれ故持参の独参湯かつは是なる辞世の短冊御覧被成て下され升う
ト仮僧の前へ出すひらき見て
一 仮僧 遺言に辞世発句とすゝむれど死ぬ気なければとんと失念
一 施主 サア死ぬ気ないとの歌の心何卒蘇生致させ度夫故持参の独参湯
一 世話人 サア役にも立ぬ独参湯呑せし上にて生るとも年をかさねし上からは苦痛をさせなば大きな罪さすればこなたはきどくな罪だぞ
一 施主 きどくの罪との一言に手出しもならぬか
トほろりと思入
一 世話人 いらざる落るい黄泉のさまたげいで此上はいそひで香刺引導終らば施主のめん〳〵とく〳〵焼香
一 委細畏つてムリ升
トどろんと葬式の太皷に成り施主きつと成て股立をおろし幷能居並ぶ仮僧たいまつを持て棺に迎ふ所化髪刺を持控へる此内始終わや〳〵と題目の声よろしく有て
一 仮の浮世に仮僧が祖師の利益をかうべにいたゞきいでや冥途へ導引かん
一 寺法なれば仏を改め香刺せん鶴屋南北今が坊主だどれ
ト立かゝる此時棺の内にて
一 南北 香刺しばらく
一 世話人 いや〳〵まて〳〵今香刺引導一時に成仏させんとする所へ
一 仮僧 しばらくと声をかけたは
一 皆々 何やつだヱヱ
一 南北 しばらく〳〵
一 皆々 暫くとは
一 暫らく〳〵しばらプウ
かゝる所へ往生なしたる南北が
トどらによう鉢に成り棺の内より南北いつもの仏の拵にてひよろ〳〵と出でべつたりすわり
「得入無上どう行か蹈みもならはぬ六道をまごつきあるく有様はかなしくも又あはれなリ
トよろしく有て住ふ皆々是を見て
一 世話人 まて〳〵今暫と声をかけのたくりつん出た仏を見りやア黒船のぢひさんだななぜ香刺を受けないのだヱヽ
一 南北 葬礼南北即身成仏天地乾坤の其間に人たる者の死なからんや命は自分の持まへにて当年積つて七十六歳何占死にはまだ早ひではムり升せぬか早いがお徳此上に生て逆さま有時はうき目三升に業恥を柿の素袍にかき衣帽子筋隈ならぬしづわらは猿が人まね何事も無学文盲戈もなく書く狂言はそれ仏又は葬礼度々に出した報ひが廻り来てけふは此身の葬式にお出の御方へ清めのため一ばんさきに払ひ升う一夜置たら青々と鶴は線香亀は末香東方作者はついにがつくり浦山しくば御同道三浦の大助明六ツから七字唱へて八苦の患を十でとふとふ往生致すとホヽつらまつて坊主
一 世話人 扨はこいつは魔がさしたな差詰引立はお迎ひ僧があたりまいでムる
一 施主 誰かれと申さうより施主の事也且は皆様へ御礼がてら惣一座で参らう
一 南北 イヤ〳〵わいらが行くにも及ばぬ折角御出の御方々へあまり失礼だ爰は一ばん新らしく晩には仏が自身にゆくは
一 みな〳〵 ヤアヽ
一 南北 夜はこわいからひるま出るぞ
一 みな〳〵 ヤアヽ
一 南北 旦那寺からすぐにゆくぞ
一 みな〳〵 ヤアヽ
一 南北 同年の衆は用心しろ
一 みな〳〵 ヤアヽ
一 南北 去らば棺をばかき上げべいか
ト葬礼の鳴物に成り本堂の真中に居直りがつくりと往生する是を木がしらに題目だいこに成り此折家主袴羽織にて出で
一 家主 東西〳〵どなたも遠方の所御苦労に存升まづ南北はこれぎり
ト是にて葬礼おひらき
七代目三升 印
魂祭之砌任聖霊之幸便一筆啓上致候亡者事も無異儀極楽往生致松緑菩薩楽善菩薩御世話にて早速菩薩の仲間入蓮の台の借家住然るに勝兵助源八瓢七の菩薩達被参世話致し呉候うち二代目俵蔵も参り殊に皆近付の菩薩達何不自由なく歌舞の音楽にて遊び申候なれども鱣もこぢ【たべヵ】付ては鼻につくとやらちと地獄へといて見まほしく皆々打連参りしが彼方も聖代のしるしにや罪人もすくなく閻魔どのも噺し相手のほしき最中大歓びにて閻魔王宮に逗留のうち先達て参りし二代の松井幸三地獄へも落ず極楽へも行ずごろつき菩薩となりはや牛頭馬頭とも心安く地獄の事なれば鬼殺はなく三途川といふ銘酒を呑あげくの果が赤鬼の虎の皮の褌をそふつ【さんづヵ】の姥の処へ質物におきあちらでも困り申候扨閻王申さるゝは此土に長く住めど未だ暫くをも【と云ヵ】狂言見たる事なし極楽には元祖よりして代々の団十郎菩薩も居られ候得共地獄より極楽へ呼寄るもいなものなれば打すぎしが皆々参られしこそ幸ひ打寄て暫くの狂言がさせて見たいとの事達て辞退仕候へども再三の進めいなみがたく閻魔のうげ赤鬼と幸三の中受えらの円八鯰坊主源八其外太刀下にて爺の暫と役割致し候所地藏菩薩の申出されしには我に済度の節承り候はとかく早桶が出ねば南北が狂言の様に思はれず殊に葬礼の暫くまだ聞ず是非其仕組が見たきとお好にまかせ南北往生記と申名題にて仕候亡者御近付様方へ別紙狂言自作のつらねを奉御覧入候乍去御心遣ひは御無用此方へは何も届不申先は盆便之時待候空々寂々〔鶴屋南北事〕一心院法念日遍信士右暫の連ねは前編に解く鶴屋南北始勝俵蔵生前に寂光門松後万歳とともに書置たる遺稿にして躮直江屋十兵衛も南北歿せし翌年死したりければ二代目勝俵蔵一周忌と祖父南北が三回忌に摺物にして配りたる也孫太郎といふは今の南北也〔後二代増山金八〕松井幸三楽善菩薩〔坂東彦三郎俳名薪水〕勝兵助勝井源八〔始勝周蔵〕槌井兵七〔後二代増金八〕松井幸三〔譲屋の二代新幸〕皆此頃死したる者故文中に出せり祖父南北合巻双紙物を書高砂町に住し故名を姥尉助と呼びたり【極楽のつらね絵番付略す】
三升屋二三治は原浅草御蔵前〔札差し【にカ】て籏本衆与力同心の米預り也〕の相応の暮しの人なるが、此道に入て終に業を捨て今に存命なり〔世に蔵前者といへば一流立て往古十八大通抔とて浪花に云堂島そだち抔の類にして俠客有〕、祖父南北と親しみ深く互ひにおかしき新らしき趣向を負じおとらじと思ひ付、果は否がらせる事のみを案じて、ある秋南北風邪の心地とて臥し居たるを見て、二三治宿所へ帰り其頃奥詰御医師に吉田快庵と云は二三治至て心易ければ、かの御典医を頼みて本供にて南北が住所高砂町の裏店へ長棒の乗物にて行、南北病気ゆゑ二三治より頼みによつて見舞ふと案内させて入ければ、南北驚き床の上より這出で恐れ敬ひ誤り入る、典医は御立にて跡に若党中間両人残り酒代を乞ふ、南北再び恟りしていかゞしてよからうやら始て御典医の御見舞に預り当り付ねばいか程と問ふに、若党何れの町人にても金百匹也と云に詮方なし、一歩出して帰し、此徒らこそ正しく二三治が思ひ付にぞむやくしゝとて、二三治白銀清正公へ月参して聖り坂に大野屋と云水茶屋有、爰に美しき娘有て一両度爰に休むをはや浮名にたつ、南北是を聞て女の名と二三治の名の書紋を聞出し、男女の比翼紋付たる提灯を清正公の神前へ掛させ、諸所の近付へ風聴して二三治に困らせしは、以前の医師の返報とぞしられし、かゝる馬鹿〳〵しき咄のあるを歌舞妓作者とも云べし、年々人世事賢くなり行て風流滑稽なる人をきかず、此二三治老人と予と故人桜田左交名誉淨瑠璃〔前編に云常盤津〕八百万薗生梅枝此くどきの文句の通り、廻り道合点にて行見んは如何と、春日永の頃両人旅支度にて早朝より出し事有、委敷は予が著述『綺語文草』東都の部に出したれば爰に略す、二三治老年なれど健也、されば戯場の交りむつかしとて、今年嘉永二己酉の三月劇場を辞して、じだらくのつらねを著して風交の先々へ配るゆゑ爰に出す
当時難渋北狄世間の噂にも年が寄たで追込と言れぬ内お暇を願ひ、揚幕出づゝの向う音羽屋さんにもお世話を受、上座にかゞやく金冠金がないゆゑ三十年くるし借着もやう〳〵と、お礼がてらのじだらくは、つらねの初音初鰹、辛子が利たかよつく聞こともおろかな某は、成田屋ののれん内にて白木屋おこまじやなけれども、聞えませぬは此春から遠くは八王寺の三太郎が股肱【耳カ】目と呼れたる聾太郎耳遠当年積つて六十五歳、なんと赤く【いカ】あたまじやござりませぬか、髭がひつ込足元も親父はしれた正直正銘掛直なじみのいづれも様へ、申訳やら面目が内証しつたひつてんからじゆばん古ぼろ古布子古金買に買はご板、思案も尽て明俵三だら法師と思へ共、何にも白髪のお目見得は素袍も柿の下手作者、桃栗三升柿八代目出度丁ど身の納め、ちやんころなしの木摺子木のつかいながしのでくの棒、厄介邪魔といはれても御存しられた持まへの、わんぱく爺の根元とホヽ敬曰モウお仕舞【じだらくのつらね絵番付略す】
既に前編にも述べたる江戸三座歌舞妓大名題を付るには文字にかゝはらず上下の仮名の相性をもつてすゆると云、五代目白猿〔市川海老蔵向島反古庵〕より木村園治〔前篇に云古作者也〕ヘ教しと云、白猿自筆の歌に
あはやつち、たらなは火也、さしはかね、はまは水にて、かは木とぞしれ
此書三代目桜田治助〔俳名左交と云始の名前篇に有〕より予に送れり、故に所蔵す、また瀬川如皐も此仮名の相性を見て名題をすゆる、其歌少しく違へり
アハヤ土サ金ハマ水タラナ火ぞカは木なれども土もぞくする
土〔アイウエオヤイユヱヨワヰウヱオ〕金サシスセソ水〔ハヒフヘホマミムメモ〕火〔タチツテトナニヌネノラリルレロ〕木〔カキ(是より下土にぞくする)クケコ〕
此意をもつておせば北条時頼記等は水也、キは木也、水生木仮名手本忠臣蔵カは木也、ラは火也、木生火彦山権現誓助剣ヒは水也、チは火也、水剋火箱根権現躄仇討ハは水也、チは火也、水剋火此相剋をもつて東都には外題をすゆると云、京摂にては余り用ゆる事を見ず
一枚摺にして裏は三芝居楽屋雑書瀬川如皐が戯作なり、爰に出す、
寛永元 | 子 | 中村勘三郎中ばしに於て櫓を上興行 |
寛永二 | 丑 | 此ころ中ばし生島丹後といふかぶき有 |
寛永三 | 寅 | かつらぎ太夫日本橋に高札女かぶき興行 |
寛永四 | 卯 | 此ころ女かぶき所々にあり |
寛永五 | 辰 | 此ころ一と切づつにして打出し也 |
寛永六 | 巳 | 此の頃女かぶき御禁制 |
寛永七 | 午 | 桐長桐座くはん東所々にて興行 |
寛永八 | 未 | 長桐座元祖幸若与太夫天文の頃初る |
寛永九 | 申 | 中村勘三郎ねぎ町へうつる |
寛永十 | 酉 | きねや喜三郎さる若の相手勤る |
寛永十一 | 戌 | 村上又三郎葺屋町にて興行市村座元祖也 |
寛永十二 | 亥 | 村山十平治下る |
寛永十三 | 子 | 作【者カ】九兵衛上方より下る |
寛永十四 | 丑 | 万川千之亟下る |
寛永十五 | 寅 | 此頃の狂言一と切もの也 |
寛永十六 | 卯 | きぶねの道行よこ笛今川為之介所作 |
寛永十七 | 辰 | 此せつ大方長唄にておどり狂言也 |
寛永十八 | 巳 | 多門庄□□門下る |
寛永十九 | 午 | 小舞庄左衛門下る |
寛永廿 | 未 | 右近源左衛門下る |
正保元 | 申 | 丹前六法此頃さかり也 |
正保二 | 酉 | 此頃ひんだぶりはやる |
正保三 | 戌 | 早川初瀬下る |
正保四 | 亥 | 久松喜三太竹之亟座へ下る |
慶安元 | 子 | 此頃河原崎権之助京より下り木挽町にて興行 |
慶安二 | 丑 | 中村勘三郎さかい町へうつる |
慶安三 | 寅 | 公命にて女方まへがみを剃る |
慶安四 | 卯 | 市川の先祖堀越何某江戸に来る |
承応元 | 辰 | 村山又三郎死 |
承応二 | 巳 | ふきや町二代目市村羽左衛門 |
承応三 | 午 | 市村座にて一日のつゞき狂言初る |
明暦元 | 未 | 道具だてかざりつけはじまる |
明暦二 | 申 | 引まくはじまる |
明暦三 | 酉 | 大火にて芝居類焼 |
万治元 | 戌 | 元祖さる若勘三郎死 |
万治二 | 亥 | 二代目明石勘三郎興行 |
万治三 | 子 | 森田太郎兵衛木挽町にて芝居はじまる |
寛文元 | 丑 | 桐太郎木挽町にて興行 |
寛文二 | 寅 | 花川作弥下る |
寛文三 | 卯 | 柴崎権之助もり田勘弥桐座本にて興行 |
寛文四 | 辰 | 四代目市川竹之丞玉川主膳桐座元 |
寛文五 | 巳 | いにしへ久三郎神田明神社内にて興行 |
寛文六 | 午 | 都伝内京より下る |
寛文七 | 未 | 久三郎往古伝内改堺町にて興行 |
寛文八 | 申 | 此ころ花道初る |
寛文九 | 酉 | 付舞台出来る |
寛文十 | 戌 | 四之宮源八下る |
寛文十一 | 亥 | ぬげぶしはやる |
寛文十二 | 子 | 此頃山村長太夫芝居木挽町にて興行 |
延宝元 | 丑 | 都伝内下りさかい町にて芝居はじまる |
延宝二 | 寅 | 三代目中村勘三郎興行 |
延宝三 | 卯 | 山村座にて五月そが狂言始る五郎時宗元祖団十郎 |
延宝四 | 辰 | 霧浪瀧江市村座へ下る |
延宝五 | 巳 | 大阪伝吉木村喜左衛門此頃のたてもの也 |
延宝六 | 午 | 四代目中村勘三郎興行 |
延宝七 | 未 | 三国彦作此頃の道外也 |
延宝八 | 申 | はやし方いがらし嘉蔵なり平権兵衛名人也 |
天和元 | 酉 | 元祖中村七三郎元ぶく立役となり曽我十郎丹前大当り |
天和二 | 戌 | 中村座正月元祖伝九郎始て奴朝ひな |
天和三 | 亥 | 此ころ迄は建やく者自分に狂言作りし也 |
貞享元 | 子 | 四代目中村勘三郎隠居して伝九郎と改名奴あら事朝ひなの開山也 |
貞享二 | 丑 | 五代目中村勘三郎興行 |
貞享三 | 寅 | 往古伝内芝居今年迄興行 |
貞享四 | 卯 | 浅尾十次郎山村座へ下る |
元禄元 | 辰 | 松本左源太三条勘太郎上村かもん此ころの女方也 |
元禄二 | 巳 | つた八郎兵衛長さき五郎治たるま所三郎皆立役なり |
元禄三 | 午 | 元祖河原崎権之助死す |
元禄四 | 未 | 河原崎二代目さかい町にて興行 |
元禄五 | 申 | 市村八代目竹之丞興行元祖市川団十郎上京 |
元禄六 | 酉 | 若山五郎兵衛てれん五郎兵衛小唄の上手也 |
元禄七 | 戌 | 杵や勘五郎ぬれほれ半左衛門三味線の名人 |
元禄八 | 亥 | 小舞又三郎中村座へ下る |
元禄九 | 子 | 京都村山平右衛門座より市川団十郎中村座へ下る |
元禄十 | 丑 | 元祖中村七三郎京都市川九蔵八才にて初ぶたい市川ゑび蔵也 |
元禄十一 | 寅 | 元祖市川団十郎鳴神上人外記上るり |
元禄十二 | 卯 | 此頃荻野沢之丞むらさきほうし初める |
元禄十三 | 辰 | 岸田小才治下り京みやげ竹馬の所作 |
元禄十四 | 巳 | 六代目中村勘三郎興行 |
元禄十五 | 午 | 森田座にて元祖松本幸四郎御所五郎丸市川九蔵しころ引 |
元禄十六 | 未 | 市村座にて市川才牛石山源太にてしばらく |
宝永元 | 申 | 元祖市川団十郎死九蔵二代目市川団十郎改 |
宝永二 | 酉 | 四月生しま大吉死 |
宝永三 | 戌 | 去年二月大阪東又太郎死同八月荻野沢之丞死 |
宝永四 | 亥 | 正月出来島小ざらし死 |
宝永五 | 子 | 二月二日元祖中村七三郎死 |
宝永六 | 丑 | 二代目団十郎くめの八郎が艾売大当り |
宝永七 | 寅 | 二月みほ木なには死 |
正徳元 | 卯 | 十月小勘太郎死十月小の川千寿死 |
正徳二 | 辰 | 十一月市川若松死 |
正徳三 | 巳 | 十月元祖中村伝九郎死山村座にて初て団十郎助六本名田はた之助也 |
正徳四 | 午 | 七月森田座にて団十郎扇売のつらね山村座芝居止む |
正徳五 | 未 | 中村座万民大福帳団十郎権五郎かげ正初てしばらく |
享保元 | 申 | 中村座にてやわらぎ曽我助六団十郎半太夫上るりはち巻の文句 |
享保二 | 酉 | 正月中村座五人男雁金文七市川団十郎雷正九郎中しま勘左衛門 |
享保三 | 戌 | 元祖沢村宗十郎森田座にて |
享保四 | 亥 | 市村座にて曽我十郎沢村宗十郎同五郎二代目市川団十郎 |
享保五 | 子 | 森田座十郎三升や助十郎五郎市川団十郎将棋のかけ合大ざつま上るり |
享保六 | 丑 | 二月元祖大谷広右衛門死 |
享保七 | 寅 | 六月大くま宇田右衛門死 |
享保八 | 卯 | 広次大仏のみぶ団十郎小仏小兵衛大当り |
享保九 | 辰 | 団十郎山上源内鍾馗のあら事 |
享保十 | 巳 | 団十郎池の庄司しばらく池づくしのつらね |
享保十一 | 午 | 中村座工藤元祖松本幸四郎五郎団十郎真鳥のたいめん |
享保十二 | 未 | 五代目森田勘弥坂東又九郎名前にて興行 |
享保十三 | 申 | 市川舛五郎七才にて初ぶたい三代目団十郎也 |
享保十四 | 酉 | 去年役者金のざい板元できる |
享保十五 | 戌 | 元祖瀬川菊之丞始て中村座へ下る |
享保十六 | 亥 | 中村座にて団十郎団蔵わぼく和合一字太小記 |
享保十七 | 子 | 去年かほみせ瀬川菊次郎下る三月菊之丞初て無間鐘大当り |
享保十八 | 丑 | 佐渡じま長五郎下る所作の達人なり |
享保十九 | 寅 | 森田座所がへ願にて休座 |
享保二十 | 卯 | 団十郎海老蔵柏莚と改河原崎権之助木挽町にて興行 |
元文元 | 辰 | 荻の伊三郎市川流の暫く大当り |
元文二 | 巳 | 八代目竹之丞市村羽左衛門と改何江名人也菊之丞たるやおせん物狂大入 |
元文三 | 午 | 中村座津打治兵衛作女護のしまの対めん二代目幸四郎藤柳 |
元文四 | 未 | 中村座沢村宗十郎露野五郎兵衛市川座海老蔵どんす三本もみ五本のせりふ |
元文五 | 申 | 四月五日元祖市川団蔵死市川団三郎改二代目市川団蔵 |
寛保元 | 酉 | 市川海老蔵上る三代目団十郎ゑび蔵不動団十郎愛ぜん大当り |
寛保二 | 戌 | 二月廿七日三代目団十郎死幼名舛五郎中村富十郎下る河東夜編笠 |
寛保三 | 亥 | 沢村宗十郎上る菊之丞鳴神びくに大当り |
廷享元 | 子 | 森田勘弥再興二代目市川団蔵上る中村座百廿年寿市川海老蔵口上 |
延享二 | 丑 | 沢村宗十郎下り長十郎と改春五郎二代目宗十郎と改菊之丞もゝちどり道成寺 |
延享三 | 寅 | 松しま八百蔵ゑび蔵門人と成市川と改菊之丞天人羽ごろもの所作 |
延享四 | 卯 | 五月大谷広治十二月大谷龍右衛門死此とし小六染はやる |
寛延元 | 辰 | 壬十月二代目沢村宗十郎死大谷鬼治事広治と改 |
寛延二 | 巳 | 歌川四郎五郎改三代目沢村宗十郎九月元祖瀬川菊之丞死 |
寛延三 | 午 | 五代目勘三郎隠居七代目中村勘三郎興行坂東又八三八と改 |
宝暦元 | 未 | 市川八百蔵青砥五郎沢村長十郎佐野源左衛門はちの木大当り |
宝暦二 | 申 | 沢村長十郎始て実事の工藤祐経大当り |
宝暦三 | 酉 | 嵐九八坂東又太郎と改沢村長十郎高助と改名 |
宝暦四 | 戌 | 柏莚矢の根五郎松本幸蔵初ぶたい二代目松本幸四郎四代目団十郎と改 |
宝暦五 | 亥 | 沢村長十郎初て大星由良之助を江戸にてする京にては先年したる也 |
宝暦六 | 子 | 瀬川吉次二代目菊之丞改名助高屋高助死瀬川菊二郎死 |
宝暦七 | 丑 | 山下金作下る中村富十郎四代目団十郎無間がいこつの所作大あたり |
宝暦八 | 寅 | 元祖中村歌右衛門市村座へ下る市川ゑび蔵柏莚死 |
宝暦九 | 卯 | 市川八百蔵弁長にて早口の願人大あたり十月に死す【弁長にて難解】 |
宝暦十 | 辰 | 総角林弥ふたゝび吾妻藤蔵と改 |
宝暦十一 | 巳 | 市川団蔵中村松江森田座へ下る中村歌右衛門上坂 |
宝暦十二 | 午 | 九代目市村羽左衛門家橘座本相動る |
宝暦十三 | 未 | 中村伝蔵二代目市川八百蔵と改中車也中村助五郎死 |
明和元 | 申 | 芳沢五郎市川崎之助と改十二年市川染五郎高麗蔵と改 |
明和二 | 酉 | 二代目坂東彦三郎元ぶく菊之丞十七回忌二代目菊之丞むげんのかね |
明和三 | 戌 | 二代目市川団蔵上坂市川雷蔵死 |
明和四 | 亥 | 中村歌右衛門中村座へ下る尾上菊五郎上坂 |
明和五 | 子 | 二代目坂東彦三郎死市川友蔵初ぶたい跡がへり大評判 |
明和六 | 丑 | 坂東三八死あらし音八死明年嵐三五郎下る |
明和七 | 寅 | 中村座初て工藤二代目菊之丞石橋大あたり中村歌右衛門清玄かほみせ上京 |
明和八 | 卯 | 森田座へ中村富十郎中村のじほ下る沢村宗十郎同田之助上京 |
安永元 | 辰 | 尾上菊五郎下る中村喜代三郎八月三代目沢村宗十郎京にて死 |
安永二 | 巳 | 中村座百五十年寿四代目団十郎幸四郎と改松本幸四郎五代目団十郎 |
安永三 | 午 | 坂田半五郎上る市川こま蔵狐の女郎買仲蔵広次やみじあい大当 |
安永四 | 未 | 去年田之助宗十郎と京にて改名市村座へ瀬川富三郎下る三代目仙女ろこう也 |
安永五 | 申 | 去年中村仲蔵大日坊しのぶうり富三郎三代目瀬川菊之丞と改幸四郎ゑび蔵と改一世一代 |
安永六 | 酉 | 去年市川こま蔵松本幸四郎と改四十八年仲蔵三五郎角力菊之丞おし鳥所作 |
安永七 | 戌 | 三月四代目五粒市川ゑび蔵死去年六月二代目市川八百蔵死中村のじほ死 |
安永八 | 亥 | 市川弁蔵元ぶくして門之助と改菊之丞三代目浅間がだけ石橋 |
安永九 | 子 | 中村座にて坂東三津五郎道成寺大あたり |
天明元 | 丑 | 市村座春三月かはり大当八月古大谷友右衛門死 |
天明二 | 寅 | 六代目市川団十郎幼名徳蔵初ぶたい四月古坂東三津五郎死 |
天明三 | 卯 | 市村座百五十年寿中村座にて瀬川乙女一世一代道成寺 |
天明四 | 辰 | 四代目沢村宗十郎男傾城坂田くま十郎三代目坂田半五郎改 |
天明五 | 巳 | 去る顔見世桐長桐ふきや町にて再興此時大切積恋雪関戸小町ざくら上るり也 |
天明六 | 午 | 中村座にてしが山三番叟中むら仲蔵相勤此ときしばしのうち中村小十郎と改 |
天明七 | 未 | 中村仲蔵上坂中村十蔵嵐龍蔵下る染松七三郎森田座へ下る |
天明八 | 申 | 浅尾為十郎桐座へ下り春二月がはり大当り中村仲蔵中村座へ下り大当り |
寛政元 | 酉 | 顔みせより市村座再かう中村座五人男五日がはり |
寛政二 | 戌 | 四月廿三日中村仲蔵死中村座松助常世草履打かはらさき座再興 |
寛政三 | 亥 | 五月十三日古山下万菊死中村座八百蔵菊之丞半四郎春駒の対面 |
寛政四 | 子 | 去秋為十郎上る後藤生酔大当中村座三かつ半七おはな二日替市村座宗十郎楠大当り |
寛政五 | 丑 | 岩井半四郎上る五代目団十郎改鰕蔵白猿なり江戸砂子慶曽我よりぶん廻しに成 |
寛政六 | 寅 | 岩井半四郎下る木挽町暫く去年中村座休都伝内に成沢村宗十郎下り |
寛政七 | 卯 | 去年中島勘右衛門市川門之助死桐座矢口渡市川新之助初ぶたい七代目団十郎也 |
寛政八 | 辰 | 去年都座へ片岡仁左衛門中村のじほ下る春五大力大あたり坂田半五郎死梅由兵衛宗十郎 |
寛政九 | 巳 | 都座顔見世市川鰕蔵一世一代しばらく隠居して成田や七左衛門桐座紀文宗十郎 |
寛政十 | 午 | 中村座再かう新之助改市川鰕蔵あかん平しばらく桐座嵐三八下る |
寛政十一 | 未 | 市村再興岩藤松助尾上常よお初菊之丞中村座六代目団十郎助六 |
寛政十二 | 申 | 顔見世市村座坂東彦三郎暫く延寿才一世一代二月岩井半四郎死五月六代目団十郎死 |
享和元 | 酉 | 去年二代目嵐ひな助中村座へ下る市川団蔵中村座へ出勤松本よね三上る |
享和二 | 戌 | 去年三月三代目宗十郎死二月ひな助死瀬川ろこう上京六部市川白猿巡礼市川団蔵 |
享和三 | 亥 | 市川こま蔵改松本幸四郎去年中村大吉河原崎へ下る浅尾工左衛門松本米三郎市村座へ下る |
文化元 | 子 | 尾上松助初て水狂言中村座百八十一年寿二代目坂東三つ五郎道成寺 |
文化二 | 丑 | 瀬川ろこう中山文七下る松本米三郎死る |
文化三 | 寅 | 三月河原崎座類焼十一月中村座市村座類焼 |
文化四 | 卯 | 三月中村座二日替助六三つ五郎男女蔵半四郎五せつくの所作大当り |
文化五 | 辰 | 瀬川ろこう仙女と成路之助菊之丞に成三月中村座へ歌右衛門下る関三十郎沢村田之助下る |
文化六 | 巳 | 小川吉太郎下る二代目菊之丞三十七回忌追善山うば仙女金太郎ろこう松綠一世一代 |
文化七 | 午 | 森田座へ市川市蔵下る浅尾勇次郎十二月瀬川仙女死 |
文化八 | 未 | 歌右衛門七化三代目坂東彦三郎一世一代菅原忠臣蔵二日替大あたり |
文化九 | 申 | 沢村源之助改宗十郎歌右衛門上る十一月四代目ろこう死十二月宗十郎死 |
文化十 | 酉 | 沢村田之助道成寺坂東三つ五郎所作岩井半四郎お染七役大当り |
文化十一 | 戌 | 田之助上京中村松江下る三つ五郎十二支の所作大当り中村歌右衛門六月再下る |
文化十二 | 亥 | 嵐三五郎下る市蔵鰕十郎と改歌右衛門一世一代として上る瀬川多門菊之丞と改名 |
文化十三 | 子 | 去年松綠死ふきや町桐長桐再興浅尾工左衛門山科甚吉下る |
文化十四 | 丑 | 市村亀三郎四代目坂東彦三郎と改正月沢村田之助死十一月市川団之助死 |
文政元 | 寅 | 芝翫中村歌右衛門と改下るふきや町都伝内興行助高屋高助死 |
文政二 | 卯 | ふきや町玉川彦十郎芝居興行九月中山安三郎死 |
文政三 | 辰 | 三月幸四郎半四郎上阪団十郎五郎所作五月ゑび十郎門之助下る |
文政四 | 巳 | 嵐徳三郎三升源之助下る菊之丞久米三郎高尾頼かね一日替 |
文政五 | 午 | 市村座再興七小町市川団十郎五代三郎当る |
文政六 | 未 | 中村大吉一世一代半四郎幸四郎下る嵐徳三郎上る |
文政七 | 申 | 七月市川門之助死八月中村大吉死 |
文政八 | 酉 | 団十郎菊五郎権三権八大当り菊五郎上京名残狂言おいは |
文政九 | 戌 | 片岡仁左衛門嵐亀之丞下る関三十郎上阪名残大当り |
文政十 | 亥 | 去年尾上菊五郎下るかはらざき五十三次 |
文政十一 | 子 | 中村歌六中村芝翫下る阪東みの助中村芝翫両座にて合法 |
文政十二 | 丑 | 三月三芝居類焼沢村源之助下る七代目団十郎上京 |
天保元 | 寅 | 坂東三津五郎一世一代秋つしま市川団十郎帰る源之助かるかや |
天保二 | 卯 | 尾上梅幸帰る二代目お岩坂東三津五郎瀬川菊之丞死市川鰕十郎下る |
天保三 | 辰 | 三月団十郎改市川鰕蔵助六簔助改三つ五郎源之助改沢村訥升 |
天保四 | 巳 | 市川団蔵下る八代目団十郎はつしばらく半四郎改杜若中村みよし下る中村芝翫上る |
天保五 | 午 | 海老蔵半四郎菊五郎はかた大当り二月三芝居焼る森田座再興 |
天保六 | 未 | 岩井紫若坂東彦三郎下る |
三芝居年中行事、正月元日惣役者年礼式三番太夫元若太夫相勤る、惣役者座付口上座頭春狂言名題幷役割付をよむ、子役幷制外子踊初所作事小舞等相勤る、春狂言の名題看板を出す、五日或は七日春狂言本読、十五日初日往古は本よみ稽古は年の内にて正月二日或は七日初日、二月初午新狂言出る〔一幕ぐらゐ〕三月三日替り狂言初日、四月八日新狂言出る〔前に同じ〕、五月五月替り狂言初日、廿八日曽我両神祭礼、六月土用中休み、近年夏芝居興行初日不定、七日朔日頃盆狂言名題看板出、る七日本読十五日初日、往古は七日也、八月朔日新狂言出る〔前に同じ〕年により夏狂言大入の節は七月廿日頃迄興行、八月朔日盆狂言初日也、九月九日新狂言、多くは上方へ登り役者名残狂言又は一世一代名残狂言を出す、十二日顔見せ世界定、十月十五日頃年中中の舞納めそゝり狂言座頭口上有、十日頃新役者付配る、翌日売出し、十七日子役踊初舞台にて新はやし方太夫元盃有、夜に入て寄初惣役者太夫元盆狂言作者顔見世名題幷役割付をよむ、往古ははなし初あり、廿日紋看板出る幷本読、廿五日顔見世名題看板出る、廿七八日頃下り役者乗込み、晦日惣ざらひ木戸前積物町内茶屋中錺り物出し、終夜見物群集して賑はし、霜月朔日正明七つ時式三番叟太夫元若太夫相勤顔見世初日、十二日打出し後春狂言世界定、十二月十日頃迄に顔見せ狂言舞納そゝり狂言惣役者座付口上座頭と云、十三日煤払ひ、十七日仕切揚木戸前に錺り物、春狂言の趣向荒増口上看板出る、木挽町は廿四日愛宕市より出す、廿日舞台大鏡餅搗、卅日木戸前舞台注連飾り、右年中行事終り、狂言替り毎稽古の次第、本読合、立げいこ、中ざらひ、此間に【脱字あるか】〔淨瑠璃ふし付同ふりげいこ所作ぶりのけいこ立廻り大立けいこ〕惣ざらひ初日也〔但し中ざらひをつけたてともいふ〕、三座家の狂言幷脇狂言:中村座〔さるわか新ぼち太皷〕新ワキ酒呑童子、市村座〔街道下り門松〕ワキ七福神、森田座仏舎利ワキ〔長者開甲子待〕大社河原崎座〔茶のみ舞〕ワキ猩々大立仕合立廻りの名目:中がへり・さるがへり・車がへり・仏がへり・ぎつくり。ひよつくり。ぎば。はゞ・ぎは・よこぎば・手ばい・逆さ立・杉だち・天地・大まくし・つき廻し・千鳥・がんつぶし・れんり引・あとがへり・遠あて、古来囃子外座付名目大略:
○大太鼓:打込み・打出し・どろ〳〵・宮神楽・岩戸神楽・三保かぐら・大拍子入時の太鼓・ながし・山をろし・風の音・波の音・あばれ・丹前・楽・管絃・どん〳〵・遠よせ・唐がく・渡り拍子、○笛:らい序・寝鳥・早笛・とひよ・竹ぶへ入・ひしぎ・かけり・一声・通り神楽・小鞁・、白囃子・こだま・のつと・こいやい・つつかけ、○太鞁:もみ出し・一挺・大小の合方・しば、○小太鼓:天王立本神楽・和歌・下りは・舞ばたらき・片しやぎり・踊り地・出端・立の合方・狂ひの合方・角兵衛獅子の合方、○唄:長歌・めりやす・琴うた・ざいご歌・出の歌ぬめり・肥前ぶし・騒・馬士唄・順礼唄・佃ぶし・相の山・丹前・一つ鉦念仏、〇三味線:てんつゝ・三重・行列三重・早三重・幕三重・忍三重・きほひ三重・愁ひ三重・対面卅、〔両座にてかはるはり〕、合方・恋慕の合方・碪の合方・こまわりの合方・狐釣の合方・化物の合方・琴胡弓尺八は加役也、故人狂言作分大略元祖市村羽左衛門
常盤井田平〔後に中村河七〕・早川伝四郎・増山金八・市山又太郎〔志山〕・笠縫専助〔米富〕・中村角止・瀬川如皐〔初女形乙女〕・機文輔・宝田寿莱〔かんが〕・津打治兵衛〔英子〕・斎馬雪〔始瀬川秀助〕・藤本斗文・古 松井由輔〔三幸〕・壕越二三治〔薺陽〕・古 並木五瓶〔浅草堂並木舎〕・中村伝九郎〔舞鶴〕・近松門喬・金井三笑〔与鳳亭〕・村岡幸治・中村重助〔故一〕・木村紅粉助〔始園次遠亀〕・桜田治助〔左交〕・松井幸〔始鴻蔵〕・純通与三兵衛・奈河七五三助・並木良助・河竹新七〔能進〕・門田治兵衛・福森久助〔一雄〕・田口金蔵・本屋宗七〔大雄〕・奥野瑳助〔馬朝〕・篠田金次〔二代目五瓶〕・二代目桜田治助〔始松島半次〕・鶴屋南北〔始勝俵蔵〕・槌井兵七〔二代目増山金八〕・直江屋重兵衛〔南北忰〕・松井幸三〔始新幸〕・勝兵助〔始亀山為助〕・勝井源八〔始周蔵〕・田島此助・重扇助〔二代目松井〕・瀬川如皐〔始河井文治〕
右の外中古達人唄三味線囃子方之名、中古名人役者俳名、大道具・小道具・蔵衣裳迄あら増を出し、三芝居三階中二階惣楽屋の図を万国の図にまがえ、年代記一枚摺にせし戯作なれば略す、江戸京橋南伝馬町三丁目仙女香の施板にして天保六未年早春の歳玉なり
右瀬川如皐が書し故人江戸作者の内名高き人は前編に出したりその内に書もらせし木村園次は古桜田の門人〔俳名園夫又遠鳧共〕俳諧を好松花堂の書を学びて小石川八百屋お七の石塔に筆を残せり後に改名し木村紅粉助といふ市川団蔵待請話と云名題にて忠臣蔵の増補狂言に手柄をせり改名の年紅粉助の名によりて赤い物を着んと羽織小袖の縞がらも赤くして四ツ谷辺迄行し所往来の人見てあの人こそ誰人ならんと不審がるを悦びて人目に立は此容に増したるはなしと江戸中を其姿にて歩行評判させ改名の名弘せしとぞ実は此年六十一の賀なれど年をかくして紅粉助の名によせて赤尽しの着物を着しこそおかし後にゑんぶと仮名に書かへて寛政の末建作りなりしが文化の始に終る此門人に木村松六といふ狂言方有元角觝の行司にて幸ひ木村を名乗りてゑんぶが門弟となりしもおかし又村岡幸治も古左交の門人にして亀玉と云松本幸四郎〔始市川高麗蔵今の錦升が親〕此人の従弟にて始左交の二枚目を勤後建作りとなる世話物に多く狂言を残し福清〔松本幸四郎〕の書物は亀玉が作也森田座の顔見世に八百八町瓢簞の笄と云太閤記の名題は八百蔵〔後助高屋高助〕の座頭に付たる也評判よく其頃は売れたる作者にて有しが後業を休みて終ると三升屋栄子〔二三治の俳名〕が夜話を思ひ出て爰に書付置ものなり
往古より梨園を好んで戯場の書を著せし人々頗多し、東都には『戯場三台図絵』・『三座例遺誌』・『劇場年中行事』・『俳優訓蒙図彙』・『梨園狂言紋切形』・『歌舞妓年代記』抔挙て数ふべからず、中にも『年代記』は淡洲楼焉馬の戯編にて、右に出せし瀬川如皐が『年暦珍重記』の委のみにて、元江戸三座の外題年鑑に歌川豊国の似顔をまじへ、其時々の当芸或は浄瑠璃〔前に云常盤津〕の綴物連ね等を出し、古役者の似顔は古くは浮世画師の鼻祖師宣〔菱川〕、後には春亭〔勝川〕・英山等の古図を摸写せしのみにて、役者の改名上下の評を旨として、狂言の説は二段となりたり、又『訓蒙図彙』は式亭三馬の戯作にして、天文地理に合せ舞台・大道具・小道具・楽屋の図まで、豊国〔初代槙町〕の画に三馬戯文を加へて出せり、素人の見て戯場の楽屋の穴まで書たれば、面白き事限りなく、誠によく売れたる本なり、此中に狂言作者の見習鳥を遣ふ〔黒子を着さしかねにて遣ふ〕図あり、其頃の狂言方一統是を見て大に腹立し、本町庵〔三馬〕へ一両輩行、風にて密書散り、雁鳩鷹鵆雀なんど狂言によりて差がねにて遣ふには夫々の役人有、何ゆゑ作者狂言方より遣ふ物とは書れしぞ、以後は此役を勤めさゝるゝかしらずと雖、戯場の事を知ぬ人々には狂言作りは左様な賎しき業迄勤る者かと思はれん事、文筆を弄ぶ作道に恥る所也といひし時、三馬大に誤り、即刻板元にいひ付其文を削せりと云ふ、如此誤り数多有べし、京摂にて戯場によりたるを書に出す時は、東都と違ひ、戯作者を業とする人なく、只金満家の主、戯場遊里に遊び、俳優・角觗・芸者を愛し穴を探つて楽とする人是を皆粋人と号〔東都に云大通人なり〕、中興河太郎丸平大江丸など是也、出入の幇間医・俳諧師・点者などに筆を下させ、一部の草稿成つて板に彫売出さすとも、気性高く我名をかゝず、皆戯場によりたる書には八文字屋板と印せり、八文字屋は初編にも演る通り、京麩屋町誓願寺下る所の書林、延享年中に自笑歿して、躮其笑・孫瑞笑に至りて身上甚衰へ、浪花に下つて貧く暮し、板元をするの力なし、なれ共聞馴言馴たれば戯場評判記にも八文字屋と記して板元の名も出さず、原より役者の批判を書し書なれば、作名は猶さら出さず、自笑とばかり書置が故に遠国の好人は自笑の子孫今に連綿すると思ひたがへる人もあらん、寛政・享和・文化の内、評判記を書には右に云粋人、芝居見物後に各茶屋・料理屋の席を定め党を集て評を定て筆をとるは、京に俳諧師月居〔此二庵蕪村の門〕・定雅〔狼唄窟〕、浪花に同俳人廬橘〔粋書数多作せり〕・可物〔二斗庵椎本と云〕・馬宥〔酒屋隣と云〕など、誰々を贔屓ゆゑ賞め誰々を嫌ひゆゑ悪く云など依枯の沙汰する人は断て席を退け、立物・小誥を論せず、評有者は文長く間中の役者〔上分を八枚と云是につぐを間中〕にも紙数三四枚も有けり、其頃は見聞識者多く贔屓連中にも大手・笹瀬・藤石・花王・雑喉場・大連中・紅奔とて連中数多ある故、此中より評判を定る人多かりし、是故刻成て翌正月二日早天に売出す〔板元河太〕、好人求て見るもの甚多かりし、今は価の高きとて紙数に限り有、悪口を書時は其役者より板元へ彼是といはせる故、只何役もよう出来ました〳〵と誉て計有、是にては評判記にあらず、役割を書出せるのみ也、右に云評判記連の書し頃は作料むなし、今は三都・伊勢・尾張・田舎の部まで書集、筆耕代までこめて金何程との限り有、夫を請取人一遍の狂言見物に行ば年中の作料をとらるべし、夫ゆゑに芝居は見ず、役割番付を内にて詠め、人伝に聞たるを書なるべし、役割にあれ共舞台に一度もせざる事迄さも見た様に書たるなどいと浅猿し、此余戯場に拘りたる書には大約別号仮名を書来れり、中にも文化中に歿したる浮世画師似顔画に名高きは松好斎半兵衛也、此人芝居の好者にて『楽屋図会』前編二巻を著す、是は彼名所図会〔秋里籬島作五畿内諸処を出す〕に倣ひ、始出雲のお国或は西の宮の傀儡師などの図を著はし、楽屋の図、看板の模様など、自画人なるゆゑ自在に書きけり、京摂に浮世画師と云もの往古より聞ず、大津絵の岩佐又兵衛などは既に古き随筆等にあればいはず、役者の似顔を書き浮世絵師と唱へるは流光斎より始りしなるべし〔扇面をよく書し子健と云は此兄なり〕流光斎の役者似顔の画は三組ばかり有、画風当時画く所と違ひ淋しけれども、顔容老実によく似せたりと老人はほめけり、松好斎は此門人にして画風又一変す、此人の書きし顔にせ本又数冊あり、其余女絵をよく画きしは西川、春画に妙を得しは月岡、鳥羽僧正に倣ひしは耳鳥斎なるべし、梨園看板の画も一風有て中興杢兵衛・九右衛門など有しが、其後画虎と云人歿してより、看板一変して似顔画師にかゝせる様になりたり、似顔画も松好斎の後は芦国・春好〔此人は業とする事なし〕・芦幸・よし国・重春・北英など有しが、近世書ざるにや見ず、戯場看板は看板らしき画法あるもの、似顔の看板を出すは中古吾妻清七といへるもの天神稲荷の社内にて、最初は軽口をいひおどけたる事をして見物の顋をはづさせ、跡には清七身振物まね〔故人浅尾為十郎芳沢いろはなど妙を得〕舞台にて鏡台にかゝり、早替り二役三役かけ合等をする、その者の類に長らく頭取をせし忠六と云へる者あり、皆忠七の小屋小屋と云〔東都にて豆蔵と云浅草奥山両国等に有〕、此表の看板に其頃のはやり役者の似顔を書て出したる物也、今道頓堀の歌舞妓戯場の看板に海老蔵の役を海老蔵の似顔にて出すは、ほとんど忠七の小屋の看板めきて恥しからすや、是も近世梅玉より此風とはなりたり、嗚呼時のしからしむるにやいと浅猿し、東都芝居の看板は三座とも代々鳥井風とて古風を守り鳥井一家に書せり、年々歳々三座の看板顔見世新役者付〔極り付とも云〕人物図取同じき様に見ゆれ共、新を挑み奇を争ひ連綿絡繹として今に変らず、鳥井の画風も大江戸の名物なりけり
弘化丁未冬東都にて発板の書『声曲類纂』全六冊は神田斎藤月岑が編輯にて、音曲に拘りたる高名家の伝を挙て古双紙ものを𩛰りいと委敷書也、然れど前編にも演る如く、原音曲鳴物は異国より渡り九州地より闢しにや、筑紫琴を始豊後節・薩摩節など唱れば大約は京摂にとゞまり、竹豊両派の浄瑠璃又歌舞妓小唄の音曲まで京摂より発り、夫より東武に移りし物ゆゑ、引書にても京摂よりともしく杜撰なきにしもあらず、中にも浄瑠璃作者・歌舞妓浄瑠璃作者〔所謂常盤津富本清元の作〕の名前を因みに挙たり、尤正本によつて書出せしにあらざれば、相違せしもまゝあれ共、音曲家はいはず、作者は此書による所なれば重復になれども爰に拾ふ、
竹本座浄瑠璃作者 近松門左衡門信盛〔平安堂巣林子〕不移山人等の号有、竹田出雲掾清定〔初代出雲掾は近江と改名して作をせしは二代目なり千前軒とも云〕長谷川千四 三好松洛 錦文流〔錦頂子〕 文耕堂〔初名松田和吉〕 吉田冠四〔文三郎〕 近松半二 並木千柳 二歩堂 浅田可啓 中村潤助 八民平七 栄善平 竹本三郎兵衛 北窓俊一 竹田因幡 竹田平七 竹田外記 竹田和泉 竹田瀧彦 竹田正蔵 小川半平 近松景鯉 竹田伊豆 並木永輔 竹土丸 福松藤助 竹田文吉 北脇素文 一来堂 寺田兵蔵 近松東南 松田才治 竹田新四郎 苣源七 青江堂 原羽裳 近松能助、松田ばく、守川文蔵、中井粂次、春木元輔
豊竹座浄瑠璃作者 紀海音〔貞峩と号油烟斎貞柳が弟和州柿本寺の所化帰俗して大阪に住 貞柳歿跡に送る 知るしらぬ人を狂歌で笑はせしその返報に泣てたまはれ〕 西沢一風〔本には一鳳と書たり〕 田中千柳 為永太郎兵衛〔千蝶と号〕 安田蛙文〔西沢にしたがひて作る〕安田蛙桂 並木宗輔〔市中庵と号す 西沢に習うて作る 佳作尤多し 松屋は家名にして後舎柳と改め寛延二年九月に終れり〕 並木丈助 並木良助 並木素柳 村上嘉助 豊竹応律 豊岡珍平 浅田一鳥 浪岡橘平 浪岡鯨児 同蟹蔵 中村阿契 中村阿笑 豊田正蔵 梁塵軒 豊正助 難波三蔵 黒蔵主 七才子 三津欽子 竹本三郎兵衛〔竹本座の作者筑後の忰なり〕 若竹笛躬 清水三郎兵衛 近松東南 菅専助 豊竹甚六 但見弥四郎 豊竹上野 並木斎治 福竹藤助
同書追考『南水漫遊』を引て竹豊両座作者の略伝を挙たり 紀海音〔榎並貞峩と云俗称喜右衛門後善八と改僧となりて高節と云帰俗して医を業として又契仲の門に入て歌道を学契周と云鳥観斎とも号元文元辰の夏法橋に叙じ寛保二戌十月四日一説に延享四七月とも行年八十才にて歿〕 文耕堂〔始松田和吉と云千前軒門人なり〕 錦文流〔西鶴門人座摩社辺に住〕 桜塚西吟〔摂州池田西鶴門人〕 三好松洛〔医師〕 吉田冠子〔人形遣ひ吉田文三郎二代目文三郎は此忰也〕 並木丈助〔北新地茶屋〕 竹本三郎兵衛〔竹本筑後掾が忰也〕 近松半二〔穂積伊助医師の忰也〕 為永太郎兵衛〔始竹田庄蔵〕 春草堂〔高田端庵と云医者俳名笛十〕 管専助〔医師の忰竹本光太夫〕 長谷川千四〔和州長谷寺の僧帰俗せし也〕 安田蛙文〔有馬家に仕へし人〕 近松東南〔東南伊助老後法体して綾子播摩と改三味線上手也〕 浅田一鳥〔森長三郎謠の師也〕 中村阿契〔始閏助と云〕 八民平七〔大阪や太郎兵衛忰さか町〕 若竹笛躬〔若竹藤九郎人形つかひなり〕 二代目笛躬〔塩や治兵衛復松鱗と云〕 紀の上太郎〔三井某嘉栗八貫仙果堂〕 豊竹応律〔若太夫芝居主甚六と云〕 松田ばく〔俳諧師岡本兼吉後表隣と云〕 男徳斎〔竹本咲太夫上るりかたり也〕 栄善平〔道頓堀いろは茶や〕 七才子〔岡本原一医師なり〕 川四郎〔長町七丁目分銅河内屋四郎兵衛宿やの主なり〕 中村魚眼〔難波新地茶やなり〕 近松柳〔始並木柳後柳太郎作〕 司馬芝叟〔独笑庵〕 梅の下風〔湖水軒佐藤太〕
江戸歌舞妓狂言作者、河東節、常盤津、富本、豊後節の浄瑠璃又は長唄めりやす等の文句は大かた歌舞妓作者の作なればと断りて 玉井権入、南爪与惣兵衛、宮崎伝吉、立島七郎左衛門、樋口半右衛門、津打治兵衛〔英子〕、村瀬源三郎〔五月〕、村山十平次、玉松小十郎〔楓晩〕、島甚助、坂東田助、江田弥市〔富有〕、津打九平治、津打半右衛門〔沈席元役者鈴木平左衛門〕、津打又左衛門、藤本斗文、中村少長、中村清五郎〔正徳年間流蔵と成る〕、 中村清三郎〔藤橘と云少長の弟なり〕、早川伝四郎〔竹且〕、津打菅祈、堀越薺陽〔二三次〕、並木良助〔蛙柳〕、中村太郎右衛門、津打国次、津打三郎次、機文輔、門田侯兵衛、純通与三兵衛〔始津打伝十郎後治兵衛河斎と号〕、金井三笑〔与鳳亭俗称半兵衛〕、桜田治助〔左交津打治助後桜田と成〕、中村重助〔故一〕、河井金次、奥野善助、中村山三、大里栄蔵、増山金八〔呉山〕、真野馬朝〔元左助〕、瀬川馬雪〔元秀助〕、河竹新七〔能進〕、萩馬岱〔元吟次〕、仲喜市〔仲峨元半二〕、沢井住蔵〔注象〕、平賀千次、西川仙助、梅田利助〔沙明〕、平田半三〔墨海〕、木村八一〔長鯨〕、八起好助〔大可〕、福岡与市、市山又太郎〔志山〕、中村角止、並木五瓶〔辞世月雪のたわみごゝろや雪の竹寛政八十二月と有〕松島半二〔二代目桜田〕、中村虎八、瀬川秀蔵、笠縫専助〔米富〕、瀬川如皐〔乙女〕、近松門喬、勝俵蔵〔鶴屋南北〕、村岡幸治、常盤井田平〔後中村河七〕、福森久助〔一推〕、宝田寿莱、松井由輔〔玉幸〕、松井幸三〔始鴻蔵〕、木村紅粉助〔始国次遠鳧〕、奈河七五三助、田口金蔵、本屋宗七〔大雄〕、奥野瑳助〔間朝〕、篠田金次〔二代目五瓶〕、槌井兵七〔二代目増山金八〕、鶴屋南北、直江重兵衛〔南北忰〕、勝兵助〔始亀山為助〕、勝井源八〔始周蔵〕、田島此助、重扇助〔二代目松井由輔〕、瀬川如皐〔始河竹文治二代目狂言堂〕、松井幸三〔始新幸〕、此余有名の輩頗る多し、尚後編に詳なるべしと有
声曲類纂は音曲家の事のみにて作者はついでにしるす事なれば、一人を二名にわかち、二人を一人に混合せしも尤なる事也、されど其道々の博士有て江戸歌舞妓作者の事は曩に出す瀬川如皐が『楽屋雑書』に有名の輩は挙尽せり、竹豊両派の浄瑠璃作者にも少しく違ひあり、西沢一風を一鳳と書、豊竹座板元西沢九左衛門の事所々に書て別人と思へり、又浄瑠璃作者の内へ並木五瓶を加へて辞世及歿年を寛政八十二月と有、五瓶は前編に著せし通り、文化五辰年二月二日に歿せり、並木宗輔の家名を松屋と云後舎柳と改めしとは違へり、松屋舎柳は役者にて又作もしたる事は前編に悉し、松屋来助〔中山来助仮名金柳〕と並木宗輔は別人なり、此余『南水漫遊』にも誤りあれど、原京摂より発りし浄瑠璃を東都の斎藤氏よくも諸書を渉猟して一部の冊子とはなりけらし、其苦心の程感心して作名だけを此しりへにのせぬ
西沢文庫伝奇作書拾遺上の巻終
西沢文庫伝奇作書拾遺中の巻
西沢一鳳軒李叟編
繁昌記戯台之辞 新群書類従p100 《江戸繁昌記(東洋文庫259、新日本古典文学大系100)により 補訂》
江戸繁昌記は静軒居士が著編にして天保三壬辰年新鐫発行せしが後子細有之絶板になりたり、初篇にも戯場の文あり、作者に因あれば爰に出す
演戯国語謂之曰芝居、曰歌舞妓。蓋聞、在昔、
平城帝大同中、南都猿沢池側、土陥吹烟。触者即病。因大焼薪、以圧其気。且舞、三番叟舞、于興輻寺門前、生芝之地〔本邦古誤言結縷草為芝〕而禳其祲毒焉。是此名所以縁起也。風俗歌舞・俗妓等名目、既見于続日本紀。而
鳥羽帝世、礒禅司者、善舞。或曰男舞、或曰白拍子、又曰歌舞妓。此是也。四海為家後、寛永初年、猿若勘三郎、賜命、創開戯場于中橋街。至九年、移于人形街、次都・市村二氏之場亦皆成焉。慶安四年、又徙于今地。而山村氏起場于木挽街者、在正保元年。始於卯終於酉。此是演戯常式、題在看棚頭。東方将自皷声始震。例為三番叟舞。次演家芸俗謂之脇狂言。中村氏演酒呑童子事、市村氏七福神舞、森田氏猩々舞。既而旭日始映。招牌爛燦喧塵漸揚。田舎人早炊已往、女児夜粧急走、昧一朱。麋至陸続、聚自四方。人山人海、鼠戸開、不暇閉。棚欄撓、将傾折。東西看棚、紅氈連接、真不霽之虹。台面前棚、人頭鱗次、真未雲之龍。本舞台三間内、正面有亭。左楼、右門。楼下掛一箇吊燈。夜色静寂、由良助、方乗無人之時、手主夫人所送書簡、悄立、照吊燈、展読過、孰意、何佳児、倚定楼欄、把鏡照之、九大夫、自階下延頸、捉其紙端、斜引月光。一紙長箋、三人読得正熟時、佳児頭上金叙、溜落、撲地有響。由良助、吃驚、急掩紙於背後、仰面、始知楼上有人。階下人亦錯愕、潜身。三人、有三様趣。観者喝采、斉呼、山崩海翻。佳児、旋正驚襟、粧嬌、含笑、呼由良助。由良助曰、汝、在楼上何為。佳児曰、妾、被君勧酔、不堪困苦。倚風吹醒。由良助曰、如然、甚善、但我、欲有与汝言。奈何、双星相見、徒守銀河之阻。請、下楼来。佳児曰、暁得矣。将起身。由良助、急呼止之曰、如自本階、恐幇間強住、更困勤盃。為之、奈如。適見牆外有一梯子、乃大喜下庭、自将梯子倚住楼欄曰、辛矣。此九級梯子、径躡此降之。佳児曰、此、非平生所躡之物。無乃危険乎。由良助曰、言之、汝妙年身上事。目今、一挙趾跨三歩間過、不復及膏薬医破裂。佳児曰、莫費冗語。動揺如此、恰似乗船。由良助曰、宜哉。出現天后聖母来。時看棚中、忽起争闘、喧嘩沸騰。児女踏践呌苦、並望本舞台走上。由良助・阿佳児等、皆錯愕。乃向仮驚、却作今真驚。九大夫亦狼狽、潜居不得、自階下出身、頓位三階上。不多時、天成地平、復続前伎。嗚呼、若此争闘、乍発、若此沸騰、乍歇。箇這江戸人気質。但此都不繁昌、何如起此争闘、何如発此沸騰。然則、以此争闘、以此沸騰、言粧此繁華、猶信矣。
右忠臣蔵一力の齣にて喧嘩の態江戸の人気まの当りに見るが如し、詩人の滑稽も珍らしきが故、因に銅脈先生の太平楽府のうち戯場に寄する狂詩一二首を出す
遠国這出望奉公、来京不知西又東、独有千本阿姥在、頼之有付請状窮、百文荷担算用外、一枚布子葛篭中、布子萌葱若松鶴、袖口端掛茜草紅、律儀一片入主気、藪入三日名所遶、祇園清水両門跡、愛宕大仏三条橋、翌日与姥復連立、音聞芝居今初看、取兮投兮危危思、斬兮殺兮慄慄寒、尾上梅幸狐忠信、中村鯉長鮓屋娘、鯉長梅幸両上手、今度狂言銘銘箱、還休四条河原上、熟感風流京繁華、従是毎朝手水起、心欲洗落在所沙、八文白粉試塗面、五両梅花初登頭、麦飯雑炊久不食、偶逢茶粥已為憂、烟草飲習酒少就、一坐付逢相応劬、口謂不好鳴笑止、鼻唄道行国太夫、滅多堰伏金丞相、無正張出灯篭鬢、八寸長簪脚鼈甲、真鈕耳掻今不新、新裁染分晒前垂、半分桔梗半分鼡、中有小川英子紋、常履板屐糸鼻緒、近所有男字忠七、少宛無心依之恃、時見繰出行処何、二条新地御霊裏、二百席代三百酒、酒罷今宵有談論、談論山山多是鍵、其而忠七終出奔、近頃能従小銭回、他行縮緬平生紬、縮緬紬子最易着、青梅三留身不柔、君不聞在所親父長困窮、如何潜上驕此極、試問給銀知何程、半季所取三十目、
一従失宝物、騒動及家中、若殿初践土、上使肩切風、説愁幽魄白、巧事悪人紅、梅幸此場出、詮議皆尽忠
芸当金作入如山、於染久松袂自攀、割合弁当茶煖裏、水辛番付幕開間、皆言早已宜初未、共喚為何今欲還、金槌音休鳴柝木、青田高向桟敷班
此余にも数多あれど略す、明和己丑八月故逸滅方海著恵莱安陀羅校とあり。己丑は明和六年なり、今年迄八十一年になる、梅幸は祖尾上菊五郎、鯉長は中村粂太郎、英子は祖小川吉太郎、山下金作皆その頃の建ものにて京都芝居に出勤の折からなり、八十年前の昔も世情はかはらず、太平舘〔銅脈の号〕は狂詩の冠たり
往昔より役者見立番付などは時々流行に随ひ売事あれども、させる佳作もなく当然に散失して残らず、寛政中に可物〔前巻に云俳人推本二斗庵〕が其頃の俳優を獣物に見立し草稿予幼少の時家父が譲られ珍蔵せしが、第一を熊、嵐小六〔始雛助小六玉〕、日本獣物の司にして唐土の虎に対す、かたち肥太り毛色麗しくて猛き中に胸に月の輪と云所作事を抱き是に増すべき獣なし、二番に猿、市川団蔵〔近年歿せし団蔵の父〕、形ち少さく顔見にくけれど猿の人真似とていかなる事もせずといふ事なし、本手の早切早業なんど殆深山木の梢を走るましらの如し、第三に狼、浅尾為十郎〔浅尾奥山〕、此もの牙をむき出し一声ほゆる時は身の毛立諸見物に寒がらしめる猛獣也、四つには狐、尾上新七〔祇園町南部屋後尾上鯉三郎〕、是と云能もなけねど只の野狐ならず、白狐通を得たるにや諸人をたぶらかし喜ばせる事奇体なり、此余猪・鹿・狸・兎なんど末々の役者に見立、女形は鳥類に見立あり、其評に依枯なく、又文化中に江戸作者本屋宗七が書し見立に其頃の役者、松本幸四郎・坂東三津五郎・中村歌右衛門〔梅玉〕・沢村宗十郎〔源之助田之助の兄〕・岩井半四郎等を太閤記の人名、今川義元・織田信長・武田信玄・上杉謙信などによく見立ありし、草稿を梅玉秘蔵して或時予に見せし事あり、此宗七は狂言は一向書得ね共かやうの事にはおもしろき書もの有けり、今は諸芸とも地に落見立る俳優者なく残念なり
前篇にも演し如く歌舞妓作者は勿論、役者の学問は俳諧をたしなみ置べし、古作者桜山庄右衛門はせりふ付に便りよきとて古歌三千余首を暗記せしとぞ。俳名を鶯山といひし。又初代片岡仁左衛門も傍輩の役者に俳諧を進めしと云。心は神祇釈教恋無常何にても役に随ひ必詞文盲ならず芸のたよりになる学問也と、依て役者を俳優とて古く唱へ来り、既に初代山下金作〔里虹明暦二丙申年京都芝居にて女形の下髪は法度なりしを金作下髪にて出しゆゑ歌舞妓停止仰付られしなり〕「盥よりたらゐにかへる寒さかな」とはよく生死の門を詠しといへり、夫より已来初代中村富十郎〔慶子〕は英流の画も出来て麁書の物に自賛「いつ迄も娘心の柳かな」女形の情よく含めり、古水木辰之助の句「水無月は男になつて寐て見たし」是ら人口に膾炙して実に世をおほふものなるべし、近くは江戸五代目市川白猿、俳諧狂歌をよく詠じ徒然文談の書を著す、自筆の書予珍蔵して既に『讃仏乗』前集に出す、読て知るべし、又『老の贅書』とて是も自筆の書あり、因に爰に出す、家主成田屋七左衛門■*10の書判あり
■*10
天上天下唯我独尊「釈迦も指さすや鰹もほとゝぎす白猿刑にちかき悪をせざればその身全し、名に近き善をせざれば其心安らか也、唯愚を守り天遊を楽しむべし、
「たのしみは春のさくらに秋の月夫婦中よく三度くふ飯」反古庵述鼻しもふさの国成田山の街道に巨金の原といへるは里々に其名の替りある莫太の原なり、こがねよりとふる者はこがねの原と心得、のぶとよりいたる人はのぶとの原と覚えず【本のママ】、或はしゆすいかまがいよりかゝるものはしゆすいのはら、かまがいのはらともいふ、又此原にしんだうよりおもむく人はたかまがはらと申すなり、儒道よりゆく人は空原と号し、仏道より来る者は極楽浄土の原と唱へ、仙人街道より行く人は蓬莱のはらと思ひ、荘子のぬけ道よりとふる者は本分の田地と往来なすなり、神道には駕を用ひ、仏道は船で廻り、儒道はかちをたどる事也、老子は馬より牛に乗てゆけと被申しを、荘子は人におぶさつて通れと思ひ〳〵の了簡も、みな勧善退悪の都にいたらしめんが為なり
世中は子の曰南無阿弥陀どふでごぜすに内外清浄〔市川白俵戯述鼻〕
市川団十郎は代々俳諧を好みて今の七代目白猿狂句延猿集とて天保の始に一集冊を出す、花笠文京の頼みにて予筆を耕せし事あり
大江丸旧国〔俗性大和屋善右衛門内平野町金飛脚屋〕は予が父の友にして俳諧をよくし、戯場をこのみ狂言を見物すれば、吾一人の評判を書、同好の者に見する佞なく批判を書、面白き事限りなし、予五六冊所持せり、此人寛政二庚戌の冬『俳懺悔』三巻、享和元年酉の春『俳諧紙』三巻を著す、其中に戯場俳優伝奇に寄を爰に出す、俳諧一巻の変化をとく、序物語に昔浄瑠璃の作者近松門左衛門国姓爺といへる狂言を作り出して大当りせし跡をおもしろき趣向もがなと枕をわりて工夫に渡る、其時の芝居主竹田近江が申は、作者の心には左こそ存ぜらるべきが、去ながら大当りの跡は大体すら〳〵としたる事をなしておかるべし、国姓爺にてよほど徳分あれば、一二年不当りしたり共我ら式が給る程は沢山也、其間は古き物にても出し、其内には自然とよき狂言も出候はん、夫よりうへそれよりうへと趣向に趣向を重ねたらん、かくもて行ばわが家業は尽果申さむ、たゞ天然にまかされよと申たるは、一道に秀たる者の詞諸道に通じ俳諧の一巻の変化も此心専要なるべしと云々
又古雪中庵曰〔雪中庵蓼太を云也、三代目嵐雪の弟子史登其弟子也〕俳諧も年よりて段々と詞を伊達に遣ふように心がくべし、さなくては物古びて静かなる句も出る様になる基也、されば妓家の長といひし中村富十郎慶子が心がけを心の師として我はする也と、又云俳諧はものゝ模様だてなる中に淋しみを聞かせたらんこそよからめ、譬へば古団十郎が顔はあか〳〵隈どりながら、紙子着て楽屋に居たらんやうに有こそよかるべしと、又かぶき役者二代目海老蔵が門人に云「修行はおのれがかつ手あしきかたをならぬまでも精に入てはげむべし、得たる方は夫につれて上達するもの也、」と申せし、我はいかいもその如し、発句が付合か勝手あしきと思ふ方を修行すべしと云云、又市川五代目の団十郎わざをのがれて手島にかくれ白猿と号し少き庵をむすび老をたのしむ、爰にたづねて、
色の白きさるどのにそと見参まう 大江丸
とつぱ冷酒けふのもてなし 白猿
月を秋の花と詠むる世にすみて 完来
此完来は蓼太の跡四代目雪中庵也、近世対山五代目を継、此余に
ある妓家にてほし合を詠
七夕の今宵大星力弥かな 大江丸 旧国
しのぶ恋といふことを
吉田屋の蚊に喰れけり伊左衛門 大江丸 旧国
戯場の雪を題
あまりの大雪に申事さへ遠げしき 同
顔見世や旦那みつけし馬の窓 同
此余戯場好者家の句思ひ出るまゝ少し書つく
秋の風芝居の窓を吹やぶる 完来
かくれ家はしばゐなるべし年の暮 大江丸
二日からはて珍らしい初しばい 白猿
顔見世や馬の足跡名はなんと 文頂
張ものゝ山も笑ふか二の替り 鳳堂
瀨川仙女に送る
鰒喰ふときけば恐ろし菊の丞 米彦
吉例の曽我朝ひなを題
雨風のそこをこたへろ梅椿 金鶏
双蝶々道行を題
道ばたの菜種は関に踏れけり 李叟
石川五右衛門の役をして
出代りや葛籠負ふたがおかしいか 眼玉
狂言も秋の半でムリ升柴のト出に月の思入 真顔
極楽へ功のものなる蓮生も西の棧敷に後見せけり 三馬
年の内に春を迎ふる顔見せはめに正月の事始かも 京伝
此余枚挙に遑あらず、又文化の始道頓堀角中の楽屋内にて狂言を題して東都の柳樽に倣ひ穴さがしの句集出来たり、其番付に
俳優金毘羅樽
忠臣蔵尾上青蛾評 夏まつり堀田馬宥評
巻首 となせ小浪手踊りの間供をよけ つる井の 権羽
桃の井が屋敷荒神松買はず 天正の 天慶
勘平はその侭の手で門たゝき 並木の 五瓶
山科に一日後家が三人出来 侭の 川成
さし紙に去る屋敷出と書おかる 並木の ぬけ道
長持へ尿瓶をいれる由良之助 入我の 我入
奥切らず理窟もとらず平右衛門 前髪の 秀南
伴内は師直が為に由良のすけ 大仏の 竹馬
一力の亭主うそ〳〵石たづね 炭の 五郎三
定九郎を命の親じやと猪はいひ きせたまの 直住
千崎が蚤に喰はれぬ薬買ひ ちが松の 大舛
由良之助出しなに一寸髷直し 薬師の のぶ女
天川屋鉄炮鍛冶で嘘をつき 中村の 芝翫
一夜さに二度月の出る祇園町 富舛の 床石
異見した諸士が三人新造買ひ 西沢の 一鳳
其のちは勘平が母高歩貸 並木の ぬけ道
右馬之丞いにしなにいふ京言葉 呂真
八軒屋まで寝つゞけにする力弥 小判の 銭丸
下女のりんわれ三宝で焚付ける あらしの 李冠
巻軸 月影でおかる見てとる左り文字 侭の 川成
巻首 団七がしらみは床に置土産 一斗の 升成
徳兵衛が女房の顔は鶉やき きせ又の 直住
団七は播磨あたりで銭きらし 淀川の 水成
売声に似ず団七が魚くさり 天正の 天慶
茂平治の方がりくつと駕はいひ まゝの 川成
蚤の事一寸の虫といふ九郎兵衛 まゝの 川成
ぐれ宿の宿老立合ふ畠中 富舛の 麻石
九郎兵衛は戻つてもどでん耳に付 かゞやの 芝翫
殺さるゝやうに舅は理窟いふ やたばいの 五郎三
お鯛茶屋みだれ三人義を結ぶ よし村の 秀南
其後は手水半ぶんつかふ辰 やく師の のぶ女
氏地よけ囃子は畠まはりする 並木の ぬけ道
蚤しらみとるは徳兵衛が上手也 近松の 慶寿
伝八は来世で首しめの指南する 近松の 大升
其のちは寺へ来れど珠数もたず 竹田の 庵里
茂平治が□をつぶやく借物屋 一笑
九郎兵衛は七丁目で髪ゆふていぬ 岡しまやの 李冠
団七に水あびたかと女房とふ まゝの 川成
団七が髪とけて鬢あつうなり 岡しまやの 李冠
巻尾 妻は顔夫は雪踏へ焼印 近松の 大升
右之外狂言の外題に寄り毎月会仕候、御作意の御方何れの撰者へでも点相頼可申候間集元へ御遣し可被下候以上
信仰記うす雪八月廿八日開巻 板元 正本屋利兵衛
河内屋太助
享保七寅年十月十四日十夜回向の折から、網島大長寺の境内へ紙屋治兵衛紀伊国屋小春参詣群集に紛れ終夜法座に連り、終に晨鐘の折から境内の傍らにて左の一紙を懐にして空敷なりける、書残す一通の写のべ紙二枚なり
今宵ありがたき御教に預り忝奉存候、私共浅猿敷身の果未来のほども覚束なく存候、何卒なき跡御弔ひ被成被下候はゞ忝奉存候、是のみ御頼申上度書残申候以上、
十月十四日 治兵衛
小はる
大長寺様
追善狂歌二首 網島大長寺一代進誉
皆人も南無あみ島のたむけ草 紙屋ほとけの縁にひかれて
十月の小春の昔おもひ出で みな心中にゑかうあれかし
境内に墳墓有て書置も一紙に摺て彼寺より出す、享保壬寅年より今年迄百廿八年になれり、然るに『外題年鑑』には享保五子年十二月六日より〔小はる治兵衛〕心中天網島の浄瑠璃初日とあり、既に二年の相違あれど何れぞの書損なるべし、此作者は近松門左衛門にて、ひと日住吉へ詣新家の酒楼にて遊びける時、俄に大阪より芝居者来り、夕べ網島大長寺に男女の情死あり、何卒速に浄瑠璃に作りて給はらば翌一日の稽古にして明後日より興行せんとてひたすらに頼ければ、早駕にて走り帰りしまゝ書つけしとて、「走り書」と書出し直に「謡の本は近衛流野郎帽子は紫の」と書つゞけしと近松翁の頓作を『南水漫遊』にほめたるが、享保子歟寅年にせよ、情死は十月十四日なり、初日出しは十二月六日なり、是にては五十余日のゆとりあり、翌一日の稽古にて明後日より始めんとは近松が頓作を賞んとて素人了簡の詞也、いかに急作を得しとても、帰つて其事実を聴く間もあり、草稿なつても節付木偶のふりもあり、五日と七日とかたらずば【五日と七日とかゝらずばカ】あら筋の立ものにはあらず、いはんや駕にてはしり帰りしゆゑ、「走り書謠の本は近衛流」など書しといふは後世好者家の拵事也、歌舞妓にての外題は心中のべの書置といふ、天の網島とは盗賊悪徒の類を云よう覚えて、男女の情死にはのべの書置の方やすらかでよかるべしと思はる、是も事早卒の間なれば仕かたなけれど、五十余日の暇あればいかなる事にても書るべし、又能【或カ】老人の話にいふ、近松翁が文勢には人を寒からしむる言葉多し、元禄十六年未三月最明寺殿百人上﨟といへる院本に、最明寺が道行ぶり「蝶の翼のおしろいを草にこぼして梢には鶴の霜毛を脱かくる雪は花より花多き」と書けり、是なん『円機活法』雪の部に鶴毛蝶粉といふ四字を出して書る所に石曼卿が雪を題せし詩を出せり、蝶遺粉翼軽難拾鶴墜霜毛散未転といふ此句を和語にうつせり、かゝる才智をもつて和歌を詠じなば秀逸あまた有ぬべしとて、やんごとなき御方の御感ありしよしをいへり、又『橘庵漫筆』にある時竹田出雲・穂積以貫などいふ人近松が方に赴し時、淀屋辰五郎が事跡を記したる草稿に彼が驕奢のさまをいふとて、「金の冠り着ぬばかり」と書るを見て、いかに奢れるとても町人には似合しからぬ様覚えて、翌日行て猶草稿を見しに「金の冠着ぬ計り」といへる次に、「しやくは持病にありとかや」と書つゞけたるを見て各愷然たりしとかや、院本文句評註を書し『難波土産』といへる草紙に穂積以貫翁近松平安堂が像に題する詩あり、
見性却清醇 享齢擬壮椿 春温渾満腔
空眼転洪釣 句翰譫歌玅 少牋綺語神
申休門榜爍 楽隠特相親
又以貫翁は医を業として半二が父なり、半二を穂積伊助と云也
前編近松半二が伝にかへて独判断の叙〔疎懶堂〕を出せしが、其本文のおかしければ爰に出す
右は半二が遺稿にして疎懶堂と紀上太郎とが梓にのぼせ、天明七未の仲冬同好の人々に配る、予も是を一部秘蔵して読に至れるかな、此翁かゝる博識ながら前編の始にも演る如く、自聞取法問耳学問根気を詰て物学ぶ事のならぬ自堕落者なりといはれしよし、予も此翁の自堕落を真似るにはあらねど、東都においてひと日戯れに書たるは戯場正本寺の大上人
西沢一鳳一代不性
法然上人の一枚起請は愚痴無智の尼入道にあたへし文、吾れ生れし折は氏神始諸神達のお世話に相成、生ある内は孔夫子の仰をかれし仁義五常の道のはし〴〵をとなへ來り、是から先死ぬ一段と成ては仏達のお世話に預らん、さすれば念仏や題目ばかり唱るも、見えぬ先の世の事ばかり願ふて其もとを忘るゝに似たりと、一流神儒仏の尊きを思ひて朝夕天照孔子弥陀仏と吾のみ相となへ候、我と心同じき衆は是をとなへ給へいやならよしにせよ
右一時の戯れながら半二の霊若是を聞かば、善哉〳〵と讃歎すべし、扨遊里洞房の痴情などは親しくたちふるまふにあらすとも知りやすく書やすきものとはいへども、戯作者ならぬ歌舞妓作者の奈河亀助が戯編有、色相画文男女相姓とて自笑・其磧が口調に倣ひ、その文意猥雑なれども遺稿なれば爰にのする
奈河亀助が戯編
(此一章稍猥雑にわたれるを以て略す)
西沢文庫伝奇作書拾遺中の巻終
西沢文庫伝奇作諸拾遺下の巻
西沢一鳳軒李叟著
享保九甲辰年春始興行追善の芝廿八ケ年後寛延四辛未中秋に扇子芝
頼政扇子芝 豊竹越前少掾・豊竹筑前少掾 直伝 西沢九左衛門版
享保十乙巳年春興行廿五ケ年後己巳の秋是よりして双蝶々の狂言を出しけり
昔米万石通 豊竹上野少掾直伝 正本屋九左衛門版
享保十一丙午年四月八日より翌十二丁未閏正月晦日迄興行嘉永巳酉迄百廿三年になる
北条時頼記 豊竹越前少掾・豊竹筑前少掾 直伝 正本屋九左衛門版
頼政扇子芝
作者 西沢一鳳 田中千柳
序詞天上の衆星北に拱[たんだく]して尊[たつとき]を忘れず、地下の諸水東[ひんがし]に朝して大よく細を容[いる]る。中に牙む葦原[あしはら]国。神日本磐余彦[かんやまといはれひこ]の天皇[すべらぎ]より。千余[ちあま]り八百[やを]や四十[よそじ]の年。君を伝へて八十代。高倉院と申奉るは後白河の法皇第三の皇子。大政入道平清盛が御聟君治承四年も二月[きさらぎ]や位譲りの大内山ヲロシ御即位の大礼経営有。受禅の宮は言仁親王安徳天皇と号し。御年いまだ三歳の。いとけなき御姿に袞晩[こんめん]を召せ。内大臣平の宗盛かきいだき奉れば。父みかど御悩[なやみ]によつて後白河法皇三種の神器を伝へられんともうけある。玉座は唐の例をうつし。四神の幡を墀に立、話衛皷を陣に
昔米万石通上之巻
作者 西沢一鳳 田中千柳
西鶴法師が筆の跡女郎のよれる見世さきには。たけき虎もかうべをうなだれ印花禿[さらさかむろ]が横町を。袂かゝゑて通るには人かみ犬も尾をふつて。必よると書伝へ。あしこそしげれなには江や。夕暮ごとの。ぞめき人。相図の小歌物まねやうかれ浄瑠璃口々の中に目に立東口。新町根元根本の。油髪付仕出し家。虎やが見世にいろさはぐ。竹取唐土木々野など。客付る間の何がな慰み。是三五郎殿。あれ〳〵小野屋かうやくの声がする。来たら呼込うたはせて聞せてや。なふもろこし様木々野様かあゐらしいでつち殿じやないかいの。それ〳〵。見かけは十七か十八か年よりあどないおぼこ生れとそやされて。あほうのくせに口あはだて。おつと心得たんとはしらぬかうやくの。一座や二座はもめ姿。是〳〵小野やかうやくと。呼れて頃も六十余りねばはづよなるかた親父。箱ふりかたげ立よれば小野やおの
北条時頼記
作者 西沢一鳳 田中千柳
序詞葵の花は日を見て転じ。芭蕉は雷[らい]を聞て開き。耳目[じもく]なくして時を知る。況や明君機に臨み変に応じて民を撫艱苦を憐み世を富す。恵みめぐれる国人[くにたみ]の相摸守時頼朝臣古今に厚き仁徳の。栄へ茂りて桑の門薙髪の昔を尋るに。建長かぞへて四つの年。卯の花月の都より。後嵯峨の院第一の皇子。宗尊親王と聞えしは鎌倉の御所に入御なつて前の将軍の御代嗣とヲロシ各かしづき。奉る親王御年十三歳。才智賢く渡らせ給へば。執権北条相摸守時頼。同若狭の前司泰村。御蔵の典鑰佐野兵衛政経其外在鎌倉の諸大名。善尽し美尽して。御家督相続ことぶきて天下の悦び余り有。宗尊親王御袖を引つくろひ某いまだ
『艶道通鑑』は正徳五乙未年八月発板して似切斎残口の著述なり、神祇釈教雑無常の恋を六巻にわかち、昔より歴々の恋知りの情を書、常世の薄情を謗りいとおもしろき書也、雑の恋の部第十一段に白浪ばかりこそよると見えしかと詠せしは須磨明石の暗りみがゝれ出ると詠しは木賊山の有明頃同じ月ながら所によりておもしろく、わけて武蔵野の草より出て草に入月虫の声も高調子に隣りをはゞからず露も大粒にて余所より耀めきつよし、見る人の心も空とひとつに成て寛闊なるはむかう境界に随ふ魂なるべし、葉月の中の五日もろこしも大和も詩作り歌よむ人の宿に寝るはなし、終夜友にさそはれて興に乗ずるの望風願浅【頑世カ】もなき童も宵まとひせず、病なしの奴婢も隙有ながら居眠らざるは、東坡居士のいへる造物者の無尽蔵か、爰に中橋辺に人の家の賄する男、伴ふ人もなく夜更まであこがれ歩き往還も稀なるさびしく成しまゝ、我も家路に急ぎ足早に戻りけるに、汐留あたりのほぐらき方よりふり袖着たる女の色白く品かたちのさもしからぬが差出て、ふるひ声して見かけて申上ます御情けあれかしといふ、男は思ひがけなく何事にかといへば、たゞおたすけに鳥目少し給はれかしと云、男扨は此頃夜鷹とやらんいふものにこそ、何にもせよ今日は心ざしある日なり有合たるぞ幸ひと、遍路打あけて残らずとらせけるに、此女左右の手を受け雨雫としやくりもあへず、不審に覚えていかにかくまでは歎くと問ふに、女のいふにはかく御めぐみに与り候上はつゝまずかたり参らせん、みづからは浪人の独り娘にて終にかゝる業に出たる身にあらず、母にて候ものは去年相果て年老たる父親ひとり、殊に病の床に臥して持合せたる雑具も売代なし、朝夕のけぶりも絶々なるにつけ、隣あたりよりすゝめられ、此頃は身過の為めに夜々ちまたに出て往還の人に袖ふるればその日を送る儲はありと聞しまゝに、遣る瀬なき貧しき恥を忘れて、今宵此業に出参らせ候へども、しつけざるゆゑ又はおもはゆく宵には人にも近づきかね、とかくと夜をふかしもはや宿にかへるべきか、かくて帰りたればとて明日の便なければ、是非なくそなたの御袖に取つき候に、かほどの御たすけ身にとりてのよろこばしさと涙ながらに語るに、此男も共に泣てあくる夜必と契りてわかれぬ、扨それより夜をかさねて小宿をもとめ出合しに、心だておとなしくいひ出すことばもあさはかなく、次第〳〵にかあゐさまさりけるに、ある夜女のいひけるは我身かゝる浅猿しきわざを親にしられんも口惜く、そのかたと夫婦の約束致せしよしつゝまずしらせ候へば、老後の悦び是に過ず何とぞ逢参らせんと願はれ候とかたる、男も今はとてもぬれ衣かさねしうへのおもき縁、いざ諸共につれだちて親の在家へ行て見れば、娘がいひしにいさゝか違はず、親仁おもき枕をあげて手を合せて、我等はいはれある者ながら幸ならぬ事弥増てかほどに落ぶれ候、しかしむすぶ縁有てぞ娘はそなたにまかせぬらん、今は浮世に思ひ置く事なしと、古き衾の下より脇差一腰出して、最後まで猛武のしるしに放さじと心がけたれど、今の嬉しさ聟の引出に送り候と渡され、忝しとおしいたゞき其日は家に帰る、此男が主人は道具好にて取わけ此頃指料の求しけるに幸と見せければ、本阿弥へ出し吟味の上菊一文字の助宗に極る、世に稀成上道具と成ければ、主人も日頃の勤を感じ、今日のむすびを悦で家屋敷に金銀そへて此男に取らせ、娘も親仁も迎へて心安く看病しぬ、其年のくれ親仁はながく世を退ぬ、扨も泉岳寺の土に埋むと聞しはたしかに大石のくだけにやあらん
此出板は元禄十五義士復讐の年より十四年目なれば、近き事ゆゑ大石の碎にやあらんと遠慮の文なり、此一段を借りて明和三丙戌年十月近松半二太平記忠臣講釈の六つ七つ目に仕組たり、親仁を矢間喜内とし重太郎おりえに潤色したり、実に浪人の堅気、嫁が貧苦にせまり河原へ夜毎に辻君に出るなど人情を尽せりといふべし、予又此一段をもつて奈河晴助にすゝめ、義士伝によらず本文の通り仕組、祖父を鬼丸〔初代浅尾工左衛門〕、惣嫁娘を晴助〔娘珉子後小立〕、聟を璃寛〔二代目嵐吉〕此三人にさゝばよからんと、晴助諾して璃寛にはなし筆を探り予に外題を商議す、作者残口子を賞じて「艶道通鑑廓卯花」などよかるべしといへるうち、訳有て鬼丸は退座し、市川蝦十郎〔始市蔵俳名新升〕出勤と成ける、璃寛新升久々の座なれば幸ひと出村玉屋の名を借りて越前三国夫婦墳と外題して写本十巻を出して、文化十四丁丑の冬顔見世に出し、幸に当りを取りけり、是等狂言の種とするには其折の役者によるべし、数多ある野史雑書の中に、是を潤色して誰々にさせんとの腹稿新奇無量のもの数多あれ共、時候座組により世に出ず、年月立ば忘れ腹稿の侭徒とはなりけり、詩歌連俳に孕三句とて、趣向うかびながら句を惜しみて其場をまづ、昔源の順が「楊貴妃帰唐帝恩李婦人去漢皇情」云詩を兼て嗜み、対雨窓月といふ題を得て此句を出し、津守の国基が「薄墨にかく玉章と見ゆる哉」の歌もおなじ、其余ふし柴の加賀は白川の能因も此類ひなり、芭蕉も「浮世の果はみな小町なり」といふ句を久しく心にかけて「さま〴〵に品かはりたる恋をして」と前句出しをりに爰でこそと付たり、詩歌連俳にすら読ばえあるなしの跡あり、況はんや諸万人の看官に見せる狂言なれば、時候・人気・役者の三つに呼吸あはねば手柄とならず、期をまつて期を失ふ、わる口に言へば弁当もお蔵となりしといふべきか、此三つを弁へず、いかに当り狂言なればとて無理往生に出して、益なく不評にして看物の入らぬ時は、金主には損をさせ、いらざる気根をへらすのみなり、三つのうちひとつかけても、時来らずと腹稿のまゝ持にしたらん方ぬかぬ太刀の高名なるべし
此狂言も享保十五庚戌年の春竹本座の新浄瑠璃にて長谷川千四と文耕堂の作なり、大序は真鶴が崎にて頼朝敗軍を集める場、二つ目は八丁礫の後家再縁して真田文蔵藤九郎盛長等と再会の場、三つ目は帷子が辻青貝屋より星合寺、四つ目は三浦義明衣笠城の場、何れも面白き場ながら衣笠城にて三浦大助百八歳けふ討死のかどんでと、老の粧ひの若々敷花田の衣に白の直垂、金造りの太刀をはき、心をもみに萎烏帽子、しのゝめ芝毛の駒にのり、紅梅靮かいくり〳〵、五色揃ゆる出たちばえとの齣あるゆゑ表号に紅梅靮と出せり、此三段目は余の三の切と違ひ屋体組なく往還の狂言なり、娘景清の三の切、襤褸錦の大晏寺堤の外、三の切を往来・門傍にて書しはなく、数百番の浄瑠璃の内にも所謂天狗ものにて老練の者ならで語らず、三十年前北の素人浄瑠璃に名高き吹松、独是を語り予も幼少の折聴し事あり、然るに文化十三丙子年璃寛を贔屓の老人よりすゝめて、児源氏道中軍記の二の切青墓熊坂長範の役、又太政入道兵庫岬三の切能登守教経と二役をさせしに、古今未曽有の大当りをせしより、何がな珍敷院本を見出し璃寛にさせんと種々勧むる中に、三浦大助の三の切梶原をせよと北の贔屓連より達ていへ共、璃寛役は納りながら時節有べしとて是をせず、六郎太夫を鬼丸、娘梢を珉子ならば役割にも誣なかるべしと再三勧めし時、璃寛の答へに、六郎太夫と娘はよくとも、大場景親、俣野景久を冠十郎〔俳名慶舎〕、団八〔俳名団風〕にさせたらんにはかゝる名誉の狂言を仕崩すべし、其訳は石橋山合戦の頃は大庭・俣野は大身なり、梶原景時は身分遙に低からずや、其両人の見る前にて切る剣を手の内の術にて切らず鈍刀と偽る役ゆゑ、大庭・俣野は我芸と同じき立物にさゝでは狂言の情に叶はず、先片岡の大庭、新升の俣野ならばしても見ん、狂言は是に限るべからずとて再言はず、影にて看板等の手当までしたれ共出ずなりけり、此時いかにしても残念なりとて、『会稽三浦誉』と外題して浜松歌国に託して絵入読本に出させ文談は院本のまゝを書けり、後五六年立て文政四辛巳年三月歌右衛門〔此頃芝翫〕梶原をしけり、六郎太夫鬼丸、娘梢松江、大庭奥山、俣野歌七にて外題も無雑作に梶原平三紅梅靮と呼けり、四の切をしてこそ紅梅靮なれ、譬はゞ紅梅の箙にするにせよ、箙の梅は源太景季なり、かゝる事は前編梅玉の条にのぶる如くなれば論なし、其頃璃寛・芝翫とて贔負〳〵の鎬を削り甲乙を争ひしかど、璃寛は年も芝翫よりは十ばかり越修行も故銘人の狂言を見覚えし故か、三段ばかりは丈夫に上なり、されども芝翫は若手なり、時の人気に叶ひし故、血気にまかせ何役にても仕おほせ暗的も中には有けり、此時予が文の友魚力といへる老人〔素人浄瑠璃俗号備七〕、古今戯揚の見功者にて、珍敷狂言出しゆゑ一見せしが片腹痛くなりし故石切だけにて帰りしと予に咄さる、其批評を聞くに此紅梅靮の三の口切は宝暦・明和の頃一見せしが、其時の役割、梶原景時に三保木儀左衛門〔俳名素桐〕、六郎太夫に三桝大五郎〔元祖逸風〕、娘梢に沢村国太郎〔いまだ娘形に有りしと〕、大庭景親に嵐七五郎〔俳名舎丸〕、股野五郎に山村儀右衛門〔此頃は喜吉俳名五登〕にてせし見て余りおもしろきまゝ、其後此狂言出たれば老後の思ひ出に見物すべきと楽しみ暮せしに永らく出ず、又当時の役者共は見るが物なしと近頃芝居は噂のみ聞て見物せず、然るに此度中村歌右衛門、工左衛門等がするよし聞、早速角の芝居見物せしに、衆人一統よろこべども此方の評するに論にかゝらず、夫を大明神の、親玉の、と諸見物は皆盲同前なりと散々の評也、予も老人の昔を賞め、角觝の咄いづれば谷風・小野川・雷電に威され、戯場ばなしには黒谷文七・平九郎〔藤川〕・初代あやめに倒され閉口するも、口惜ければいかなる所が気に入らず委敷評じ候へと魚力老人の評を聞に、先梶原の了簡違へり、大庭・俣野は東国の大名なり、景時は小身なり、今の芝翫が梶原ならば大庭は片岡に限るべし、俣野は新升か大友なるべし、奥山歌七等にさせるは何ぞや、その上今にも耳に残り眼にさへぎるは茶の湯のうちなり、詞「此馬場先の松風を釜のたぎりと聞なして持参の茶箱渋くとも御両所へ差上げんフシ「此場のしらけ汲流すお茶の手前は小扈従が色をゆかりの紫帛紗青しつ覆ひの挾箱、腰をかくれば是も又三畳台目の心地ぞと、梶をとつたる梶原が心の花ぞ優美なる」と此内茶の手前をするはかの北野の大茶湯のさまを見するが狂言なり、茶の湯は東山殿以来の弄びなどとて、芝翫が酒にかへ歌をよむかは知らねども、都て小利口にて大名とは思はれず、与力同心の心持なり、後刀を改る所物語親子の影を手水鉢にうつす所も皆下卑たり、幕切淋しきとてか大庭・俣野が出て軍法の問事などは論にかゝらず、又鬼丸の六郎太夫甚あしゝ、逸風〔大五郎の事〕のせし時は「するどき剣のおがみ打、音はばつたり砂煙り血はたつなみと涌かへる、上の死骸を引のくれば六郎太夫は茫然と起上つたるからだの門【内カ】、聊も疵付ず縄目はふしぎにきれほどけ、気を空蝉のうつかりひよん」と此時起上りしまゝ眼たゝきもせず正面を見つめ居たり、大庭兄弟が悪口、矢来の外にて娘のよろこび、せりふ渡りて大庭・俣野挨拶もなく立かへる迄長き間正面は見付いれ共、爰は冥途か何国ぞと心の疑ひ顔にあらはれ、兄弟の這人切た跡にて心付死んとする思ひ入、得もいはれず、鬼丸は骸うごかせて、扨は刀はなまくらかと大庭兄弟の這入らぬうちから早心付たる体、然らばとめ人のないうちに切腹は出来るべし、嗚呼拙なしとつぶやかれたり、予も此体のおもしろさに、以前璃寛に勧めし時時有べしといへる事を老人にかたりければ、実に璃寛にさせたらば鬼丸にも教べし、其心にてする時は素桐にも増るべし、残り多しといはれしが、璃寛は期を待て期を失なひ、芝翫は我を張り仕おほせたり、夫すら又梅玉の狂言となりて仕様を知らず、星合寺を宮となし、手水鉢変じて駒犬とかに化す、役者はもとより見物の目も其時々にかはるなるべし
此狂言は今専ら歌舞妓浄瑠璃にも流行して誰も知りたる事乍ら、並木宗助が遺稿にて歿後宝暦元辛未臘月より豊竹座に於て、尤書さしの所は浅田一鳥・浪岡鯨児が補助もあれど、宗助数十番の狂言ありと雖も是等を名誉の佳作と云、須磨の若木の桜を源平の世界へ借り、敦盛を院の胤故無官太夫と云、熊谷直実はもと佐竹の治郎などゝ思ひもかけぬ軍中の身代り、斯押出しての趣向はつかぬものなり、三の切枕浄瑠璃に「要害嚴敷逆茂木の中に若木の花盛、八重九重も及びなきそれかあらぬか人毎に熊谷桜といふぞかし」と嫩の桜に熊谷桜を混じ寺内の余木に梅有て此花江南の所務なりと弁慶執筆の制札を梅と桜の樹はかはれど態と一本に寄たるなるべし、予当仲秋月見がてら彼地に遊ぶに付古図名所等を𩛰り、かの地に引当て見る所、源語須磨記の古きはいはず、源平戦死の古墳は源平盛衰記・平家物語より見出して爰か彼所かと定めしにはあらず、大約嫩軍記の院本より所を定め標石を建しと思はる、山上には内裏の跡あるが故三の谷の前に一門の古墳有を、嫩軍記の浄瑠璃此かた敦盛の石碑と唱へ替たり、古き船頭唄に「爰はどこじやと船頭衆に問ば爰は須磨の浦敦盛の石塔、」是宝暦・明和頃の流行歌なるべし、新画図を見れば鉢伏山・鉄楞嶺より須磨寺の北手を都て後の山と云とあり、三の切物語の文談に「迯去たる平山が後の山より声高く」と、是より土俗唱へ来るを摂津国大絵図に迄書入ると見えたり、是に不限、都て名所古跡は多くは浄瑠璃より出て所定まれる物、人も尋ねて少々の廻り道をしても必訪、代々の撰集に出し和歌の名所、古物語物に出たる古跡は俗に遠ければ人行ず、四天王寺の西門の花表の額を小野の道風の筆也とは竹田出雲が青柳硯より定め、須磨の古戦場は並木宗助が嫩軍記より極る、原より根なし事を書編る業ともいはゞいへ、是らを作者の面目といふべし、曩に云児源氏の熊坂長範の珍らしかりしより銘々古浄瑠璃本より見出して、文政元戊寅年五月堀江市の側芝居にて須磨都源平躑躅二の切扇屋若狭の場、源平鵯鳥越三の切鷲の尾経春の場を集め熊谷・鷲尾の二役を璃寛にさせけり、源平躑躅の院本は享保十五庚戌年霜月に始て長谷川千四・文耕堂の両人竹本坐にて作なり、然る時は嫩軍記より廿二ケ年前の狂言にて熊谷・敦盛は嫩軍記の佳作に奪はれて久敷世に出ず、其うへ二の切なれば齣軽く、操りに取立ても真の太夫は三の切をとり、二の切は二枚目三枚目の太夫語れば軽き事勿論なり、物によりて三の切は語り手なく二の切・四の切など流行する狂言あり、いはば芦屋道満大内鑑の三の切は人語らず、四の切葛の葉の子別れのみ也、摂州渡辺橋供養にても其場を語らず、四の切袈裟御前鳥羽の恋塚のみ語るに同じ、依て扇屋の場を人しらず、漸北の吹松〔前にいふ素人上るりの名誉〕は時々語ると聞たり、近来こそ法則崩れ形容にもなき背けたる役を仕もしさせもすれど、文化の末、文政の始頃は嫩軍記の熊谷などは仕手の役者を好し事なり、既に奥山〔為十郎の祖〕は容猛くいか様坂東武士とも見ゆるが故熊谷は毎度せしが、芙雀〔南部屋祇園町〕のせし時人柄に似合ずとて不評なりしとぞ、寛政十戊午年盆替りに珉獅・璃寛とて若手揃への折、熊谷は小珉獅、六弥太は璃寛、切は〔八郎兵衛雛助猿廻し与二郎嵐吉〕毎日替りの時也、其後は熊谷は片岡一人より仕手はなき様に思ひしに、文化十癸酉年江戸よ帰りたての歌右衛門〔後梅玉と云〕小兵ながら嫩軍記の熊谷をしけり、もとより手だれの芝翫なれば、故人の仕来りと違ひ新奇無量の思入を加へたりければ、二の口須磨の浦組打の場は古今に仕手あるまじと評よかりき、三の切物語迄よく、幕切「切払ふたる有髪の想」との所にて兜の下くる〳〵坊主なり、義経より暇の出るや否わからぬに青坊主になるとはあまりなる思入をとて甚不評の上、角の芝居にて璃寛青柳硯の道風をして大当りをとりしゆゑ、興行わづかにして京都芝居へ登りけり、其時の落首に「熊谷が夏のとうふにあてられてあたま丸めて京へ御隠居」とてそしらけり、此時より後歌右衛門度々出し坊主あたまを見馴しゆゑ、今又有髪の想にしてしたれば古風なりとて笑ふべし、右に云ふ如く熊谷の容璃寛には似合ざる故嫩軍記の熊谷はせぬ事に極めたるを、源平躑躅は狂言も違ひ、殊に深網笠にて長く顔を隠し居るゆゑ、薄肉砥の粉摺兀しにて見せたらば珍らしかるべし、拵へ〔楽屋通言に顔のつくりを云〕だけにても役になるべしと勧によつて始しに、狂言の珍らしきと璃寛の拵衣裳万端評よく大当りを取たり、此時の役割は小萩の敦盛に萩野錦子〔後沢村国太郎〕、扇屋上総に嵐冠十郎、同女房に中山文七、阿根輪の平治に嵐団八、尤璃寛の心には此直実は院本のまゝ添削なくする事故、役軽く狂言は次幕鷲尾経春にて見せ此場は拵、容を役として勤けり、翌年京にて此狂言を出し上総に工左衛門、小萩に小六にて是又大入せしなり、其後中絶して狂言出ざりしを十五年後天保三壬辰年歌右衛門〔梅玉〕年々根気疲れ新に一日の狂言を稽古をする能はず、大体の役は仕尽したり、一齣は乃至【本ノマヽ】口切ものに残る狂言のあらまほしと予に相談に及ぶ、色々と話す内ふと源平躑躅の事を咄せしかば、梅玉も兼て噂に聞居る事、商議の邪魔なりとて余人を退け、梅玉に其役出来ふや出来まじくやと問ふ、予が曰璃寛は常に真立役のみをして替りし造り拵へをせず、故に見物珍らしがりたり、前にもいへる璃寛すら役は不足なれども造拵にて勤めし事を語り聞す、梅玉云、我に熊谷の造り拵へ珍らしからず、殊に岡は〔璃寛の□□□〕狂言を腹でして働きをせず看官に感心させる名人なれば、所詮梅玉の狂言になるまじ、予又曰、二の切位故役軽し、是を三の切に脚色ばいかにと、院本正本を取よせ読聞せければ梅玉聞て、成程是は軽くてする所少なし、いかゞすれば三の切になるやと問ふ、本文の熊谷は菅原伝授の松王にて小太郎のなき役なれば軽し、是を口と見て道具をかへ、五条の橋にて嫩軍記の二の口組討をして見せなば、梅玉素より檀得の〔楽屋通言に二の口を然唱る〕方評よく、東都より岩井紫若〔杜若忰始松之助〕来り出勤なれば是に敦盛の小萩をさゝば取合よからんと云、梅玉大によろこび両人共に引抜の衣裳を誂へ予は正月元日に此増補にかゝり、都て一幕を賑はしく人数をふやし、五条の橋よりチヨボを駒太夫に書〔豊竹駒太夫は延享・寛延・宝暦年間の人、古今の美声名音也とて駒ぶしとて有〕愁ひ大落しの跡「かゝる歎きの折しもあれ俄にひびく鯨波、耳をつらぬく鐘太鞁手に取如く聞ゆるにぞ、夫婦ははつと打驚胸を痛る計り也、敦盛耳を欹て給ひセリフ「ハテ心得ぬ人馬の物音、扨は先刻の阿根輪とやらんが再び是へおしよするか、我命はをしからねど名もなき匹夫の手にかゝる事一門の思はく、ハテ残念やなア「御落涙ぞいたはしき〔下略〕、敦盛を忠度につかひ、熊谷を六弥太につかふ両人役の肥たる事なし、其末にセリフ「イヤウ熊谷殿御所望に候得ば此二本の陣扇わけて一本進上申す、かさねて廻り扇の印チヨボ「互ひの勝負は戦場でと、いはぬはいふに弥増る、涙かくして手に渡し、夫婦さらばと立出れば、是のふ暫しとひきとゞめ、可愛いゝ娘の死顔をまいちど逢うて下されと、すがる袂をふり払ひ、早立出る其隙に、熊谷馬に乗り移りさもゆゝしげなるその有さま、見るより敦盛心をはげましセリフ「いかに直実此場は此まゝ別るゝ共、一の谷の戦場にて我ぞ誠の敦盛と名乗つておことに出合ひなば、助る心かいかに〳〵チヨボ「いかに〳〵と呼はれば〔此時花道にて紫若引ぬき〕、紫熊谷につこと打笑ひウタ「ホヽいしくもとがめたり、モシ一の谷の戦場にて出合なば、けふの情を其日の仇、此加茂川の流れを直に須磨の浦になぞらへ、一二の谷は東山、今恵れし此陣扇、さつとひらひて高声にチヨボ「駒をはやめて追駈来り〔舞台で歌右衛門一ぺん馬の輪のり〕セリフ「ヤア〳〵夫へ打せ給ふは平家の大将軍と見奉る、まさなうも敵に後ろを見せ給ふか、かく申某は武蔵の国の住人私の党の籏頭熊谷の治郎直実見参せん、返させ給へヲヽイ〳〵チヨボ「扇をひろげ暫し〳〵と呼はつたり〔爰にて歌右衛門馬上にて引抜き〕「敵に声をかけられて何か猶予なすべきぞ、敦盛駒をば引かへし、イザ来い勝負と詰よれば、熊谷も進みより、互ひに打物抜かざし、朝日かゞやく剣の稲妻、かけよりかけよせてう〳〵〳〵、蝶の羽返し諸鐙、駒の足なみかつし〳〵〳〵、こは須磨の浦風に鎧の袖はひら〳〵〳〵、群居る鵆村千鳥、むら〳〵ばつと引汐に、よせては帰り帰りては紫「又打かくる歌「虚々実々チヨボ「勝負果ねば太刀投すて、馬上ながらもむんずと組、ヱイ〳〵〳〵の声諸共、たとへ鐙を踏はづし両馬が合に落る共歌「首かき切て高名なさん、其時かならず情ある武士抔と油断せば、終にかの土にかばねをさらさん、心得たるかといさめの詞〔下略〕、次の狂言を前に云越し奇麗にて紫若と老練の梅玉と所作がゝりをさせる心に書上げ、三日寄初に相談したりければ、梅玉よろこびの余二の替りには惜しとて、三の替りに角の芝居にて出しけり、熊谷梅玉、敦盛紫若、上総大友〔舎丸〕、女房加納、阿根輪翫十郎大当りを取けり、是より梅玉の狂言と成り、翌巳年三月京都にて敦盛を尾上多見蔵にさせ、同七申年の顔見世に敦盛を璃寛〔三代目めとく〕にさせ幸にしていつも評判よかりけれど、敦盛は紫若に限るべし、市川海老蔵東都にて此噂を聞、三升屋四郎〔狂言方の内弥助〕に院本を仕組ませ、彼地にて熊谷をしたれども、かゝる増補とはしらざる故、熊谷花道へかゝり敦盛本舞台より呼もどすが故両人とも引抜目立ず残念、しかし東都にては珍らしきゆゑ度々勤め、今はねこも釈子も扇屋熊谷とてする事には成たれ、然れば此源平つゝじの熊谷は璃寛を元祖と見て、梅玉を中興の開基なれば今時の駄熊谷とひとつに混ずる事なかれ
天保十二辛丑の春予は東都遊歴に下りし処、武州熊谷駅熊谷寺の霊仏・霊宝等向両国回向院にて開帳なりければ、木挽町河原崎座にて蓮生坊が悟道の発起は一子を悲しむ制札桜、楽人斎が忠孝の懺悔は其名を惜しむ詠歌桜、一谷嫩軍記大序堀河御所の場、二の口須磨浦組打の場、三の切直実陣家の場、四の切六弥太屋敷の場との看板出けり、熊谷直実・岡部六弥太訥舛、相摸に杜若、傾城菅原に大吉、敦盛・小次郎・菊の前に紫若、弥陀六・田五平に海老蔵にて四月上旬より始め相応に入けり、原此四の切は佳作なれども、院本にても語らず歌舞妓にても至つて仕にくい場故、京摂にても今迄歌舞妓にては二の切流しの枝の場限にて四の切はせし事なし、東都にて先年故人三津五郎〔秀佳〕始て六弥太を勤め、田五平は片岡市蔵にてせし事有、名人上手の秀佳ゆゑ工夫に工夫をしてせしがさ迄の当りはなかりしとぞ、扨此時海老蔵は昼後堺町勘三郎座へすけに出で、両がけにて例の扇屋熊谷一幕出勤也、即看板は開帳の略縁起奉納造物〔熊谷蓮生法師敦盛自作尊像〕東下向の時を得て、実に有難き御利益もすけに頼みの取持は御贔屓よりの御勧に任て、魁源平躑躅、熊谷海老蔵、小萩栄三郎、上総冠十郎、女房常世、阿根輪鶴蔵、此五月木挽町は神霊矢口渡に替り、堺町は多見蔵下て海老蔵〔すけ〕の一幕も堺開帳三舛花衣と外題して熊谷蓮生法師に海老蔵、玉織姫に栄三郎、主馬盛久坂彦弟子尼常世松之助、是は源平躑躅四の口の趣向をかり、玉織小原の庵室に敦盛の菩提を吊らふ、熊谷法師と成て尋ねるは鉢の木の最明寺と見て、坊主頭にて組討の物語をして見たき誂へ也、此後浪華に来つて是を扇屋熊谷と二幕ものに勤しが、岡部六弥太をして見たく忠度を助けたき誂へなり、予曰扇屋の狂言につぐならば忠度は生置れ共嫩軍記には次がたし、其訳はと問ふに、敦盛を小次郎と取かへ身代りに助け置くに、次に忠度を助け置く時は二剤と成て魂入らず、所詮嫩軍記の四の切を捨て新に趣向を立んより仕方なしと工夫に及べども、四の切の文談に捨がたき所二三ケ所あり、菊の前傾城と容をやつし、乳母の林も花車と成り出の文句「別れにし其日ばかりはめぐり来て又もかへらぬ人ぞ恋しき」と上東門院の女房伊勢の大輔の歌の心、夕の雲朝の雨と誓ひし事も楚王の夢はかない浮世のあぢきなの此身の上と計りにて思はず結ぶ露時雨、あゝ是々それはまあ何いはしやんすあられもない事ばつかり、ヱヱ聞えた昔の勤をかくさうと堂上めかして、ヲヽ啌都九条のお傾城菅原といふ事は何ぼ隠してもしれて有〔下略〕、又菊の前と菅原とせり合の文句に、「其菅原といふ傾城の御本家殿をとらまへて菅原といふシヤの果じやとはテモきつい間違ひよう、ムヽ妼衆か但し又家中衆の御内儀様か近付に成りましよと上から出れば菊の前、イヤ〳〵和歌三神を証拠其菅原はわしじやわいな〔下略〕、かように俊成卿の娘故自然と詞に雲上めく所、佳作名文なりと味はへば、捨るに惜しく忠度を生かし置けば楽人斎〔田五平〕にかせなく、兎やせん角やと書ては捨て捨てする事両三度、二の切兎原の里を見せねば奥へ趣向とゞかず、口に奥立など見せる時は忠度傾城と成りても跡に役なし、此時「千載集桜花の秀逸」と外題をすえて草稿なりけれども、夫を捨て、弘化三丙午の春やうやく狂言とはなりけり、田五平を後藤盛長の忰とあれ共、須磨の戦ひの場所にて主人重衡を捨て迯たる盛長の後家躮、兎原の里の貧家に暮すも時候違へる様に思ふが故、伊賀の平内左衛門が忰と直し、菅原を深谷の奥方にして伊達なる傾城の容は忠度に仮りたるもの也、中山道深谷の駅に岡部忠澄の旧領あるが故女房の名に賦したり、『源平盛衰記』は元より謡曲の『俊成忠則』を始として忠度・六弥太の名の出しものゝ書を捜し、数多度練らずんば脚色するとも心よからず、嗚呼痴なる哉此業笑ふべし〳〵、此時の役割は〔江口の遊君漣、本名薩摩守忠度〕璃珏、〔人足廻し茂平次本名番場忠太〕仲蔵、〔隠居楽人斎本名莵原田五平〕鰕十郎、〔奥方ふかや〕寿美之烝、〔平山武者所〕文五郎、〔神崎の傾城長等本名俊成卿の娘菊の前〕巴丈、〔岡部六弥太〕海老蔵、琴唄独吟流しの枝本調子、江戸佐々木市蔵調西沢一鳳軒著綴本を出す「行くれて木の下蔭を宿とせば空にしられぬ雪ぞ降り合花を枕に吹雪の褥ね憎や嵐の〔璃珏を云〕当言を聞て流しの花の枝合本〔利を云〕に男の気ば〔木場を云〕か利〔本を云〕汲んで一夜まろ寐の添臥も、いはぬがいふに弥増る合花や今霄のあるじならまし、今年東都八代目団十郎父海老蔵に逢はん為、夏休に上阪して土産狂言に是を習ひ、帰府して三丁目〔猿若町河原崎〕芝居にて勤る、其外題に源平桜平家栬〔さゞ波や志賀の都はあれにしをむかしながらの作意をかへて〕江口の里忠度傾城姿難波の仕組に、狂言の世界は春の錦〔行くれて木の下蔭を宿とせば花やこよひの趣向をかへて〕神崎の廓田五平大尽姿、江戸の仕込に芝居の世界は秋の錦嫩軍記を艶色和げ、六弥太が琴唄の物語古郷へ錺須磨凱陣、一の谷武者画土産新板五枚続と書たり、〔けいせい漣本名忠度〕小団治、〔けいせい長等実は菊の前〕新車、〔平山武者所〕奥山、〔人足廻し茂治兵衛〕為十郎、〔深谷〕菊次郎、〔隠居楽人斎実は田五平〕眼玉、〔鰕十郎改名岡部六弥太忠澄〕団十郎、幸ひにしてかの地にても評よかりしと云をこせり
此浄瑠璃は明和元甲申年十月廿一日より始る、作者は若竹笛躬・黑蔵主・中村阿契三人の名を出し新浄瑠璃は三の切迄にて四の切は義経腰越状三の口切を次にすえ、大切は追善紀念□とて、豊竹越前少掾藤原繁泰行年八十四才にして此秋九月十三日に死し其追善の段ありて、いはゞ三段目迄の端狂言なり、序は清水より大仏供養、二は武蔵守知章監物太郎の場、三の口切は手越の宿日向島なり、是を歌舞妓に取立勤めしは浜芝居にて柴崎林左衛門、大戯場にては嵐小六なり、寛政元己酉年十月叶雛助一世一代に出せしが尤三の口切計也、此狂言程仕憎き役はなきよし、泣ば弱し強ければ愁ひ利ず、両眼は大仏供養の場にて繰抜たる眼なれば、白眼む所も開く事ならず、即此時柴崎も同座なれば柴崎とも相談して始しが左程の当りもなかりしと也、され共景清の人柄は小六に限るとて人も進め我も捨ず度々せしが、寛政八丙辰年の顔見せに傾城阿古屋の松〔序二の口切〕、檀浦兜軍記〔序切大仏供養二の口菊水三の口琴責三の口切鯉の場〕琴責、岩永小六、重忠文七〔鬢付や〕、あこや国太郎段切所かへしにて、あこやの母十六夜に小六、井場重蔵に文七早替り早拵へにて大に評よし、娘景清八島日記〔三の口切〕景清小六、糸瀧いろは、左治太夫山村、三組誉景清と云外題にてやう〳〵此時小六の景清当り芸となり、『珉獅選玉の光』〔二組とも小六玉芸評を書し書也〕にも大極上々吉に位せり、小六・柴崎歿して後誰も仕手なく、適三桝清兵衛〔今の大五郎の親始芳亀後大五郎〕堀江市の側芝居にてせしを予も見た事あり、其後文政元戊寅年盆中の芝居にて娘景清八島日記には北条義時に璃寛、弥陀六に鬼丸、敦盛幽霊に錦子三は糸瀧に小六、左治大夫に鬼丸、景清に璃寛、舅沢村国太郎〔舞台を辞して海老丸と【云カ】〕故柴崎の小六のせし事を委敷教、稽古万端再吟して出せしが、其頃は見功者も多く小六・柴崎等をよく見し者多きにや、泣過愁きゝ過るゆゑ弱しと云けり、小六玉すら数遍勤ても評よからず漸後に佳境に入りし役中々容易に出来る役ならずと、璃寛もつぶやき居たり、爰に天保二辛卯年五月狂言に角芝居にて梅玉幼少の時〔加賀屋福之助〕座摩稲荷等の宮芝居にて浄瑠璃に木偶をつかはず、子供役者に首振と唱へあまり人数の余計出ざる物【をカ】見取狂言にせし事有、此事を思ひ出浄瑠璃は竹本組太夫〔素人の内藍玉といひし人なり〕三味線に鶴沢勇造、手摺〔木偶つかひ〕は吉田千四、同新吾、同三吾と打交同座にて興行せし、其時口上書に私幼年より操り芝居へ出勤仕候、往古は操歌舞妓打交是あり、其後にも私首振と唱へ相勤ましたる先例も御座候に付、操方衆中と打寄内談仕り、右操歌舞妓興行之義、一統坐組仕、即狂言は私多年八島日記三の初島之段相勤度候へども、是迄名人達の致され候役儀故、是迄相勤不申候所、然御贔屓の御方様より押て右の役儀相勤候様仰被下候に付、操方衆中と打交にて組太夫殿を以て首振操にて私相勤申候、誠にいちか罰か立横十文字の島景清を奉御覧に入候〔下略〕、扨も稽古は梅玉の部屋にて組太夫・勇蔵と並び、千四は前狂言の権太の木偶を景清の心にて遣ひ見せ、新吾は左治太夫、三吾は糸瀧を遣ひ見せる事にて、楽屋は中通り部屋を明て操り方に渡し、舞台・建道具も操りと歌舞妓の道具同じ場を二つ宛拵らへ、前狂言千本桜打交と云は大序鞁渡しは惣操り也、序切堀川夜討は歌舞妓なり、二の口はなし、二の切渡海屋幕明よ友盛の向うへ這入る迄操り、千四友盛独り遣ひにて這入、切と拍子木にて道具歌舞妓にかはる、国太郎典侍の局、友盛梅玉、弁慶歌七、義経小川にて幕切迄歌舞妓なり、三の口椎の木又操り、幕切小金吾の立より歌舞妓三の切鮓屋、豊竹此太夫・同時太夫丸で操り、八島日記三の口惣歌舞妓、三の切島の段一幕手摺り舞台幕明、百姓賎の女は木偶にて這入る跡、梅玉には千四上下出遣ひの容にて付そひ、余は黑子にて松江〔糸瀧〕に三吾、鰕十郎〔瀧十郎事左治太夫〕に新吾、小川嵐吉〔里人〕に東十郎・弥三郎付そひ一統首振にて操歌舞妓とも名誉の者計り打よりする事なれば、誤りはなけね共まづ眼に働きある梅玉を盲に遣ふは損也、景清計りはいかにも木偶なれども、余はどう見ても歌舞妓也、評判程にもなく一日の場代にて操りも見歌舞妓も見る事なれば、朝の内は珍らし共思へど、後はすこし飽る心地せられて、切狂言暁烏祇園調お花半七は惣歌舞妓なれば見馴し見物やはり是をよろこぶ也、是を試として評よくば時々打交にすべしと相談して、操歌舞妓の二座を抱へ雑費かゝる事甚だ多く、大騒立て興行せしも時候暖気の頃にはあり長く興行もせで止けり、前編にものぶる如く中昔迄は歌舞妓は浄瑠璃をまねず、操りは歌舞妓を似せず、見物も又別々なるものなり、故沢村長十郎のいひし如く、歌舞妓より操をまねぶこと歌舞妓衰微の基なりとは宜なる哉、都て昔は諸芸ともに意地を立てはげむ事也、所謂歌舞妓は浄瑠璃より古しと云ひ、浄瑠璃よりは歌舞妓者とて卑しめる心あり、浄瑠璃にさへ東西〔豊竹竹本〕の両派有て、始て竹本に取立し浄瑠璃は豊竹座のは語らず、豊竹になる院本は竹本に語らず、浄瑠璃の坐に作者を抱ゆる時、他門の者へ我座の狂言の筋を申間敷と給分渡す時証文をとる事なり、若此事あれば両座より封じを出して遣はず、歌舞妓にも大歌舞妓、浜芝居、宮芝居とて位をわかちて、浜芝居の役者大歌舞妓へ出る時は出世と祝し、歌舞妓より浜地へ出る時には卑しめらる、斯意地を立るも芸道のはげみかつは法則立たり、今は其意地もなく法則もなし、素人が直太夫と成り、宮地浜芝居の役者も大歌舞妓の役者も一つに混じて、人のゆるさぬ立物のふゆる事蚤虱の湧くよりも早し、扨も八島日記の景清はなしがたき役とおもはる、梅玉のは首振なれば我才覚有ても手摺と太夫とに任せるなれば論の外なり、小六・璃覚すら右に評ずる通りなれば、所詮今の役者の出来る役には非ざるべし、去嘉永改元申年の春東都中村座にて今の歌右衛門〔翫雀〕此島の場を増補して段切船を呼戻す所檀風〔赤松円心緑陣幕〕となり、清水観音の利益にて両眼ひらくなどにしたれば、東都にては島の景清は珍らしければ、此様なるものと思ふが故かよく入て長く興行したりけり、斯新狂言とすれば格別狂言は浜の真砂尽る期はなし、是計りに限るべからずと思ひ捨、今時若輩の俳優かならず好んでする役にあらざるべし
前集に演る自笑・其磧が合作『傾城禁短気』の中より幾らか歌舞妓狂言の筋は出たり、嘘の誠、真の嘘の論を■*11礎花の大樹中入嵐来芝〔元祖三五郎〕が拍手公成に遣ひ碗久松山、吾妻与治兵衛の条をひとつに書入、恋[ことばのいとその下心]と一字外題の狂言も是より成る〔椀久為十郎松山国太郎、与五郎三五郎、吾妻いろは〕。伊達の与作関の万兵衛駕舁の条は戻駕色相肩に遣へり。予此駕の条より思ひもふけし狂言有て、天保始の頃にやあらん、一日梅玉に筋を噺すに梅玉奇也とて手を打、先世界は何にし給ふやと問ふに、予傾城楊柳桜にせんと云。此伝奇は寛政五丑年春辰岡・徳叟両人の作にて、『護国女太平記』廿巻の写本にもとづき、武州足利義教女色を嫌うて男色を愛る〔常憲院様を云ふ〕、栄飛騨守〔酒井雅楽〕、木津関兵衛〔根津右門〕、一色結城守は〔柳沢〕新七にて座頭なれば、即外題柳桜也、淀屋辰五郎に三五郎、此狂言によせて梅玉に結城守をさせ、序二は是に少しの添削にて済せ、三四に至つては此より思ひよせ『女太平記』に出たる辰五郎廓戻りに白無垢を重ね着て駕にて帰りし奢の間を書入、先幕明に短かき茶屋場有て、返して北浜迄還る往来一面の雪もちとし、淀屋辰五郎に団蔵、駕舁関兵衛に坂東、先肩の勝五郎に梅玉〔五分月代いさみ也〕、露次口より牽頭末社送り出て、後程とか明日とか云て這入る、坂東・梅玉駕をかき出し、花道より西の通ひ道にかゝり本舞台へ戻り、其内向うの道具段々引て替る、団蔵中に白無垢にて太夫の文を出してよみ嬉しがる様あるを、所々にて肩を入る度に梅玉このもしがるおかしみ有て、をれももとから駕舁の家に生まれはせず相応のくらしなれど、川東の色めにこつて、以前は駕に乗つた者が今は腰をふつて舁ねばならぬと述懐交りの穴を云、坂東も是にあどを打て、おれじやとて駕にも馬にも乗りかねぬ武士の禄をかぢつた身が、今の嚊めに打こんで、梅玉ハヽアあの嚊衆も筋ものか道理ですつかりしてゐると思ふた、団蔵勝五郎はおもしろいやつじや、そちの駕舁になつたはどういふ遊びをしてからじや咄して聞せい〳〵、梅玉旦那と違うておいら大金はつかはねど腹づくでする色事、夫は〳〵おかしい事もムリ升たぞえ、坂東嗚呼相肩受賃がいるぞや、梅玉一朱なら旦那からふり出してもらはう抔との捨ぜりふにて本舞台へかへる、此内犬の遠ぼえ、十番提灯、捨子番の穴などを梅玉おかしみ入にて卑陋て云、とゞ幕切は淀屋橋を飾り付、夜廻り役人此玉を付けて来る心にてひそめきて這入る、梅玉・坂東は是をあやしむ、団蔵は無中に太夫の事を云て文を又出す、梅玉は辷りこける、団蔵は恟りし乍ら文を抱しめる、坂東はあきれて困つた物じやとあたまをなでる、梅玉膝頭へつばをぬる、是を幕との書物、団蔵・坂東・梅玉三人をよせて内読の時しばしは鳴りも静らず、まだ奥もきかずに三人とも言合せたる様に手を打けり〔本読には手を打内よみには手を不打〕、其時は予も自笑が履物を直し其碩が提灯を見せ迎ひに来し心地せり
■*11
翌日より又次幕淀屋の場の著述にかゝるに梅玉次幕の趣向を聞度たび〳〵人を以て予を迎ふ予行ず面会する時は尋ぬ問へば語る梅玉一坐の者に風聴をして面倒なれば返書に次まくは黄金の鶏を脚色来る何日の夜読べしと認め返す梅玉黄金鶏は淀屋の重宝誰もよく知りたる事乍ら外に黄金鶏と名付し筋もありやと一座をよせては評議したりとかや予草稿成つて又内読聴人は梅玉市紅巌獅常盤〔松江俳名〕其答なり其筋は淀屋古番頭与茂四郎今年還暦にて赤いもの揃への白髪親仁是片岡也淀屋の看抱人にて栄飛騨守が謀反に組して淀屋の内を大名にもせんとの工みを隠し悋嗇なる事計り云辰五郎に幼少より養子娘暖廉内より貰ひある娘小庵松江也是奴の小万の心にて侠気をこのみ男嫌ひにて伊達なる姿をし乍ら近々剃髪するとて名を小庵と云名前人辰五郎は団蔵にて唯奢りに長じ新町通ひにて南枝の吾妻にほだされて身持放埒なり此中庭の供部屋に坂東駕舁の関兵衛女房お次国太郎にて夫婦共旦那の気に入り久三やら駕かきやらにて小川の手代新七〔本名上杉三島之助〕の受人にて縄暖簾の世話場を豪家の中庭にてする役なり梅玉の駕舁の勝は新町の駕なれど是又気に入なれば爰に寝泊りする国五郎の手代歒娘小庵に惚れて小川の手代に為替のかね紛失の科を塗付る梅玉は是に一味して安き敵をして居る片岡は松江を辰五郎が嫌ふ故嫁入さすか但し又庵寺へ坊主に成て這入れといふ小庵は先のとゝさまの云事は聞うが与茂四郎のいふ事はきかぬとせり合ひ辰五郎挨拶すれば片岡放埒の異見する種々狂言有て歌七の役人来つて辰五郎は飛騨守が悪事に組せしとの疑ひかゝり奢のとがめ一時に発し国五郎梅玉また此中へ出て奢りを大業に云片岡坂東は是を言訳する団蔵我と名乗つて科に落る此時坂東誠は足利のかくし目付と本名なのり情をかけて今宵夜半のかせをかけ大ムアハ一件這入る返して放れ座敷団蔵死罪を覚悟にて松江の小庵に身持放埒は此科を引受ん為なり小川の三島之助に南枝の吾妻を逢はさん為我は又誠淀屋の胤にあらず片岡の番頭悪心にて家の和子には何々の裂の守りをつけ捨させ我子を淀屋の跡目に立んとの工み事我は則片岡の子じやゆゑ跡目を継ぐ了簡なくまだ其上に飛騨守に組して大名にも成べき心是が否さの放埒なればいまだ女の味をしらずとの言訳松江の小庵聞て扨はさうした心で有たか此身も幼少より娘にもらはれ一旦結びし妹脊なれば婚礼を待兼しが新町通ひは不束な此身を嫌ふてなさるゝと悋気嫉妬の発るをたしなみ伊達なふりして力業と奴の小万の云訳にとゞは罪科を受るには夫婦のかためと小庵の頼みに妼共に寝所敷せ後にたてし硝子の阿蘭陀細工の屏風をあくれば結構づくめ【此間三行余削る】…屏風を廻す此内に梅玉は是を立聞おかしみ乍ら守りを取出し扨はおれがと思入笑壼の前へ国五郎囲ひの屋根より現になり落るを梅玉飛のいて是を見るのが返し道具梅玉此時思はず高声あげ黄金の鶏受付た大当り〳〵と我を忘れて聞入るにぞ皆々ジヤ〳〵いうたるは雑俳の巻開きに表題聞しに異ならず扨も夜半の鐘鳴れば坂東姿改て其答小川歌七も出て返答聞んと云入る市紅松江出て科にふくす片岡出ていや反逆に組せし覚なしと云坂東証拠を出す市紅片岡をとらへ親人様工ヽこなた様はのふ主人の胤と取替て淀屋の内を横領しながらむほんとしつて組する欲心科を此身にあびんが為め心に思はぬ放埒だぢやく遣ふても〳〵へらぬは金と本行淀屋のせりふとなる梅玉出て片岡を二重より蹴飛しようマアおれを捨上つて我子にさせる栄耀栄華是からをれは淀屋の旦那どうするか覚えておらう国五郎出て若旦那おめでたう御贔負ぶりに御めかけて梅玉つかうてくれる奉公始辰五郎夫婦をさいなめおりや親仁めをと立かゝるを坂東とめて梅玉の守りを改め淀屋の主は勝五郎向後名前も切かゆる上は辰五郎夫婦は八幡領へ追放せん皆々して与茂四郎が納りは片岡おりやいつ迄も看抱人坂東イヤ八幡に於ておしこめ隠居かならず用捨はならぬぞよ団蔵松江ヱヽ有難うムリ升梅玉皆がらくたは片付た是がらおれは此家の主坂東申付し一義は何と国太郎廓の諸払ひ皆相済小川か七残る有金諸色のむき皆々奥より役人成り出て封印付てかくの通り梅玉恟りして此淀屋の内は坂東のこらず闕所被成るゝはやいと騒く国五郎を投のけて梅玉こいつアどゑらいめに逢しおつたとあたまを叩くが拍子幕又々内読に手を打成程黄金の鶏なりと皆々よろこびたり是前篇に云並木五瓶が黄金鯱の二つ目を潤色したるものなり既に文政二己卯年三の替り中の座にて興行せしが其後の役者に一両人よく役割に叶ひても余はこぢ付に成て始て書上し時とは遙に見劣せり依て黄金の鯱の狂言を種として楊柳桜の世界により種を見せて手妻をするに似たり斎藤龍興を淀屋辰五郎妼関屋を小庵山形道閑を与茂四郎向坂甚内と柹木金助の両人を関兵衛勝五郎に盛分しものなり此虚にのつて踊子売五郎八の世話場〔本文の鯲売〕を書べしと看板等にかゝる内片岡は隣の芝居へ出勤の約束有て此座に遣へば国五郎にさせる時は折角見込みし狂言も浮くべしと評議の内一両人役者間違ぜひなく是をお蔵として繁々夜話に取かへて此草稿は梅玉にくれたり後年毎に是もせんと言出せども予又筆をとるの了簡なし此内一人間違ひても狂言の釣合あしく役者は追々故人と成り天保十二丑年に楊柳桜を出せし時慶子のみ覚えいればあれはいかにと勧めしかど辰五郎を我童と見て駕の二人を源之助〔今の大五郎〕芝翫にさせては寸尺あはずと思ひ捨たり幾十年余りのその内に老練の役者は歿し仕古せし狂言にても当時の役者は始てすれば皆新狂言をするが如し心なしに仕られんよりさせぬ方遙にまされり
是も其比の事にて有けり一夏虫干の折から古き八文字屋の本をしらぶるにたゞ一冊の闕本あり外題を『仏法乗合噺』とて自笑其磧の口調に劣れど紙虱に喰れし三の巻是も何ぞの種にもと皺引延し読たる所人名居所を忘れたれども曽根崎村の世界を借りていふ時には〔是より筋書〕平野屋徳兵衛とも云べき色男天満屋のかゝへお初といふ女郎に馴染幸ひ未だ女房もなければすへは夫婦と相談極りもう一年で年季も明れば価何程と親方にかけ合半金をやうく調へ残金出来る間は気侭勤の約束成りけり爰に又油屋九平次といふべき男お初を呼出し口説といへど初は嫌ふて逢はぬを根にもち内証を聞所徳兵衛との約束あり其徳兵衛は九卒次が兄へ身上書入れ先祖より持伝へる祖師日蓮の曼茶羅もろ共九平次の兄に預け此比の半金も夫にて大かた調ひしなるべし九平次は兄の方へ讒言して徳兵衛に金はかさねども郎【女郎カ】売女に打こむかね気違に松明もたせ石脊負わせて淵より浮雲し早く金子を取りかへすべしと恋路の意趣にいふとはしらず老実な兄より徳兵衛に金返さすば約束通り家財ぐるめに渡すべしと徳兵衛を突出しけり徳兵衛も詮方なく漸裏店をかりお初に逢ひ身の不仕合をかこつのみお初には又徳兵衛の胤をやどして七月ばかり此程は勤等もひき何かと物のいる事計り憂に月日を送る内河内教興寺村に浅田宗司と云郷士有て以前お初を一両度もよび馴染のよしにて病気の容くるしからず是非にと茶屋よりいひ送る天満屋の女主お初にむかひ言聞すには徳兵衛の手より跡がねこずばいつとも年は明まじ譬へ年季の明たりとて住べき家もなく成りては親子三人流浪すべし度々いひきか【せたるカ】河内の客は身もと慥な郷士にて奥様あれどお子はなく子を産みさうな妾をとそなたをめざして呼遣ひ徳兵衛殿の半金にて身二つ【誤脱アルカ】なつた上一年とか半季とか郷士の方へひかされて年通りの金子も済せ其上尋常に暇をこひ徳兵衛殿と夫婦になれば双方ともに身の納り是にうへこす思案もあるまじ分別せよと勤められ初も兎に角仕方なく徳兵衛にはいはねども親方と相談極め客の方へは人をもつて病気全快次第行べしとて内談すみて臨月になんなく男子を産しゆゑ客の方より金子を取り諸雑費の勘定残り少しのかねと乳呑子諸共徳兵衛の手に渡し心にすまぬ事ながらかよう〳〵の訳有て半季乃至小一年郷士の方へ行間此子を私の筐と思ひ貰ひ乳でなりとも成長させ首尾好此身の帰り来る迄随分短気を出さぬ様時節をまつて下されと涙ながらにいひのこし郷士の方へ行にけり徳兵衛詮方なく水子を抱へて貰ひ乳に月日を送りしが我乍ら身のあぢきなく所詮育る事ならねば誰になりともやらうかと幾たびか思ひしが妻の筐と一言の耳にのこりて捨られず折しも師走雪の夜にいつも連行乳を貰ふ先は留守にて帰りも待たれず薄き肌への懐に入たる水子は乳を乞ひ寝入もやらず泣いだすゆすぶれば寝入事もやと抱て北野の町はづれ当てはなけねど雪道をあちよこちよとあるくうち植込みにぐるりを囲ひ風雅に建し門構へ塀を見越しの二階より雪の夜道に往来あらじとざぶりと捨しは茶か水か徳兵衛が子を抱たる襟からむねへかゝるにぞあつと飛のき二階を見こみ往来に人有と知つてかけたる情なや唯さへ冷たき雪の夜に懐に抱く親子共胴欲なめに逢ふ事とつぶやく声を聞付て麁相したりと切戸より婢女二人が走り出わびつゝ親子の湿りを拭ひかく往來へ流せしはさら〳〵穢物ならず此内方に乳あまり呑子なけねば絞りつゝ外には人も通るまじと思ひ誤り麁忽の段ゆるさせ給へと詫るにぞ徳兵衛聞て歎息し親のなき子は乳を乞ひ子のなき内に【はカ】乳を捨るまゝならぬは浮世といへども見らるゝ通り此乳のみな【子カ】呑たがりて泣止ず哀れ其乳一口と呑せてやつては下さるまじきや婢女は麁忽の■*26かへしに何より易しと切戸よりつれて勝手にまたせおき委細の様子云入るに何よりの幸ひと奥より此家の妾と見へ出合頭に顔見合せ別れて程へしお初徳兵衛互ひにあきれて物をも得いはず女共は心つかねば水子を取て妾に渡せば涙ながらにいだきしめ余所にいはせる身のいひ訳果しなければ心中にと双方死んとせし所を主浅田惣司夫婦とも立出て両人を引とゞめ我元来一子のほしさ懐胎のお初を根引にせしが子をふり捨て来し故に一つの望みを失ひしが其小児はいかゞせしと問はれもせず此別荘に囲ひ置女房にいひ付産後の養生今日の今宵迄無事に育し幼子は此宗司にとらすべし浅田家は浄土宗なれどもし一子をあたへ給はゞ経宗にならんと仏に誓へり今こそのぞみたれりとて徳兵衛が伝来の曼茶羅を買戻させお初の親と成て徳兵衛と夫婦にする是卅石の夜船にて乗合の噺をそのまゝ『仏法乗合噺』と号しなるべしこはよき筋なりと書並べさせんと思へど役者なく腹稿のまゝ出さずありしが天保四巳年の春けいせい稚児淵と世界を据えたり此狂言は文化十四丑年梅玉が自作にて序は稚児が淵二は石川染三は宝永祀〔岩木やの場〕四は七浦の茶屋場五は大仏餅各類聚にて連続せねど時と役者のよかりしにや評判よくて入りしかど十余年の内に役者衰へ役割にもこぢ付多く一場と二場は新物に増補なくては叶ふまじと予に梅玉が相談せしゆゑふと此乗合噺の筋を咄梅玉よろこびて是に極め三つ目仕込みは自身に書四ツ目乳貰ひの場は予が作なり梅玉の狂言は時代人名の差別なく道具立を度々かへおかしみを旨とすれば至つて癖ある書ものならでは仕がたき所あり其頃の狂言にもまづ頓々の三吉天満宮の十作雪月花の五郎七繁夜話の銀太など皆おかしみを交へ下策なる所をするがゆゑ筋の善悪腹の善悪をいはず色敵と見こみて書なり右に云徳兵衛ならば梅玉の役ならずされども腹稿を一変してやうやく狂言とはなりたれ石川五右衛門の世界に狩野の四郎次郎は無理なり然れども梅玉にいはせる時は信仰記にも久吉あり五右衛門の時にも久吉なり【ありカ】と一口にいふが故心のまゝにさせて見るより外なし是ら老練の役者ならで出来ぬ役也此三月京都芝居にて上下二幕に縮め花雪恋手鑑と外題して上の巻は洛陽の花に寄真葛が原の闇仕合一刷毛に書起さばや花の雲此執筆は狩野の小雪下の巻は浪花の雪に寄東高津の再環会乳貰ひに往ては払ふや袖の雪此秀吟は狩野の直信当春東都において歌右衛門〔翫雀〕青砥調の中へ入れ〔狩野直尚信〕鐘馗新助〔翫子雀雪〕言号おもと秀佳〔岩木や藤三郎〕富屋甚兵衛羽左衛門にてせしが幸ひ評よかりけれど梅玉がせしにしかず近来大西にて我童がせしより予は東都に居り得見ずいかなる事をせしやらんいと見たく有けり斯書付れば三都評判記めきて際限なかるべし是にもれたる雑話は此冬残編にいふべし
■*26
天保十二辛丑年春中の梨園にてけいせい楊柳桜茶屋場を書て、予は三月より東都に遊び葺屋町市村座に抑留せられ、花菖蒲いろは連歌・種花蝶々色成秋二部を書内十月に焼失して、翌壬寅の春木挽町河原崎座にて岩藤波白石を彼地の名残として帰坂せしが、此秋慶子が勧にて角の座に出紅楓いろは文庫を著、時頼記・烏辺山など増補せしが、慶子は適せらて泉州に赴、卯年の春『言狂作書』三巻を書、中の座団蔵より招きしかど、名前を出さず手伝ふのみ、此冬東都より眼玉堂白猿来つて勧にまかせ、辰巳午と三ヶ年筆を弄して遊びしが、年々戯場の作法崩れ傍若無人の輩多く、作名を番付にのするもいと恥かしく成り行まゝ、以後は名前を出すまじと演たる辞左の如し「近松・並木の昔はいはず、文化・文政の末まで、京摂の戯場に狂言作者とのする者は、よくも悪くも一日の趣向、一場の脚色をせざる者なし、譬はゞ仮名手本忠臣蔵・菅原伝授にもあれ、新規の入場あれば作者の名を顕せども、古き狂言をする時には作者をのせざる事古例なり、我等幼きより此道に入、作名を出せる事是に背かず、然るに近来一場半幕の作意も得えせず、古来より有来りの浄瑠璃歌舞妓狂言の世話やきをし、頭取手代を兼、立物役者に随身し、屋号俳名の一字を冠り、狂言作者と墨黒に印する輩数多あり、是をとがむる座頭・仕打・興行人もなし、故に行義作法も崩れて大作者あるは狂言役者と印せるもあり、依て我等狂言作の外余事を勤めねば作者一鳳を守りたれど、所謂多勢に不勢ちからなく是を恥らふ向【てカ】番付の名前を削る、さればとて大天狗となつて深山幽谷へ籠るにもあらず、又一世一代と披露するにもあらじ、今より狂言の相談相手眺直しものは好みに応じ内職として、もとの西沢本利と名乗り、後来の名聞を削る、さすれば一日の狂言に三つ四つの外題を出して、古狂言の切売、見取狂言の嘲りを脱るゝ言訳にもならんと独り笑ひ独点【頭カ】て
根にかへる草何々ぞ冬木立
かく述るものは狂言綺語堂の主西沢一鳳軒李叟改西沢本利、弘化三丙午年冬右を摺物にして披露せんと思ふ折から、東都猿若町二丁目市村座より招かれたれば、先に遊歴せし時元地の芝居焼失して今の浅草へひける折から帰阪せし故、当時の場所のさまも見たく、翌未の正月より彼地に趣き、好る道なれば筆を弄び、伝奇は編ども名前を出さず、たゞ狂言の相談相手と呼び、三とせの内帳元沢田の隣家に籠り、食客の能楽隠居も去春豆州熱海へ入湯の折から、年号も嘉永と改りしゆゑ、浪華の舎弟に本利といへる名前を譲り、予が曽祖父の俗名を受継、西沢九左衛門と呼び、半百の齢も近ければ、吾たゞ足る事を知と云心より、道外方引込の詞かうも有うかと
臍の緒を落して四十九左衛門 是より先は生たゞけ徳
相替らず極楽蜻蛉の親仁分と呼れ遊戯三昧に暮さん事を願ふ
時嘉永二酉年初春於東都浅草猿若街綺語堂
西沢一鳳軒本利更九左衛門述る
西沢文庫伝奇作諸拾遺下の巻終
此書や新に一部の趣向を立て著編するにあらず、曩に天保癸卯の泰言狂作書と題して歌舞妓作者の伝及梨園狂言道に遊ぶものに作業の径路を演たるが、尚それに落たる人名書もらせし雑話も尠からず、又此三とせ東都に遊び新に聴たる珍説奇話まで帰坂の後思ひ出るに任せ拾遺として三巻を著編せり、されど一時の戯墨にして猥雑なる事甚しく馬鹿等識者の笑ひを採るべし、東武出立の前或人戯作者となる披露にとて曲亭・京山の老人を始め当時の戯作者伝奇作り迄名高き人人の句を集めて予にも一句求められけり、例の地口に世の馬鹿は三日見ぬ間に作者かなと譏りしも、所謂る猿の尻笑ひにして我事を詠む時には熟す間もなくてや柿のへた作者といふべし、戯場の伝奇は其時々に書捨て桜木に彫刻ねば譏を残す論もなけれど、小説稗史を書とも調高ければ売れず売ればいやしめらる、ましで当世の人情を尽す時は作者の心ざまも推量られ徳を傷るものなるべし、水滸を書たる羅貫中が事跡を思ひて此程
作者にはなる事勿れ孫子迄 唖に生れてたまる物かは
時嘉永二己酉年孟冬於浪華得々【本ノママ】清水街綺語堂
西沢九左衛門一鳳誌
西沢文庫伝奇作書残編上の巻
枯蓮子打鴛鴦〔笠翁一家言作采蓮歌十首其五〕
郎看妾在水中央、妾笑回看岸上郎、去歳採蓮猶未嫁、
曽将比翼妒鴛鴛。 李笠翁
断画新眉〔笠翁一家言作賢内吟十首其四〕
暁沐雖分次第班、互相掠髸整雲鬟、従今間殺張京兆、
不復親労画遠山。 李漁
捲簾通紫燕〔笠翁一家言作納姫三首其二〕
脱却霓裳換縞衣、布裙窄称楚宮囲、儒家不作婆娑舞、
燕子無煩掌上飛 笠翁
秋水澄月〔笠翁一家言作倚楼美人図〕
楼倚娉婷子、疑眸顧水浜、淡烟深樹下、応有断魂人。
李漁
唐山李漁先生は伝奇小説に因あれば曩に写して序にかへたり、尤毎文図有画彩精密にして摹写する事あたはず、『唐土奇談』といへる書に笠翁の肖像を月僊の画たる者予所蔵したりしを何人にか貸失ひいと遺りおし、後再び手に入らば補ふべし
山東京伝が作『往昔咄稲妻表紙』の発板なりしは文化二三年の頃なり、不破伴左衛門・名古屋山三の事跡は京摂にては浄瑠璃の傾城反魂香又十帖源氏物草太郎にのみ有て草履打或は鞘当と唱て六法丹前の容に出たつは東都にて古く云事也、「稲妻の始り見たり不破の関」と晋子其角の句より、元禄年間赤穂の義士不破氏浅野侯刃傷の狂言を梨園にてすると聞て、看的に紛れ好んで口論して頭取花井才三郎を草履にて打しより始るとは妄言也、其角の唫もおなじ元禄の比の事故後人作り設けし話也、京伝は不破・名古屋のみにあらず、女太夫六字南無右衛門、浮世画師又平、辻講釈露の五郎兵衛抔珍らしき人名を集て新に作り設けし稗史にて、画は一陽斎豊国画此頃行るゝ事爰に文化五辰年に浪華角・中の両劇場にて是を潤色して外題看板出けり、新作の小説を狂言に脚色しは是を起原とす、此図は団扇の表に摺一千本を両座の芝居へ板元より贈りし也、日々の見物へ配りしを予珍蔵して書画帳に貼置しを拙筆に摹写して爰に著すものなり、【団扇の図略す】
角の外題〔きのふは不破の関まゐるけふは名護屋の山まゐる〕けいせい輝艸紙、名古屋山三・さゝら三八・梅津嘉門〔三役〕嵐吉三郎、不破伴左衛門・嘉門母〔二役〕市川団蔵、湯浅又平浅尾工左衛門、山三妻葛城・又平妻お国中山富三郎、石塚玄蕃・鹿蔵市川市蔵、名古屋山左衛門関三右衛門、不破伴作・頼蒙院〔二役〕大谷友右衛門、けいせい遠山・三八妻礒菜〔二役〕中村大吉、佐々木桂之助中山文七、狂言作者奈河七五三助・近松徳三、中の外題〔稲妻表紙は姿の彩色十帖源氏は意の写画〕けいせい品評林名古屋山三・佐々木蔵人・浮世又平〔三役〕中村歌右衛門、佐々木桂之助・奴鹿蔵嵐来芝、銀杏の前・又平女房さへだ叶珉子、不破伴左衛門・千島冠者〔二役〕中山新九郎、嘉門の母蓬生三枡徳郎、傾城葛城・蔵人妻お沢〔二役〕中山よしを、名古屋山左衛門・片岡政元萩野伊三郎、白拍子・藤浪三八妻礒菜〔二役〕芳沢あやめ、さゝら三八・梅津嘉門片岡仁左衛門、狂言作者並木三四助・奈河篤助、狂言の脚色は異なりと雖画本の侭の人形看板なれば、贔屓〳〵の見物夥敷両座とも大入大繁昌せしが、道具衣裳役者の奇麗なるを好まば角の芝居、狂言と上手役者を好まば中の芝居と評定まりけり、尤中の座は先に催ふし、角は跡より追うて作せしゆゑにか見所少なし、是より不破・名護屋の世界を京摂にては一変せり、是山東京伝子の功なり、予東都にて此世界を潤色せし、猶反魂香に趣向を返へして狩野四郎元信を八代目三桝【升カ】にさせて見まほしく、心は芝叟が長話の『瘤』〔先年浪華角の座にて作せし事前編にくはし〕を脚色して武隈の松を写さん物と下人と容し長谷部雲谷につかゆる雲谷〔文五郎〕、土佐将監〔三津五郎〕の娘お〔しうか〕に懸想して下男与四郎〔八代目〕を贋聟として光信の住家に至る、大体先年の『瘤』の如し、後名乗て父祐勢より松の口伝を受ず、是を書て本知にかへらん為と云、将監は祐勢より譲られたればしれども、元信の行衛尋ねて返さんため年頃尋ね居たると云白張の衝立に其場にて武隈の松を画、雲谷邪魔するを立廻乍ら将監雲谷の手足を松のふりに教ふる、是反魂香に写し絵の場とてけいせい遠山〔土佐将監の娘のち仲居お宮と云〕門弟歌之助の奴〔丹前〕に花笠をもたせ元信に口授する間、近松平安堂の名文を其侭とつて浄瑠璃に合させたり、八代目は画をよく画ゆゑかくは思ひ付たり、近年稀なる大入をとりけり、其時の外題段書を爰に出す
世界は東山の桜時
傘に塒かさうよ濡燕行ては戻り戻りては又繰かへす不束も古きを以て新敷との御差図に任せ 昔語稲妻帖
山東庵の滑稽一陽斎の筆意 左の侭を敷写して狂言の栄 繍像稗史 六冊続
第一 堅田の別舘に 主命の履打
第二 高島の城外に 意外の待伏
第三 石場の柏戸に 書画の発会
第四 三井の坂下に 奇縁の見合
第五 六原の霊場に 身売の調達
第六 逢坂の山越に 六部の惻隠
第七 大津の貧家に 吃訥の小舞
鐸八 志賀の名家に 武隈の写絵
第九 烏越の浪宅に 下女の初恋
第十 吉原の花街に 買論の鞘当
第十一 上林の青楼に 兄弟の割符
第十二 浅草の田甫に 本懐の復讐
不破伴左衛門・狩野四郎治郎元信〔二役〕団十郎、浮世又平・下部猿治郎〔二役〕小団治、佐々木桂之助・土佐修理之助・奴鹿蔵〔三役〕源之助、名古屋山左衛門・土佐将監光信〔二役〕三津五郎、修理女房お松・綾の台常世、長谷部雲谷文五郎、白拍子藤浪・又平女房早枝〔二役〕花友、傾城葛城〔始又平嫁お柳〕・将監娘お光・下女お国〔三役〕しうか、名古屋山三笹良三八、六字南無右衛門羽左衛門、三月四日より四月晦日迄興行しけり、物の趣向は古き中に新らしみ有り、反魂香といへば又平の場のみ知りて一日の趣向しらず、是等を戯場の学問とはいふなり
稲妻表紙の当りを取しより同年秋『桜姫曙双紙』〔京伝作豊国の画〕を清水清玄契約桜とし『〔富士浅間〕三国一夜物語』〔馬琴〕を復讐高音皷、『三七全伝南柯桐夢』〔馬琴作三勝半七〕を舞扇南柯話と潤色せしが三勝は大当りせしが余はさのみの当りもなかりし、此冬の顔見せに『椿説弓張月』を島廻月弓張とし座付狂言に迄続かせ中の芝居にて出しけるを江戸板元より寿て摺ものを送りけり、外の袋に■*12を金と紅にて摺しん上〔大坂中の芝居巳の顔見せを祝ふ〕新曲弓張月東都〔曲亭馬琴述葛飾北斎画〕奉書一枚を二つ折とし北斎の画に簸江〔あやめの紋付〕・白縫〔珉子の紋付〕・汐汲の図真中に八郎為朝〔嵐吉紋付〕左の手に弓を突右に日の丸陣扇を遣ひ居る図なり、祝言「為朝の名題芝居にあぐるかな弓はり月のいるあたりとて」簑笠隠居と書、裏はあづまぶり新曲弓はり月〔唱歌のかしらに一座の紋尽し摺たり〕
梓弓ひけや歌舞妓の顔見世に心なぐさむ為ともならば、うき事絶てしらぬひに身をば尽して来てもみよ、暁の七つと八つしろに八町礫のあたりも嬉しさ、さらゑにしのつきやらぬ、うるまの国のおやこ草、男島めじまに通ふ神風ふくろく寿、聚し人の山雄にも野風さやけく礒菜つむ、名にし高間の手どりして、猛き心の鬼夜叉か、鬼ならなくに照る月の稚児は九つ、藤市が牽馬の鞭に武蔵太を懲らす誓は真菅よし、讃岐院のあら神霊、廿八騎の功はしんせい揃勇しく、遊べや阿蘇の忠国に、冬よりひらく花壻の花の俳優よしとも〳〵に、九郎が玉の春まち得るや梅の浪花津なか〳〵に、中の芝居を守もるめでたき時に、大島の宮居久しきもの語、宮居久しき物がたり、予が著述の稗説弓張月に拠て浪花中の芝居の顔見世、今茲仲冬十三日より新湯をひらくと聞え候に贈るとて、かつしか翁の画るまゝに書肆平林堂の需に応じて
曲亭馬琴のぶ幷書
『忠孝潮来府志』〔種彦作〕をけいせい潮来諷、『新累解脱物語』〔馬琴〕を草紅錦絹川、〔小説稗史〕『自来也物語』〔鬼卵作〕柵自来也譚、『絵本若葉栄』〔写本にて『雲水録』作者忘れたり〕敵討義恋柵等新に挑み奇を争ひ出せしも、後には珍しき小説もなく専ら戯作者より是を脚色[しくむ]、此内を梨園にさせよと歌舞妓作者の心になりて作るが歌舞妓に潤色ならず、小説の作者歌舞妓の作者共文化中に大約故人となりて脚色すべき稗史もなく、潤色すべき歌舞妓作者もなく也、文政中には古き浄瑠璃を見出して仕はやらせる事には成たり、〔古浄瑠璃を出す事拾遺に委し〕
■*12
享和文化の頃より小説稗史に作名を出し五十年の間存命て時々に作名の書を著はすは東都の曲亭馬琴〔飯田町に住ゆゑ飯台と云著作堂性を滝沢簔笠玄同の数号有り〕なり、著作の小説数百篇近世眼疾孫子に筆を採らせらるよし近世出板の書に著せり、誠に命めで度翁なり、文政後著述の書多き中に評よ数篇を重ねしは『南総里見八犬伝』なり、初編より五編迄出し頃、予は是を潤色して一日の趣向に立るものから発端鎌倉足利の没落より、神余家亡びて里見義実房州をとる迄の条を略し、里見家の大守を義基とし、義成を若殿とし、山下定包は杣木朴平の手を借りて義基を討せ、義成を毒殺して伏姫始忠臣堀内蔵人・金鞠大助・杉倉氏元等をなき者として、八犬士の親を皆里見家の臣なれば是を離散させて、里見家は一たん二段目にて亡べり、伏姫富山の洞にて腹をさき珠数八つを走らせて里見忠臣の家々に孕、再び家を起さんと云、是二段目の幕にして次幕信乃が幼立の場まで十余ヶ年を立せ、又次幕へ七ヶ年をたゝせ、滸家の成氏へ行ば十九か廿なりと見込、道節・額蔵・小文吾等も原より里見の浪人なり、此八犬士集りて廃りし里見の家を起す、義成の忘れ筐義実にて悪人亡びて里見家再興なるとせねば歌舞妓の狂言には成べからず、此腹稿を立てまに〳〵筆を取、草稿なつても是に合せる役者揃はず時節を見合せる内、又四五年立たり、其内古き草稿を取出して見れば我書たるものにも時々の流行有て、捨る所あり、又翻案して書かへる所あり、是等も世に出る時節やありけん、天保七申年中の芝居の春狂言に漸成れり、夫すら一座に割合せる事なれば俳優の分量に軽重あり、己々の仕勝手よき様誂あり、其度に筆を入るれば原の腹稿より趣向変り大筋狂ひて異る脚色と成也、右に云里見家興廃は伝奇の原なれば新に思ひ設くると雖、成たけ曲亭の趣向は崩さず居所人名までもらさず遣へり、番付に割わり【割がきカ】外題等出すべきを役割多しとて略せり、予が作名も略せしが段書と共に爰にあらはす、
白妙の人くひ馬にゑいとはなぜし弦音は覘ひ狂はぬ古歌のはん断血筋にからむとり縄におもはずそろふはしやう風の良薬哀れもよふす一ふしは音色やさしき嵐山の名笛
傾城の八文字は閨の勝鬨 里見の八犬士は廓の先陣 花魁莟八総 名木八株
その大寄を爰に見立て煩悩の犬張子にぽんと討たる筒先は当りはづさぬ玉のいんゑん恋ぢにこがすたびの火に姿かきけすふしぎの道術再び手に入る一こしをぬけば玉ちる村雨の名剣
肇輯 洲崎社に玉梓恋情述 落葉畷に朴平白馬悞
貳輯 瀧田城に大輔逆臣誅 富山洞に伏姫八犬走
参輯 簸河原に信乃与白弄 大塚村に番作孤児托
肆輯 枯華庵に浜路憂苦訟 神宮川に網干村雨奪
伍輯 荘官舎に額蔵奸党撃 円塚山に道節故事譚
陸輯 滸我舘に在村双狗阻 芳流閣に現八勇力顕
七輯 行徳浦に鉤翁銘刀得 入江橋に文吾良薬求
八輯 紅梅亭に於尺歌舞賑 対牛楼に毛乃仇讐鏖
統計八輯の内芳流閣迄を正二月と見せ三四月には曩を少しく略して七輯より対牛楼迄見せて満尾せり、犬塚信乃・金鞠大輔嵐璃寛〔目徳〕、大塚番作・堀内蔵人・犬川額蔵市川鰕十郎、杉倉氏元・犬田小文吾関三十郎、犬山道節坂東寿太郎、杣木朴平女房亀笹・馬加常武大谷友右衛門、大塚蟇六・安西景連中村翫十郎、里見義成・鮎原胤教・蜑崎照武・犬村角太郎中村歌十郎、姉ひく手・いさらご御前・紅梅やお尺山下金作、里見治部大輔季基・古那屋文五兵衛中山文七、傾城玉梓番作妻手束中山南枝、山下定包・百姓糠助網干左母二郎、犬飼現八・小林房八片岡市蔵、里見伏姫・娘浜路小文吾妻お縫・舞子朝毛乃富十郎、顕定横堀史在村片岡仁左衛門、番付は杜撰にして続編増補と書てあらぬ仮名をふりたり、かゝる長篇を僅に一日に縮め見せんはいと仕難き業也、好てこそすれ所謂蓼虫の一癖ならめ
文化元子年角の芝居にて春狂言に出しが、作者は近松徳叟・瀬川如皐なり、三つ目筑紫権六〔本名瀬川采女〕『秋雨物語』と云小説より徳叟が潤色せしは前編に委しく出す、中入天の橋立の舘に長岡勇斎武事をすてゝ風雅に籠る、壻小西行長妻唐綾を離縁して上使にたち白木の箱を封じ送る、中に腹切刀と三宝入れ有後孫に腹切せる仕組、大約蝶花形八つ目に似たり、「此箱の内や床しき箱伝授」と云せりふ有て憚り有は狂言には外題に賦す程は脚色なし、瀬川如皐の作にして勇斎片岡、行長璃寛、唐綾路考なり、此箱伝授と云は東下野守より種玉庵宗祇へ古今伝授をつたふ、三条西逍遥院へ宗祇より伝へ、夫より円智院公国へ伝ふ、然るに公国早世の折柄其子実条未だ七歳なりしゆゑ細川兵部大輔藤孝へ伝ふ、藤孝は文武兼備直実の名将にて、其身の師範たる公国の子息実条卿へ伝へかへさん為に、実条卿を丹後田辺の城へ迎へ取て歌道神道の伝授悉く申と雖、未幼弱なれば古今の伝授ばかりを残し置ぬ、扨実条も次第に成人なれば帝都へ帰し奉り、古今の伝授をもとげて師恩を報ぜばやと思はれし所に、秀吉公より朝鮮征伐の御触有によつて合戦の用意に取紛れ、実条卿を呼迎へて伝授せん隙のあらざれば、箱を幽斎の孫烏丸大納言光広卿へ持行て曰、此度異国へ赴候、我身武士の習ひ何時討死仕らんも難計候得ば、永く此伝の絶なん事歎かはしく候、依て預け置申なり、無事に帰りなば藤孝が手より実条卿へ相渡申べし、自然討死仕りなば此箱を貴卿より三条西殿へ渡し給はれと頼入て二首の和歌をぞ添にける、幽斎
人の国引や八島も納りて 二たびかへせ和歌のうら浪
もしほ草かきあつめつゝ跡とめて 昔にかへせ和歌のうらなみ
烏丸光広卿古今箱を預り給ふとて
万代とちかひし亀の鏡しれ いかでかあけん浦島の箱
かくの通りにて藤孝入道玄旨は太閤に随がひ肥前名護屋に詰られける、其子忠興朝鮮にて軍功多きに依て豊前の国臼杵の城を加恩に預りぬ、帰陣ののち光広卿より箱を藤孝にかへすとて
明て見ぬかいもありけり玉手箱 二度かへる浦島の浪
幽斎かへし
浦島や光りをそへて玉手箱 明てだに見ずかへす浪哉
と吟詠ありて伝授の箱を送りかへしぬ、斯る名家たるによつて慶長五年子の秋関ケ原合戦の砌、石田治部に組せし諸大名八万三千余騎にて田辺の城を攻る事既に七月廿二日より九月十二日に至り、城中も堅固に守防戦すと雖、寄手は多勢新手を入かへ〳〵攻戦ふよし天聴に達し驚かせ給ひ、藤孝討死に於ては古今の伝授空しからん、急ぎ実条に伝授せよとの勅諚によつて、則実条卿烏丸大納言光広卿幷に加茂大宮司松下丹後の戦場に下向まし〳〵て、大宮司松下を以て寄手の大将共へ勅命をのべさせ給ふ、其趣は勅使として両卿実に参向まし〳〵て藤孝入道玄旨法印は天子の御師にて有る間、此陣早引取べしくれ〴〵朝敵にひとしき振舞近頃尾籠也との仰を蒙り、寄手の面々牙を噛乍らも、いか様藤孝入道は国師なれば弓を引べき謂なしと、寄手の大軍囲みを解いて引せける、天恩の重き事申も中々おごそかなり、此籠城の場を仕組しものにて、箱伝授のとなへはよくても狂言高尚にて俗に落ず、三つ目筑紫権六チギリンタイの齣は今も折々出れ共外題箱伝授の場はそのゝち出ず、宗紙の堺伝授と云事あれば堺伝授として可也
夫より程なく石田が徒も亡失て太平を楽しむ世とはなりぬ、其後幽斎逝去ありて忠興は三斎と号して専ら茶湯連俳の風雅の道を楽しみ、其友とする中に金森宗和〔茶人名家〕は茶の師範たるゆゑ、誠に交はり厚く断金の中なるに依て古今の伝を貸置けれ共其侭に打捨年月を経ける内、金森家一乱起りて終に改易と成る〔金森領分に一揆おこりし始末は写本に有略之〕、是に依て細川家にはかの古今伝を取得たく、家中の士を道具屋又は書画屋抔に仕立さま〴〵手を廻し吟味有しかども、終に行方知れず失たるこそ是非もなき、爰に濃州洲の股の宿に文右衛門と云宿屋の主、前年金森家争論の砌右の古今伝を金貳分にて或士に買置しが、何とやら大金にもなるべき物と思へ共何の訳も知らざれば、とかく見る人に見てもらはんと思ひ、大身貴人の御泊りの節は彼古今を床の置物として飾置けれ共、いつしか尋ね問ふ人もなかりしが、或年細川侯参勤の砌家老何某は尾州名古屋表に御用あるよしにて中仙道より下られ、細川侯は東海道を御下り有て、池鯉鮒の駅にて御出会奉るべき由にて、何某殿は美濃洲の股文右衛門方に宿陣有るに、彼床の置物を取上少し開き見られしが、やがて立て手水を遣ひ身を清めうや〳〵しく戴きとくと見終り亭主を呼び、此品は其方の所持なるやと有るに、亭主いかにも親の代より譲り受て私所持仕るといふ、何某此方に望ある間何卒譲り申さんやと有ければ、亭主扨こそと思ひ、畏り奉り候得共親共より譲り受候品に候得ば放し難く奉存候、然し乍ら財は身の差合也と申諺も候へば、金百両にも相成候儀に候はゞ如何様とも可仕旨申上る、然らば望の通り遣すべしとて金子百両渡されければ文右衛門は存の外大金を得悦こと限りなし、何某殿も殊の外悦の体にて先家来に申付て此趣主君へ御知らせ申上よとて早飛脚を以て告知らせ、悦の余り供廻り人足雲助に至るまで青ざし鳥目壱貫文宛御祝儀下され、宿の家内下女飯焚に至る迄紅絹一疋づゝ下され、明六の御出立を一時早く七つ前に出立有、越中侯は池鯉鮒にて御待合せあるに追付奉り委細申上、古今伝を手渡し申上て事済ぬ、尤御歓び大かたならず、扨又跡にて文右衛門つく〴〵思ふには斯程に歓び給ふ事は等閑の品にてはよもあるまじ、扨々残念なり今少し高金に申共下さるべき物と頻りに後悔せしが、否々下されずば元々、先願ふて見んと支度そこ〳〵にして道をいそぎ、既に池鯉鮒に来り何某殿の許に尋ね参り取次を以、洲の股文右衛門御願ひの義御座候て参上仕るとのべければ、やがて何某殿御出座有て如何様なる願と御尋有、文右衛門頭を地に付お願ひの義は昨日差上申候品にて御座候、兎角代々譲り受持伝へ来り候処、私の代に手放し仕る事甚歎かはしく本意なく存奉り候、是に依て恐乍願ひ奉ると申上る、何某殿御聞有て暫く相待べしとて奥に入らせられ間もなく金子持出て、扨々その方は賎しき者じやなと一言のみにて又金百両下されける、文右衛門推戴き有難旨申上悦び勇みて帰りしが、又々思案して悔けるは扨々残念かな口惜かな、此金子申受ずば永代御扶持も下されべきものと後悔いたしぬ、人間の欲には限りなきものなり、足る事を知らずんば有財我鬼といふ尤なるかな、此一話は伝奇作者によらずといへども『遠幽雑記』といへる書に出て、後大川友右衛門が伝細川の重宝血の達磨の一軸に因みあれば爰に出す、猶次の条を読て知るべし、
浅草観世音の利生にて印南数馬〔美少年〕大川友右衛門と兄弟の約して父の敵横山図書を討つ話は〔写本廿巻画本十巻〕『浅草霊験記』とて有、是を潤色して寛政九巳年五月角の芝居にて興行す、印南数馬芳沢いろは、大川友右衛門尾上鯉三郎、横山図書山村儀右衛門、既に前編辰岡万作の伝にも演る通り男色の狂言珍らしく大当をせり、後文政十二巳年三月又少しく増補して印南数馬嵐富三郎〔俳名露蝶〕大川友右衛門中村歌右衛門〔梅玉〕にせしかど、今は男色廃りて歓ばずさ迄当りもなかりけり、爰に去申年東都中村座にて印南数馬岩井粂三郎〔紫若の忰〕、大川友右衛門中村歌右衛門〔翫雀〕にて興行せしが、本文〔写本画本〕には友右衛門復響助太刀のゝち細川屋舗〔江戸〕出火して大守の重器宝蔵納めし侭一塵の烟となる、大守悔みて止ず、宝蔵にこめある重宝の内漢の武帝の書し達磨の一軸あり、是を亡びん事を歎かるゝを友右衛門聞て重恩を報はんは此時なるべしと、駿馬に跨り火中に飛入り宝蔵に近付見れば、火烟文庫に漫々たれども一軸の箱はいまだ焼ず、是を取て外に出れど駿馬は早焼死て烟気に包まれ其場を遁るゝ事あたはず、とかくする内鬢髪焼ちゞれすべき様なく、宝蔵の影を腰刀にてうがち土の窪みに端座して腹切あばき軸の飾りをすてゝ、画絹を腹中に納め終に火中に焼死たり、火収りて大川が行衛知れず、大守是をおしませ給ひ、灰掻退て吟味をすれ共全身焦て何者かしれね共、骸を堀出す傍らに友右衛門が覚えの腰刀散乱せるゆゑ大川と知れ、死骸を改る所腹切て死したり、子細有べしと疵口を捜せば腹中に一物あり、大守直々に見らるゝ所漢の武帝の書し達磨の像也、絹の両幅鮮血に染て縁を取たる如し、近臣血汐の穢を落さんと雖、大守大川が義勇を賞して其侭に表装し、是を細川家の重宝血の達磨と賞し人口に唱へる事噪し、翫雀此齣をする由評判して復讐の事は二段になりけり、依て奥州の高木折右衛門〔是は又別に写本あり〕を思ひ合せて印南数馬の助太刀を高木に托し、大川は達磨の一軸を奪合横山大蔵〔関三〕を殺害して琵琶湖の水中にて切腹して疵口へ件の一軸を隠し、亡霊細川の舘へ帰つて手渡す狂言とはなりたり、外題は高木折右衛門武勇話とか賦したり、尤火は戯場に忌る事なれば水中にかへたれども謡曲の海士は龍神を遠ざけん為乳の下を掻切て宝珠を包めり、画絹の軸物ならば腹中に納めず共いか様共仕方あるべしと彼地の穴探は批評言けり、此時火中より出たるは達磨の画といふは妄言にて、誠は右に説く古今伝一軸にて大守身命にかへて惜しまれしと云は実なり、大川氏宝蔵の壁に向つて坐禅の容よく悟つたりと言心より智の達磨と云なるべし
文政中浄瑠璃大夫播磨の大掾〔始竹本土佐太夫受領〕と心易くて文談の内不分明なる事あれば弟子をもつて尋問に来らせる事毎度なり、予も好める道ゆゑ引書を携へて往註解す、序に一世一代として語る物を書くれと乞はれ、謡曲釣狐の狂言は古今来許多の脚色になど予兼て腹稿あれば書んと約す、此一段は楠昔噺〔作者竹田出雲なり〕は五段を五節句にして大序正月元日〔楠の影にて正成夢見る〕、二の切三月三日〔八尾の別当のば〕、三の切〔祖父婆々端午のば〕、四の切〔赤坂城盆踊り〕七月七日、大詰九月九日と割合せたり、端午三の切のみ人知つて外の場を愛ず、予是に習ひて、謡曲の狂言ばかりにて五段を重て、序花子ならば、二を三人畸、三を吼噦なぞと見立て著述せんと思ふ事久し、播磨の頼を幸ひ先三の切を先に書たり、稿成て読きかすに大に歓びとてもの事に前後満尾させん事を云、其内予は歌舞妓の作に隙なく一二ケ年を送る内、播磨故人に成り此場草稿の侭播磨の手にありて世にいでず、いと残り惜しく思ふから、草稿を取かへして出板し追善にもと思ひ浄書仕かけてはまた捨置たり、思ひいづるにまかせ爰に出す
英双紙の抜萃に むさしのにありといふなる迯水にとけた秀句の心と心ろ恩愛からむ老が身の泣音に血をば伯蔵主が誠心
謡曲狂言 釣狐尾花褥
東遊記の注釈に らん菊のもとに遊ぶときくの根にかけた野干の義理と罠因果は廻る己が名の作りをくらふお瓜が貞節
古今来歌舞妓浄瑠璃の脚色を案に各趣向に証ありと雖、多くは謡曲を父とし端唄を母とするもの解易くして後に遣れり、今爰に著は謡曲の狂言を種として唯筆の走るに任せて書付たり、専ら院本の文談に似たれど強て節を下さんにもあらず、亦歌舞妓に仕組俳優者流に労させんにもあらず、読んとすれば文章拙く、諷はんとすれば語路直ならず、劇場に見んとすれば詞くどく其文の拙きは才なき筆と見ゆるし給へ、此書原より首尾ありて、時代は太平記、趣向は狂言記を取組、宗論・花子・三人畸・末広・靭猿など一齣毎に用ひ作りもふけしかど未稿ならず、此吼噦の条は所謂三輯の意にて幼き頃書付置しを朋友何某に需られて草稿の侭あたへぬ、原より狂言綺語の根無ごとなれば時代・人名・地名等の誤をいはんには際限なかるべし、是なん歌舞妓の筋書とも読本浄瑠璃とも唱へて見給は幸甚しからん
作者西沢綺語堂誌
釣狐ノ証考、『堺鑑』ニ曰釣狐ハ南ノ荘少林寺ノ塔頭永徳年中ニ耕雲奄ト云アリ、其住僧ヲ伯蔵主ト云リ、此僧鎮守ノ稲荷明神ヲ信仰シテ毎日法施不怠、或時神感応有テ森ノ中ニ三足ノ野狐アリ、抱帰テ養愛ス、此狐ニ有霊達随仕用退追賊難事アリ、其孫々三足ニシテ今ニ至寺内二住居ス、稲荷ノ霊験新也、世ニ云伝釣狐ノ狂言〔又吼噦共云リ〕此寺ヨリ発レリ、然バ才覚ナリシ狐ノ謀ナレバ、其時大蔵其狂言ニ作シヲ、彼狐感ジ老翁ニ化シテ狂言ヲ見テ、猶野狐ノ骨髄ノ働ヲ口伝セシトナリ、誠二狂言綺語トハ云ナガラ道二達シヌレバ如是奇特モ有事ニヤ、尤家ノ大事トスル狂言也、
『釣狐尾花褥』姓名録 一伯蔵主本名殿法印了忠、 一囮ノ罠作本名速見下総、 一罠作妻於瓜、 一娘於菊、 一於瓜妹於蘭本名大塔宮護良親王、 一油揚鼠六、 一行脚ノ僧本名万里中納言藤房、 一足利ノ眼代野見ノ軍太
吾妻路に隈なき月の名所や武蔵野の片辺り、尾花隠れの孤家に主は囮の罠作とて名に似合ふたる悪業者、耕す業は仕もやらで酒と喧嘩と殺生に其日を送るうたてさに、妻のお瓜は連合ひの身もちを日にち諌むれど聞入もなきねじけ者、けふは夫の留守ぞとて持仏の煤を打払ひ心ばかりの吊らひに、娘お菊は母親に替りて助く水仕事、馴ぬ仕業も親思ひ、母は御燈[あかし]あげしまひ、いやのふお菊今更改云ふではなけれど、そなたは夫罠作殿が先の御内儀に出来た子、わしも其後嫁つて来たれど本にマア産の母より大切にしてたもる志忘れはせねど、夫に引かへ連合の罠作殿どうした事やら此一二年の身持の悪さ、そなたも母も口の鮓うなる程異見すれど馬の耳に風とやら困つた物ではないかいのと、いふに娘も打しほれ、さいなア嚊様のおつしやる通り、現在実の爺様なれど恐しい、悪業ばかり夕も釣て戻つたとてあれあそこに釣てある狐、毎晩〳〵狐を取つて夫を肴に酒を呑みあちらでは喧嘩をしたりこちらでは殺生したり先の嚊様の着物からおまへの着物も売代なし博奕とやらに入さしやんして異見をすれば猶逆立お前やわたしをうち打擲わしやあんまりの恐しさにいつそ死んでも仕舞ふかと思ふて常住死かけても嘸や私が死んだればお前独りが便りなかろ又二つには大切な宮様の事もし爺様が知らしやんしたら難儀な事もあらうかとそればつかりが悲しさに生永らへて居ますると母の小膝に瀕すり付歎ば母も諸共に落る涙を押ぬぐひサヽ母もそなたと同じ事近頃夫が悪とうにならしやんしたも皆殺生の報ひかと思へば後生も恐しくせめてわしなと死んだならちつとは夫の殺生や悪い身持も直らうかと色々思案して見てもあの宮様はわらはが伯父様白蔵主様が大切にせねばならぬお方もし世間の人に見知られてはとわざと女の姿にしてわしが実の妹と呼なし現在連添ふ夫に迄深う包て知らさぬはこちの人の身持もし宮様のお身の上どういふ事が出来うも知れず又二つにはそなたでも爺御ひとりでもぎどうに折檻*したり敲ひたり当り所でも悪うして疵やなど付さんしたらわしや未来でそなたの母御に何と言訳ならうぞと二つの事が苦になつてけふまで命永らへしぞ孝行にしてたもるそなた故宮様の事まで打明てのちから草かならず〳〵忘れても罠作殿に此事を悟られてばしたもんなやと義理ある中に隔なき詞に娘は打点きそりやよう心得ておりまするあのこわい爺様でも伯父様の伯蔵主様のいはしやんす事はついぞそむいてゞはござんせぬになぜ伯父様にさういうて呵つてはもらはしやんせぬヲヽそなたのいやるまでもない伯父様に相談したれば姉のそなたを片付た罠作は甥同前器量骨柄揃ふた男兼て宮様のお力にもと思ふたれど咄すには折もあらう又悪とふがまつこと止ねば異見の仕様も有程にマアそれ迄はおくびにも宮様の事抔悟られぬ様にせいと呉々とのおしへどういふ夫の心かは知らね共今ではけつく世間の人よりこちの人が恐しいまだわしは女房の事可愛やとしもゆかぬそなた親ゆゑ苦労をさす事ぞと互ひに手に手取かはし又さめ〴〵と泣居たる折から門に足音のするは夫の戻かと二人は泪おしぬぐひしぶる茶の下流しもと泣かぬ顔して立直る心ぞ思ひやられたり道の辺に清水流るゝ柳影と彼西行が跡を追ふ諸国行脚の歌枕首にかけたる頭陀袋まぶかに着なす檜笠心なき此あたりには所化の僧とや思ふらん実に果しなき武蔵野の中に見えたる孤家を目当に暫し立留り是は遥遠き都の者諸国歌枕修行の為名所古跡を尋るもの一夜の宿を御無心といへばお瓜は手をとゞめヲヽ夫はマア遠ひ所をおやさしい嘸独り旅で草臥給はん御一宿遊ばせと云にいはれぬ此あばらや殊に夫はむくつけ者留主の内にお宿申跡から御断申たら夜に入ての御難儀も思ひやる夫ではかへつてお気の毒ノウお菊お断申がよからうかと問へばお菊は打点き本に嚊様のいはしやんす通り爺様が戻らしやんしたら何といはしやんせうやらしれねど人里遠い此むさしの折角のおたのみを無下に申もほいない事爺様が戻らしやんしたら何となりといふても一夜の事おとめ申て下さんせといへば旅僧詞につきいやも旅の身の心易さには庭の隅でも厭ひは申さぬ是非に一夜とたのむにぞ本にけふはそなたの母御の忌日旅のお僧をお宿申も供養のはしもし夫が戻られたら頼寺の坊様じやといふておかうごろじやる通りむさぐろしけれどゆるりとお休被成ませマア〳〵是へに旅僧は笠ぬぎ捨て内に入り夫はお志忝し一宿願ふも何ぞの因縁幸ひあたまも丸ければ御仏前へはあたま役と草鞋とく〳〵腰かくればお瓜お菊も共々に笠と頭陀とを片付て虧し茶碗に出くちたる渋茶ぞ一の馳走也お瓜は旅僧にうち向ひ都のおかたは殊更に同じ故郷の事なれば一しほましてお懐かしいホウすりやお内方も都のお生れとなそれはマア不思議な出合シテマア此遠い国へはどうしてお移なされたなアイ私も都では育たれど縁あつて此吾妻へ片付今ではちつと国馴て都の事は大方に風の便りも聞ませぬと語る内にも旅僧は身震ひ立てかむりふリアヽ其都はいはぬ事〳〵我等も都を飽果て此吾妻路へ歌枕イヤモウ都は修羅の街折角公家の世となつても足利といふ武士に支へられ新田楠といふ智勇兼た大将を始忠義の人は大かた討死足利殿の威勢は日に増し其修羅道のうるさゝにかゝはらぬ我等まで思ひ立た独り行脚イヤモウ此方が何ぼう心易い事やらと咄す内にも女房が郡の事を聞につけはつとむねに答へるも知らぬが仏行脚の僧イヤモウかう遠いをあるく内も兎角名所や旧跡が我等が友イヤお娘御あれ〳〵あの向ふに見える川の様な所是はけしからぬ大川と便りの船を案ながら行ども〳〵向ふに見え今又爰のお内から見る時はどう思ふても渡てこねばならぬ道あの大川をいつの間に越て来たか此むさし野の狐にがなだまされはせぬか一向がてんが行ませぬがありや何と申川じやなと聞に娘は微笑てこの武藏野は西は秩父根東は海北南の向ふが岡都筑が原より北は川越迄縦横十郡にまたがつてその内に川と云のは玉川粂川入間川と此三つ又年とらず川と云はあるに甲斐なき細い流れ節分の夜は水流がないとやら又向ふの川の様に見えるのはありや川ではござんせぬ遠いから見る時は大川の様に見えれどもその所へゆく時は川はなく行ども〳〵向ふへ行ようなれば是をむさしの迯水とやら申ますると云に旅僧は小膝をうちハアヽすりやあれが武藏野の迯水と申かと驚く声に案じゐるお瓜はふつと心づきそしらぬ顔に紛らしてホウお珍らしいはお道理〳〵わらはも爰へ来た当座は真実[ほんま]の川かと思ひましたが私が伯父様は敷島の道もお好きゆゑ常々私へのお咄にはあれをむさしのゝ迯水といふて古歌にも武さし野の草葉隠れに行水のと申もあるとの事珍らしい物ではこざりませぬかと聞につけ思ふにつけ独感じて打うなづきアヽ誠に歌人は居ながら名所を知るといへど目前見るは行脚の徳又古歌まで聞覚えてござるこな様方の生立も奥床しい今宵は夜ともお咄を承りたい程なう御亭主もお帰ならん僧の手前の役目ぶりお看経でも致さうかと立上るれば女房も真[ほん]にこちの人の戻らんすに間もあるまい何はなけねど粟のまゝいざ納戸へとお菊があない然らばお辞儀申さずと連立一間へ入にけり跡見送つて女房ははつとばかりに吐息つぎ今のお人の咄では宮方は日に〳〵衰へ足利一家はさかんとの事宮様の御供して籏上するは今此時伯父様が頼に思ふこちの人はあの通りおめ〳〵時節を見合す内国を隔し都の事どうならうやらわからぬ時宜すりやどうしたらよからうぞとしばし途方にくれけるがやう〳〵心取直しいやつい近所のことでさへ人の噂は違ふものまして隔たる都と東とくと夫の心もさぐり伯父様にも相談したうへ仕様もやうも有うぞと心でこゝろ取直しヲヽ今のお人も嘸ひもじかろどれ御膳をあげて看経をたのみませうといひつゝ納戸へこそは立てゆく龍も池中にある時は蚯蚓にたぐひをおなじうすと後醍醐帝の御弟君大塔宮護良親王足利の讒奏によつて御兄弟中不和となり淵辺伊賀守に預られあやうき場所を遁れ給ひ此隣村に忍びいで人目を包むお身なれば女姿に身をやつしお瓜が妹お蘭とて年も二八の莟の花ひらきそめたるやさ姿けふの忌日に偏るとて片手に提し女郎花くねる野道をしとやかにあゆむ姿は誰が見ても男へしとは見へざりし遙か跡から声をかけヲヽイヲヽイと呼つゝも戻りかゝりし主の罠作舌もゝつるる酒機嫌お蘭は見るより振返へりヲヽお前は罠作様今内方へ行所最前から呼しやんしたかえイヤモ呼んだ段か伯父貴の門口をそ様が出たゆゑ呼とめうとは仕かけたがもし伯父貴めに顔を合しや又長咄を受るがつらさにちよこ〳〵走りで通り過村はづれから大声で呼んでいるのに聞ぬ顔ヱヽ去とては聞えぬぞよ是蘭せんどからいふ通り貴様嚊が妹じやといふて伯父貴の所へ来た折からハテ美しいものじやと首だけ所かぞつこんおれが惚こんだが何の他人じやあるまいし姉聟は妹の我身の聟も同前じやないか是どうじやぞいの〳〵と塩の目にしなだれつくを振払ひ又しても〳〵罠作様のじやら〳〵とこちやそんな事は知りませぬハテそれはすげないコリや君よハヽア聞えたコリヤ姉のお瓜が聟じやゆゑしんしやくかハテ貴様さへうんといや古くさい嚊あはぼいまくり此罠作が宿の妻コリヤうんといふてくれヱヽ呉おれと付つまとひつ口説にぞヱヽ不作法なと心ではいかりながらもそぶりにはさとられまじと柳に受段々のお志は嬉しいけれど伯父様のお耳に入たら大体や大方やかましい事ではこざんせぬと言せもやらずゑせ笑ひへヽヽヽ伯父貴がおこつたとてこはいかいムヽそんなら何もかも伯父様に告るぞヘアヽめつさうなそれいふてたまる物か何でも内へ連ていんでうんといふ迄はなさぬ〳〵さあこいく〳〵と門の口明るやあけずどつちよごえヤイ今戻たぞうぬら何してけつかるのじやと内中ひゞくわなり声お瓜お菊は納戸を出ヲヽ今戻らしやんしたかヲヽ妹おじやつたかお蘭様ようマアお出と言ひながら小気味の悪ひ罠作の顔にふさがる二人がむねお蘭は提し花を置さいなアけふはお菊様の実の母御の命日と伯父様が気を付て此女郎花を備る様早う持てゆけいてゝその御使にきた道で罠作様に出合たら酒機嫌かしてじやら〳〵と云を罠作紛らせてヤイ〳〵〳〵おれがるすじやとうぬらマア何してけつかる見りや仏壇へ灯をあげて優長らしい仏なぶりあた情ない穢らはしいごくにも立ぬよまい事より寝酒の肴は出来てあるかハテうぢ〳〵せずとちやつきりちやつとさらせやいといふたらまた銭がないの金がないのとぬかすで有うハテ銭がなけりやうぬらが着ておる物なとぶち殺し買ふては置いでヱヽいま〳〵しい衒妻めらとあたり眼のぐわつたぐわた火入引よせふと煙管アヽ世の中におれ程精出す者はないぞよ跋地は打酒はのむ殺生なら得手め物毎晩〳〵狐を釣るもうぬらにどがひしよがないゆゑ寝酒の肴も得えせぬからせう事なしにお釣遊ばす狐をばイや殺生じやの可愛さうなのとヱヽ真[ほん]に情も張合もある物かいけさから方々かけあるいて草臥たお菊め腰なともめと寝腹這ひ何とお蘭女郎貴様も手を遊ばすはきつい毒ちと此姉婿を見習うて若ひ折のしんどは乞うてせいとおれが足などもみやいのと足投出せばお瓜は聞兼アヽ是勿体ない何じや勿体ないとはヱヽサア勿体ないとはあの体を遊して置のは勿体ないサアさうじやによつて私が先へもみましよと此場をくろめるお瓜が気転罠作はふり払ひヱヽ誰が頼もせぬにうぬがその割松の様なほねでもんではそげが立わいコリヤお瓜よう聞よもうおりやわれがとんと否になったヱヽヱイヤサわりや古嗅ふておかしうない我にやもう隙やつてあの妹のお蘭又美くしい者じや此春まで京に奉公してゐたといふがイヤモたまつた姿じやないて是からあのお蘭を女房にするさう思へと無法無徹な夫の詞きくに二人はあきれ果何といらへも口籠そば腰もみながらお菊は聞兼是滅相もない爺様あのお蘭様を真実[ほんま]の女とヤなんとサア真実[ほんま]の女房にもたうとはそりやあんまりでござんせう何をうぬ迄がませくさつたおれが女房にしたらどうするイヽヱイナア今お菊がいやるのは妹のおらんじやとてまだことしが十七なりや娘のお菊とは一つちがひすりや娘を女房にする様なものじやによつてハテ娘の様であらうが孫の様であらふが何のうぬらがいらぬ世話コリヤお蘭ヲヽといふて呉んかヱヽ是しか〳〵ともみ上れと妻や我子に手つよきも恋にはのろき物なりしお蘭はお瓜と顔見合せ唯もぢ〳〵とするふりに罠作はこたへ兼もうたまらぬと起上り否がるお蘭が手をとつて抱付んとする所をお瓜はわけて中に入イヤそうはなりませぬおまへもあんまり悪性なと悋気によせてさゝゆるをヱヽ置上れ法界悋気面倒なそこ退うと振のけ蹴のけて行かけるを娘はかいなにすがりつくお蘭は傍にあぶ〳〵と案に果しなかりけり罠作始終に目を付て伯父坊主や女房めが大事がるといひどうやら合点が行ぬお蘭のそぶりコリヤ是正しく男ヱヽイヤサ男のおれがする事をなぜうぬが邪魔ひろぐ退ておらうと飛付をお瓜は屹度抱とめ是こちの人夫程迄に思はしやんすも他人ではなし妹の事随分得心さしもせうが木折にならぬが恋の道ムヽそんなら我が口説落しサア色よひ返事をさすわいなアムヽ面白い一口商ひ今爰でイヤ後迄にいひきかしアヽ申嚊さんそれではハテ何事もわしにまかしてそれお菊妹を達て奥の間ヘアイと返事は仕ながらも心は隔つ奥の間へお蘭を伴ひ入にけり跡に女房は興さめて何とせんかたなき折から猿戸ぐわら〳〵音さして罠作内に居るか罠作と猿の様なる声をしてずつと這入るは油揚鼠六罠作見るよりヱヽきよと〳〵しい何じやぞいイヤ何じや所もすさまじいせんど都築が原の盆の上で取かへた卅両の金我が真裸[まつぱだか]に成ておつたをおりや其時に手合はよしゑいわかしてやらうがあさつて迄に五拾両にして返せよといふたればヲヽ合点じやとぬかしながらイヤあすのあさつてのとけふが日迄素股ふませて所詮返す金はあるまいゑいわ金返さにや爰のめらうを連ていんで大磯か手越へ女郎に売四拾両と五拾両にして腹いるわサア金返すか娘渡すか農作返事はどゝどうじやといふもそゝこしあぶらあけ鼠六罠作ゑせ笑らひへゝ馬鹿尽すな猿松めうぬらに娘をうる事を習うかいめらうのお菊はさる所へ売る約束して置た其金も我に返したら能らうがそれも外へ渡すかね我にかつた金は追付かへす落付て待ておれヤイ〳〵〳〵わりや太い事をほざくなア娘売た金もおれにはおこさぬかよいわモウわれにやとらぬその替りにうぬが伯父隣村の伯蔵主めにさういふて臍くりがねを取たつるか又それもなけりや向ふにおるめらうのお蘭めちと心当りの口もありあいつを連ていて金にするさう思へとかけ出すを罠作は立上り鼠六が弱腰引つかみゑのころ投にずでんどう傍にお瓜は只八ア〳〵聞度毎に恟りの胸轟かすばかり也こなたは鼠六しめ上てヤイおのれそれを伯父坊主めに云てたまる物かうぬらが智恵は皆跡へん常住手合の悪ひ時は伯父坊主めをだましこみ臍繰は皆せしめてしまうた今時そんな事ぬかしたとてかんつの虧にもなる物か其うへあのお薦めはおれが首切惚てゐれば此嚊アめをぼいまくりお蘭はおれが閨の花わいらが手侭にやヱヽさゝぬコリヤ我に返す金は爰にあると懐より取出す人相書鼠六は取て打詠めコリヤ是けふ代官所から渡つた大塔の宮とやらの人相書是をおれへ渡すかねとはハテしれた事じや此大塔の宮といふやつを此間から嗅出して置た是をとらへて褒美の金をせしめたらコリヤ我へ約束の五拾両まだその外にわけ口も添てやるムウヽしてその宮はどこにおるイヤそりやおれが見込である何でも今夜は遁さぬ筈コリヤたのしんで待ておれと聞よう俄ににた〳〵顔よし面白いそんなら晩に請取うとうなづき〳〵門に出帰へるふりして薮垣に身をひそめてぞ窺ひゐる内にはそれとしりながらそしらぬ顔に舌なめづり始終を聞てお瓜が当惑義理ある娘をうるといひ殊に宮の身のうへ迄最早夫に見だされたかといち〳〵胸に釘さす苦しみこなたはかまはぬ高あぐらコリヤイぞけめ今もうぬが聞通りお蘭を女房にするかよし又それがならにやおれがきつと仕様があるサア手短に返事せいヲヽといふて抱れて寝さゝにやよもや此まゝでは済まいと否といはさぬ夫の難題吐息つく〴〵顔打守りサア妹じやとて時分の年まんざら否でもあるまいがあんまりお前が邪慳な故何じやおれが邪慳なさいなアお前が常体のお人なら随分心にもしたがはうし又わしじやとて何の悋気もせぬけれど今更いふではなけねども近比おまへの身持悪さお年とられた伯父様の助ともなる心はなく畑仕事も打捨て博奕打たり喧嘩をしたり狐を釣てよしない殺生夫ばかりさへうたていに今鼠六との言合せ宮様をとらへて褒美の金のと現在連そふ私さへ恐しうてならぬもの年端もゆかぬ妹がついとくしんをしませうかいなアヤア二言めには聞たうもない意見立今時面倒な百姓業より遊んでくらすが男のかいしよふと思ひ付た狐釣イヤ又面白ひ物人を殺せば下手人にとらるゝ畜生の気さんじには四五十疋も釣たれど誰が何ともいふては来ず今亦いふた大塔の宮めも足利殿から配符の廻たお尋者ひつとらへて連てゆけば褒美はずつしりなりやうぬらまで出世の種是皆筋の立た事ばかり何で夫が恐しいサヽ其得手勝手が私が癪シテ其宮様とやらはどこの何国に匿うてござんすえと裏問かくれば空とぼけハテそれをうぬが聞糺して何とすりやいらざる世話をやかうより奥へいてお蘭めに言聞せうんといふて抱れて寝させい又めらうのお菊めは今夜約束の所へ売る拵売物には花をかざれじやきり〳〵髪も結ふてやらうてヱヽそんなら真実あのお菊をヲヽ売たらどうすちやおれが娘をおれが売るに何とぞしたかサアそりやお前の娘でもござんせうが私が為にも大事の娘あの子を売ては私の義理がヤア七めんどうな義理だてうぬがさらさにやおれが直にとけしきをすれば女房は手ごわき夫を諌め兼是非もなく〳〵納戸口打しほれてぞ入にける罠作は仕済顔その侭そこに空寝入始終を立聞鼠六はそろ〳〵藪畳より這出て合図の呼子に小蔭より足利の家来野見の軍太組子大勢付したがへひそ〳〵と近付ば鼠六は猶も声をひそめ仰られた何角の事罠作をさぐりし所きやつも欲づら我等と同心ヲヽよし〳〵然らば罠作を是へ呼出せ畏つたと油揚鼠六門口あけて罠作にそれと合図に起上り戸口へ出れば野見の軍太すりや其方は此家の主罠作とな身は足利の家来野見の軍太といふ者汝大塔の宮の詮議致し差上る条是なる鼠六より慥に聞くシテその者はアヽいかにも心当りのやつはあれどいまだ確[しか]とわかりませねば今一度さぐつたうへいよ〳〵大塔の宮とやらに相違なくばヲヽ搦で渡すか首で渡すかもし手にあまつた其時は心覚の山刀で首にして差上ませうヲヽ出かいた〳〵然らばのちに受取に参らう夫は御苦労是そのかはりに褒美をずつしりハテつがうに及ばぬ首さへ見れば三百両工ヽ夫は忝い然らば罠作ぬかるなと蚤取眼の野見の軍太組子引連立かへる罠作は鼠六を近づけサア三百両ももうこつちのものわりや伯蔵主に是かう〳〵と叫けばヲヽそんならおれが釣出さう早う〳〵と点き合鼠六は野道へ罠作はどりや奥へいて前祝ひに夕の狐を肴にして一盃やらうと独り笑一間の内へ入相の空さへ秋は哀れにて千草にすだく虫の音と共に泣たき娘ぎのお菊は一間を忍び出思案途方に暮六つの鐘ゆゑ売らるゝ身のうへととゞろく胸をおししづめて恐しい爺様の巧み事宮様の首を渡すと今の約束殊にわしまで今宵の内に遠い所へ売との事此春今の嚊様が妹御じやとて都からきやしやんした本間の女郎と思ふてゐたに義理を思ふて嚊様が誰にも知らさぬ宮様のお身のうへ包み隠さずいはしやんしてからても可愛らしい尋常なあんな殿御が此広い世界に又とあらうかと思ひ染たが身の因果いとしいやらかわいゝやら常住目顔でしらしてもあのこわい爺様に見付られたらどうせうとけふまで枕かはさねど思ひ詰た女子の操そのいとしい殿御をば今宵の内に首を討れ此身は女郎に売渡され何にたのしみに生延てつらひ勤がならうぞと袖くひしばる忍び泣娘心の一筋に思ひ詰たる恋の道哀れにも又しほらしき泪拭うて思案を極めヲヽさうじやくど〳〵と思ふ間に爺様に見付られては一大事それより此場をちつとも早う宮様を落しまして爺様への言訳にはお身がはりにさへ立ならばとはいふもののせめて此世の思ひ出にたつた一度抱れて寝たい寝たいわいのと口説き泣いや〳〵〳〵夫よりは潔ぎようお身替りに立たなら此世の縁こそ薄く共未来の縁を嚊様に頼おきちつとも早う宮様をそうじや〳〵と打点づき足音させじと忍び足窺ひ〳〵入にけるやゝ更渡る秋の夜の音のみ冴て聞ゆらん次第名残の後の古狐〳〵こんくわいの涙なるらん恁る夜道を老の身の杖をちからに伯蔵主甥子の爲に心の闇浮世はうしや墨染の衣頭巾もふすぼりて二重の腰を立そらし一狂言詞是は此辺りに住百年に余る古狐のこつちやうでおじやる爰にある者の候がいつの頃よりか狐を一つ釣初て面白いと思うてか釣程に〳〵我等がけんぞく共を悉く釣とつて今某をもねらへども油断致さぬ所で聊爾に餌をはみにでふ様もござらぬ爰に彼者の伯父坊主に伯蔵主といふてある此人の申さるゝ事はあまさか様なる事をも彼者が承引致す程にけふはかの白蔵主に化て居て異見をして釣止らせうと思ふて是程に化た急ぎ彼者の宅まで行ばやと思ひ候一道行住馴し我古塚をたち出て〳〵足に任せて行程に〳〵彼が元にぞ着にけり狂言調いそぐ間彼がもとに着た扨々物には取得がある彼者が犬を飼ふならば我等如きも参る事もなるまいに犬を飼ぬによつて何より心易いとゆかんとしては飛しさり辺り見廻し息をつぎ狂言詞アヽ嬉しや遠鳴で有た物扨々ゑい肝をつぶした先案内を乞はう物もう案内もうおとなふ声に納戸より眼をすりながら主の罠作誰じや〳〵と立出て覗けば伯父の白蔵主南無三宝あた邪魔なと思へど俄に追従声狂言詞案内は誰ぞヱヽイ白蔵主様でござるかヲヽ愚僧でおりやるこなた様ならば案内なしにお通りはなさらいで殊に暮におよふで何と思召てお出なされました案内なしに通らうずれどもけふは思ふ子細があるによつて案内を乞うた夫は心元ない何事でござりまする今日参つたは別の事でもないちとそなたに意見のしたい事有て参つた御意見とござるならいか様の事成共承はりませう先奥へお通りなされませいイヤ〳〵思ふ子細有て奥へは通るまい是にて申さう聞ばそなたは狐を釣さうなのアヽ申私は左様な事は存ませぬイヽヤかくさしましぞ寺へくる人毎にそなたの甥の殿こそ狐を釣れ人の事をだに言はうずる者があれが目にかゝらぬかと何れも仰らるゝよもや偽りではおりやるまい真直にいはしませ扨はしかとおきゝなされましたかいかにも聞ておりやるとも御存の上は隠しませう様はござらぬ成程釣らぬではござりませぬ此程一つ釣ましたが面白う存て釣程に〳〵七八疋も釣たでござらうアヽそれ〳〵人がない事は仰られぬまづそなたは狐を釣て何にお仕やるハアまつ革ははいで引敷に致しまするヱイ身は料理して食ますヱヽイ骨は黒焼にして膏薬煉へ遣しまするハアヽ最早聞てさへ身が震はアヽあの狐といふ物は執心の恐しい物じやその狐の報ひで心があらあらしうなつて後には人の害になることもする物ぞ今迄の事は取も返されぬ此後はふつ〳〵と釣をとまらしませと狐に掛し身の意見罠作はぎつくりと胸に当れば謝り入狂言詞何が扨今迄は左様の事とも存ませなんだ此後はふつりと釣をとまりませう何じや釣を止らうハアさうあらば爰に狐の執心の恐しい物語がある是を語つて聞せうがとてもとまるまいならいらぬものイヤこなたの仰らるゝ事をいつ背きました事がごさる成程釣をもとまりませうぞ先お物語が承りたうござるさうあらば追付語つて聞せう愚僧もはる〴〵来たればいかう草臥た其床几をくれさしませ畏つたとあり合す床几をとるも槌で庭白蔵主は座に直り狂言詞此物語をお聞やつてふつ〳〵釣をおとまりやれや畏つてござるカタリ抑狐と申は神にておはします天竺にてはやしほの宮唐土にてはきさらぎの宮我朝にては稲荷五社の大明神と申も是皆狐なりハア爰に鳥羽の院の御時玉藻前とて容顔美麗にして並びなき上童の有し然るに此女を玉藻の前と申子細は四角八方より其姿を見るに譬へば宝珠を見るが如く裏表なき女なり総じて裏表なき者なればとて玉藻の前とは呼れたりハア又化生の前と申は何ぞなれば一とせ帝に御歌合有て後御管絃の有し時ゑいその如くなる大風吹来つて禁中の灯火一燈も残らず消ぬ其時玉藻の前が身より金色の光を出し玉殿は申に及ばず御庭の真砂の数までも隈なく見え候程に玉藻の前は人間になく化生にてありやとて夫よりも化生の前とそ呼れけるハアヽ其後帝程なく御悩とならせ給へば貴僧高僧を召れ色々御祈祷ありけれども夫にその験なく安倍の泰成といふ博士を召れ占なはせ給へば泰成念比に考て申上けるは是皆玉藻の前が仕業なりそれをいかにと申に此女と申は根本狐なるが仮に人間と化して天竺にては斑足太子の塚の神大唐にては幽王の后褒似と成りて既に七帝迄取り奉り今又日の本の帝王を取奉らんとするかゝる一大事の御事なれば急此者を調伏あつて然るべきと申上る頓て四檀のついで五檀を餝薬師の法を行はるべしと有し時大内にたまりかね下野の国那須野の原に落てゆく国内通化の者なれば疎にしては叶はじと犬は狐の相を得たるものなれば犬追物といふ事を以て御退治あるべしとて三浦之助上総之助に仰付られる両人は勅諚を蒙り那須の原に下着して百日の犬追物とぞ聞えけるハア百日の犬満じければ尾頭七尋に余る三尾の古狐顕れ出るを一の矢は三浦之助二の矢は上総之助ヒヨウどつきと射る得たりやヲヽと飛でおり剣をぬきかれを害し帝へ奏聞ありければ君の御悩も忽御平癒あり国土納り太平の御代となるぞとよハァされども狐の執心残つて大石となり人を取る事数しらず地を走る獣空をかける翅まで地に落かゝる殺生をする石なればとて殺生石とは名付たリハア爰に玄翁といへる僧あり彼石に向つてがつす汝元来殺生石とう石霊せう何れの所よりか来り何れの所にか去ると桂杖を以て三つ打打れて此石割れしより猶も人を取ぞとよかゝる恐しい執心の深いものなればけふよりしては釣をふつとおとまりあれかしと思ひすよ是此伯父が一生の頼じや程にふつゝりと思ひとゞまつて下されと甥子を思ふ老の身の泪に誠は顕れたり罠作ふつ〳〵誤りいり狂言詞扨も〳〵恐しいお物語を承りましてござる其物語を聞ては狐を釣う物ではござらぬ此後はふつ〳〵止りまするで御座らう聞に伯父坊嬉しげに狂言詞何じや釣を止らうとおしやるか中〳〵左様でござるヲヽそれならば爰に狐を釣輸罠とやらいふ物があるげなそれを捨てお呉やれお帰りなされたらば捨ませういやといへば其道具があれば又釣たい心も出来いで叶はぬとても捨るならば愚僧が見る前で捨さしませハア畏つてござる罠と申は是でござる傍なる罠を鼻先へ突付出せば身を背け鼻動かしてふり払ひ狂言詞アヽ扨も腥や〳〵其道具でいか程か狐を釣やつたのふ早ふお捨やれ〳〵心得ました捨て参りませう是ごらんぜと罠折すてゞ外面にすて狂言詞ハア捨ましてござるおすてやつたかようお捨やつたの〳〵愚僧がいふ事じやと思うて早速承引おめさりやつた近頃満足した奥へ通つて子供にも逢うずれどもけふは穢らはしい重ねて来てあふでおりやろ夫は兎も角もでござる又そなたもちと寺へお出やれ成程お見舞申ませうお出やれとはいへども愚僧が事なれば別に振舞ふ物はない昆布に山椒でよい茶を申さう杖を便りに戸口へ出れば罠作は送り出狂言詞それは何よりの御馳走でござりまするかならず〳〵出さしませお知りやる愚僧じやによつて何も振まう物がない昆布に山椒をまいてハア茶ばかり申さうようお出なされました胸に一物罠作が門のやぶれ戸びつしやりとしめた振りして窺ふにぞ白蔵主は只そろ〳〵狂言詞アヽ馳走をしたうは思へども何も振舞ものがない昆布に山椒茶ばかり申さう昆布に茶ばかり〳〵と影隔つまで口の内道かい曲る尾花原姿は見えずなりにける跡見送つて罠作がまんまとぼれはいなしてのけた此上は手延にならぬ宮の首さうじや〳〵と打うなづき戸棚に置し山刀腰にぼつこみかけこむをお瓜はそれと走出夫の向ふに立ふさがり是罠作殿最前からの一部始終残らす納戸で聞ました老としよつた伯父様が夜道もいとはず御意見にごさんして頓と心を改たと今誤らしやんしたじやないかいのそれにマアその山刀をもつて一間へかけこみお前は何とさしやんすのじやえハテ知れた事伯父の意見も何の其耳にとめねば空吹風ムウヽすややあれ程にいわしやんしてもヲヽ十分手に入る褒美の金奥におるお蘭こそ大塔の宮に相違はない今又意見にうせた白蔵主めは古狐のこつちようめ妖てうせたに違ひないアヽ是勿体ない何の狐が伯父様にイヽヤぬかすな日頃から伯父貴めが意見がましい顔付に小気味の悪ひと思ふを幸ひ妖てうせたに極つたよし又誠の伯父にもせよおれがかねもふけの邪魔するやつどちら道ばらして仕まうヱヽヱイ誠の伯父めか狐めかきやつめが帰る道筋に用意罠も仕掛てある何れの道にも只はいなさぬマアそれよりは手短にお尋ものゝ宮めを生どりそのうへ伯父めもばらしてくれう邪魔さらさずとそこのけと取付お瓜をふりのけ蹴のけ猶かけ入んとする所へ娘のお菊は走り出罠作が手にむしやぶりつき是爺様堪忍して下さんせあんまりお前が胴欲さにお蘭様は今宵とめた御出家をたのんで裏道から落しましたと聞に罠作歯噛をなしヨヽすりや大塔の宮を落しおつたかチヱヽうぬマア現在親が金の蔓よううま〳〵と落したなお菊が襟がみ引よせて欲にふけりし怒りの眼母はお菊を身におほひヱヽお菊よう落してたもつたのうせめて夫の罪亡し二つには又此母へ義理を立ての孝行さヤア何をうぬらが得手勝手遠くは行まいぼつついてとかけ出す足もと二人は引とめ是爺様是ばつかりはゆるしてたべどういう事やらわしや宮様がいとしさに孝も不孝も忘れはて思ひ染たが身の因果現在独りの娘が頼みヤア忌々敷ひ色事三昧山の神めとひとつになりよううま〳〵と落したなうぬらどうして腹いよふぞチヱヽ残念やと立つ居つサヽヽヽ腹が立なら私を殺してあの宮様のお身代りにして下さんせわしやあの宮様ゆゑなら譬へ死でも本望じやと身を突付て覚悟の体母は娘を突のけてイヤそなたは殺さぬ落しましたはわしへの義理わしを殺して腹いせにと二人は足に取すがり果しなけねば罠作はヱヽ面倒なと突倒す折柄鼠六はすたすつた走り来つてコリヤコリヤ罠作約束のお尋者はヱヽ約束所か宮は裏から二人りがふけらしあまつさへ邪魔さらすおれは是から跡追かけ宮めの首をちよち切てとめだてひろぎや伯父でも搆はぬ此めうどもの邪魔せぬようがてんか鼠六ヲヽ呑こんだと取りすがるお瓜を支るその隙に得たりと駈出す足もとをお菊がとつて動かさねばヱヽ足手まとひの此めらうめ幸ひおのれを連ていて約束の所へばらしてくれうサアうせおらうとひつぱさむさうさしては義理たゝずともかくお瓜を鼠六は引たて罠作早うヲヽ合点じやといふさへくらき露の闇欲のくらやみ幸ひにお菊をひんだき罠作は跡を慕うて
この段切まで今すこし長ければ下の巻に出す、読て知るべし、右吼噦の狂言は此道の習ひことにして狂言記にも出さず、予大蔵流の何某より一書をかり受、其余書と参考して是に出す、狂言詞に読癖甚多し、所謂是を大蔵派の大事とする所なるべし
西沢文庫伝奇作書残編上の巻終
西沢文庫伝奇作書残編中の巻
露廼干努間能朝顔耳 輝寿日陰農難面幾爾
安盤礼一無良佐免乃 婆羅々々登富連可之
(春江の朝顔の戯画略之) 璃寛
前集芝屋司馬叟が伝に説長話数種ある内、此蕣は自得の話にて其頃の歌舞妓に取立、璃寛に宮城阿曽次郎をさせ度望にて近松徳叟に談じ狂言あら方書上たれども、深雪をすべき女形なくて四五年を経にけり、其内柳浪〔馬田と云医師也〕に諾し【話しカ】て画を交へ小説稗史前編五巻後編五巻に出板したり、又四五年を経るうちに芝叟・徳叟共に歿して蕣日記の小説のみ拡まりて、文化九年頃堀江市の側芝居にて生写蕣日記と外題して〔浜芝居作者出来島千助〕市川団三郎に駒沢をさせけり、評よくてもさまで歓もせざりしが、文化十一甲戌年東都より若女形沢村田之助〔先宗十郎躮源之助の弟〕七年目に浪華へ帰る、俳名曙山とて器量善く琴三絃に達したれば蕣の深雪は是に限るべしとて、芝叟・徳叟の遺稿を出して奈河晴助潤色して則外題をけいせい筑紫■*01[つまごと]と賦したり〔春狂言に蕣とゝなへし〕曙山瞽女となり脊負ひ出る手琴を朝顔琴と唱へ、璃寛には扇子に蕣の唱歌を書せ持はやらせけるが故、櫛・簪・団扇子・縫摸様・染摸様、朝顔ならずと云事なし、画人春好斎の門人春郷といふ者橘を蕣の花とし三吉の文字を葉あらしのかなを蔓に書けり、唱歌は璃寛の認しを写して前に出す、此頃又朝顔の珍花をはやらせり、何事も朝顔々々と唱へ芝居は古今稀成大入しけり、芝叟存命ならば嘸かし歓ぶべしとて璃寛追善の摺物を出せり、花蝋燭の艶摺にして左の如く三本有て上に漆越を置、外袋に文を書たり、余紙に写せし如くして風交子に配る、是も三十余年の昔となれば皆故人と成りて小説の板元なる予のみ残れり、然るに弘化四未年予は東都に行て五月頃にやあらん、沢田氏の誂にて筑紫■*01[つまごと]と江戸狂言復讐合法街〔故鶴屋南北が作〕是を混じて一日の伝奇に脚色を望まれ、暑中をいとはず江州多賀家の世界と定め著述にかゝり、日ならずして全部八冊草稿なる頃、旧友花笠文京来つてさる書林より蕣日記の合巻を頼まれたり、兼て狂言出来ときけば其狂言の筋書を合巻に出し、来春売弘めし上にて此狂言を出す時は近くは戯場の報条となりて見的に其筋を能知らしめ
(璃寛追善の摺物略す)
其まゝを芝に手向そ五形艸 璃寛
花すみれゆかりをとふや芝の露 曙山
筆のあと探りてとはん嫁菜哉 晴助
蕣の芽出しに種の噂かな 土卵
万倍の花朝がほの嫩より 柳浪外史
其図に乗つて書林も幸を得んこと一事両益ならんと勧るに、、沢田子も兼て其事を思へばよかるべしと云、早速筋を認め文京に送る、其後文京来つて、書林何某朝顔を刻したがるは近頃浄瑠璃に蕣の宿屋の段を作りて語るに評よければ、全部せし所を梓に彫んとの心にて、外題を則『かたり草瑠璃の朝顔』と号最早願ひも相済書画とも彫刻にかゝりしと云、是を聞てこは以の外なることなり、其宿屋場の一段は浪花山田野亭と云へる者、阿古屋琴責と袖萩の祭文を混じ前後の筋も弁へず拵へし場也、予も一両度聞て片腹痛く覚えしに、思ひきや予が著作の外題に浄瑠璃を題とせられんは好ましからずと悔め共、願ひ済しと聞て力に及ばず独つぶやき思ひ捨たり、年の暮本出来せしとて校合摺を文京持来り予見る所、袋と叙文左の如く画組文談も紙数限り有とて曩に説く合法の筋を抜地名も略して草稿とは異なり、その上名を売るを厭ひて綺語堂作と書あたへしを、届もなく西沢一鳳と表にあらはし、西沢と書では書林納らずと云、劇場にすら名をのせぬに年頃の旧友たる文京にも似合ざる仕方と悔めども甲斐なし、原此駒沢は熊沢の事蹟を書もふけしもの故常の戯雄とは同じからず、夫を文京弁へず婦女子に歓せんとて心浮たる当世男と見しか、螢狩の船中にて娘深雪と琴三絃を合奏せし様に書たり、柳里恭〔柳沢淇園〕などの人と思はる其余画組等も予が心に落ず、詠めて腹を立んよりはと再び見ず、文京も利欲にふける書肆と言合せ我虚名を売しを気の毒とや思ひけん、久しく来らず、因て朝顔の唱歌にもとづき恨みを言ひ送る
■*01
露も見ぬ間に朝顔をほらす書屋のつれなきに哀れ一枚宛なりと花笠の見せかし
此外に述懐の狂詠一首
色々に作りし物をるり色の野ら朝顔となせし花笠
かく書送り以後は人の勧め有ともうかつに筆はとるまじと思ひ捨ぬ
此朝顔の物語は芝叟が夜話の中なるを柳浪採て小説に培て世に流布する事尚し、京摂にはいち早く狂言に其蔓を伝せて異種の朝顔と共にもてはやせしも廿年余の昔と成にけり、吾友浪華の西沢家産とすなる劇書の種を多く齎し来て猿若の地に蒔んとするを聞て書賈稗史の鉢植にせんとて校合を予に求む、原來詞華言葉の繁き上に加之に合法の復讐なれば彼を摘是を省きて只幹すぢを助て栄枯全うせんとすれ共、兎園の狭き争でもらす事を得ん、所謂小風呂敷に夜具を包に異らず、小を以て大を覆んとするは愚の極なり、苗を日陰に植たるは花も亦頗る遅かるべし
弘化五戊申春新鐫 花笠文京
孝貞忠信比四季花籠
時は応永年中江州多賀の両執権駒沢主膳瀬左衛門が諌言耳に
界杭爰での立場の太平次がお米を乗て孫七の小室節
春はやり梅 早枝大学之助
夏はさつき 高橋弥十郎
秋はその菊 多賀采女之助
冬はみゆき 宮城阿曽次郎
復讐双 合法栄 絵入稗史 蕣物語 全部八巻
あら不思議行衛慕て大井川と心を瞽女の筑紫琴
頃も秋月石山の妻子は宇治の蛍狩闇に礫の岩代瀧太がたくみも忽
秀逸の吟に寄る 越川の村境に 鷹野の狼籍
盛りは憎し迎ひ駕 武射の陣屋に 意恨の欺討
第二の吟に寄る 宇治の川辺に 赤縄の蛍狩
その日〳〵の花の出来 篠原の水門に 闇夜の曲者
第三の吟に寄る 八橋の泉水に 杜若の文使
うがひ茶碗に鐘の音 多賀の屋形に 発心の門出
第四の吟に寄る 薮原の峠道に 旅路の艱難
地にさく事の覚束な 楢井の建場に 名代の返計
第五の吟に寄る 石山の別業に 夢路の私語
扇のほねを垣根かな 鳥羽の湊戸に 暴風の別路
第六の吟に寄る 大磯の柳巷に 情死の仇討
紺にそめてもよは〳〵し 花形の青楼に 追善の灯籠
第七の吟に寄る 駿府の宿屋に 妻琴の憂話
釣瓶とられて貰ひ水 島田の河原に 主従の再会
巻頭の吟に寄る 鏡山の下舘に 本復の祝着
露や朝々賑しき 柏原の辻堂に 開眼の復讐
右嘉永改元申年秋狂言に出せしに朝顔珍らしく合法のかた出来能ても見古したればと茶屋場総一座■*13の揃〔太夫元家橘の紋〕にして綺麗也、是を見て亦例の狂詠をはく
市むらの芝居に作る朝顔に 盛りりあらそふ黄葉[木場]とうづ川[家橘]
■*13
同 けいせい佐野の舟橋
同 けいせい青陽鷦
同 大和国井手下■*14
同 敵討千手護助釼
同 忠臣二葉蔵
同 契情正月陣立
同 長崎九山細見図
同 契情廓源氏
同 けいせい北国曙
同 近江源氏■*15講釈
同 扇矢数四十七本
同 契情遊山桜
| 大関 けいせい天羽衣
関脇 三十石艠始
小結 傾城忍術池
前頭 秋葉権現廻船話
前頭 日本花赤城塩竈
前頭 和訓水滸伝
前頭 契情陸玉川
前頭 桑名屋徳蔵入船噺
前頭 けいせい楊柳桜
前頭 旧磯花大樹
| 大
新
板
浪
華
当歌
狂舞
言妓
外
題
見
立
觔
| 大関 伊賀越乗掛合羽
関脇 金門五山桐
小結 けいせい黄金鱐
前頭 競伊勢物語
前頭 九州釣鐘岬
前頭 伽羅先代萩
前頭 天満宮菜種御供
前頭 四天王寺伽藍鑑
前頭 傾城倭荘子
前頭 けいせい筥伝授
| 同 けいせい会稽山
同 姉妹達大礎
同 柵自来也談
同 義臣伝読切講釈
同 いろは歌誉桜花
同 天竺徳兵衛聞書往来
同 けいせい素袍■*16
同 遠州中山染
同 加々見山廓写本
同 日本第一和布苅神事
同 敵討安栄録
同 清水清玄六道巡
|
■*14
■*15
■*16
同 ひらかな枕言葉
同 響灘入舟噺
同 大坂神事揃
同 都清水夜開帳
同 侠競廓日記
同 下総国累説
同 北条五代記会説
同 石川五右衛門一代噺
同 中山寺利生物語
同 九州かるかや関
同 世話料理鱸庖丁
同 伝聞むげんのかね
同 後栄初音調
同 本朝龍門瀧
同 丹波国助太郎舘
同 稲光田毎月
同 当世奇族撰
同 万年艸妹脊褥袖
同 比翼鳥辺山
同 荒事江戸絵曽我
同 けいせい出口柳
| 同 銀閣寺釿始
同 三千世界商往來
同 桃柳鄙島原
同 松平嘉平治連歌評判
同 井出玉川正平織
同 赤坂城皐月合戦
同 防州苗討松
同 敵討兄弟標
同 花艠淀川語
同 仮名写安土間答
同 極彩色倭絵艸紙
同 敵討丹波噂
同 雪国嫁咸谷
同 媚風俗文選
同 名作切籠曙
同 褄重勘助縞
|
同 浅草霊験記
同 伊勢音頭恋寐刃
同 吉原細見図
同 鐘鳴合朝噂
同 文月恨切子
同 猿曳門出諷
同 小室諷道中双六
同 挙褌廓大通
同 けいせい花大湊
同 掉歌木津川八景
同 けいせい花山崎
同 恋桜清水詣
同 契情飛馬始
同 けいせい美鳥林
| 行
司
大笹
手瀬
連連
中中
--
頭
取
近辰
松岡
徳万
三作
--
勧
進
元
塩大
屋坂
九太
郎左
右衛
衛門
門 | 同 紅楓松葉話
同 連歌茶屋誉文台
同 東山殿婦狩
同 五大力恋緘
同 藍桔梗鴈金五紋
同 心中のべの書置
同 色競続箭蔵
同 置土産今織上布
同 艶競石川染
同 三組誉景清
同 けいせい挾妻櫛
同 双紋廓錦絵
同 霧太郎天狗酒醼
同 浜砂伝石川
| 同 奈良都大仏供養
同 伊勢日向の物語
同 泰平いろは行列
同 竹箆太郎怪談記
同 目出度かしく傾城始
同 傾城咬𠺕吧文字
同 契情高砂松
同 けいせい花発船
同 同計略花吉野山
同 入間詞大名賢儀
同 もゝちどリ鳴戸白浪
同 伊達姿萩燕都裙
同 露蝶廓名月
同 けいせい斎佳節
同 粧倭画曽我
同 東訛恋深川
| 同 けいせい蕗島台
同 美濃庄九郎廓軍配
同 東海道恋の関札
同 南詠恋抄書
同 植木や文蔵遊里恋風
同 けいせい千貫樋
同 二月堂曉鐘
同 今織台貫島
同 □来会顔見せ
同 足利御覧歌舞妓事始
同 八文字屋真鳥実記
同 金花山雪踏
同 惟喬親王魔術符
同 けいせい都富士
同 八重霞廓の写本
同 恋すまふ身受請入札
同 天下一鏡のはじめ
同 男作咲分桜
同 嶋重けいせい桜
同 けいせい播磨廻リ
同 今織ゑぞにしき |
右歌舞妓当狂言外題見立角力大番付は曩に豊竹・竹本を東西にわけ当浄瑠璃の外題角力の番付出けり、竹本座大関国姓爺合戦、豊竹座大関北条時頼記、夫に倣て出しは文化四五年の頃なり、是にもれたる外題数多あり枚挙すべからず、順は作の佳否に拘らず大入大繁昌せしを上段とせしものなり、下段細字の所にも佳作なきにしもあらず、当狂言の分此前編拾遺に解もらせしは此編に註すべし、狂言の世界多き中にも仮名手本忠臣蔵は種々の壻補有て評註甚多し、予是を輯録して別に忠臣蔵類聚大成と題して四十余巻伝奇の系図作者の評論とも都合五十巻に著すべし、好者是を見て悟したまへ
昔文禄の頃小野摂津守息女優に艶敷氏を継て小野が跡を追ひしかば六義の詠も大内に耻かしからで鄙人にはたぐゐもなかりけるを国ならびの龍造寺の家臣瀬川釆女正といふ好者見ぬ恋にあこがれ千束の【文カ】通はせ星霜をかさねしかばしたふになびく習ひ終に両親にしらせて迎へとりけり其二月ばかりに高麗の陣触有て龍造寺も其催に釆女も朝鮮の軍旅にとどまり一年も便あらざるを妻の菊女〔一説には園菊〕閨淋しきに堪兼て思ひの余りを一封の水茎に黒ませて渡海の便に頼つかはしけるに其船灘の風に破れ船の中の品々悉く行衛なく成しに彼文箱一つ名護屋の浦にあがりて浦人とり伝へて上聞に達す豊臣秀吉公其文を読せ御聴あるに心まめやかに夫を思ふ情ふかゝりければ憐み給ひて龍造寺に命じて釆女を朝鮮より呼帰らしめ給ふと太閤記に見えたり錦に文字をあらはして恋の心ざしを万里に通はせ卒都婆に歌を彫て汐路に孝道を伝へし同日の話なり菊女が文高麗へ行たらば釆女が帰国は有べからず波にゆられて浦人の手にわたり上聞に達せしは貞心天に通じ鬼神も感ずる所なるべし初代若女形瀬川菊之丞の名は釆女夫婦が貞操に習ひ然呼といふ事人口に膾炙するゆゑ爰に出す因に俳諧を其頃美濃風の祖獅子庵支考に学ぶ〔芭蕉翁の高弟東花坊西花坊と云〕支考菊之丞に一字を免して路考と呼けりかゝれば元祖中山文七は〔中山新九郎躮後黒谷浄光と云〕かの元禄に名高き忠臣大石の義に倣ひて由男と呼し物ならん此弟子に中山文五郎〔始中山小三郎一名やんまと云〕道外役者なれば俳名を美男と付たり名をきくさへおかしくてよし又初代芳沢あやめは俳名を春水と云春水四沢に満るより呼なるべし郭公啼や五尺の菖蒲草と芭蕉翁の詠しも此あやめの事にて其頃の評判記に三ケ津総芸頭とあり此躮芳沢崎之助親の名を継二代目あやめとなる俳名を一鳳と云此弟中村新五郎の養子となり中村富十郎〔是又後三ケ津総芸頭〕俳名を慶子と云此兄弟英一蝶の画を学んで墨跡今に残れり爰に笑話あり文政中長崎の雅友長岡梅子方より予に軸物一幅を送らる柳に燕の画に由男の讃有画は親父か祖父なるべし不思議と彼地にて見出せし故呈上すとの書状添たり予一軸を開かぬうちより思へらく父は戯場にのみ遊び書画を弄ばず祖父は享保に歿したれば由男の讃には年暦あはずとあやしみ乍ら軸物を開き見れば英ふうにて一鳳あやめの画也由男の詩に柳に燕の二字を書ず則画にて利せたる合作の書画なり宝暦明和の頃の筆にして数百里隔てし崎陽より予が父の筆ならんと雅友梅子より送られしも奇なりとて表装を更時々床にかけて楽めり昔の俳優家の俳名に師より譲り受しは格別多くは我身を卑下して呼しものなり所謂栢莚とあるを畸なると卑下して白猿となる里環の躮李冠と書しを後璃寛とは替ずともの事なり芝翫も役者にはよき名なるに弟子に譲りて後梅玉と改浪花の玉とは自賞なるべし其余近来の俳名は熟字もせでいと狼籍なる俳名あり笑ふに堪たり
中山文七〔由男浄光〕は天明二壬寅年秋角の芝居にて一世一代とて物艸太郎切に蘭平物狂ひをし後に博多織の小平次切は紅葉一世寿に平惟茂役をし九月九日より霜月四日迄興行大入大繁昌せしとぞ此時弟中山来助〔初代中山新九郎躮松屋舎柳と云〕父の名を継二代目新九郎となり門弟中山猪八京都にて改二代目中山来助となる〔是後完成八辰年二代目中山文七鬚付や〕一世一代に付風流連管三番叟は皆門弟より出る翁中山咲蔵三番叟〔中山他蔵二代目新九郎死てより俳名舎柳中山楯蔵浜芝居立物也後泉川と改〕笛中山太四郎〔後浅尾と改又工左衛門と成〕小皷中山新七〔後三代目新九郎喜楽也一蝶の父〕同中山栄蔵同中山小三郎〔後文五郎美男の事〕笛中山金七太皷中山友九郎〔後百村と改〕目出度打納また京都にて興行して直に剃髪して浄光と呼び墨の衣に着替て東山新黒谷の茶処に籠り念仏の信者となつて再び舞台を踏ず信心堅固の大道心也爰に中興片岡仁左衛門〔七代目南麗舎〕我童は始浅尾国五郎とて為十郎の弟子也師の不興を受山沢国五郎と暫し名をかへ居たりしを叶雛助〔小六玉を云〕我弟子にほしく為十郎の許をつくろひ片岡といふ名字は先祖中村十蔵〔俳名虎看〕より因ある名にて吉右衛門〔虎看改名〕片岡又十蔵〔小珉獅十蔵と云〕と伝て六代目に及ぶ則七代目片岡仁左衛門と改名させて我弟乎としたり〔此紋銀杏〕奥山の弟子なるゆゑ紋は〔丸に二ツ引き〕を付たり俳名我童と云て元色敵より後立役となり実悪となりたり敵役をする時は奥山の流をし立役女形実悪は小六を写せり天明八年改名して寛政の中頃京都の芝居にて倭仮名在原景図の蘭平を好まれ我も兼て仕て見たき心あれば一日黒谷へ詣て浄光の庵室に尋ね茶菓子の見舞を送り浮世咄より言よりて蘭平の事を問ふに浄光も好の道なれば爰が仕どころ又此間がむつかしとて居ながらにして所作を教ふるに誠に古今に通ずる名人の教ふる所なれば一二応にては会とく仕難き処あり我童浄光に一礼をのべ甚申兼たる事なれど双林寺中に閑静なる座敷をかり受あればあの方へ一日御出あつて御伝授はなるまじくやと頼みに浄光一義もなく今は浮世に交らぬ身なれど元より覚えし好の道嘸や芝居からは急べし明日未明より参るべしと心易くいはれし嬉しさ然らば翌日と所を言置我童は返つて座敷しつらい浄光の来るを待に程なく浄光訪ね見え坊主あたまに手拭を冠り物狂ひの始より咲た桜になぜ駒つなぐ又浮世〳〵しん気な顔うかせ浮たる物に取てはのふかよりお草履掴んで尻ふるべいの終り迄仕て見する事数十遍身うちの汗をぬぐひつゝいと懇ろに教へけり我童は見入りて感に絶精進物の饗膳も浄光はそこ〳〵に取らせせりふの言様身の取なり委しく教て返りしが跡にて我童所々をさらゆるに浄光のする所言外余情の妙ありて中々心に覚えられず途方に暮る其内に早芝居には看板出初日はいつとせつかるゝ浄光法師をさう度々は迎はれず詮方尽て一両人の芸子を呼び夫とはなしに相談しければ芸子の中より山ねこの誰々は〔下河原舞子也〕蘭平の役を得たるゆゑ円山或は霊山にて毎度勤しを見しと云我童それこそ呼に心易しとかの山ねこを呼よせて芸子の地にて踊らせ見るに女のふりゆゑ端手あり色ありきつかけ有て覚えよく並んで振りを習ふ所一夜にして習得たり浄光に教を受ては心改つて遠慮の気味あり舞子は後の名聞あればよろこんで教ふるなれば花を買ふて祝義ですむと高をくゝつて侮る気味あり心あらたまらねばくつろぎありて覚易しされど浄光のおしへし処々覚へし所は是を交やがて初日も出て相応に評もよかりしとぞ黒谷へは反物を送り其日の礼を言やりしを其又礼をのべんとて四五日程経て来りしゆゑ幸ひ唯今蘭平の場池見物有て批判を乞ふと桟敷を明て迎へければ浄光は衣のまゝ頭巾冠つて見物し幕しまつて宿へかへる我童返つて浄光に逢ひ御影で此役勤めしと一礼に及びし時浄光は当りをほめ扨我等が勤し頃より年数立ば流行もかはるべし我等教へし所は所々に見ゆれど一体が女のふりになつたるはいぶかしゝ小手の利し取廻りは当時流行の所なるべし此蘭平の役程仕難き役はあるべからず本名は伴の義雄にて行平を父の仇と心得復讐の為に下郎と容【略[やつ]しカ】刃物を見れば狂乱すとは肌ゆるさせん謀事也然れば器用には踊れぬ役なり又拵事なれど付しは女の死霊也彼是と工夫を付度々勤て試み此頃我等がして見せしは手誉か知らねど頗得意を得し所也今日見物せし所を評せば舞子山ねこのふりに似て狂言には遙に遠しと名人の眼に見すかされ我童満面に汗を流し浄光尊師のせらるゝ所誠に絶妙にして覚えがたく覚ゆるとも仕難き所有依之山根子何某に習ひて漸当座を凌げり実に恥べき所也と始終を懺悔しければ浄光も打点き夫にて様子わかりしとて所々を口伝して黒谷へ帰られしと其頃の物語を歿前楽屋にて予に咄せり以前下手岡などゝ誣たれども古き役者は名人上手の狂言を見古人の教へを受たれば今時の役者と一口の論には及びがたし
蒼頡鷄の足形を見て文字を作る、後世虚言を云者多からんと鬼神哭せしと云、又文字を教へたる鶏今飛来らば一字も読む事あたはずと啼べし、豈筆道に限るべからず、浄瑠璃歌舞妓の文談にも作者の始て書置たると、後世語り勤る者了簡ぐわらりと違ひ、若し古の作者当時の狂言を見たらんには、我書し時とは心違ひ、今更云とて癖は治らず眉を顰めて迯去るべし、蘭奢待新田景図は近松半二の作にて能操歌舞妓共に時々出て名誉の当狂言也、然れどもいつも三の口切のみにて、五段続にて興行せしは文化元子年の秋中の芝居にて義貞市蔵〔後鰕十郎〕、幸内団蔵、助市三五郎〔二代来芝〕、女房路考、四の切彦七団蔵、楠後家路考〔仙女〕、がま六大友可兵衛三五郎也、助市・可兵衛の二役は来芝得意の役にて度々出せり、予来芝のせしは見ず、文政二卯年中の座にて黄金鱐・関取二代鑑当りを取日数長く興行せしゆゑ、後に蘭奢待三の口切を添たり、新田に片岡、幸内に工左衛門、誠の内侍に歌六、助市に嵐吉、女房に小六也、何れも老練の輩のみゆゑ見物するに飽ず、此時璃寛病気に付三四日計助市役の替りを三桝他人〔当時の大五郎也〕勤て評よかりけり、夫より以来是程揃ひし蘭奢待を見ず、爰に予が父の友に平野町一丁目末広師鶴卯といふ男有けり、原堀江九平〔小六玉贔屓丸や平兵衛〕の幇間にて戯場遊里評を触歩くを楽みとする老人なりしが、古き事を聞には勝手よき故、予も親しく交り、或日蘭奢待の話に及び、中興来芝が毎度するを見ねども、璃寛のする所より仕所あるやと問ふに、鶴卯〔端唄扇尽の作者也千代の舞鶴うつしゑと有〕頭をふつて来芝の得たるは庄屋可兵衛田舎座頭をよく踊るゆゑ也、助市のあしきは凡来芝にとゞまるべし、先助市の役は戦国の砌りなれば親幸内を宮方とも知らず足利尊氏に仕へて妻鹿孫三郎と名乗り、軍慮の為に造病臆病者となり親の勘当をゆるされんとの心也、幼少にて家出せし兄は小山田太郎とて新田義貞に仕へ、主にかはつて討死をしたり、義貞は幸内の躮也とて勾当の内侍諸共に容を略[やつ]し是も勘気の侘に入りこむ、小山田の女房を勾當の内侍と名乗らせ、幸内の家にかくまはれり、助市の臆病を父の幸内罵つて止ず、女房およね聞兼て自害をし夫をはげます、傍に内侍は介抱する嫁に苦しみさせんより早く首討苦痛を助けよと幸内の差図に、こは〳〵刀を引抜て此身に代つて死たる女房嚊とは思はぬ、南無嚊大明神今が最期と振上し刀の蓍[めど]それて内侍の首打とり血刀提て門に飛出、それ伝へ聞く漢の沛公は座する所に紫の運気たなびきとせりふいひ終つて橋懸りへ駈込む、此内幸内夫婦嫁およね余りの事にあきれ果、妻鹿孫三郎と名乗りしより、扨は躮は尊氏に味方せしか、そんなら夫とは敵方かと嫁是にて事きれる、是本文を来芝は小才覚にて直し嫁の苦痛を助けよと、聞くより刀を抜て立上り、それつたへきくとせりふの終りに内侍の首討駈こめり、常々臆病の馬鹿者が唐倭のひきことをいふ隙に、幸内も心付き内侍を傍には置べからず、詞と仕草はかはらねど唯一処の跡先になるより此狂言の魂相違せり、半二此世にあらはれ出て是を見ば、大声あげて泣なるべしと鶴卯は評せり、故に浄瑠璃は木偶にかけて文を演る、歌舞妓は文を次にして我仕勝手の能を先にす、古来在来りの浄瑠璃を、我一人の才覚にて猥に前後のすべからず、一人の思入より狂言の惣崩れとなれば慎しむべき事也、去々未年の秋江戸河原崎座にて大塔宮旭鎧の二の切へ蘭奢待の三をきりはめ、助市の本名を宇都宮公綱に直し錦升〔今の松本幸四郎〕、新田義貞を楠正成にして翫雀、脇浜幸内を徳太夫に呼かへ大友〔始万作〕、楠昔噺の三の切に混じたれど狂言浮きてさせる見処もなかりけり
秋里籬島は五条橋下融の大臣が塩竈の旧跡籬島に住居せしゆゑしか呼ぶとぞ、常に人と雑談の時にも麁墨麁紙を持出て聞ごとに是をひかへ、譬へ小児婦女子の咄しにもせよ耳新らしき事は問ひたゞし記さずといふ事なしとぞ、天明中貧窮の内にふと都名所図会六巻を撰出して竹原春朝斎に画を乞ひしに、春朝下画をかきて与へり、籬島書林何某へ持行てちりばめ出板させんと勧るに、書林是をよろこばず、原より『山城名跡誌』・『京羽二重』・『同織留』京の水貝原氏の都廻り等有て山水美景は朝夕に見て飽たれば、此書出板するとも行なはれまじとて彫刻の心なかりしを、籬島の曰、足下こそ洛陽長安に住み寺院社祠名所の奇観は珍らしからねど、遠国他邦の人此書を見ば愛で求る者多かるべしと、一派の宗門を弘る如く達て発行を勧るに、書林も渋々受引て筆工彫刻にかゝりけり、画は春朝に浄書させ籬島は校合にかゝり、作料漸貳参円金也、長く著述に苦心をして数多の書籍を引書せし甲斐もなけねど、此書世上に弘まりなば望は足りぬと思ひ捨しに全部六巻出板して売る事夥しく、僅の内に数千部摺出し書林は暫しに大利を得たり、其上此平安城に名所旧跡いと多し、是に漏れたるを拾ふて出せよと、買手の方より催促により、こたびは籬島に誂らへければ、秋里も面目にて作料何程と極し上引書のむきは書林より運びだし、なき書物は穿鑿しても籬島に渡せり、都の拾遺成ると早次は大和より五畿内を揃へ、六十余部も彫んと云、籬島は余事を打捨て画工竹原と筆者をつれ、筆墨紙と眼鏡を数葉〔山水の絶景堂社をうつし取る画工の具也〕僕に持たせ、着類調度を荷はせる剛力諸共以上五人、けふ旅立ていつ帰ると云日数もいとはず、大和路さして見物に、路用雑費は書林より続送れば不自由もなくいともたのしき旅立なり、行先々にも都名所の噂高く、埋れし旧地の世に出る事故、大地の寺院は坊に宿り大社は社司を宿として、縁起宝物は文庫をひらいて取出して見せ、寺社のひらけし年号はもとより、社務開基の伝来まで残る方なく写すうち色々との饗応にあへり、雨中は宿にとゞまりて著述にかゝり、竹原は画の清書して、天気快晴の日は画図に合せ国ざかひより界まで縦横に廻りて残る所なく書取る、時には一度帰国し引書をあさりて成就すれば、河内・和泉・津の国と経歴草稿成れば浄書にかゝり、彫刻成れば校合し、五畿内都合四十巻、此余伊勢参宮・東海道・岐蘇街道・都林泉等の数編を著し、其間々に法橋中和に画を書せ、『源平盛衰記』・『保元平治』・『前太平記』・『年代記』・年中行事まで画抄を著し、生涯安楽に過られしとぞ、其後秋里の名所に倣ひ廿四拝順拝図会、播州廻り、紀伊の国、阿波、近江、尾張など出板したれど撰者は籬島、画は春朝に限るべし、此両人は名所図会を世に著さん為生れしなるべし、近来江戸名所図会出板せり、原菊岡沽涼が『江戸砂子』を題として長谷川氏の画を交へ斎藤氏の編輯なり、夫すら作者三世を経てやうやく満尾せりと聞、寺島良安が輯録せし『和漢三才図会』も三世を経て漸成れりと聞けばかたき哉、著述の道其書々々の世に出るも人と時節の廻り合ふなるべし
東都にて狂歌流行せしは天明年中より文化の始頃迄也、其人々には四方赤良・鹿津部真顔・唐衣橘洲・平秩東作・朱楽菅江・つむりの光・銭屋金持・芍薬亭長根・六樹園飯盛・手柄岡持・問屋酒船・森羅万象・浅草草市人・三陀羅法師・金鶏入道・尚左堂俊満等連中を組て四方連と云、四方と云酒屋あつて菰包の印を太田南畝〔杏花園赤良寐惚蜀山人〕書れしより四方赤良と云、此人詩作に妙を得て皇都の銅脈〔珍芬舘など数号あり〕を二大家と賞て狂詩の贈答数多あり、四方の酒店の井より銅印一顆を汲上たり、則文字は巴山人との三字也、ゆゑ四方連の印に■*17是を押せり、自ら四方山人と書、詩の力を以て狂歌連に交はり尤書を能す、扇子など頼めばおしまず書れ、其詩崎陽の来泊人大清に持返り、日本の書を愛する輩見て、詩は李白の風ありて日本にもかゝる人ありやと賞、四方山人の文字を読兼て蜀の字ならんと推量し、当時大清の詩人に是程出来る者は珍らし、日本の蜀山人は詩と書を善すと賞越したり、赤良是を聞て我名の異国まで聞へしをよろこびて、其後蜀山人と呼かへ四方連を鹿津部真顔に譲る、四方の真顔〔狂歌堂歌垣と云〕是也、巴山人の印を山東京伝に送る、京伝〔俗姓京屋伝助醒々斎の号有〕戯作を業として即■*18此印を用ゆ、爰に又十返舎一九は若かりし時より身持放蕩にて、昼夜吉原に通ひて遊廓の癡情を愛る故に女郎も浮気となり一九に馴染めば余の客落る、彼是の訳ありて大門口にて一九をとゞめ以後廓中へ這入まじとの証文を取り今猶大門口の会所にありと云、虚実わかち難けれど夜話に聞しまゝ爰にしるす、扨も一九は貧くて仕方なきまゝ京伝方へ行て食客となる、京伝小冊の草稿を出して一九にあたへ、夫を清書して書林にもち行小遣ともなすべしと云、一九是を浄書して早速書林に持行て僅の料を取つて帰れり、此書東海道羈旅の滑稽を書て神田八丁堀とちめんや弥次郎兵衛・喜多八が洒落膝栗毛初編一冊是也、其頃洒落本の小冊は風来山人〔福内鬼外平賀源内〕が六部の書の後、桜川慈悲成が落し噺より京伝・馬琴・三馬等の作のみにて旅の滑稽はなく、『傾城買二筋道』・『仕懸文庫』の類にして吉原・深川の癡情を書、或は『浮世床』・『浮世風呂』のうがちのみなれば、膝栗毛の評よくて売る事甚多し、書林は利を得て一九に誂ヘ二編三編と作させるゆゑ作料自ら高く、伊勢参宮にて帰路に及ぶを、猶京大坂迄出さんとて旅用を出して一九を登せ、帰府して八編の大坂に止る、帰路の木曽地はまだはやしと、金毘羅より宮島を誂らへる、一九浪華より西を知らねば、長崎紀行といへる老実の書をもて海陸の里数挿画は大約是より出し、滑稽洒落を書まじへ続膝栗毛とゝなへて、岐蘇道中を数編に出せり、初編より二・三編迄は趣向を惜しまぬがゆゑおかしみ多し、後々は能滑稽の筋ありとも次に〳〵と引延すがゆゑ、先触ばかり仰山にて読ども頤をはづす迄なくいとも本意なき事乍、滑稽を書し本に是程数編を重ねしはいと珍らし、僅三冊の小本を書て後作料は数十金を取れりと云、又書林より出すも妙也、始京伝の書すてをもらひてより一九の作名は膝栗毛より弘まる、其頃是に倣ひて偽作多く出たれ共膝栗毛の右に出る事あたはず、曩に云籬島が名所図会、十返舎が膝粟毛同じ日の物語なるべし、十返舎が墓碑は東都向ふ島長命寺に有り、前書あれども覚ず、「内損と腎虚を我は願ふ也、其百年を生延た上」とあり、又寛政のすえ霜月晦日名所図会に名を知られし竹原春朝斎身まかりしを悼て、深山樒おしわけひくかめいどづえと大江丸旧国の句あり、思ひ出せしまま爰にしるす、
■*17
■*18
先代萩は安永六丁酉四月中の戯場にて奈河亀助作にて始て成る、奥州秀衡跡目争論と角外題に置て世界を伊達友衡〔綱宗〕にして〔酒井〕梶原景時に歌右衛門、〔板倉〕秩父重忠に文七、〔原田〕常陸坊海尊為十郎、〔安芸〕伊達治郎秋衡来助、〔片倉〕泉小治郎親衡文七、〔朝岡〕乳母政岡来助、梶原奥方栄御前歌右衛門、〔松前〕松ケ技駒之助文七と皆悉く此世界にすえたり、谷地の争ひの場に小治郎親衡の妻と治郎秋衡の妻と夫々の事を云居り、夫治郎は気短ゆゑ伊達の治郎秋衡とはいはひで伊達秋〳〵と申舛とせりふ有、又大切対決に海尊負色になれば梶原引とり、「武さしのにありと聞なる迯水の迯隠れても世をすぐるかな」抔と古歌にて紛らす、重忠聞て景時殿は遖の歌人、そこで世上にては梶原殿は歌よみじや歌じや〳〵と誉まするとの詞も有、九段続にて誠に名誉の狂言也、翌七戌年京都にて竹本春太夫座にて此まゝ浄瑠璃に取立、御殿場迄院本出板せり、奈河亀肋は前編にとて伊賀越を極月二日より出して明る三月末迄打続て、此先代萩を四月始つかたより出して六月迄打たり、又世界を江州佐々木にして〔綱宗〕佐々木六角、〔原田〕才原勘解由、〔安芸〕秋塚帯刀、〔板倉〕岩倉主膳、〔酒井〕栄飛騨守、〔浅岡〕浅香(富十郎惣嫁場)、〔片倉〕片桐小十郎と名をもふけ、其後伊達姿萩燕都裾歌枕萩旧跡と外題を呼び新狂言成りても世界は大約陸玉川の世界人名を借し物也、東都にては世界を応仁記に借りて〔綱宗〕足利小金吾頼兼、〔原田〕仁木弾正、〔兵部〕大江鬼貫、〔安芸〕渡辺外記左衛門、〔酒井〕山名宗全、〔松前〕荒獅子男之助、〔板倉〕細川勝元として都室町問注所にて対決としたり、江戸浄瑠璃には伊達競阿国戯場と表題して累の解脱を取組たり、都て江戸にては残らず京にての狂言ゆゑ、高雄は九条の里の傾城とし、豆腐屋南禅寺前と云、三股川の下ゲ切を宇治川に准らへ、せりふに京を言て方角けしからぬ道筋也、九条の里より高雄丸の船に乗り宇治川へ行、帰路浪籍者に出合ひ南禅寺前豆腐屋へ頼兼を預くるなど也、其内に日本堤といふ、土手の道哲など有て心は江戸也、東都は前編に云如く狂言を見ぬ処なればさも有べし、文政四巳年中の芝居にて穐花先代名松本とて仁木弾正に松本幸四郎、渡辺外記左衛門に工左衛門、細川勝元に歌右衛門、此対決場は江戸仕組なれば応仁の世界也、跡先は佐々木六角もあり奥州秀衡の類葉もあり世界わからず、其後一日の仕組なく色々古狂言を弁へなき輩が寄物にする事なれば、御殿にては武将頼朝公より給はるお菓子毒とは何がお毒といひ、せり上と成り、花道へ出る鼠は仁木弾正也、荒獅子男之助に対して今川女之助と云有、其上へ松が枝敵之助出て対決は鎌倉の問注所にて山名・細川が裁断あり、足利頼兼が奥州五十四郡の主となり、京の高雄やら江戸の高雄やら是もわからず、此世界はよつてかゝつて真暗と成りたり、故人世界を定めて苦心せしも、かう仕崩してはため直らず浅猿し、近来角の芝居にて慶子五節句を一時にする、政岡を二の替りの大切に一場仕けり、予春に先代萩と呼ぶも不自由也とて先代萩の若葉と賦したり、番付に摺たる外題までに心を付て見る人は稀なるべけれど是も一癖なれば免さるべし、其後海老蔵中の芝居にて先代萩類聚をし塩沢丹三郎の場を脚色し事有り、江戸には此写本もあり講釈にても専ら読事也、是に半井通仙の医論〔伊賀越の前籏本騒動によむ〕を書入、弾正妹八汐に与六、典医大場道益に毒薬調合をさせ膳番塩沢丹三郎海老蔵に言含、家の納りなれば幼君にあたへよと言付帰つて、母宮城に文七、召使お陸に路之助、茶を煎て出す中へ蝿飛入て死したるより、母下女を呵り主人に毒な物を呑せて済かと異見のうち、丹三郎我身に思ひ当り、弾正には従来の恩義もあれど幼君を毒殺するは不忠なりと書置を残して、毒の入たる膳部をば合点にて我食し切腹して相果ると云場也、上田余斎子が作の『秋雨物語』に連歌師紹巴高野の玉川に毒有なしを弁ずる条を母の異見にいはせなどして潤色せしが、幸ひに其齣評よかり、跡先は世界混雑して片腹痛き事もいと多かりし
腰越状は宝暦四戌年の秋、並木永助の作にて五段続なりしを四の口切御差留になり、院本も三段目迄出させ奥は絶板と成りけり、予以前所持して読たる事あり、二の切目貫師後藤の内へ本田二郎近経頼朝方の軍師にせんと抱へに来る、五斗酒樽にもたれ熟酔して心付ず、五斗が先妻の子大三郎と云前髪の子をほめそやして養子にせんとて連帰る、是五斗を義経方へ味方せぬ様人質がはりに連て帰る也、女房関女は義理ある子の出世を悦び渡せし跡にて五斗に問はれて悔む事あり、是ゆゑ三の切覆水再び元へ復らずと大公望の故事を用ひ離縁を悔めど聞入なく、娘徳女の自害より関女も共に死んとするを五斗推とめ、今死する命を永らへ兄大三郎を取かへし来よと云付る、関女鉄砲をひろひ取、鎌倉武士は色好み筒と出かけて口薬のどの火ぶたの掛がねもはづ〳〵計の味みを見込みぼんといはする二つ玉やはか気遺ひ遊ばすなと出行が三の切也、是迄は本にもあり浄瑠璃にも語り歌舞妓にもして誰もよく知りたる事乍、大約三の口切のみにて二の切もしらぬ人多し、よく五斗が樽にもたれて寝たる看板あり、是二の切の容也、扨四の口鶴が岡八幡へ武将頼朝社参にて供は本田近経也、並木の松原に供人賑はしゝ、関女は鉄炮を懐中し大三郎に逢はんと旅の婆にて、鶴が岡社参と聞もし逢事もやと尋ねより供の奴に聞く所、奴共は関女を口説んと営中の事をさもよく知りたる様に云、然らば本田殿の身うちより大三郎といふ美少年は頼朝公の近習小姓を勤め居るかと問ふに、居ると云、連ていてあはせくれと云に、迷惑して頼朝公の御気にさはりとくお手討成りしと偽る、関女悲しんで義理ある我子を死しては立帰つても言訳なし、我子の敵は頼朝也とて懐鉄炮取出して還御の輿へどふと討、是則空輿にて本田近経曲者を吟味するに関女をつれて突出すゆゑ、近経見るより扨と思ひ関女に縄かけ、我預かり舘へかへるが四の口也、此場に察度の入りしなるべし、四の切本田の舘にて近経に独の娘有り、兼ては大三郎とめ合せ本田の跡目、母親が娘にいふてよろこばせ、けふ久久にて御前より大三郎をつれ帰ると、噂半へ主近経大三郎を連立出、大三郎に役付させる手始に、かの鉄炮をうちたる女の詮議をさせんと言付る、母も娘も共々に勇み進む所へ、今日の詮議の横目に梶原平次来つて、兼て娘に執心なれば、大三郎は若輩なれば此景高が詮議せんといつもの憎てい、近経女を引出せと差図にハツと近経懸り関女に縄かけ立出る、関女は始終白状せず、空輿と聞しより狂気と成りて夢現、大三郎は白状させんとしもとを取て庭に飛下り、女を見れば義理の母、関女も我子の無事な顔詠めて忽狂気も双方恟りしながらも、うかつになのれぬ親子の案じ、梶原は猶予をとがめ、近経は関女に向ひ、大三郎の問状には白状せすば成まひと、かせを掛たる手詰の場所、討ば不孝討ねば主君へ不忠となり当惑したるを近経は夫と悟つて、ヲヽそれよ今日は御先祖義朝公の御忌日なれば拷問は重ねてと、関女をば獄屋へ引かせ皆々引連入る跡に、大三郎は義理ある母何ゆゑ武将へ敵たいしぞ、預り人は今の親何れを何れと分兼て涙に暮る奥の間より、大三郎に暇を呉る着替調度の入たる葛籠持て都へ帰るべしと、葛籠を置て妼婢気の毒さうに入るあとへ、梶原出てせゝら笑ひ悪口云て立帰る、大三郎は合点ゆかず葛籠ひらけば中には関女、絶て久しき対面に我子の敵と思ひ詰鉄炮うちしと身の懺悔、親子手に手を取合ふて歎きの内に奥より人音、関女をもとの葛籠へ入れ涙を拭ふ其所へ、近経夫婦娘も立出、其葛籠を負ふて都へ帰り、改めて東へ下らば、其時こそはもとの親子、此娘とも夫婦ぞと恩と情にからまれて、父とはたとへ敵方なりとも頼朝公の御味方、再帰り来る迄は暫しの暇と泣々も葛籠背負ふて近経にわかれ出るが段切也、四の切させる見所なけれど全く口の鉄炮より御差留とは成たる也、是ゆゑ本も三迄出全本甚稀なるもの也、今娘景清の四の巻に三の口切を綴入れあり、尤世界は源平なれども〔真田〕和泉の三郎、〔後藤〕五斗兵衛を書たる物を景清と混ずる時は意合ず、関女は何国へ行やらん覚束なき狂言とは成けり、是も世に出ぬ時節なるべし
大坂道頓堀太左衛門橋北詰岩井風呂と云女郎屋有、主の名利兵衛と呼、抱への白人四五人有中に富と云るおし立容貌よく相応に花数売つて此家の立者なりしが、爰に佐助と云者有、是は岩井風呂女房の為には甥にて泉州堺の者なりしが、若気の至り身もちあしく親一門に見限られ身を寄る方もなかりしを、此利兵衛男気の者なれば佐助にとくと異見を加へしかば、佐助も寄る方なき難儀の身なれば、以後は心を入替嗜み可申よし申により、然らば我家へ来られよと呼寄召遣ひ同前にして匿ひ置けるが、始の程は諸事精出してよかりしに、燃杭に火の習ひいつとなく邪魔にさへならずばと見遁して、末々は妻合せもすべしと了簡付れば、色情の習ひ終には我を忘れ、口説の言上りに門中にて敲き合、大声上て互ひに言ひ争ひける事度々なれば、聞人終に言ひ広めて里中取々の沙汰と成れり、是に依て富に馴染の客は皆々落ければ、利兵衛夫婦大に困り内々にて意見すれど、中々聞入ざる体ゆゑ持余し、所詮此侭おかばいかなる事や仕出さんと、先佐助を堺へ戻しけれ共、佐肋は中々堺に立寄るべき方なければ、其侭道頓堀辺に立帰り爰彼所に立寄居て、何卒富に出合ていかにもせんと髪結の手間取抔して日を送り居ける、扨また富には段々異見を加へければ、合点して始終は詰らぬ事と思ひ廻し止る心も出来しとぞ、然し世上の評判高くその上佐助が付廻す様子聞えければ、迚も客はなく、又いかなる事を仕出さんも覚束なく、此上は何れへなりと仕代にやらんと相談最中なりしが、佐助は立寄方もなきゆゑいきどほり居けるうへ、佐助に思ひ切せんため今は富も心を改めもはや佐助が事は思ひ切しと手を廻しいはせければ、佐助いよ〳〵いきどほり何卒して富に出合諸共に死んと思ひ定めけれども、岩井風呂には此事を恐れて最早京都へ登せしとて奥深く隠し置、常の人にも逢さゞりしゆゑ、徒に日を送りけれ共、富はまだ何方へも仕代られず隠しある様子をしり、佐助は出刃庖丁を手拭に包み隠し持、頃は明和五子年八月廿二日暮方過に岩井風呂へ来りければ、利兵衛女房台所に居ける故佐助庭に手をつかへ、私自分此家へ参るべき筈は無御座候へども、今にては頓と致方無之候ゆゑ、今晩より京都へ登り申候、夫に付恥かしき事に候得共、何卒富に一寸逢度御情に御逢し下さるべしと願ひけるに、女房大に立腹して、夫利兵衛には我に縁ある其方故義理を立たちよる方もなき身を世話して呼よせ置れしに、恩を仇なる不始末、奉公人に悪名を付、終には内には置れぬ様に成しは皆其方故、夫にまだ富に逢せ呉などゝはどの頰下て来りしと散々に詈りけれども、只御尤申べき詞も無御座候へ共御情に富に逢せ下されとひたすら手をつかへ申ければ、主利兵衛奥より立出女房を奥へやり佐助に云様、何程我が富に逢たうても富は京へ登し爰には居ぬ、早う帰れといひけれども、いや左様仰られても富はまだこなたにおります、どうぞ逢して下さりませと申ける時、八方の燈し火ほの暗くなりしゆゑ、佐助は顔を隠さん為八方の下につくばひ居たり、利兵衛は佐助をねめつけ声あらゝげ、此方には居ぬといふに無体の言ぶん、逢せたうても居ぬわいやいと云つゝ立て八方の灯を掻立る所を、下より佐助隠し持たる出刃を持て、逢す事がならずんばかうじやと云様胸板へ深く突込しかば、利兵衛たまらず其侭に倒れける、内に居合す廻しの弥助といふ者是はと飛つく所を同じく突れて倒れふす、時に武兵衛といふ出入の男表より来かゝりて此体を見て、佐助が後より抱とめるを後さまに突ければ、同じく胸をしたゝかにつかれ息絶たり、其間に利兵衛起上り庭へ飛おりとらへんとせしに、佐助は早くも表へ走り出、彼出刃を我咽へ突込けれども、三人に手を負せ心転動して、咽の所々は疵だらけに成て大道をのたくり廻りて苦しみけり、其内辺り近所より立寄、その騒動いはん方なし、扨御検使も相済、佐助はその夜の暁方に死し、利兵衛・武兵衛にも手疵養生療治しけれど叶はずして利兵衛は翌日死し、二人も養生叶はず死しにける、芝居にて直に取組しは前編並木正三が伝に委しければ爰に略す、宿無団七時雨傘と外題して今嘉永己酉年迄八十有二年になれど廃らず出て興行の度評よき狂言也、さまで見所もなけれど、所謂素人好のよきと思はる世界は、夏祭の団七、堺の者なるゆゑ佐助を団七茂兵衛とし、利兵衛を治助、弥助を久七、武兵衛を佐兵衛と呼かへ八月末より始し狂言なれど、今に帷子単物にてする狂言を時雨の傘はいかゞして賦しかいといぶかし、今浄瑠璃にも愛想尽しの内を語れども卑陋にして聴れず、予弘化四年未の春東都へ行たる跡、京都にて此狂言を出し、並木正三の役を西沢一鳳として国太郎・三五郎狂言の筋を相談に来る所、市川高麗蔵・中村梅花直々の役にて来る、成田屋一鳳身ぶり声色にてせしよし番付東都へ送らる、是らも一時の戯れなり〔此番付の写し略す〕
扨又富はその明る月九月になりて京都へ仕代られ登りける、則内野新地五番町亀長と云茶屋に来り勤しに、何が評判ある女郎ゆゑおし立もよければ、日々の箒客絶る間なく二ケ月程は全盛なりしが、此界の習ひ翠帳紅閨に枕並べし妹脊もいつの間にかは隔つらんと、例の箒客も掃仕舞、馴染の客もそれ〴〵に出来たれ共、縁の切めは銭のきれめ繁々通ふ跡は詰らぬだらけにて、馴染の客の足が止ればまた出来、又預らるゝなど兎や角して女郎は借銭拵へ客に無心いふて渡るが大体常也、夫が中に蛭子屋某店の手代、彼富に深く通ひしがある時富いふは、其許様繁々御通ひ下されかく馴染に相成嬉しく存候へば、私命はそなた様へ差上居候、何卒一所に死んで下されずやと云に、かの手代商売柄とて誰にもかくはいふぞとそこ〳〵にあしらひ其夜は帰り、又一両日過て呼向へしに初の如く一所に死たい死でくれぬか兎角死たひ〳〵と実心に云顔何となく物凄く、色々欺して宿にかへりしが、余り恐しさに其後は頓と通はざりける、か様に死神の付しもかれゆゑ非業に死せし四人の恨ならんか、扨も初冬も過霜月頃になりしかば初入込の時に引かへひつしと淋しく成ぬ、爰に一条千本西に帯屋喜七といふ有て、頃は霜月上旬の事なりしが町内に振舞事有て他に参会す、終日飲酒にもてなされ夜に入て帰るさ、酒機嫌の若輩同志五番町へ立寄り銘々女郎を呼迎へける、是因果の始り也、かの富を呼むかへし喜七は卅歳に満ざる美男なれば、富殊の外悦び真実を尽してもてなしける、既に友達は打連帰らんと云に是非なく別れ帰りしかども、富が実心忘れ難く、翌日又彼処に行て富を呼迎へければ昨日より猶又面白く可愛がり、近所の事なれば日々夜々に通ひ詰たり、尤喜七に老母又妻子あれども打捨かく膠漆の中となれば、朝毎に富風呂屋へ行も時刻を合せ置一所に入などその余は推して知るべし、然れども銭財限りあり、その上喜七内証もとより豊なるにもあらざれば、今は諺の銭の切目と成りしかば、富は様々工面して馴染の客はいふに及ばず一見客に迄無心を言ひ、我あたまの挿物迄皆質物に入成だけ借銭拵、明る年二月迄介抱して続けれども、男も女郎も義理の借銭だらけに成り、今は死より外あらじと互ひに心を定めて、郡が淵へ身を投相対死をぞしたりける、爰に奇なるは、其夜喜七・富かの淵に走り付富の帯を半引明綿をぬき両端へ石を拾ひ入、是にて二人の身をぐる〳〵巻にして、其上喜七が褌にてしかと結びとめたり、是二人一所に沈み浮上らぬ為とぞ、如此不工面なる形りゆゑ淵へはまるも思ふ侭にはなり難く、岸の杭に額当り一寸余打破り死し居たり、是に依て検使も隙入り、一条町内年寄五人組その外過半かの所へ至り、町内にるすとして残り居しは若き輩両三人のみ也、其中に布屋何某と云有、是は喜七が朋友にして年も同輩にて至て親友なりしが、此日夜に入れど町衆一人も帰り来らず、既に夜半過る比にもなりしかば、布や某炬燵に寄り掛り睡り居たる所、夢共現ともなくふと面をあふむけ見れば、顕然としてかの喜七立居たり、その形色青ざめ眼釣り上り額に一寸余の疵より鮮血を流し無言にて立居けり、何某驚き其方は非業に死せしと聞しが無事に帰りしやと言けれ共、半句も答へなくひよろ〳〵とし表をさして出ると思へば夢さめぬ、何某ふしぎに思ひとかくする内組頭屋根七といふ人帰れり、何某落着を問ふに大体相済侯ゆゑ先しらせの為、我計り帰れり、やがて皆々帰るべしと云、何某又問ふ喜七が額に是々の疵無やと云に、屋根七大に驚き我より先へ帰る人無に如何して知れりや、其通りの疵ありと云に、彼喜七が亡霊まざ〳〵来る様子を語り初て身の毛いよ立しと也、二人の死骸は六波羅野南無地蔵と云へ打込れしかど、親類より石碑を拵へ、今北野下の森下る西側にありと、予以前京都に遊びし頃是を聞けり、『讃仏乗』後編に書置たれど、岩井風呂に因ある説なれば爰にしるす、拾遣にのするお半長右衛門の前生お勘長三郎など作りもふくる程ならば、岩井風呂の後日も双紙ものに出そうなるもの也
『役者五雑俎』〔拾遺に云七部の書より五部を出〕の中に往々女形の心得を書たる物多し古名人の女形姫君あるいは娘などの役をする時には先書抜をとつて能々熟覧して夫より書抜を消し成だけ詞を少くして勤ると云婦人の詞多きは愛を失ふとのたしなみ也年増の世話女房にても亭主の用を助けるを旨として詞多きは嫌ひしゆゑ適浄瑠璃にも嫗山姥の八重桐廓話の場をしやべりと云傾城反魂香大門口の場のお宮物草太郎町尽しの段の葛城是皆しやべりと唱へて其頃は珍らしかりし物也先の慶子所作を善くし口跡あざやかなりしより此しやべり役を歌舞妓に取立勤し也天和貞享の頃は西鶴文流等が演たるごとく男色大に流行して女色を今世の如く歓ざるゆゑ婦女は至て内端めにて有し物を男色廃してより婦人の勢広大無辺と也今は総一体女のしやべりと成りて八重桐〔もと傾城〕お宮〔もと傾城遠山〕葛城〔山三女房もと傾城〕皆それしやの果にて盛はとくに過て色気捨たる役なれば心のまゝにしやべらせる也今は姫君でも娘御でも裏屋住の女房嚊に負ず劣ずしやべる事常と成り詞少きを馬鹿か病人の如くあしらふ時節なれば狂言の外題男哉女鳴神又男哉女将門と立役でしては珍らしからぬ女形にさせて謂ば後家茶屋とて亭主のある青楼より流行しに倣ふ爰に今の慶子〔始市川十太郎弟子市川熊太郎と云〕三光となり松江とかへ三都を修行して功を経富十郎と大名を受継同輩の女形は皆故人と成つて所謂無尽の流込をとり右に云男は有てなきがごとく女でなくては夜が明ぬと云時節ゆゑ人気にかなへり天保七申年予は八犬伝の著作すみて後暑中に思ひ付て女団七富十郎女一寸寿太郎にて夏祭浪花鑑の後日を仕組めり稿なつて両人に読し所早速納まり七月上旬より北の新地芝居にて興行せり前は五節句の政岡を題とすえ跡先先代萩のよせ物にて〔萩の小袖梔の縫衣裳〕伊達姿吾妻写絵切は一寸縞の媚容者恋には世話を焼鉄と釣船ならぬ土舟の三ぶが好に織替て紅色桔梗女団七仲居おかぢ富十郎大鳥嵯峨右衛門新九郎助松靱負延三郎玉島磯之丞権十郎伯人琴浦勇次郎魚仲買弥市歌十郎土舟三ぶお梶母お熊市蔵お辰坂寿珍らしかりしか大入大繁昌しけり慶子是より何にても女の狂言にして仕度のぞみ発れり往古の女鉢木にても北条時頼記と外題していはば大切所作がゝり也近来江戸岩井半四郎の女清玄も隅田川花御所染と題しておやま〔江戸では若女形を云〕一通より杜若は替りし造りをせず殊に器量よき女形に青坊主いがぐりをさせるが故狂言の善悪はいはずとも歓べし〔拾遺に云璃寛熊谷つくり拵と同事也〕いかに女を愛る世の中なりともそう度々見せる時は見おとりせらるべしと捨置けるが同九戌年の秋堀江市の側芝居にて女猿曳■諷を書同十亥年の春女五右衛門を著せども外題はけいせい浜の真砂とせり都て女形座頭なれば鎌倉時代の尼将軍の勢ひ有て一座の役者も上べには屈伏すれど蔭では誣者も多かりけり女と云狂言度々出るはうるさきゆゑ同年五月天満天神奉納芝居に葉越廼月女熊坂二場を仕組て坂寿にさせ其後丑年東郡へ行寅年帰りし所秋忠臣蔵の世界と納り以前組太夫〔藍玉〕らと『歌舞妓打交折士鑑堂島の段』と記せし五行大字の床本一冊を見せ是に跡先を拵なばよからんと予に見せし事あり是は此場一段ものにて前後いかなる筋あるかわからず予前後を著編し置たるを出し天満天神より鍋島船入橋を口として堂島貧家の場題に居矢当茂七に多見蔵うどんや与三兵衛に工左衛門娘お梅に富十郎外題に義士の大石摺貞女のかな手本紅楓いろは文庫と賦し二度の清書平右衛門注進の場を書かへんと著作にかゝる慶子女由良之助をして見たき由責て止ず此者に此病ひ有と仕かたなく望にまかせ先一力の場河原にて大文字の送り火などのうがちを趣向として書あたへぬ初日出て評を聞ばお石紫の羽織を着てめんない鵆にて出るを女医者也との見立尤なるかな原狂言綺語なればいかなる事も書れぬとにはあらねど菅原の丞相と由良之助ばかりは女にては筆立ず魂なくては狂言になるべからずされども温飩屋の場評よくて相応に入けり其冬舞台出勤差とめられ長く預となりし内見舞に行て狂言の咄に及ぶ予戯れに曰先の女団七より出たる趣向あり女髪結にて色男の茂兵衛我童か延三郎也せかれて逢さぬから正三の内へゆく正三女房璃光にて正三るす中へ役者相談に来て思はくを女房に誂らへて帰る此内女房お富〔女髪結〕に髪を透せる事有て跡が髪すきの独吟近所の子供がさらへる体文句あはせ意見になりすべて岩井ぶろをうつむけたらんにはおかしかるべしと云慶子笑つて夫もよからん抔はなせし事ありしに翌年泉州堺へ払ひと成りけり予も一両度見舞に行て戯れに云たる女団七の身のうへになりたる事を思ひ出書状のはしに堺へと富は仕かへにゃられけり乾く間もなき時雨傘と書送りし事も有けり慶子は常々倹約をなし俳優者流には似ず奢侈僭上はなきとおもへど歌舞妓道にて富十郎慶子といへば神とも仏とも敬ふべき名にて同じ中村にても慶子の中村と加賀屋の中村とは異なり梅玉歿前此道の老分たる故進めて野塩が娘〔先慶子の孫老婆なり〕を養ひて大名を受継其名によつて出藍の誉高く其名によつてかゝるとがめも蒙りたるは塞翁が馬とや云べきか実は其名は負たるなるべし
西沢文庫伝奇作書残編中の巻終
西沢文庫伝奇作書残編下の巻
西沢文庫伝奇作書残編下の巻
西沢一鳳軒李叟著
歌舞妓道中図絵 新群書類従p196-197の間
《立川談州楼焉馬戯編 歌舞妓道中図絵 喜多川月麿図画》
《故人市川海老蔵沢村宗十郎の両子哥舞妓街道記といふ物を戯に作りしを五代目白猿思ひ出し随筆して予が許に贈りて有けるを書肆衆星閣の需に応し是を補ひ桜木に花を咲せ初春のなかめとなす》
抑歌舞妓の始りは天照大神天の石窟に入給ひ磐戸をとぢて幽居、故に六合の内常闇となる時に、猿女の君の遠祖天の鈿女の命則手に茅纏の矟を指、石窟の前に立て巧に俳優す、此時天照大神聞し召て宣、いかんぞ天のうすめのみこと斯のごとく■*19楽するやとの給ひて、則いわ戸を少明これを窺し給ふ、是ぞ歌舞妓の根元なり、年ふり代々おしうつりて永緑年中出雲の於国これをまなびしより京都大阪に興行す、今京都においては寛永元きのへ子年中村勘三郎始、同十一甲戌年市村羽左衛門始、万治三庚子年森田勘弥始る、是を三座大権現とて芝居を守るに毎年霜月朔日顔見世の人事有、左右に名人の瀧上手の瀧の流れたえず、無類の峯は惣芸頭の山に並ぶ、座頭の社といふは往古元祖市川団十郎才牛上人こゝに俳優の神を安置す、二世栢莚上人・沢村訥子を別当社職の始といふ、○市川寺の宝物あまた有中に景清が車のかづら、暫の大太刀はおんてき退散の筒守となり、助六が鉢巻にあくたいの巻物、外郎売のせりふに銭こまがはだしで迯る、鬼もこはがる鍾馗の画像、関羽が青龍刀、祐経が対面の盃、時宗が鏃、粂寺がけぬきは忍びの者をあらはし、大鷲文吾が大槌は義士のかゞみと残る、伴左衛門が雲に稲妻鳴神上人の柄香炉、五世口上辞の入道はらの白猿に伝り愛敬の守を出す、門下に中車・新車の二の車あり、何れも女のひける車にて音は世界に五郎〳〵とひゞき今に其名のこる、本尊成田屋不動明王あ〃つがもない霊験鼻高にまします、○沢村の訥子寺は助高や高助の建立なり、宝物には平相国清盛の扇、油売の柄扚、斎藤道三よりの伝来安倍の清明が算木、梅の由兵衛が頭巾に錠をおろし、重忠が双六盤に四三をさとる、鵆の紙衣は祐成が大磯通ひ、名産はこぶに山椒ハテいふてもいはいでもの事、ハレやくたいもなまゑひの錆刀は由良の助が名作忠臣蔵のはじめ也、○坂東の旧跡は薪水寺に大岸宮内が忠臣こがねの短冊あり、日本武者之助が鶴の九の鍔は代々ゆづりのきん鉄也、○また坂東の平久寺に独銀のごときもん有り、朝いなの三郎の古跡、夫より別れて坂東の三大寺は是業法師浪速より始て下り、森田に頼朝堂を安置す、又市村に長七唱の旧跡、小栗太郎が茶臼、梅津のかもん宿長作が晒布、名所今にのこる、○松本の男女川に鬼王新左衛門の旧跡、それより道五粒ほど行て佐々木巌流寺の元祖後に市川寺へ入院して四世木場の親玉上人といふ、景清牢破りの尊像、岩窟の五郎蔵、五大三郎の古跡今の世まで名高し○それより松本の錦江法師の開基ふくせい寺といふ有、難波のかしくといふ女に教化ありし所、幡随長兵衛といふ男達の住しあと有、藪鶯を友として百文が米をもとめて白水を流せし所高麗屋島とも云、○河津・俣野が角力の跡は大谷より十町程ゆきて魚らくらかんの堂あり○坂田のさんきやうに髭の伊久の塚あり△中島の天幸寺に時平の目玉あり甚だ光る△道外方の名所は和光院に辻法印の古跡、諸芸指南所、名物かのこ餅今にあり○中村の秀鶴寺は縞の財布のしま黄金五十両の金仏にて定くらうほぞんとも申なり、又大日坊といふあく僧煩悩の迷ひに霊魂忍ぶ売と顕はれ影の身だといふは是より始る〇四紅葉の名所は市川のながれ瀧の谷のほとりにいなり九蔵の社あり、又やねこぞふといふ団三郎の古跡なり○市川寺六世三升ほつし廿一歳にて座頭となる、横川の覚範の像、相摸次郎時ゆき日本廻国の笈仏あり○嵐山眠獅上人は吾妻へ下り白猿にたいし叶升の紋を立る、扇の手より五右衛門のあたり六歌仙の里、逆櫓の松、蔦の細道名所多し、浄心寺に塚あり、石面に辞世をのこす「東風にちるなにはの梅に鶯のほうほけ経の声のみぞきく」〇驪の団蔵寺は元祖より二世市紅上人の開基猪の早太が真向の如来大伴黒主やつしの像をのこす、三世市紅忠臣蔵を立、是より七役始る、知盛が長刀、俊寛が島物語の旧跡あり○抑太夫山おやま寺は開基路考大師、瀬川の水上において百万遍の所作をくり石橋を渡り獅子の座に直り給ひし始なり、無間の手水鉢に鐘をなぞらへ抦扚を持て打給ふに忽黄金の花ふりける始なり、八百屋お七の古跡あり、其のち仙魚禅尼、王子稲荷のかんとくを得て一子を育、成長して二世路考上人是なり、中村において田舎娘の踊りを始る、業平吾妻下りの御影をのこす○芳沢のあやめの名所に一鳳国師の中村の慶子禅師、道成寺を建立してより末世の衆生に是をのこす、其外かぶき堂に此人々の名所古跡あまたあり○松本の里より岩井の水わき出て杜若の名所あり、三浦のあげ巻、三ケ月お仙が古跡世の人しる所なり○夫より小佐川に巨撰山じげい寺、月さよの里おのえが古跡をのこす、役者の旧跡其数多ければ其一つ二つをしるす、小紙にあらはす事をえざれば後編に述るといふ
■*19
まつばやし町よりむかうに見ゆる山はばんたち山とてめでたき山なり、こなたに千載山とて若松のはやし枝をならべ、白きは翁草、黒きは尉とて是をさんば草と云、鼓が瀧の流れとう〳〵たらりとしからす、飛の岩鈴のみねの松風寿をうたふ名所なり、扨はやしまちの名所音曲道中浄瑠璃の名所表の絵図にくわしければ爰にもらす○扨又こなたに三味せん堀くわりん堂杵屋の宿、是より音曲街道の道筋をしるす△とこ山の麓にもとゞりの観音堂あり、後に巻立さうけ・まさかり・つゝこみ・茶筌・大銀杏・ゑんでん・百日・しつちう・こうさい・摺はがし・島田・勝山・三兵庫・忍ぶ髷・三づと、当世はぶたい様々の草木しげる、是をかづらき山とも申なり△幕ひ木といふ木のもと道具直し岩台おどり台切穴まがきの名所あり、諸鳥のこゑトヒヨ〳〵となく、闇の夜の黒まく日覆の月にだんまりの顔見世又紅ひの花をちらせば三角の雪を降らす、四季折々の詠は作者のはらより出たり、爰に後見堂といふありてさゆを汲差出しの如来とて日暮よりかん寺に安置す、本地は燭台せいし菩薩霊験新にして夜に入れば龍燈をあぐる事昼の如し○歌舞妓出世かい道はまづ稲荷町より序開の門に入りて花道にかゝり、此中程に大音寺といふあり、こゝを申あげ村といふ、夫より板おろしの関をこし、おした山荒しやば不動の堂あり、その上をおかしら山ともいふ、口上の披露役者かへ名の次第をよみし処なり、是を過てくらやみ峠、杉たち宙返りといへる嶮岨を越して、ぎばの妙見へまいり、それより三階の峯に登る、上り口に女人禁制の札あり、又猿がへり・跡がへりといふ難所を修行して、合中の立山に至り、やがて評ばんの辻に出る、爰に身上石とて百両よりだん〳〵おもき石いくらも有、若き役者此石をもちて身分の力をまし出精して三枚目の橋へ出る、と白猿の道の記にもあり○役者建物子供は親船の地蔵堂よりおどりそめ、若君の宮、千歳山をこへ元服寺、爰にこえがわりの弥陀といふあり、信心して程なく評判の辻へいで、三枚目の橋にいたる〇三枚目の橋にかゝれば、左の方にひゐ木といふ大木あり、枝葉せかいにかんばしく、日の出の松は次第にさかへて、重年寺の稲荷より座頭の社へ近道あり、又和実の里・男達の大木戸・歒やくしの堂より登る道もあり、脇道に赴く時は功者の原へ出る、此所月雪の詠ばかりにて花はなし、又旧功村へかゝれば駄味噌の原へ出る事あり、此所狼出て後より舌を出して人をくふ、油断すべからず、是より下の道へ迷へば、かたはらいたき所に高慢寺といふ寺あり、俗に天狗堂と云、夫よりめいつ田といふたんぼを行過てよほどきた山寺あり、本尊ねいりん観音、下り坂にはなぶられ地蔵、とんち木といふおかしな大木あり、おひ込の松は腰をかゞめ、おべつか山にはうそつき弥太郎の城跡あり、是より東西を失ふ事あれば、間ぬけの里とていやみ絞りを染いだす所にうろたへゆけば、へんしん寺といふあり、是は昔鍋かむりへつしん七字の曼陀羅をのこす所、むちや川の流れにはひつ天寺といふ寺あり、此所のかね久しくたいてんして、人々に金のくにうをたのむといへども、ちう夜に限らずあまたの怨霊来りて恐ろし、爰に出てすかまた川のほとりに来り、滅法海へ帆をかける、恐るべし慎べし○太夫山・おやま寺は本尊金箱地蔵と申なり、此道筋は色子の浜といふより若衆潟、袖ふる山に登り小詰の森にさしかゝり、花笠の社は正月元日翁ぞめおどりを行ふ事吉例なり、それより腰元の薬師堂へゆく、此道人の詠もなくはかどらず、やう〳〵まだる木橋へ来り是を越て三立目村へいでたち、下姫が井戸、ぬれ事の里、愛敬稲荷を信心して開運出世を願ひ、櫓下にその名をあげる、七化の地蔵は大入村にあり、有がたい野といふ原、是はおどりの判官馬具を乗りし所といふ、同じく誉池にはその筈の弁財天を安置す、世話琴の里自芸房といふは時代と世話を鶏合ありし所なり、道成寺を過て石橋を渡り所作山に登りお山寺にいたる○もしまだるき橋をふみちがへ、はづかしの森へ出れば、いやらし川きざ橋を渡り淋しい野へ出る、此所に春は花さく事あれども、よいとも悪ひともいはず、此名をうにや桜といふなり、夫よりわる口村にかゝれば、木生ひ茂りてやかましき風吹、昔は半畳をうちこみしが今は糟をくはせる所多し、下の道へゆけば大根畠あまたあり、是より田舎道にふみまよへば、立身出世おそし、信心をこたるべからず、衆星閣梓
曩に云戯場世界定すむと建作二枚目三枚目と打寄、銘銘場割をして誰それはいくつ目誰はいくつ目と仕組場を定る、是を咄しぞめとて建作りの内にて定る事定法なれど、狭き家内にて咄しぞめにもあらずと静なる料理屋へ行、閑静なる一間をかりて狂言の筋を通し誂らへを言などする事江戸にてはまゝある事なり、以前鶴屋南北〔始勝俵蔵今の祖父也〕槌井兵七・松井幸三・勝井源八などを連て、上野より忍ばず弁財天の境内には茶店・料理屋軒を並べて座敷へ通れば、池の上に建出したれば閑談にはよき場所なれば、爰に咄しぞめ然るべしと打揃ひ行く、酒飯あつらへ出来る間に仕組を咄し合ふに、此頃の役者は坂東三津五郎・松本幸四郎・岩井半四郎等盛んの頃にて南北の世話狂言時の人気に叶ひしゆゑ、幸四郎の業悪にて亭主三津五郎の前にて杜若の女房を強淫するなど度〳〵出すゆゑ、各新奇の工夫に及び膝突合せて小聲になり、国俊とか村政の刀はどこで盗んだ、どうして夫を質にいれた、夫こそ大殿を毒殺して近習誰それの科にぬり、用金を盗んで女郎買に遣ひなくし、夫から宝の刀を奪ひ取、贋物を質に入、誠の刀はどこそこへ埋めて置して、あの女房はサアあの嚊をふずくり出して二度のつとめにかせがせる、是で又一もと手とゞは亭主をばらして随徳寺など、酒のみながら後は高らかに咄するゆゑ、給仕の女は是を聞勝手へ立て、手を叩けども自由に来らず、やゝ暫し有て次の間より襖を細目に押明て此場の人数を窺あり、又立替つて立聞する有り、様子有げに覚ゆれど座敷の者はこゝろ付ず、女共が役者と心得立がわりて覘きに来ると、俄に建物役者の気どりになつたり、所体を造りて厭気をすれど誰も座敷へ来るものなく、筋もあら増通つたれば帰つて翌より筆をとらんと、先勘定を聞べしと手をうてば、一人の大男此座敷へ来て、何か言かけふと南北の顔を詠めて扨は此御人数は皆おまへの御仲間でござりますかと、始て合点のいたる様子、こちらは何の気も付ず、南北も思ひ出せばまんざらしらぬ顔でもなく、アイけふは例の狂言がはり咄しぞめに来ましたが、お前は爰の御亭主かと、尋にかの者迷惑して、いや此茶店は女主我等は役を勤る者、此頃上州路より名うての盗賊五七人江戸へ入込みしと触有て、諸所を吟味の最中へ、けふ此内の客人は銘々屈竟の男にて、酒がいはすか悪事のもくろみ、世間かまはず咄すゆゑ、噂のあるお尋者の盗賊に相違ないと、是の内より知らせに依て、組のもの共手配りして爰で捕うか出る所をいち〳〵組で捕うかと、最前より仲間の評定、先一通り尋ねて見んと通つた我等は下地より顔しり合うた芝居のお作者鶴屋南北殿、なれば扨は芝居の咄かと今と云今心付き、間違とは言ひながら盗賊でもない各にいち〳〵縄をかけんものと合図をきめしも鶍の嘴、扨々ひあひな事かなと汗ぬぐひつゝ詫るにぞ、こなたは始て心付、成程それで一間よりかわり〴〵の足音は役方の衆の見に来たのか、扨もあやうき間違ひと、始のみたる酒もさめ今一銚子と酒とりよせ、その男とも呑かはし果は笑うて帰りしとぞ、世にあやしき業とて狂言作り程怪しき業も有まじ、仮初にも大国の大名を亡し、十人廿人の人は立処に殺し、金銀を自由にし有とあらゆる悪事を書も勤善懲悪の為なればこそ免してもあれ、君子の為には恥べき業也、其内同じ戯場の作にも南北が仕組を真世話と云て、よく当時の人情に合ひしが野鄙なる事甚しく、見物後宿へ帰つて主親に対しては話し難き事まゝあり、詞は卑く付るとも趣向はいつも高情に作すべき物なり、因みに云、近世東都より出板せし江戸名所の画工長谷川氏は水戸橋の景色を摹写せんとて鰻屋に行て、座敷先より庭に下り懐中の紙筆取出し荒増を写し取、ゆる〳〵と酒飯したゝめ宿に帰り、清書にかゝれども今少し見残したる景色あれば、日数十日計も立て又右の鰻屋へ行猶も美景を写せる内、次の間より役人来つて有無をもいはず長谷川氏を召捕けり、長谷川氏大に驚き何故あつて縄かくるぞ、身に縄かゝる覚なし子細聞んと云ければ、かの役人の曰、其方事先日此内へ来て此傍の勝手を見届け其夜何某の方へ盗賊に入たるべし、翌日種種と詮議せし処其昼一人の客有て川辺に下り立、くわしくも忍び入べき所を見届て帰りし由、此家の者の申により外に思ひ当の盗賊もなく汝が業に極まつたり、重ねて参らば知らすべしと待もふけたるけふの今、我と名乗つて来たるも同前、今更陳ずるとて遁しはせじと高声に詈つたり、思ひもよらぬ濡衣に長谷川大に迷惑して、我は中々盗賊など働きし覚なし、雪旦と云画工にて、此程東都名所図会出板に付、諸所の美景を写すため懐に紙筆を用意し、お茶の水より水戸橋此辺の図を書んとて此程爰へ来たれ共、一応にては尽す事あたはず、夫故猶も真写を図せんと今日また来たつたり、此事更に偽りあらず、此近辺にて誰彼は我風流の朋友なり、爰へ呼寄尋ぬべしと、懐中の画図を改めさせ委敷言訳せしにより、扨は盗賊にてはなかりしかと漸に明りたち無難に縄をゆるされしが、世に間違も多しと雖是等は意外の間違なり、渓斎英泉〔画工一筆庵の主人〕存生の内予に咄されたり、嚢に云狂言作者の話、初によく似かゝりし一笑話なれば思ひ出るにまかせ爰に誌す、風雅の道は是に限らず聞えのあしき事多かり、予幼き頃の狂詠に、
風流は実に道らくの司なれ 水雞に朝寝鹿に夜更し
英泉老人にはなし笑ひし事あり、此人も去申の七月故人となられむかしがたりとはなりけらし
安永九庚子年の春白石噺は江戸浄瑠璃にて興行なる、其時の作者連名、
第一 堂上地下の主従は縄目に引るゝ大内の鶏合
紀上太郎
第二 仇と誠の朋友は義心に別るゝ一国の首塚
容楊黛
第三 お主と家来の妹脊は相図に隠るゝ名鏡の奇特
焉烏旭
第四 孝と実義の伯父姪は愁ひに乱るゝ血筋の植付
紀上太郎
第五 娑婆と冥途の聟舅は余所に見らるゝ一樹の宿賃
紀上太郎
第六 江戸と田舎の姉妹は我身に売るゝ軍用の品玉
烏亭焉馬
第七 通と野暮との客と客は異見にしらるゝ曽我物語
鳥亭焉馬
第八 白と黒との敵味方は位牌に紛るゝ幻術の仇討
三津環
第九 道行 いはぬ色きぬ
紀上太郎
第十 色と情の娘と下女は智略にもつるゝ井出の山吹
紀上太郎
第十一 仁と礼との南北朝は武威顕るゝ和睦の勝鬨
紀上太郎
名代薩摩屋小平太、座元豊竹新太夫、板元春松軒西宮新六于時天保十三壬寅年三月、予京都より帰らんとせし時市川海老蔵木挽町河原崎座にて誂らへにより彼地の名残の作として、此白石噺と尾上岩藤草履打とを一狂言に混ぜよと云、依て世界を奥州秀衡の役後と立、志賀団七を剣沢団七とし、百姓与茂作は前の名杉本甚内なり、聟谷五郎の本名を根の井の小弥太、宇治の常悦誠は清水の冠者義高にて駿河の清水にて成長し、父義仲宇治川の武名にかたどり宇治の常悦と云、二つめ〔江戸にては中通りにて仕舞〕済で三建目直に田植なり、道具かわつて明神の森〔常悦海老蔵、谷五郎九蔵〕本行にては明神の森すんで田植は次なれど転じるに仕組ありて、道具かわつて逆井村段切のノリ、南北朝かわつて伊達の大木戸さしかため、奥州駒に鞭打て亀割坂に駈登り、遠く迯るを遠矢に射立近く勇を蹄にかけ〔四天王寺の東門に陣所をかまへと云所〕など有て、段切まくを引くと直に医者毒薬を岩藤へ渡さんとの出有て這入る、此幕切落して鎌倉清水、お先揃へて花やかにの唄にて〔岩藤海老蔵、尾上栄三郎〕行列早拵総出にて此跡へ紫若お初にて出てしなへ打となり一件這入る、順礼歌にて忍ぶ〔菊治郎大姫と早替り〕出て、浅草の身売の筋海老蔵〔宗六早拵へ〕抱へて連立這入る跡、姫君のお立皆々早替りにて出て、岩藤いつものお刀を穢し升たの幕〔是本まく也〕、次草履打より道具かわつて常悦囲ひにて茶を立る、湯気にて謀反露顕を考へ大勢との立有て、道具替つて尾上の部屋より門外烏啼仕返し迄にて幕、次まく吉原仲の町〔秋夜八代目団七嵐吉〕鞘当の出に成り伊平次九蔵中にわけいり買論の仕舞は天水桶にて月を取る、両人切てかゝる千代能の古歌にてさばく、道具かわつて宮城野の部屋出語にて〔宮城野栄三郎、しのぶ菊二郎〕曽我物語、道具替つて大門口にて姉妹敵討にて脚色成れり名題は
当[ときに]近江の旧跡に残桃青塚名[なに]陸奥の名所に残芭蕉辻□故択[ふるきをたづねて]新清水俳席の栄前句の趣向は寄武家[ぶけによする]草履の返報付句の旨案は寄農業[のうかによする]泥土の怨讐結題の仇討もかよわき婦女[おんな]の手爾を葉に能も切たり切字の働き天晴なるかな忠孝の其感吟に天下一末世に輝く秀逸の鏡山
岩藤浪白石[いはほのはななみのしらいし]
懐紙表裏四番続
東都にて二日にすべき狂言も一日に縮る狂言は添削によつて屈伸自由なるものなり、名題役者心の合ふ時は二三日の稽古にても早く塊る物としるべし
我著作道に筆拍子と云るは俳諧の歌仙或は百韻の席にて句者の銘々乗りが来て執筆いまだ前句を認めざるうち次韻付が如く執筆書と吟じるにおはるゝばかり面白き迄に句の付くあり、狂言道にてすら〳〵とせりふ付認る内次の詞並ぶ是を筆拍子と云、又少しの事心にかゝり早く書上んと心ばかりいらちて、書ても書ても読下す時に語路の運びあしく詞二重になりて行ては帰り〳〵して筆のしぶる事あり、か様の時には筆をとらず、快情の日は近き野辺を逍遥し、雨中なれば青楼柏戸に行て飲食入湯などして心を慰め而して後筆をとれば忽成る、筆たつ時には思ひもかけぬ趣向うかみてさまで見所なき場も面白くなり、詰らぬ役と思ひこみしもよき役となり、俄に役者を取かへて端役を立物にさせる事あり、是らを筆拍子と唱へること也、天保十亥の春角の芝居にて新狂言けいせい浜真砂序切南禅寺の山門の場は傾城石川屋真砂路に慶子、女順礼誠は淀町御前に璃光、金門五山桐〔並木五瓶作〕の山門の如く立役と女形とかわりたる趣向にて、禅囃子にて舞台一面糶上となるを旧冬書つかはし、三つ目より末は芝叟の長話『瘤』の一条を書居たる所へ慶子戯れて、此山門の内ヘチヨボを入れよと云送りぬ、原より歌舞妓仕立に書あるを俄にチヨボを書入るはいと心易き様にて容易に筆は走らぬものなり、脚色のト書〔役者いろ〳〵の仕草を云なり〕をチヨボにていはせるなれば役者には仕よく、文談跡より書入る時浄瑠璃とはだ〳〵に成りて語りにくゝ聞苦しきものなり、よつてチヨボを入んと思ふ時は先の書上たるせりふを捨て改めチヨボ入の心に書時は、意一変していひかけのせりふなど自由につかへ返つておかしき文談の出るものなり、其時『瘤』の仕組を捨置て急作に書かへて遣はす、其文談に〔所謂チヨボ駒太夫ぶしなり〕「九重の桜に匂ふ山門の甍も花に埋もれて霞たなびく夕間暮、南禅寺につく入相の枕にあらぬ檻に身を欹て聞すまし、香炉峯の雪ならぬ簾を蒔絵の煙草盆、よせてくゆらす煙りさへ、げに諺に傾城の昼寝ぬ程に思ひ詰願ひ有気の独りごと〔トかすかに本釣がね暮六つを打桜ちら〳〵ちらす上るりの合は床と囃子の打合せ合方禅のつとめ〕
一富十郎春の詠めを価千金とはさもしいたとへ、此石川屋真砂路が為には詞にも言ひ尽されず、日も山の端に傾て暮の桜も一入にハテ麗な詠じやなア〔下略〕右思ひよりなき枕詞さへ出る時はすら〳〵とつゞくものなり、此文を書しは正月九日の夜にて雪夥しく降り、やがて夜明放れたれば難波慶子の方へ此正本を送りやる、手紙は例の戯れ文章尤正本仕立にして
造り物三間の間鉄眼寺山門の二重目高欄付右山門の両脇落間にて一面に枯木の梢一面の雪もち屋根雪降りの体前蹴込み霞にて右椽先に富十郎寝間着丹前前に否身箱を置書抜をしらべゐる体、木魚入禅の勤の中へ法華拍子木題目太鼓を打交道具納る
一富十郎春の座を女形座頭とはかわつた趣向、早初日も近付て日に〳〵ふへる我誂らへ、はて心せわしい事じやなア
ト否身箱にもたれせりふをくる、此時トヒヨにて雁一羽口に誂らへの書入をくわへて高欄の前に下がるをきつと見て
ハテ心得ぬ此雁金、かの蘇武ならで誰か玉章を伝へしぞト〔取て見て〕ムヽこりや是きのふ日暮に西沢へ遣はしたる誂らへの序切の上るり、此雪の夜もいとはずに早出来しか、ムヽ是でよしさり乍今つよひ者がちのより合芝居、此せり上へ若手の銘々我も〳〵と出ようといふが、又立腹かはしらねども追々に書入させ、あの西沢を戯れに書よわらさいで置べきか
ト立上るチヨン〳〵にて鳴物せわしく雪をふらせ、段々と此山門をせり上る、右山門の石垣のもとに西沢李叟髭ぼう〳〵と延し髷をいがめ蝙蝠羽織にて机をひかへ手あぶりをかゝへ乍硯の筆にて短冊を書居る体、鳴物にて道具残らずせり上げ宜敷納る
一李叟西沢や浜の役者はいぢるとも世に狂言の種は尽まじ
一富ヤヽなんと
ト双方顔見合せ上より誂らへの書付をヱイとほうる、宙につかんで
一李こりや又外の誂か
一富筆入れ升う
ト双方こなし宜しく幕
此戯れ書を送りし処、慶子直に表具をさせ昼後角の芝居稽古場の見付へ此文をかけ一座に見せて大笑ひをせし事あり、右筆拍子の因に云、同十二丑の春中の芝居にてけいせい楊柳桜に納りしが、当時若手役者には役仕足らず三つ目に書入の新場一幕を加ふる、冬のうちは脚色にもかゝらで正月二日より筆をとるに、島原の福升屋と云揚屋にて入聟門兵衛誠は木津関兵衛中村芝翫、けいせい七草誠は関兵衛女房中村富十郎、廓の門番喜平治に浅尾工左衛門、おかしみは友三・文五郎・蘭九郎にさせて、門番の親父全盛の七草に恋煩らひと見せ誠は親子の名乗りになる〔小栗の門番寐ず兵衛による〕、親仁は七草の残党にて夫関兵衛とは仇敵なり、依て悋気に事よせ関兵衛の手にかゝり本心を明すと云場なり、芝居よりは急使度々来てうるさき故、出来たるだけの草稿をわたせば直に書抜にかゝり、後にはいかなる役になるか知ずに稽古にかゝれり、結局二三分通を残して先は早稽古かたまり催促する事噪し、六日夕方幕切になつて趣向に尽、芝翫に幕を切らす工夫に渡る、催促の人数四五人〔狂言方〕待居て心せはしく書居る最中、隣家には早薺を囃す音聞ゆる、ふと是に思ひよりて、鬼丸慶子は手負なり、依て詞に土は土、水は水と今ぞ五行に帰す時との筆拍子出たり、元より名に呼ぶ七草の鈴な鈴しろ仏の座、遠どの土地へ帰参の賜渡らぬ先にその宝をと敵役のかかる抔地口よりせりふ続き俎■*20[まないた]子火箸にて立廻つておめでたう存升と芝翫の関兵衛が幕となり、持せかへすと即座に書抜、翌日粥を祝ふ迄に稽古はすつぱり塊りけり、是等原よりの腹稿ならず、不意に出て不意に成る、是則筆拍子なり、原より一時の戯墨なれども拍子に乗らでは筆立ずあやしき業もあるもの也
■*20
此夏東都にて葺屋町の芝居より好まれて義臣伝の新作にかゝり、江戸にていまだ取扱はず珍らしき狂言のみ類聚して、勘平の萱野村は廓景色雪の茶湯を題とすえ勘平家橘、お軽菊次郎、言号お組しうか、小寺十内関三、早野三左衛門歌右衛門にて脚色し、天河屋の場は馬琴の小説『稚枝の鳩』より潤色して、田舎娘お淋菊次郎にて道中の雲助共に手ごめに逢ひ難儀の所を定九郎九蔵にて是を助け、闇夜なれば顔も見とめず契りを結びて小抦をわたす、此侭物わかれせしを五まくめに仕こみ、後天河屋下女お淋と云は田舎娘なり、住吉三文字屋の場をいつもの一力と見て、斧定九郎は山名〔京摂にする薬師寺也〕の取立にて堺屋敷の留主居と成り、天河屋の女房お園〔しうか〕に心をかけ親了竹〔菊四郎〕をこまづけいろ〳〵にかせをかけ義松を人質にとりお園にせまる、お園是非なく操を破る約束なれり、下女のりん是をきゝお園に操を破らさじと闇を幸ひに定九郎と寐る、お園はしらず涙ながらに中二階へ上らんとする所へ、天河屋義平〔翫雀〕伊丹屋に振舞有て下男に送られ三文字屋の妻子と連立帰らんとの心にて提灯ともさせ内へ這入る、此物音に中二階ははいもうして見越の松より定九郎は下りる、義平は提灯の明りにてお園のしどけなきを見てとがむ、此時ヱイと定九郎は小抦を打、義平消たる提灯を捨て小抦を取上げハテおつうな風が吹たわえと是口幕なり、天河屋いろ〳〵狂言あつてとゞは女房を離縁する、定九郎連かへづて了竹の内にて床へいるゝ、お園夫の謎をとき播摩潟の香炉を取かへして定九郎を切害す、下女のりん自害して人殺の科をあびる、義平かけ付て小抦を見せ、お淋が以前言かはせしは定九郎也と筋わかり、縫之助石堂家へ宝を持参し本地にかへると言が幕、以上予が著編なり、此時作者まねき一枚出し看板は画六枚より余計に出さぬを江戸の定めとするに、画看板十二枚出し段書四十七段返へしと印せり、看板に偽りあるは江戸の戯場の習ひながら余り仰々敷ければ名題段書を爰にしるす
精忠義士銘々伝今まで洩れたる伝をあげて拙なき筆に燕子花趣向も時のはなの色に似たりやにたり
花菖[はなあやめ]いろは連歌
仮名手本の字数にあてゝ四十七段返しに仕候
い 賎しからぬ築山の鳥 諸侯営中に参衆のだん
ろ 楼閣のうへは霞の花の雲 和歌を吟じて憤りを発るのだん
は はなに恨の春の山風 奉幣使へ猿楽を饗応のだん
に にくまるゝ烏の羽音かしましく 執権威を奮つて拝膳を砕くの段
ほ 仏なき世になど生るらん 再び師直高貞を詈るのだん
へ へつらはぬ社武士の習ひかや 塩谷判官切腹のだん
と ともに住んといひし山里 諸士本国を離散なすのだん
ち 契り置言のは結ぶ草の庵 顔世御前仏門に入るのだん
り 龍の腮の玉のますらを 大星力弥父母に愛敬を尽すのだん
ぬ 抜ばぬけ是ぞ日本の要石 由良之助諸士の心中を試るのだん
る 瑠璃の世界の家づとにせよ 早野三左衛門忰に 切腹を勧るのだん
を をしむべき岩木の枝を折切て 勘平義に依て 刃に臥すのだん
わ 渉ればぬるむ春の川水 竹森喜太八鳴海 宿に難に逢ふのだん
か 風匂ふ山本寒く梅咲て 大鷲文吾師直が 館を窺ふのだん
よ よる手にさわるさゝ蟹の糸 貞女おりえ計らず 夫に廻り合ふの段
た たまきの昼くる事のならざれば 矢間重太郎盗賊の 汚名を受るのだん
れ 連理の枝に月の傾く 小浪松が枝を切て 貞操をあらはすのだん
そ 染つくせ紅葉むらごのかた時雨 平右衛門が妻身を 売て夫をすくふのだん
つ 罪も報ひもさもあらばあれ 下部権兵衛主を 殺さんと謀るの段
ね 寝ぬ夜半に霜の剣のさやま風 斧定九郎お園に 恋慕するのだん
な 詠にあはぬ月の長閑さ 茶道三才義士の 勇気を感ずるの段
ら らうたけき文よむ娘かしづきて おらんの方師直を 諫言するのだん
む 昔床しき人の面影 岡野利太夫聟 引手に絵画を与へるの段
う 烏羽玉の黒髪山の秋の霜 老母唯七が柔弱を せむるのだん
ゐ 井の端に咲桜一もと 義平女房敵に 操をやぶるのだん
の 長閑さや筧の水のあふれきて 義兼戯れて 天井に落書のだん
お 荻のうは風波の立ころ 寺岡平右衛門 刀を求めんと願のだん
く 雲は雪月は氷と見ゆるかな 塩谷壱岐守 出立を祝すのだん
や 山の梢の秋しらぬ色 丁稚伊吾浮橋へ 艶書を届るの段
ま 松のはに馴る時雨の晴やらで 小寺十内密書を 奪かへすのだん
け 烟りもしめる五月雨の空 佐藤与茂七おすにと 二世を契るのだん
ふ 降る雨もさのみはもらぬ松の影 堅川甚平雨舎して 妻に逢ふのだん
こ 木の葉隠れに秋の沢水 種が島六蔵等 悪党を語らふの段
え えもしれぬ小草花さく山ぢかな 傾城浮橋縫の助の跡をしたふのだん
て てる程凄き冬の夜の月 近藤源四郎主の 用金を奪のだん
あ 足曳の山に臥猪の影見えて 猟師角兵衛過て 旅人を害するの段
さ 定かに見えぬ昼の灯火 師直間者を京都へ 登すのだん
き 灸すゆる皮切ひとり苦しくて 斧九大夫敵方へ 内通するのだん
ゆ 行水遠く梅匂ふ里 天河屋義平 実義を顕はすのだん
め 恵ある春の朝たの日影かな 千崎弥五郎謀て 敵地に忍び入るのだん
み 見る目に曇る長月の空 野間屋久兵衛 孝子を憐むのだん
し 白露のとはれぬ袖は恨みにて 下女おりん主に かわつて身を捨るのだん
ゑ 酔ひさまさんと結ぶ川水 太田了竹悪事に 組し切害せらるゝのだん
ひ 蜩の啼声宿す峯の松 寺井玄庭東行の 供に望むのだん
も 物思ふ夜半に啼時鳥 早野が妻お組 剃髪染衣のだん
せ 瀬も淵もかはるが人の習ひまで 遊女かる稚子を抱て 茅屋にたよるの段
す 末の世迄もかほるたち花 本望を達して諸士 凱歌をあぐるの段
綺語堂西沢一鳳作 狂言堂桜田治助述
弘化四丁未年三月大切に市村羽左衛門忠臣蔵十一段十一役の所作事を勤けり京摂にては歓ばぬものなれど余り珍らしければ浄瑠璃の文談をしるす出雲が筆の操を歌舞妓の所作に名題もその侭仮名手本忠臣蔵作者桜田治助大序直義〔常盤津文字太夫〕「八雲たつ出雲が筆の操を歌舞妓の所作に仮の御所源きよき康平のためしを爰に金沢や〔羽左衛門出〕「泰平の代の松が岡めでにも御蒲片瀬川晋【秦カ】の除福が蓬莱の島も手もとの浦つゞき岩打浪はおのづから妙手を砕く皷の音引糸竹は越殿楽神釈無常恋章の妙なるしらべ面白やはや放生の時刻ぞと往昔源祖の例式を鳥籠一度におしあくれば国に羽を伸す鶴が岡鶴の齢の千代よろづ四方に輝く黄金の短冊虚空遙に二段目〔引きぬき小浪常盤津〕二上り「こがれ〳〵て神々さんに無理な御願はあつかわな女子と罰があたろとも思ひそめては夢の間も何のわすれうかほよ鳥たらちねどしの言号たのみのしるし取かわし忍ぶに余るその夜半は心床しと祝言を松にかけたる藤浪の巴の風のふくさものあいた家老の名代をせいもん実に冥加ない粋な御用を梅が枝の咲て一重に嬉しいけれど殿御心は仇桜思ひ菫に置露の雫に色や増るらん夕顔の閨の扇のなぞの帯解て墨画の末広う扇車のくる〳〵〳〵と浮たつや谷の月明て鴬に中を結ぶの月と梅雲のさはりのうやつらやあぢきなやせりふ「せりつむ胸をおし賎のはしたなしとや岩躑躅奥殿さして三段目〔饗応の能卒塔婆小町歌也引ぬいて〕四段〔清元太兵衛大星力弥也〕「誰か謂水にも心有明の桜うつしてうづまくはかげ唇をはたらかすといにしへ人のからうたに殿の心を慰めんと鎌倉山の八重九重いろ〳〵桜花かごへ生る人こそ花紅葉佐野のわたりにあらね共まづ冬木より咲そむる梅を切りやはつべき山里の桜を見れば春毎に心尽して育しを仇に切とるかなしさに「松は元より庭木にて詠となるはむめ桜「よしそれとても君ゆゑに何かをしまん諸枝を折から一天かき曇り俄に草木鳴動なし鉄炮雨の震動雷電たがみな月とゆふ立のはれ間を爰にたゞずみぬ五段目〔大雷にて花道戸屋にて早がはり角兵衛獅子うた〕早六段目〔かけ稲かわつて駕になりかご舁常盤津〕ヲや目が覚たしかし夢にはなア富士に鷹どこか似よりの嬉しさは一獅子見たか三角兵衛こいつは仕合せ吉野塗弁当包ときほどきせりふ「アヽラあやしやいぶか獅子夢ならでおれが昼餉のめしとりしいでや返報しばしきやつが心を引尾ならヱヽわんのこつた〳〵そんなよは犬じやごんしないアレむく犬ぞえ胴長なお前ゆゑには黒をしてかうしたわんけになつた物手もくれもせで犬ぬるとは何か心に一物がさういやおれもぶちまけてそんなら胸を噛合てさつしてかいなとよりそへばヱヽ畜生めとはおれが事嬉しい中じやないかいな今宵はどこへ息杖にまかせてかけごえホイカゴホイ合「旦那御きりやう御如才はなんでものみこみしてこいな合「いそぐぞ三まいがつてんだ合「あづま駕其間に弁当ひつわへ行をやらじと追て行七段目〔花に遊ばゝの歌にて茶屋ばの道具廻し有ておかるうた〕八段目〔引ぬき旅やつこ清元太兵衛〕「ふるはみぞれか初時雨けさの出がけに棒ばなで手当りまかせ酒きげん五十三次また爰でなんで沼津に行かりやうものかそりやこそ腹もよし原と口あひまじり来りけるどつこいとまつた水たまりナヽなんだあるけばあるくとまればとまるおれがまねをしゃあがる向ふは慥左りきゝあるけばあるく留ればとまるコリヤどうじやハヽわかつたかげぽうし旅は道づれ世はふざけとんだ月夜とこむろぶし登り下りのお葛籠馬よ扨も見事な手綱染かいナアヱまご衆のくせか高声で鈴をたよりに小室ぶし吉田通れば二階からナしかも鹿の子の振袖でふつてふりくる御国入殿の帰りを窓から見たれば台傘立傘良馬おかちに若党草履取鎗持コノ合羽籠合「アレハサノサコレハサノヱイヱイ〳〵〳〵うきたつ空も入相の蒲原さしていそぎゆく九段目〔下女りんでつち伊吾早がはりかけ合常盤津〕「世をすねて風雅もしゃれも内証のさし合くらぬ佗人の祇園の茶屋にきのふから雪の夜あかし朝戻り太鼓仲居におのくれて庭はほたへの雪こかし常「アイたのみませう〳〵ヲヽ誰さんじやヱ歌「のこへはなじみと思ひつき常「ヱヘンものもふウタ「どうれは売詞かいしよなしでも行義よく常「たすきはづして飛で出る昔の奏者今のりんあたり見廻しヲヤ〳〵ムヽ扨は噂のおきつならとらへて開帳の見せものと欲は微塵もなふ縄の柱合手の狐釣ウタ「うかそ〳〵信田の森のきついあてずいいざゝらば常「こちらぬ【もカ】まけぬ一穴ウ「一つ東山今花盛り手に短冊もつてゐる是は何じやと問ふたれば俳諧つく〳〵はいつくつ常「そりやこそ〆たぞ常「いゝウ「いた常「ヲヤ〳〵〳〵狐じやと思ふたらヲヽすかん是いなア今度つかひにお出なら面白い事して見しよといふたぞや旦那の御用は跡にしてさあ〳〵はやうと夕間暮ウ「下地は好なり御意まかせ常「東西〳〵古めかしうはござりますれどありふれましたる花鳥の働らき怪談の一曲まづは写し画の始りその為口上さよ常「三番始りヱイ〳〵〳〵〳〵ぶまな拍子の烏飛常「お菊は恨み幽霊のヱヽうらめしい鉄山様情なの心やなア是も何ゆゑ皿ゆゑにヱヽ九枚よウタ「きやつときなせウタ「跡は牡丹の石台の花は一度によう咲た常「ヲヽそれもよかろウ「あぶない事よ天へのぼろ〳〵あぶない事よ常「のびてちゞひんで気侭ぶしウ「わしがちいさいときやお亀といふたがの今は庄屋どんの孫だきねんころねんころねん常「伊吾よ〳〵と呼んでも見たがのかあいよし松はおとさんと寐んころ〳〵〳〵ねんおかしらし常「さらば取次してかうと打達てこそはしりゆく十一段目〔大薩摩にて大鷲源吾〕夜討の形りかけやをもつて立廻り打出し幕忠臣蔵所作事は難作なりされども東郁は所作を変る故年々歳々出し尽ていかようなる事をするやらんと見物多く打続けり
同年冬顔見世小団次所作の七役をするに浪花にてせし歌浄瑠璃ども東都の口にあはず文句覚えしものもなく予に書くれとの事なり依て又出る侭に書付やる龍女は土間の上より燈籠吊下し大約浪花の通りなり歌「わだつみのたつの都の殿造り珊瑚の柱瑪瑙の瓦宮殿楼閣ぎゝとしていはんかたなきけしきかな〔燈籠ひらく〕「爰に八大龍王のまな娘乙姫君と聞しは柳の眉に桃の媚錦しう羅綾を身にまとひ八重の褥に座し給ふ御ありさまぞ艶しけれ合その恋人は故里の丹波の国の水の江を忍びかねつゝ出行てたよりなけねば蜃気楼合そなたの空も雲霧も浪もひとつに見渡せば雲路の雁の女夫づれ合アヽ浦山し浦島に合すてられし身の何を花何をたよりに告やらん合わかれにおくる玉手箱よもや悪しよはあるまいと合思ひ捨ても男の心ぐちも女の耻かしや仏の在世虚空会に八歳の龍女成仏の悟れば是ぞ玉の都と夕風に合さしくる汐のどふ〳〵〳〵合波をけたてゝ入にけり〳〵船頭〔土間より出る常盤津〕「夕月に涼風を待が花火や三股の岸につなぎし通ひ舟星もあざむく賑はひは慥ちがはぬきやつが声ヲイ取かぢ篠を束ねてつく様な雨にぬれて通ふがにくかろかセリフ「あたる〳〵〳〵〳〵当りやすセリフ「爰に名高き淀川の流れを渡る気さんじは気も幅広な緋ぢりめんしめて結んだ鉢巻もそこが根生の水の恩三筋の糸をかりぶしに二上リ「淀の川瀬のナアけしきを爰にひゐてのぼるヤレ三十石船に清きながれをくむ水車めぐるまごとはみな水馴棹さいた盃おさへてすけりや酔うて伏見へくだまき綱よかうした所は千両松ヨイ〳〵〳〵〳〵よいの雨「あいたさにひとり夜ぶかにきたものをちよつと切戸をあけてんかいな〳〵おゝなかさんモシお内かお宿かおるすさんかゐないのにとん〳〵〳〵とたゝいてもヱヽ〳〵じれつたいではないかいな二上リ「させばヱさせば出てゆくさゝねばゆかぬさしてくだんせヲヽイ船頭さんヲヽイ〳〵〳〵〳〵ヲイ〳〵〳〵〳〵あの声は嬉しからうじやないかいな面白やな体囃子にそやされて甲子待と人毎に富貴を願ふ大黒は脊に大極の袋を負ひ手に混沌の槌をもち足下にふまへし俵こそ五穀成就豊年を守る神こそ尊けれ〔かけ物より出〕「四つ世の中よい様と槌ほう杖ににこ〳〵〳〵と笑ふ門には福鼠又いたづらなと呵られてそりや胴欲な旦那さんそもわすれてか去年の冬豆鼠蒔く年越はつちの子なりとだく物と枕の下の宝船敷て仮寐の初夢に「是のお庭に大きな池ほればぶくり〳〵ぶく〳〵〳〵〳〵水もわき候黄金もざく〴〵わき候池の汀に亀遊ぶ鶴の齢のながくも〳〵御ひゐきを願ふも恐れいり豆に花の御江戸のお取立〔鼠の出〕「ヤアひけやひけ〳〵引ものは何々子の日小松春霞花さく頃の鶴と鴨卯月八日は団子の粉池のあやめに祭の鉾よまだも引ものは七夕の牛待霄は三味せん酒はあと猟師は網ひくうつい姉への袖妻は引手あまたであろぞいな打出の小槌ふりたてゝ宝尽しの福曳は実に顔見世の悦びとたのしき代々の福遊び〔引ぬき鼠も共に〕契情大尽〔常盤津うたかけ〕ウタ「恋風のもれてれんじの紙一重合隔てぬ胸の約束をちがへぬ筈の中〳〵に合女のぐちか廻り気か合元は浮気な男ゆゑちらすが野暮か粋かいな合鐘は上野か浅くさの田面の末の夕月夜合夜見世の鈴の音さえて人呼子烏百千鳥つばさかはせし二人寐の床に関もる袖屏風常「春まつ里の夕げしき見せすがゞきを生聞も通ふ千鳥にさそはれてウ「きぬ〴〵の心のうさを烏さへ合ないてたすけて東雲の土手の夜風に通ふ神見送る影の四つ手かご常「たれも恋路に身をやつす里の手管のわざくれにむつとせきたち合ゆきかゝるウ「コレまたしやん常「コレハなんじやいやいウ「んせアレまだ無りなひぞりごと常「まだ里なれぬわたしでも縁にひかれてはま弓のウ「やがて廓の年あけて常「名も呼かへておかもじとたのしむ甲斐も七草とウ「畳叩いてなくなみだ常「それで照日も笠きてぬれにウ「ぬれに廓の花の雨常「それにそのよな胴欲な若水くさいすね詞ウ「情はうれど心まで常「うらぬといふもこまらしいウ「ヱヽにくらしいじや常「なウ「い常「かいウ「いゝな常「ちわがこふじて口舌のたねよおよりなんしと引屏風跡は二人が訳さへもおし絵羽子板手まり唄ウ「宵の口舌に無理なお客のむなづくし合とりもつ酒のさゝめごとをしやわかれの合かねつく坊さま合憎いきぬ〴〵合それはほんに色じや一い二う三い四ういつか女夫になりふりもまゆげ落してさがした羽根を仇にとられた板屏風ふくな猶ふくなよい羽ごの合春あそびかぞへる文のやりばごの手にとる禿の袖几帳うかれ〳〵て遊びける雷常盤津「夕立や田をみめぐりの雷も富士と筑波を右左りはれ渡りたる雲のへ平気でしやれて鼻唄で〔中のり出〕「下の遊びの浦山しちと遠見の摺火打雲と見まがふ煙りかな下界遙に見わたせば木の聞〳〵に茶船が見ゆる櫓をおす声のエツサツサさつと家根ぶでひく三味せんの中の小唄の顔見たやさへつおさへつ天目酒に三なん四のむり酒はヱヽ畜類めガしやれのめすこつちもまけじと持前の太鼓拍子で一踊り鉦とヱ念仏でわしや暮すなら雲に巻れてわたりやせ合んどんな事して太鼓を落したこんな碇で引あげよか合三千余丁成田屋のその稲妻の師の光り合音も高島やと鳴ひゞき雲間〳〵をかけり行く〔本鉄炮にて宙のり落牛若丸上るり出語り〕「扨も源の牛若丸父の修羅の魂魄をなぐさめんと川風そゆる夜嵐の夕程なき秋の空面白や心うき立御出立肌には練の御袷紅ゐ裾濃の御きせなが糸かす織の大口に薄緑と云御はかせ五条の橋をさして来る傘のしぶきも高足駄橋板とゞろとふみならし行かふ人を待給ふ御有さまぞ不敵なる西塔の武蔵坊弁慶は其頃都にありけるが五条の橋には人を悩す曲者有りと聞しかばそれを従へ召仕んと心に空もはるゝ夜の月も音羽の山の端に〔弁慶団十郎の出〕出たつ鎧は黒皮威好む所の道具には熊手ない鎌鉄の棒戈槌鋸鉞さすまたさすまゝに権現より給はつたる大薙刀真中取て打かつぎゆらり〳〵と出たる有様いかなる天魔鬼神なりとも面をむくべきやうあらじと我身乍も物たのもしく手にたつものゝヱヽほしやとひとりごとして打渡る向ふをきつと見てあれば橋のほとりの青柳の糸より細き腰付にてすつくと立たる女姿傘かたむけておもはゆぶり弁慶元より法師の身女何と言かけん詞も媚く気色に恥橋のかたへを過行ば若君かれをなぶつて見んと右へよくれば右にたつ左りへ行けば左に行違ひさまに薙刀の抦をはつしと蹴上ればすはしれ者よ物見せんと長刀抦長くおつとりのべ切でかゝれば若君は薄衣取のけ打よする剣をあざむく傘は六十間の橋の上ひらり〳〵くる〳〵〳〵車にもまるゝ牛若丸弁慶いらつてさそくをふみ遁さじものと切込むを丁ど受たる勢ひは雨をおこせる蛇の目のかさ風吹払へば飛かはしひらりとぬいたる小太刀影星の光りと水車所は名にあふ加茂川の流に立浪どう〳〵〳〵どうとよすれば白鷺の芦辺に𩛰るかたし立姿はつくばねはご板の拍子は砧の音無双がへし現の太刀二の鍔音から〳〵〳〵欄干伝ふさゝ蟹の蜘の振舞木伝ふ猿水の月かや手にたまらぬ姿を慕ふ薙刀のえたりやおふとしつかと取ゑいやと引ばゑいと引橋の葱帽子玉の汗鎬を削りて戦ひける弁慶秘術を尽せどもついに長刀打落され組んとすれば切払ふすがらんとするも便りなく詮方なくて橋げたを二三間飛しさり〔両人セリフ〕今より三世の主従ぞと約束堅き五条の橋弁慶と末の世に語り伝へて絵にも書申の顔見せ市村に祝ひ寿き舞納む
右橋弁慶は鬼一法眼三略巻の結局にて文耕堂の作にて節よく付て立廻りに浄瑠璃を遣ふには是に倣うて佳なり璃寛〔二代目嵐吉〕熊坂宿屋の場牛若市紅と立廻りの時故人吉田九孝〔音五郎〕に橋弁慶の立をさせて見て此時に引直したり橋弁慶は歌舞妓にて小六玉国太郎を牛若にて毎度勤めし事有璃寛は是を見て九孝に習ひし也予天保五午の秋帰将門三つ目瀬田の橋の段〔龍女の化神誠は白拍子岩浪〕富十郎〔俵藤太秀郷〕芝翫〔当時の歌右衛門〕両人の脚色の時橋弁慶に倣つて作文せり其文を爰に出す謡「鳰の海や霞て暮るゝ春の日に渡るも遠き瀬田の橋更行夜半の水音も物すさまじく聞えけり〳〵上ルリ「爰に名にあふ下野の押領使藤太秀郷と聞えしは左大臣魚名公の五男にして弓箭敢ては無双の達人此頃都にありけるが夜な〳〵瀬田の長橋にゆきゝを悩す化生の曲者ありときゝ怪異の正体見屈んと心も室も晴るゝ夜の月も三上の山の端に〔芝翫の出〕「出たつ姿はゆゝしくも足音轟に踏ならし弓杖突てあたりを詠一〔芝セリフ〕それいにしへ月郷の賢君都良香羅城門を過る折から気は霽て風新柳の髪を梳りと七言を詠じけるに忽空中に声有て氷は消て浪旧苔の髭を洗ふと読つゞけて再び答へず是は正しく鬼神の詞それは鬼神是はまたいとやんごとなき女﨟の姿をあらはし橋上に夜な〳〵出て往来の人民を悩す由ちまたの風聞実か虚かいで正体を見届くれん上ルリ「好む所の弓箭かいこみ今や遅しと待かけたりやゞ更渡る潮面に川風颯と音につれあらはれ出しその形相〔慶子の出〕「薄衣深くおもはゆぶりすつくと立たる異形の有様秀郷見るより心にゑみ扨こそくせものござんなれと五人張にせき弦かけ十五束に三ぶせして三筋たばさみゆらり〳〵と近よりて掴みひしがんその勢ひ女らう恐れず打迎ひ右へよくれば右に立左りへ行ば左りへゆく大胆不敵のおこのものなぶつて見んと身をおこす秀郷是を物ともせず違ひさまにむんずと組を心に笑ひ振払ふ蜘の振舞木伝ふ猴水の月かや手にたまらず姿かよわき檜扇のひやいさ危ふさ薄衣をちからにまかせて引のくる〔立廻り有〕一〔芝セリフ〕アヽラいぶかしや化生の女め汝此頃爰に出往来を悩す由その正体を糺さん物と月てる夜影を幸ひにゆきつ戻りつ長橋の半も過ずへんぐゑに今こそ廻り近江路や鳰うつ浪に化の皮落して白状なせ猶予なさばいにしへの素軽の大臣が雷神を手取にしたるためしにならひ掴みひしいで某が末世の亀鑑に備へてくれん化生め返答はどゝ〳〵どうだ上「大手を広げて話かくればこなたは猶も声高く一〔富セリフ〕ヤアおろかや汝人間五輪の生をうくとも我通力に及ばんやそこ立され一芝なくなれ化生め一富立さるまいか一芝なくなるまいか一富達て妨なすにおいては忽五体は吹雪と激て鳰のみくずとなしてくれん一芝何を小しやくな上「秀郷いらつて早足をふみ遁さじものと組付を丁ど払ひし有様は風にもまるゝ青柳の雨吹払ふその風情互ひにいどむ物音はげに轟の橋のもと流に立浪どう〳〵〳〵女らう遙に身をすさり一富マア〳〵まつた待てたべ一芝ヤア卑怯な変化女すみやかに正体を顕すまいか一富サアそれは一芝但し是にて打放さうか一両人サア〳〵〳〵一芝サヽ返答は何と上「せめ問はれ女﨟落くる涙を払ひ一富かくなる上は何をか包まん誠われこそ人間ならず龍の都八大龍王の乙の姫たま〳〵生を受乍ノウ浅猿しや上「三悪道の苦しみものがれ渚の捨小船一富ゆきゝの人をためしたうへ我願ひをかなへん為上「扨こそよな〳〵顕れ出化生変化と恥かしい比容一富然るに今宵不思議にも御身の如き武勇のかたにあひ奉る自が本望何卒此身の願ひをばもし叶へて給はらば弥勒の世に及ぶともかつて御恩は忘れまじどふぞ叶へて下されいのう上「思ひ入てぞ願ふにぞ一芝扨こそ我推量に違はず正しく蛇身の変化よな我神国に生を受万物の司たる人界に依て望を叶へんとは尤なる事いかにも叶へ得させんがシテ其願ひは一富その願ひは只今御覧に入れん上「あやしの俵さしおしへ一富自が願ひは此一品一芝内やあやしき北俵上「立よる秀郷おしとゞめ一富サア何事も自が心をこめし願ひの一品一芝シテ其子細は一富その様子は上「いはんとしたる折こそあれ漣よする浪の音龍女は渚を打詠一富アレ〳〵刻限きはまる此土の遊行はや龍宮へ帰れとある父龍王より知らせの浪礒打音は是非もなし早おさらば一芝ヤレまて乙ひめ一富いや〳〵おとゞめ有てはかへつて我身に仇浪の音を限りの龍神界名残は尽ずはやおさらば上「名残は尽じと振払ひ霧立渡る長橋にくゞれる浪の水の音に姿紛れて失けるを末世の記録に残せしはあやしかりける次第なり段切跡〔将門芝翫岩浪慶子〕黙[だんまり]りなり此文談橋弁慶に倣ふよき文談は何にても潤色なるもの也
此一紙は其作者の甲乙をいふにあらず、稽古する子供衆のいまだ習ざる外題を見るならば、稽古をはげまん便りにと、横山町二丁目和泉屋永吉板、年号見えねど文政の始頃出板と見え、富本さかんにして、清元の外題見えず、今清元の方流行して富本は衰ヘたり、常盤津のみ色をかへずます〳〵もてはやせり、作書に因みあれば爰に出す、常盤津・富本・清元の系図は『声曲類纂』に委しければ略す、好人此書を見て知るべし
富本方 |
大関 そのおもかげあさまがたけ 其悌浅間嶽
関脇 はるのよしようじのうめ 〔夕霧伊左衛門〕春夜障子梅
小結 れんりのたちばな 〔小紫白井権八〕まゐらせそろ連理橘
前頭 いとやなぎこいのおだまき 〔糸屋小いと〕糸柳恋苧環
同 めいしゆもりいろのなかくみ 〔おきく幸助〕名酒盛色中汲
同 みやこけんぶつさいしきもみじ〔彦惣頭巾小琴帽子〕都見物彩色楓
同 ありすがたじやうるりせかい 有姿浄瑠璃世界
同 みちゆきせがわのあだなみ 〔お半長右衛門〕道行瀬川仇浪
同 しんきよくたかをざんげ 新曲高尾懺悔
同 みちゆきひよくのきくちやう 〔おなつ清十郎〕道行比翼菊蝶
同 ぜんせいあやつりはなぐるま 全盛操花車
同 みちゆきこいのおだまき お三輪道行恋の繯
|
前頭 しんきよくかくらじゝ 新曲神楽獅子
同 はですがたあふみはつけい 〔小いな半兵衛〕侠容形近江八景
同 むつまじづきこいのてどり 睦月恋の手取
同 さかまちよいのよつはぢ 〔おつま八郎兵衛〕坂町宵四辻
同 としのあさかれいのことぶき 歳朝嘉例寿
同 いくきくてうはつねのみちゆき 幾菊蝶初音道行
同 みちゆきおもひのたまかづら 道行念の玉かづら
同 おんななるかみせがはぼうし 女鳴神瀬川帽子
同 みちゆきなたねのもすそ 道行菜種裳
同 しきのながめよせてみつだいじ四季詠寄三大字
同 いたづらがみこいのくせもの 〔松風村雨〕徒髪恋曲者
同 ふゆあみがさくるわすいせん 冬簦廓水仙
同 もゝよぎくいろのよのなか 〔通小町関寺小町〕百夜菊色世中
|
前頭 〔おきく幸助〕ちらし書仇な命毛
同 〔お染久松くめ川久兵衛〕うきなのはつしも
同 はまちどりいろのなてう
同 めうとごとあめのやなぎ
同 四十八手こいのしよわけ
同 ふうりうつりぎつね
同 てうちどりはるのすがたみ
同 ちりのこるはなのかほ鳥
同 〔小むらさき白井権八〕そのすがたまゐらせそろ
同 松とむめいろのゆひわた
同 浮名のよつきびくぜたい
同 なつこだちさんげのむつごと
同 じうにだん君がいろのね
同 はぎすゝき露のまろびね
|
同 ゆふよそおい星あいのよ
同 〔山本久山白柄十右衛門〕その妹脊花の朧
同 ゆきをまつねやのすごもり
同 ことぶきみやこのにしき
同 〔おはつ徳兵衛〕道行しぐれの柳
同 ひなのめうと月のみづひき
同 〔おはな半七〕道行なさけの水上
同 はなは今にはかの夕がほ
同 〔おつま八郎兵衛〕ひよくのそてびやうぶ
同 〔おちよ半兵衛〕道行かきねのゆひわた
同 〔八百屋お七〕ふみづきさゝの一よ
同 〔小女郎新兵衛〕桜そうつゐのかゞもん
同 うたまくらこひの初たび
同 ひとふしものいみぶね
同 〔おみわ道行〕こいのおだまき
同 ふうふ酒もリ奴なか〳〵
|
同 しんじうちく生づか
同 参らせ候ゆかりのつき
同 めいぶつよしのゝすし
同 ぞうほうごにちのあたか
同 行平いそのまつかぜ
同 るりこん五かりがね
同 しんぢういせぢのはなし
同 君しらずいつせ一代
同 むかしばなし姥が一ツ屋
同 みちゆき色のおだまき
同 ぞうほうかぶとぐんき
同 五人づれなにはかゞみ
同 竹の園草かりさんろ
同 しんぢうくるはの水上
同 みちのく四十八たて
同 ならの都つま乞ふしか
|
爲御覧 行司
みちゆきこいのひきやく 〔梅川忠兵衛〕道行恋飛脚
もどりかごいろのあいかた 戻駕色相肩
------------------------------------
みちゆきさかへのくわげつ 〔おはな半七〕道行栄花月
ことぶきかどまつ 〔ふじやあづま山崎与次兵衛〕寿門松
いろざんげのべのはなみち 色懺悔野辺花道
こいとちうしやはつねのたび 恋中車初音旅
------------------------------------
勧進元 よるのはなすがたみかづき 夜花姿三日月
つもるこひゆきのせきのと 積恋雪関戸
|
常盤津 |
大関 やまとがないろのなゝもじ 倭仮名色七文字
関脇 そも〳〵うきなのはるさめ 抑浮名春雨
小結 しのだづまはなれぬなかとみ 信田妻容影中富
前頭 つまがさねあわせかたびら 〔おふさ徳兵衛〕褄重袷帷子
同 かつらがわつきのおもいで 〔おはん長右衛門〕桂川月思出
同 あかねぞめのなかのかくれゐ 茜染野中隠井
同 やほよろづそのおのうめがへ 八百万薗生梅枝
同 してんおふおふへやま 四天王大江山
同 おびのあやかつらのかはみづ 帯文桂川水
同 みこやまぶしちはやのことふれ 巫山伏千早経言
同 くものいとあづさのゆみ 蜘蛛絲梓弦
同 そのあふぎやうきなのこひかぜ 其扇屋浮名恋風
|
前頭 ふたおもてつきのすがたへ 両顔月の姿絵
同 ほとゝぎすはなのあるさと 時鳥花有里
同 みやこどりめいしよのわたし 都鳥名所渡
同 すいたどしかわぞひやなぎ 〔おはな半七〕好借川傍柳
同 はちじうはちよるのさめざや 〔おつま八郎兵衛〕八十八夜鮫鞘
同 はつざくらあさまがたけ 初桜浅間ケ嶽
同 みちゆきちぐさのみだれざき 〔あづま与五郎〕道行千種乱咲
同 すみかづらみますはごいら 奴髷三升羽子板
同 ちかごろこいのせわ 〔おしゆん伝兵衛〕近頃恋世話
同 うきなのちらしかき 浮名の散書
同 しんぢうあすのうわさ 〔おそめ久松〕心中翌の噂
同 やまともじこひのうた 大和文字恋歌
同 もみぢそでなごりのにしきゑ 紅葉袖名残錦画
|
前頭 ひなのみやこもみぢ玉だれ
同 みつのあさゆかしきかほぶれ
同 あやつりときしゆたい
同 女もじいろのはなぶさ
同 たつた川もみぢしらさぎ
同 いろのとりでそいねのしがらみ
同 ふたごすみだがは
同 おひのはたごてうのたそがれ
同 てうおどりまつのたゆふ
同 はつねのたび吉野の道行
同 〔おそめ久松〕いろ忍ぶ娘あきんど
同 はるをまつたにのもろごへ
同 しのぶぐさこいのうつしゑ
同 〔なすの与市〕ういじんのちごよろひ
|
同 夕ぎりあはのなると
同 たまくしげふたばの楓
同 またこゝにすがた八景
同 あだくらべつもるむつごと
同 娘ざかりねやの取組
同 たれがみぞ色のじつごと
同 いろの岩や大江山入
同 〔おはな半七〕道行恋路の松島
同 みだりばなしんのみち行
同 よるのつるゆきのけごろも
同 かむろもんびのひながた
同 女かみゆひこいのくせもの
同 みやま桜とらぬ枝ぶり
同 だてもよふあづま八景
同 〔山ざき与次郎ふじやあづま〕升おとし
同 同しやうきのだん
|
同 とうかいどうよなき石
同 いせのくにあこぎのあみじま
同 てうとますひよくの袖
同 女かみゆひむかしかつ山
同 みちゆきやごへのとり
同 そよとふくやかたのこひかぜ
同 だで娘二人のむこ入
同 色のめひきけんほう染
同 だてしらべ君をまつ島
同 もどりかごさかり朝がほ
同 いろのふか川おばなが袖
同 さらやしきお菊が悌
同 むめさくられんりのえだ
同 けいせいゆかりの月かげ
同 ゆらのみなと千両むすめ
同 色ぼたん袖のしがらみ
|
行水の草葉隠れも武蔵野や月代前の闇の空子故の闇にあらね共甥子を思ふ白蔵主我突杖も音すへて芒の穂にも伯父の身の異見くわへし戻り道変り窺ひ溜息して狂言詞ノウ〳〵嬉しや〳〵やう〳〵と意見をしてまんまと釣をとまらせた是から何方へ行うとも気遣ひな事はない此様な心面白時は小唄ぶしで古塚へ帰らう小唄此里に住ばこそ浮名も立のふいのやれ我古塚へしやなら〳〵と小唄うとふて嬉し気にあゆむ向ふの草の中罠につまづき飛しさり狂言詞ワイのふ〳〵恐しや〳〵たつた今罠を捨たかと思ふたれば某の帰る道のまん中に罠を張すましておいた扨々罠作といふ者は近頃聞えぬものじや誠に人間の狐をばやこの心と申て物疑ひをすると申と聞たがきやつは狐にはおとつたやつじやいや又罠といふ物をいか様にして置ばけんぞくどもがかゝつたぞついでながらわなのしつらひを見て置うそろ〳〵立より捨罠を杖突ながら打詠狂言詞何やら黒いちいさい物があるヤイ〳〵おのれその黒いちいさいなりをしておれがけんぞく共をようとつたなアよう儕それがよいか是がよいか覚えたか〳〵一杖打ては一あしより二杖打ては二足より打たる杖の匂をかぎ狂言詞ムヽ味い匂ひや〳〵若者共がかゝつたこそ道理なれよい頃な若鼠を油揚にして置た是がくわひで了簡がならうか飛かゝつてくわんとせしが足つま立て飛しさり狂言詞アヽよしない事を思ふた目のまへにけんそぐ共をとられ今又此餌にほだされ某が怪我をしてはなるまいまづ二足三足行んとせしが立どまり鼻動かして振帰り狂言詞戻らうとは思へども此匂ひを聞てはなか〳〵戻らるゝ事ではないよう思へばけんぞく共が為には敵じやその上若者共が餌ばかりむしつて喰ふ事はしらぬでよしない罠にかゝつた餌ばかり喰ふに何の事があらうぞ飛懸つてヱヽ喰ひたいな〳〵身もわな〳〵と震はれて匂にきゝとれ余念なき芒おしわけ罠作が窺ふぞともいざしらず狂言詞イヤ〳〵喰たうても青縁を身にまとふて居るによつて身が重うてくわれぬヤイおのれ此化た装束をぬいで来てたつた今ぶくする程にそこのいたらば卑怯で有うそヱヽイ〳〵行んとしたる後より罠作得たりと山刀ぬくより早く二太力切付られてたまらばこそウンとこけこむ芒の中罠作は仕すまし顔まんまと是もしてやつた此手次手に営めもとうなづく所へ女房お瓜つまづきながら走りよりヱヽお前はとむしやぷりつく又うせたかと振払ひひばらをぐつと真の当鼠六は跡より駈付て手ごわい女郎め手におへぬシテ宮めにぼつ付たかヲヽ伯父の坊主も一ゑぐり宮めも爰へ手まへて来たと罠の中へ飛こんでヱイと打たる首の音鼠六は又もや合図の笛待もふけたる野見の軍太組子数多に提灯もたせヤア〳〵罠作約束の首請取ういかに〳〵と呼はつたり罠作は両の手に首と血刀引提出まんまと爰まで釣出した手ごわいやつで手廻らず是非なく首に致しましたいざお受取とさし出せばヲヽ出かいた〳〵女と容せし宮の首シテ約束の褒美はな家来共それ罠作に褒美をとらせはつと家来がさし出す包みヱヽ忝い是もふけうとてどゑらい骨折ヲヽさう有う々々主君直義公へ差上なば嘸御満悦鼠六にはまだ申付る用事もあり家来つゞけと野見の軍太皆打達て立帰る跡見送つて罠作は褒美の金を押戴きこいつもしめたと懐へ納るうちに気のつくお瓜夫の胸ぐら引とらヘヱヽ胴欲な罠作殿義理も法も弁へぬ大悪人大事の〳〵宮様をようも〳〵むごたらしう首切て渡さんしたのいかなる天魔が見入たぞと恨の泪たくしかけ宮様を殺された言訳此身も共に南無阿弥と落たる夫の山刀取んとすぴをヤレ待と芒掻分白蔵主あけに染つゝ起上りお瓜か刀引とればヤアお前は伯父様ヨヽ白蔵主様かとお瓜はもとより罠作も南無三宝と仰天顔ヱヽそんならお前も夫の為にヱヽコリヤマア何とせうぞいのと云もうろ〳〵おろ〳〵涙罠作曇りし声音にて宵に見置た形容狐の変化と思ひし故仕すましたりと手にかけしがやつぱり誠の伯父御で有たかチヱヽ残念やしなしたり御ゆるされてと俄のはいもうお瓜は夫にしがみつきチヱヽ是あの様にむごたらしう殺して置て今更何の驚顔あんまりむごいと声ふるはせ恨泪にむせかへるこなたは苦しき息を継コリヤお瓜必す歎くまい元より覚期の我命子供たらしの咄にも聞置たる野干の身ぶり真似たればこそ殺しもすれ殺される様にしたればこそ強欲非道の悪者と思はせ心の底に納めたる罠作が大丈夫心底の程見屈たヲヽ天晴〳〵今こそあかす我本名罠作殿聞てたべと手負を屈せぬ丈夫の老人居直つて詞を糺し元某は官軍に名高き殿の法印了忠といふ者大塔の宮に随ひ参らせ紀の国に籏上して終に北条が大軍を攻亡し主上の御危難救ひしかど帝の御心定らねば遠からず乱発らんと未前を察上て武門を捨我心底を宮に告大蔵の局と呼れし内身の姪此お瓜を召連此武蔵は我故郷なれば国へ帰つて名を包み白蔵主と名乗る隠遁者又こなた社今民間に育ども一器量ある者なれば幸ひ姪のお瓜をば其方へ後妻に嫁らせまさかの時の力にもど心便に思ふ内我推量の的をはづさす足利兄弟は准后に取入り新田楠が軍慮を拒み大塔の宮を害せんと計り淵辺の手にてお命も落されんとせし所を不思議にまぬがれ我を尋ねて此地へ来給ふ此了忠が匿ひ奉りけだかき宮の御姿人目に立ば詮方なく女姿に出立せ参らせ是なるお瓜が妹と呼なし時節を計つて東国に籏上なさん我計略兼ては宮の御味方にと心頼は今此時まづかう〳〵と打明て物語んとは思へ共いや〳〵かく乱世の折なれば汝もし兼てより足利方へ心を運し宮方の我々を覘んも計られずもし打明て後悔やせん兎やせんかくやと思ふに付お瓜が頼を幸ひに異見に事よせ其方が心底を探り見るに人目を造る放蕩ぶらい誠は独の娘を手にかけ大塔の宮のお身代りヱイ〳〵〳〵と驚くお瓜サヽヽその心底を見るからは老さらぼいし此了忠此世に居ずとも事足りなんいかなればさ程まで宮方に心をよするぞ様子ぞあらんサヽいかにと深手を屈せぬ物語きくに罠作いち〳〵に胸にこたゆる心の割符ヱヽ早まりし残念やと落る泊を振払ひムヽ扨はこなたは殿の法印了忠殿にてありしよなかくなる上は何をか包まん我こそ足助重範が一族にて速見下総之助範広と呼るゝ者と始て明す夫の本名きくにお瓜はあきれ果顔打守る計也手負も苦痛打忘れオヽりや先年笠置籠城の折からいかにも六波羅方の虎口を蹴破り主上を始官軍を助て共に笠置に籠り数度の敵軍攻なやまし主上の御感も殊ならず一旦武名を上し身が運拙くして笠置は落城帝は捕子となり給ひ此身はその夜手疵を負ひ辛ふじて命を遁れ手疵保養をせんが為本国に隠るゝ内北条一家は滅亡し自然と開く帝の高運我身の手疵も治す上は【二三字虫バミ】嬉しや都へかけ付主上の龍顔拝せんものとは思へ共いや〳〵〳〵戦ひ過て公卿の世となり今更都にはせ行共恩賞を受んが為と笑ひをとらんも口惜く其上新田足利も功を争ひ確執と街の風聞まち〳〵なればよし〳〵何れにもあれ主上に弓引朝敵謀逆の企あらばそやつを亡し再武名を発せん者と一人の娘を伴ひ此地へ移つて姿をかへ強欲非道と仕にせをうり数多の金銀むさぼるも皆是まさか軍用の手当又さいつ頃後妻にめとりしお瓜と伯父が氏素姓定めて宮方に由緒ある人々ならんと思へ共折もあらんと見合すうちはたして足利兄弟が讒言にて護良親王を追失ひ謀反の色を顕わせど主上はかへつて悟り給はず新田楠が諌を用ひず又もや天下の乱口此春お瓜が妹とて尋ね来りしお蘭こそ正しく大塔の宮に相違なしお力になるは此時と思へど未だ明さぬ心底かく乱国の砌には親子の中にも心おかれ互ひに探る胸の内此頃足利より配符を廻し犬に入たる油揚鼠六きやつ諸共に欺かねば身代りはとるまじといよ〳〵造る上辺の強悪其虚に付入る古狐伯父御の姿に出たつて釣を止れと異見を幸ひ是も手にかけ殺して見せなば横道者と思ふは必定兼て用意の捨罠に掛つて余念なき有さま誠の狐と思ふが故誤つて此生害又手次でに宮の首討て見せしは兼てより心もふけの娘が命只一討に首をはね軍太鼠六に渡せしが跡の骸は尾花の中思へば不便の最期ぞと語る内より女房お瓜扨はと驚き走り寄哀を招く村尾花掻分見ればお菊が死骸是のふ母じやと抱上見れば甲斐なき亡骸に扨も〳〵可愛やな忠義故とは言ひ乍ら義理ある娘や伯父様を先立てわしやどうせうぞとお菊が死骸抱きしめ声も惜まず口説なき下総泪ふり落し娘お菊が身代りは兼てよりもふけし事鼠六めをたばかつて此所まで娘を連出し軍太に難なくつかませしが合点のゆかぬは了忠殿左程大望ある身にて我手にかゝつて死する事是疑ひの晴ざる所我此程殺生に事よせ多くの野狐を釣とるを無益とも思されんが我家の先祖より伝来せし軍法の秘書のうち調伏の法看て年経る野干の生胆をのらふ者の家の巽隅に埋る時はする事なす事けつまづき忽家の亡るよし詳しく記せり足利調伏には屈寛一と思ひ立たる我殺生今迄数疋の狐はとれども未老狐は手にいらず今宵宮の御危難を窺ひ化てうせたる古狐仕済したりと切付しが老狐は釣らで片腕の父とも伯父とも舅とも譬がたなき恩人を我手に掛て殺せしは何畜生と思ひ乍やつぱり是迄殺したる野狐の恨で有けるかと悔むをまたず白蔵主ヤア悔まれな下総殿我も其調伏の法をしれば多くの狐を釣とるこなた正しく足利を調伏の為求むるに相違なしと察せしゆへ何その老狐の生胆より百倍増りし苛法あり巳の年月揃ひし者の生血をとつてかたの如くおこなへば其効験新なり此了忠は巳の年巳の月巳の日の産れ天子の為に捨る命生過た此体腹かつさばいて望を叶へんとは思へ共なま中に夫を明さば義理立してよも我を殺すまじと思ひ付たる今宵のしぎ態と狐の変化と見せ罠に掛りし戯れも狐の人に化るはあれど畜生ならぬ此身をば狐と迄思わせて手にかゝりしも此身の本懐こなたの望を叶へん為とかたるに下総あきれ果すりや調伏の血汐を用立んが為にとや我もその法をしらぬにあらねどとしで揃ひし者もなー思ひ捨しが計からずも血汐調ふ上からは足利滅亡まのあたりチヱヽ有難や忝やと天を拝し地を拝し勇むにつけて女房は空しき娘の亡骸を抱かゝへてむせかへりヱヽそふいふお前の心ならなせ始からこふ〳〵と打明ては下さんせぬ可愛そふに此お菊おぼこ心の一筋にあの宮様を思ひ染一夜の契りも得えせずと死なした事の可愛やと又さめ〴〵と泣出せば夫もともに恩愛の涙にくれしが声はげましヤアめろ〳〵とかへらぬくり事勿体なくも後醍醐帝の御弟君大塔宮の御身代り立たる娘は親にましたる果報者子故に親は名を上る娘は天晴忠義ものと了忠殿にもほめてござる未練な泣なほゆるなと泣ぬは秋の虫よりも一しほまして哀なり了忠も泪をおさヘヲヽお菊出かした同じ忠義に死ぬ身でも生て詮なき此了忠此世の望更になし可愛やお菊は思ひねもはらさず死せしふびんさといふにお瓜は猶百倍せめて宮様のお世となり一日なりとも二日なとお宮仕もさせたならかうした歎きは有まいにと互ひに手に手取かはしたもちかねたる泪こそ此武蔵野の三の川あふれ流るゝ如くなりかゝる歎の折しもあれ委細を窺ふ油揚鼠穴芒原より現われ出ヤア聞た〳〵大塔の宮のにせ首わたし足利殿に敵たふ罠作此通り注進せんと駈出す鼠六支る隙に弦音してはつしと立たる白羽のそ矢鼠六が咽ぶえ突通しわつと計に息絶えたり是はと驚くその隙に尾花の中より声高くヤア〳〵速水下総が忠心慥に見届しと詞をかけて立出給ふ大塔の宮護良親王御装束を改させ白木の弓を御手に携次につゞいて以前の旅僧姿は烏帽子狩衣に粧ひ出る跡よりも数多随がふ警固の官軍見るよりハツと三人は飛しさつて平伏す宮は御声曇らせ給ひかくまで不幸の某を見捨ぬ忠義の了忠下総其身を殺し娘を殺し厚き二人が志忘れは置ぬ嬉しやと忠義を感ずる御泪勿体なやと三人がありがた涙にうづくまるこなたの公卿御目を拭ひ我こそ万里の中納言藤房といふ者我行脚の形りに出立今宵下総が家に宿りしは敷島の道の徳当今准后の色香に迷わせ給ひ足利が讒奏にまかせ直義にお預けありし宮のお命危ければ某屡御諌言申上し処主上御答の御歌にむさしのにありときくなる迯水のにげ隠れても世をすごすかなと御宸筆の短冊を給はる我其意を知らざれば御心を尋ね奉りしに帝の御けしき大に損じ吾妻の歌枕見てこよと追やり給ふ我何の罪かは知らねども叡慮にまかせ深き御心のあるやらんと直にそれより旅立ていつかへりいつか逢坂の関ならんと心細くも吾妻路の此武蔵野に来りし所尾花隠れの孤家あり宮は此地にましますと我におしゆる古歌の御心殊に淵辺が毒蛇の口遁れ給ひし御宮を邪智深き足利直義猶も枝葉を枯さんとはかるにそれをふせぎし二人が忠節感じても猶余りあり君御宸筆の御短冊下総にとらせ得さするぞと下し給へば三人はこは冥加かやと推戴く重ねて宮ののたもふには了忠が今迄の忠節お瓜が辛労下総が誠心何れをいつれとおとらねど不便なるは娘のお菊我にせつなる志殊に枕もかわさぬに我にかはつて死せしとは不便の最期をさする事よ此世の縁はむすばずと未来は必夫婦ぞと勿体なくも御歎下総始了忠も恐れ入たる嬉しなきお瓜は嬉しさ死骸をだきあげ是娘魂魄此土にあるならば今の仰を聞やつたか親に増つた果報ものとは言ながら生ある内あの御詞を聞せたら嘸よろごぼう物かあいやとかへらぬ事を女房がくりかへすこそ果しなや了忠はほゝ笑てアヽ忝や有難や忠義の為に死する命老のよろこび此上なし又二つには下総が忠義故とは言ひながら執着深き狐をば多く殺せしそのかわり此身を狐の姿になり手に掛りしは後の世の報ひをはらはん我心是で心なき狐狸迄も長く恨を忘るべし末世に武蔵野の狐の義理とも云ならば無益の殺生禁るはしともならん嬉しやと詞に宮はうなづき給ひホヽウ我都に帰りなば此所へ一宇を建忠義と義理に死せし汝我にかわりしお菊が死骸も此所へひとつに葬り塚をしつらひ得さすべしと仰は今にむさし野の狐の義理や狐塚名を後の世に残しけり了忠は喜悦の眉有難し〳〵サヽ此上は下総殿某が血汐をばちつとも早く絞り取足利調伏の用に立潔よく出立をといふも苦しき息遣ひ下総はつと泪を払ひ事おくれては詮なしとよわる心を取直し死共朽ぬ忠義の生血是へと用意の器疵口にあて汲とればお瓜はあるにもあられぬ思ひけふ程嬉しい悲しい日はあるまひ連添ふ男の本心は聞ながら義理ある娘がむざんの最期まだその上に伯父様まではかなひ別れをする事よ生延はりし此身の役と傍に落ちる山刀とるよと見へしが黒髪をふつゝと切て差出し是此黒髪を切たるは先の母御へ申訳伯父様姑娘の弔ひ首尾よう夫の高名を蔭より守る尼法師大倉の小林尼とあらたむべしと法の心ぞけなげなる藤房感じ入給ひ後悔ならぬ吼噦の口授をのこすも狂言綺語お乱お菊が文字を合せば乱菊なり狐は菊を愛るといひ瓜を好んで喰ふもの瓜の文字に化物篇を添る時は則狐我身を喰るゝお瓜が思ひ後世瓜の畑を狐のあらす事あらばうぬが名の作りをくらふ狐かなと書付おかばよもあらす事あるまじと仰にハツと皆々も感じ果たる計なり下総はいさみたち宮を都へ還御の御供只今是へ呼よせんと合図の狼煙を上るにぞハツといらへて数多の軍兵列を乱さずはせよつて宮を見るよりハヽハツと恐れ入てぞ扣へいる下総は宮に向ひ我は是より姿を容し足利の舘へ忍び込みじゆその血汐を首尾よく埋跡より御供に追付んと云に藤房いさみ立某は宮を伴ひ楠正行が立籠る縄手の砦へ御供申さん路次の警固は了忠下総二人が集めし数千の軍兵はや還御と立上れば東に昇る月代に勇みすゝめど唯ひとり残るお瓜が憂思ひ了忠今はのめを見ひらきヲヽ勇しき御出立御門出の血祭は殿の法印夜の殿忠義にからむ罠とかせなく音に血をば白蔵主草葉隠れに行水と哀を爰に残し置今の世迄も狂言に其名を呼て釣狐の謂を残して出て行
天保改元庚寅年孟冬
歌舞妓狂言著作郎西沢一鳳著
西沢文庫伝奇作書残編下の巻 終
造り物三間の間と書、正本屋の主人、先年打抜遠見の奥深なる楽屋の珍説本舞台の狂言には金輪奈落の切穴の秘事、近松の釣枝、奈河の浪手摺、並木の書割を始め三都に名高き作者の伝によせて八景不審やなアと思ふ黒蓋も颪さず明るゝ作道の階梯を著、外題の文字を田楽返しにして『言狂作書』と云。今年夫を清書の序、拾遺・残篇を戯墨して浄瑠璃歌舞妓の世界をわかち、王代・時代・世話・真世話の腹稿を一夜付同様に書たるは、まさに西沢氏のお家の物なるべし。かゝる長しき作り物語三編が間、引道具の書を用ひず、幕無しに書続、思入こなしのト書と共暗記でムり舛とブツヽケ書の内読をきゝつけ、予此道には黒幕なれどキツカケとたんの校合おして此本幕をしむる事になん
時嘉永己酉霜月幕外花道にて六法ならぬ
一鳳軒にかはつて此道の好人 蕣窓瓢翠述
西沢文庫伝奇作書続編上の巻
益々其御地皆々様御きげんよろしく御揃大寿山極奉申上候、次に此方無事御安心可被下候、しかれば『言狂作書』三編とも誠におもしろく覚候、中々作者衆ばかりにてはなく我らが為にも孫呉の秘書、六韜三略の巻ともいひつべき珍書に御座候、続編・付録とか追々御作出来候由、早く一見いたし度事に御座候、かのなにはづに作者此たび冬籠といふ御作に
今わざをぎを書は此人
と下の句をよみそへ候御一笑〳〵
成田や
七左衛門拝
西沢九左衛門様
無別条
西沢文庫伝奇作書続編上の巻
《一 作者の一巻さづかりしヒウドロ〳〵の仕組》
道頓堀の因果経に曰く、人間の捨処野等の薼場は作者也と、宜なるかな、就中歌舞妓作者涌出るは、娼家の小息子、下手俳諧師ならずば、学者・医者の成損ひ、坊主落、いづれ銭なしの野等共也、さり乍作者といへばいふものゝ、立作者となるは野等では根からなられず、上根に気転がとなくては叶はず、ポイ〳〵作者には成易し、立作者には容易に成がたし、されば才覚気転を廻らす事は、《楠孔明も禮銀持てならひにくれど、其文盲なることは》今時の医者にひとしく、素人が物しりの様にいへば、我は物識顏で鄙言だらけの仕組本、役者のいひ損ひにぬすくり付けりやう文盲でもすんで通ればこそ、うだら〳〵と性もない咄する間に、片仮名本なりと読ばよけれど、地が野等氏なり、銭遣ふにもカン〳〵坊、貧乏苦にせぬ顏は莊周が闊轍、顏回が一瓢の飲に張合たる貧楽の高枕、あはれ聖人の心に叶ふ身持は作者なりと、仇口も詮かた尽た産業也、爰に瀧田治蔵とて道頓堀より沸出たる異物有、天晴作者にならんと、心は矢竹に根気を砕け共、中々狂言の合点、仕組の塩梅、滅多無性、役者さへ得心すればヤレ嬉しやよい狂言じやさうなと、我作ながら善悪見へず、初日が出て舞台へかけて脇から見ると、いかにも役者が下手屎作者とこき出した様に呵るも尤、仕組がだれたり、又は味[うま]みのない狂言なること気が付て、どふぞ此事を机の上でがてんのゆく工夫、役者の遣ひ様座組によつて狂言の案じ方、仕組様急に呑込み、三都一番の作者と呼れたいと、一心不乱こりかたまつても力業にも及ばぬ所に当惑せしが、ふつと心付、独木は鄧林の茂をなす事あたはずといふ事あり、万事一本立では立身ならず、人の工夫をとる中に我才覚も出来る物なり、幸ひ中興の名人日の出の作者並木宗左に付随ひ仕組の稽古せばやと、早速宗左方に馳行、仮に師弟の契を結び、上手の案じ所、役者の遣ひ方に気をつけ、余念なく執心なりしが、一とせ顏見世の座組出来かゝりて銀主の変改、一座さらりと解て仕まふ所を、宗左切て出て、我は無給金表の歩銭を取るべし、役者も寄合て興行せん、芝居一軒出来ると此廓で余程の人たつ事と、かけ廻りて相談するに、役者も外聞旁尤なりと、俄に顏見世番付を拵るか、狂言を案じるやら、座払ひの銀子工面やら、上分の役者は本給の内に八分の仕切、中通り部屋・囃子方は初日の晩に六分、三日めに二分、十日めに又二分で本給丸払ひと定め、どうやらこうやら初日もふいご祭り、思の外に繁昌せしかば、役者もぐつと乗が来て、二の替の新狂言冬の內に出そふと相談かため、宗左はそれより取籠、治蔵を相談相手、其外ごら〳〵作者二三人、膝共談合ひとり咄しはならぬ道理、用にたゝぬ作者もそれ〴〵に抱置は宗左が大腹中、かの楠が泣男かゝへしも大将の器量、夫に付随ふ治蔵、自然と役者の遣ひ様会得する事も有し、油断せぬ作者に精出す役者と持合ふて、二の替りの評判よく、注連の內より大入、治蔵つく〴〵思ふ様、浄瑠璃の作は素人が作つても出来る筈じや、太夫が節付て語りさへすれば、マア浄瑠璃になるといふ物、素人作は操にかゝるかゝらぬは、あの曲輪の妙も有ふが、死物の木偶、浄瑠璃本で諸事捌て通る、こつちは役者といふ手にあはぬ人間共をつかふ事、自由にならぬ筈じや、是を思へば歌舞妓と浄瑠璃の作の懸隔する事を覚へたり、全く並木の林に入りし徳、誠に勧学院の雀作者の飯くはねば作者になられず、素人より出て歌舞妓作者の上手はなきものと、感心の余りいよ〳〵道の妙を探り得んと修業しける、程なく三の替りの相談、静なる貸座敷にせふと宗左が差図、座敷をからふにも奇麗な所は宿賃高し、寄合芝居の金も出じと、止むなく浜屋敷の明屋、家守を調子にのせてたゞ借り、古畳四五疊に茶瓶風呂に真黒な羽釜かけ、弁当持寄狂言の相談場、元より河岸へ掛出したる浜屋敷の荒地、下は物置納屋、しまりの戶もあばらやにやぶれ損ぜし透間より吹上る下屋風根板の上には作者の面々、煎餅の様な借蒲団身にまとひ、まだ如月の余寒もはげし、「伯母が心を焚しめて小袖を島までめさるゝ」と、鼻唄もおどぶるひながら狂言の相談の間には、役者のそしり話に夜もふけ、四五人がそれなりけりにまろび寐、いとあはれなる寐姿、寒さひだるさこたへられず、ぬけ出てかへるもあり、心安き方へ酒のみにゆくもあり、こそやへうまりにぬけるもあり、残るは宗左・治蔵の両人、狂言の工夫につかれ寐の枕もと、治蔵〳〵とよぶ声にフツト目さませば、ヒユウトロ〳〵にて四つの魂宙にぶらついたり、治蔵きつと見てがてんゆかず、舞台でつかふ樟脳火の人玉は見馴たれど、是は正しくさしがねでつかふにあらず、たゞし化物屋敷か、かゝる繁華の地に狐狸の栖も珍らしい、何にもせよハテ希有な事を見るなアと、寐ながらまじ〳〵ひとり言、おろかや治蔵、我は
これ並木宗輔・松屋来介じヤはい、是なるは柿川新四郞殿・藤川半三殿、役者にて名作者なる事そちもよく聞しるらん、我々四人が来りしはそちに作者道の秘事をつたへん為、極楽芝居の休の間に仮にあらはれ来たれりと、寐鳥ドロ〳〵は芝居の様なれど、何にもせよ作者の秘事をつたへんとある四人の名作者達、いかなる大事を伝へ給はらん、おしえ下されかしと、始て尻もつ立て敬へば、さもそうず〳〵、此道に執心なるそちが心をあはれみ、立作者となる秘事の一巻開き見てとくとゑとくせよ、併し冷酒をのんで半途にして根気を破る事なかれと、いふかとおもへばドロ〳〵〳〵、火の玉は四方になくなり、上からぼつたり落ちたは一巻なり、治蔵始て悦喜の眉一巻取ておしいたゞき、四人の作者は四天王、其秘事なればさぞや張良が黄石公に一巻を貰ひしは、唐土の下邳の橋の上、是は日本道頓堀の空家の内、ヱヽ大願成就忝なしと 、其侭開き見るに、大文字に第一気転・第二大胆・第三上根・第四記臆・第五堪忍と計り書付て外に何にもなし、是は何の事じやとあざける体相に、宗左むつくと起上り、最前からのあやしみ、寐た体にてとくと聞たり、そちは稀もの故人の生霊に伝を受るとは、作者道に叶うたる仕合せ、我もあやかる為其一巻いたゞかしくれよとあるに、治蔵猶もがてんゆかず、スリヤ此五ヶ条は先生のいたゞくほどの名語でござりますか、いかにも〳〵、先第一に、気転と書いたは作者道の肝要、たとへば古き狂言を仕組改め、新らしく見せるが歌舞妓、其中において役者の遣ひ様を工夫して、其場の模様を目あたらしう仕組、時々の見物の悦ぶ穴をとらまへ所に定め、狂言を取広げる時は、一日はでにして役者によく合ひ面白がるべし、さればこそ大坂狂言は京にてしぶくて、見物の気にあはぬ所もあり、又京狂言は大坂では一向手ぬるし、江戶狂言はきる物着て帯せぬにたとへ、何れそれ〴〵の気転第一也、第二大胆とは胆が太くなくては仕組になつて行つまり、どの様な上手なる役者でも菜屎屁屎に思ひ、丁稚小女童つかふ心にて仕組めば、机の上よく見へ役者自由につかはるゝ物也、第三上根とは下根では上作者になられぬといふ禁なり、第四記憶とは物覚へのよい事、今誤つて気丈なると取違へ覚へたるは、作者の文盲がしれて恥かし、古狂言を能覚前々の上手の仕組をとくとがてんしてゐる時は、舞台机の上に見へて役者に働らき付やすし、第五堪忍とは作者の心入なり、此道によらずよく堪忍する物は、立身出世せし事古今芸者に限らず、就中操作者と違ふて、口からさきへ生れたる役者を相手にする事、屎糟の様にいはれても腹立ず、狂言本打付てこんな狂言がなる物か、おのれして見い、ひりくそ作者の給金盗人めと悪たい云はれても何とも思はず、又は惣々こぞりかゝつてあほらしい狂言じや、是をおめ〳〵とよう本よみがしられた事じやと、たとへ叩かふが張りまはさうがへちまとも思はず、堪忍して幾度も修行じやと心得、しかられた顏もせず、仕組あらためて役者の穴をこらへるが肝心、腹立たり口おしいと思ふ心有ては、此廓にすまぬがよし、昔より芸者根性といへば今更の事にあらず、よく〳〵堪忍を守るなり、此五ヶ条は名作者の性根魂なる事、先師並木宗助口授の意見、おれが心魂にゑり付置たり、然るに今まのあたりのふしぎの一巻授かりしは、天晴上作者になるべき前表、たのもしゝ〳〵と逐一に利害をとけば、治蔵ほとんどかんじ入、やゝ有て一巻懐にねぢこみ物をもいはず、根板ぐはた〳〵〳〵空家の戸蹴立て飛ぶが如くに立かへりけり、宗左跡に片頬で笑ひ、あいつは何を思ひ出しをつた、渡辺の姨になつて是取ふ計りじやと、破風蹴破りしけしき、はてなアと、夫より案じかけのもやう烟草と相談しける、扨治蔵は夫より謀反を起し、師匠と頼みし宗左を敵にとり、昼夜根気をくだき五ケ条の法を守り、わづか三年の内に一方の大将となりしは、ゆゝしき嗚呼の物也、なれども命を的に仕上たる作者故、労れ毎には茶碗の一こくのみ、冷酒のとゞこふり心の火を削り、終にヒユウドロ〳〵に成しはその身の本望とやいはん、もと治蔵は立作者となつて名を上たるは、作者道の秘事の一巻所持せし故と、兼々沙汰有ければ、治蔵が息引とるといなや、ならず作者の面々悔にゆくを付たりにて、かの一巻を奪ひとらとたくらみ、我一後家をたらしこみかの一巻をいたゞかしくれよとたのみ、取出し見せる所を互ひに奪あひつかみあひ、何が書てあるやら血眼になつて喧嘩の最中へ、宗左のら〳〵出来り、各さなせそ〳〵、其一巻の曰因縁おれがいふて聞そふ、元来其巻物はおれが拵へて其夜芝居の魂を釣おろし、家根から付声にていはせ、一巻を雨のもる所よりほふつてやりしも、きやつは上作者になるべき性根魂を見すへ、心をはげませし計略、鬼一法眼の三段目の趣向うつむけしと、咄を聞て皆々はアレと喧嘩の腰もぬけ、作者始てがてんがいたか、ゆかぬかまじくじ〳〵《十五裏まで》
右当世芝居賢気は安永六酉年浪華半井何某が戯作にして京寺町三条上る菊屋安兵衛の板なり、五冊物にて役者を始、浄瑠璃語り・三味線ひき・人形遣いなど数段有る中に、此一段は狂言作者の因みあれば爰に出す、文中並木宗左と云は並木正三、瀧田治蔵は竹田治蔵の事にて秋葉権現廻船話など書たる宝暦中の作者にておかしければ写し置ぬ
時つ風浪静なる難波の浜むかしの京と名に高き高津の宮の高台に登りて見れば煙立、茶屋はいろはの四十八櫓は八つの定芝居、爰繁栄の大湊ふかき恵や道広き道頓堀の片辺に住居する老人有、年壮き砌りより竹本・豊竹の浄瑠璃を好て、かたる事は不得手なれど聞事は好者なり、幾年か東西の浄瑠璃操の替りを見放したる事もなし、住家より程近ければ芝居の木戸口へ成共毎日通ひ、外題看板にても見てかへらねば気分勝れず、あまり此道を好るゆえ知れる友達異名して筑後越前の頭字を取、筑越翁と称じける、独住身の気散じと虧天目と徳利引寄せ一杯の酒に酔を催す、酒呑童子の道行、月に分れて月に行実や盧生が見し夢の栄花の程は五十年、借の浮身の楽みと雪の段を副臥とし一睡せるぞ豊かなれ、時東雲の頃なるに若き者共数十人入来り先生は御内に有ますかと案内す、主空[むく]と起て戸を開き、是は〳〵未夜も明ざるに各打連立ての御越は芝居行と推したり、初る迄は余程間も有ぬらん、先煙草にても参緩々と御出あれ、して各々方は筑後へか越前へかとたづぬれば、大勢の中より親父分進み出、否此人数の中にも豊竹へ参る者も有又竹本を見に参る人も候が、斯同道して宿元は出ましたれど、西贔屓の東連中のと二組に別れて動もすれば喧嘩を仕出し姦しい事てござります、先生には此道の御粋方ゆえ芝居の訳を御存の義なれば、若い者共が片意地成贔屓論をいたさず、納得仕る御示しを頼みます、然ればまづ今日は芝居行を追ての事にいたし、幸ひよい次手なれば浄瑠璃の由来物語が聞まし度存ます、若い衆いづれも何と〳〵と尋ぬれば、皆々聞て是は一段とよい思ひ付、御苦労ながら御咄を頼み上まする、筑越翁聞て同気相求る御所望幸ひ、某も徒然の慰み、然らば物語致すべしと、大字七行の稽古本二・三冊と巻物一軸とをたづさへて座上に居り、此来歴の義は余程年経りし事と云、又物覚薄きは老人の習ひ、伝へ聞しに違し品も忘れたる事も多からん、併所まだらに咄し申さん、聞給へと破れ扇を叉に搆へて声繕し東西〳〵東ヲ西イ
宝暦第六丙子の年 浪速散人一楽
右『竹豊故事』三巻は我家の板にして芝居の濫觴、浄瑠璃の由来、太夫の受領を始、古流の太夫の評、三味線の由来、操人形の故事に至る迄、筑越翁のはなしに寄て実に尽せりといふべし、其文浄瑠璃歌舞妓共に通ずる確言一二段を爰にいだす
惣じての音曲を『名談集』には郢曲共俳優共戯遊共云なり、何れも狂言綺語の戯れ事なりと云々、狂言とは物狂は敷詞なり、『法界次第』に曰、綺は側なり、語は辞なりと云、心は道理に卒を綺語と号と云々、『周礼』の註に曰、発端を言と云、答述るを語と云と云々、『毛詩』の註に曰、直に言を言と云、論難するを語と云と云々、然れば狂言綺語と云は堅き事を和らげ、或は方便の為に戯れ言をなして愚なる人を善道に導く謀計の誡なり、白楽天の『洛中集』の記に曰、願くは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤を以て翻して当来世々讃仏乗の因、転法輪の縁となし給へと云々、《13オ》此文に依て見る則は諸法実相の理顕然たり、峯の嵐・谷の響き・鴉鳴鵠躁皆仏法と観ず、況や此浄瑠璃の文句趣向、表には世間の戯相を顕すと雖勧善懲悪の深理をふくみ、詞には当世の人気をさつして作文をなせり、神祇・釈教・幽玄・恋慕・哀傷・兵戈・君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友等の五倫の道を正し、世の為人の為専ら賞翫すべき道なり、信すべし、見物すべし、聞べし、心を止て語るべし
夫若以、謡・浄瑠璃等の郢曲の譜は狂言綺語の嬉遊言也とは雖も、其態堪能に達する時は、音義正しく、大鐘・大族・姑洗・蕤賓・夷則・無射等の六律に通じ、大呂・夾鐘・《13ウ》仲呂・林鐘・南呂・応鐘等の六呂にも達す、『史記』の『正義』に曰、律は気を統べ物を類す、呂は陽を統て気を宣と云々、呂律調和すれば化来宮・商・角・徴・羽の五音に達せる故、衆人の六根に徹して心耳を清させ、六塵六情の偏欲を猒離なさしめ、神魂を清浄になさしむるなり、『調音秘訣』に曰、○甲は声の始めなり、其音上つて天の五薀と成、寒・暑・燥・湿・風なり、呼息則天なり、陽なり、一調子高きを甲の音とす、○乙は声の終りなり、其音下つて地の五立と成、金・水・木・火・土なり、吸息則地なり、三調子下るを乙の音とす、○呂は悦びの音なり、陽なり、双調・黄鐘・一越《14オ》調等は呂の音なり、是天を司どる、天上には楽多き故に此調子を悦の音と云なり、○律は悲しみの音なり、平調・盤渉は律の音なり、陰なり、是地を司どる、下界には苦しみ多き故に歎き憂ふるの音とす、○角の調子は肝の臓より出る、和調にして直なり、是双調なり、○徴の調子は心の臓より出る、和調にして長し、是黄鐘調なり、○宮の調子は脾の臓より出る、大に充て和かに緩し、是一越調なり、○商の調子は脾《→肺》の臓より出る、軽く少けれども勁し、是平調なり、○羽の調子は腎の臓より出る、沈て深し、是盤渉調なり、○壱越、断金、平調・勝絶・下無・双調・鳬鐘・黄鐘・鸞鐘・《14ウ》盤渉・神仙・上無、是を十二調子とも十二律とも云なり 熟思ふに筑後・越前は天性の達人にて、音声の開語自然と五調子十二律に合ひし浄瑠璃一道の聖也、『孟子』に曰、大に而之を化するを聖と云と云々、生得にして事の理に達するを聖と云也と註す、然れば両元祖の当道に達せられし所を以て見る則は聖といふに何ぞ憚る処のあらんや、『周易』の「略注」に曰、聖人の道は天地の万物を育るか如しと註せられしは尤宜なる哉、竹本・豊竹の両氏当道を世に弘められし徳に依て今当流の浄瑠璃世上専らに流布し、是を産業として《15オ》世を渡る人諸国の中に幾千万人といふ数をしるべからず、是天地の万物を育てやしなひ給ふ理に違ふべからず、其功大ひならずや、
名人上手下手の評判の事 《竹豊故事「名人上手下手三品評判之事」の項》
故陸奥茂太夫・多川源太夫・豊竹幾世太夫・竹本播磨掾・同頼母・大和太夫・和泉太夫・河内太夫以下其時代に名人と呼れし太夫衆も、筑後掾・越前掾の両元祖に及ぶ音声は一人も有べしとは思はれず、両祖師は天性自然《4ウ》の達人なる故に卻句甲乙編《→偏》頗の輩の師範にはなりがたかるべきか、其故如何となれば、斯る衆中の師伝を受得ても音声不都合の輩は其流を直写しに語る人は稀成べし、喩ヘば麁相なる木地の道具を上手なる塗師がぬり上たるを、又島桐・さつま杉抔の杢目よき木地道具との違ひ有がごとく成べし、両元祖は木地道具の如し、其外の上手分と呼るゝ衆はみな下手を塗上てよく仕立たる上手成べし、夫故に今の世に誉れ有衆中は皆下手を塗直して能芸にする筋を魂胆しての上、素人の弟子中に教へらるゝ故に、此理を以て考ればかやうの太夫衆を師匠と頼み稽古せられば利方よからんと存ぜらる、故竹本《5オ》播磨掾・当時の豊竹筑前掾、豊竹駒太夫、竹本錦太夫等は音声兼備の達人と云にはあらされ共、切瑳琢磨の功をつみて名人の誉れを取られしと存る、兎角上手ぶんと呼るゝ太夫衆は何分にも生質の器量薄くては名は揚られまじ、又都ての芸者に名人と上手と下手の三品あり、先名人と云は其一道に生れ付ねば達人名人抔といふ場にはゆき届がたかるべし、下手にても骨髄に徹して其芸に執心ふかく修行の功つもりなば上手といふ迄にはなるべきなり、名人に成べき浄るりは未だ功もなき内より程拍子の間合能、関《→開》語訳能開《→聞》へ清潔なる音声なる上、序破急の気転取廻しよくかたらるゝ人は名人に成べき器量兼て見へ透ものなり、然れども其名人と成べき仕出しの浄瑠璃なれども稽古修行に精の入らざるは悪挫になり、上手分と云場迄も行とゞかず終る太夫衆も有しなり、又炊《→硬》付て当をとらんとのみおもひる語衆中は大方下手分の為業なり、『顔氏家訓』に曰、上智は教ずして成、下愚は教ふといへども益なし、中庸の人はおしへざれば知らずと有、此語実に宜成かな、所詮名人と云は、芸の道堪能にして、其為す業自然と至極の場にいたり、感応見物の心魂に的するを云成べし、故竹本筑後掾・同播磨掾・隠居豊竹越前掾・三味線故鶴沢友次郎・人形当時の吉田文三郎等の類《オ》は神化不測の名達人と称して誰か非言あらんや、次に上手といふは夫々の業をよくなすを云ふなり、併し上手なれ共名誉の少き人も前々に有し、故陸奥茂太夫・竹本頼母・和泉太夫等なり、又上手の至る所にて名誉有しは故河内太夫・当時の竹本大和掾・同政太夫等成べし、又上手分の中にて大丈夫なる声柄は見物のほむる掛声も多く、是等の衆は時に合たる名物と云べし、故竹本大和太夫・当時の豊竹若太夫等を云べきか、何分上手と呼るゝ太夫衆は数無こそ
井上播磨掾、清水の理兵衛に示されて曰、浄るりの一《6ウ》体、秋は随分声花やかにかたるべし、是人の陰気を引立んが為なり、春は引しめて和らかに語るべし、人の気浮立時なれば引しめざれば人の情寄らず、時の気に乗じてやはらかならざれば人の情に応へがたしと教訓せられし由、是に依て思ふに、『増補鉄槌』に北村季吟の曰、呂は凡て和らか成音なり、律は立て硬き音なり、唐土の音声はやはらか過て聞わけがたし、日本の言語は清濁分明鮮然にして剛く聞ゆる、唐土は呂の国なり、日本は律の国なり、是和漢呂律の不同、呂は陰、律は陽なり、和朝には呂は春に用ひ律は秋に用ゆ、唐土は是に反すと云々、依之見る則は井上氏も此理に達せられし名人と覚る、《7オ》
《宇治加賀掾、門弟に教訓せられて曰、浄瑠璃を稽古するに面白気なく高き声有、美敷けれ共生得低き声有、大音にて下手なるは執行すれは上手に成べし、一躰小音にて紋切のせぬ音声は何程心懸ても其甲斐なかるべし、又如何様成上手成共、我芸に自慢の心か有て語られは浄るり竦縮て声花ならぬ者也と示されし、》
竹本筑後掾へ陸奥茂太夫初心の砌問て曰、女の詞はいかゞ心得てかたり可申や、筑後掾答て曰、第一に傾城の詞をよく合点して語らるべし、瓢々と語れは懦弱に聞えて下品なり、たゞ取止なく茫然と柔従成言葉を能々考へ《7ウ》らるべし、是さへかたり胝娫るれば外々の事共は皆語り易かるべし、其故如何となれば、語る処の者元来男成故佶としたる事は生質に持て居る故なり、次に心得べきは高位成御方の詞をばよく勘弁せらるべし、貴き御方の詞なりとて位を取過て語れば仔細らしく成て聞ぐるし、此段稽古に工夫せらるべしと教訓有しとかや
豊竹越前掾、門弟和泉太夫・河内太夫等にしされて曰、芸に精入ると云は、わが役割の場をよく工夫して稽古に飽迄精を出し、扨床へ上りては心を安らかに思ひてかたるべし、稽古に精を入てさへ置ぬればやすらかにかたりても少も間抜《8オ》はせぬものなり、兼ての工夫に心を尽さず、床にて計り精を入るれば、力身立、行づまりたる様に聞へて賎し、其上操へのうつり、人形の働き迄が不都合に成とおしへられし由、聞たり、
加賀掾門人宇治甚太夫・伊太夫寄合談せしは、師匠のかたらるゝ節所は見物衆極て讚ざると云事なし、我らは随分精を入大事に語りても見物衆の掛声なきは合点ゆかずと咄し合けるを、加賀掾聞て曰、皆の衆はかたり出すと否や讚られんと而已思ひ、始終面白き様に語らるゝ故要の場に至つて声いたみ聞ゆる故、讚度ても声の掛られぬ様に成なり、某はたゞ何となく安らかに語り、節所の場所に至りて《8ウ》精を入語るなり、始終共見物衆の掛声をとらんとのみ心得ば肝心の場当るべからずと云々、かゝる示しを伝へ聞れしにや、又自分の発明成や、故竹本播磨掾・当時の豊竹筑前掾等は此教訓の理にかなひし語り方の様に聞ゆる也
岡本文弥の曰、荒事を語る時は浄瑠璃の文句相応に強みを引張て語るべし、上辺計りを語り並べても人形の働きと相応せず、心と形と二つに成る故当り目なしと云れし由、尤成理なり、併し事は一図に計了解すべからず、或太夫、酒の酔の場を受取てかたられしに、床へ上る時に臨んで茶碗酒を二三盃呑で語られしに、一段と見物の請よく出来晴せし《9オ》とかや、かやうの人に若手負の場抔を語らさば、床へ上る時毎日肩先にても二三寸計り切られて後に語らるゝや、一笑〳〵、何様の場成共只一心の工夫に有るべきなり、
《次条に続くが、次条は『竹豊故事』では「浄瑠璃語り方心得之事」となっている》
芝居を勤給ふ太夫衆は文句の清濁り・節付等にも心を付給ひて麁相の無様に心得給へかし、物置・納屋の連子は破れても人目にたゝず、座敷の障子紙は少しの破れにても見苦しく、元禄年中に岡本文弥のかたられし浄瑠璃に老女の恋慕せる段の文句に、しらがみすじに油付と云所を、岡本氏は、白髪三筋に油付との関《→開》語にか《9ウ》たられしなり、虎屋源太夫此処を難じて曰、此文句作者の心には白髪筋に油付にて有べし、如何なれば三筋や五筋の髪の毛には油を付る事は成まじ、勿論三筋計の白髪は目にも見へず手にもかゝるまじ、併し文弥は天性の妙音にて何事も声にて押せば是非に及ばず、一声二節と云なれば文盲にても時の誉を取し人なりと云々、故実を知り顔に自慢せられても声がらの甲斐なき人を喩へて云ば、智恵有人の貧乏成に同じ、不都合にても声のよき語手は有徳成人の阿房に同じ、賢くて金持たらんは猶以て好ましかるべし、然れば声のよきを頼みにして《10オ》修行のうすき太夫衆は名人といふには成がたかるべし、
芸者の身の上計にも限ざる事なれど、運の能と悪きと有、先運あしき人は至極の上手なれども時に合ずして用ひられぬ身の上も有、或は自分の器量を顧みず、古実を守るがよひと計り心得、筑後・越前両元祖の語られし通を直写しにせんとのみ思ひ語らるは了解違ひといふべし、かゝる人をたとへて云ば学問によく達したる僧の談義の下手なると同意なり、仏の本意計説て方便の説をまじへざれば聴衆眠気出、次第に参詣も薄らぐものなり、然れば何を以て衆生に済度利益を施さん《10ウ》や、機に因て法を説と云なれば此段浄瑠璃に引当工夫有べし、併し芝居を見、浄瑠璃を聞は欝気をはらさんが為の慰み事なれば、兎角して成とも見物衆を悦ばさんと、名誉有し太夫達の真似をし、又は歌舞妓役者の詞色を似せ、或ひは放曠にて当りをとらるゝは本道の当りとは云難し、道外がましき語り方は場の見物衆へはあたりは有べけれど、桟敷に居らるゝ衆の耳へは悦ばれまじ、何とやら此近年に及びては両元祖の語り弘められし遺風は薄らぎし様に聞ゆる也
連中問て曰、浄瑠璃五段つゞき十一二幕の内、いづれの場《11オ》か大切に候哉 筑越翁答て曰、是を五段に綴るは能の番組に同じ、初段は脇能、二は修羅、三は葛事、四は脇所作、第五は祝言なり、大体是に表せる物なり、其内第一太夫の重んずる所の役と云は大序と三段目の切、第二は四段目の切と道行、第三は二段目の切と三段目の口なり第四は初段の切と四段目の口なり、又出語りは三段目の詰と同敷大切成役なり、其外作趣向に依て景事抔に限らず、此余の所にも要とする能場所有べし、古来より両元祖大概此意を以てつとめ役割をもせられたり、右に談ずるごとく、大序は一座の立物太夫のつとめらるべき第一の大役なり、先は其日の祝儀と云、次には見物《11ウ》衆への一礼の為なり、尤一部の始なれば末々の軽き衆には語らせ間敷場なり、『爾雅』の釈語に曰、序は叙なり緒なりと、然る時は其綱要をあぐる事蠶[かいこ]の糸を抽づるが如しと云々、序と云字を糸口と訓なり、其糸の口乱れなば始終の乱と成なんものを、然るに此近年良ともすれば軽き太夫衆の大序をかたらるゝは歎かはしき事にあらずや、併し今時の太夫達は両元祖ほどに大丈夫にあらざる故、三段目四段目の本役を大事と思はるゝから、未だ見物も入そろはざる間の役目故、此大役を未熟なる衆中に勤さるゝと推量せり、故筑後掾存命の節は今時ほど浄瑠璃も長からず、越前掾時代に至り《12オ》ては五段続も次第に永くなりしか共、大序・三段目・四段目の切は勿論、五段目に景事の有しか共、要の場は越前掾一人してつとめられしなり、『老子経』に曰、天下の難事は必易より作る、天下の大事は必細成より作ると云々、然れば大序は勿論其外の役儀をゆるかせにし給ふべからず、又末々の太夫衆、初段の中、五段目落合等の軽き場を受取給ふとも、其役儀を大切に存られ工夫を付て勤め給はゞ次第に立身し給ふべし、させる場にあらずとて捨鞭を打給ふことなかれ
浄瑠璃作者の事 《竹豊故事「浄瑠作者並近松氏之事」の項》
浄瑠璃の作者と極まりたる人古昔はなし、俳諧師あるひは遊人などの慰みに作れり、中昔、暦といふ浄瑠璃は西鶴翁の作也とかや、是を産業となせる人は近松門左衛門に始る、此人博学碩才にしてしかも当世の人気を察し、世間の世話をよく呑込て、百余番の浄瑠璃を作られけり、文句玄妙不思議を綴る、元来は京都の産にて去る堂上の御家に仕へ、本姓は杉森氏にして由緒正敷人なりしが、故有て浪人と成、《元禄年中の始め、哥舞妓芝居[1オ]都万太夫座の狂言作者と成、》又宇治加賀掾の浄瑠璃をも作られたり、此人世上作者の元祖なり、其後大坂に立越、竹本筑後掾の作者とならる、享保九年辰十一月廿二日、七十余歳にて死去せられぬ、平安堂巣林子と号す、法名は阿耨院穆矣日一具足居士と称せり、近松氏過ゆかれしか共猶余光失ず、相つゞき数多の作者出来りて趣向作文をなすといへ共、元来近松程の器量なき故か、古語の取誤り・古実の相違・有職のたがひ等間々有て見聞苦しき品も多ければ、畢竟は狂言綺語也と了簡せねはならず、併し機転発明の作意劣らぬ所も有《1ウ》、又は希有の趣向等も出さるゝ故大当りを取らるゝ段、是亦何れも達人と云はんに強て難有るべからず、其外作者と名を揚られし人々には、錦文流・村上嘉助・紀の海音・西沢一風・筑後の座本、竹田故出雲・松田和吉・長谷川千四・並木宗助・同丈助、安田蛙文・為永太郎兵衛、江戸にては北条宮内・塚原市左衛門・岡清兵衛等此外にも有しかど換骨の余情薄く名高き衆ならねば略し畢ぬ、併し是等は皆故人と成られしも多し、当時東西の座共に名誉を顕はされし作者達は人々の知れる事なれば談ずるに及ばず《2オ》
浄瑠璃古今の序 新群書類従p239 《竹豊故事 「浄瑠璃古今之序並当時之太夫名人之評」の項》
夫浄瑠璃は人の心を種として万の趣向とはなれりける、世の中に有人事業繁き物なれば、心に思ふ事を見る物聞物に付て作り出せるなり、色に愛る世話事、義理に清る時代事を見れば幾年生るもの何れか此道を好まざりける、力をも入れずして人の情を感ぜしめ、嫁を悪む姑にもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、悋き親父の意をも慰むるは此道なり、過し時世の竹本筑後掾なん浄瑠璃の聖なり、又豊竹越前掾といへる人有けり、浄瑠璃に奇敷妙なりけり、頼光山入の道行は竹本氏の一節に綾錦のごとく《9オ》語り、雪の段の出語りは豊竹氏の音声に雲井迄も響きなんと思はる、越前は筑後の上に立む事難く、又豊竹は竹本の下に立む事難くなん有ける、此人々を置て呉竹の世々に蔓茂り多き門弟達の中に、竹本播磨掾なん世に知られし名人なりしかど、惜や不幸にして短命なり、爰に往古の事をも此道の意を得たる人、当時は僅に五六人なりき、而はあれども彼是得たる所、得ぬ所なんあれり、豊竹若太夫は歌仙第一、僧正遍昭の歌の意に同じ、浄瑠璃のさまは得たれども其言葉花にして実少し、《9ウ》譬ヘば図に画る女を見て徒に情を動かすがごとし
豊竹筑前掾は歌仙第二、在原の業平の歌の意に同じ、其情余りて調子低し、譬ヘば盛り過たる花の色は少しといへども而も薫香あるが如し
竹本政太夫は歌仙第三、文屋の康秀の歌の意に同じ、浄瑠璃は功者にして其体俗に近し、譬ヘば商人の好衣着たるが如し、
豊竹駒太夫は歌仙第四、喜撰法師の歌の意に同じ、詞幽かなる様なれど始終り正しく、喩ヘば雲隠れせし秋の月の暁の風に晴るゝがごとし、《10オ》
竹本大和掾は歌仙第五、小野の小町の歌の意に同じ、古への竹本頼母の風なり、音声艶敷して気力なし、喩へて謂はゞ好女の悩める所有に似たり
竹本錦太夫は歌仙第六、大伴の黒主の歌の意に同じ、頗逸興有、然れども少し野鄙なり、たとはゞ薪を負る山人の花の蔭に休めるか如し、此外の太夫達、其名聞ゆる野辺に生る葛の栄拡ごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど、未だ浄瑠璃の奥義には至らざるべし、竹本の流絶せず、豊竹の節細にして、正木の藤永く伝り、鳥の跡久敷とゞまらば、程拍子をも知り、事の心を得たらん語人達は、大空の月を見るが如くに上代を仰で今を希望ざらめかも《10ウ》
天明年間竹本豊竹東西の浄瑠璃外題を見立番付として半切二枚にわかち角觗番付の如く摺し板行の写を爰に出す
西方 勧進元竹本
大関五段続 国姓爺合戦
関脇 同 ひらがな盛衰記
小結 同 芦屋道満大内鑑
前頭 同 菅原伝授手習鑑
同 同 大塔宮曦鎧
同 同 大内裏大友真鳥
同 同 加賀国篠原合戦
同 同 三浦大助紅梅靮
同 同 須磨都源平躑躅
同 同 鬼一法眼三略巻
同 同 壇浦兜軍記
同 九段続 夏祭浪花鑑
同 五段続 義経千本桜
同 十一幕 仮名手本忠臣蔵
同 上中下 新うすゆき物語
同 五段続 小野道風青柳硯
前頭七場 男作五鴈金
同 初中後 愛護雅名歌勝鬨
同 五段続 津国女夫池
同 同 仏御前扇車
同 同 井筒業平河内通
同 同 三荘太夫五人嬢
同 同 信州川中島合戦
同 同 右大将鎌倉実記
同 同 小栗判官車街道
| 東方 勧進元豊竹
大関五段続 北条時頼記
関脇 同 祇園祭礼信仰記
小結 同 和田合戦女舞鶴
前頭 同 頼政追善芝
同 同 清和源氏十五段
同 同 摂津国長柄人柱
同 同 後三年奥州軍記
同 同 粂仙人吉野桜
同 同 那須与市西海硯
同 同 苅萱桑門筑紫𨏍
同 同 藤原秀郷俵景図
同 上中下 釜淵双級巴
同 五段続 一谷嫩軍記
同 同 風俗太平記
同 同 東鑑御狩巻
同 入場 八重霞浪花浜荻
前頭五段続 相馬太郎茡文談
同 同 義仲勲功記
同 同 倭仮名在原景図
同 同 百合稚高麗軍記
同 同 安倍宗任松浦簦
同 同 本田善光日本鑑
同 同 武烈天皇艤
同 同 潤色江戸紫
同 同 酒呑童子出生記
|
行司 近松門左衛門
松田和吉
| 行司 紀海音
並木宗助
|
前頭 御所桜堀川夜討
同 本朝三国志
同 行平磯馴松
同 平家女護島
同 姫子松子の日の遊
同 相摸入道千疋犬
同 恋女房染分手綱
同 持統天皇歌軍法
同 日高川入相花王
同 吉野都女補
同 古戦場鐘懸の松
同 曽我会稽山
同 源平布引瀧
同 日本振袖始
固 太平記菊水の巻
同 天神記
同 敵討襤褸錦
同 孕常盤
同 敵討未刻の太鼓
同 山崎与次兵衛寿門松
同 大経師昔暦
岡 嫗山姥
同 曽根崎心中
同 心中重井筒
同 傾城反魂香
同 傾城八花形
同 淀鯉出世瀧徳
前頭 双生隅田川
同 七小町
同 車還合戦桜
同 応神天皇八白幡
同 赤松円心緑陣幕
同 京土産名所井筒
同 軍法富士見西行
同 楓狩剣本地
同 本海道虎が石
同 曽我扇八景
同 心中天網島
同 心中宵庚申
同 心中二枚画双紙
同 卯月の紅葉
同 冥途の飛脚
同 河内国姥火
同 二人静胎内探
同 百合若野守鑑
同 傾城吉岡染
同 鎗の権三重帷子
同 長町女腹切
同 頼朝伊豆日記
同 曽我五人兄弟
同 博多小女郎波枕
同 娥歌がるた
同 松風村雨束帯鑑
同 日本武尊東鑑
同 鎌田兵衛名所盃
同 忠信廿日正月
同 雪女五枚羽子板
同 兼好法師物見車
同 伊勢平氏年々鑑
同 元日金年越
同 太政入道兵庫碑
同 丹州爺打栗
同 児源氏道中軍記
同 伊豆院宣源氏鑑
同 双蝶々曲輪日記
同 将門冠合戦
同 崇徳院讃岐伝記
前頭 出世握虎稚物語
同 役行者大峯の桜
同 楠昔噺
同 昔男春日野小町
同 極彩色娘扇
同 奥州安達原
同 工藤左衛門富士日記
同 出世景清
同 百日曽我
同 天智天皇
同 佐々木大鑑
同 源氏烏帽子折
| 前頭 忠臣金短冊
同 建仁寺供養
同 身替弓張月
同 容競出入湊
同 岸姫松轡鑑
同 楠正成軍法実録
同 前九年奥州軍記
同 昔米万石通
同 人丸万歳台
同 奥州秀衡有髪婿
同 物ぐさ太郎
同 丹生山田青海剣
同 難波丸金鶏
同 田村磨鈴鹿合戦
同 祇園女御九重錦
同 鎌倉大景図
同 三国小女郎曙桜
同 悪源太平治合戦
同 摂州渡辺橋供養
同 雄結勘助縞
同 桜姫賎姫桜
同 先陣浮洲岩
同 茅源氏鶯塚
同 秦始皇帝太夫松
同 富仁親王嵯峨錦
同 本朝五翠殿
同 袂白絞
前頭 鬼鹿毛武蔵鐙
同 けいせい三度笠
同 けいせい吉原雀
同 鎮西八郎唐土舟
同 日本傾城始
同 賢女手習鑑
同 心中恋中道
同 西行法師墨染桜
同 南北軍問答
同 お初天神記
同 曽我錦几帳
同 記録曽我玉簪筭
同 大仏殿万代礎
同 蒲冠者藤戸合戦
同 源家七代集
同 赤沢山伊藤伝記
同 莠伶人吾妻雛形
同 万屋助六二代紙子
同 和泉国浮名溜池
同 尊氏将軍二代鑑
同 南都十三鐘
同 待賢門夜軍
同 本朝檀特山
同 鎌倉比事青砥銭
同 恋の寒ざらし
同 女蝉丸
同 茜染野中の隠井戸
同 狭夜衣鴛鴦剣羽
同 鶊山姫捨松
同 本朝斑女扇
同 青梅択食盛
同 播州皿屋敷
同 道成寺現在鱗
同 紀僧正旭車
同 遊君衣紋鑑
同 詩近江八景
同 浦島太郎倭物語
同 花筏巌流島
同 万戸将軍唐土日記
同 夏楓連理枕
前頭 玉藻前曦袂
同 浪花文章夕霧塚
同 日蓮上人御法海
同 天智天皇苅穂庵
同 裾重紅梅簸
同 双扇長柄松
同 甲斐源氏桜軍記
同 写侭足利染
同 義経新高館
同 心中二腹帯
同 神功皇后三韓襲
同 大友皇子玉座靴
同 玄宗皇帝蓬莱鶴
|
頭取 蝉丸・用明天皇・酒呑童子 | 頭取 枕久末松山・鎌倉三代記・八百屋お七 |
千秋万歳楽 | 浄瑠璃繁栄 |
享保十巳年五月豊竹座浄瑠璃丸本今年迄百廿六年になる、むかし狂言なれば写して爰に出すものなり
美丈御前 幸寿丸 身替弓張月 作者 西沢一鳳 田中千柳
麕の身、馬の足、牛の尾、まろき蹄、蛇の頭、燕の頤、亀背、魚尾の砂質いかんぞ、時に得がたしとせん、文武を兼し英雄良士則人の麟鳳にして、穂をならぶる聖が御代六十六代一条の院、宝算わづか七歳にてあまつ工を日の本にヲロシうけ継給ふぞ、やんごとなき、君いとけなくまします故
陳眉公的、評西廂記、李卓吾的、評琵琶記、千古撮当、後人尚且、有紙鶴泥亀之■*21、是个甚麽縁故、謂其翅不施足不縮也、原来院本的評論、世人唯知介做乾扮做坤、未知凍暖蒸寒之趣意、是故到底不免膠柱鼓瑟之見識、噫嗟蠢子無眼、知情有僻、是个古今通病、遂入膏肓、況且後世灰飛煙滅、不見一個扁倉、平安自笑主人、原是挿趣的元師、其論俳優、真個似詹尹君平的善卜、唐挙子卿的善相一般、些寸花嘴、説緑談紅、遇人所喜、登場子弟縱然做套做圏、能彀得青龍擬白虎麽、件々有君眼中、如今這忠臣蔵院本、生則上従沢邨訥子、下至尾上芙雀、三都四十余次抅欄、一座之且、浄、丑、渾、論其本事頓尽、其明弁当論誰入筏麽、啊噫恁地的咱、自笑主人的才却在陳李二公之右者可知、俺於自笑、一路友班、故人所謂酒兄肉弟也、諺道貍子打鼓猫子舞、得不為左氏作玄晏麽、奉勧当今趨情歩趣的徒、死心搨地、熟読這書、他日做那知情的掌盤者、不待七十三八十四呢、于時天明乙丑之冬日、書于浄福門前、一条衚衕之寓居
平安第一風流才子宿花眠柳幇襯主者
出生子
■*21
己を発して自尽すを忠と云とかや、其心を尽して欺かざるなりとは自然の字論忠を体として義を要となすの作意〳〵、どう取なしても当らざるといふ事あらず、抑元禄十五癸午年東武なる俳諧師宝田晋斎其角のもとより浪花の何某へ来りし文中に
此程の一件も二月四日に片付候て甚噂とり〴〵花やかなる説も多くして無上忠臣と取沙汰此節其事計に候、境町勘三座にて十六日より曽我夜討に致して十郎に少長、五郎に伝吉いたし候へども当時の事遠慮も有べきよしとて三日して相止候〔前後略□但し少長は元祖中村村七三郎、伝吉は二代目宮崎也〕
是を此趣向の始として、大坂にては宝永七寅年篠塚庄松座におゐて吾妻三八作にて則篠塚次郎右衛門大岸宮内の役、力弥には中興までつとめし佐野川万菊若衆がたの時是を勤めしが、歌舞妓狂言にての始として此狂言大当りなるよしとて、中寺町正法寺日親堂へ絵馬に此図をあらはし、次郎右衛門悦びの余りに是を奉納なし今に残れりとぞ、京都にては同じく寅年の秋二芝居共右狂言を出す、一方は大岸宮内に山下京右衛門、一軒にては小佐川十右衛門此役をなす、小佐川跡より初日出たれども大々あたりを取しとぞ、其後享保二酉年大坂にて故沢村長十郎大岸となりて姉川新四郎寺岡平右衛門の役をぞ勤め大当りを得て、同十一午年の秋大坂嵐三右衛門座にて又も沢長此役をなせど、此時は狂言少しかはりて不破数右衛門に嵐勘四郎勤めしなり、享保廿卯年四月大坂にて中村十蔵則座本にて大岸宮内の役をなして、此時堀部安兵衛に藤川平九郎、夫より後狂言いろ〳〵とかはり作る、あるひは大岸に姉川新四郎などの勤し事もあり、後延享四卯年京都中村粂太郎座元の時、大矢数四十七本と外題して沢村宗十郎〔後に助高屋高助元祖訥子〕大岸役にて六月朔日より初日出して大入を取しなり、其矢声大坂にひゞき、同じ外題にて市山助五郎宮内の役にて狂言つとめたり、今の仮名手本七つ目は此時沢村宗十郎が形となりて凡其悌を手本と成来れり、其後歌舞妓狂言にも
宝暦十一年巳十二月廿二日
泰平いろは行列 続 十段 大坂角の芝居座元中山文七
明和八年
小袖蔵いろは配 七冊物 京北側西の芝居座元尾上粂助
安永六年鳥十二月八日
日本花赤穂塩竈 四十七段続 大坂角の芝居 座元小川吉太郎
是らも追々出て各当りを取るといへども、兎角忠臣蔵出て後は此狂言を第一として仕打も是にこそ工夫物好を入大に委く成たり、
一 操浄瑠璃狂言にては其頃近松門左衛門作にて宝永三戌の年五月五日より竹本筑後掾の座に兼好法師物見車といへる切に碁盤太平記と外題し此趣意を出したり、尤此浄瑠璃には高師直塩谷判官また大星由良之助と出し初たり、又豊竹越前少掾の座にては享保十八丑年十月朔日より忠臣金短冊と外題を出したり、此時は小栗横山の時代にて大岸由良之助の名で出たり、夫より後寛延元辰年八月十四日初日として同竹本座にて初て仮名手本忠臣蔵と外題を出して大当りの評判つよく有しが、其頃太夫がたのもめ合出来て、此太夫・島太夫など半にして豊竹座へ入かはりて、大和掾〔初め内匠太夫後有隣軒〕・上総太夫入来りてしばらく勤といへども、自分の節付なせし程にもあらねばおのづから勢ひうすく成りて、思ひの外に其年十一月中頃迄して、芦屋道満にぞかはりたり、されども始にいふ如く此狂言のほまれつよくして、始の大岸宮内の名は是にて消て、是よりして大星由良之助にぞ改りたり、故吉田文三郎此大星の人形を遣ふもかの沢宗〔訥子〕が風儀をあらはし、並木宗助が作意に丸にて七つめを其侭にて用ひ入たりとぞ
一 操浄瑠璃にて同趣向の狂言の外題其年記をしるす、
竹本座は 碁盤太平記 上下 宝永三戌年五月五日初日
仮名手本忠臣蔵 十一幕 寛延元辰年八月十四日初日
太平記忠臣講釈 読切十一冊 明和三戌年十月十六日初日
躾方武士鑑 十幕 明和九丑年七月廿八日初日
いろは蔵三組盃 続十幕 安永二丑年七月廿八日初日 曽根崎芝居にて座元竹本染太夫
豊竹座は 忠臣金短冊 五段続 享保十八丑年十月朔日初日
難波丸金鶏 五段続十三段 宝暦九卯年五月十四日初日 此狂言大序夜討墓前に首を手向る
いろは歌義臣鍪 十一段物 明和元申年十二月十七日初日
忠臣後日噺 上下 明和九辰年四月七日初日 堀江市側座元豊竹此吉
合詞四十七文字 十段続 天明二寅年九月廿三日初日 堀江市側座元豊竹此吉
太平義臣礎 十冊物 天明四辰年正月二日初日 堀江市側座元豊竹此吉
忠臣いろは実記 続十一段 安永四未年七月十五日初日 江戸豊竹肥前掾座
其外女ゆらの助になしたり又は中芝居或は操などにても其悌を端くれに加ふる事有といへども、今是を略してかの忠臣蔵の各仕打のかはりめをしるし、それに評を付て古今いろは評林と題する物ぞかし
一 寛延元辰年より今天明五乙巳年迄年数三十八年の間に仮名手本忠臣蔵を三ヶ津の芝居に於て四十一度の興行なり、其役割残らず左に記す、
天明五年乙巳霜月吉日 八文舎自笑述
右『古今いろは評伴』は中本二冊に仮名名手本の狂言を三十八年の間に四十一度興行の度毎の役割及び其時々の仕うち思入の評特をくはしく書し書なり、天明五巳年より六十六年此かたの忠臣蔵のみを挙て評せば、なか〳〵際限なかるべし、予近頃『忠蔵類聚』と外題して仮名手本は誰も人のよく知る所なれば是を省、増補の書を集るに、前に云碁盤太平記・忠臣金短冊より此かたの外題四十余部あり、尤歌舞妓浄瑠璃の佳作なる者を抜萃して四十七段を一部とし、桜木にのぼさんと早草稿半に及べり、此書の付録一巻に雑劇の番付、画双紙迄悉く写て戯場好人の方に示さんと欲す、やがて上木のうへ見給ふべし、爰に四十七士の実説を書たる書頗多し、『旧赤穂義臣伝』といふ板木を始め、『赤穂精義内侍所』〔写本四十巻〕、『芝泉雑記』〔泉岳寺にて義士の働を聞書せし書なり〕、『介石記』〔良雄の行状の聞書なり〕、『義士順従録』〔写本廿五巻浅野・細川の大守家中に命じて実説を集させられし書也〕此余『誠忠武鑑』など呼で諸家の聞書をこと〴〵く見しが大同小異にして趣は変らねど珍説も又なきにあらず、其よき条を旧として、予『大石摺義士法帖』と題して一日の狂言十一段兼て仕組てあり、未よき座組にあはざれば世に出ず、是も類聚に続て上梓すべし、抑此一件は誰もよくしる事なれど元禄十四巳年三月に発つて、翌十五午年極月に夜討し、翌十六未年二月四日に落着す、然れば復讐夜討の年より今嘉永三戌年迄百四十九年となれり、此一条より歌舞妓浄瑠璃の雑劇にかゝる輩を始、講釈・錦画等に至る迄年々歳々是が為に業を発し口に糊する事いか計りか、皆此義士の余光成べし
此伝奇の事は前編にも演たれども序に云、実説と呼ぶ書『殺執転輪記』〔写本廿巻〕・『渡河記実録』〔写本三巻〕、『水月記』〔写本五巻〕など有、戯場狂言には伊賀越乗掛合羽〔安永六酉年〕、浄瑠璃には伊賀越道中双六〔天明三卯年〕始て狂言とはなれり、此実説は『武将感状記』〔板本十巻〕の中にも演て、寛永九申年正月廿四日池田家の臣渡辺靱負、同家中河合又五郎に討れしより騒動おこり、伊賀上野にて荒木又右衛門が助太刀して数馬が父の敵を討しは寛永十一戌年十一月六日なり、今年より二百十七年のむかしなり、安永に始て狂言にせしは百四十三年めなり、尤御当代のことにて遠慮もあれば、足利時代にして管領上杉の家臣和田志津摩、沢井又五郎と呼かへ、誉田大内記の家来唐木政右衛門助太刀せしとは歌舞妓作者奈河亀助が一世の作にして此右に出る狂言なかるべし、浄瑠璃に近松半二が道中双六は乗掛合羽を原として、七ケ年後の作なれば第二義となる事勿論なり、近世予が増補の外題に袖硯伊賀越日記とし、此春又けいせい誉の両刀と文字にかきほまれのすけだちと読せたり、外題に伊賀越と呼ずして伊賀越としらせん為の戯なり、其上翫雀〔当時歌右衛門成駒やをいふ〕十三ヶ年ぶりにて東都より上坂なれば其口上を割外題に書込て、
伊賀越通る初旅の曠は上野か浅草から乗掛合羽のお目見へは唐木流の奉書試合渡辺・沢井が仇討の道は吉田か岡崎泊り道中双六ふり袖を古市躍の花笠試合とは賦しけり、尤奉書試合笠試合と云は『水月記』に有て、柳生但馬守に二人の子有、兄重兵衛は和州千寿院に居、二男又太郎父に勘気を受大久保忠教の世話にて諸国を剣法の修行に廻り練磨の功をへて東都に帰り、忠教の屋敷にて父子の名乗をせずして但馬と立合ふ、但馬我躮としらず鎗にて突てかゝる、又太郎は無刀にて是に向ひ庭前に作りある菊の上にふるき笠有、此笠をとつて鎗をふせる、是を柳生の笠試合と云、但馬親子名乗をして又太郎跡目にたち、いまだ柳生の奥義をうけぬ間に父但馬は相果けり、兄十兵衛も和州にて歿し、又太郎但馬の守と名のれども真の奥義をしらず、天下の師範をせり、爰に和州柳生十兵衛の門人伊賀の産荒木又右衛門と云剣術無双の達人有て、十兵衛より柳生正伝の奥義を受、後東都に出て剣術の道場を出し、海内無双柳生真伝とか書たる看板を出す、柳生の門人諸大名二代目但馬〔始名又太郎〕に告る、但馬は真の奥義を受ざれば呼寄て試み、父兄の弟子にて真伝を受し者か、又虚をもつて名を売る者ならば討すてんと、又右衛門を屋敷へめしよす、又右衛門臆せず但馬の屋敷へ行、無刀にて稽古場に通され、但馬次の間より透見して人相のたゞならぬを感じ、半信半疑なから余人を遠ざけ稽古場に入て立合んとす、又右衛門木刀しなへなどを取らず、神棚の瓶子に挿たる奉書の造酒の口をとつて但馬が木刀清眼八双の搆へにむかひ、是より但馬又右衛門が素性を問ふ、荒木は十兵衛殿より直伝を受しと云、是より但馬へ奥義をつとふとの実説を、奉書試合とて呼て手にもとられぬと云意を以て『水月記』に出たり、是は伊賀越の狂言にはのきたる説なれども、予兼て此条を仕組伊賀越の狂言に取組んと思ふがゆへ割外題に書入、腹稿は有たれども狂言幕数にかぎりあり、重ねてさせんと腹の内に溜置たり、かゝる著作道に戯るゝ腹中にはいかなる物のあらんもしれず、いともおかしき業にあらずや
実は白子屋お熊と呼て江戸新材木町〔葺屋町・堺町両芝居の有し隣町の事にて其跡今に有〕白子屋庄三郎とて材木屋の娘なり、実説と云書『大岡仁政録』及『近世江都著聞集』にも出てよく世人のしる事なれども爰に略出す、主庄三郎は世事にうとき虚気者にて女房お常は心持いたつてかたましく欲心ふかき女なり。故に亭主を尻に敷町内を廻る髪結と密夫をし、娘お熊は器量姿とも申ぶんなき美人なれ共母に似て身持正しからず、衣装の好かみかたちも芝居町に近ければ役者の如く仕立、上気の者にて忠八といへる手代と通じ家内取しまりなく奢つよければ身上少々不廻りに成けり、仲人有て大伝馬一丁目地主弥太郎の手代又四郎といふ者五百両の持参金にて聟に入り、お熊との中に男子一人出生しけれども是忠八が胤なりとは世間の者迄よくしりけり、母お常は出入の者と通じ、娘は手代と密通すれば、下女下男迄姦婬して更に人家の交にあらず、手代共は引負の上駈落取迯して身上さん〴〵になり持伝へたる角屋敷を売んとす、同町に加賀屋長兵衛と云者有て律義なる人にて常々懇意の中なれば、白子屋の家内に段々異見を加へ、聟又四郎の持参金も多きに親もとへ聞へもいかゞなれば、三百両は此方より貸べき間、屋敷を売払ふはとゞまるべしとて質素倹約の事のみをさとして合力有しに、俗に云焼石に水とやら其年もつかひなくし、聟又四郎を不縁にせんと計れども、表向に離縁の時は持参金をもどさゞればならずと、お常お熊忠八と姦計を廻らし朝飯の膳部に大毒をしこみ聟又四郎をころさんとせしを、下人長助と云もの密にしらせければ、又四郎大に驚き早速懇意のかゞや長兵衛方へ行いさいを告る、長兵衛是をなだめて白子屋へゆきよそながら異見を加へ、聟離縁には金子入べし、爰でこそ家屋敷を売てなり共持参金をつくなはれよといはれて、庄三郎御異見こそ忝しと屋敷を長兵衛方へうり金子五百両受取り〔此かゞや長兵衛といふ人は其頃の篤実家にて其後公儀かざり御規式御用をつとめ子孫今に有〕、扨右の金子を又四郎に付離縁すべきを、常・忠八此金子を惜しみ外に科を付又四郎を追出すべきと謀をめぐらし、下女久より腰元菊に申ふくめて聟又四郎に剃刀を持て疵を付させ、心中の仕そんじなりと流布させ、持参金を返さず離縁せんと工みしも、忽天罰にて事あらはれ、又四郎菊をおさへて町奉行所へ訴へければ、大岡越前守殿御捌にて御吟味の上享保十二未年十二月七日に落着しけり、又四郎妻くま〔廿三歳〕此者儀手代忠八と密通し母・忠八らと申合夫又四郎を殺害致べく為、下女きくへ申付疵付候段不届至極に付、町中引廻しの上浅草に於て獄門に行ふものなり、庄三郎手代忠八此者儀、主人庄三郎養子又四郎妻と密通いたしふとゞき至極に付、町中引廻し浅草に於て獄門に行ふ者なり、庄三郎下女菊〔十八歳〕此者義、主人庄三郎妻常何程申付候共主人の事に候へば致方も有べきの処、又四郎に疵付候段ふとゞぎ至極に付死罪可申付候、但し引廻しに不及候、庄三郎下女久此者儀、庄三郎聟養子又四郎へ疵付候やうにと傍輩の菊へ申すゝめ候上、又四郎つま熊へ手代忠八密通の儀取次いたし、旁不屈に付町中引廻死罪へ申付候、庄三郎妻常〔四十九歳〕右常儀、養子又四郎に菊疵付候儀に付熊事母子の儀に候へば悪心たくみ候事露顕、依之遠島可申付候、但し事済候迄牢舎たり、又四郎養父庄三郎、養子又四郎へ菊疵付候節もさつそく様子をも見届ず候上、妻娘幷に手代忠八ふとどき成儀、一所に有ながら不存候段重々不埓なる儀に付江戸中追放可申付候、庄三郎養子〔卅九歳〕又四郎を始、手代清兵衛・下人彦八・長助・権助・伊助右之者共御搆無之、右之御書付は御用番御老中松平左近将監殿より大岡越前守殿へ御渡し被成候となり、此時お熊は引廻しに出るに衣装上に黄八丈の小袖下着白無垢きよらかに着、縄にくゝられ馬に乗り、襟に水晶の珠数をかけ、口に法華経の普門品を高らかに唱へて引渡されけるとかや、斯る時観世音も何として救ひ給ふべき、此已後しばらくは婦人黄八丈の小袖はお熊が引れし時着しとて忌嫌ひけるとなり、享保十二未年より五十三ケ年後恋娘昔八丈と云江戸浄瑠璃、安永四年九月に仕始けり、今よりは百廿四年の昔語りなり、白子屋庄三郎を城木や庄兵衛、お熊をお駒、母お常の密夫髪結を娘の色として才三と呼び、忠八を丈八と作り、聟の又四郎を佃屋喜蔵と云悪者にせしは聟又四郎が不幸なるべし、浄瑠璃の後いろ〳〵と増補せしもの少からず色盛八丈鏡など外題に呼し事も有けり
椀屋久右衛門は浪華御堂前の豪商にして古き家とぞ、旧趾今詳ならず、椀久新町の松山とふかく馴染端手に遊ぶ事増長して延宝の頃中元に正月の遊びをし、廓中の青楼に門松を建させ、其身は年男の豆打なりとて歩金小粒を桝に入れ坐敷〳〵に蒔たりける、親類縁者其奢侈をとがめて座敷におしこめ世間へとては出さゞりければ、欝気のあまりに発狂して炮烙頭巾の侭くるひ出る故、京師五条坂に出養生をさせ後すこしく病ひ治して京都にて歿したりとも云、寺は大坂八丁目寺町実相寺本堂南の方に有て、宗達の墓とのみ記して年号見へねば歿年の程しるべからず、五条坂に居る頃近隣には陶器師多く住所なれば、椀久も手づくねにて金魚の如きの魚の素焼を拵らへ庭中の池へ投こみ楽みとし、其遺る物なりとて京師の陶器師より予に先年送りし事有、椀屋と呼は木具の膳椀を商ふにあらず、陶器商ひの問屋にて五条坂の職人は多く椀久方のかゝへにて、かの地に別荘あれば扨養生に登せたりと云、宝永の頃椀久末松山・椀久熊谷笠と云浄瑠璃に物狂ひを仕始てより、享保十八丑年に〔椀久松山〕元日金年越と外題して文耕堂・長谷川千四作せしより此狂言行はれ、椀久狂乱笠・〔椀久松山〕由縁の十徳などゝ呼て明和頃には毎度椀久の狂言は出けり、既に自笑・其磧が作の御伽紙子などには一番に出たり、曲亭馬琴寛政のすへ京摂にのぼりて、戯作者の常なれば是らの事蹟をたゞせども詳にしる事あたはず、本願寺書院の庭に有椀久が寄付せし石の手水鉢をたづね、「正保三年十二月九日椀や久右衛門寄進」とあるを石摺にして山東京伝に送ると、『簔笠雨談』に書たり、此書に馬琴椀久の宅趾は大手筋に有しとのみ聞てゆかず、浪華の古老の話に聞たる一話也とて出せるは、椀久其始老実にして嘗花街の地をふまず、同庚の社友是をあざけり強て青楼にいざなひ恥かしめんとす、腕久が母はやく此事を聞て心憂や思ひけん、俄に文認めて松山と云新町の花魁の方へしか〴〵の事をつげて椀久が事を頼む、椀久是をしらず母に辞別して花街に赴んとす、母の云、商人の利に走るは常の事ながら廓にあそびてはわきて心を見らみゝものぞとよ、われ聞松山は全盛たぐひなく其心みやびたりと、御身くるわにゆかばかならず彼をよべと云、椀久母の命を得て遂に其友とゝもに楼に登る、友人等おのれ〳〵がしれる妓を呼むかへ、椀久一人熟妓なきをあざけり笑んとす、椀久母のおしへを守りて松山をよぶ、松山来りて一別の会話を叙る事ひさしく相しれるが如し、衆皆思ふにたがひて驚き羞、椀久もいぶかしくは思ひながらよき程にあしらひつ、扨房に入て云りけるは吾元より御身をしらず、然るをさきの如くもてなし給ふこそ心得ね、されど御身が情にて今宵の恥かしめを免たりと篤く是を謝す、松山うち笑てあなおかし、是皆母君のいつくしみふかきにありと、しか〴〵の事を語る、椀久始て母の慈愛のふかきを感じ且松山が情あるをよろこびて終に家をうしなふにいたりけるとなん、椀久が紋は扇車なりしにや、其事『曲三味線』に見へたり、又宝永の頃瓢覃かしくといふ弱法師、仏説を俗談して人を興じ市中を徘徊せし事有、歌舞妓狂言に椀久と此ひやうたんかしくとを付会して作りしなり、『愛敬昔男』といふ冊子にひやうたんかしくが図有、摹して爰にのす〔昔画の図を書〕、『曲三味線』巻の二に「右は此津に名を残せし椀久むかしの姿その侭に、むしやくしや天窓に立島の布子、丸紣のひとへ帯、革巾着のあきから、懐に伊勢天目吸口なしのきせる、とろめんの沓足袋、細緒のなら草履、かはらぬものは扇車の紋所、今はなさそふな顔して座せり【下略】」、此『曲三味線』に書し椀久が打扮はへうたんかしくが模様ともきこゆ、近世の俗談に名高きはへうたんかしくと江戸の志道軒なり、又椀久が事を小曲に作りしは『昵近竹』と云冊子にのせたる椀久道行是始なり、今の唱歌は皆是より出たり、『昵近竹』の唱歌左に抄出す、是らを見てもへうたんかしくを付会せしをしるべし、しりて益なき事ながら夜話の一助ともならんかと爰に付す、椀久道行三上り一中ぶし「(上略)ほさぬなみだの露しぼり、くちなば袖に今の身は、せいしがのべの思ひ草、葎の宿にたゞひとり、床はなれ行あかつきの、其きぬ〴〵の悌をとへどこたへもしよんぼりと、きのふはけふのむかしにて、法師〳〵は木のはしと、思ふはやぼかわけしらぬ、心の花のかほりをば、しらせたいぞやあゝはち〳〵、此十徳も過し頃、ゆかり法師が一ふしに、智恵も器量も身体もみな淡雪と消うせて、かわせし事のかはるともはなれまいぞの君こわく、われはちりかや身につもる、心のあくたむねにみち、それがこうじた物ぐるひ(下略)」へうたんかしくは後狂人となりて夜な〳〵新町の廓をくるひありきしとなり、椀久物狂ひとて是を作れり、
右は曲亭子が『簑笠雨談』に出せる考にて古老に聞たる説といふも、御伽紙子にある作り話にて実説とはいふべからず、へうたんかしくと付会して物狂ひの浄瑠璃成れりと云も曲亭子が推量の説なり、既に『傾城禁短気』の中より椀久と山崎与次兵衛の二人を出し、寛政七卯年恋と一字外題に書て「ことばのいと其下心」とかな付して〔椀久為十郎、松山国太郎、与五郎三五郎、吾妻いろは〕両人一時に狂乱となる仕組あり、此文句に「茶碗がわれたらついで見や、それサ〳〵又納戸の掛がねそつとあけ親の鼾をさとるも大事」などの文句有、近来三つ面といへる椀久の文句は大かた此恋といふ狂言の文句を梅玉にてつかひし也、然れば椀久が事跡は予が始に演る所実説にちかし、大坂本願寺へ寄付の手水鉢有は椀久の父にて一向宗なり、瓢簞かしくは空也念仏に似たる説経者なれば禅宗か浄土なるべし、近来梅玉にて仕組し折は彼法華宗なれば我宗に引つけ経宗とはしけり、何にもせよ俗に云燈台元暗とかにて、浪華の者はかゝる事実を投やりに穿鑿もせざるを、東都より来てたま〳〵古老の物語を聞それを実説なりと思ひ、ふるき作ものを読て推量の説より付会して誤る事いと多し、次に説く三勝半七が伝を見て齟齬せしをしるべし
西沢文庫伝奇作書続編上の巻終
西沢文庫伝奇作書続編中の巻
西沢綺語堂李叟著
元禄八亥年十二月七日摂州下難波村〔今千日寺墓所辺也〕代官辻弥五右衛門殿支配所墓所南側石垣の根畑中にて、年比卅四五歳の男、年比廿四五歳の女相対死の趣願ひに出、則検使として関戸条左衛門殿・渡辺為右衛門殿改られる所、男の疵咽二寸計、腹臍の上一寸計突疵と見へ、女は咽四寸計突疵くり候様に見へ、男の衣類、郡内縞両面綿入一、細帯一筋、羽二重下帯一、革足袋一足、珠数一れん手に持、脇差一腰拵付焼付金具糸柄長さ二尺一寸小刀一本但し脇差の鞘に有、女の衣類、日野絹煤竹小紋綿入裏日野絹茶一、郡内縮綿入一、糸ろく帯一、日野絹湯具一、木綿足袋一足、縮緬紅裏の服紗一、右は男女着用、外に木綿茶服紗に封状一通、三勝母さま、美濃屋平左衛門様としるし有を包有、検使改ずみ番人付置所、上本町八丁目札辻町京屋安右衛門の訴状に、私女房の妹さんと申女に紛れなく、男は存申さず候、長町四丁目荒物屋市兵衛借屋美濃屋平左衛門の訴状には私娘さんに紛れなく男女相対死と見へ候上は、女の死骸申受たき願ひ也、又長町一丁目近江屋庄右衛門貸屋中村屋安右衛門よりの願ひ状には、私方常に宿仕置候大和の国五条赤根屋半七と申者、当月五日に参り罷在、昨晩罷出今朝早速見届候処、女と相対にて相果候は申分もなき次第に候、宿に書置一通候ゆへ御番所へさし出し候処、大和の上書に候ゆへ直に為遣様仰に付遣し申す、相果候様子は曽て存不申、宿仕候仁に候へば半七の死骸申請たき願ひ書状五通、外に半七書置一通御番所へ持参の上、玄蕃頭殿〔御奉行と見へたり〕御聞届有双方の死骸半七の書置とも下し置れ両町よりも請取差あげ事済しけり、書置の写
尚々御袋様にはいつぞやくれ〴〵御申置候御事も皆偽りになり今更に恥かしく存候へ共しかしくわこのごうなりと思召御あきらめのみ参らせ候
今度三勝私かた相果候事、扨々にくしと思召候わんなれ共互に捨がたき一命にかけかく成行候事、くどく具に書き候へども恋のせつなる事推量可被下候、各様にも身の上の大事なる娘、我身も独りの母と申殊には身上の事も不弁、人口にかゝる死をとげ候も銘々うわきなると思召被下間じく、とにもかくにも筆にはいわせがたく候まゝ、跡不便と思召下され間敷まづ〳〵次第に跡にてしれ申候間筆をとめ申候已上
十一月 半七
三勝どの御袋様
平左衛門様
千日石碑霊名は 一蓮 嵐雪月照信士
月雪妙霜信女 託生
和州五条新町
赤根屋半七
播州大坂長町
美濃屋三勝
右両人情死の節の願ひ書は、十九年後正徳三年に辻弥五左衛門殿の扣へ書を爰に出せば実説にして、又千日寺の石碑は其比の歌舞妓役者の誰彼直に狂言に取組大当せしゆへ、長町親もとも心易きゆへ其当座に建たるものなり、扨も五十六年後寛延三庚午年に出板の俳書『嵐雪句集』一名『玄峰集』とも云は嵐雪の別号なればなり、此中に
あかねやみのやと聞へたるなき名のながれとゞまるところは千日寺の露ときえかへりぬ、盆の比は夜毎に群集し逆縁とぶらふ人あまた侍りけり、戒名嵐雪月照と石の塔婆に彫入たり、あるまじきことならねど思ひかけず思ひはべりければ「爰によく似たるゆめかな墓参」嵐雪
文化改元甲子年正月に出板の『簔笠雨談』三巻は東都曲亭馬琴子が其前京摂見物に登りし時の紀行の内より珍らしき事のみ抜萃せし書なり、其中に三勝が古墳と弁を出せり、美濃屋三勝が墓は大坂難波新地法善寺金毘羅堂のこなた茶店のむかひに有、世俗此寺を千日寺とよべり、七月廿七日此地の友とともにこゝに遊びて三勝が古墳を見る、石塔に南無阿弥陀仏の名号を彫付て外に法号なし、予がかねておもひしに違へば、此外にも彼ものゝ墓ありやととふに、なしといふ、墓のかたわらに新しき塔婆を建て寛政十三年辛酉二月日美濃屋三勝茜屋半七為二百回忌追善一也と記せり、今もその由縁の人あるにこそといへれば、嚮導せし人のいへるは、さにはあらず、かゝる徒は俳優家より追福いとなむといふ、寛政辛酉年百回忌に当れば歿年は元禄十五年二月也、石塔婆の角欠てあり、しれる者の云、労痎を患る者此石を末にして飲ば治すといふ、又此寺の門前にある乞丐女六が墓も、しかすれば酒量すゝむとて俗子往々かゝる殺風景をなすとなん、こゝに疑しきは『嵐雪句集』に〔前に云『玄峯集』の文「夢によく似たる」の句を云〕かゝれば予が見しは後に作りかへたる物か、又別に嵐雪月照と戒名彫入たる墓あるか、序あらば再び尋ぬべし、又大坂長町といふ所は傘張多く住り、三勝が家なりといふ傘屋、長町東側中程にあり、みのやは芸子の店の名なり、故に一名を笠屋といふよしいへり、是全く付会の説なるべし、雑劇にて笠屋三勝とかへたるは、慶長のころ女舞大頭の座元なりし笠屋三勝を擬したるなり、『事迹合考』といふものに「女舞は白拍子の事なり、慶長の比、桐屋大蔵・笠屋三勝、女舞大頭の座元なり」云々、是は『平家物語』『盛衰記』等のおもむきをうたひものにつくり太鞁にあはせて是を舞ふ、舞の打扮は天冠をいたゞき狩衣を穿大口をはく、是を女舞大頭と名づく、此舞に岩戸開・天地拍子・羅生門などいふ伝受の舞有しとぞ、永禄の頃室町家より禄給はりたる舞女に笠屋夏といふ者有、夏が事室町殿物語にみえたり、是笠屋と名付るの始か、その子孫に笠屋新勝・同万勝・同春勝などいふ女有、皆寛文の比までの女舞なり、三勝も此門より出たる女にて由緒あるものなり、歌舞妓狂言作者並木五瓶といふ者、三勝がいたゞきし天冠をおさむるよしきけり、天明四年十一月桐長桐芝居興行免許の時、馬揃とやらんいふ狂言をしたり、天冠狩衣大口のいでたちにて太鞁一挺にてうたひまへり、これいにしへ女舞の遺風なるべし、三勝は寛永の比既に老女にて京に住せしといふ、此一条醒世子の説なり、亦茜屋半七といふものと不義の死をなせし三勝は、大坂かごや町額風呂次郎左衛門が抱えなりし小さんと時を同じくせしお三といへる湯女なりとぞ、然るを歌舞妓狂言には昔の笠屋三勝が高名をかりて、笠屋にみのや対もよく其名もともに三勝といへば、狂言作者の働らきにてかくは作りなしたるを、後人笠屋三勝が事迹を考ず戯文の説に泥みて、三勝が家は長町の傘屋なりしなどゝ付会の説をなすにこそあらめ、とまれかくまれ三勝が墓など只何となくをかしきものなればこゝに記、かやうなばか〳〵しきことを論じをくも又わが党の一癖なり、又追考に此頃一奇書を得たりと、始に出す本文の書置を出して、此おさんは世にいふ三勝が実名にして当時の作者笠屋三勝と付会せし事しるべしと有、皆推量の説にして曲亭子が考は皆齟齬せし事明らけし、始法善寺の一名を千日寺とも呼りとは誤の始にして、嚮導せし人とは是浪華の雅人にはあらで、宿屋より雇ひたる案内者、世に云猛者曳の事にて一文不通の雇人なれば何をしらんや、其者の詞を信じて深く穿盤にも不及、かゝる戯作の草紙にもせよ書のするは非なるべし、文化の始比は道頓堀繁昌の余りにや毎度失火有て法善寺辺始終焼跡の荒しまゝにて、東北の小門を入りし所に石塔凡十基ばかり有けり、所謂南無三宝正三が墓、又徳利の形を画中に平の字書たる墓石の地蔵尊など狭き所に並び有し事〔今源氏そばやの居る所にて井筒嘉といへる酒屋の向ひがはなり、今取のけて何国にありや不知〕、其墓の内古き名前のなきを三勝が石碑といひ、又長町をつれ通て爰がかの笠屋の跡也など案内者の出るまゝに欺かれたるなるべし、亦俳優家の建たる百回忌の塔婆も現に今千日墓所の東榎の社の後に一蓮託生の石碑遺れども、手遠なるゆへ法善寺中人目にたつ所へ建たるなるべし、尤年号も七年の相違有、歿年元禄八亥年なれば寛政六寅年則百年に当れり、寛政十三酉としるせば享和元年にて歿年より百七ケ年となるなり、爰にまた予が家の板『浄瑠璃外題年鑑』にて見る時は宝永六丑年八月笠屋三勝廿五年忌と云外題見へたり、三勝歿年より宝永六年は十五年目にして廿五回忌には違へり、此時始て浄瑠璃にとり立、後すこしづゝ増補して延享三寅年に女舞剣楓、明和九辰年艶容女舞衣と外題出たり、されば此法善寺中に雑劇者より追善に建たる塔婆は、歿年より七年目に其比の名代俳優坂田藤十郎・杉山勘左衛門等歌舞妓狂言に取立大当りせしゆへ、長町の親もとゝ言合せ、狂言当りし冥加の為に千日の石碑を建たるなるべし、石碑台石に俳優の名前を彫しは此由縁あればなり、扨此七回忌の時を原として百年の追福の塔婆を法善寺に建しものと思わる、又浄瑠璃にて十五年目に廿五回忌と外題せしは、所謂取越にして近き事故遁れぬ遠慮の事有しなるべし、正しき神社仏院にも大ようの年数にあはせ、五年・七年の遅速を論ぜず年忌開帳等をすれば、いわんや心中情死の輩深く論ずるも無益なるべし、扨『事跡合考』をひきて笠屋三勝は古き名なり、女舞大頭と名付て白拍子の祖なりなど醒世子〔山東京伝〕の説といふも曲亭子の考、かごや町額風呂の抱へ小三と時を同じふせしお三といへる湯女なりと云説は、皆推量の説にして論ずるに足らず、金屋金五郎は島の内笠屋町額風呂の小三と情死せしを、浄瑠璃にて元禄十五午年八月金屋金五郎浮名額とて外題によぶ〔此年赤穂四十七士敵討ありし年なり〕、既に唱歌にも笠屋町千たびもと有て坂田藤十郎・杉山勘左声を似せつゝ合図をしらすとも有て、島の内の遊所を六軒丁と云古名有、玉屋・塗師屋・笠屋など呼ぶ家六軒を開発人にて笠屋町も六軒の内なり、三勝の親もとは長町四丁目の美濃屋なれど、島の内笠屋を仮店して垢摺女なり、故に笠屋三勝なり、何もむづかしき訳あるにあらず、六軒町の小夜格子といへるは木と竹を交て二階の格子に打しなり、其頃島の内置やと唱ふる家は皆其格子なりしとかや、重井筒おふさ徳兵衛の浄瑠璃に有、重井筒は宝永元申年の事なり〔四十七士敵討又金五郎の三年目也〕、ゆへにすこし好者の癖ある者は、是も付会の説なりとて、遠き旧事をひき出してかへつて我付会の説をもふくる事多し、都て此一条によらず何事にても、東都には平賀源内より発りて京伝・三馬・馬琴など、寛永此かたの人物を評じて小説をもふくる物多し、京摂は都ての人気高尚にして中興のことには甚疎く、仮初にも古代の人を評じ古き事のみを論ずるの土地なり、東都は古き名所とてもすくなく、古代の事を論ぜずして、二三百年已来の事を我おとらじと穿鑿して伝記をもふけ、彼地のことを尽したればとて、京摂の事を彼地へひきて、揚巻助六などを東都のものとはなせり、『近世奇迹考』などに出たる江戸の俠者の事は実説にもあらんが、京摂のこと書たる物は土地の方角・年月の相違などいと多くて読に片腹痛き事まゝ有、京摂に中興の事不穿鑿なるは名所・古跡・人物など多きゆえ未手の届ざるなるべし
是は又心中情死の類ひにあらず、夫婦とも強悪のものなり、此実説は『新著聞集』にも出て、大坂聚楽町に梅渋吉兵衛と云者胡椒頭巾といふ事を始て〔盗賊に勝手よき頭巾なるべし〕仕出す程の大悪党なり、大坂中の両替やの手代小者の親兄弟在所の荒増をも能覚へ盗の方便とせしとぞ、常に丁銀板を両替屋へ持行子銀にかへ、今一度見せよとて丁銀を手にとると思へば摺かゆる事、神変を得て両替屋毎に両三度宛是に逢ざるはなし、因て異名を板替の吉兵衛とて恐れしが、博奕の事につき窂舎して元禄二年四月十九日の大赦に獄を出て、その五月十九日天王寺屋九左衛門小者長吉金子百両かへに行を何とかしけん、途にて呼かけ其方の在所より親来りたり、云度事有により早く逢度よし、いざ来よとて誘ふ、長吉我は大切の用事なれば参るまじ心得てたまへ、扨汝は誰ぞと問ふ、其方の在所の者にて親とは入魂にするなり、当地に久しく住て其方は我を見しらねど我はよく見しりたり、是非来よさなくば親恨みなんと云ふ、然らば立ながらまいらんと吉兵衛がもとに行ける、吉兵衛が妻に小梅とて十五六の年増りを博奕の上手ゆへ妻にせし、それに云置て長吉が後より蒲団を打かぶせければ、やれ人殺しよと声を立る処を吉兵衛さし殺してげり、隣の者壁の破れより窺ひ見れば早脇差の血を洗ひし、外の相借屋彼是出合ひ家主与次右衛門にかくと云ば、以の外なる事をいふ人々かな、あれは夫婦いさかひなり、麁相なる沙汰あらせなと各をかへしける、吉兵衛その金を奪ひ新地堂島北町にて茶屋をせんとて借宅し用意せし頃、小梅が弟三右衛門いかなる故にか妻を離別しける、その女天王寺屋に落し文して、長吉は梅渋吉兵衛夫婦して殺し、死骸は三右衛門捨しとぞ書たりしかば、頓て公議へ訴へしに与力同心をあまた新地につかはしたもふ、吉兵衛は新町曲輪へ行ければ、六月十九日の夜なりしがしめだしにて吉兵衛を捕ふ、小梅・三右衛門・与次右衛門・相借屋召出されしに、相借屋はしか〴〵の断悉く演て別議なかりき、余人は閉口してければ獄舎しけり、扨死骸はと尋ね給へば、小初瀬の辺の古井に捨しと云しを、頓て捜させたまふに色も変ぜずありし、金の御穿鑿ありしに取合せ八十両ばかり出しぬ、扨科極りて吉兵衛は磔にかゝり、余の三人は大坂追放侍りしに、与治右衛門は高津に隠れ居たりしを訴人ありて首を刎られ、小梅は其後子殺をして磔にかゝりしとぞ、是は四十七士の敵討より十四年前にて、今嘉永三戌年迄百六十二年になる昔なり、元禄それのとしより五十年後浄瑠璃に仕組み茜染野中の隠井と外題して、吉兵衛を由兵衛とし、小梅の弟長吉を忠義の為に殺すと悪党を善人にかへたり、其後は追々に此狂言を題して増補する事なれば、梅のよし兵衛・小梅といへば皆善人として愁ひ事に仕組めり、寛政の末歌舞妓作者並木五瓶江戸にて隅田春妓女容性[げいしやかたぎ]と題して其比の名代俳優沢村宗十郎に低鬢の侠者と書かへ、梅堀小梅源兵衛堀と東都の地名に引直しさせたるゆゑ、今の世の女子供は江戸の事なりと思ひ違へるも多からん、今にも小橋野中の井戸とて年老の衆はよく知りたる事なれども其実説をしらするものなり
此実説も『新著聞集』に有て、敵討は元禄十四年の事にて赤穂義士夜討の前の年の事也、然れば赤穂離散と同年の事にて、半蔵・源蔵兄弟父と兄の敵を討たるなれば世に元禄曽我ともてはやせしが、翌年冬赤穂夜討は古今にためしなき事故、元禄曽我の取沙汰は第二義とはなりけり、抑此旧を尋ぬれば青山因幡守殿大坂御城代のとき、家中に石井宇右衛門と云有、西国方の浪人赤堀源吾右衛門しるべ有りて、宇右衛門方に食客となり家中の若侍と出合、鎗の師をなす宇右衛門、源五右衛門の未熟を異見せしを聞入ず、立合を頼ければ是非なく試合、源五右衛門物の見事にしつけられ、其意恨によつて城より帰りを待うけ切たおし迯ける、僕のしらせに総領三之丞かけ付漸助け返りしかど、大疵なれば敵を討よと遣言して畢ぬ、次男半蔵は五歳、三男源蔵は二歳なれば母に預け、免許状を戴き若党をつれ廿二歳の春迄東西南北尋ねめぐりしかど敵に逢ざりければ、源五右衛門の継父赤堀遊斎といふ医者大津に有ければ、此者を討て高札を建、遊斎を討しは石井三之丞なり、親の敵取んと思わば美濃の国何某が家に来れと書付たり、扨夏にも也て三之丞は美濃の何某が庭にて行水しければ、竹薮の内より源五右衛門かけ出親の敵と切付しを、三之丞心得しと一太刀切付しかど其侭死しぬ、若党口惜き事に思へど敵を見失ひ、ぜひなく本国へかへり、次男・三男に事の段々を伝しが、両人も成人して諸国を駈めぐり、源蔵廿三歳の時勢州亀山の城主板倉周防守殿家中二百五十石取し下村孫左衛門へ森平と変名して草履取に入込、奉行他事なく仕へしかば、同家中に赤堀水右衛門とて百五十石取の内へ、森平が家来を若党に入込せ、ひとしほ念頃に出入せしが、比は元禄十三年夏の比、主人の用にて水右衛門方へ森平参りしに水右衛門は行水してげり、日比情をかけし森平なれば、呼よせ背を流させしに背に以の外の疵有、是はいかよふな疵と尋ねし時、其方は格別のものなれば語らんとて、若き時石井宇右衛門を討、其躮三之丞某を引出さん為某が親遊斎を討しゆへ、美濃の何某方にて四五十日窺ひ三之丞行水せし所を討しが、さすがの者なれば某迯る所を払ひし時の疵なり、其弟両人有しが四五歳の水子なれば生死をしらず、殿にも此事知り給ふゆへ随分かこひ給はる、此事搆へて人に語るなとの咄を、森平心中に歓び色にも出さず返り、いさい文に認め江戸なる兄半蔵方へしらせけるに、半蔵もつてを求て周防殿扶持人鞁打棗八兵衛方へ吉助と名をかへありつき、亀山へ供して来り、翌三月に暇を取り森平口入にて七十石取し近習役鈴木芝右衛門方へ奉公し、兄弟と水右衛門方の若党と三人出合ひ、何卒殿江戸参勤の前に本意を遂べしと内談極め、家来敵打助太刀を願ひしかどゆるさず、母の方へしらせよ、さなくば七生迄勘当ぞと云に此上はちからなし、爰より一里計りの所は松生ひ茂り影あらはれがたければ、糧をもち行相待ん、本意の上にて来り給へとて、主人水右衛門方を一両日の隙をもらひ出行けり、吉助は四月九日に主人芝右衛門に暇を願ひ、国方の者尋参りしと髪月代をして出、城の裏堀松の木影に紺の単物大脇差にて待かけたり、森平は主人より若党に取立名を津右衛門と呼び刀を賜る、森平此事を伯父に聞せしに、いか計よろこび重代の一腰を呉しと、兼て所持の刀を主人に見せしに、関和泉守の二尺三寸氷の如くにて、主人も肝をひやせしとぞ、扨八日に水右衛門方の下女に白の下帯二筋のはし縫を頼み、九日の早朝油元結を調へんとて出しに、大手にて水右衛門に逢、是はいつに変り小野郎一人にてお下りは心もとなしと云しかば、水右衛門今朝は殊の外頭痛せしゆへ、五つの番替りを待かね同役に断り野郎が薬もち来りしを幸ひに連帰るとあれば、然らば我等按摩をして参らせん抔と供せしに、水右衛門の曰、其方口入の芝右衛門が家来吉助何共がてんのゆかぬ眼ざしなり、重ねて慮外あらば討てすてんと云、折しも松影より吉助飛出て、石井宇右衛門が躮半蔵なり、父兄の敵覚たかといふ侭頭よる鼻の下へ半分に切て落す、同弟源蔵なりとて肩先より大袈裟に切放す、兄弟三十三歳と三十歳、年来の素意達せりとて四方を拜し、扨書置し一封を水右衛門が腰にゆひつけ、足早く松山の内へかけつけ、三四日ためらひ、往還の人の噂を聞届け、もはや追手の気づかひなしとて、若党を本国へかへし、両人は上方の帳面をけさんとて、坂の下にて五六百石もとらんと覚しき武士の下向に出合、かよふ〳〵の趣にて此三夜まどろまず殊の外疲れし侭、暫しお囲ひ有て休ませてかしといへば、侍互ひの事なりとて茶やの奥にて半日計り寐させ、料理をすゝめ金子十両取出し不自由をたせよといへど、断りて貯はかくの通りと百両計りの路用を見せければ、たのもしゝとて双方礼儀をのべ南北へ別れける、扨水右衛門の小野郎は早速殿へ言上し、件の一封をひらけば、大坂以来の事書つくし、仮名実名刀脇差の銘迄くわしく印せり、追手には誰彼のと二時計案じ給ひて漸仰出されしとなり、誠に深き御思慮やと皆人感じあへり、青山因幡守殿御子息下野守殿は遠州浜松の城にをわしければ、右の三人立帰りしをいかばかり悦びたまひ、兄半蔵に親の本知二百五十石、弟源蔵に新知二百石賜り、屋敷嚴数かこひ下されしとかや、未曽有の事とて人人感じほめけるとなり
評に曰、宇右衛門横死の節、半蔵は五歳、源蔵は二歳なれば復讐のとし三十三歳と三十歳にて廿八年目に当れり、然らば横死の年は延宝二年なり、廿八年が間敵を尋ね討をゝせる内の艱難辛苦いかばかりか、いと難き事ながら、此うちさせるふしもなく三之丞も手立に尽、遊斎を討しがゆへ返る討となり、いはゞ五分〳〵の事なれば、浄瑠璃歌舞妓に取立るにも、爰ぞととらふ仕組なけねば狂言遺らず、浄瑠璃に道中亀山噺・往昔模様亀山染・敵討優曇華亀山有、歌舞妓にも種々とあれ共千手助太刀のみ稀々に外題を出す、『石井明道志』と呼ぶ写本にもとづき〔伊賀越の前編亀山話後編〕平井権八吉原衢[がよひ]といへる歌舞妓狂言あれども世に用ひず、是等も実に種はよくて仕組にならぬ世界といふべし、半蔵・源蔵の名は呼ずして、三木重左衛門・中野藤兵衛の方世人皆覚へてよく呼ぶは兄弟の不幸なるべし
箱根霊験躄仇討といへる浄瑠璃は芝屋司馬叟が作にて、旧は『太閤起亡録』といへる実説の写本よりなれり、是もたゞ躄の腰が立、親の敵を討しのみにてさせる仕組もなきゆへ、始に佐々成政の黒百合献上など出し、勝五郎は下部道助と変名して北条の家臣九十九新左衛門に仕へ、娘初花をめとり、当もなき奥州路へ行、風疾を病て足なへとなるなど、都てのことの本文になき事故、是ぞといふべき筋にならず、一日の仕組に足らぬ物から狂言浮て居らず、其上三平といふ者を拵へ返り討にあへども、是も浮物にて佐藤郷助がなすわざと筋立ねば憎みも少なし、予以前玉匣箱根曙と題して増補し、成政が献上せる黒百合を飯沼勝五郎に言付、大汝山千蛇が池へつかはす、池に年経し蝮栖んで勝五郎に退治せられ、毒気を其時吹かけしゆへ勝五郎は躄となつたり、父の敵を討んにも足なへなれば行事ならず、嫁の初花車に夫を乗せて甲斐〳〵しく出立し、旅に初花眼を煩らひ盲目となり、夫は躄妻は盲となり艱難すと愁を添へたり、尤狂言は其時々の座組に合せ仕組む物から、其俳優には此役、誰には此役と見込て書がゆへ、俳優に病気等有りて替り俳優にさせる時は、狂言の蓍違ひて作者の苦辛せし事もむだ事となる事まゝ有、此狂言の時も病人有て看板も出し稽古もしたる侭に始ずいと本意なかりし
彦山権現誓助剣も梅下風の作にて『鎮西御軍記』といへる写本の内より、毛谷村六助吉岡の娘に助太刀して京極内匠を討せる条を仕ぐめる物にして、是も筋は至極よけれど免角狂言にまとまり兼たる筋なり、なぜと問へば、京極内匠は剣術不鍛練の卑怯者なり、吉岡の姉妹は女ながらも剛力の者なり、それに毛谷村六助助太刀すれば所謂鬼に金棒にて敵を討は大丈夫なり、故に危くひやいなる事なきにより狂言になり兼るなり、尤おきくと絹川弥三郎の返り討有ても、躄の飯沼三平とおなじく余計の仕組にして、有てもなくても事かゝず浮たる筋なり、以前梅玉此事を言ひ出し、六助を梅玉の柄に出来よふの工夫を誂らふ、予本文に不拘一条の筋をもうく、其筋といつぱ先発端幕外にて六助一味斎のもとに寄宿して剣術の奥義を授り、姉娘お園と言号迄出来たる当座に、途中にて天狗に抓まれ一朶の雲の下より六助の着物のはし下りたるを引糸にて向ふより舞台へ引とる、吉岡の中間下部ども是をしとふて出て、日比正直なる六助ゆへ天狗につまゝれたり、何にもせよ有家をさがさんとて幕の内へ這入る、幕明ばいつもの通り若殿の放埓など有て狂言至つて大きく書、六助の有家はしれても、気抜の如く前後をしらずあほう同前にて、生国にいる一味斎は一たんの約束なれば、姉のおそのを介抱がてら彼地に下さんとするを、内匠奥義の一巻と姉妹の内一人婦妻にくれよと望む、一味斎内匠の奸佞を知つて恥しめ、跡待ぶせして一味斎を殺す、お菊弥三郎の返り討は新奇の仕組有て、毛谷村の場に至つては贋婆を拵へて試合の負を頼むなどはなく、未塵弾正も臆病ものゝあほう同前の六助を討すへて武名高く仕官をしたり、お園は是を口おしく思ひ、彦山権現へ願ひをこめ後自害して血汐を六助にのます、六助俄に強勇となり庭の踏石三尺計と云所になるなり、お園を秋津島、六助を国松、又お園を乳母お辻、六助を坊太郎と仕組かゆる時には、小男の梅玉にても出来るなりと筋を拵らへ梅玉に聞せたる時、誠に妙なりと手を打て悦びしが、弾正に初代鰕十郎、お園に国太郎にてなくば仕栄なく、いつぞは〳〵と云うちに、梅玉も故人となり終に趣向も画餅とはなりけり、都ての仕組は此よふに、危ふく立ねば敵に憎みすくなく、よもや得え討まじと思ふ敵を討てこそ面白みはあるなり、昔の仕組に敵討の世界といへば、敵はいつも一役にて、出ると人を殺し、出ると悪事をするが役にて、決して二役に立役抔はせぬ事也、近来此敵役をして憎まるゝを嫌ひ、外に立役を一つ宛ひかへにする様になりたるは皆此道の衰へとしるべし
下総国岡田郡羽丹生村与右衛門といふ者は入聟にて妻の累姿甚だ醜きのみならず心ばへまでかたましきゑせ者なれば、絹川に誘ひゆき突おとし沈め殺し、同村の法蔵寺にて妙林と法名を弔らひしは正保四年八月十一日なり、其後与右衛門妻を迎ゆれども死せる事五人なり、六人目の妻菊といふ娘を産む、菊十三歳寛文十一年八月中旬に母は身まかり、翌年正月四日より菊いたく病日々におもり、同く廿三日に口より泡を吐眼をいからし父をにらみ、我は廿五年以前に絹川にて殺されし累なり、我最期の事は法恩寺村の清右衛門も慥に見たりと、さま〴〵の恐しき事共言し、人々恐れ噪ぎ村の者共来て問ばしか〴〵と答ふ、頓て僧彼是を招き祈祷せしかど更に験なかりし、然るに三月十日飯沼弘経寺の所化祐天同侶二三人訪ひ来りて見たもふに、件の苦しみにて有ければ、同音に数遍念仏して苦を問へば、怨霊今迄は胸の上に居て苦しかりしが、今は脇に居て我手を放たずと云、祐天名号を書四方の柱に張りて一向に念仏せよと勧め給へば、怨霊胸をおさへて唱へがたしといへども、強く責給へば、漸々二三遍唱る辞につゞきて十念を授け畢て、いかゞと問へば手を放ち退く、又十念すればいよ〳〵退て西の窓にむかふて居る、又十念すれば何方へか去て見へざりしが、又東の方に居けり、時に守り本尊を拜せければ有がたく頂戴しけり、暫し有て本尊をとらんとし給ふに、目を付て慕ふ様子なれば、扨は此尊を慕ひ奉るにこそあらめ、然らば是にて念仏せよとて、持る珠数をあたへて各帰りけり、翌日又来り、いかにととひ給へば、地獄極楽をまのあたり見侍りぬ、極楽の門前に僧おわして、此所の事語るなと固く制し給ひぬ、その僧珠数をあたへて我名を妙槃と付たまひし、又累其門外にて、汝は定業来らねば帰るべしとて衣の半を我に掩ひて「爰は地獄なるぞ」と云て去りにき、我衣のひまより窺ひしに白き途ありて、累その方へ至ると思へば夢の覚たる心地しけりと語れり、最前与へし珠数を見せければ、それなん我得たりし珠数なりといへり、累が法名を理屋照貞と改め、菊を不生妙槃と名づけて一夜念仏して、絹川の辺に石塔を建しとなり、同四月十九日の早朝に又菊俄に苦しむ事前の如し、村人集り問ば、祐天来り給ひて汝は累にてはあるまじ、彼は決定往生せし事なれば再び来る事あらじ、狐狼野干の所為ならんと責しかば、我はさある者にてはなし、助といふ者なり、慶長年中に絹川にて沈め殺されしが、此度累が往生せし事を浦山しく思ひて来れりといへば、村の老年が曰、それは累が兄なり、其者の母、助を他所にて産、六歳の時此村に嫁し来れり、然るに継父、助が生れ付あしきをいなみて、他に育はせよと一向に云しかば、母此子醜く生れ我だにいぶせく思ふに誰人か養ひ侍らんとて、絹川に連行て終に沈め殺しつ、其後川の辺りにて雨の夕暮などには、五六歳の童を見し人多かりしは此助が幽魂ならん、祐天くわしく聞得させて十念を授け、菊か助かと問ば菊也と云、助はとあればかたはらに居るといふ、頓て単刀直入と法名を書たまひて仏檀にはらせければ、菊ゆびざしてあれ〳〵只今助が仏檀へ往たといへば、かたはらの人々も雲煙のやふに稚き者の形を見ると思へば、忽光明かくやくとして家内を照らしけり、与右衛門も甚だ慚邪懺罪して髪をそり西入と改名し、端直に念仏し延宝四年六月二十三日に終りしが、七日前より死をしりて称名をこたらず、聖相拜せし事共くはしく語りて往生せしとなり、是正保は今より二百年の昔にして、与右衛門死してよりも百七十余年となれり、是ら怪談にて題につかふ累は醜女なれば、色気薄く狂言になり兼、よふ〳〵明和に粧水絹川堤と題して浪華にて浄瑠璃とし、安永に伊達競阿国戯場とて江戸浄瑠璃に仙代萩と混じて狂言とはなりけり、故人尾上松緑〔此頃の菊五郎が父尾上松助化物の名人〕妖物幽霊をよくせしゆへ、累は彼家の狂言となり誰のするも皆此流義となれり
是も累とおなじき怪談ゆへ浄瑠璃歌舞妓の狂言になり兼、よふやくお菊虫とて女の後手に括られ髪ふり乱したる容の虫を見れば此説出るのみにて、江戸番町〔旗本衆多く住所也〕の事を播州と云、又江戸青山の屋敷にての事ゆへ青山鉄山がお菊を殺すとも脚色せり、実は小畑孫市殿奥方召遣ひ菊と云女は膳部の役なりしが、或時物縫おわりて膳を調へ、何としけるにてか飯椀の中に針の有しを奥方見給ひ大に怒りたけりて、日来疑敷思ひしが自らを殺し己が侭にあらんとて恁る恐しき巧せし憎さよとて、髪をつかみ引立て庭の井筒に落し入れて殺されけり、それが母も家に有しが、此事を聞情なき事とて炒芥子を井の端に持行、菊よもし心有てしけるか、左もなくば今蒔所の炒芥子を生て見せよ、此恨を返しなんとて井の辺りに蒔ければ、ふしぎや此芥子見るうちに悉く生出たり、奥方是を見たまひて憎き仕業や我をのらふはとて、母も又井の底へ落して殺されし、夫より両人が怨霊時ならずあらはれ出て、孫市殿夫婦を始其類葉の方々を次第に取殺しけるまゝ、諸尊に祝願し大法秘法を修しけれど更に験なくて、余りの事に甲州の知行所に菊寺とて一宇を建立し給ひて、さま〴〵に弔らひ有しかど猶も止ざりし、病人あらんとては彼寺に灯多くかゝりぬ、病人死すべき時至れば飯の湯を乞ふて湯桶に二つ三つ呑畢て忽死する事なり、どれも〳〵同じさまなり、詮方なくて出家したまひしも有しかど逃れやらで、幾ばくの一族悉滅び果て、今は他家より名跡を継たまひしとなり、此書に年号をしるさねば確とはわからねど『新著聞集』は寛延二年の出板なれば大体延宝・天和の比と思わる、然らば今より百六十年以前の事なり、既に元文六年に播州皿屋敷と外題して為永太郎兵衛・浅田一鳥両作の浄瑠璃出たり、此比は皿屋敷の説専らにせしと見へ、延享三年出版の八文字屋自笑の作『勧進能舞台桜』といへる書の中に餝間三郎左衛門といふ家老、家の重宝珊瑚珠の玉の皿十枚預るを妼あやまつて一枚割たるを科として、庭の古井へ切込みしが、夜な〳〵一枚二枚と九枚迄数へて跡はワツとなく女の声して、三郎左衛門は其内人事を弁へず七顛八倒して悩むを、円山といふ伯父敵よりの上使明石梅軒と云敵役合役加古川右近と云立役、目前に怨霊に悩さるゝを見て返る跡に、三郎左衛門召遣ひに至る迄人どめして庭の井筒へよれば、井の内より硫黄ゑんせうを持若き男一人飛出て、お頼の通り菊五郎もどきでやりましたがいかゞと問ふ、ヲヽ出来た〳〵、その方井戸堀に似合ぬ役者物まねの名人ゆへ頼みしが、元来宝の皿を伯父敵に渡せぬから、妼を手討にしたと長櫃へかくし置、けふ見届の見分役人の前にて言合せし通り、其方の物まねにてまんまと敵はたばかつたり、褒美呉んと招きよせ井戸堀藤治を手にかくる、是藤戸の盛綱の仕ぐみになる条有、又宝暦中歌舞妓狂言にけいせい播磨廻の中にはお菊の役を立役にして、嵐三五郎やつし役めくらにて隣の娘と色事し、けふお家の宝具足皿十枚の賃受に金子つまる、隣りの娘身を売りて具足皿手に入る、皿受取の役に来りしは青山鉄山三升大五郎敵役にて、皿が手に入らずば夜半の鐘を合図に若殿の首を切ると奥にいて、三五郎の盲を幸ひにそつと出て皿一枚を隠しもつて這入る、三五郎は是をしらずに娘の身売を跡にてきゝ愁ひ有て、又悦び若殿の命の親の具足皿と箱をあけ、一枚〳〵さぐりながら数へる所九枚よりなし、大恟りにて一枚二枚と又数へ直す内遠寺の鐘ごん〳〵となり出す、ありや何時と鐘の音に合せて一枚ゴン二枚ゴン九枚ゴンアヽかなしやとの仕組あり、是ら其頃の穿にて古き狂言にはどこにか一所二所はよき所有、是らは天下に博識の方数多なれど詠て知つたる者は予独りなるべし、時節来らず再び世に流布する事なく徒らに朽る事惜しむべき筋なりけり
五人男は元無頼のあぶれ者のことは其節の口書等写し伝て諸所にもてる者有、『簑笠雨談』にもそれを略出せり、元禄十四年〔前に云亀山敵討と同年四十七士夜討の前の年なり〕六月六日の夜大坂南久宝寺町四丁目河内屋五兵衛が雇人喜兵衛と云者、同じ町なりける三木屋勘兵衛が下人五郎といふ者と西横堀の浜際に納涼し家に帰らんとて、北久太郎町の浜際を過りける時、上難波町に往ける木挽庚申の勘兵衛及同町板屋三右衛門が下人市兵衛と云者、喜兵衛・五郎に喧嘩を仕かけ互に掴合ける所へ、博労町の溢者庵の平兵衛来かゝりて、懐剣をもて喜兵衛が膳を突破り立去ける、是より事起りて元禄十五年八月廿六日さらに虎狼の如く人も恐れたる五人男等終に法場に屍をさらせり、その名をいはゞ、先鴈金文七は奈良屋町雁金屋七兵衛の躮年廿八是を七組の頭とす、其手に属するもの、博労町庵の平兵衛年三十、立売堀中の町極印屋庄三郎が躮極印千右衛門年廿三、坂本町の雷庄九郎年卅一、天満六丁目七兵衛が躮ほての市右衛門年廿九、是を撰み出して五人男と云、此外にかいたての吉右衛門・喧嘩屋五郎左衛門・とんび勘右衛門・三つ引治兵衛・からくり六兵衛・因果の平兵衛なんど云溢れ者、川船水手の飛乗して半侠半賊の悪徒なりしが、是も此時路傍の霜と消て無祀の鬼となれり、此内喧嘩や五郎左衛門・三つ引治兵衛を頭とす、雷庄九郎も川船水手の飛乗して喧嘩や五郎左衛門が手に属せし者なりしが、後七組の手に属す、又讃岐屋町に道具屋与兵衛といふ者有、異名を親仁の三郎といふ、元溢れ者にあらずといへども、彼等に脇差をかして是をさゝせ、其恩をもて群集の場所の後楯とせしが、此時我身の善悪いひわきがたくて口に溜る、津の国の住居を許されず、棚なし船の行衛もしらずなりぬ、予浪花に遊びてその実記を閲す、是その略なり、元禄十六年始て五人男の事を作りて板せし冊子に彼等が我名をのせたるよし聞しが、いまだ面あたり見ざればこゝにもらしぬ、天王寺の塔中に鴈金文七が奉納せし八島合戦の絵馬有しが、近曽天王寺回録の時失て今はなしとある人かたりきと、『簑笠雨談』に出せり、扨も『浄瑠璃外題年鑑』には雁金文七と外題を呼て、元禄十五年午八月十六日に御仕置に合ひ同九月九日に初日を出すと有、是は岡本文弥の浄瑠璃にして続物の浄瑠璃にあらず、今云説経・祭文の如きものなり、夫より四十一ケ年後寛保二年七月竹本座の浄瑠璃に男作五鴈金と題して作者竹田出雲掾なり、此時たゞの侠者として善人とせるより後、追々に新作して今にては浪花男とて名うての男達と思へり、また彼等が墓は生玉寺町正法寺〔日親寺〕に有て鴈金屋・極印屋と墓石に彫たる有、是らを曲亭子に見せなば嘸よろこぶべし
夕霧が墓は大坂下寺町浄国寺に有て、花岳芳春信女、脇に延宝六戊午年正月六日俗名扇屋夕霧と彫入、六尺計の見事なる石塔なり、今を去る事百七十余年にして遊里の女郎とひとくちに呼べるものゝ、東都に三浦屋高尾〔墓は鳥越橋詰に有俗に土手道哲寺〕、京都に林屋芳野〔墓は北の立本寺灰屋紹益が妻なり〕、浪華に此夕霧の三人は一個の名物なり、伊丹の俳師鬼貫此墓に詣て「此塚は柳なくても哀なり」と詠たり、此三都遊君の内にも高雄は三派の横死によつて名高く、芳野は灰屋紹益に嫁して数寄の道に志深く、吉野広東に名を呼ぶのみ、夕霧には一点の難なく唯全盛の抜群なるゆへに名高きなり、されば夕霧の書たる文を扇屋に珍蔵して後「夕霧文章」といへる端唄有、此文中に「その扇屋の金山と名に立登る」との文より、後人いろ〳〵と付会の説をもふけ、折屋の夕霧・扇屋の金山と二人の全盛有しなど云は論ずるにたらず、金山は金箱金蔵と称するの詞なり、延宝六年二月三日より夕霧名残の正月と云歌舞妓狂言を始、坂田藤十郎が女郎買の大尽の骨髄に当りを取、三十年後宝永五年迄に夕霧の狂言を出せしこと以上十八度なりしが、皆悉く繁昌せしと云、是夕霧は此津第一の名妓、坂田は俳優中の名人なりしこと是にてもしるべし、宝永七寅年七月に夕霧阿波の鳴戸といへる浄瑠璃出てより夕霧筐の袂・浪花文章夕霧塚・澪標浪花詠など皆夕霧を題にして、藤屋伊左衛門と云大尽は別にもふけて拵へし名なるべし、箕山が『大鑑』に夕霧は尤麗容沢なれども目は瞎目なりとしるせり、又太夫の引舟女郎をつれる事、タ霜より始るといふ、都て夕霧が事は自笑・其磧が比の書にいろ〳〵出て全盛遊君の冠たるものなり、其後此名を継者なきを以てしるべし
『近世著聞集』と云書にお七が伝は委しく出たれども少しは推量の説有、湯島の天満宮へ松竹梅の額をお七自書して奉納したりと、専ら世人の口碑に遺れども湯島にはなし、実は谷中感応寺中祖師堂に常在霊鷲山法華最第一と額をお七が十一歳の時書て、延宝四年辰春二月と落款したるを訛に伝へたるなり、扨罪を得しは十六歳の時のことにて天和二年戌の二月なり、墓所も駒込吉祥寺と狂言にはすれど、実は小石川指谷町南縁山円乗寺と云天台宗の寺なり、お七が法名は秋月妙栄、天和二戌三月廿九日と石碑に彫て有、今より百六十九年の昔語なり、『天和笑委集』と云天和年間の江戸大火をしるせし書の奥に実説有、是らは江戸の事故彼地にては歌舞妓に早く取立、浪華にては廿三年後宝永元申年に八百屋お七歌祭文と云浄瑠璃なれり、享保十七子年に八百屋お七恋緋桜、安永に伊達娘恋緋鹿子など追々増補有、歌舞妓にては初代岩井半四郎お七の役にて大当りせしより代々岩井の家の狂言とは成けり
寛保の比浪華の侠者黒船忠右衛門と云るは旧より歌舞妓狂言に拵へし人名にてあるべき筈なし、故に其事跡を書たる書もなきか、予が亡父の話に兼て聞実説に近ければ爰に出す、抑享保・元文・寛保の比は前集にも演る如く男色世に行われて、途中にても狼籍の事まゝ有けり〔其磧が『傾城禁短気』に男色女色の大問答あり〕、北浜加島屋何某の丁稚〔此頃は前髪徒らといふ物を出して結木綿ふり袖をきたる也〕米切手を懐中して中の島を通りしに、片町の馬士頭庄兵衛と云者此丁稚を呼とめ、男色の念者とならんと口説ども随がはず、ゆへに米切手を隠し取さらぬ顔にて返しけるが、帰つて見れば米切手なし、正しく馬士庄兵衛が業なりとしれども取かへすべき手立につきて、堂島の親仁〔米仲仕の頭を云若き者にも親仁の号有、又年よりたる者にても若い者と呼通称なり〕根津の四郎右衛門と云侠者を呼よせ相談に及ぶ、根津の四郎右衛門一義にも及ばず請合て新町橋に庄兵衛に出合ひ取返したり〔尤庄兵衛も切手を取ても仕方なくたゞ恋の意趣にて隠したるのみ也〕、庄兵衛是を無念に思ひ度々四郎右衛門方へ行立引をせんと云ふ、四郎右衛門今晩とか翌の晩とかどこそこにて出入せんとて期を延しけるうち、庄兵衛も拍子を抜し大津へ迯行事なく済けるとなり、爰に其比俳優初代姉川新四郎は座頭座元を兼作も自らすと云名代役者なりしが、ふと夢に此立引を見て趣向をつけ、四郎右衛門方へ行あら増の筋を聞て、新町橋の上に黒き帆掛舟の行燈を出し女悦長命丸を売るは古き事にて、今の新町の廓開発の比より売る事なり〔『廓中細見みほつくし』等に委し〕、是に准らへ黒船忠右衛門と云名をもふけ狂言に始るよしを四郎右衛門に云て帰れり、寛保三亥年正月二十八日より初て中の芝居にて黒船一代男と外題を賦しけり、其比実悪の名人嵐七五郎獄門庄兵衛、やつし事の名人山本京四郎は鎌倉や五郎八〔男色より思ひつきて鎌倉街道との滑稽なり〕、初日出て評よく四郎右衛門も見物に行しが、北の立引に手ぬるしとて中座をして帰れり、新四郎又北へ行て立引の心を聞て工夫に及び、根津を又呼て見せたりければ四郎右衛門是でこそとて悦びけると、其狂言今に遺れり、始五郎八に煙草の烟りを吹かける、其仕かへしに花道にて行合ふ時、忠右衛門庄兵衛につを吐かける、庄兵衛しらぬ顔して行かけるを舞台より是若いのと呼とめる、是四郎右衛門の誂らへなりとぞ、又立引にかゝり庄兵衛を見事に取て投る、此時七五郎も大立者ゆへ投らるゝを不承知なりと云、投ねば根津了簡せず、作者並木丈助挨拶に入りて投らるゝ不肖に幕切に下駄がない〳〵とわめく時、忠右衛門下駄屋に一足買ふて北の者の立引して何がないかゞないといわるゝもいな物、此下駄はいていねと云、庄兵衛いや下駄もらふたといわれるは否じや、そんなら爰へ捨ふわいとちよんと一足直す、捨た物ならひらわふわえと履、是忠右衛門がはき物を直すが七五郎の投られ駄賃なりとぞ、僅六十年前なれど役者にも古風なる事有たりなど亡父の咄幼き比聞たり、是も今からは百年の昔なればさも有べし、寛延元年に黒船忠右衛門当世姿とて歌舞妓にてし、同年浄瑠璃にて容競出入湊と外題出しけり、故に黒船の役といへば誰も初代姉川新四郎〔俳名一幸〕をまねてすること習ひなりとぞ、黒船の着る頭巾を姉川頭巾と号、銘々冠り流行せしなり、安永年中には性根競姉川頭巾又昔追風出入の湊と云外題も有、後段々に増補して新奇に巧めり、付て云、出入の湊新町橋の口幕を五行床本にも瓢箪町の場と書有、見る人皆茶屋場と心得り、院本にては播才といへる町の料理屋なり、瀧川は他所行にて駕に乗り来る、黒船は判事物をつれて彼岸参りの帰りがけに此料理屋へ来たるなれば、今の四つ橋とか御池橋辺に其比播才といへる名代の貨食店有しなるべし、因に云、関取千両幟上の巻恵海庵と云料理屋は安永・天明の比まで西照庵の隣に有しとなり、浮瀬の旧は高津植木屋吉助の所に有し事は予が『綺語文草』に出せり、遊所貨食屋などの興廃はまゝあることにて、よふ〳〵浄瑠璃歌舞妓にのみ遺る物なり、お染久松の比は天満天神社内小山屋盛んなりし事は此浄瑠璃にてしらる、かしくの文句に爰も流れの島の内と南新屋敷とて幽な遊所も皆昔とは成けり
黒船一代男に奴の小万と云女侠子を書込しより続て容競出入の湊にも乗たるがゆへ、髪は奴髷に結び脊に尺八をさしあるきし女有と思ふも有べし、是は又其比より五六十年の昔土佐画と号し古風なる画に合せ容を別にもふけし者にて、実は木津屋の養女お雪といへるを仕組るものなり、平野や何某の娘雪女長堀木津屋何某へ養女となり、幼稚より書をよくし詩歌糸竹の道にも暗からず、実家養家の家督の儀に付親族に争ひ有、雪は是をうるさく思ひ身の片付を好まず、気に入の妼二人〔お亀お岩〕を連て気侭に暮せり、十五六歳の時二婢をつれて四天王寺へ彼岸会に詣、口縄坂にて悪者二人雪が簪をとらんとするを左右へ投のけ、再びきたるを二婢と共に打こらしければ、悪者恐れて迯行しより、其力量をほめそやし名高くなりけり、実母の名を万といへば我名も又万と呼びけり、扨万が廿計の年寛延元辰年に出入の湊又当世姿の狂言出て、奴の小万と呼て奴髷に尺八もてる図を出しけり、或者万に告て曰、今浄瑠璃歌舞妓にて奴の小万と云女達有は御身のことをするよし、お万は事に拘はらぬ気象なればあゝおかしと笑ひ捨けり、後に芳沢崎之助〔芳沢あやめの忰中村富十郎の兄なり〕奴の小万の似顔画を持て或人万に賛を乞たり、其賛に眼前不受綺羅紅何願後身住二上空一憂憤由来除二国賊一千生万古護二皇宮一、此冬京師に登つて或堂上方に仕へ、四五年を経て浪華にかへり気侭にくらし、遙後薙髪して正慶尼と称じ、養家の氏三好正慶と云、長慶が後孫なるゆへ然呼とも云、谷町寺町月江寺に住、又難波村の別荘に移り文化元甲子年七十六歳にて終りぬ、木津村幽泉寺に雪亀嵓と彫たる石碑有、正慶尼の書たる物予も一二枚もてり、奴の小万とは雑劇より付たる名にて我も人の呼ぶまゝに、奴の小万といへば我事なりと思ひしもいとおかしき気象にして是も又浪華の名ぶつなり
先年東都にて『東海道浜松英賊』とか外題したる十巻ばかりの写本を見たる事有、虚実相わからねど日本左衛門一代の事を書たり、年号時日も忘れたれ共思ひ出るまゝ爰にあらはす、始遠州掛川宿の百姓の躮にて浜松庄兵衛とか呼べり、人品骨柄いとよければ京師堂上方に暫らく末の奉公をして堂上方の事粗委しく覚へ、後賊徒に交り器量あるまゝ首領と仰がれ、近国の大名代官地頭へ堂上方の拵へごとをして衒を業とし、後悪事あらわれ公義より沼捕の場を逃さり、上方に行暫らく影を隠すうち、以前京都に奉公せしうち言かはしたる女有、当時浪華に居ると聞直に長堀に来る、長堀富家の娘奴の小万と異名をとる女にて、格子の内より往来を詠る前を庄兵衛〔通名日本左衛門と云〕通り、顔見合小万仕かたにてしらせ、門へ出て東堀人なき浜へ下りて絶て久しき対面を悦び、庄兵衛は筐の品を小万に渡し、さりがたき儀有て遠方へゆけば、今生の暇乞ひせん為態々と下れりとて袂を払ふて別れ、京都御所司屋敷へ名乗つて出る、尤日本左衛門が人相書は諸所に廻りて紋所は丸の内に橘なるよし、其節の所司〔名前不覚〕早速に召捕るべきをさもなく、今日は公儀繁多なれば明日来べしと帰されけり、家来の面々何ゆへ御帰しなされしぞと問へば、我と名乗出る程の曲者なれば子細あるまじ、なれど彼が英気を抜く為に返せしと云、翌朝又来りて尋常に縄目を受、梟首せられしと書たり、宝暦十二午年二の替り中の芝居にて作者竹田治蔵秋葉権現廻船話と外題して、日本駄右衛門に中村歌右衛門〔加賀屋歌七梅玉の父なり〕、玉島幸兵衛〔浜松庄兵衛と二人に割たり〕に三桝大五郎〔初代逸風〕、月本円秋に中村四郎五郎、徳島五平〔其時の役人徳の山五兵衛とあれあばなり〕に藤川八蔵、牙のお才〔是はこしらへ物にて東海道茶やの娘と云、古き盗賊ありしとの事なり〕嵐小六〔小六玉の親女形の名人小六は雛助と云娘方の比なり〕、大入大当りをとりしとなり、中入衒ばに衒ぞこないましたとの間は、本文所司代屋敷へ名乗出し時の大胆不敵を含めて書し物と思わる、八九十年の今に廃ず時々此狂言は出る、又楓紅[からにしき]秋葉話など増補したるも有、扨も此中に奴の小万の名出たるは珍らしけれど、案るに小万寛延元年に雑劇にせし年の冬より四五年京に居しと云によくかなへり、又日本左衛門と云かはし暇乞ひに下りしとは、誠にもせよ余人のしるべき事ならず、後に左衛門の話によつて写本には出したるなるべし、是らの訳あるゆへ早く薙髪せしかとも思はるゝ也、依て数ふれば秋葉権現の狂言出たる年は小万は卅四五才なるべし、都て前の条小万が伝によく叶へりと云べし、又一説に奴小万は柳里恭〔柳沢権太夫淇園とも云〕に画を習ひ此妾となりしといへるは、小万の寺友達におなじき女有て、是も一癖ある女にて小万〳〵と呼れたる女その比有しと云、柳里恭に物学びせしは正慶尼の小万にて、妾となりしは今一人の小万なるべし、此小万の家は丸屋何某と云しとぞ、扨も文化の始江戸狂言に茲着綿菊の嫁入と外題して奈河七五三助出入の湊の世界を東都に引直して、黒船町の船宿忠右衛門〔浅草観音前に黒船町と云有、助高屋高助〕、獄門正兵衛〔本名は浜松庄兵衛松本幸四郎是をする〕、鎌倉河岸米屋五郎八〔御堀ばたに鎌倉がしと云有、沢村宗十郎なり〕、奴小万〔瀬川菊之丞後仙女となる〕、此狂言にはもと遠州浜松の屋敷にて、庄兵衛小万不義あらはれ追放となり、小万は吉原へ流され女郎となりしが、余の客を嫌ひ奴と異名を受、年明て忠右衛門の男気をきゝ突かけに嫁入して身の上を頼む、表むきは女房ぶんにて黒船かくまふ、獄門庄兵衛此内へ盗賊にはいり小万と顔を見合す〔石川染大仏前妾宅に小鮒源五郎盗賊に入ると同じ〕、五郎八二階にかくまれ居て口幕よりの詰合となる、黒船わけ入て獄門と五郎八は兄弟となのり合ひ、庄兵衛立役にかへると云狂言有、是はかの江戸にて予が見たる写本『浜松英賊』より案じたる狂言なりと思るべし、歌舞妓とても筋なき事は書れず、各より所あるとしるべし
是は又いと古き事にていつの時代何国の者としるべからず、旧より美しき名代の娘か又名に聞へたる女の盗賊にて有しか是も詳ならねど古き手鞠歌にのこれり、「肩と裾とは梅の折枝、中は五条の反橋」と諷ふは『寛永南島変』と云写本〔天草一揆の書四十巻ものなり〕に天草天の四郎に言号の娘有て、一揆滅亡の折此田舎染の振袖を取出して歎きしと有き、されば寛永の比より諷ふ事と思わるゝに、又其歌の続きに「反橋とてちよつきりこつきり小女房を、どこでうたした吾妻街道の茶屋の娘はにほんちよつきりこと討した」と有ば、是もその比より諷ふ物か又後に反橋の歌についだる物か其程は不分明、案るに「にほんちよつきりこと討した」と有文句より東海道の茶屋の娘にてにほんと云縁あれば、竹田治蔵日本左衛門の世界によせて牙のお才は旧茶屋の娘にて、玉島幸兵衛此女に三千両の金子をつかひなくし勘当を受、護摩の灰を業とす、お才は又幸兵衛をもとの武士にさゝんが為日本駄右衛門の手下となると仕ぐみし物か、秋葉権現の割外題〔割外題・脇外題の事は前編にくわしく出す〕に東海道の茶や娘と書り、後天明二年浄瑠璃に吾妻街道茶屋の娘と外題を出せり、文化・文政の比ちよんがれぶしに諷ふたる笠松峠の女盗賊夏見何某と云武士を谷川にて其身は脊に負れたる侭殺して金を掠しと云を狂言に仕組て牙のお才と呼び、もとは東海道茶屋の娘なりとせしは秋葉権現の名をかりたる物なり、何ぶん古く人口に膾炙して確としたる説を聞ず、後考をまつ
此伝はよく人のしる所にしていまだ浄瑠璃歌舞妓につかはざれども、後々狂言に縁なきにしもあらざれば爰に出す、両人が伝は曲亭子が『雨談』に出せば読でしるべし、灰屋紹益は智恵小路上立売に住て豪富の息子なり、六条の廓柳町林屋の肥前益子が禿林屋吉野太夫となり、突出しの比より紹益なじみて夜を日といわず通ひけり、吉野云、我名を芳野と呼れながら吉野の花を見ぬは勤の身の悲しさと、紹益易き事なりとて和州吉野の桜を一樹求めさせ吉野に送る、吉野歓びて我独見んも惜しとていと見事なる箱に植させ、吉野が揚屋入には多人数是を舁もて、次に吉野長柄さしかけさせて練り行物から、廓中に是につゞくものなく全盛の名いよ〳〵高し、貴人高位にもしられて紹益とはいよ〳〵深き中となりける、紹益の父是を聞て吉野が身の代と思ふ計の金子をくれて勘当せり、紹益も年若ければ苦にもせず吉野を根引して、小川に庵を求めて夫婦住けり、父一日他所へ行てかへるさ雨ふり出しければ軒下に迯入て晴間を待うち、格子の内よりいとうるわしき女是を見て「そこは吹降の雨にて身や湿り給はん、こなたへ入て待たまへ」と云に嬉しく玄関へ通るに、炉に釜をかけて閑雅の人の庵と見ゆ、女こなたへと請じつゝ茶を立て出しぬ、その爪はづれより茶の手前まで所に見なれざればいとゞ心置せられるうち、雨も晴たれば一礼をのべて立かへり、次の日親族の人来て話の次手、きのふ雨舎りせしうちはいかなる人の住家やらん、勘当せし躮紹益などあればかりの女なれば親がゆるして嫁ともいわんに、遊君に魂奪はれ呉々の不孝者と子を思ふ身の親心、涙まぎらせ話にぞ、親類の者其家を聞、扨其様の女ならば令郎の嫁とてゆるさるゝか、それこそ子息の隠宅にて其女こそ吉野なれと告るにぞ、父始てしりて其奇偶を感悟し、遂に紹益が勘当をゆるし吉野も共に引とりて世間親族にも風聴してめあはせしとぞ、是らは実によき狂言の筋なれ共、今是をすべき俳優なし、李冠・湖鹿・鬼丸ならではその人品に合ふべきなしいと惜き筋なりけり、扨も吉野は寛永八年六月廿二日行年纔十九歳にて歿せり、紹益は和歌を詠て貞徳と友たり、又蹴鞠茶事にてくわしく吉野哀悼の歌に「都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山に移して」、後世事を妻子にゆだね小川の隠宅に籠つて茶事に遊び、元禄四年十一月十二日八十一歳にて歿しぬ、法号を古継院紹益、芳野の法号を本融院妙供と二行に彫付、墓石は北野立本寺に有
扨或人の云、此紹益が世事を捨て小川の隠家に籠つて閑を楽しむに、一夜盗賊忍びいりて庭中に彳む様子紹益しりて次の間に退りぞきいかゞすらんとためらふ所に、盗賊は茶の数寄者にて台子の錺茶室の様も見まほしきまゝ忍び入たる者にて、心静に庭廻りを詠め待合よりにじり上り迄来て窺ひ見れば、炉には熱の音して薫物の薫りそとして誰も見へねば、我を忘れて手水をつかひにぢり上りより静に通りて客の間に着、紹益次の間より窺へば人柄よき者にて進退茶事に馴たり、独服と思ひしによき友を得たりと紹益も客あしらひにて次の間より茶室に出て、目礼のみにて詞を出さず茶を立て客に出せば、客も辞せる気色もなく飲む事皆礼にかなへり、やゝ有て挨拶の贈答に及び、扨も御身は何国の方にて今宵爰に来らせ給ふと問に、客答へて拙者は名もなき盗賊なり、兼て尊名を聞及び此よふも見たく思へど伝手なくてはたさゞりしが、今宵ふと忍びこみ不思議と主のお手前にて日比の望叶ふたりと厚く礼をのべるに、主もよき友を得し事よ、毎度いらせられよと、打くつろぎ談話に及び夜更るもしらず有しが、又重ねてと約して路次の方へ出る、紹益短檠の明りを燭に移して見送り出しが、此盗賊は後にきけば大仏前に居たる石川五右衛門と云盗賊なりしとぞ、此一奇談はよく人の云所なれども、紹益は元禄四年八十一歳にて歿したれば生年は慶長十五年なるべし、石川五右衛門は文禄に釜熬の罪に果れば、紹益が生年迄に十五六前なり、是こそ実に付会の説にて、もし石川が忍びこみしものならば、古田織部とか織田有楽とかにて有べし、又紹益の宅へ来し盗賊ならば余人なるべく、亦盗賊ならねど好る道紹介の人なく忍びいつて姓名をとはれ、戯れて盗賊なりといひしもはかるべからず、紹益も五右衛門も茶事に名のあるゆへ年暦によらず付会の説をもふけしにぞあらん、東都の古き狂言に悪七兵衛景清に中村仲蔵〔俳名秀鶴〕、秩父庄司重忠に松本幸四郎〔俳名錦紅〕にて是を此まゝ仕ぐみ、景清盗賊に入て重忠と茶の湯の場其比大当りせしとて、後又景清乞食茶の湯の狂言を出せり、近来海老蔵〔七代目団十郎〕浪華にて一両度せしが、旧江戸狂言ゆへ鎌倉の大仏供養とし七里が浜の非人小屋にて茶の湯の狂言なるを、上方の地名に予が引直して少しく増補したり、是は自笑・其磧の比の『当世茶人形気』と云書より出たる趣向なり、上京の或茶人の方にて二三人の客有て路次の切戸細目にあき有、菰を冠りたる乞食通りかゝりて切戸よりそな〳〵這入り庭廻りを詠、待合の辺よりしきりに囲ひの方を延上りて見る様子を客見付て主に告る、主も一奇人なれば、彼今こそ乞食なれ以前は相応のくらしにて茶事を好るならんといへば、客も各好ものなればいか様爰へ呼いれ茶を飲せんはいかゞ、それよからんと庭に呼こむ、乞食おづ〳〵と庭へ通り踏付石の向ふにうづくまる、亭主の云「茶事には貴賎の隔はなきから汝好まば一服飲せん」、乞食大に悦びて面桶を出して茶碗より是に移して飲んとす、亭主も客も興に入、面桶に移さんより直に飲べしとすゝむるにより、一両度辞退のうへ、達てとの詞に茶盌取上飲事都て礼にかなへり、棚の錺り付床の軸物など庭より詠て賞る詞にもいち〳〵名を言ひ当、我等も一会相催ふし各方にさし上たしと云に、皆々ほとんど興に入、催ふしあらば行んと云、然らばいつ幾日吉田山にて催ふす間必其節と約束して乞食は帰りけり、跡にて衆評まち〳〵にて、其約束の日主客連立吉田山に行ければ、粟田焼の大土瓶の新きを三本の竹に釣り、瓦を半ば地に埋めて風炉となし、青竹の茶入に茶を入、鳥の餌入を茶盌とし、青竹の茶筌・茶杓悉く新しきを錺り、新の菰の三枚置しは是を敷との心なるべし、見る程に〳〵感心して、扨乞食を尋ぬれども見へず、扨は身を恥て爰に出ぬよの、まづ土瓶の素湯もたぎりあればと莚の上に銘々座し其潔白を感心して興に入たる其折節、俄に一天掻曇り魔風発つて吹あるゝ、何れも是はと騒ぐうち、杉の梢にあり〳〵と彼乞食は天狗と化し、我は利休の霊なるぞや、茶を飲むはそれにて足れり、今時の数寄者共はゑしれぬ古き道具を並べ干店商人に異ならずと、当世茶人の癖を言立罵凝らせ一陣の魔風に姿は見へずなりにき、此一話よりもうけしもの也、又『大久保政談』とか云書に、長崎の豪富の家にて香の会有、乞食庭に入つて我も一品有とて面桶袋より一木を出して薫て帰る、翌日長崎市中を順見司有て此香を嗅出し、終に乞食を召出して調ぶる、乞食は長曽我部の落胤とかにて、東都へ送る大久保忠教是を捌くの一話も、恐らくは此『茶人形気』よりもふけたる話なるべし、此乞食茶の湯の狂言も錦江は口跡あざやかに多辮の男にて、重忠を至極世話の辞にて云、秀鶴は時代のせりふに云、両人の取合ひいとよかりしと東都の雑劇好の老人ははなされけり、さもあるべしと思はるゝ事なり
西沢文庫伝奇作書続編中の巻終
西沢文庫伝奇作書続編下の巻
〔お千代半兵衛〕宵庚申、〔菊野源五兵衛〕五大力、〔お半長衛門〕桂川などの事跡は前集に出して、遺るは此編の上中の巻に出せり、此余にも狂言にするのみを知つて其伝記をしるさぬ物甚多し、所謂、〔山崎与次兵衛ふじや吾妻〕、〔おもとかめ松〕、〔おしゆん伝兵衛〕、〔小いな半兵衛〕、〔梅川忠兵衛〕など也、爰に記せば実に際限なき物から付録に出すべし、亦かゝる浮たる物の外に河村瑞賢・和田雷八など悪人にあらぬ人を狂言によりては敵役・謀叛人に仕組しものも少からず、木津の勘助・渡守の源八と名よりもふけし狂言も多かり、是もともに付録に委敷出所を正してしるすべし、爰に狂言にはあらねど劇場に縁ある奇談を出す、是ら人口に膾炙するのみにて正敷書に出ざれば実説とは言難き事なれど、又実説に遠からぬ事もあるべし
宝晋斎其角が一蝶を船場に送りり後、塩魚の中に笹の葉の有しを得て信友の情を尽せし事は、予が『綺語文草』にのせたり、天和・貞享・元禄の比、狩野安信〔永真〕の弟子に多賀長湖と云者有て書の道に執心厚く精身を入て上手の名を得たり、然共正風の画にてはいかなる名人に成りても家元の上に立がたしと、多年工夫をこらし一流を案じ出し今世一蝶流と云書画書初、遙後英一蝶と云しは此長湖が事なり、此者元禄の初公聴の咎めにて遠流になりしは、常憲院様好色にふけらせ給ひ許多の美女を寵愛し給ひ、おでんの方と云は中にも第一寵愛の上﨟なり、吹上御庭の池水に小船を浮め公が棹さし給へば、おでん殿は船中に座し綾羅の袂を翻し小皷を打、此御遊の平日成けるは貴賎とも是を知らぬ者はなかりけり、されば絵師多賀長湖その比百人上﨟と云絵を書て世に鳴らせり、其画面貴人高位の女﨟より賎の女迄いと麗しく姿絵を画けり、其中におでんの方船にて皷打給ふ所、公の棹さし給ふ所を書たるに、此事誰公庭へ告たりけん、忽召捕られ獄舎の上終に遠島仰付られけり、され共此事御咎とはなく多賀長湖御制禁の殺生を好み鳥を取魚を釣候科とぞ御書付にて仰渡されなりとぞ、長潮願て配所へ絵の具筆等持参の儀願ひ叶ひ、配所にて英一蝶と改名し一子を設る、是を島一蝶と云、後年有章院様御代帰朝免許仰付られけり、されば百人上﨟の内おでんの御方逍遥の体至極出来よかりしゆへ御咎に逢し事不幸といへども、其芸の業に依て刑せらるゝは本意にも近かるべしと、さして愁ふる色もなかりしとや、後其図を書改て、小舟に女の舞装束にて羯皷を打図として是を世に浅妻舟とは呼ぶなり、浅妻船の賛に「あだし仇浪よせては帰る波、あさづま船の浅からぬあしまたの夜は誰に契りをかわせて枕はづかし我床の山〽今宵寝ぬる浅妻船の浅からぬ契りを誰にまたかはすらん、後水尾院御製、此一蝶が百人女﨟の絵を本として其後京師西川祐信と云る浮世画師春画枕画の達人『百人女﨟品定』といふ大内の隠し事を画、又『夫婦双が岡』と云枕画を板にして雲の上人の姿をつがひ絵に図し、やんごとなき方々の枕席密通の体を摸様して清冷殿のつまがくれ、梨子壷の隠し妻、萩の戸ぼその別路、夜のおとゞの妻迎へと色々公聴にもれ聞へて是又厳敷御咎にて板を削られ絶板となり、西川も一蝶同様になりしよし云り
正徳四午年正月十二日芝御霊屋へ従三位月光院様御代参として江島と云御年寄を遣はされけるに江島霄日増正寺役者中へ明日代参の節芝居を御振舞下されと申遊りしに返答に芝居の儀は決して相成申間敷由断る江島殊の外腹立し御呉服所後藤縫之助の手代治郎兵衛清助両人を呼て明日木挽町山村長太夫芝居見物に候間二階桟敷五十間計り弁当百余人前申付呉候様云けるによつて両人早速木挽町松屋といへる茶屋へ誂らへ翌朝治郎兵衛清助は二階桟敷より座元長太夫方へ廊下伝ひに道を付させ桟敷には簾をおろさせ袴羽織にて待受座元長太夫役者生島新五郎作者中村清五郎袴羽織にて酒宴の相手に出ける江島は増正寺へ御代参に行方丈役者への賜り物金七十両銀二貫五百匁其外呉服物品々有を少しにて賄ひ残りの金銀呉服物は芝居へもたせ代参に事よせ多くの女中を誘ひ出し増正寺を早々立木挽町へぞ行けり其節御年寄に肩を並ぶる面々此日同道せし衆中は新御中老役宮路〔五百石廿八才〕同役木曽路〔七百石卅七才〕表御使番梅山〔五百石卅二才〕御内御使番吉川〔四百五十石廿七歳〕同役沖津〔四百七十石卅四歳〕御用人およの〔四百八十石廿五歳〕同役〔四百五十石廿三歳〕およし御小姓衆おげん〔十人扶持十七歳〕同役お仙〔十人扶持十四歳〕右女中を初として末々の女中供の諸士迄都合百卅人ばかり不残桟敷に入て彼役者を相手に酒宴を催し狂言の物音も聞へぬ程にぞ見へける此江島は当年卅一歳にて高六百石とり月光院様の御意に入なれば心すゝまぬ人も江島が威勢に恐れ上下共に随ひけるとかや八つ時桟敷より廊下伝ひに長太夫が居宅の座敷へ行女中皆々打混じて酒宴となる作者清五郎女房お梅はもと祈祷者の娘にて先公方様御代御城へ召出され御意に入御奉公勤けるゆへ江島とは至つて懇意なるゆへ取持に出けるなり江島と新五郎は七年此かたの馴染にて深き中の上新五郎が娘を水戸殿家中奥山喜内と云者の娘にして喜内の兄奥山交竹院手引にて江島が部屋子に致置ける此日も早七つ時にも成ければ長太夫が座敷を立裏通山屋と云茶屋へ行役者野郎茶屋の者共に増正寺より持参の反物金子迄残らず花に出し余り時刻移るがゆへ付来りたる御徒目付御小人目付より御立候へと度々云ければ江島立腹して漸木挽町を立平川御門より夜五つ時に入り月光院様御前にても江島口にまかせて申ゆへ何事もなかりけるが翌日御徒目付御小人目付黒鍬同心中立合せ若年寄中迄一書を以て訴ける夫より御詮議となり二月二日御詮議相済何れもお暇下され皆々上著御取上白無垢計はだしにて御城を追出され各宿へ御預となりけり江島一人は自無垢計はだし髪とり乱せしまゝ平川御門より飯田町江島が兄白井平右衛門方へ御預とぞ平右衛門座敷牢を拵入置たり此江島は元三河国苅谷村の土民の娘にて幼少の時関東へ売られ吉原にて遊女なりしを白井平右衛門吉原にて馴染此女を受出し置しが江島奥方の思わくもいかゞ奉公に出しくれと云に平右衛門も尤に思ひ紀伊中納言殿御簾中鶴姫君へ奉公させしに姫君御逝去ゆへ江島も浪人しそのゝち桜田甲府様へ御奉公に差出せし所甲府様御本丸へ入御有三の丸様御供にて月光院様付とはなりたるなり扨外の女中衆は何れも五六百石の面々なれば召仕の女房達下女はしたに至る迄上下三百人の余其日の内に皆々御城を追出され跡は残らず闕所となり下女の分は当座に下され二月ばかり過て女房達の分は下されけるとなり二月三日より評定所にて御詮議と相成り木挽町役者共不残召呼れ生島新五郎中村清五郎座元長太夫手錠仰付られ江島に貰ひ候物残らず書上候様仰渡され皆書付にて差上御詮議の上にて新五郎牢舎となりけり其時の狂言右衛門桜と云外題にて丸橋忠弥が事を作り二月朔日より替りを出す其節新五郎の衣裳紺地の金入立波の模様紅裏付の小袖江島所望して御紋付縮緬の小袖と取かへ候に付入牢仰付られしなり長太夫座の団十郎勘弥座藤田花之丞堺町の野郎共葺屋町市むら竹之丞座にて瀧井半四郎召出され半四郎は手錠にて残りはお搆ひなし十三日に御奥医師交竹院喜内清五郎と対決有清五郎女房入窂後藤手代治郎兵衛清助下男七兵衛入窂江島は其日より揚り屋へ入ける清五郎女房厳敷拷問にて白状に及び終に責殺され江島も白状に及び様子明白に相知れける其比三位様御大切の御道具二三品紛失に付若江島より役者共に呉候やとの御吟味有有体に申ものは御搆なし少しも偽り候者は牢舎手錠に成り段々御詮議相募り或は御免或は弥増の御詮議に逢ふ者有ける瀧井半四郎始手錠後々は入窂喜内事新五郎娘を自分の娘と偽り江島が部屋子に遣はせしは水戸殿家中喜内と新五郎女房竹とは一腹一生の兄弟にて喜内の妹とも有べき者が新五郎女房となりしはさるお屋敷奥方に奉公中新五郎に心をかけ駈込て夫婦となり兄喜内交竹院共勘当の中なりしを清五郎喜内方へ立入すれば段々と詫言して勘当もゆり我姪なれば娘として江島が部屋子に出せしと也其上芝居吉原抔へ同道せし事顕れ喜内は水戸へ御引渡しとなり彼屋敷にて成敗有けるとぞ長太夫は桟敷より居宅へ通路を付女中衆を引込し科にて入窂になり新五郎清五郎半四郎長太夫不残闕所仰付られ妻子は店受人の引取に成ける其うへに吉原の茶屋に御紋付の長持へ芝居衣裳をつめ江島吉原へ行候節は役者共めしよせ狂言致せし事迄顕れ雑司が谷の別当も此事にて江戸追放となり増上寺中徳水院と云出家も駈落せしとぞ此一件にかゝりの者悉く入牢仰付られ三月四月御評定所にて落着仰渡されけるは俵島へ流罪江島〔猿しまとも云三崎より海上四百九十里〕死罪〔江島兄小普請〕白井平右衛門利島へ流罪原田伊右衛門〔是は奥向預りの役なり三島より海上廿七里〕御蔵島御奥医師奥山交竹院〔お竹が兄なり三島より四十七里〕八丈島小普請奉行金井六右衛門〔江島と悪所へ同道の科三島より海上百廿里〕同島越後御代官金丸四郎兵衛改易御勘定西忠左衛門追放御徒杉山平四郎〔皆々悪所へ同道の科〕死罪水戸家人奥山喜内〔お竹が兄なり水戸にて計らふ〕閉門呉服所後藤縫之助新島新御番豊島平八郎〔江島が兄三崎より廿八里〕同島後藤手代清助追放後藤手代治郎兵衛御免後藤下部七兵衛大島原田彦四郎〔御書院番原田伊右衛門養子父と同罪なり三崎より海上十八里〕追放今井六之助〔今井六右衛門忰〕同金丸四郎兵忰又三郎〔二男〕三十郎親類預け白井平右衛門忰伊織〔二男〕平七郎遠慮豊島平八郎実子疋里吉十郎〔実父平八郎へも又伯母江しまへも諫言せしゆへ也〕大島〔木挽町五丁目狂言座元〕長太夫〔三崎より海上十八里〕三宅島〔長太夫抱役者〕新五郎〔三崎より海上十二里〕神津島〔竹之丞座狂言作者〕清五郎〔三崎より海上三十六里〕追放〔竹之丞抱役者〕半四郎右三月十三日申渡されの後三位様より御たのみに付江島は内藤駿河守へお預となり在所におしこめ綿服にて朝夕一菜下女一人付置他出させまじき旨申渡し有けるとなり四月朔日より堺町葺屋町木挽町三座とも御赦免にて狂言相始向後桟敷に簾下げ候事堅く無用衣裳は木綿紬絹迄着用と仰渡され四月四日島船までもつかふに乗塩留霊岸島永代大橋両国と乗場々々に一類暇乞に行もあり一かたならぬ群集にてぞ有けると也島より新五郎市川団十郎〔二代目栢莚〕方へ書状参り候中に此節鰹沢山にとれ候へど辛子なきゆへ何卒辛子を送り下されかしと申越其奥に釣鰹からしもなくて泪哉と書たり栢莚のかへしに鈎鰹きくも泪の辛子かなと言送りけるとなり正徳四年より今迄百卅七年となる昔語りなり
元祖市川団十郎は俳名を才牛と云市川家系は『役者大全』に見へ又かの家の蔵板の書『父の恩』にもくわしく出たれども舞台にて横死の事は人口に膾炙のみにて慥なる書に遺らず『近世江都著聞集』に僅に是をしるす尤其年月は家系に出る所とは相違せる所もあれど先実説に近ければ爰に出す元禄の比杉山半六と云役者才牛を恨て殺害せし旧を尋ねるに半六身持よからぬ男にて伯母と姦婬して我家に置く世間の者も是をしつて浮名高ければ才牛気の毒に思ひ杉山を呼で屹度異見し一所に居ては世間の仇名留がたしと才牛の方に預かり暫しは不義の通路もきれしがいかなる悪縁にや表は切れし体にて密に文の取かはしなどせり才牛は物堅き性なればかの女を三味線ひき権次郎と云者へ衣服金など付て妻にくれけり渠が方にて一子を設け杉山が浮名も自ら人云止けるかくて年月立しかど杉山が行跡直らず一とせ市村の頭取となり詰囃子等を抱ゆる節かの三味線ひき権次郎をも抱へ心安く渠が方へ行又密通に及けり其年堺町類焼して和泉町杉山が宅は残りければ焼出されたる彼女杉山が方へ来り思ふ侭不義を働けり後は忰も半六が方に引取り養育する事才牛は聞ども人面獣心の女なれば見限りてよせ付ずされ共才牛は小児を寵愛し大勢集めて菓子など与へ楽しみとする癖あれば居宅へは勿論楽屋へも来り遊ぶに銘々に菓子をくれかの半六が方に居る権次郎が忰も此中に交わり居たるに是一人には呉ず其方は親に貰ひ候へ親父は菓子を多く持居るぞと云しを其忰半六が頭取座にひかへし処へ行才牛様我に菓子は賜わらず親父に貰へと申給へど親権次郎殿には菓子は持給はずと述懐心に云ければ杉山聞て才牛は小児へのわけ隔は何事ぞや親父とは権次郎にあらず我をさしての当言なるべし此間楽屋にて我悪事を人々に話て恥辱をとらする事の無念さよ生置ては後日のあざけり討て意恨をはらさんと本身の刀を持て其透間を待たりけり是元禄十七申年二月十九日星合十二段と云狂言一番目大詰甲賀三郎役素袍の侭にて楽屋へ入る所を後より寄添腰の脇差抜もちて脇壼を一刀さし通す才牛手をとりおのれ男に似合ぬ卑怯者尋常に名乗かけて討はせで何ゆへかくはせしといふ声も段々弱り手もゆるみけるを半六は終にとゞめをさしにける夫と見るより楽屋大に騒動し芝居かゝり大勢の者おり重なり杉山を取て押へ忽縄をかけ引すへたり此折から団十郎〔二代目栢莚〕は才牛が甥にていまだ前髪名は九蔵と云しが飛来つて杉山にむかい狂言の太刀にて伯父の敵思ひしれと二太刀三太刀打けるとかや尤狂言刀なれば疵付べき様はなけねど時に取ての勇気なりと人々ほめけるとぞ扨杉山を公儀へ差出し意恨の程を尋給へど唯恨有とのみにて強てお尋有時申けるは戈牛にあらざれば我心を不知我心にあらざれば戈牛に意趣ある事をしるべからずとて其後無言にて刑罸せられける御府内にて正月児子の翫ぶ骨牌と云物に三光と云手を江戸にては団十郎と呼ぶとなり元禄に戈牛殺されて後は六三枚持し手を半六とて団十郎を崩させけり中興其事を止め二代団十郎元祖よりも勝れしとて骨牌を慰む者此事を止けるとなり一とせ二代目栢莚始の俳名三升元祖の追善をせし時 塗顔の父は長柄や雉子の声 と晋子其角は詠て送れり是も今より百四十七年の昔なり
天保十二丑年十月六日の夜堺町芝居楽屋より出火にて葺屋町芝居を始隣町六七町焼たり、其節堺町の狂言芦屋道満大内鑑、保名に薪水、悪右衛門海老蔵、葛の葉狐二役栄三郎、与勘平多見蔵、切双蝶々、長吉多見蔵、長五郎海老蔵、お関杜若にて六日目米屋場初日の夜也、葺屋町市村座双蝶々、新作長吉羽左衛門、長五郎歌右衛門、大切六歌仙の所作事大入之所類焼、普請願ひ御聞届なく元来此度の火事は甚少しの事なれど毎度芝居町に限り火事あるゆへ、替地仰出され候となり十二月十八日三座御召出しの上仰渡の写
堺町・葺屋町・木挽町三芝居狂言座幷に操座同人抱役者座頭出方惣代料理茶屋惣代
此度市中風俗改候様にと御趣意有之候処、近来役者共芝居近辺住居致候町家之者同様に立交り誠に三芝居とも狂言仕組甚猥りに相成り、右に付市中へも風俗押移り近来別て野鄙に相成、又々時々流行之事多くは芝居より起り候哉に付、依之往古は兎も角も当時御城下市中に差置候ては御趣意にも相戻り候事に候、一躰役者共儀は身分の差別も有之候処、いつとなくその隔も無之様に相成候へば、不取締之事に付、此節堺町・葺屋町両狂言座幷に操芝居其外右に携候町屋の上は不残引払被仰出候、乍然二百年来居着之地相離候に付ては品々難渋之筋も可有之哉に付、相応之御手当可被下候、替地の儀は取調追て可及沙汰候、木挽町狂言座の儀も追て類焼致候か普請大破に及び候節は是又引払ひ申付候間兼て其旨可存、権之助狂言座之義は来春興行相始候共狂言仕組幷に役者共猥に素人え不立交候様に取締方之儀をも厚く可相心得申候、右之通被仰渡奉畏候仍而如件
天保十二丑年十二月十八日
前書当人
同町役人
北御奉行所
同年大晦日一統御呼出しの上聖天町へ替地仰付られ御手当金として五千五百両下し置るゝとなり、然れども聖天町には小出信濃守殿、同主税殿の屋敷地なれば是も御替地へ引移りの間卅日の内に鼠山と回向院の東空地へ移し、二月朔日に堺町・葺屋町の者共へ引渡し賜ひける、此土地は俗に浅草の姥が池とて往古孤家有し所とて、地形甚低く一万八千坪とか有、地形一丈計地上せざれば普請にもかゝる事出来難しとて、元地より先地形普請にかゝり、翌十三寅年七月に地名を猿若町と名付、一丁目中村勘三郎、二丁目市村羽左衛門、三丁目河原崎権之助歌舞妓三座操座〔結城座薩摩座〕二軒共爰に移りけり、河原崎は仰渡されの表なればやはり木挽町にて顔見世、翌春狂言・三月狂言とも興行せし処、市川海老蔵お預と相成り御老中水野越前守殿御差図にて寅年六月二十二日申渡しの写し左の通り也
〔深川島田町熊蔵地借十兵衛方同居同人父〕 歌舞妓役者 海老蔵
其方儀家作之義は長押塗がまち等不相成、雛幷に道具之義も結構に致間敷と前々より町触有之所、其方家業体之儀は時之風俗に随ひ、専ら表向を錺り不申候ては贔屓も薄く、道具類も右に准じ金高之品に無之候ては融通も不立候迚、右町触を背、居宅長押造床かまちに致赤銅七々子釘隠し打付、庭向へは御影石燈籠其外大石数多差置、亦は同所土蔵内へ不動之像を錺、荘厳向惣金箔彫物有之、須弥壇朱塗之彫物惣金泥合天井に致、或は小箪笥へ赤銅七々子に金丸桐の紋付、小柄に鉄物に致其外手込り候鉄物相用、唐櫃幷に額奈良細工木彫彩色之雛等追々買取、右雛道具も島桐にて金砂子を置、胡粉紺青にて瓢簞を菊桐五三之桐紋形に置、名前不存町人より貰ひ受候迚、右壇に猩々緋を敷、座敷内へ相錺、其上狂言に用候品も一通りにては見物之人気に入申間敷と、革製具足一領鉄にて甲無之具足一領何れも武用之品を所持致、狂言に相用、且又先代より持伝り候共珊瑚珠の根付緒〆付候高蒔絵の印籠等狂言之節相用、又は銀無垢のちろり等所持致候所、金子に差支右之内ちろりは所持致、其余之品は質入又は可売払と預置、金子借受候後、去丑の十月質素倹約之儀被仰出候に付、不相済後悔致、居宅造作等取崩候場所も有之候得共、右体身分をも不顧、奢侈僭上之至、殊に先年より買置候共高さ一丈七尺之石燈籠一対、深川永代寺境内に於て開帳有之候不動へ可致奉納と右境内へ差置候段、旁不届に付、触に背候品幷に居宅被崩候木品ども取上江戸十里四方追放申付候
右十兵衛
其方儀父海老蔵儀町触相背、居宅向長押造塗がまちに致し道具類其外華美高価之品所持致し、奢侈に及所業に候を如何之儀と乍心付、父之儀に候迚差留も不致其侭に致置候段不届に付屹度呵り置
右家主 熊蔵
同町 甚右衛門
其方共之内熊蔵地借十兵衛父海老蔵儀町触等を背、居宅向長押造塗がまち等に致し道具類其外華美高価之品所持致候をも不存罷在候段、畢竟平日心付方等閑故之儀両人共不埓に付過料三貫文申付之
同町宇右衛門店 質屋六三郎
其方儀海老蔵より質に取候雛道具は手を込候奢侈之品に有之処、前々より町触をも相背無判にて質取候段旁不埓に付右品取上過料十貫文申付之
岩代町家主 質屋作七
其方儀武器之類は容易に質に取申間敷と先年触置候所、相背殊に身分不相応之品と乍心付、海老蔵より具足二領無判にて質に取月数相立菊治郎へ売払の段旁不埓に付過料十貫文申付之、但菊治郎より請取代金銭可償候
神田平永町源右衛門店 古道具屋菊治郎
赤阪裏伝馬町二丁目忠兵衛店 同 平兵衛
其方共儀武器之儀に付ては先年町触も有之処、篤と出所不相糺、菊治郎は作七より具足二領無判にて買取所持致候段、両人共不埓に付右品取上、菊治郎は過料拾貫文、平兵衛は同五貫文申付之、但し菊治郎は平兵衛へ相渡候代金銭同人へ可償、作七え相渡候金銭同人え償申付候間可受取
右町役人組合名主
右之通被申渡海老蔵は於数寄屋橋御門外追放被仰付候、右寅年六月より海老蔵儀は総州成田不動へ落着居候へども彼地にても噂商き者ゆへ、上方へ相赴、駿州の贔屓先に暫食客と成、翌卯年紀伊国高野山には墓もあれば詣でんと伊勢路より伏見へさして登りし所、大坂芝居興行人堺屋惣右衛門より大坂芝居へ出勤させ度願ひに依て、海老蔵大坂へ召れ江戸表へ伺ひ候上、卯年十月大坂住宅となり角の芝居へ出勤となりけり、それより八ケ年が間京摂の内にて興行致せし所、嘉永二酉の六月八代目団十郎父海老蔵に逢度願ひにて江戸表にて暇乞狂言を出し上坂し七月帰国せしが、孝心の聞へ高く同年冬御赦免を蒙り同三年の春九ケ年ぶりにて江戸表へ帰国し、三丁目芝居へ再び出勤の身と成りしは、業こそかはれ先に誌せし多賀長湖〔英一蝶〕と同日の論なるべし
元禄の比歌舞妓役者若女形三ケ津惣芸頭と呼れたる芳沢あやめ〔俳名春水〕此系図も『役者大全』『綱目』等に出たれば改云ず〔二代目あやめとなりしは芳崎咲之助を惣領にて立役山下又太郎元祖中村富十郎も此あやめが躮なり〕芭蕉が句に郭公啼や五尺の菖蒲艸と云も此春水に送りし句なりと云〔蕉風俳諧の伝授と云付会の説も有〕春水は歌舞妓者といへど元能の手をよく弁へ其比四座の人々の習ひ事とする秘事乱道成寺石橋も悉く習ひ覚へ扇子の手は他の及ぶ処にあらず故に二代目あやめ〔始の名咲之助〕又太郎富十郎何れも道成寺石橋のうつしをするに並々歌舞妓の芸とは格別に蓮ふ事なりとぞ『近世著聞集』に云故あやめ大坂にて海士の玉とりやつし舞をせし時地謡共うたひつれ春水扇子の手格別なりと称美する其手の中に直下と見れども底もなくと云段に至り扇子を上て顔をふり上件の扇子を見るの振なり或人故春水に難じてあの場は海原を見やる体なり海上へこそ心を移すべきに扇子をふりあげ仰ぐは其情気取り悪からんと申ければ春水答て申けるは凡舞の一手と申習ひは其舞台の餝に搆わず海も山も花も雪も惣じて万物を扇子を的に見る事なりたとへば地謡然れども此松わと諷ふ時は扇子を上て松にたとへ月は隈なくてり渡りと謡へば扇子へのみ気をとるを舞の伝授と致事なりそれを扇へは心をば用ひず月といへば空へ目をつかひ山といへば仰のき川といへば下を覗く身振は皆々素人芸にて拙し真実[ほんま]の事を一向知らざる者のする処なりそれ舞の扇は無にして有虚にして実陰にして陽なり陽中の陰又陰中の陽とて開くを陽の手畳むを陰の手取落したる扇を虚の扇取上拾ふ扇は実の手雪月花になぞらへ見る扇の手は有の扇と云てにはに持置す扇を無の扇と云なりされば天台大師智者大和尚の文句中に風大虚に入ぬれば木を動して是をさとし月重山に隠れぬれば扇を上て是にたとふと申御句有法華比喩の大事と云有がたき仏説なり扇の手は此様な子細にて中〳〵詞に尽難し何ぞしる事かたかるべしと物語しけるゆへ春水の大達人たる事を明らかに考べしその後中村慶子〔元祖名人〕がせし娘道成寺の折長唄の文句に月は残りて有明のと云時に扇を開て其扇を見たり其節八丁堀の平井平右衛門〔御部屋御役者なり〕物語に扨も慶子が扇の手は不思議なりと誉けるゆへ始て子細を右平井に聞けり嵐和歌野も今の菊之丞も亀蔵も其外月は残りて有明のと云時は皆あなたの空を見たりしが独慶子は格別なりと申されし其外本座の人々の咄けるはあやめ一流の扇子は奇妙なりと申さるゝ中〳〵御府内並に京大坂の歌舞妓役者に所作事師といふも多く有といへども皆々歌舞妓扇子とて本手にあらず素人は面白しとほめても真実[ほんま]の目からは偏に山猿の烏帽子着たるが如し故春水二代あやめ〔俳名一鳳〕富十郎又太郎が如きの地舞は古今に有まじと右平井平右衛門も称美申けり是少しは真実の功者と申べきかと出し有此余地狂言の役々によつて心得とすべき事をあやめ草と外題して躮ども門弟子へ遺せし書有然れば此比は振付と云もなく皆我ふりを拵扇の手にても我工夫にてせし事なり中巻夕霧の条にもいへる如く遊女役者と一口にはいへどかゝる名誉の者となれば金持の町人にのみ付合べからずやごとなき高位にも召るゝ事有てよき事を聞居るなれば別てあやめは幼稚の比色子にて其比名誉の能役者太夫達にも贔負となり本手も委しく習ひしなるべし今時三都の雑劇に振付と称する者有て唯婦女子に舞を教へて業とし邂逅歌舞妓に新しき所作事といへば此振付が三味線歌も出来たるを聞て所作らしき振をつけ扨役者に教ふる事なり依て本手の故実のとの論もなく皆々歌舞妓踊りなり唱歌も古きものゝ寄せたるのみ三味線の手もあれ是とよせ物振は所謂あて振にて野鄙なる事流弊の習ひ是非なし
本行の能に限り新奇の工夫を以てする事を禁ずといへり、さも有べき事なり、歌舞妓などゝひとつに混ずべき事にあらねど梅朧主人が『新斎夜語』にも造りもふけしことなれど一話有、爰に出す、いつの比にか有けん四座の外に梅若太夫と云有、若きより家業に志深く芸に精神加わり観世に劣らぬ名人の聞へ有しに、一とせ信州を領ずる侯家にて家督の嘉儀に能有、梅若「木賊」を舞ひしに領分の百性らにも見物をゆるされたるが、其中より下手なる木賊の刈よふかなと笑ふ者有、能果て梅若其譏りし者を領主に願ふて呼出し嘲りを問ふ、百性答へて、我は此信濃にて名におふ園原山の麓に生たち木賊を苅て年比業とすれば、心ゆく見物なりと見侍りしに、木賊刈ふと鎌を右の手に持て左へ〳〵と刈らせらるゝは余り拙く、尋常の草こそかくは刈れ、木賊をかく刈る時は半より上へ裂て真帆には刈れず、鎌を逆手に持て左より右へ掻切こそ法なれと述ければ、梅若今迄木賊刈の所作は師伝を得てなせども、未誠の木賊を刈たることなし、誠に老圃に問へとは此事なりと感じ、一時の師にこそと物多くとらせ帰して後、此家にては二鎌は昔の如く刈り、後一鎌を逆手に刈る業を入たるとぞ、此後南都薪の能舞に登り、一夕西大寺迄用有て帰るさ、夕月夜にたどるにも心を凝機位を考つゝ行先に、いと老たる乞丐婆の杖にすがり行を跡に従ひ、渠が容貌足の運び杖の突ざま心をとめて躡行しが、尼が辻にて渠は南の方へゆかんとするを呼とめ、年老て嘸苦しくこそ物取せんと印籠の内より方金一顆取出し与へければ、婆忝しと手に受しが直に返して、かゝる貴き宝より只一二の鵝眼を賜われと云、梅若我一時の師なれば其恩を謝すなりと云に、婆我殿の師たる事を覚へずと答ふ、我は梅若と云能太夫なり、今年薪の能に檜垣を勤るに付工夫する所、汝が一年老屈りて杖つき行さまかの檜垣と云老女の能を舞んに感ずる所有ば、是師にあらずや謝物を受よといへば、婆その謝物ならばいよ〳〵以て請がたし、殿の猿楽こそ覚束なけれ、今婆を見て老女の能の妙を得給ふとも、鬼神の能は何を見て其玄微に至り給ふへき、其御心よりは何事も枝葉に拘はりて謡曲の文章に時代違を作り、牽合付会の俗説どもを胸わるく思して、彼の是のと改めんの計も出来ぬべし、迚も是は慰事にて事実に用ゆべきものにも非ず、白楽天を唐音にては諷われぬ物から、只家伝の節黒譜を深く修練し世々の舞の手の優なるを慕ひ給ふにはしかざるべし、習ひ学ぶべき師伝の書いくらも有べきを置て、遠く外を需給ふべからず、歌舞妓物まねする者こそ賎きさまを其侭に摸すをもて誉とすなれ、貴人高位御慰にも成べき為の能なれば卑き乞丐のさまを見写しになさば、さこそ見苦しかるべき、我はさまこそ賎しけれ心は殿に恥べうと思われずと流るゝ如く述けるに、梅若大に閉口し思はず地上に頭を低て稍涙を払ひしが、去にても如何なる人ぞと問まほしく仰見れば、いづち行けん姿も見へず失ぬる事こそ不思議なれと有、是は旧より作り物語なれども乱舞猿楽にも限らず、諸芸共に通じて上巻浄瑠璃太夫の名言に云、酒を飲て生酔のせりふに当りをとれば大疵を受て手負の場を語らずば其情通じ難しと云るも同じ日の論なるべし
巨勢の金岡が画る馬は夜な〳〵出て萩の戸の萩を喰ひしなど、名画に精神入てふしぎを見する事和漢其例多し、狩野探信が図せし処の竹の絵は古今の出来なりといへども、其葉皆陰形にして夜の竹の姿なりと云、探信幼少の比父探幽が手本に竹を画て渡しけるを数度清書して見するといへども父の気に応ぜず、大に呵りて以ての外不器用なり是にて絵といわるべきか、其方分としては家元の家督は成るべからずと散々に罵りければ、探信稚心に是を恥て筆を手に持茫然として夜更る迄寝もやらず案じ煩ひ居たり、其折ふし秋風冷やかに吹音信ける時しも、庭前の竹戦ひで葉形あり〳〵と障子に写りければ、始て是を本として忽其姿を画、翌日父探幽に見せければ、是でこそ画といぶべし、精神悉く具り妙なり奇なり、しかし是は葉の色陰形にして夜の竹なりと云しとかや、名人の上にはかゝるふしぎの見分よふこそあるらめ、中興尾形光琳は此探信の竹とおなじく、障子に写る影を写して光琳風とて一流を書始けるこそ名誉といふべし、是も始より其風ばかり書にあらず、諸流にわたり真草行を篤と胸に納めての上の事也、大江丸旧国の句に「三日見て光琳常の百合を書」と詠しは爰なり、曩に云英一蝶などは浮世絵とて所詮土佐狩野などの家元とひとつに混ずべき物にあらぬは誰もよくしる所なり、中興真写とて都ての画を生写しに書始しは丸山応挙なり、是又一流を立る程の名人なれば此画を愛する者少からず、或方より臥猪の画を乞れけれども、応挙未嘗て野猪の臥たるを見ず、矢脊より薪を運ぶ老婆に問ば、たま〳〵是を視ると云、重ねて見ば我にしらせと云に、老婆日あらずして我家の後の藪に野猪臥し居れりとしらす、応挙俄に門人一両輩をつれて矢脊に至れば猪は薮に臥したり、応挙筆を採て写しかへり清書なる比、鞍馬より来る老人有、話の序に臥猪のことを云、翁山中にて常に見ると云に、かの画する所を見せるに翁熟視して是病猪なり、凡野猪の薮中に眠るは毛髪憤起四足屈蟠おのづから勢ひ有、以前病る猪を見しが此画の如しと云、応挙翁に臥猪の形容を聞てさきの画をすて新に画く、四五日有て矢脊の老婆来てかの猪翌日藪中に死たりと云、応挙是よりして生写しと云画を止めたりと云、さも有べき事なり、梅若太夫の話ともおなじく、目前視る所の草花鳥獣は真写もならんが、龍神鬼神など画には何を以て手本とせんや、皆往古より書来る古画によつて画く事なり、かゝれば画虚事とて古今名画の上にも法則具わりたる事としるべし、
応挙若かりし時野馬の草をはむ図を画けり、或者難じて馬の草を喰ふには草に目を傷らんことをいとふて両眼を閉る、此馬草むらに鼻づらを入ながら両眼見開き居るは盲馬なるべしと、応挙是を聞て画を改たりと云、又今にも東都浅草の観世音の堂内に高嵩谷が画たる頼政猪の早太鵺を退治の大絵馬有、或人難じて嵩谷は古今の名人なれども鵺の尾に蛇の頭の方を書しは誤なりと云、予思ふに嵩谷程の名誉の者心づかぬにはあらざるべし、尾は蛇の如しとあれば蛇の頭を書ず尾計書時は蛇か蝮かわかるべからず、所詮鵺といふ獣有といふも実説ならねば、爰ぞ画そらごとを心にこめ見易からん様に頭の方を尾に書たるなるべし、されば応挙が野馬の図を書かへたるは見識嵩谷が鵺に劣り、第二義ともいわんか、猶識者の後評を待
漁猟を好む人の云を聞ば魚をとるより鳥を捕は面白く、鳥を取るより鹿狩は又面白き物なりと云、或儒の曰和歌より詩はおもしろく、詩より文章は又面白しと、又或俳諧師の曰、詩は長刀、和歌は刀、連歌は脇差、俳諧は懐剣なり、心切に思ひ詰れば其利事早く始皇の胸先を刺に至る、刀長くば其所に至りがたからんと皆己々が好みの道へ水をひくとやいわん、されば悪堅き儒者の口にかけては周公・孔子をのみ尊みて、我朝の至宝と称ずる源氏伊勢の物語を媱乱にみちびくの書なれば、若き男女には見すべからずなど云て、仏法は世を惑はし民を誣るの法なりなど難じて其余の事は有てもなくてもの様に云り、見ぬ異国の事ばかり有難がる人に今時の雑劇を見せたらば何と評を付るやらん、爰に捌けたる物は俳諧なり、『風俗文選』のうち獲鱗の解の解は五老井許六の作なり、其文を爰に出す、
魯の哀公十四年西の狩に麟を得たり、孔子大きに歎きたまひて春秋をとゞむ、夫麟は何れの時出て孔子は見覚へたまふぞ、いといぶかし、鼠は愚にして火難の家をさけて命を保つ、麟は四霊の随一にして狩ある事をしらず、うろたへ出たるも又いぶかし、孔子自ら聖に高ぶり、もしや牛馬の生れぞこなへるにてやありけむ、是も又いぶかし、麟うせ、道おこなわれざる物ならば、道は麟にのみありて聖人の上にはなき事にや、猶又いぶかし、麟ほろぶれば聖人も共にうせ給ふ例にてもあるや、たとひ聖人うせ給ふ例有とも、道はまさしく存ぜり、是とても歎に足らず、儒道貴しと思ふ者は麒麟を第一にたふとび、次に聖人をあがむべきか、箸折るれば親に離れ、櫛の歯虧れば子に別るゝ占とて、童蒙のものはふかく悲しめり、箸おるゝ毎に親にもはなれず、櫛木履虧る度に子を失ふにてもなし、されば仁義の占もあはぬためしもありぬべし、麟をすかぬ聖人もありや、又聖人を好ぬ麟鳳もありや、《むかし》三皇五帝より以来、孔子の外出たる聖なし、和国も神代より打つゞき当時百年枝をならさぬ聖朝なるに、麟鳳出たる取沙汰もなし、犬は戸口を守り鶏は時を報ず、麟出て人もおどさず、鳳啼て旅客の夢を破る能なし、出ぬ方の聖人いよ〳〵目出たかりぬべし、見ぬ唐土の鳥もねじと、徹書記があやまりたるは、もし出ぬ方をよみたるにや、世間聖人をしらずして、麟鳳にのみ目をつけて、末の凡夫の不目利は、かの一言のあやまりにて聖人なしと思ふなるべし、今此麟を解して見るに、とまり兼たる春秋の、よき場所に出合せ、挙句の趣向と見こなしたらば、何の麒麟に理屈あらむや云々
是らを称じて俳諧と云なり、世の人和歌連歌は雲上なる詞を用ひ、俳諧といへば鄙陋なる詞を遣ふと心得たる有、さにあらず、詞花言葉を翫び俳諧も八雲の末なれば一口に卑むべからず
上巻音曲を挙たるうち狂言綺語のこと詳なり、直に言を言と云、論難するを語といひ、道理に卒くを綺語と云、堅き事を和らげ方便の為に戯れ言をなして、愚なる人を善道にみちびく謀を狂言綺語と云なり、今の世の人芝居ごととて戯場の狂言道理に当らざる事ながら、芳野川の早瀬に両岸より道具を流すなどのこぢ付を、芝居事なれば仕方なきと云、是を混じてそこで狂言綺語なりと批判をいわれし時の迯場と心得たる人有、是は雜劇事とて狂言綺語とは心甚違ひたる事と心得べし、狂言綺語とは戯場の事のみに限るべからず、仏経にも讃仏乗の因と説て広きことなり、戯場狂言に無理なる仕組有事を、皆芝居事とて画空事と云に同じ、いわば一幕の狂言に一昼夜の事をなし、月に雲かゝれば真の闇となる、暗を探り合ひ庭も座敷も隔なく座すなどは、五六間の舞台に道具を飾り広き殿舎・仏院・深山幽谷も摸す物から所詮真実の事はならず、それ〳〵に法則有て是を一体に芝居ごとゝは云なり、又始終に連続せざることを雑劇通言に穴と云有、是は又一種別にて其穴をのみ見出す者を穴捜しとて、これを是とする人まゝ有る物也、穴多き狂言は浄瑠璃歌舞妓共に当り芸に有、穴なくても面白からぬ狂言は再び出ず、仮名手本・菅原抔は穴頗多けれども、毎度興行の度に当りを取るにて思ひ合すべし、されど浄瑠璃歌舞妓とも近世の狂言の事をいふにあらず、古作の名狂言の事を評じて云なり、戯場に限らず諸道諸芸ともに其道の事を委しくしらずして、其穴を探り批評するは、俗に悪口云と云者にて、たとはゞ念仏無間禅天魔など迚仏家の事を唱へるも後世の評にして、祖師・元祖の事をいふにあらず、後世流弊の者を評ずるなり、其道の事を弁へずして批判を打輩は悪口いひとて論ずるは無益なるべし
右に演る如く古く遺る当狂言には穴多し、されども今更是を改るによしなく、故人の節墨譜を守り、木偶にても昔を守り、歌舞妓にても俳優のするも皆古への格をはずさずするを此道の習ひとする也、譬はゞ物草太郎といへば桃色の上下にいたら具の紋を付、曽我の兄弟の紋は蝶と鵆を用ひ、道成寺の清姫の帯は鱗形と仕来りたるを紋切形とて、今更新奇の工夫有とて猥に改替 ぬを此輩の法とするなり、邂逅新奇に案て以後一変するもあれど、故人へ対して失礼なるべし、判官代輝国打裂羽織を着、漁師鱶七半上下を着るなど道理には叶ふべけれど、かの芝居事と云に考合さば、新奇の思入はむだごとなるべし、爰に近比の話なれど一二話有、海老蔵菅原をせし時、松王丸にて首実検の前に此首は贋首なるべしと誣問ふて後、我子の首を見て実に菅秀才の首なり、はて討ましたよく討たと云思入、是は故人の誤りの穴を埋しにはあらず、我のみの才覚にてする事なり、実に穴をふさぐと云は、道明寺の場にて始贋迎ひの来たる時、後室覚寿は誠の迎ひなりと思へばこそ丞相を渡したれ、輝国を呼かへして誠の丞相一間より出れば驚くも尤なり、然れば先に木像と別ろゝ時にも苅屋姫を連出て、詞はかはさずとも見送るべき筈なり、先に其事なくて段切にのみ姫をつれ出る時は、先に贋迎ひに渡したは木像なりと知りたると思わる、依て予海老蔵に是を云、海老蔵成程と思ひしにや、先贋迎ひの時にも妼二人に咡ぎて苅屋姫にそつと見送らせ、手にて仕かたして奥へ入たり、是らは実に穴を埋る思入なれど、見物に心づかねば誰が手柄とも云べからず、当時の歌右衛門が又平手水鉢にかゝり是今生の名残の画姿は苔に朽る共名は石魂にとゞまれとあつさ尺余の御影石と云文句の内、こなたより画を書ば手水鉢の内へ道具方這入て向ふへ書事定例なり、操にては向ふの画像に紙張付有て、是をまくるなり、歌舞妓にては又平鼻を書ば道具方後ろを見かへりて向ふへ鼻をかく、諸事又平の書だけを向ふへ書、〽墨もにじまず両方より一度に画たる如くなり」と云文句一ぱいに双方書終る事梅玉すら是をする、今の歌右衛門か様なる事に至つて念を入るゝ癖有、以前予に問ふて曰、古筆の名画向ふへ抜ると云は、半身書たれば半身抜る物かと、予答へて半書たるを半抜る事有まじ、俗に云仏作つて眼ともあれば、いかなる名画といへども未書さしたるはよも抜まじ、全身書終つて後じつと見詰る此時、魂具わつて向ふへ抜るなるべしと云ば、そふなくては叶わじ、此度の手水鉢の仕かけは中より書とも我書く内は筆をとらせず、ぐつと見込む折一時に書すべしと誂らふ、いかなる早筆の者にても狭き所にかゞみ、麁画鈍画なりとも一時に書く事甚かたく、色々工夫の上形をほり針にて縫つけ刷毛にて摺つて間に合せたるが、箇様な事数百人の見物しるべからず、又平の狂言こそ見れ、手水鉢名画の抜よふは見物心にとめねば皆むだ事なり、昔の役者はやはり操の如く張りたる紙をめぐらせしなり、中興何によらず真実[ほんま]物とて御厨子・黑棚・茶道具の類迄正真の道具を遣ふ、是皆芸人の衰へなるべし
古浄瑠璃に名誉の作多き事は上巻東西の見立番付を見てもしるべし、されど唯名高きものを先に出して外題を挙たるのみにて、遙末に書たるにも世に行なはるる名狂言有、又さもなき作と思ふも上座に出たるも多し、又番付出板の後に出たる名誉の狂言も有、書洩して落たる外題も少なからず、其内豊竹座の関脇に出たる祇園祭礼信仰記は宝暦七年に出来て今より九十余年昔の作、中村阿契・浅田一鳥両人の作なり、全体一部の趣向を年暦前後に拘はらず思ひ切たる作と云べし、三好・松永の世界へ雪姫・直信を取組、山口九郎治郎改名して明智となるなと自由に仕組めり、三の口乳母侍従の詞に、此跡の大坂といふ在所で尋ねたれば、岸野の里へもまあ一里とは今云鳶田辺りと見込て、其比天下茶屋新家などは名に呼ぬものから、岸の姫松は思ひより是斎の住家を岸野の里と仮名を呼び、曽呂利を下人新作とつかひしなど、脚色の働らきいと妙なり、四の切金閣寺にても、今纔に遺る瀧を見ては、狂言にするはいと仰山にして物々しと笑ふ者有、是を彼狂言綺語とは云なり、今こそ水落ずとも、其比ならば水勢漲り落たるかもしるべからず、又大膳が瀧のもとにて剣を抜て雪姫に見する時の詞に、河内の国慈眼寺山灌頂が瀧のもとにて老人を手にかけしが、扨は其方が親将監雪村に有けるかと有、予以前より此瀧ある所を考がふるに、慈眼寺山とは野崎観音山の事にて、灌頂が瀧などは各所旧跡とてもなく、此三四里片脇に瀑布といはゞ額田村長尾の瀧、北には倉治村源氏が瀧より外なし、源氏が瀧とは白籏を流したる如きゆへ然呼ぶと、新らしき碑を建てしるせるは付会の説なり、昔此倉治村に興元寺と云古寺有、荒廃して跡方もなくなりやうやく元寺のみを土人覚へゐて、元寺の瀧と呼なるべし、信仰記の作者此瀧に思ひよせて、慈眼寺山灌頂が瀧と作りもふけて号しものならめ、人物時代の前後を論ぜず、旧記実録に頓着せず、善人を悪人とし悪人を又善人として、別に一個の世界をもふけ、勧善懲悪の深理を説くがゆへに、狂言綺語とは云なり、此狂言に限らず趣向のよきと作文のよきと二種有、趣向もよく作文もよきは、実に名狂言とて後世にも廃る事なし、よき狂言ながら人のしらぬも多かり、それらは其時にあはざりしとしるべし、享保十七年文耕堂と長谷川千四が作壇浦兜軍記は各誉の狂言なれど、阿古屋琴責の場ばかり人知つて余の狂言をしらざる人多し、委しくは予が『綺語文草』四編祇園下河原の条にあれば爰に略す、延享二年並木千柳・竹田小出雲が作の軍法富士見西行など奇々妙作といふべし、墨染桜は古今集に岑雄が詠「此春ばかり墨染にさけ」とあるを西行の歌とし、義仲江口の里に遊び、西行銀の猫を家来松並靭負が子にやり、脊虫大尽となつて娘写絵に出合ひ、襖に画し富士を見て軍法を語るなど、一つとして仇なる場はなし、是らを花実兼たる名狂言といふべし、昔よりすこしも捨る所なき物を平家・法華経・鰹節といへる諺有、揃ふて屑のなきを云なり
歌舞妓狂言は浄瑠璃と違ひ、興行度毎に役者もかはれば少し宛の増補有て確と板行に残らねば、其時々に評ずるのみ、然れど名高き狂言にて一二をいはゞ、中巻にも云秋葉権現廻船話、大序は京都屋敷逸当身一つに科を引受殿円秋を本国へかへすに陸地を行ず海船にて乗ると云、是難波へ下らせて大廻しに乗せるなるべし、扨跡にて敵役を討捨切腹する、五平遺書と首をもつて陸地を走り、粟津の松原にて幸兵衛に合ひ遺書を渡して直に走れり、此前に幸兵衛は駄右衛門に逢ふて別れ、兄逸当が遺書を読、駄右衛門の跡を追ふて駈こむ、祐明鉄炮を打が序の幕なり、二つ目日本国の屋形へ円秋入部の悦びにて家中一統さゞめき合ふ中へ、衒の駄右衛門手廻し早く入り込み、情をかけて暇乞をさせること余程の時移れり、今切腹といふ所へ駈付たる五平は一向の道下手と見へたり、さなくば余程戯談[じやうだん]が過しと見へたり、幸兵衛駄右衛門の跡を尋ね主人円秋が家を大事に思はゞ遲くとも此幕切に駈付、一方は切防ぐべき筈なり、何国へ這入り居しか甚不忠不義の男なり、五平も又序二とは働らきたれど大井川・宿屋の二幕の内は何国へ這入りおりしやらんと、か様に一々難じる時は狂言は書れず、穴といへば斯の通り多けれども、見て面白き狂言なればこそ八九年の後今に少しも増補もせで用ふるなり、又けいせい黄金鱐、序切は宇治の小倉堤なり、夜明前と見へて斎藤龍興京都より本国美濃へ交代の行列出て、駕の内より爰は何国と問ふ、家来小倉堤なりと答ふ、鶏笛吹によつて最早鶏明乗物やれと此人数這入る、跡へ柿の木金助西国順礼の姿にて出る、向坂甚内は東国道者赤蜻蛉の姿にて出て双方国の訛りを言ひしが、後には我を忘れて其身の望を語り互ひに落首の狂歌を取かへ、又廻り合ふ時節も有ふと双方へ別れ行、稲村の中より龍興乞食の形りにて「風ふかば沖つ白波」のせりふを云、両人あやしみ小戻りして顔見合す、「心々の世渡りじやな」と云、是序幕なり、是夜明とも日暮とも少しわかり兼たる狂言にて、東国道者の出に「あれ〳〵お月さまがつん出やしやつた」とせりふ有、顔見合す時がんどふ提灯稲村の中より双方へ突出すを見れば夜なり、又交代の道筋東海道もあるに、小倉堤は来るも何とやらおかしき物なり、扨二つ目幕の内、諸国歌枕南宮左中将当城へ旅館なさること家老山形道閑出むかひ幕の内へ這入る、幕明て今日殿龍興入部なりと出迎ふ、殿帰国のよろこびに一家中へ土産をくるゝ、都より院使監物入来り、貫之自筆の古今集を持かへらんと云、奥殿にとくより入込たる南宮左中将出て、前幕西国巡礼の詠たる狂歌を短冊に書てそれをもたせかへせと云、院使又返歌をせんと東国道者の詠たる狂歌を其短冊の裏へ認め、是をもたせて衒をかへせと双方よりいさかひ立かゝるを、龍興中より両人へ手裏剣を打、両人見覚へあれば驚乍ら打かへす、龍興面桶を以て是を受とめ三人きつと見へになり「日外小倉の堤に於て「時は東雲面体も「空も朧の朝影に〔下略〕、是三人が黙りほどきに成り、序切に出合ひし二人の道者と乞食再び爰にて逢ふとの仕組、抜さしならぬ名狂言とはいふなり、然れ共穴多き事甚しく、まづ日外と云は余程日数の立たるを云なり、是は城州の小倉堤よりどふ廻つて帰国せしかはしらねど、美濃の岐阜迄は三日か四日路なるべし、大名の龍興本国へ帰らぬ内に東国道者の甚内が公家となつて入込しは、是も余程よき手廻しなり、又時は東雲とも朝影ともいへば、序幕はどふでも夜明ての狂言なり、此余大序は宇治の茶摘の場にて、二つ目庭前桜の盛りなり、是らは此狂言に限らず間々ある事也、口幕は一年前の狂言にて、次幕一年の月日は立ど、出る人数は皆去年の顔揃へなど、又一人計老くろしくなりて、外の役の軽き者はいつ迄も同じ容など有、是らを皆雑劇事と唱へてさして難ずる事にあらず、されば黄金鱐は序二ばかりにも此位の穴あれども人是を咎めぬは、見たるめよく面白き狂言なれば、六七十年の今に廃らず行わるゝにて名狂言なる事をしるべし
往古の名人役者に妙ある事は役者七書に出たれば云ず爰に中興の事をいわば金門五山桐は並木五瓶〔初代始吾八〕の作にて是又歌舞妓の名狂言なり此序茶屋場へ盗賊五右衛門霊山国師となつて入込み千鳥の香炉を奪取筒井順慶を殺し向ふへ這入る折南無あみ豆腐と戯れて入るを本文とす嵐雛助〔後小六玉〕は至つて肥満して女形は似合ぬと思ひ親小六より女形の家なれど立役になりたる程なれば肥太りて尻も見事なるがゆへに僧頭巾紫の衣を着たる侭にて此場には頭巾をとらず〔二段目幕山門のおり大百日を見せればなり〕花道中程にて衣のまゝぐつと尻をまくる見事な尻に紅木綿の越中褌にて舌を出して南無あみ豆腐と根を盗賊と見せるが趣向にて書もすれ仕手も珍らしければするなり折ふし奥にて石橋の獅子どうでんと太鼓入にて囃子になる雛助尻をまくりしまゝ囃子子に合せ向ふへ這入るなり大胆不敵なるを思入にてせし事とぞ後片岡仁左衛門〔今の我童が父〕此場にて師匠〔小六〕の通り尻はまくつたれどさまで見事な尻にもあらず跡石橋の鳴物あれども其業の出来ぬ物から南無あみどうふと云がいな尻引まくつて向ふへ駈こんだり評に曰あの五右衛門は衒があらはれふかと尻ひつたてゝ迯てかへつたと云り師匠はかうしたと知りながらも其身に出来ぬ所作なれば批判せられても是非なし其後歌右衛門〔梅玉〕坂三津〔秀佳〕角中両座にて金門出たりしが梅玉は鼠の衣にて後なむあみどうふの時頭巾を脱捨衣の裾をまくり上げ両肩へかけてぐつと引しめる裏は黒天鵝毛にて裾は下に四天付の形りとなる是は当時専ら流行引抜の裏にて引起しと云好なり六法をふりしづ〳〵と這入尤梅玉小男にして尻まくりしたり共痩たる体にては当り有間敷と新工夫にてする事なり禅僧ゆへに南無阿弥豆腐なれど盗賊の容にては何とやら背けたる物なり三津五郎も又痩地の男なればいかゞすらんと見たりしが是は又工夫妙なり紫の衣頭巾にてさしてかわる事なく後忍びをポント当る忍びたぢ〳〵と跡へよる折秀佳の頭巾を掴むゆへ脱る下百日鬘にて秀佳ふと頭冷たる思入にて頭を撫る頭巾脱てなきゆへ忍びを見て扨はといふこなしにて頭巾を引とりちよんと着ると忍びポンと返ると一時なり懐より払子を出してなむあみどうふ〳〵と軽くいふて向ふへ這入る見たる所淋しけれど難なし都てかゝる役は二つ目金門糶上迄は五右衛門の拵を見せまじき為序は禅僧の姿にて見せたる物なり嵐雛助は僧のまゝにて頭を見せず尻引めくつて盗賊と見せる好近世は百日かづらを早く見せたがるを習ひとして梅玉などの好は鼠の衣尤背けり秀佳の好尤妙なり其後当時の歌右衛門手下の盗賊同宿伴僧の形りにて六七人出て五右衛門と共に花道にかゝり皆々なむあみどうふと同音にて云て一時に尻をまくる下盗賊の思ひ〳〵の形りとなる是らは何の好もなく論外なるべし此狂言を近来は大かた山門ぎりにて大仏餅屋桃山御殿はせまがちになれり餅屋場中納言となり冠装束にての出も雛助は京都芝居にてせし折は継上下にてして当りを取しとぞ只十三里の道なれど皇都は公家衆の通行を毎度見来り浪華の者は公卿といへばいつも冠装束なりと思ふ者多しゆへに大坂にては譬へ背けたり共公家といへば冠装束にてし京都にては継上下にす是芝居事とは格別郷に入ては郷に随がふの場所なり桃山御殿の場片岡のせしを予幼き比見ていとおもしろかりし其拵は四天大小大百日にて出て宿直の近習睡り居るを見て笑ひ乍上手へかゝる綟子張の御殿を引道具にて出る此内に久吉〔団蔵の父先団蔵なり〕脇息にかゝり睡り居る五右衛門忍び込み刀を抜んとする千鳥ぶへ久吉妹許行ばの歌を云内綟子張引抜五右衛門やゝなんとゝ高二重よりぽんと飛下り屹となる近習目覚しきつと取巻いとおもしろければ帰つて幼心に感心して咄ければ亡父云雛助のせしは中々さやふの物ではなし其訳は五右衛門此場は打裂野袴忍び頭巾にて出て障子ひらく時久吉梅幸〔初菊五郎〕川風寒み鵆なくなりと云ば雛助やゝなんとゝ高二重よりふうわりと飛下りつゝと下つて花道際へちよんと座す尤影〔拍子木なり〕なしに居る事なり是忍術にて忍び入りしかど懐中にて千鳥の香炉啼て久吉の眼力にて忍術あらわれし思入にて始終懐をおさべし侭にて和らかに云しとなり片岡のは忍術の心なしあゝ衰へたるかなと歎息せられしゆへ幼心にも又名人の心は違ひしものと聞しより四十年の今にも忘れず爰に誌せり
義経千本桜狐忠信の役は古今来役者の心々にていろ〳〵にすれど、今大物浦にて静御前を義経に預かり鎧を貰ふ場より狐なりと見物にしらせん為、順切静は向ふへ這入る、忠信つゞひて行かけツカ〳〵と戻り、溜り水にて水鏡を見る、テン〳〵とらいじよを打、一寸狐の思入有て気をかへ忠信の見へになり向ふへ六法ふつて這入るは誰々も常となりてするなり、真の名人役者のする事ならず、上手めかせし下手俳優の好でする事なり、此場にて狐と見せる程の心入ゆへ、道行にもやゝもすれば狐となりたがりて見にくし、四の切御殿にても静残つて鞁を打ば、花道の切幕をツイと明るゆへ此方へ見物の眼の行隙に、本舞台下座又は花道へせり上る事とせり、衣裳は各好にまかせ玉の模様長下などなり、是にては先に誠の忠信を詠め見れば衣裳もかはつて有、扨はと静が心付しせりふに背けり、夫より鞁にて折檻せられ、跡じさりして大小を抜さし出す時、手早く藁沓に竹をさしたる刀とかへる抔、道外めきて悪き思入なり、是にては時々静に馬糞なども喰せしと思わる、源九郎狐にあらで眷属の野郎狐の所作なり、中興嵐来芝〔二代目三五郎〕は中々さ様の事なく、先大物の場にすこしも狐の心を見せず、道行も一通にてをくればせなる忠信がと云出より幕切まで、下座岩台に腰かけ静とゝもに手踊り等はなく、漸「雁と燕」も静とは間遠に隔てゝ踊れり、其余誰々の道行にも口説文句ありて義経に恨みのたけを云、名代につかはれ静に胸もと持れなどする、是らは若聾の見物見たらば、静と忠信は夫婦かとも思ふべし、狐は通力自在なれば静を犯さんもはかられずとの疑有、よく〳〵男女と主従の隔を考ふべし、扨御殿にても来芝はやはり道行の衣裳源氏車の縫衣裳にて脊に道行の包を脊負ひ花道より鞁に聞入、畜生足にてつか〳〵と出て御殿の下につくばふ、静とくと見ればけさ迄連立来たる忠信なり、衣裳かはらねば誠の忠信とは姿かはりしと云文句に合へり、扨せつかんになりて上をぬけば狐の好衣裳となる、延享四年始て竹田出雲・並木千柳の作せし義経千本桜にすこしも背ける事なし、我才覚有共其作者の意に背かずよくするを名人上手とは云なり、旧浄瑠璃に作せしは誠の忠信に静を預け、道行も静は誠の忠信とのみ思ひ詰、扨御殿にて忠信の姿かはりしを怪しみ、よく〳〵思ひ出せばどふか違ふ所有がゆへに鞁を思出、打ば今門前迄連立来たる忠信なり、扨こそと詮議すれば始て明す狐の正体、初音の鞁は親狐の皮にて張しと語るが、此狂言の趣向にて始て千本桜を見る人も有べし、見物に是迄狐としらさぬが出雲・千柳の作意なれば、生智恵の新工夫をするは僻言なるべし、其上せりふに狐声迚尻声あやしく云を習ひとす、然れば浄瑠璃にてもいとむづかしき場なり、近頃組太夫〔藍玉〕が葛の葉の子別れを聞しが幽霊に聞へし、忠信多くは癇症病の声になる物なり、来芝盛んの比歌右衛門〔梅玉〕もせしがいと不評にて落首に「歌右衛門忠信ならば行もせふ銭を出して這入はこん〳〵」と笑へり、当時か様な心得もなく見台又は三味線の胴より忠信出て鉄線の宙渡り軽業狂言とはなしたり、嘸故作者是をきかば歎ずべし〳〵
文政十一子年天満宮の狂言、予梅玉と共に著述せしが、抑此狂言の旧は正徳三巳年近松門左衛門作天神記と云浄瑠璃狂言を六十五年後歌舞妓狂言に増補して安永六酉年中村阿契・並木吾八〔後に五瓶〕天満宮菜種御供と外題を賦しけるより又増補せしものなり〔近来増補せし迄又五十二年に及べり〕、一部の趣向は菜種御供とは大に変りたれども彼笑ひ幕迄は御供の趣とおなじ、是又笑ひ幕とて此道の好人はよく聞居る事にて、幕切時平一人残る迄狂言書たれど、幕をしめる工夫付ず、大内紫宸殿の前にて中通りの公家などが出て様子は聞た此通り注進と駈出すを、時平がぽんと殺されもすまじ、幕となるきつかけなきゆへ、どふか工夫をせうと云しまゝ総稽古となり、時平に嵐雛助〔やはり小六玉金門の前年なり〕、菅相丞尾上菊五郎〔大梅幸〕向ふへ這入る跡、時平独舞台となり〔ひとり舞台と云は楽や通言にて独のこるを云なり残らず這入るをから舞台と云〕長きせりふ有て、「道真はいかひあほうじやなアハヽヽヽ」と笑ふて大笑ひをするを拍子にちよん〳〵〳〵と木を入て見たる所、昔よりか様な幕は決してなかりし故、是のみ噂となり笑ひ幕と号たり、爰に或国学者一日此狂言を見て、扨も俳優と云ものは埓もなき作り事のみをするかと思へば、中々博識の者の作する物なり、藤原左大臣時平公は笑疾と云癖有て、俗に笑中風と云如きの病気有て、一時朝廷にて此疾発り詮方なく政事を菅公にゆだねて退きたまふ、日比不和にて権を争はるゝ敵手に斯の如きは実に止事を得ざればなりと確とせし記録に有、それをしつて笑ひ幕とはよく作したる物なりとて、五瓶を先醒々々と尊敬せられしゆへ、五瓶大きに迷惑したりしと、亡父予幼き比の噺に聞り、是らは世に云まぐれ当りなれ共故人作者役者にはかゝる妙有、菅原伝授手習鑑は延享三年竹田出雲・並木千柳作にして是又古今の名狂言なり〔今迄百五年になる〕、振袖天神記は明和六丑年並木正三の作なり〔今迄八十二年となる〕、予此世界にて趣向をたて十五六年以来待ども未世に出ず、腹稿の侭に打捨あるが持腐りともならん事を惜しみ、所謂狂言の筋書を爰に出す、曲亭馬琴が著編『里見八犬伝』は数編重ねて出たれ共、見てよき所は初編より四編五編迄なり、是も先年予が歌舞妓に潤色せしが未見たらぬ所有、依て世界を菅原と見立仕組の種は『八犬伝』を用ふるなら、二幕目河内土師村覚寿の三年とか五年とかの年回を宿禰太郎と云立役つとむ、奴宅内は本名竹部源蔵にて爰に奉公す、宿禰の伯母に鶴寿と云敵役の女、其夫土師兵衛娘龍田を兼て宿禰と見合さんと云しが、欲心より宿禰を追出し三好清貫の方へ嫁入せんと計る、右大弁希世序にて追放となり土師村へ来て寺子屋をし、娘龍田の聟にならんと娘をくどく、宿禰は菅家再興の為、天国の剣をもつて宇治に時平の別荘有是へ願ひに行んと暇を乞ふ、兵衛夫婦天国の剣のほしさにさま〴〵との工みをする、娘龍田宿禰に別る事を悲しみ淵へ身を投んと書置を置て這入、宿禰是を助けんと淵へ飛こむ、此内に希世天国の宝剣を摺かへる、龍田は身をなげんとせしを宅内に助けられ無難なり、兵衛夫婦は剣を摺かへさせんが為娘の死骸が見へぬと言立、鶏を戸の上にのせて流し、「そりやこそ啼たはとつてんこ」と騒ぐおかしみ有、とゞ龍田助り凶事なき事しれて宿禰は剣に心付ず、宅内を連て宇治へ立を幕なり、三幕目希世又にせ物を兵衛夫婦に渡して龍田を盗み出し迯る、跡へ清貫輿をもたせて龍田を迎ひにおこせし所行方しれず、いかつて兵衛夫婦をころす、返し玉手山にて希世龍田を連のいていろ〳〵口説、天国の宝剣を見せる、後の山影より紀の長谷雄有て伺ひ希世龍田を殺すゆへ長谷雄又希世を殺して龍田と兄弟の名乗りとなる、宅内の源蔵道迄送つてかへり道に長谷雄に出合ひ、是丸塚山のだんまりの幕なり、四幕目宇治平等院の別荘にて判官代輝国菅公に志を傾くるゆへ押込て春藤玄蕃是を責る、宿禰宝剣を以て菅家再興の願ひに来る、改し所にせ物なり、それよりめしとらんとす、宿禰あれ出して芳流閣の屋根へ上る、捕方につきて輝国に龍頭巻の衣裳をゆるして取にやる、宿禰輝国閣の上にて組合ひ下に繋ぎし柴船へ落こむ、縄きれて柴船川下へ流るゝ、幕なり、五幕目佐田村の川ばたにて四郎九郎祖父釣して居る前へ柴船流れくる、中を見れば宿禰輝国なり、躮梅王来つて三人を内へかへし船を流していなんとす、妹聟松王伺ひよつて、だんまり、小文吾房八の画面合せ幕なり、六幕目梅王内法性坊神主春彦大夫争ひ有て双方松王梅王を頼み、以前角力をとらせ松王まけて意恨となり此程は中絶の仲なり、宿禰は金瘡の病臥、輝国は薬を買ひに行、跡へ鷲塚平馬宿禰の詮議に来て祖父四郎九郎を人質にとりて帰る、梅王とつおいつ思案の中へ法性坊かへつて奥へ行、跡へ松王春彦大夫来て悪口を云て喧嘩仕かくれども梅王相手にせず、両人悪口云てかへる、荒藤太と云角力の弟子来てすまぬ〳〵と云を投出して追ひかへす、松王の母千代嫁お春を籠にのせて去に來て嫁を置てかへる、跡梅王妹春残つて今夜は内に置事ならぬ出てゆけと云、此中へ松王仕かけて来て両人立廻りに成松王を一太刀きる、切られて梅はとびの歌をいふ、戸口より母千代下の句を云、松王母者人よろこんで下され、おりや身替になりましたとの愁ひにて、松王の首宿禰の代りとなり血汐で宿禰の金瘡直る、四郎九郎出て愁ひ、荒藤太注進とかけ出すを輝国かへつて来て是をさゝへる、荒藤太くわん眼にて段切まく、七幕目室の津の茶や場にて、白太夫と云全盛の揚屋入には白の牛に横乗りして禿大勢に綱をとらせ出る、是本名桜丸にて八犬伝の毛野の役と見立、都て房総のまぎろしき地名を五畿内の地名に引直し、名は菅原始菜種の御供・振袖天紳記の人名を借る事なり、斯の通り手段を付腹稿する事十四五年に及べども未時節来らず、此余腹稿のもの数多なれ共役者の座組と時候に合ねば世に出ず、此一部にのする如く、実説をよく胸に納めて扨実説に遠ざかり、別に一部の趣向を立るを是なん椅語と云、趣を聊説て此道の好人に示すものなり、猶書もらせしを集めて付録三巻に演れば其戯墨を見て笑ひたまふべしと云
維時嘉永三庚戌年狂言綺語堂に冬籠して
西沢一鳳軒李叟記
西沢文庫伝奇作書続編下の巻終
雑劇作者湖上笠翁先生肖照 西邨楠亭写
題笠翁先生肖像
芒鞋杖見天子龍艦春湖賜御巵一曲懐仙人不解声々惟有沙鴎知 祇園張新炳
西沢文庫伝奇作書付録上の巻
西沢綺語堂李叟著
李笠翁先生は清の康熈年中の人にして湖上に住伊園老人と号す、元より家富仕官を好まず天性其才人に勝れ文章一家の風をなす、書を能くし画を能くし又音律の絃歌に至るまで能くせずといふ事なし、康煕皇帝是を召して官位を授んとの詔あれど辞して受けず、老年に及んで閑暇ある時は詞曲伝奇を作りて楽しみとす、先生の作の伝奇多き中に康熈二十六年の春北京百花坊の戯場にて千字文西湖柳といふ外題にて歌舞妓芝居をなせしを清朝第一の流行狂言とす、唐にて芝居といふ事を演場とも戯場とも枸欄とも戯台とも又小芝居を小枸欄ともいふ、本邦にて宮芝居といふが如し、但し人形芝居は傀儡棚と云、舞台の事を戯棚と云、楽屋を戯房と云、楽屋入口を鬼門と云、桟敷を山棚といふ、又官人などの坐す桟敷を青龍頭といひて欄干に龍虎の彫物青漆塗にして歴々の見物する桟敷なり、尖棚といふは出桟敷の事也、狂言といふ事を引戯とも演戯とも戯齣とも雑劇とも戯文とも云ふ、身振するを介とも科とも云、顔見世を艶段と云、二の替を二艶段と云、稽古は花穿、役者の物まねするを口技といふ、根本正本を院本とも燄段とも云、一段二段を一齣二齣と云、唄うたひを念と云、幕引を啓科と云、役者を戯子とも梨園子弟とも、惣じてかうやうの者を俳優家と称す、抑唐の枸欄の始は漢魏六朝の頃東府と称して行はれしは皆詩を謡ふて舞し事にて、日本にていふ白拍子が朗詠などに合して舞ふに同じく、唐の玄宗皇帝の時始めて伝奇院本とて芝居狂言なるといへども未盛に行はれず、又宋の徽宗皇帝の時、爨国の人来朝せしに各美麗に粧ふて面に紅粉を施したる体を、其まゝ優人に命じて其顔に擬して舞せらる、是を五花爨弄の舞と称して其時に行はる、是を芝居狂言の始とす、此時より民間に一種の枸欄戯子と云もの出来、多くは漢楚の戦、三国志など狂言に取組み世に行はるゝ事とはなりけり、其後金の章宗皇帝の時董解元が西廂記といへる狂言を作る、是唐の元稹が会真記に擬して作れる狂言にして、古今芝居狂言の規範とす、夫より後は皆西廂記のかたにて作れる狂言多し、唐朝より以後代々流行狂言多しといへ共あらましを左に記す、唐の世にはやりしは
演記長恨歌、 烈女降黄龍、 晋宣成道記、 煬帝白花鈴、 粉墻梨花院、 女状元春桃記
宋の世にはやりしは 三国一夜談、 王子端捲簾記、四坐山、 楡酒牡丹香、 花香千字文、 三蔵法師不抽関
金の世にはやりしは 西廂記、 講家求記、 水酒梅花爨
元の世にはやりしは 琵琶記、 水滸千字文、 蘇武和番曲
明の世にはやりしは 截紅閙浴室記、 長慶春夢談、 賞花燈、 汴京十様錦、 范増覇王曲、 楊大真恋鰲山
等なり、扨作者といふも唐の世にては白楽天、元徴之皆院本の作あり、宋の世にては東坡先生、秦少遊なども作文あり、元の世にては羅貫仲、施耐庵尤も作の上手なり、明の世に至つては李卓吾、祝允明、唐白虎、王世懋 、金聖歎、鍾伯敬など諸歴々皆戯文の作に巧みなり、扨笠翁が作の千字文西湖柳の頃の戯子の名は生〔たちやく〕、揚雲伍浄〔かたきやく〕、顧元山浄〔かたきやく〕、張天兒浄〔かたきやく〕、李三之浄〔かたきやく〕、王達兒浪士〔やつしがた〕、王真琬生〔たちやく〕、劉秀卿浪士生〔やつしたちやく〕、李娥郎旦〔をんながた〕、武郎子生〔たちやく〕、劉士卿浄〔かたきやく〕、張胡兒浄〔かたきやく〕、夏逸打渾〔どうけがた〕、王金老小旦〔子やく〕、王紅連等なり、是に戯伶扮名目次[やくしやかへなのしだい]の番付并に一枚看板の図を出し其院本を訳文して三冊の書あり、実に本朝の芝居に少しも異ならざるを記す、其外題脇書は、
試問池台主当為将相官
千里柳塘偃月刀
承恩不在貌教妾若為客【容カ】
右『唐土奇譚』三冊は寛政二戌年正月上梓するを爰に略出するものなり 《銅脈先生前集 下/和文戯作集(太平書屋)p193以下に翻刻あり》
井筒屋源六恋寒晒享保七寅年七月六日より豊竹越前少掾座にて世話浄瑠璃大当りせしとぞ、嘉永三戌まで百二十九年となる、所謂一夜付狂言にて京五条御影堂にて男女情死の次第を作りしものにて、男の名を佐々木源六といへば其頃町々を井筒屋源六とて菓子飴の類を売歩行しと同名なるゆゑ、外題に付し物にて、中の巻、伊勢山田御師の場は後世伊勢音頭恋のねたば(寛政中伊勢古市十人切)二巻目御師の場は是をはめたるものにて、此下の巻に「東がねの茂右衛門サアきた〳〵」又々「斎藤太郎左衛門ちよつと逢たい事ぢや」との唱歌を諷ふ事あり、此二つの歌はいと古き物とおもはる、文化に中村歌右衛門(始芝翫後梅玉)の七化に座頭越後獅子の唱歌につかひしも又をかしからずや、此余の狂言の仕組いと珍らしければ、此頃の古浄瑠璃三十五部を類聚して『当世栄花物語』といふ書に出せば読てしるべし、永緑より享保の頃の詞、其頃の衣裳の好み流行物など考へ合する好者達はかならず見べき草紙也、
井筒屋源六恋寒晒 作者 西沢一風・田中千柳
皐月雨ふりし昔をけふとへば、則けふが其むかし播磨の領主に宮づかへ御家に古き古柱佐々木源太兵衛と中一かまへかまへし門に幟をたて、内は女中が粽まくはやいおそいとせりあひの、菖蒲菰をあしにつく身につくしごと手につくは、口につくかとなまめかし、茶の間のまかなひ名さへおせりといふ女
嘉永元戊申年開板松寿堂蔵板と記せし見立番付あり、奥に此は能の位又は口伝秘曲にかゝはらず、只古作の面白さを撰て甲乙を記すとなん断りたり、是も作者道に因みあれば爰に略出す
次第
御免
不同
| 行司
近江 鸚鵡小町
筑前 碪
都 野々宮
天竺 石橋
筑後 柏崎
津の国 求塚
信濃 姨捨
| 《行司》
肥後 檜垣
大和 采女
津の国 梅枝
近江 望月
相模 千手
山城 小塩
津の国 卒都婆
| 紀州
勧進元 道成寺
差添人 関寺小町
近江
|
世話方
近江 志賀
都 右近
出雲 大社
つの国 呉服
近江 竹生島
山城 放生川
丹後 浦島
| 世話方惣
駿河 富士山
陸奥 千引
常陸 常陸帯
淡路 淡路
唐土 東方朔
同 西王母
播磨 高砂
| 世話方
加賀 木曽頼光
唐土 大瓶猩々
都 東岸居士
同 加茂物狂
津の国 須磨源氏
天竺 大般若
信の 土車
| 世話方惣
都 正義世守
駿河 池贄
唐土 呂后
駿河 文覚
都 半蔀
唐土 河水
紀州 鐘巻
|
大関 津の国 松風
関脇 加賀 安宅
小結 都 定家
前頭 同 熊野
同 日向 景清
同 近江 三井寺
同 陸奥 善千島
【知善鳥ヵ】
同 都 葵上
同 大和 井筒
同 都 融
同 越後 山姥
同 大和 花筐
同 都 斑女
同 駿河 羽衣
同 筑前 老松
同 大和 龍田
同 津の国 難波
同 信濃 紅葉狩
| 前 みやこ 田村
同 やまと 当麻
同 つの国 苅萱
【芦苅ヵ】
同 さがみ 盛久
固 いづみ 蟻通
同 やまと 玉葛
同 近江 白髭
同 するが 夜討曽我
同 つの国 満仲
岡 山城 弓八幡
同 みの 朝長
同 筑前 唐舟
同 常陸 桜川
同 紀州 巻絹
同 山城 頼政
同 佐渡 檀風
同 新宮 玉の井
同 唐土 楊貴妃
同 陸奥 安達原
同 みやこ 通小町
同 加賀 歌占
| 前 みの 烏帽子折
同 やまと 谷行
同 みやこ 清経
同 伊豆 七騎落
同 さつま 鳥追
【鳥追船ヵ】
同 甲斐 現在七面
同 つの国 敦盛
同 山城 女郎花
同 大和 二人静
同 みやこ 夕顔
同 安房 鵜飼
同 大和 大仏供養
同 みやこ 東北
同 河内 道明寺
同 丹波 氷室
同 近江 自然居士
同 山城 鞍馬天狗
同 つの国 箙
同 山城 百万
同 唐土 皇帝
同 みやこ 土蜘蛛
同 大和 春日龍神
同 みやこ 鉄輪
同 陸奥 錦木
| 前 丹波 大江山
同 つの国 知章
同 さがみ 六浦
同 陸奥 護法
同 加賀 仏原
同 伊豆 放下僧
同 さがみ 浪観
同 加賀 藤
同 越後 木久山鏡
同 大和 吉野天人
同 甲斐 身延
同 みやこ 俊成忠度
同 さがみ 元服曽我
同 山城 車僧
同 やまと 忠信
同 唐土 龍虎
同 はりま 室君
同 みやこ 植田
同 さつま 靱物狂
同 信濃 飛雲
同 つの国 岩舟
同 大和 吉野静
同 つの国 武文
|
大関 上野 鉢木
関脇 唐土 邯鄲
小結 山城 小原御幸
前頭 津の国 船弁慶
同 さつま 俊寛
同 武蔵 隅田川
同 備前 藤戸
同 みやこ 鷺乱
同 つの国 江口
同 さぬき 海人
同 大和 三輪
同 みやこ 双紙洗
同 近江 蝉丸
同 みやこ 雲林院
同 同 加茂
同 同 富士太皷
同 同 嵐山
同 紀州 雲雀山
前 丹後 九世戸
同 山しろ 経政
同 唐土 鶴亀
同 みやこ 信貫
同 唐土 鍾馗
岡 みやこ 現在鵺
同 みの 関原与市
| 前 さぬき 八島
同 つの国 弦上
同 山しろ 小督
同 伊豆 春栄
同 陸奥 接待
同 近江 源氏供養
同 いせ 絵馬
同 みやこ 正尊
同 越後 竹の雪
同 みの 養老
同 かゞ 実盛
同 唐土 天鼓
同 紀州 高野物狂
同 やまと 葛城
同 つの国 忠度
同 唐土 張良
同 肥前 白楽天
同 三河 杜若
同 下野 殺生石
同 伊勢 阿漕
同 つの国 弱法師
-----------------
頭取 信濃 木賊
頭取 山城 西行桜
頭取 陸奥 遊行桜
| 前 みの 熊坂
同 唐土 昭君
同 近江 夢平
同 駿河 小袖曽我
同 筑前 藍染川
同 大和 国栖
同 阿波 通盛
同 上野 舟橋
同 つの国 住吉詣
同 みやこ 誓願寺
同 つの国 夜鳥
同 みやこ 橋弁慶
同 唐土 芭蕉
同 みやこ 輪蔵
同 豊前 和布刈
同 つの国 藤栄
同 山しろ 是界
同 出雲 大蛇
同 肥前 籠太鼓
同 天竺 一角仙人
同 みやこ 羅生門
同 山しろ 小鍛治
同 近江 巴
前 尾張 源太夫
同 唐土 安宇
同 みやこ 花月
同 さがみ 禅師曽我
同 唐土 項羽
同 みやこ 舎利
同 唐土 合甫
| 前 つの国 松虫
同 唐土 咸陽宮
同 長門 碇潜
同 みやこ 落葉
同 同 祇王
同 やまと 野守
同 陸奥 錦戸
同 つの国 梅
同 唐土 三笑
同 大和 三山
同 さがみ 龍の口
同 つの国 生田敦盛
同 さがみ 調伏曽我
同 みやこ 大会
同 近江 雷電
同 いせ 大六天
同 陸奥 刀
同 みやこ 朝顔
同 大和 鶏龍田
同 さがみ 鱗形
同 近江 悪源太
同 同 鐘引
同 みやこ 浮舟
同 やまと 逆鉾
-----------------
頭取 山城 恋重荷
頭取 津の国 雨月
頭取 筑前 綾鼓
|
抑当流は観阿弥に起りて世阿弥に成り音阿弥より伝へて三百年に越えたり然れば其間中絶する事あり又訛れる所も不少また世阿弥が頃能数甚多くして正すにいとまあらず依て能作書曲付書等を残して子孫に改正すべきを示せり今元章不肖なりといへども先祖の志を継がざるに忍びず中絶するをおこし訛れるを正し又今になす所の能といへども古意に叶はざるは略き中絶せる能に及び未為能も古意にあへるは加へ将に子孫童形の間よりはやく秘事をしらしめんため且先祖みづから能を作れる例にならひ梅の能を作り加へ総て二百有十番とす其中一番の習ひなるものを分て十番とし其余見聞に近きを内百番とし遠きものを外百番とし謡本を著せり然れども猶誤あらん事を恐る子孫相継て改正せば孝行是にしかじ
明和二乙酉四月五日
観世左近秦元章
内百番の部 新群書類従p317 |
高砂 | 元清作 | 弓八幡 | 元清作 | 白髭 | 清次作 | 難波 | 元清作 |
追松 | 元清作 | 志賀 | 元清作 | 白楽天 | 元清作 | 養老 | 元清作 |
氷室 | 宮増作 | 加茂 | 氏信作 | 呉服 | 元清作 | 玉の井 | 信光作 |
右近 | 元清作 | 竹生島 | 氏信作 | 田村 | 元清作 | 通盛 | 井阿弥作 |
屋島 | 元清作 | 実盛 | 元清作 | 兼平 | 元清作 | 頼政 | 元清作 |
経政 | 元清作 | 朝長 | 元清作 | 清経 | 元清作 | 忠度 | 元清作 |
項羽 | 元清作 | 船弁慶 | 信光作 | 軒場梅 | 元清作 | 仏原 | 元清作 |
夕顔 | 元清作 | 江口 | 氏信作 | 紫式部 | 氏信作 | 芭蕉 | 氏信作 |
采女 | 元清作 | 楊貴妃 | 氏信作 | 野々宮 | 元清作 | 半蔀 | 内藤左衛門作 |
井筒 | 元清作 | 千手 | 氏信作 | 玉葛 | 氏信作 | 熊野 | 内藤左衛門作 |
浮舟 | 元清作 | 斑女 | 元清作 | 二人静 | 元清作 | 花筐 | 元清作 |
松風 | 清次作 | 雲雀山 | 元清作 | 定家葛 | 元清作 | 梅枝 | 元清作 |
三輪 | 元清作 | 富士太鼓 | 元清作 | 龍田 | 氏信作 | 巻絹 | 清次作 |
西王母 | 元清作 | 小塩 | 氏信作 | 羽衣 | 元清作 | 雲林院 | 元清作 |
燕子花 | 元清作 | 西行桜 | 氏信作 | 誓願寺 | 元清作 | 六浦 | 安清作 |
葛城 | 元清作 | 遊行柳 | 信光作 | 百万 | 清次作 | 小督 | 氏信作 |
柏崎 | 江波左衛門作 | 安宅 | 信光作 | 三井寺 | 元清作 | 花月 | 元清作 |
芦刈 | 氏信作 | 東岸居士 | 元清作 | 角田川 | 元清作 | 自然居士 | 清次作 |
桜川 | 元清作 | 邯鄲 | 元清作 | 天鼓 | 元清作 | 唐船 | 吉広作 |
錦木 | 元清作 | 女郎花 | 亀阿弥作 | 舟橋 | 元清作 | 鶉 | 清次作 |
通小町 | 元清作 | 鵜飼 | 江波左衛門作 | 阿漕 | 元清作 | 山姥 | 氏信作 |
善知鳥 | 元清作 | 殺生石 | 安清作 | 藤戸 | 元清作 | 安達原 | 氏清作 |
大会 | 氏清作 | 葵上 | 氏清作 | 車僧 | 元清作 | 鉄輪 | 元清作 |
善男 | 竹田法印作 | 泉良 | 元清作 | 鞍馬天狗 | 宮増作 | 当麻 | 元清作 |
野守 | 元安作 | 融 | 清次作 | 春日龍神 | 元清作 | 猩々 | 元清作 |
|
外百番の部 新群書類従p319 |
放生川 | 元清作 | 御裳濯川 | 元清作 | 大社 | 長俊作 | 松尾 | 清次作 |
寐覚 | 作者未詳 | 淡路 | 清次作 | 榎の島 | 長俊作 | 富士山 | 元清作 |
逆矛 | 宮増作 | 葛城鴨 | 元清作 | 嵐山 | 元安作 | 佐保山 | 元清作 |
絵馬 | 作者未詳 | 阿古屋松 | 元清作 | 磐船 | 作者未詳 | 東方朔 | 元安作 |
海藻川 | 作者未詳 | 蟻通 | 元清作 | 金札 | 元清作 | 鶴亀 | 作者未詳 |
敦盛 | 元清作 | 碇潜 | 作者未詳 | 五条忠度 | 作者未詳 | 巴 | 信光作 |
簸梅 | 元清作 | 吉野静 | 清次作 | 生田敦盛 | 元安作 | 妓王 | 作者未詳 |
知章 | 元清作 | 冊子洗 | 清次作 | 空蝉 | 作者未詳 | 住吉 | 作者未詳 |
宮城野 | 作者未詳 | 大原御幸 | 元清作 | 三山 | 元清作 | 弄太鼓 | 元清作 |
佐用姫 | 元清作 | 鳥追船 | 金剛作 | 落葉 | 元清作 | 六月祓 | 安清作 |
藤 | 安清作 | 蝉丸 | 元清作 | 吉野天人 | 安清作 | 待羅物 | 福来作 |
牽牛花 | 小田切能登作 | 求塚 | 清次作 | 胡蝶 | 信光作 | 名取嫗 | 元清作 |
雨月 | 氏信作 | 布留 | 元清作 | 道明寺 | 元清作 | 室君 | 作者未詳 |
輪蔵 | 長俊作 | 接待 | 宮増作 | 枕慈童 | 作者未詳 | 景清 | 元清作 |
三笑 | 作者未詳 | 俊寛 | 元清作 | 丹後物狂 | 井阿弥作 | 鉢木 | 清次作 |
弱法師 | 元雅作 | 木曽 | 作者未詳 | 高野物狂 | 安清作 | 盛久 | 元雅作 |
檀風 | 元清作 | 七騎落 | 作者未詳 | 咸陽宮 | 作者未詳 | 藤栄 | 作者未詳 |
松虫 | 元清作 | 放下僧 | 氏信作 | 張良 | 信光作 | 橋弁慶 | 安清作 |
泰山府君 | 元清作 | 忠信 | 作者未詳 | 明王鏡 | 信光作 | 大仏供養 | 作者未詳 |
小鍛冶 | 元清作 | 土蜘蛛 | 作者未詳 | 鍾馗 | 氏信作 | 羅城門 | 信光作 |
昭君 | 氏信作 | 紅葉狩 | 信光作 | 松山鏡 | 作者末詳 | 谷行 | 氏信作 |
染川 | 作者未詳 | 大江山 | 宮増作 | 昌俊 | 長信作 | 葛城天狗 | 長俊作 |
熊坂 | 氏信作 | 第六天 | 作者未詳 | 烏帽子折 | 宮増作 | 舎利 | 元清作 |
龍虎 | 信光作 | 樒天狗 | 作者未詳 | 国栖 | 元清作 | 蛇 | 信光作 |
合浦 | 作者未詳 | 絃上 | 金剛作 | 一角仙人 | 元安作 | 梅 | 元章作 |
|
習十番の部 新群書類従p320 |
卒都婆小町 | 清次作 | 道成寺 | 清次作 | 檜垣 | 元清作 | 恋重荷 | 元清作 |
砧 | 元清作 | 木賊 | 元清作 | 落葉 | 元清作 | 石橋 | 元雅作 |
関寺小町 | 元清作 | 鷺 | 元清作 | |
右二百有十番は当流代々自筆の謡本書物等悉く見合せ改正既成就依之正判書写に加奥而已猶此外に
独吟八十五曲の部 新群書類従p320 |
不尽 | 金村作 | 豊宴 | 家持作 | 敏馬浦 | 福麿作 | 芳野 | 赤人作 |
祭神 | 大伴坂上郎女作 | 好可来 | 憶良作 | 所聞文弥 | 能登作 | 深江石 | 憶良作 |
香菓 | 家持作 | 玉取 | 作者未詳 | 近江八景 | 作者未詳 | 兵揃 | 作者未詳 |
四季 | 作者未詳 | 鼓瀧 | 元清作 | 香椎 | 作者未詳 | 和国 | 作者未詳 |
真方 | 元清作 | 蛙 | 作者未詳 | 重盛 | 作者未詳 | 一字題 | 作者未詳 |
経山寺 | 作者未詳 | 島巡 | 作者未詳 | 倶梨加羅落 | 作者未詳 | 上宮太子 | 作者未詳 |
反魂香 | 元清作 | 砥並山 | 宮増作 | 当願暮頭 | 作者未詳 | 笠取 | 作者未詳 |
美人揃 | 宮増作 | 妻戸 | 作者未詳 | 由良港 | 作者未詳 | 鳥羽殿 | 元清作 |
隠岐院 | 元清作 | 星 | 元清作 | 博多物狂 | 作者未詳 | 佐夜中山 | 作者未詳 |
更科 | 作者未詳 | 横山元清作 | 八雲 | 作者未詳 | 五輪砕 | 作者未詳 |
西国下 | 玉林作 | 東国下 | 玉林作 | 泊瀬六代 | 元清作 | 生田川 | 元清作 |
薬水 | 元清作 | 外浜風 | 元清作 | 法楽 | 氏信作 | 松竹 | 作者未詳 |
葛袴 | 作者未詳 | 上巳 | 作者未詳 | 照日宮 | 清次作 | 雪山 | 作者未詳 |
寂光院 | 元清作 | 端午 | 作者未詳 | 橋柱 | 元清作 | 自然物狂 | 清次作 |
賢女鏡 | 清次作 | 乞巧夕 | 作者未詳 | 三元 | 作者未詳 | 人日 | 作者未詳 |
桃花節 | 作者未詳 | 浦下部 | 作者未詳 | 三月尽 | 作者未詳 | 朱夏 | 作者未詳 |
□蒲節 | 作者未詳 | 飛火 | 元清作 | 夏祓 | 作者未詳 | 中秋節 | 作者未詳 |
羅騎節 | 作者未詳 | 青春 | 作者未詳 | 星夕 | 作者未詳 | 素秋 | 作者未詳 |
五三夕 | 作者未詳 | 陽数節 | 作者未詳 | 重陽 | 作者未詳 | 九月十三夜 | 作者未詳 |
九月尽 | 作者未詳 | 玄冬 | 作者未詳 | 初雪 | 作者未詳 | 歳暮 | 作者未詳 |
歌人意 | 冬信公作 | 更衣 | 作者未詳 | 勧進帳 | 信光作 | 起請文 | 長俊作 |
願書 | 作者未詳 | 都合八十五曲 | |
今比類を蘭曲といふ抑蘭曲優幽閑曲といふは至れる上に此三つの姿ある事にて謡ふ人を外より称美せる詞なり然るを俗に蘭曲を謡はんなどいふ事あるべからず故に独吟の曲と題せり勧進帳・起請文・願書の三つを習ひの三つの読物といふなり
結崎治郎秦清次 〔本氏服部稚名観世丸後三郎落髪号観阿弥宗音応永十三丙戌五月十五日死五十二歳〕
結崎左衛門太夫秦元清 〔清次嫡男稚名藤若丸後三郎落髪号世阿弥宗全康正元乙亥七月二十二日死八十一歳〕
金春式部太夫秦氏信 元清聟若名弥三郎後禅竹
結崎十郎秦元雅 元清嫡男法名大円 長禄三己卯十二月九日死
金春十郎秦元安 法名桐林禅鳳
観世小次郎秦長俊 〔観世音阿弥七男 法名大雅宗松永正十三丙子七月七日死八十歳余
観世弥次郎秦長俊 信光嫡男 天文十辛丑年死五十三歳月日未詳法名心祐
外山又五郎吉広
金剛弥五郎
宮増
日吉四郎次郎安清 後佐阿弥長禄二戊寅八月四日死七十六歳
亀阿弥
与江元久
江波左衛門 号五郎
内藤左衛門
井阿弥
竹田法印
福来
小田切能登
東都にて一枚摺にしたる板行を見て珍らしければ爰に出す、此作は全く講釈師等の手にてなれるなるべし、尤も中に遠慮ありてか異名変名に記せしもあり、東西と分ちたる中央に書たるは、
為御覧天正山崎主仇討建久曽我兄弟仇討永禄芸州広島仇討、奥に右は往古よりの荒増を相記し候、此に洩れたるは追て奉入御覧候
江戸馬喰町三丁目吉田屋小吉板
大関 元禄 忠臣蔵仇討
関脇 寛永 伊賀越仇討
小結 慶長 宮本武蔵仇
前頭 正徳 崇禅寺馬場
同 文禄 伊達正宗仇
同 天禄 箱根権現仇
同 承応 名古屋山三仇
同 虎千代仇討
同 寛永 民谷小太郎仇
同 享保 加賀貴俗撰
同 元禄 福島天神森
|
前頭 延宝 酒多法師仇
同 元和 福島雲井仇
同 伊予焼山仇
同 元文 郡山非人仇
同 荒川武勇伝
同 宝永 金井民五郎
同 元禄 勢州亀山仇
同 宝永 神道川仇討
同 寛文 西国巡礼仇
同 永禄 都部新十郎
同 享保 越後木豆川仇
同 天文 同 村山仇
同 遠州掛川仇
|
前 寛文 浄瑠璃坂仇
同 延宝 越後高田仇
同 元和 高松民部之輔仇
同 慶長 目黒行人坂
同 天保 下総絹川仇
同 西国多賀仇
同 天保 下総不津都村
同 寛永 越前敦賀仇
同 万治 勢州長野仇
同 丹州柏原仇
同 延宝 日本堤仇討
同 越後厚サ郡
同 文政 浅草天王橘仇
同 同 四ツ谷仇討
同 奥州岩沼仇
|
大関 明暦 武道白石津山
関脇 慶長 天下茶屋住吉
小結 天正 毛谷村六助仇
前頭 寛永 越中サラサ越枕
詞 正保 合法辻仇討
同 夏目四郎三郎
同 正保 松前屋五郎兵衛
同 寛永 長崎丸山仇討
同 臼井本学仇
同 源藤左衛門
同 岩井実記
|
前頭 寛永 備中松山仇
同 正保 細川血達摩
同 岩井善之丞
同 寛永 西方孝子伝
同 同 和州隅田川
同 明暦 両面藤三郎
同 延宝 白井権八仇
同 寛永 出羽山形仇
同 鏡山仇討
同 正保 奥州白石仇
同 永禄 甲州仇討
同 貞享 江州水口仇
|
前 元禄 鶴岡善右衛門
同 宝暦 不動利生記
同 文政 讃州亀丸
同 正徳 大坂島ノ内仇
同 文政 水戸岩井町
同 元禄 高田馬場
同 天明 牛込神楽坂
同 享和 新大橘仇
同 正徳 筑前福岡仇
同 享保 伊豆下田仇
同 奥州松前仇
同 明暦 豊後森仇
同 享保 神田須田村
同 伏見今町仇
同 天保 護持院原仇
|
右東西に見立上の段は文字あらく末程文字細く此末に□石川民部仇、文政王子奥渡とあり、猶是にもれたるは貞享御堂前仇討、□親子塚仇討、安永小栗栖十兵衛、文化粟津原仇討、□上田慶二郎、□永井源三郎など数多あるべし、□年号不詳分此次に出せる見立番付三枚共東都にて求め帰りしが、各講釈師の作せるものとおもはれ甚だ杜撰ながら、各狂言著作道に因みあれば是に写す、元より東都にて名高きを挙げたる物なれば、京摂の耳に聞馴れぬ物多く、京摂に名高きを書もらせるも又すくなからず、されどもかばかりの人名を集るにも相応の見聞の力なくては集録する事難く、かゝる板行も需るものあるがゆゑにこそ彫もすれ実に繁華の地なる事思ひやるべし
軍学元祖
待浦意心軒
吉岡鬼一法眼
中納言匡房
山鹿甚五左衛門
尾鹿本半助
|
盧塚中右衛門
乳坂兵部
方条安房守
火術張光堂松雪
此下肥後守
山本帯刀
毛利惣意
|
年寄 竹中半兵衛
山本勘助
差添人 宇佐目駿河
大石内蔵助
|
勧進元 源義経
楠正成
|
一刀 戸田一刀斎
鎗 法蔵院爲清
一刀 石川郡藤斎
二刀 宮本武蔵
関口 関口弥太郎
鎗 種田助六郎
一刀 伊東弥五郎
一伝 浅山一伝
射 輪左代八郎
鉄炮 井上新左衛門
真影 上泉伊勢守
銃 八木宇五郎左衛門
鎗 安部白五郎
念銃 堀部安兵衛
柔 竹内加賀之助
|
鎗 奥平伝蔵
一刀 青木一刀斎
真影 長沼七郎
軍学 原田外記
手裏剣 吉田初右衛門
兵学 時与左衛門
鎗 千々和五郎左衛門
弓 大宮内蔵之丞
水練 源藤弥平太
軍学 大石斎人斎
同 岩淵兵左衛門
一刀 辻文次郎
剣 潮田主水
同 石井兵太夫
同 荒川六右衛門
鉄炮 橋本一巴
|
剣 鳥川太兵衛
同 多宮源八郎
同 藤井勘兵衛
同 和久半太夫
同 戸川半平
火術 三宅林左衛門
剣 高木折右衛門
同 藤田水右衛門
軍 小幡勘兵衛
長刀 星合団四郎
剣 加藤市左衛門
同 衣笠六右衛門
同 関口隼人
同 小林平八郎
軍 丸毛何某
剣 河井又四郎
鎗 鳥居新左衛門
|
長刀 中津川祐半
鎗 林玄蕃
同 同 半次郎
同 奥平主馬
剣 川田源吉
軍 大石頼母
剣 石井半次郎
同 同 源次郎
同 熊谷三郎兵衛
同 大戸嘉兵衛
剣 牧野兵庫
同 僧覚善
同 飯沼勝五郎
同 松波隼人
鎗 当麻三郎右衛門
剣 村上庄右衛門
|
代々 鹿島神流
|
代々 香取神流
|
女武芸 朝小局
|
俠客 一刀流 幡随院長兵衛
|
一刀 神古上天膳
鎗 多島運八郎
ト伝 塚原卜伝
荒木 荒木又右衛門
三流 太田忠兵衛
剣術 吉岡兼房
棒業 阿部什四郎
弓術 日置弾正
無敵 佐々木巖流
射術 千野官左衛門
鉄炮 稲富伊賀
剣 樋口十郎右衛門
同 鹿目井新十郎
鎗 円橋秋弥
八重垣 吉岡太郎左衛門
|
一刀 関根弥次郎
軍学 堀部弥兵衛
兵学 吉田忠左衡門
長刀 穴沢頼母
鎌 金井半兵衛
軍 柴田三郎兵衛
同 楠不伝
鉄炮 駒杵八兵衛
水練 伊勢小京太
剣 大貫浅右衛門
念流 相馬四郎太夫
鎗 宇和島主水
剣 井戸宇右衛門
同 高倉長右衛門
同 高木右馬之助
同 鍬名頼母
|
剣 東軍又八
弓 松井民次郎
剣 同 官兵衛
同 塚口源太左衛門
同 北藤茂右衛門
同 山添伊兵衛
同 広瀬郷右衛門
軍 安宅郷右衛門
鎗 高松半平
同 桜井甚左衛門
弓 奥村八郎右衛門
剣 石川兵助
同 白井権八
同 臼井本学
軍 上田藤雲才
剣 清水一角
|
鎗 奥平隼人
同 赤井小源太
剣 東谷五郎兵衛
同 軽部六郎君衛門
同 大内十太夫
同 林 源次郎
鉄炮 鹿子木左京
剣 平野左衛門
同 大和田藤馬
同 川俣三之助
同 桑名友之丞
同 同 三七郎
同 遠城治左衛門
同 安藤彦八郎
同 福代源七郎
弓 桜井甚助
剣 竹内玄丹
|
爲御覧行司喧嘩屋五郎右衛門市川才牛団十郎伊平とありて次に
大関 幡随院長兵衛
関脇 唐犬権兵衛
小結 浮世戸平
前頭 半時九郎兵衛
同 溝野十郎右衛門
同 朝比奈藤兵衛
同 弁慶小左衛門
同 腕 喜三郎
同 度々ノ伊兵衛
同 白抦十左衛門
同 甚 三分
同 二見十左衛門
同 鎌田又八
同 鍾馗半兵衛
同 陀羅庄九郎
同 成田運平
同 小仏小兵衛
|
前 梅堀小五郎兵衛
同 和泉長太郎
同 兵藤平内兵衛
同 出来星勘兵衛
同 鬼子左平
同 唐犬十右衛門
同 同 三右衛門
同 おひやりこ庄左衛門
同 唐犬五郎治
同 居首勘兵衛
同 小川八郎兵衛
同 てくない庄五郎
同 唐犬五郎左衛門
同 平井軍八
同 寺西閑心
同 笊 源五兵衛
同 笊 八兵衛
同 笊 安左衛門
同 目窪伝兵衛
|
前 笊友之助
同 笊伊兵衛
同 矢田権四郎
同 鍔屋源兵衛
同 かちの勘助
同 大屋五兵衛
同 きさい五兵衛
同 仏師庄左衛門
同 糞壷五郎右衛門
同 扇屋与平次
同 赤銅藤兵衛
同 こぶ市右衛門
同 かみこ市兵衛
同 矢倉八郎兵衛
同 前がみ三右衛門
同 風呂の五兵衛
同 きれの弥兵衛
同 首切れの弥平
同 みげん小左衛門
同 こもの十蔵
同 利宝院
|
前 鍔屋兵左衛門
同 牛の五兵衛
同 鑓屋金十耶
同 達摩伊左衛門
同 火■*04五郎左衛門
同 真木屋市十郎
同 油取六之助
同 両がへ五郎兵衛
同 小腕利左衛門
同 みかん又兵衛
同 たねはき平左衛門
同 竹馬三左衛門
同 あげ次郎左衛門
同 のでの喜三郎
同 こぶの長三
同 ひなや三五耶
同 金かん坂与三郎
同 ぼく岩
-----------------
前頭 花川戸助六
|
行司 雁金文七
雷庄五郎
布袋市右衛門
極印千右衛門
安野平兵衛
|
無類 阿房惣左衛門
合法利左衛門
元祖 死人小左衛門
珍人 谷野武兵衛
今井吟吾
|
行司 一寸徳兵衛
団七九郎兵衛
釣舟三武
不破伴左衛門
名古屋山三郎
|
勧進元 東金茂右衛門
差添人 筑波茂右衛門
|
大関 夢野市郎兵衛
関脇 放駒四郎兵衛
小結 荒五郎茂兵衛
前頭 濡髪長五郎
同 矢部白五郎
同 時宗五郎兵衛
同 狼喜兵衛
同 金時半兵衛
同 五尺染五郎
同 黒船忠右衛門
同 鮫鞘四郎次
同 雷 治兵衛
同 消炭五郎兵衛
同 鳶の九蔵
同 柏屋庄五郎
同 生の浄玄
同 巳等三又左
(誤字アルカ)
|
前 霰小兵衛
同 枕十兵衛
同 因果小蔵
同 夜這星みふ
同 鬼の左吉
同 鷲抓金平
同 天狗団七
同 鹿野洞右衛門
同 宵の口喜三太
同 蝦夷の新助
同 早川船之助
同 一寸八兵衛
同 死人喜左衛門
同 大鳥一平
同 上州屋吉兵衛
同 浪紙半左衛門
同 腕の庄次郎
同 在郷久兵衛
同 刷毛四郎兵衛
|
前 須田五郎兵衛
同 雷市右衛門
同 おとがび勘兵衛
同 とち木六右衛門
同 ひたひ治郎
同 あごふく利兵衛
同 はなみぶ
同 一時清兵衛
同 せん台四郎兵衛
同 野良三十郎
同 田中十郎右衛門
同 宗けい太郎兵衛
同 大金右衛門
同 はすつば吉兵衛
同 だるま小左衛門
同 会津平右衛門
同 ふとの藤兵衛
同 馬場七郎兵衛
同 やとリ治郎兵衛
同 生村与左衛門
同 大寿院
|
同 糸びん庄右衛門
同 面ぼう平左衛門
同 小ざらし小兵衛
同 らつび半左衛門
同 おくりんか茂兵衛
同 ねつくリ四郎兵衛
同 白柄作左衛門
同 前がみ伝蔵
同 跡見ず五兵衛
同 佐々木文清
同 まむし十郎左衛門
同 馬の庄兵衛
同 大また与三兵衛
同 小また又左衛門
同 みぞの弥兵衛
同 かんぺら門兵衛
同 朝がほ千兵衛
同 いがらし平助
同 真木屋小左衛門
同 おとまる清三
----------------
馬喰町三丁目
泉永堂寿梓
|
■*04
『杏華園筆記』の中に東郡新大橋籾蔵役にて寛政十午の十一月十二日敵討ありし其実詞を扣へ置かれしを爰に出す十二日の朝深川六間堀さるこ橋の辺にて復讐ありと風聞す前原孫市下女(元神保の藩中に居しものなり)いふ様それは神保の家中にてあるべしといふ何ゆゑさいふやと問へば先年同家中山崎彦作といふ者をやみ討せし事あり数人徒党とはいへども崎山平内頭取ゆゑ討たれし人の妻子付ねらひ候由聞伝ると答ふはたしてそれなりと翌十三日籾蔵に詰居候者の話に承り候平内を親の敵と切付し者は年十七の娘なり助太刀せし者は此娘の継母と聟となり聟は南塗物町権三郎店に住居せし仙龍といふ書家なり平内を付ねらひ候ため今年春六間堀森下町幡長山兆沢寺門前へ出張をせしとぞ其日朝平内通り候処を娘出向ひ親の敵なりと云ふ平内いや我一人にはあらず敵は大勢なりとあらそふ此問答手間取内娘先刀を抜き平内も抜合せ二太刀三太刀打あふ時母後より一太刀切平内驚きて駈出す娘遁さじと追ふ平内迯行戎屋といふ餅屋の裏に入兼て入魂の釣針師の家にかけ込(□後町の様子かはり入魂の者はあらであらぬ者の家にてありしと)娘追付て切かくる平内いらつて払ふ娘刀を打落されて表へ出て仙龍が脇差を取て又敵にむかふ時其辺蔵普請ありて土こねし所ゆゑ泥にすべりて倒るゝ時平内刀を振り上げすでにかうよと見ゆる所を仙龍そばに有合ふさいとりを以て払ふさいとり腮にあたり泥目口へ入りひるむ所を娘一太刀切るきられて迯る母出合ひて又切る敵縦横に奔走して籾蔵の普請場へ迯入らんとする時竹を荷ひたる者にさゝへられて入る事を得ず娘又〳〵切る切られて倒るゝ時母とゞめをさし立のく敵また起上りて迯出んとする時人々出あひて双方共におさへけるなり(とゞめさしける時あやまりて肩のかたをさしけるとぞ)平内に殺されし彦作もとは売卜者にて親方吉村市正と公事をして江戸搆へになりし者なるが神保へ住込しなり寛政六年二月山崎彦作江戸払の者を不吟味に召抱候に付神保左京差扣仰付けられしとなり山崎彦作売トせし時の名は渡辺左京といひしとぞ是より先当主幼年の砌平内親兵左衛門家老にて三千両程私欲押領して言語同断なり長子をば町与力となす今吟味方中村八郎左衛門と勤役なりと云或は町屋敷を買或は田地をかひさま〴〵の奢などせしかば主人知行ひしと行つまり彦作働きにて漸取つゞきける夫より追々私欲露顕して平内親兵左衛門遠慮いひ付らる此一味の者共漸々に身分にもかゝはるべき勢ひゆゑ徒党して彦作を闇打にせし者平内の外に七人岸上主水鹿島藤兵衛奈良原将監川口嘉作山岸平角高橋七兵衛宮島治兵衛此中に平内頭取しと云彦作妻子をば下屋敷へ移し男子なきゆゑ扶助米をあたへくれ平内又親の遠慮させらるゝは私欲より事起りて人を殺せし次第故切腹すべきやなど取沙汰せしをさもあらで過さりしなり彦作妻は扶助をうけ候ては復讐の事遂がたしといとまこひて流浪し娘を養ひ育て夫の云付ゆゑ去年仙龍に嫁せしなり仙龍は東江門人書家を業とし京橋辺に住居し南塗師町権三郎店に住居せしと云ふ崎山兵左衛門(名保晁字は景陽号東橋)葛陂山人高峻の門人なりかつて葛陂山人書墨本にせし事あり序を予に求めし故書つかはせし事もありき本所一つ目弁財天の額は崎山兵左衛門が筆なり弁財天東橋山保(橋山崎山ナルベシ)晁謹書とあり崎山平内平日出る日は供など多く連出るゆゑ打つ事あたはず其日は笛の稽古に出る日にて供少しゆゑに其日をうかゞひ党朝も屋敷の門番に今日は平内がいよ〳〵出る日なるやと聞し者ありしとぞ平内不敵の者にて剣術などよくしかつて殿の速馬の供などして歩行にておくる事なかりしが翌日また遠方へ使者を勤めしとなん平内は下駄をはき居候娘は草鞋をはき居候肩を切り候節も平内脊高く娘の手届き兼候由なり娘は彦作が遺物の刀名は相州藤原正国(三尺余)を風呂敷に包み手に持居候を見たる者有之由承り候同年十一月二十一日原井仙龍傷を病て同二十入九日頃死す妻追悼の歌いもとせのかたらひをなし程なう身まかりたる夫をこひて
かず〳〵のたのめし事も終らぬに
はかなくなりし人ぞ恋しき はる女
名残をし野辺の草木となりし身に
さそふ此世にや心のこさん はる女
寛政十午年十一月十二日深川元町月行司平次郎口書の写
一 今昼四つ時同所六間堀町中の橋辺より子細不知年齢二十五六歳に相見え候惣髪之男同三十歳許りに相見え候侍体之者幷に四十歳位に相見え候女十六七歳位に相見え候女都合四人抜身にて互に打合参り往來騒敷御座候間町内一統罷出制し取押へ右之者共名住所承合候得者相名乗敵討之由申立候間早速疵人共へは医師を懸けおき五人組名主幷申聞一同御訴申上候得者御槍使被下置候
南塗師町権三郎店 みき
同人娘 はる
深川森下町吉兵衛店
手跡指南致罷在候浪人 平井仙龍
右三人申口
一 私共神保左京殿家来崎山平内へ手疵被負私共儀も手疵取候に付御検使之上子細御尋に御座候みき申上候私夫渡辺左京と申神職にて八丁堀岡崎町忠兵衛店に罷在候処六年已前丑年八月中御寄合神保左京殿家来崎山兵左衛門幷に同人忰同平内世話にて右屋敷へ勝手小役人に相住み山崎彦作に相改め妻娘共屋敷へ引移り相勤め罷在候処同九月中家老役被申付尤其節同役は右崎山兵左衛門幷に同人忰平内儀は見習にて夫彦作と三人にて家老役相勤罷在候処同役兵左衛門幷に同人忰平内儀年来不正之儀有之町屋敷等も三ケ所所持致し其上金三千両程不正之筋有之趣にて取調之義主人より同十月中被申付候に付段々取調候処町屋敷之儀は一ケ所有之幷に三千両程之不正之筋之儀は千五百両程の由取調主人へ申立候由之儀を遺恨に存候や同月廿三日夜九つ時頃主人用向之由にて小使中間呼に参り候間罷出候処傍輩共之内前書平内併に同人弟川口嘉作其外岸上主水鹿島藤兵衛奈良原将監山岸平角高橋七蔵宮崎治兵衛右之七人にて夫彦作を及殺害候間私儀直に罷出右之通見受候間其時主人へ相願可申と奉存候処其砌より私共儀は宅番付委細之儀は追て被申付も可有之候間何れにも神妙に致し罷在候様に川口嘉作達て申聞候間見合罷在候処十日程過ぎ何れにも私共儀は御屋敷にて扶助被成下候間安堵致し罷在候様被申付候に付乍残念屋敷内に罷在候処翌二月二十七日永之暇被下候に付知人深川六間堀嘉右衛門と申者方へ参り親子共世話に相成罷在候処同三月十一日より南塗師町権三郎店神職香取相模と申者方へ参り世話に相成居候処右相模儀万端世話致候陰陽師平井仙龍と申者名前にて右店借受罷在候尤はる義仙龍妻にも可遣約束にて未だ盃等は不為致候へ共党月九日娘召連右仙龍方へ逗留に参り居候処今昼四つ時頃崎山平内往来を通候を見受候間兼て遺恨を晴し可申と心懸罷在候間娘義は仙龍刀を持私義は所持の脇差を持罷出右平内へ夫之敵之由申候へば人違ひのよし申迯出し候間追駈け参り両人にて切掛候へ者平内義も抜合互に切合罷在候処跡より右仙龍義も罷越共に助太刀致し呉れ存念相晴し可申と存候処町内より大勢罷出制候間仕留不申残念に奉存候此上右平内幷に外七人之者被召出御吟味奉願上候私共義町内騒し候段奉恐入候何分御慈悲奉願上候
一 はる申上候前書に母みき申上候通り相違無御座候父彦作義先年平内其外之者共に殺害に逢ひ候段兼て承り残念に存し罷在候処今朝表を通り候を見受頻りに残念に相成り仙龍所持の刀を帯し罷出母共に親の敵のよし乍申切懸候へば平内義も刀を抜私共へ手疵被負申候義に御座候尤仙龍義も参り助太刀致呉候得共其内町内より大勢罷出制候間打留不申残念に奉存候何分此上母共々御慈悲奉願上候
一 仙龍申上候義は右みきはる世話に相成居候陰陽師香取相摸と申者は山崎彦作義元渡辺左京と申神職致候節弟子に有之彦作相果候後は弟子之義に付みきはる両人共参り世話に相成居候右相摸儀去春中より病気にて職分も不相成候よしにて私へ万端相頼候間引受世話致し罷在候処同九月中右相摸儀致病死候間私儀則香取相摸と相改め陰陽師職分致罷在候得共勝手に付遠藤正健と申者へ香取相摸と申名前を職分とも相譲り相摸儀は本郷辺へ参り陰陽師職致罷在候私儀は右吉兵衛店へ当七月中引移り平井仙龍と相改め手跡指南致し罷在候儀に御座候尤みき儀は其節より私名前にて右権三郎方店借受差置候勿論追てはみき娘はる儀は私妻に貰ひ受候趣約束は致しおき候へ共未だ盃は不致候処当月九日にみき儀娘はるを召連れ私方へ逗留に参り居候処今昼四つ時頃はる儀私所持之刀を持みき儀も所持之脇差を持表へ駈出し候間何事に候哉と私儀入湯に可参哉と脇差を帯し出懸り候間直に跡より追駈参り見候へば侍体之者をみき儀夫の敵のよしはる儀親の敵のよしにて切掛候処右侍体之者も刀を抜き互に切合罷在みきはる危き様子に付不得止事帯し参り候脇差を抜き共に切合候節手疵受候儀に御座候尤委細之義は不奉存候へ共右始末に及候段奉恐入候何分御慈悲奉願上候
寄合神保左京家来家老役崎山平内口上
一 私儀手疵被為負候に付御検使之上子細御尋に御座候今日四つ時頃用事有之屋敷を罷出六間堀下之橋を渡り河岸通りを罷通り候処同所中の橋際にて何者とも不知私後より肩先へ理不尽に切付候間驚き振かへり見候処先年相果候傍輩山崎彦作妻娘幷に惣髪の男一人都合三人にて切懸候間私儀も刀を抜き互に打合候へ共手に余り殊に場広にて小楯に取可申所も無難防御座候間段々相しらべ引退き同所元町裏屋を小楯に取待居候間跡より惣髪体の男追かけ参り候間手疵被負候へば脇差を投付逃去候処みきはる儀引続き参り候間右之者へも手疵被負刀もぎ取申候へば右三人之者共も追々逃去り申候私儀も数ケ所にて疵痛候間其場所へ倒れ町内の者に介抱に逢申候儀に御座候尤山崎彦作妻娘理不尽に及候儀は全く六年以前丑年十月中子細有之私幷に傍輩川口嘉作岸上主水鹿島藤兵衛奈良原将監山岸平角高橋七蔵宮崎治兵衛右の者寄合彦作を殺害致し候儀有之其砌私共儀は主人より押込被申付何れも日数相立被差免候彦作妻娘儀は翌寅年二月中永之暇被申付其後は見受不申候処此義は遺恨に存じ私へ手疵被負候儀と奉存候不慮なる儀に逢ひ数ケ所手疵受迷惑仕候勿論三人之者共へも不得止事私手疵被負候儀に御座候何分此上御聞済被成下候様奉願候
崎山卒内疵所 年三十一
一左腕肘下横に三寸程切疵 壱ケ所
一同方下貳寸程切疵 壱ヶ所
一同方手の平より腕へ掛け六寸程切疵 壱ヶ所
一右脈所を懸け横に貳寸程切疵 壱ヶ所
一百会左へ寄竪に三寸程疵 壱ケ所
一同方横に貳寸程切疵 壱ヶ所
一襟横に三寸程切疵 壱ケ所
一同左の小指先少々疵 壱ケ所
〆八ケ所
平井仙龍疵所 年二十六
一右眼の下より腮へ掛け堅五寸程切疵 壱ヶ所
一右之人指ゆび堅貳寸程切疵 壱ケ所
一左大指除け手の平二寸程切疵 壱ケ所
〆三ケ所
みき疵所 年四十一
一左之肩堅に三寸程切疵 壱ヶ所
一右脈所竪に一寸五分程切疵 壱ヶ所
〆貳ケ所
はる疵所 年十七
一左の大指へ掛け竪に壱寸五分程切疵 壱ヶ所
一同方小指一寸一程切疵 壱ケ所
一右脈所横に一寸程切疵 壱ケ所
一額除髪の内竪に二寸程切疵 壱ケ所
一同方竪に五分程切疵 壱ケ所
〆六ケ所
其節所持の品書
一みき拵付脇差 壱腰 〔銘出羽大椽藤原国路長さ一尺三寸程 但し血付有之〕
一仙龍拵付刀 壱腰 〔銘近江守藤原継広長さ三尺一寸程 但し血付有之〕
一みき短刀 壱腰 〔銘助宗長さ七寸五分程 但し血なし〕
一はる短刀 壱腰 〔銘平安城能長裏に永禄三長さ九寸程 但し血付有之鞘無之〕
其節平内儀疵所痛候に付召れ不申尤疵養生之内主人方へ預け場所に於て引渡し遣す三人之者共は於御番所店請人に預け遣す尤店請人共より銘々口書差出し預り中平井仙龍も相果同年十二月二十八日戸田采女正殿御差図に依て神保左京家来宮川嘉内を以てみきはる両人を被召出申渡しの写
寄合神保左京元家来山崎彦作後家にて南塗師町権三郎店に罷在る
みき
同人娘 はる
其方儀先年崎山平内外七人之者共彦作を致殺害候処右子細も不分明其節重立取計ひ候平内を敵と存込何卒討果し申度と存候へ共其節娘はるも幼年にて殊に平内も油断無之様子に付差拍扣在候内はるも致成長候間彦作殺害に逢ひ候趣申聞せ倶に平内を可討果と六ケ年以来心掛罷在候内当十一月十二日平井仙龍方へ両人共逗留致時節を伺居候内仙龍宅前を平内一人罷通り候をはる見受け刀を持追駈出候に付みきも短刀を携へ罷出候処仙龍儀も助太刀致し呉候間俱に平内と打合ひ互に疵受既に平内は無難相果候始末に相成候段父夫之敵平内を年来心掛右及始末候儀共女の身分別而健気なる致し方に有之其上はる儀は未若年にて右体の働致し父之敵平内へ数ヶ所疵被負父母之憤を散じ候段別而孝心奇特なる儀に付両人共無搆みき其方儀夫山崎彦作不埒有之先年江戸払に相成候処其後武家方へ奉公住致し候を其分に致し連添候段夫の儀と申殊に旧悪之儀に付咎不及沙汰候とて落着なしける右は杏花園の筆記にあり正しき実説なるべし
右復讐は寛政十午年十一月十二日の事なるを早く浪華に聞えてや翌十一未年角中両芝居二の替り狂言に取組たり中の芝居は傀儡浅妻船といふ外題にて作者は並木五瓶なり江戸より沢村宗十郎上り立にて美濃庄九郎近江の源五郎の世界にて大かた狂言並びあれ共小幕へ此敵討を衒の拵事にて書入たり江州瀬田の橋詰に粂太郎三右衛門(後叶珉子)親子の女茶店を出し隣に売卜者出店ありて玄柳と云ふ法印歌右衛門(後梅玉此頃はまだ敵役なり)橋詰普請壁の道具ちらかり有茶店親子共往来を見かけ伝内様ぢやござりませぬか〳〵と始末尋ね居る所へ山崎伝内といふ浪人にて雛助(小六玉忰小珉獅なり)深編笠を着て出て粂太郎三右衛門親夫の敵と切でかゝる危き所へ歌右衛門飛出て左官の探取にて支へ敵討となるを金作武家の後室にて猪三郎の若党を連是を見松影ての硯といふ宝物入用に付此復讐を扱ひ金を与へて此敵討を延す是元より言合せの衒事にて伝内の本名近江源五郎と云世話場の役なり正月二日より初日を出す角の芝居は正月十三日より始め外題をけいせい会稽山是は池上七九郎上田慶治郎とて古く写本にもある敵討へ此大橋の復讐を取組敵討二組を混じ合せ潤色せし物なり母親三桝徳次郎娘芳沢いろは大序有馬湯本にて池上七九郎に浅尾為十郎敵にて関三十郎の岡本三木之進と云神職を欺し討にて(本文彦作の妻みきを取て三木之進と云)此敵を討んため心を砕京北野め天満宮に参る途中にて狼籍者に逢ひ難儀の所を寺子屋師匠新柳に嵐吉三郎(本名上田慶治郎)大勢の手忽子を連れ天満宮へ参り見兼て生酔の悪者等を投付る此手の内を見込に娘に弟子入をさせ助太刀を頼むとの作者は近松徳三なり仙龍を新抦として此狂言大に党り今も時々出る事ありされども此大橋の敵討より古くありしと心得て其前後を知らぬ人もあるべしと爰に云ふなり口の番付に享和とあれど誤りなり敵討は寛政十午年にて狂言となりしは翌十一未年なり今嘉永三戌年まで五十有三年となる昔がたりなり
是も『杏花園蔵書』の中にありしを見しゆゑ爰に出す口の番付の内には浅草天王橋仇討とありて文政と誤れり俗に蔵前の仇討とはいふなり寛政十二申年十月九日浅草天王橋の北西側鈴木といへる休所の前にて敵討あり其人は仙台侯の封内名取郡根岸村長町といへる所の商人善助が子貫蔵と云者年は二十八才なり敵は札差伊勢屋幾次郎が手代喜兵衛とて年は四十二歳なり貫蔵十五歳の夏父に別れ少年の事なれば宮城郡小泉村百姓長三郎が子長松と云ふものを其としの冬よりたのみて(看抱人といふよしなり)渡世しけるが長松酒を好み行跡よろしからざるにより八年前の二月母がいふやうはや看抱に及ばざれば勝手次第に何方へもかた付候へといひて四五日を経る程に或夜丑の刻ばかりに母のうなり声聞えければ貫蔵側によりて見しに右の耳より頬へかけて一刀切られたり其まぎれに長松赴迯出しかば其侭おひかけしかど折あしく暗夜なりければ行衛しらず成りし跡にて見れば金拾両うせぬ是全く長松が盗み取りしものならん母をばとかく介抱せしかど其かひもなく事きれたりなく〳〵愁訴しければ侯より検使下されしとぞ是よりして長松が行衛を尋ねもとめけるに江戸にあると聞てことし三月当地に来り馬喰町に旅宿して両国橋の辺に住居せる大越主税といへる剣術の師の口入にて和泉橋通りの御徒町に住る櫛淵弥兵衛が弟子となり剣術をはげみ江戸一見に事よせていたらぬくまなくさがし索めけるにけふしも淺草寺に詣て帰るさ此処にて敵長松に出逢ひしゆゑ頓に捕て奉行所に至り公裁をあふがんとて八年前に母を殺せし覚え有やと問ひければなにとばかりいらへて振放し迯けるゆゑせんかたなく討留しなり先ぬき打に打かくれば左の耳の上より頬まで筋違に七寸程切きられて振むく畳みかけて小鬢より月代へかけて五寸ばかり切込深手にて倒る是を見て貫蔵は自身番所に入る長松今は喜兵衛と名を改めて今年八月十三日より来年三月まで給金二両のさだめにて幾次郎が許へかゝへられし者なり櫛淵弥兵衛は一橋殿の徒にて神道一心流の達者なり貫蔵是が内弟子になりて徳力と称す刀は備中国為家が作二尺七寸計りあり喜兵衛切られしは夕七つ時過にて茅町一丁目に住める長江玄意と云へる本道を兼たる外科をむかへて療治を加へしかど疵深くして治し難しといふ暮過る頃息絶えたり是其夜検使の問ふに付て彼等が申所なり十六日に予廩米賜はるとて伊勢屋嘉右衛門が許にて聞く所なり幾次郎は嘉右衛門が北隣にて家々三軒をへだてゝ【意義解し難し】南の方なり其前を過れば見せ戸さしてあり鈴木の前にいたれば昨日の雨に土ぬれて血痕あざやかに見ゆ
弘賢
ますらをが手にとる太刀のつかの間に
はかなくなりし跡を見しはや
【原本見しはや誤字なるへしとあり】
寛政十二年庚申十月九日七つ半時敵討口書
下谷御徒町御徒佐々木忠三郎地借
一橋殿御徒剣術指南櫛淵弥兵衛内弟子
徳力貫蔵 二十八歳
浅草御蔵前町札差
伊勢屋幾次郎召仕中働
長松事 喜兵衛 四十二歳
右貫蔵儀松平陸奥守領分奥州名取郡仙台領北方根岸村長町五右衛門借家善助忰にて父は十五歳之節病死十ヶ年已前寛政三亥年まで母と両人にて小商売致居候へ共手廻り不申候間母相談之上同国宮城郡小泉村杉の下百姓七三郎忰長松同年十一月中看抱人に頼相稼候処大酒にて身持不宜身上も難相続八年已前二月下旬長松へ母申渡し候は不如意に相成候間外へ稼付候機申聞差置候処四五日過同月二十四日之夜臥し罷在候へば八つ半過と覚しく母うなり声致し候間驚き目覚見候処母を右之方耳より頬へ掛け切付長松儀は迯去り候駈付候へ共暗夜にて見失ひ母は相果候間右之段領主へ相届け検使済其後家内取調べ候へば売溜金十両紛失金取迯仕り候依之其節より敵討可申存念に候へ共在方之儀故相分り不申候処御当地へ参り居候よし承当三月下旬私儀も御当地へ罷出薬研堀埋地に罷在候剣術指南大越主税儀は知人に付便り参り右櫛淵弥兵衛方へ申込内弟子に相成剣術指南請長松行衛諸所相尋罷在今日弥兵衛忰弥司馬へ相断浅草観音へ参詣仕罷帰り候途中今夕七つ半時頃同所御蔵前片町往還にて敵長松見当捕御役所へ召連可申と存候内振放し迯去り候様子に付抜打に仕止めは刺不申候へ共長松儀は相果申候
一長松事喜兵衛疵改
左り鬢に五分程突疵 壱ケ所
同方鬢より頬にかけ七寸程切疵 壱ケ所
同方月代より鬢に掛け五寸程切疵 壱ケ所
一刀銘備中国柴郡住河野利兵衛尉為家 長さ二尺六寸八分
右書面之外同所支配名主咄に聞候は右貫蔵儀喜兵衛を及殺害候上町役人を尋候に付行事罷越候処前書之始末祖申聞候間町法に付先帯刀可預由申聞候へば成程承知に候併し刀は師匠より借物にて拙者刀には無之旨申候に付即刻前書弥兵衛を呼に遣し候処忰弥司馬罷越成程此者は召仕には無之候へ共内弟子に相違無之夫故刀をも貸置候旨申聞候其後検使に相越候由物語なり但喜兵衛夜五時頃まで存命に候へ井口書之間に合不申相乗候由是も杏花園の筆記にて正しき実説なり都て実説はどれも〳〵かやうなる物にて面白をかしき条は作り物語り狂言としるべし
此蔵前の敵討を其当座江戸葺屋町市村座にて近松門喬狂言に取組敵討覘雁的[ねらいのがんまと]と外題して蔵前米屋の主を市川八百藏(後助高屋高助)にさせたり是は旧寛政三亥年三月浪華中の芝居にて近松徳叟作にて敵討非人実録と云ふ狂言を出したる所芝居出火して北の新地へ引越し狂言其まゝにて敵討郡山染と外題替せし六つ目大坂福島米問屋の主大和屋五兵衛に雛助(小六玉)娘に国太郎敵に山村隣家浪人者に嵐三郎にて坂東甚六春藤治兵衛にて作せし場を其まゝ役割をかへて蔵前札差いせや幾次郎方の敵討にはめたる物なり近来今の歌右衛門(翫雀)江戸にても札差の役をし今年浪華にて稲葉双紙にきりはめ大津屋又兵衛の場は則是にて元は郡山染の世話場より役割のみいろいろと変化せしとしるべし
江戸下谷にて或浪人蹲りて小便せしを侍二人話しながら爰を通り一人の侍浪人の刀に行当りしかどさらぬ体にて過行浪人思ふには此人終に見知らざれば意恨あるべき理なしとは自分の了簡なりとて跡より走り付唯今かゝる事候ひしが定めて御心のある事にはあらじ但しいかなる事もやと尋ければ誠にこまやかの仰詞や只に御免あれと互に慇懃に礼を述て別れたり彼侍の連は一町計り過て相待つ所へ侍追付件の荒増を語れば連の侍以の外気色をなしそれさまの事云せて聞しや何条討ちすてざるや汝は腰抜なりと散々に詈りければ是は何事そや互に意恨のなき事なれば討果すべき謂れなしそれに我を腰抜と云ひしは堪忍なりがたしとて双方抜合ひ火花を散らして討対ひ互ひに手を負ひし所へ以前の浪人町中の譟を聞きかけ付けて窺ひ見しに件の人血刀にすがりありければこはいかなる故にやと近より事の要を問へばしか〴〵と答ふそれ遁さじと追かけ詞を懸け造作もなく切伏首を引提立帰り是見給へとありければ斜ならずよろこび慇ろに礼を尽し我は喧嘩の相手なれば切腹すべしと云へば浪人が曰く其元は某なり然らば互に刺違んと有しに町人打寄押留奉行所に罷出一々の事訴へしかば委しく聞得させ上へ御伺ひ有しにや是は喧嘩にはあらず死したる者は乱心なり何れも神妙の事なりと仰有て済けるとなり《
皇都午睡 下谷の争論》
右は寛政二巳年出板の『新著聞集』の中の一話なり既に此書出板より十五年前享保二十年に豊竹座浄瑠璃に並木丈助作苅萱桑門筑紫𨏍二の口狐川の渡し場にて旅人行違ひに浪人の旅指の柄に袖を引かけ折る麁相せし方詫て我刀を抜見する双方共竹みつなり互ひに浪人のおばうちからし一腰まで売しろなし人目ばかちの竹刀なれば打合ふ事もならずと笑ふて別れんとす時に加藤左衛門重氏供人大勢召連れ渡し舟の着を見合すうち敵役の家来此両人を腰抜なりと笑ふゆゑ一旦別れし両人又立帰りて重氏に刀をかり打果さんと云ふ重氏我家来をぽんと切て両人に一腰づゝ刀を遣る両人の旅人は是れ玉屋与次鬼柳一学にて此恩を報ぜんため四の切にて与次は妻子を御台と石童丸の身代りに渡す一学大内方に仕へて捕手の役に来て贋物合点にて与次が妻子を引立帰る仕組あり狐渡しの場の仕組は前に云ふ『著聞集』に出たる一語を潤色せしものなり道理のかなふたる条は故人作者如才なく遣ふたる事をしるべし
世に苅萱坊は旧加藤左衛門重氏と云九州の大名発心したるなりと古より云ひ来れど、しかとせし書に加藤重氏の姓名記せし物なしとも云、委しくは予が『綺語文草』高野の巻に出せしこそ実説ならめ、爰に又『閑窓雑話』の中に藤沢一遍上人の事跡あり、よく似たる話なれば爰に出す、一遍上人は伊予の国の住人河野七郎通広が次男なり、家富栄えて国郡多随して勇壮なりければ、四国九州の間他に恥しめ思ふ事なし、二人の妾ありて何れも容顔麗はしく心ざま優なりしかば寵愛尤も深かりし、或る時二人の妾双六盤を枕として頭さし合せ寐たりしに、二人の髻忽ち小蛇となり鱗を立て喰合ひけるを見て刀を抜て中より打切りたり、是より執心愛念の恐ろしき事を思ひしり、輪廻業報因果の理を携へ発心して家を出、比叡山に登り受戒桑門の姿となり、西山の善恵上人に逢ひて本願念仏の法聞を学び、十一年を経て自智真坊と名を付、それより熊野に参詣し山また山を越て〔中略〕普く念仏を弘通し、相州藤沢に道場を構へ鎌倉を廻りて念仏を結縁し、爰に名を止め修行者の志おこたらず、摂州兵庫の観音谷に於て正念して遷化あり、正応二年八月二十三日生年五十一歳なり、弟子僧阿弥陀仏其遺教を守りて一遍上人時宗の流義末世に至るまで退転なし云々、かゝれば今世に云ふ苅萱の発心は一遍上人の事跡をかりし事明らけし、又宇治加賀掾の頃の古浄瑠璃鳥羽の恋塚の院本を読しに、袈裟御前と源の渡の中に男子ありて、成人の後父は南都東大寺に出家せるよし聞て都より奈良までの道行有て、次に東大寺の場にて俊乗坊に出逢ひ、今道心に尋逢たきよし告る時「きのふ剃たも今道心をとつひ剃たも今道心」といふせりふ有て、一旦仏門に入りし身なれば親子の名乗もしかぬる内、山の上より師の坊教誡の文句あり、都て此筑紫𨏍の大切高野山の通りなり、然れば享保に並木丈助が作せし折の鳥羽の恋塚の南都を高野山にはめたる物にて、集て玉屋与次と云ふ宿屋の名まで書込たる狂言なり、此後苅萱は加藤左衛門重氏の事に定まり、歌舞妓にても九州苅萱関と云ふ狂言ありて、与次をすべき役者なき仕組ゆゑにや、与次の後家に富十郎〔元祖名人慶子なり〕にてせしもあり、今紀の高野学文路の苅萱堂の後に千草前の石塚一基ありて、縁起の一枚摺をよめば筑紫𨏍の通りを書きたり、かゝる作り物語を定規として名所旧跡となるもをかしき物なり、苅萱堂へ丈助の木像を納め祖とあがめてこそ能けれと思はる、此高野の玉屋与次、芳野下市の惟盛・弥助のすしや、伊吹山の麓芥屋久作、伏見人形屋幸右衛門、住吉新家の新作、皆浄瑠璃歌舞妓狂言より名高き名物とはなれりける
西沢文庫伝奇作書付録上の巻終
西沢文庫伝奇作書付録中の巻
西沢一鳳軒李叟著
元文四未年浪華吉野屋町辰巳屋久左衛門養子乙之助手代新八後見同町木津屋吉兵衛を相手取江戸表へ出訴して江戸町奉行石河土佐守殿寺社奉行大岡越前守殿の御捌きとなり翌五申年落着までの事を『銀の笄』と外題せし写本あり其あらましを爰に出す元辰巳屋久左衛門は摂州尼が崎の産にて蝋燭屋久兵衛と呼びしが浪華へ来て辰巳屋久左衛門と改名し蝋燭炭油を商売し段々繁昌して炭問屋となり忰久太郎二代目久左衛門となり娘一人あるゆゑ同町同商売木津屋吉兵衛【此間脱字アラン】久吉を養子聟とす是三代目の久左衛門にて家益々繁昌のうへ正徳元年九月朝鮮人来朝の時久左衛門商売の運に叶ひ買込おきたる炭を直売して大金をもうけ是より大坂にて指折の身上とはなりけり出入の仲士に牛の次郎兵衛といふ有て十貫目炭を十六俵壱人にて長堀伊達の屋敷へ一遍に持行し者もありけるされば三代目久左衛門に子五人あり惣領を平三郎(是四代目久左衛門となる)二人目は女子おさよ(白髪町の町人平野屋清左衛門へ嫁す)三男久八元服して茂兵衛四つ橋平右衛門町へ分家す四男庄八は木津屋吉兵衛に男子なく養子となり伯父病死の後木津屋吉兵衛となり末子富五郎部屋住にて辰巳屋に居りしが早く病死しけり三代目久左衛門法体して久鉄と呼び隠居せしが四代目久左衛門放埒にて新町の大蔵太夫を受出し番頭手代等異見をすれば京へ行き金銀を湯水の如く遣ひければ久鉄勘当せんと云ひしより志を改め大蔵にも暇を出しおてるといへる妾を入れ至極実体となり妾にお時雨[じう]とて女子一人出来し後は始終多病となりける然るに三男木津屋吉兵衛は大坂廻舟年寄まで仰付られしかど首切癰といふ腫物出来て金銀にあかせ療治したれども終に相果て跡を立つべき一子なければ二男茂兵衛兄なれども父の出所なれば家督を継ぎ木津屋吉兵衛と改名す隠居久鉄は中風を煩ひ是も程なく死去しけり時に吉兵衛は平右衛門町宅には手代共には入質を取らせ其身は炭商売と両家を司りお里といへる妾を平右衛門町屋敷におきて寵愛し綱次郎といふ男子をもうけおさとの親を隠居させ平生学問を好むがゆゑ高慢気違のやうになりしを医療手を尽しやうく少く快気しけるが本家辰巳屋久左衛門は若きより媱乱放逸なれば長命の程心元なしと和泉佐野唐金与茂作忰乙之助を娘お時雨と後々娶はせ家相続させんと養子とす与茂作数十人の手代の中より新八といふ器量ある者を付けて送る久左衛門悦び新八を番頭格として乙之助の付人と定め幼少なれども乙之助養子の事を早速町内へ弘めしに其翌享保十九寅の夏久左衛門病死しけるゆゑ乙之助の名前となり木津屋吉兵衛は幼少の乙之助がためには伯父なれば後見となりしより学問高く元より烈しき気性なれば自ら奢に長じ親久鉄菩提のためと号し新難波町欄[かけ]【掛カ】屋敷の中へ見事なる閣堂を建て下を一面の敷瓦とし父久鉄が木像を本尊にすゑ道の左右へ石燈籠八九十建つらね其壮観耳目を驚すばかり其上名ある儒者僧俗を集め日々精進物とはいへども数百人を養ふ其物入幾何といふ事なし辰巳屋番頭共異見をすれば大に怒り我孝心の道を以て慈悲善根を施すを妨るは不忠不孝なりと云ふ此事御役所へ聞へ吉兵衛御召にて本家に於て御ゆるしも受ず閣堂を建て僧俗を集る事御制法を背く段言語同断なり急度御咎仰付らるゝ所なれど孝行なりとの心得違ひの儀故御慈悲を以て其分に差置るゝ条右の堂今日中に取払申付る以後相慎めと御呵りを受吉兵衛残念とは思へども閣堂を其日中に取崩しければ久鉄の木像置所にこまり金蔵へ入置ければ久鉄は金の番人なりと興じける吉兵衛御しかりを受け閣堂を潰せしを無念におもひ町人の悲しさ仕方なし京堂上の家来となり何事を企る共役所より手出しはなるまじ其時今の無念を晴すべしと幸ひ烏丸大納言殿は代々御用を達す事なれば金銀を送り諸大夫と懇意に成り金銀にあかせ鳥居図書と名を受け宝物と致度とて御装束幷に御裏様の装束の古を奔領し夫を手本に新敷を二品共調へ帰宅し是より弥奢増長して元文元年の正月拝領の装束を床に飾り新しく仕立たる冠装束を其身は着し妾おさとにも女官の衣を着せ堂上の規式をし本家辰巳屋の金銀も自由に遣ひ前代未聞の奢誰知らぬ者もなく評判とはなりぬ其上弥儒道神道に傾むき父久鉄兄久海が命日にも辰巳屋へ来り仏前へも魚肉を備へ家内の者にも喰ふべきよし指図するに主人の命日なれば精進仕り度といへば吉兵衛立腹して善悪共詞を背かば暇を出すべしと云に是非なく食すれども乙之助付の番頭新八は是を恐れず親の日に精進するを誤りとは存せず乙之助お時雨には堅く精進させけるを吉兵衛怒りて新八を早々佐野へ帰すべしとあるを番頭共段々挨拶して其日は其侭済しかど是よりして吉兵衛は新八を憎み我辰巳屋の忰なれば辰巳屋木津屋両家を納るとも誰か点の打手もなき筈新参の手代として我を侮りたる仕方不届なり金銀に事かゝね共態と辰巳屋の金を自由に遣ひ彼等に見せしめんと金子入用の由をいひ取出させ新町島の内にて末者芸者を集め金銀を蒔ちらしけれ共吉兵衛が上に立つべき一家もなく誰有て諌る者なければ心の侭に振舞ひ乙之助お時雨も家来の如く呵り付け麁末なる体たらくなれば番頭新八は此侭にては終に辰巳屋退転に及ぶべしと深く嘆き番頭をも手代等と相談し後見をあげさせんとすれども吉兵衛が威勢に恐れ相談相手もなければ力及ばす新八一人命にかへて稲垣淡路守殿へ一通の訴状に吉兵衛後見退き候檬認め願出ける是元文四未年二月の事なり今嘉永三戌年まで百十二年となる昔がたりなり
淡路守殿御病気にて家来馬場源四郎司り捌ける上常々吉兵衛と源四郎は茶花の友にて懇意の中なり公事功者の中田勘平といふ浪人をかたらひ吉兵衛より返答書をさし上対決と成りしかども吉兵衛方は勝公事となり新八は一人の願ひにて後見を退けんとする段不届なり殊に吉兵衛放埒と書上し事主の非を上て訴人同前なりと新八を呵り裁許相済みけれど新八は独り残り達ての願ひに源四郎裁許もどきの科人なりとて新八を牢含させけり辰巳屋一家町内は新八が忠心を感じさま〴〵お詫申せしゆゑ一月計り過て出牢し辰巳屋へ帰りける吉兵衛早速新八に逢ひ我後見をそねみ理を非に申せし天命思ひしつたるか牢舎したる者先祖久鉄久海への穢なれば此家に差置く事ならず今日中に泉州へ帰るべしとあるに新八も吉兵衛が学問立に表を飾り内心は辰巳屋の身上を横領せんとの工みゆゑ此度も金銀のまいなひにて勝たる事を遠慮もなく云ひければ吉兵衛憤り強く叩出さんとありけるを新八云ふには木津屋吉兵衛は主人ならず乙之助殿お時雨どのこそ主人なれば久海より譲られし掛屋敷身上諸共佐野へ引越すべし我家来同前に叩出さんなどゝは慮外千万なりとの理屈にさしもの吉兵衛も閉口し御役所へ訴へ是非を以て逐帰さんと云ふを両家の番頭段々云ひなだめて中の島の上田三郎左衛門は吉兵衛と懇意なれば中人に入り新八に理を解きやう〳〵泉州へ帰しける新八与茂作に委細を告げ所詮大坂にては埒明くまじ江戸表にて出訴せんと主人与茂作へ委しく申置き大坂へ来て辰巳屋一家番頭を集め江戸表へ行くべきよしを告るに同志の者八人あり是も共に行くべしと云へども先新八一人下りて其上の様子次第にて下るべしと元文四年六月上旬に新八江戸へ着浅草久保屋助右衛門方へ着し御町奉行石川土佐守殿へ出訴せしかども大坂にて一旦御裁許相済たればと御取上なく八月に至り土佐守殿直に御申あるは辰巳屋乙之助下人新八とあれば後見吉兵衛も主人なり下人として主の訴人は曲事なり願書には辰巳屋を追出され泉州へ帰りしとあれば主従の縁は切れしを弁へず不届至極の馬鹿者めとお呵りを受け新八始めて心付御前を退き願書を泉州佐野岡部美濃守殿領分唐金与茂作下人新八と書改め御評定所へ出訴に及び九月に御老中松平左近将監様より寺社奉行大岡越前殿にお指図有り越前守殿お掛りとなり岸和田の城主岡部美濃守殿にも御聞合有て新八召出しの上お尋あり追て御沙汰有るべしと願書は留りければ新八旅宿より大坂へ書状を認め送るがゆゑ同志の番頭八人十月下旬に江戸へ着八人口書差上御評議有て十二月二十日大坂吉野屋町木津屋吉兵衛年寄五人組お召にて六日の道中急御召と有ゆゑ吉兵衛甚驚き馬場源四郎方へ告ければ江戸南八丁堀鵜野長順といふ医師へ頼みの状を付け中田勘平よりは親類島田作太夫と云ふ浪人へ頼の状を付け賄賂の用意金五千両挾箱に入れ吉兵衛は通駕上下三十九人十二月二十六日出立して翌元文五申年正月三日江戸本石町壱丁目大黒屋小兵衛方へ着直に着届済其後吉兵衛を御召有て近々対決申付ると不首尾の体なりければ彼作太夫を始め長順其外深川永福寺の住持智眼和尚弟子賢道茅場町箔屋勘兵衛等は元より吉兵衛の近付なれば呼集め内々役人衆中へ賂ひを途るべしと皆々の奸智拵事に計られ五千両の金を悉く蒔ちらし又もや大坂へ五千両金子を送るべしと取寄せそれも皆掠め取られけり吉兵衛の留守中妾おさとは手代治吉と密通し有金多く盗み出させければおさとが父伊右衛門は是を苦にして首を釣り相果けるとぞ扨三月に至り吉兵衛新八両人に対決仰付られ重ねて越前守殿お尋ねには吉兵衛事町家に於て堂上の規式をし公卿の装束を着せしはいかにと吉兵衛は烏丸家より拝領して床に飾りしのみと答へけるにそも此事の始より京大坂にて聞合せ置たり其節京都にて新しき装束を仕立させしはいかにと厳敷お尋に閉口す是故吉兵衛は入牢となり夫より泉州唐金与茂作大坂辰巳屋乙之助別家一類挨拶人上田三郎左衛門もお尋にて常々吉兵衛方へ心安く出入して毎度金子を貰ひし輩まで残らず懸合にて御呼出し有ければ其町々騒動し大坂発足の者二百余人かゝる大行なる公事は三都に珍らしく江戸本石町一丁目二丁目は悉く木津屋辰巳屋懸りの旅宿とは成りけり木津屋手代与助は吉兵衛義は烏丸殿の家来なれば病身者なり何卒出牢の段願出るに此義は腰押なるべしと越前守殿仰出され箔屋勘兵衛鵜野長順の両人召出され白状のうへ入牢と相成り作太夫智眼賢道等も召出され拷問のうへ吉兵衛に弥御にくしみ強く大坂表稲垣家来馬場源四郎同三郎兵衛浪人上田勘平を急に召れければ勘平は木津屋入牢と聞くより腹切て死し稲垣殿馬場両人を網乗物にて江戸表へ引かれ再応御吟味めうへ吉兵衛儀辰巳屋を横領せんと謀計を搆へ官位装束を取扱ひ堂上の家来と申一身を二名に用ひ金銀を猥に仕過分の奢上を恐れざる段不届に付死罪仰付けらるべきを御慈悲を以て三ケの津御搆にて追放木津屋の家督綱次郎に仰付られ両家手代共事上田三郎左衛門印子【意義不通】の判形持参せしを呵られ以後取扱無用馬場源四郎島田作太夫は打首馬場三郎兵衛似せ与力同人六人は江戸追放智眼賢道長順勘兵衛は大金を衒り取りし科にて江戸中引廻し獄門小池相摸殿出家をかたらひ町人より助力を受し科にて切腹稲垣殿は病中ながら家来の取計らひ存ぜざる段不調法と有て半知小普請入乙之助お時雨は夫婦となり辰巳屋相続致すべし木津屋綱次郎喜三郎と改名して家督を継ぎ木津屋へ出入し者悉く御呵りにて相済唐金与茂作は其方より以後辰巳屋へは我侭の計らひあるまじく新八其外同志八人の手代共同志の咎めあるべき所忠義にめんじ差ゆるす乙之助のためには忠義の者共なれば随分不便を加ふべしと一件悉く相済み大坂へ立帰り吉兵衛は大津高観音にて借宅し手代共より合力を受けその後病気にてひそかに木津屋へ帰り相果おさとは放埒なるゆゑ剃髪させ天王寺巫子町へ庵室をしつらひ入置乙之助勝利を得しは偏に新八が忠義ゆゑ過分の別家をさせんと云へど利欲に拘らず泉州へ身退きて蟄居同前に暮しけるは誠に町家に於て珍らしき忠臣と皆々誉めぬ者こそなかりけれ
此年より三十九年後安永七戌年浪華角の戯場にて作者並木五瓶棹歌木津川八景と外題して盆替りに出す其時の番付は次に出す宇治屋七兵衛(木津屋吉兵衛事)腕次郎兵衛(仲士牛の次郎兵衛事)番頭勘助(番頭新八)炭屋後家お里(久左衛門妻おてるの事)などそれ〴〵に名前を替へ序幕より四つ目河口番所裁許の場までは此本文の通りにて手代勘助は侍となり木津勘助となり林三十郎は渡し守となり両人役目替るより一つ狂言ながら先切狂言となるなり都の巽より名を宇治屋と替へ其余の人名は木津川安治川の地名に合せ木津の勘助林三十郎と拵へし名なり此時の看板に樋の口ありて此前に三十郎着流し一本指にて竹棹にて筏をさし傾城浅妻も着流しにて此筏に乗り居る樋の上堤に木津勘助肌脱にて刀を持あれの姿に立居る図なり梅幸花桐珉獅三人の人形なり今木津勘助と云男達にても有し様に心得し人もあるべきが唯勘助島の開発人にて外にあらん様なし天満天神祭お迎ひ舟に木津勘助の人形あるは此木津川八景の時の雛助の木偶看板を其侭に写したるなり尤宝暦三酉年豊竹座浄瑠璃に雄結[をとこむすび]勘助島といふ狂言はあれども三十郎渡し勘助島と地名をよせて木津屋の一件を取組しが故に木津勘助と呼しは此時よりの事なりとしるべし
安永年七月二十九日より新狂言 角の芝居 |
| 座本 小川吉太郎 |
付り今此所にて出合の印は銀のかんざし打ぬいた紋は即ち丸にもつこう
勘助島/三十郎渉 棹歌木津川八景 新田/六反
幷に後此堤にてうちあふかためは金拵の脇ざし取組だ盆と正月 |
こしもと さくらぎ あらし新之助
同 ちどり 中山為之助
同 小よし 藤川きく松
岡 さらしな あらし千太郎
同 さえだ あらしきの助
たいこ持 一作 尾上丑之助
同 喜六 花桐伊三郎
手代 兵助 小じま和三郎
かこの 又兵衛 大谷彦十郎
たいこ持 喜作 嵐権十郎
代官 小文次 山下四郎五郎
宇治屋手代三助 市山三津蔵
早野弥藤次 中山乙五郎
仲居 おみよ 萩野三代蔵
けいせい あふよ 小川千菊
三十郎娘 お品 嵐松次郎
手代 文六 桐山紋治
三十郎女房お浪 藤川山吾
けいせい 三浦 藤川山吾
手代 与助 三桝化人
佐次勘右衛門 三桝化人
炭や後家 お里 花桐豊松
仲居 おつる 花桐豊松
けいせい 浅妻 花桐豊松
腕の治郎兵衛 藤川八蔵
林三十郎 尾上菊五郎
狂言作者 中村阿契
同 長谷村真八
狂言作者 津打亭助
同 並木新蔵
狂言作者 筒井半二
千秋万楽叶 |
かぶろ 亀之丞 中山富三郎
こしもと まん 中村万藏
げいこ 小いと 嵐万三郎
勘助子 勘吉 坂東吉松
船頭 伝兵衛 中村伝九郎
やりて すぎ 中村仙助
やツこ 半蔵 中田善右衛門
同 角助 中山三八
玉沢や 女房 沢村五郎吉
入方八兵衛 中山東藏
桂順卜 中村友十郎
住吉や権八 三桝伝蔵
入江図書 藤川十郎兵衛
仲居 おげん 嵐雛次郎
作兵衛女房お照 山中平十郎
馬士の八 山中平十郎
勘助女房お□ 桝山四郎五郎
浅山源十郎 中村十次郎
桝屋太右衛門 柴崎林左衛門
堀江万右衛門 柴崎林左衛門
早瀬兵蔵 柴崎林左衛門
塩田三左衛門 尾上新七
同忰 佐市 尾上新七
米屋作兵衛 嵐雛助
木津勘助 嵐雛助
同弟 幸助 小川吉太郎
宇治屋七兵衛 小川吉太郎
狂言作者 並木五兵衛
頭取 中山音五郎
世話人 中山百治郎 |
安永元辰年角の芝居二の替り狂言艠始の作者は並木正三にて、是はさして実説に基き工みたる狂言ならず、唯淀川筋にある地名をよせて、平太の番所・源八の渡と開発人の名より思ひ付て関口平太・神道源八と武士の名に作りもうけて、淀与三右衛門と云ふ捌き役の相手実悪の名に事かきて、河村瑞軒は此川筋を浚ひし縁あれば敵役に遣ひしより、婦女子は悪人のやうに思ふこそ瑞軒の不幸なるべけれ、此人古今独歩の才子にて始東武神田の産十右衛門と云ふ車力なりしが、明暦三年江戸大火の時、僅かの金を懐にし僕一人を雇ひ供に連れ夜を日に継て信州の山路に至り、材木多く持る家に行き材木を求んと咄のうち、其家に小児あり、十右衛門懐中より小判一枚取出し、火箸にて穴をあけ紙撚を通し輪にむすび小児に与へしより、亭主驚き並々の金持にはあらじと、十右衛門のいふまゝに材木を送りけり、十右衛門一々材木に焼印を打、江戸へ帰りて価高く材木を売り夥しく利を得、是より家富栄え諸大名方へ立入して普請の請負をし、他より価安く美麗にして無雑作なる事、皆十右衛門が才智より出る所にして、後河村瑞軒安治と呼けり、或方へ召れし時、官名ほしきよし申ければ、安き事なり兵部卿と名のるべし併し仮名にて書くべしと仰せあり、瑞軒かなにて書見ればひようぶぎやう則日雇奉行といふ事なりとて大笑ひして退きしとぞ、晩年淀川筋土砂堀浚の請負となり、土砂を残らず川口浪除山に積、世の人河村の功を賞して瑞軒山と云、川の名に我名乗安治を呼て安治川と今に呼など世に勝れたる才子ゆゑ、俗に瑞軒を山師の棟梁なりとも云ふものあれど、水脈に委しきは角倉了意にもおさ〳〵劣らぬ人ながら、芝居狂言にて謀反人にせられしは此人の不幸なるべし、三十石狂言なつてより今戌年まで七十九年とは成りけり、其後に此世界の人名を用ひ花艠淀川話・けいせい恋艠・夏粧淀川堤との増補狂言もありけり
宝暦十辰年七月二十二日より始たる極彩色娘扇の浄瑠璃は竹本座にて二歩堂と三好松洛の作にて、朝比奈藤兵衛の聾と寺子屋兵助の盲人と兄弟因果の寄合は、誠に古今の類なき作にて大当りせしとぞ、此中にお夏清十郎を題とす、是はいと古き心中物にて、極彩色より五十二年前宝永六丑年にお夏清十郎五十年忌歌念仏と云ふ近松作の浄瑠璃あり、お夏は播州姫路但馬屋九左衛門の娘、清十郎は手代なり、然れば百年余になる人名なり、又男達喧嘩屋五郎右衛門は元禄年中五人男の頃有りし俠者なり、是に朝比奈藤兵衛と云へる男達を書入しは思ひよらぬ事なり、前に云ふ木津屋辰巳屋の先祖尼ケ崎に住居の内、青山侯〔尼ケ崎城主)の家老に朝比奈藤兵衛と云有りと銀の笄にも有て、然も大禄取の名なるを俠者として聾にまで作りしはいとをかしからずや、上巻男達見立番付になき上方の事ゆゑ、江戸の人はしらぬ筈なれど、以前男達の多き折に此同名の侠者ありしか不知、又是より十六ケ年巳前延享二丑年竹本座にて七月十六日より始し夏祭浪花鍳は並木千柳・竹田出雲作にて此時より人形に帷子衣裳を着せ始しと云、今まで百六年になる狂言なれど、夏の頃はいつも興行の度に当りを取名狂言也、此団七九郎兵衛・一寸徳兵衛・釣船みぶと云る侠者の事跡何の書にも見当らず、田島町に九郎兵衛の住たる家の跡ありと所の者のいへども、浄瑠璃の文談より付会して云ふなるべし、又釣舟の内は高津地下町、又清七(本名玉崎磯之丞)手代奉公する道具屋内は本町、舅殺しは長町裏と現に町所 浄瑠璃に出しあれば少しは形のありたる事明らけし、お辰が焼鉄を当て面体を損ふは、天和年間白翁和尚に法を受んと火撹を焼き面を焼爛したる了然禅尼の行状を書込しものなり、無宿団七堺に住し折の名にして、彼地を払はれ大坂にて九郎兵衛と改名して魚売をすれど、以前の名と両様に呼ばるゝものからそれを通り名とす、前々の編に釈く岩井風呂の人殺佐助も元は堺の者なれば、無宿団七の名をかり団七茂兵衛と名を付したる者なり
天明三卯年角の芝居にて五月狂言に出せし富士見月は並木五瓶作にて、以前博徒に名高き大工与兵衛・悪馬の佐吉等を始、新町槌屋の抱綾鶴太夫、機関師竹田近江抔を取組たる世話狂言にて、此綾鶴は誤つて借振の折放屁せしを其頃口の悪き客端唄に作り「音は幾瀬の浮名にひゞく」との文句あり、此狂言には幾瀕里次郎とか呼てやつし役にし、合方は綾鶴太夫なり、惣体の仕組夏祭によく似ていと面白き狂言なり、元禄中五人男御仕置にあひし時、阿波座讃岐屋町に道具屋与兵衛と云ふ者、その頃の喧嘩買に脇差をかし群集の場所にては其輩を後楯とせし科にて、浪華の地を払はれしと云、与兵衛と此大工の与兵衛は別人なるべし、又宝永四亥年四月に梅田にて心中せしおかめ与兵衛と云あり、竹田出雲作にて卯月の紅葉と呼ぶ竹本座にて浄瑠璃とす、是は久太郎町心斎橋角笠屋と云ふ道具屋の娘お亀(十五歳)養子聟与兵衛(二十一歳)なり、又安永二巳年七月十六日朝蚤の心中とて有しを直に盆替りに角の芝居にておかめ与兵衛の名をかり七月二八曙と云ふ外題にてお亀に雛助(後立役小六玉)、与兵衛に小川(元祖英子)、是又古今大当りせしとぞ、与兵衛は御堂前港屋の息子、嫁は座摩の前鰒汁屋の娘にて至つて肥満せし大女然も懐胎して七月なり、男はひがいそなる優男にて蚤の夫婦の心中なりとて名高かりしを、雛助・小川の体に合せ難波鉄眼寺門前道行の跡、心中の所、雛助方より小川をはげませ刀を持そへさせ我胸へ突込せる、小川恟りして後の高土手へ跡飛に飛上り、南無あみだ〳〵と所体を捨てふるひながら拝む所誠にかうあるべし、英子は古今の名人なりと其時の評判記にも載り、古き見功者は後々まで覚え居て賞たる事聞おぼえり、故に与兵衛と云へば道具屋与兵衡と呼べども皆別人にして、其時々の仕組に名のみかりたる事をしつて一つに混ずる事なかれ
宝永□年酉五月上旬浪華北浜の町人淀屋辰五郎、奢に長じて莫大の金銀を費せし科にて家内闕所となり、辰五郎は城州八幡へ引退き、古く持伝へたる宝を始め有金地面古証文まで残らず闕所仰付られし事は、『護国女太平記』に委しく出たれば改めて云はず、或書に実説なりとて有には、淀屋辰五郎の家滅亡の起りは、辰五郎遊里に通ひ世間の取沙汰をも憚からず家内の納りも麁略なりければ、母是を愁ひて兼て親しき老医あり、此医者利害を解き辰五郎を諌めければ、合点行しか遊戯を止まり、母大に悦び老医に礼詞を述べ猶謝礼として家に持伝はる茶壺を送る、此老医茶事を好まず商人に売り、夫より諸所の手に渡りて流布する内、公役人何某といふ者此壼の事を公聞に訴へ、此壼先年公儀より御尋の茶壼也、其時は手前に所持仕らずと偽りかくし置候段不届なりと御咎めあり、其外彼是に依て辰五郎は追放せらる、依て家滅却しける、しかし此壼ばかりにあらねども畢寛此壷御咎の第一となりし事時節の不幸なり、辰五郎は後三郎右衛門と云、元来八幡の侍なりと云々、是実説に近かるべし、彼忠臣蔵夜討の年より第四ケ年目なり、又前に云ふ木津屋吉兵衛追放になりしは淀屋闕所より三十五ケ年後の事なり、何れも豪商の家柄滅亡するも奢侈僭上の咎なり、彼近松平安堂が淀屋の事跡を書て「金の冠着ぬばかりしやくは持病に有とかや」と編りしは、何と云ふ浄瑠璃に出せしや外題しれず、淀鯉出世の瀧徳と云近松の作には江戸屋勝次郎・茨木屋吾妻として「癪は持病」の文句見当らず、近松翁死せしは享保九辰年なれば淀屋滅亡より二十年後なり、又木津吉の滅亡は近松歿して十五ヶ年後なれども「金の冠着ぬばかり」と奢の文談は淀屋辰五郎の廓遊びには似ず、木津吉が堂上の規式をせしにかなふと云ふべし、察するに近松の文談を聞覚え後、木津吉が其奢侈を行ひしか、『橘庵漫筆』に近松の草稿を見て感ぜしと云、穂積以貫(業は医半二が父)は俳諧師半時庵淡々と共に木津屋吉兵衛が幇間なりと銀の笄に有り、遙か後安永二巳年七月北の新地芝居にて近松半二(穂積以貫忰前編に委し)作〔時代蒔絵世話模様〕いろは蔵三組盃は替外題難波丸金鶏とも有て、忠臣蔵と柳沢と淀屋辰五郎を混じ合せたる狂言なり、手代新兵衛と云へる世話立役は木津吉一件の折の新八より思ひよりて書入しものなり、天明七未年盆替り角の芝居にて仇討宝永記と外題して此五月仮名手本忠臣蔵(江戸中村仲蔵秀鶴上り出勤志賀山一流三番叟の祖)大当りせしゆゑ、其後日狂言として「宝えん祭りは見事な事よちと又此世のうさはらし」と云はやり歌を元として付たる外題なり、此中に淀屋与茂四郎忰三郎兵衛酒を飲家内土蔵をこぼちあばれる場あり、是は其頃岩城ます屋をこぼちたるを狂言に仕組み名は淀屋をかりたるものなり(近来岩木屋藤三郎と呼ぶなり)、又寛政五丑年中の芝居にてけいせい楊柳桜と外題して二の替りに出せしは、彼『女太平記』を潤色して柳沢と聞せし物にて、淀屋辰五郎は旧栄飛騨頭の落胤にて父の謀反を諌めんため態と放埓を尽し、川口の新田へ払はれ融の大臣の塩竈を移し遊興す、其跡を前内裏島(本名は前埀島)と号仕組にて、是は専ら木津吉の奢を辰五郎に混じたる者なり、果は本妻妾秘を三方に追せ八幡の領地へ払はるゝを脚色めり、是を淀屋辰五郎の狂言にては慥かなる仕組といふべし
爰に享和の頃堂島裏町に住居する尼ヶ崎屋庄九郎と云ふ盗賊有て、玉水町加島屋の土蔵へ入て金子五千両奪ひ取りし事あらはれ引廻しとなりし事あり、そを直に堀江市の側芝居にて持丸長者金笄釵[かんざし]と外題して淀屋新兵衛故主辰五郎のために淀屋の金蔵へ盗みに這入る仕組にて、芝居の看板に土蔵の屋根を錺り、新兵衛頬冠り尻からげにて番傘をさし黄金の鶏を抱へ居る所を出せり、外題割書を土蔵の白壁へ落書のやうに書きたり、此実説とて予幼き頃その辺の人の話に聞侭爰に記す、虚実はかり難しといへども近き事なり、実説に遠からじとおもふ、加島屋より蔵屋敷への納金五千両には宵日より燈明をあげ金蔵に錺りありと、出入の仲士が髪結床にての咄を聞て、其夜ならでは盗み難き金なりと、然も其夜大雨の只中庄九郎は傘をさし忍び入り、独りにて五千両の金子を持出しとは大胆不敵のみならず力も相応にありしと聞えし、元の屋根に帰りし所傘の邪魔なりと屋根より横堀の川中へ投込しが、折ふし干汐時にて浜の石垣にとまりしもしらず盗賊は帰りしが、其夜加島屋主人は屋敷振舞有て島の内足代屋へ来り、翌朝早く駕にて帰り、駕舁は南へ帰りがけ浜に落ある傘を何心なく拾ひ駕に付て帰り、足代屋長左衛門に傘を拾ひし事を咄してかへりぬとぞ、足代屋の主はいつも駕の帰りを待受け、夜前の礼に見舞旁行くを定例なれば、玉水町へ行きし所、前夜屋根越しに盗賊入て五千両金子を奪取られし噂あり、さるにても大雨に屋根をめぐり土蔵へ忍び入し事を驚き、屋根を吟味せし所、金樋の内に金子一包落ち有りしゆゑ、此所より入たるとの評議を聞き、足代屋の主人今朝駕かきの傘を拾ひ帰りし事を告ぐる、それこそよき手掛りなりとて取寄せ見る所、尼庄との印あるゆゑ、役方より段々吟味の上、尼ヶ崎まで尋ねし所、彼地は傘も骨組等違ふよしにて、それより大坂を吟味の所、堂島に尼庄といふ者あれども、侠気ある男にて中々盗賊などすべき人柄にあらず、傘はいかにも尼庄の傘なれども、借傘とて諸所の者に借す事ゆゑ確と證拠とも成難し、誰に聞てもあの人に限り盗賊との疑ひは気の毒なりと有て、役方さへ遠慮してむざとは吟味さへ得せざりしとなり、其頃名うての浜の何某かれが宅へ行、借傘の事なれば若し誰にても借手の内心当りの者はあるまじくやと相談に行きしに、誠に迷惑なりとの返答に詮方なく帰らんとせし時、先づゆる〳〵となされよと挨拶して手水に立けるが、天命遁れがたき事にやありけん、裏口より迯んとするを表に待受たる役人支へしかば、いかにも盗賊は我なりと早く白状に及び、戸棚より金子を取出し、手下同類とてもなく、着物を着替〳〵酒食の上召捕れしとの事、誠に前後に類なき賊なりとて取沙汰よく、入牢も僅かの日にて引廻しのうへ打首となりしとなり、後に近付の者の噂に、翌日風呂屋にて加島屋へ盗賊入し噂を尼庄も共々してありしが、浜に傘の捨ありしが証拠となり吟味最中なりと聞て、其時尼庄はつとせしが顔色かはり其侭ついと帰りしが、扨は其時始ておもひ当りしゆゑなるべしと、又尼庄常々北の新地にて茶屋遊びの節、馴染の芸子共いつにても暗三重の三絃をひけば、直に頬冠り尻からげにてお頭首尾はコリヤシイと俄狂言を一芸のやうにせしが、跡にて思へば盗賊持前なればさもあるべしなど取沙汰して、賊ながらさせる悪事せし事を聞かねば惜しみしとぞ、其頃京と大坂の狂歌問答に京より三千両の藤田大助と云へば、大坂より五千両の加島庄九郎と贈答の句ありけり、此尼庄を淀屋新兵衛とせしより、後々は淀屋の狂言と混ずるものも多かるべしと爰に演る者なり、前に出せし復讐侠者の見立番付あるからは、盗賊の名高き者を見立番付も出そうなる者なり、熊坂長範・袴垂保輔を東西の大関として勘進元は石川五右衛門なるべし、中にも自来也は唐山の小説我来也より思ひもうけし作り物語なれば格外にして、日本左衛門・稲葉小僧・柿木金助・暁星右衛門・玄海灘右衛門など小説稗史歌舞妓浄瑠璃に遺る名を拾ひ、近くは此尼庄大助・東都の鼠小僧などまで書集めなば、実に浜の真砂と共に尽る事あるまじ、是に継て番付に出すべき者は心中情死の見立なり、是又三都の浄瑠璃歌舞妓に遺るもの少なからず、元より是に位はあるまじく、世に名高きを土産として名の高からぬを末の段とせば見るに興あらん、是らはいらざる世話ともいふべけれど、著作道の一癖なれば思ひ出るにまかせて次に出す、笑ふべし〳〵
世に男女対死する事を心中とも情死とも云ひて、多くは父母の戒に逢て己が非の改め難きを悔るか、互志の叶はざるより起る所にして、戦国の砌には絶て聞かぬ事なり、又此太平の御代となりても遠国辺鄙には聞ぬ事にて、譬へたま〳〵有とも其所のみの噂にて都会の地まで沙汰に及ばざるかはしらねども、先人口に膾炙するは三都の者にかぎれり、是を世上には鈍根なる男よ、愚なる女よと弾指して笑ふ者もあれど、凡そ真実の情は死をもて験とするより切なるはなし、情死のもの志は殉死の者に似たり、然れど大道を暁りて真に仁義の眼を開かば、何ぞかゝる不正の死を慊とせん、故に天下には大道を示し給ひて殉死を禁ず、況や男女の対死をや、然るに其大道を明めずして只私情の向ふ所に切なる者、天理を私欲に昏まし、仁義を名利に害するに至る事、実に過て実を失ひ、正を欲して正を背き、信を邪路に守る事憐むに堪たり、是を譏る人は己が色に溺れざるを賢しとおもふべけれども、其薄情より忠孝の道も文武の芸も至所需る事有るべからず、云へば云はるゝとて人を謗り己が不実を顕す事恥をしらぬに似たり、渡り奉公する者の殉死を嘲り、遊女を欺て財を貪る人の対死を譏らんは、五十歩を以て百歩を笑ふには非して、百歩を以て五十歩を笑ふと云ふべし、情死せるも又契約の違ひしを怒り無理殺せるも実説を正さば種々あるべし、まづ誰彼と浮名立たる人名を時日新古に拘はらず云はゞ、椀久松山、彦三小吟、お俊伝兵衛、お夏清十郎、夕霧伊左衛門、三勝半七、お花半七、お初徳兵衛、お房徳兵衛、お万源五兵衛、おもと亀松、お三茂兵衛、お亀与兵衛、小万与作、お梅粂之助、揚巻助六、おきさ次郎兵衛、梅川忠兵衛、おさが嘉平次、お島市兵衛、吾妻与次兵衛、小女郎宗七、小春治兵衛、お千代半兵衛、お吉空月、お仲清七、お染久松、お七吉三、弥市お高、おらん源六、小紫権八、お染半九郎、小稲半兵衛、いろは新助、おその六三郎、梅川新七、おはん長右衛門、お駒才三郎、小糸佐七、小三金五郎、お賎文蔵、お菊幸助、花扇甚三、小女郎新兵衛、お妻八郎兵衛、八橋治郎左衛門、小菊半兵衛、錦木□三、尾上猪太八、浦里時次郎、なんど実に枚挙すべからず、猶委くは此程予が著述『当世栄花物語』に出す、好者は是を見給ふべし
俗に唐人殺と云ふ狂言は、明和元申年朝鮮人来朝して東武より帰路、浪華北の御堂を旅舘とする事定例なりとぞ、此時の通辞役人鈴木伝蔵なる者、道中にて正使五斉官を恨む事有て御堂に於て切害して迯過去、八町目寺町正徳寺の住持は知音なりとて暫しかくまはれ居たれど、御吟味厳しければ池田へ落けるを、終に捕はれ九条島竹林寺にて御仕置になりしとぞ、『鈴木物語』といへる写本に出たり、是を歌舞妓に潤色して長崎丸山細見図とも挙褌廓大通とも外題を呼て狂言今に遺れり、通辞香斉典蔵正使の名代となり相良の家来鈴木伝七に討るゝとし、清徳寺に匿はると仕組めり、後漢人手管始と云ふ増補狂言あり、寛政八辰年の春角の芝居にてけいせい花大湊と云る狂言は伝七〔中山文七〕典蔵〔小六玉〕を殺し立退、典蔵跡にて西天草をくはへ蘇生する狂言なりしが、余り当らず、日数僅かの興行にて止けり
前編に云、真世話・気世話といふは心中情死男達の類なり、其中に角觝取行司等あり、是もすこしく爰に云はゞ、秋津島国右衛門、鬼嶽洞右衛門、木村庄九郎、岩川次郎吉、鉄ヶ嶽陀々右衛門、雷電源八、八十島吉平、千羽川吉兵衛、白藤源太、明石志賀之助、仁王仁太夫、早川又兵衛、姥吉兵衛、八岩源五郎、初花伝七、斧川大助、本町丸綱五郎、半時九郎平、濡髪長五郎、放駒長吉など是又数ふるに際限なかるべし、世話狂言にても角力取と男達とは紛れ易く、既に昔米万石通にて見る時は濡髪は角力取なれど放駒は角力取にあらず、大宝寺町米屋の忰にて所謂新町ぞめき、東都にて云ふ地廻りの喧嘩買なり、後双蝶々曲輪日記には早素人角力のやうに仕組めり、文化の始頃浪華日本橋詰宿屋にて、其頃の上取荒馬に意恨有てかたやの角力取大勢込入しを、荒馬の弟子九十六是を切殺せし喧嘩ありけり、直に竹田芝居にて関取千両幟の岩川鉄ヶ嶽の名を仮りて狂言にせし事あり、都て新奇の名を呼ばず、昔より在来りたる名を借るがゆゑ、稗史小説にも侠者の名を角力とし、角力の名を侍と作するがゆゑ、後々は混じて紛らはしくなるとしるべし、昔の侠者に達の小六と云ふ者有て、浄瑠璃にも関東小六東六法・関東小六丹前姿などゝ外題あり、六法丹前と云ふは江戸吉原旧御府内に有し頃、丹後侯の屋敷前に浮世風呂とて湯屋あり、爰に抱への女郎ありて此湯屋へ通ふが故丹前といふ、又六法とは長大小を十文字にさし双の手を振て歩行がゆゑ六法をふると云、其頃の侠者は是を達とせしとて専ら呼たる名なれど、今は廃りて前に男達の番付にさへもれたり、曲亭馬琴近頃『侠客伝』に舘の小六の事跡とて南朝北朝の頃に引直して出せり、かゝる浮たる人の名にも興廃有て丹波与作は伊達の与作と古く云も昔の侠客の名なるべし
近来講釈にて専ら読流行と見えて諸所に此外題を見る、二十巻の写本有て鶴本屋本之助・燈籠竹源蔵・白銀屋与左衛門と三人の者心ざしを異にして後、与左衛門は仕置にあひ、本之助は敵を討れ、源蔵は立身すると作り物語や実に有し事にや、其原はしらずといへども是を歌舞妓に仕組み、角の芝居にて寛政六寅年冬当世奇族撰と外題して鶴本屋(小六)、白銀屋(山村)、源蔵(新七)にて、序切桃園に義を結ぶ画面に准らへ此三人義を結ぶあり、玄徳に珉獅、張飛に山村、関羽に芙雀准らへの容となる所にて、初日芙雀金棒を青龍刀の様に持て見えとなる折誤て取落せしゆゑ、当世奇服撰と悪口を云はれて、僅かの日数にて狂言取置、其後再びこの狂言出ず、其頃の名人役者寄合ても人気に合はねば是非もなき物なり、此世話場に菅笠売戸田八と云ふ悪者小六、弟の前髪三五郎、隣の娘八百蔵、両人駈落をせんと相談しながら場のぐるりを廻るを兄の悪者付歩行き、両人を殺し心中なりと見せて、誠は若殿と姫君の身代とする場あり、此場を近頃煙管のらうやに直して外の狂言にはめ度々するなり、題に立し奇族撰は残らず、箇様な場が遺るとは是狂言の善悪によらず、世にあふ合はぬと云場所なるべし
明和八卯年正月竹本座にて近松半二が作妹脊山の浄瑠璃は古今の当り狂言となり、浄瑠璃歌舞妓共に年に一両度づゝはせぬ事なく見るに飽かぬ狂言也、此もとは寛保三亥年竹本座にて竹田出雲作入鹿大臣皇都諍と云ふ浄瑠璃より出たるなり、三の切大判事清澄の屋敷へ天智天皇の后釆女の方預り有り、清澄入鹿の疑ん事を恐れ膝行なりと作病す、入鹿釆女の首を討取れと鎌足を勅使に立る、鎌足是非なく仕へ居れど天智帝の忠臣なれば、贋首となり居る采女の首を見届るために、入鹿の乳人阿茶の局と云ふ老女を横目にす、此婆々聾なり、是能狂言の三人畸を取組たる趣向にて、鎌足清澄心中にて探りながら盲と躄が討か討て見せうとの詰合の内、局は聾ゆゑきよろりとして居て、此局は見分の役、贋か真か見届ると奥に入後清澄娘を身代りに討、鎌足は贋盲ゆゑ若し真の后を討しや身代りなりやと案じる時、敵役の局も作り聾にて、此姥は入鹿に乳を付たる折の娘にて入鹿とは乳兄弟、局の実の娘ゆゑ身代合点で持帰る、三の切なり、姓名は是より妹脊山の名を出したり、又元文五申年九月豊竹座の浄瑠璃に為永太郎兵衛作武烈天皇艤と云ふあり、大友狭手彦異国に行くべき勅を受け難波の津に汐待する、松浦佐用姫は美人の聞えあれば入内させんと家老何某預つて是も舟にて港に船懸りす、狭手彦とは元より云号なれば姫は狭手彦を慕ひ船より船へ石を投込、此時の文句に「何国よりかは水中に打込石は重けれど又あの石になり共なりたい」と恋慕ふ場有て太体文談は此間を遣へり、三の切妹脊山の場のもとは寛延四未年竹本座作者竹田外記役行者大峯桜三の切矢脊の場に倣へり、大友皇子を入鹿大臣、清見原天皇を天智天皇、村国庄司が妻浜荻を太宰後室貞高、千島之助を久我之助、秦の連友足を大判事清澄、娘初日を雛鳥と、都て矢脊の里を妹脊山とし川向ひに分たる趣向にして、右三つの狂言何れもおもしろき作意なれども、皆妹脊山の右に立つ事遠く外題さへ呼ぶ者なし、是も世にあふあはぬ時節なるべし
享和年間浪華浜芝居作者に近松柳と云ふ者妹脊山三の切を双蝶々に案じかへて、真中に淀川を隔とし上座を八幡、下座を山崎とし、八幡村は長五郎母と妹親子暮しの中へ長五郎人殺しの場所より落来る、跡より爺親甘酒屋仁右衛門来て長五郎に元服させ河内へ落す、山崎の方は長吉の乳母長吉を匿ひ居る姉お関来て是も長吉を落す場あり、狂言の間〳〵に向ふの堤を子役船頭にて三十石船を曳登る事有て、見渡しは気替りて大によけれど、妹脊山の如く両向ひより詞かはす事なく狂言別々となり残念なる仕組なり、妹脊山は雛鳥久我之助の色気有ていかなる大川を隔つとも其情は通ふなり、長吉長五郎は仮に兄弟分といふ計りにて色気なければ狂言堅づまり連続し難し、畢竟二幕か廻り道具にてすべき所を錺り付にてするなれば詮なし、此狂言の二幕目阿波座土橋立引の段は双蝶々元狂言昔米万石通の趣向より出て、長吉長五郎橋の上にて立引となり双方を詠めて親〔長五郎父甘酒屋)と姉〔長吉姉おせき〕が来るゆゑ、南無三邪魔が入た、やり過して跡の事と、両人橋杭を伝ひ下りて隠れ居る、向ふより姉おせき上手より甘酒や仁右衛門荷をかたげ、甘酒〳〵と売ながら出て橋の上にて顔見合せ、おせきは今仁右衛門の方へ行く所、よい所でお目に掛つたと云ふに、仁右衛門何用でござつたと、是より橋の上にて話となるを、橋杭に取付両人じつと聞居る、おせきは仁右衛門にむかひ、弟長吉は年も行かぬ者なれば立引に依て長五郎の方より誤て呉れでもよからうと頼に行く所と云ふ、仁右衛門我子の長五郎贔屓にて忰にはようあやまらすまい、何ぼうこなたの弟でもあまりあやかし過ると、長吉の不足をいひ出し、もとは仁右衛門の忰にて兄を長五郎、弟を長吉とて藁の上よりおせきの親搗米屋へ子にやつたに、義理を思ふて可愛がり甘う育てゝ下さるから、あのやうな我侭者になりましたと泣悲しんでの昔語を、両人聞て扨は我々は兄弟で有たかと始てがてんゆき、両人おづ〳〵橋の上へ出て誤る、姉と爺も恟りして扨は様子を聞たかと云へば、兄弟としらず諍ひし事を悔むゆゑ、途中ながら甘酒屋にて盃事有て、以後は兄弟せり合はぬかと怠状乞〔怠状乞不明〕する、何が扨誠の兄弟なればと云を姉と爺が云合せにて、兄弟といふたは嘘、両人に中直りさせんがため、元より近付の事ゆゑ拵事にて兄弟分の盃をさせる仕組なり、是は万石通の小野屋膏薬を甘酒屋に直したる筋なり、扨此狂言を先年江戸葺屋町芝居にて処々増補のうへ菜花蝶々色成穐と云ふ外題にて長五郎歌右衛門、長吉羽左衛門、おせき九蔵、仁右衛門三十郎にてさせ、弘化元辰年盆浪華中の芝居にて長吉片市、長五郎璃寛、おせき金作、仁右衛門大友にてもさせしが、何分色気薄く和らかみ少なければ残念なり、此兄弟なりと云ふ筋は、江島屋其磧・八文字自笑両作の『略平家都遷』と云ふあり、此中に松王児童病気にて宿へ下り、宇治の母の宅にて保養し快気ゆゑ興正寺へ詣る、同里に弥陀次郎と云ふ漁師の娘蓮葉此松王を見染め互に文を取かはし、まだ一つ寐はせねど談合ははやできたり、所に弥陀次郎は親の敵を討つ望みあり、其敵は兵庫築島の人柱に取こめられ敵討つ事叶はず、故に娘を白拍子にして清盛にさし上げ、其手筋より敵を申受んと拵て娘に告る、娘は松王に添んとおもふ心当違ひ忍びて松王が家に行き涙ながらに是を告る、松王の母奥より松王を呼ぶゆゑあはてゝ巨燵の内へ蓮葉をかくす内、母出て興正寺日参なれば早う参れと云ふゆゑ、巨燵に心を残しながら外面に出る向ふより見知らぬ女房一人来て内へ入ゆゑ何やらんと外に伺ふ、是蓮葉が母にて松王の母とは古き馴染の様子なり、絶て久敷挨拶有て、蓮葉を松王の嫁に貰はぬかと云に、松王の母腹をたてそれでは此世から畜生道へ落すのか、元松王は弥陀次郎より貰ひ子にて蓮葉とは兄弟なり、其兄弟をしらず互ひに文を取かはしてわりなき中となつたかならぬか、親々の身では浅猿しくそれで忍んで告に来しと、親々の物語を戸口と巨燵に立聞両人、扨は兄なり妹なりしらぬ事とて妹脊のかたらひ、あゝ浅猿し〳〵ようマア枕をかはさぬが互ひの身の仕合せと、愛着恋慕のきづな切れあせおし拭ふ計りなり、母と母とは涙を払ひ帰りし跡に、松王蓮葉顔見合すも恥かしく互ひに思ひ切たれば、蓮葉は内へ帰り仏御前と名を呼びて清盛の伽に行き、松王も全快したれば教経の傍小姓築島の人柱、大勢の命にかはり弥陀次郎の敵も討、仏は妓王妓女と共に嵯峨の庵に隠るゝまでを終とす、此兄弟も偽りにて二人に輪廻を切らさんがため、二親がかくれ居るとしつて昔話をする作意奇なり妙なり、彼蝶々も是に似たれど恋路ならねば情とゞかず、親子の情に愁ひを聞さんには孫でなくては愁ひこたへず、実に喜怒哀楽の四情に色情恩愛薄くてはならざるとしるべし、嗚呼穿てるかな自笑・其磧の才是等を狂言の種と云ふべし
東鑑の浄瑠璃は豊竹座にて並木丈助作、寛延元辰年七月十五日より始る、竹本座竹田出雲作の仮名手本忠臣蔵は寛延元辰年八月十四日より始れり、然れば同年にて一ケ月東鑑の方始はやく何れをまねば何れを似せるといふ事なけれど、御狩巻三の切鴫立沢朝比奈義秀住家の場と忠臣蔵九つ目山科の場とは地名と役名こそかはれども、一場の仕組狂言の趣向相同じとしるべし、先大星親子を一役として朝夷義秀なり、曽我の母万戸と娘片貝を一役としてお石なり、備前大藤内は加古川本蔵、妻の柳は戸奈瀬にて、娘乙女の前は小浪なり、大藤内の本名備前平四郎の流矢当り実父木曽義仲の敵は判官を抱留たる加古川本蔵におなじ、乙女は自害し小浪は死なぬのみの違ひにて心は皆おなじなり、此頃の両座(竹本豊竹)は前編にも演るごとく決して仕組の筋を隠し包て人に咄す事なければ互ひに始るまで知らん筈なし、され共かやうに似たゐ事も数百番の浄瑠璃に又珍らしからずや、小説稗史にも亦是に似たる事あり、文化年間浪華芝居司馬叟が遺稿の『長噺櫛』と云へるに呉服屋十兵衛木曽街道にて郷戸の亀四郎と云ふ盗賊に出逢、ひさま〴〵と難儀して玉の挿櫛を証拠に女に預くる小説出たり、同年東都より曲亭馬琴作にて『大岡仁政録』の内より抄出して、『青砥藤綱摸稜案』二編目蚕屋善吉護摩の灰鵜太郎に出逢ひ難儀に及び路銀を招婦お六おに預け証拠に古き櫛を受取る、是信州お六櫛の起源なりと書きたる小説出板す、是も云合すとなく符号したるなり、又歌舞妓にて二軒三軒同じ狂言を出す事あり、是は隣の芝居の狂言を聞て態と跡を追ふて張合に出す事なり、昔は是も行儀よく浪華にては浜芝居に狂言の世界極る時は、角・中の大歌舞妓座へ断り、若し歌舞妓に同じ世界の催しの時は差支あると云へば浜芝居より世界を取かへしものなり、角・中両座勿論互ひに問合せ、そちは足利世界ならば此方は源平とか双方得心のうへ差合ぬやうにし、又同じ世界、同じ狂言にて人気をよせんと合点にて張合ひし事も侭有りけり、挙て云はゞ天明二寅の春大願成就殿下茶屋・聚中[むらなか]連歌茶屋誉文台と同世界張合なり、文化五辰の春、角けいせい輝[いなずま]双紙、中けいせい品評林、文化十四丑春、角けいせい稚児淵、中児淵花白波、文政十亥春、角けいせい遊山桜、中けいせい遊山桜、文政十二丑春、角花雪歌清水、中新薄雪物語と是皆同じ世界にて少しづゞの増補はあれども同じ物を合点なり、此外合替に忠臣蔵やひらかな盛衰記など古浄瑠璃狂言或は切狂言、心中物など張合に出せし事度々あり、此沢山なる狂言の中にて同じ狂言を出すも何とやら不自由のものなり、或田舎の人忠臣蔵五つ目定九郎与一兵衛の早替りを見て、此大勢の役者のあるに殺す者も殺さるゝ者も独りにて世話しきめをして早替りをせずともの事なりとつぶやきしは金言なり、同じ狂言を出すもそれとおなじけれど、是も適には珍らしき心地ぞせらる
浄瑠璃文談の中に謡また端唄などを書入し物幾等もあり、云はゞ義仲勲功記三の切地蔵経、娘景清三の切謠、壇浦兜軍記三の切琴蕗組、阿波鳴戸順礼歌、大文字屋の題語、妹脊門松の御文章、伊勢物語の妹脊川など、浄瑠璃を語る時我得手〳〵の物有て真を諷ふ時、浄瑠璃と其曲はだ〳〵に成りて甚聞憎きものなり、是は浄瑠璃の謡、浄璃瑠の端唄、浄瑠璃の題語・御文章とて別に真の節を捨て気を放れて稽古するものなりと、故播磨の大掾予に咄されし事あり、一芸に達する人は仮初の物語りにも金玉の論を云はるゝ者なり、歌舞妓にても同じ事なり、少し茶を得たりとて舞台にて手前を本式にすれば舞台淋しく楽場より欠伸せらるべし、似事をすれば能物としるべし、前に云遊山桜を両座にてせし折、角の芝居にて木村亦蔵〔関三十郎俳名は奇山〕切腹の場にて法華の題語を遣ひ、是もよく諷ふ者を尋ねし所、町の軒付にてよく諷ふ者を抱へて楽屋にて諷はせし所、妙音にて中々芝居の歌諷等の及ぶべき者にあらず、日に何程の建銭と極め過分の給金を取らせ諷はせしが、初日に其場となり諷はせるに音声細く低くして舞台前までも声届かず、首のみ振つて唖の如し、張らんとする程声しぶりて、翌日より詮方なく湖出市十郎に諷はすれば、音は題語の骨髄ならね共張聞えて正面聾棧敷まで声通れり、是播磨の名言に叶ひ芝居は芝居の題語ならでは声届かず、いか程節がよくとも聞えぬ時は其詮なし、まして素人の旦那芸などは巨燵に臥して水練の稽古するにおなじければいと詮なき業なるべし、付て云、役者身振声色の連中とてよく夜分軒付に来り又酒席へも招かれて身振声色をする輩あり、昔の役者は皆口癖有て今に遺るあり、云はゞハレやくたいもないとは訥子(沢村宗十郎)、本にマア〳〵とは英子(祖小川吉太郎)、嗚呼つがもねいとは白猿(市川団十郎代々の詞)、本にヤレ〳〵は雷子(祖嵐三五郎)、おだてない〳〵は三笑(嵐三八)、如此の口癖有り物のまねは癖をよく取て次に身振をよく似せ、其上にて声色を遣へば音声は銘々にわかち有て、さまで似たる声にあらずともどこにか癖を取てよく似る者なり、先づ団蔵と云へば亀の如くして舌を頰の中へ入れて遣ひ、片岡は少しうつむき首を振つて遣ひ、鬼丸は顔を少し上めにし、大友は向ふ歯を噛出して遣ふなど、其頃はよく似たるを見聞しが、今時の役者に口癖なきはたしなみて云はぬ者か、声色にせる程の俳優もなきか、昔の役者と見競て巧拙何とも弁じがたし
前巻に演る大外題の事は一部の惣評にして猥りに付べき事ならず、既に古浄瑠璃に不解有り、享保十七子六月作者近松門左衛門、竹本座にて伊達染手綱とて上中下物出る、此外題付までは丹波与作と云ふ外題なり、既に忠臣蔵七つ目に由良之助「丹波与作が歌に」と云は外題をよんで「江戸三界に行んして」の歌を諷ふなり、是恋女房の元狂言にて上の巻重の井三吉子別れの段、中の巻白子屋の段、下の巻小万与作道行より銭かけ松の場までなり、此狂言古今珍らしき当りなりければ二十年後同座にて是に跡先を継足して吉田冠子・三好松洛両人の作にて、序は東山端の寮より下河原重の井与作不義あらはるゝ場、訴訟場より道成寺の張場、沓かけ坂の下まで前狂言をふやし、子別れの場は十段目となり十一段目別れの鐘の歌にあはせ江戸兵衛逸平立廻りの場を大切として、恋女房染分手綱と外題を賦しけり、是もおなじく当り浄瑠璃とは成りたれど、恋女房と染分手綱と連続せず、伊達の与作は馬士なるゆゑ伊達染手綱と付るは妙なり、恋女房に染分とは解せず、又妹脊山婦女庭訓と云ふも重復にて、妹脊山にて陰陽首尾したるを女庭訓と断りしも何とやら叮嚀過たり、されば故名人の作者達にもかゝる外題あれば、今時の外題に誤りは有うちの事なるべけれど、前々の編にも演るごとく、一日の新狂言を作する事絶てなければ、古き外題を借て遣ふたる物にて、新外題を付る時には、上本と唱へて草稿をまず作者誰彼と書て公儀へ願ひ、差障りのなきや改めを乞ふて、本下りての上興行する事定例なりしに、近来作者たる者なく、上本なくても納る事と見え、作者なくて役者狂言方と申合せて埓もなき外題を付て看板に出す事とはなりけり、嗚呼嘆かはしきかな、皆芸道の衰へより起るか、『拾遺』に云、江戸三座の外題のごとく、五性の相剋にて付るが故、近来江戸外題に、後に其侭【本ノマヽ】付る外題なく、けしからぬ誣言文字の外題多く付、仮名なくては何とも読兼る外題多し、江戸役者浪華へ来ても江戸の癖付て、外題は何と付てもよいものと心得しは情なし、東都にて近来の外題を一々難論せしを、彼地の友よりおくられたれば爰に略して浪華の一二を出す、天保十一子年八月角の芝居にて青砥藤綱と筑紫権六と書入たる狂言の外題に大湊恋の■*22当とせしは何の世界か分らず、■*22当と書て白波と読せる事何の心やらん、天保十三寅年春角にてけいせい桜城砦[さくらのぢんだて]とあるは古き外題にて、大内尼子の世界なるを遊山桜の外題に心なく遣ひしはまだしも、此角外題に朝山の木々に色増す桜花谷間〳〵の雁雲は芝に降つむ銀世界と書たるは、狂言の筋やら何のたはことやら分らず、畢竟朝鮮征伐後の狂言なれば唐人の寝言とも云はんか、嘉永元申年中の春けいせい曽我鎌倉■*23[だいじん]是は又論外なる外題の付ざまかな、金扁に集ると書て大尽との付仮名は論なし、曽我と云へば鎌倉に及ばず、けいせいと有るに大尽と書ずともしれたる事、是よりは唯曽我のよせ物とすれば心よく聞えて難あるまじ、二の替りにてけいせいと上に置きたくば「けいせい曽我集」にて事足るべし、訳もなき文字を書並べ角外題・割外題に何を書しか、皆書ずとものことばかりにて是を外題とは云ふべからず、当時こそ曽我の世界を歓ばねど、以前浄瑠璃にて種々の作有て曽我の外題といへば根元曽我物語・元服曽我・夜討曽我・小袖曽我・世継曽我・本領曽我、団扇曽我は数日興行せしと有て、後百日曽我と呼たり、本海道虎石・曽我五人兄弟・大磯虎稚物語・曽我扇八景・曽我虎石磨・曽我会稽山・工藤左衛門富士日記・江戸桜愛敬曽我・富士日記菖蒲刀・傾城富士嶽・曽我三部経・富貴曽我・御前曽我姿富士・記録曽我・王笄髷[かうがいわげ]曽我錦几帳・赤沢山伊藤伝記・曽我昔見台・東鑑御狩巻・けいせい扇富士・箪始いろは曽我・加増曽我・河津相撲意恨【本ノママ】・大曽我富士牧狩・蛭小島武勇問答・右大将鎌倉日記なと挙て数ふべからす、又大歌舞妓にも会稽富士偀[ほまれ]・建久四年五月二十八日・三国一裾野紋日・荒事江戸画曽我・粧倭画曽我・八百屋万誓曽我・大都会見取曽我などあり、江戸は三座とも例年春毎に曽我をすれば色々の外題を賦す、江戸の事は云はず京摂の歌舞妓浄瑠璃は表号[げだい]にて一日の趣向をしらせるが外題也、故に無学文盲の族が賦すべき者にあらず、能く古外題を覚え居て付すべき者なり、けいせいと置けば浪華の二の替り外題となると心得るは、俳諧発句に初心の輩詞の終りにけりかなと付くれば句になるものと心得し輩と同日の論なり、外題は文字数多き程狂言の大意をよく聞かせる者なり、二の替りにけいせいと置けば跡に三字か多くて五字にて其世界をしらす者なれば余程手際なる物なり、陸玉川と三字にて仙台をしらせ、黄金鱐にて尾州を聞かせるを大外題とは云ふなり、此九月、中の外題花街摸様劇の稲妻是又重復にて連続せず、是を外題にせんとおもはゞ「麗[はで]摸様劇場稲妻」とすれば難なかるべし、以前に伊達競阿国戯場と賦したるあり、是は仙台萩と累と混じたれば伊達は容を云て戯場は題なり、花街摸様と置く時は此中に廓あり、扨下に歌舞妓と置ば廓と芝居と居所二つとなり、劇の一字にて歌舞妓とは読めず、花街摸様劇[さともやうたはれ]の稲妻とより詠べからず、是を外題と思ふ心根こそ悲しけれ、京顔見世に鬼一法眼三の口切と御所桜三の切と一つに寄せ英傑三略巻との外題は何事ぞや、別々に外題を書ぐべきこそ有体にてよけれ、義経牛若の頃の狂言と堀川夜討の狂言と数年隔たりし事を、誰有て此外題を付らるべ き、弁慶の事は外題に見えず其上かゝる古狂言の見取に狂言作者としるせし者多く、何を作して名を出すや片腹いたし、其上にも田舎より出たるか大作司と云ふあり、何を以てかゝる名を出すや言語同断の事也、此頃来春の看板出たりと聞て外題を聞くに、角は姫競二葉画双紙とてもと浜芝居にで小栗横山を残らず女形にじたる狂言の外題ゆゑ姫競とあるなり、歌舞妓にて寛政六寅の秋、角の芝居辰岡作洛陽菩薩池と云ふ狂言あり、小栗〔二代目嵐吉〕横山〔浅尾為十郎〕、太郎のあほう変じて謀反人になる仕組なりしを、是へ『画本小栗外伝』を加へて故奈河一泉書きたれど、外題は古外題双葉画双紙と迯たるは公儀上本ならざる浜芝居にてせしゆゑなり、昔はかく作法を守りたる物なるを、若太夫に岩見重太郎と云ふ外題出しとの事、是又法外なる事にて新外題甚いぶかし、され共右に云ふ如く歌舞妓にすら法に背くゆゑ、浜芝居はいよ〳〵以て事しる者はなきと笑ひすてんより仕方なし、扨も中の芝居に遊山桜へ乳貰ひと愛護稚の関取を集し画面にてけいせい清船諷とやら外題出しときく、ます〳〵惘れて予も暫し絶倒したり、此加藤毒酒の狂言のもとは浄瑠璃にて萠生飛騨守朝清と作り名して、世界を小田の幼君北畠の名君とし、灘右衛門の本名を五斗兵衛、四の切は佐々木高綱の場何か時代は取しめたる事もなく出して見たる者なり、それさへ外題を八陣守護城と賦しけり、八陣は加藤に限らぬ事勿論なり、唯肥後の本城を守護城と呼て云ば地口にて聞せたる者なり、遊山桜も阿蘇が嶽を遊山ともぢりて賦したるなり、故人作者は遠慮有て深切に外題を付る事感ずべし、以前東都にで海老蔵八陣の加藤閣の場にさまで狂言なきゆゑ、狭間合戦の官兵衛になる趣向を予に誂へたり、予直に筆を採て草稿なれり、毒酒の場にて鞠川玄蕃は雛衣に惚て抱付折腹帯をしめ居るゆゑ不義者也と云ふを、春雄科をゆるして主計之助と夫婦とし仲立して毒酒を飲すと増補せり(鞠川は八平次、雛衣は重の井、主計は与作と恋女房に似たり)、扨船の内は八陣の通り雛衣懐胎して居るか居ぬかと云ふ丈の違ひなり、閣の場にては雛衣安産して母に子を育てさせ、百日の物忌に父の傍に助抱の役千島冠者灘右衛門も入込すみ閣に道具かはつてより、主計之助は犬清の役となり父の悪事に切腹す、我強き朝清刀を振上る母と嫁是を支へる、灘右衛門出て抱子をさしつける、朝清始て孫の顔を見て嗚呼いゝ子僧めだなアと官兵衛となり、灘右衛門は久吉役となるに仕組めり、此時の役割は加藤に海老蔵、五斗に団十郎〔八代目〕灘右衛門に多見蔵、冠者に薪水、雛衣に栄三、加藤妻に常世、外題は守護瓢戯場八陣と賦し角外題に題目の籏印蛇目の楯板とせしを白猿戯に大■*25蛇■*25と誣[こじ]つけてはいかにと云たるが、其時二ケ町〔堺町・葺や町〕焼失して惜むべし画餅とは成りけり、然るに清の船諷は先年文政亥春遊山桜にて焼たるゆゑ、今度は清めてする心か清正の清に歌右衛門の歌の心にて賦せしかしらねど、船の場にて具足櫃に忍びの者居るゆゑ討取て、清めの船歌うたへ〳〵とて血汐の穢れを清めるためなり、さなくば御座船は元より清めあるべし、此狂言を見たる者こそ加藤の辞なりと思へども、始ての者には解まじ、詞によりて外題を付れば「心底憎鞠川玄蕃」、「詠麗湖絶景」[はでうらゝかなながめぢやなあ]なども外題になるべしと腹を抱へん、此度アメリカの船の噂高く又浪華に清正公大神義と云ふ紛しき木像も有しにや、所詮それらの汚名を清めの船歌にやあらんと道理を付て笑ひ捨たり、嗚呼痴なるかな
■*22
■*23
■*25
西沢文庫伝奇作書付録中の巻終
西沢文庫伝奇作書後集下の巻
西沢綺語堂李叟著
元禄六酉年春出板の書『雨夜の三盃機嫌』三冊は作者垂羅軒無轍其頃男色盛に行はれ此野郎界に遊び嵯峨山の麓へ追やられ弱隠居の身となる其友木笛庵痩牛庵を訪て轍牛の書たる三都の女形に賛をなし肖像を画きたる次に立役の賛をせし書有り是や水道一盃難波一盃白河一盃此三水を飲むが如しと三盃機嫌と題し梓にのぼすと痩牛が序あり今まで百五十八年にもなる古き役者共の名を聞さへもをかしければ其目録の名のみを爰に拾ふ者なり
水木龍之助 桜山林之助 谷島主水
宮崎式部 岩井平次郎 玉川半太夫
沢村小伝次 山下才三郎 玉川三弥
音羽勝之丞 吉沢菖蒲 今村半之助
竹中正太夫 村上竹之丞 竹島林之丞
近松勘之助 袖崎政之助 中村数馬
袖崎色葉 市川団之丞 玉村艶之助
松本類之助 勝山与之丞 桂山式部
松島半弥 筒井専太郎 上村井筒
岸田小才次 露浪千寿 吉川一弥
玉村浅之丞 櫻若小山二 外山千之助
三津島藻塩 袖崎歌流 坂田藤九郎
山村吉三郎 鈴木平七 藤田大次郎
小野川宇源太 松本兵蔵 山中勘太郎
市川香織 荻野左馬之丞
右四十四人各画あり賛あり是より立役は賛ばかりにて肖像なし
坂田藤十郎 山下半右衛門 市川団十郎
竹島幸左衛門 大和屋甚兵衛 宮島伝吉
鈴木卒左衛門 荒木与次兵衛 西国兵五郎
村上平十郎 中村七三郎 斧山宇治右衛門
柴崎林左衛門 中村伝九郎 南北左部
小勘太郎吉 杉山勘左衛門 今嵐三右衛門
岩井半四郎 市村四郎次 竹中藤三郎
藤本平十郎 西村弥平次 三国彦作
猿若三左衛門 仙台弥五七 小佐川十右衛門
村山平右衛門 永島磯右衛門 藤川武左衛門
古今新左衛門 佐渡島伝八 音羽次郎三郎
三原十太夫 山下又四郎 川島彦左衛門
右三十六人は立役の名なり彼金五郎の端唄に坂田藤十郎杉山勘左玉川半太夫の名はあれど大約廃して今纔に遺れり
坂田藤十郎の賛
我朝藤十唐荘周、突出天方口自由、加白傾城買倒体、揃成格外弥為遊
無轍既鼻垂遊西山行吟広沢顔色憔悴形容枯槁牧童見而問之曰此様非色男大臣何故至於斯無轍曰父母皆堅我独和一門皆下戸我独上戸是以見潦倒牧童曰推人不凝滞於物能与世推移親達皆堅何不為其作顔屈其腰一門皆醒何不語其楽而啜其分何故高灑深尽自追出為無轍曰我知之新押者必乗三枚肩新揃者必芥数両金安能以身之寛闊受一物之倹約者乎寧入此沢食於鯉鮒安能以破落理請艶世智異見乎牧童莞爾而笑扣牛而去乃歌曰四条之水呑兮可以遣吾銀四条橋渡今可以濯吾足遂去不復与言
忠臣蔵より後に増補狂言の内天河屋入牢の仕組種々あり、此実説『赤穂精義内侍所』(四十巻写本)にも有て、大坂三郷惣年寄天野屋利兵衛とて町人ながら古き家柄なり、然るに大石に頼まれ、彼夜討の道具を調へ江戸表へ出しけれども其鑓梯子職人に事かき、内本町上之町加賀守藤原の神力丸市左衛門と云ふ者へ蔵屋敷よりの頼まれ物とて絵図を渡して誂しを、鍛冶市左衛門より町奉行太田和泉守殿へ届けしゆゑ利兵衛には不審かゝり、細工は暫らく延引に及ぶべしと、先利兵衛を召れ御尋ねに、天野屋いかにとも答ふる事あたはず、唯家内の用心にもと我工夫にて誂へ候なりと陳じけるゆゑ弥々疑ひかゝり、元禄十五午年二月の始頃入牢となり家内御預けとなりしうへ、種々の拷問にかゝりし事は『義臣伝』に委し、元大坂三郷惣年寄の身分なれば諸所の屋敷へ出入用達もする家柄なれば、是程の道具を誂へしとて左程強き御吟味もあるまじき事ながら、此年より七ケ年前表町四丁目分銅屋借家に住し、軍学兵術の師範を表とし内心には及びなき謀逆を企てし畑野藤右衛門といふ浪人、鈴ケ森にて磔となりたる者あり、其徒なりとの御疑ひより後々は妻子まで入牢し種々珍らしき責苦にもかゝりけれど、彼夜討の沙汰大坂まで聞えし上ならでは白状せざりしとかや、実に大石のよく人を見立たる事感ずべし、其畑野藤右衛門の陰謀露顕せしは、俵屋治右衛門・糠屋伝兵衛の公事より起ると云ふ一話を爰に出す、大坂阿波座納屋町の町人俵屋治右衛門と云ふ糠問屋、身上千貫目計の商人なり、子二人あり惣領治郎助、次は娘なり、治右衛門召仕の下女に手を付け懐胎しけるゆゑ、家内の手前を恥て摂州平の村桐木町に糠屋伝兵衛と云ふ者、近郷の糠を買集て俵屋治右衛門方へ数年商ひ心易く出入しけるを、治右衛門内分にて頼み産代を付け下女を伝兵衛方へ預けけるに、臨月に男子を産み母は産後に相果ける、依て治右衛門出生の水子に養育代を付け伝兵衛に貰ひくれよと頼みしゆゑ、伝兵衛に子もなく幸ひ養子として治郎吉と名を付け育てける、其後俵屋方には惣領治郎助相果、治右衛門も半年余り過て病死しける故、家督相続の者なく、後家の指図にて娘の名前とし実体なる手代善右衛門代判して諸方を引受商売せしに、翌年娘も相果、後家も続いて死しければ、親類別家相談のうへ手代善右衛門数年の旧功あれば、名を治右衛門と改め家督相続しける時に、平野の糠屋伝兵衛思ひけるは、俵屋の妻子残らず相果他人の物となれり、治右衛門血筋といふは某が貰ひおきし治郎吉計なり、是を申立て俵屋へ対談に及びけれ共、治右衛門の存生中に聞かぬ事とて取合はず、依て伝兵衛は治郎吉に俵屋の跡式を継せんと願書を認め、御奉行松平玄蕃頭殿へ願ひし所、血脈なれば御裁判となり度々御吟味のうへ、血脈ありながら差置手代を家督に立し事、親類町内無念の様に思召れ、治右衛門首尾あしく負公事と見えしゆゑ、兼て聞及びし長町畑野藤左衛門〔前には藤右衛門とあり〕方へ行きて訴訟の事を頼みければ、藤左衛門聞て、此公事至つて六ヶ敷義なり、然れども金銀に厭ひなくば勝利掌にあらんと云ふ、治右衛門此公事に負る時は主家押領の沙汰に落ち人に面を合せがたし、金銀は何程にてもお望に任すべしといふに、畑野訴訟の案紙を認め此礼三百貫目なりと堅く約束しけるに、三度対決に及び果して治右衛門勝利を得約束通り畑野は三百貫目取けるとなり、糠屋伝兵衛は公事に負け平野の住居も成難く無念に思ひ、親子袖乞同前になり江戸へ下り町奉行川口摂津頭殿へ願ひに出ければ、大坂にて御裁許相済たる事ゆゑ再訴に及ばん事不届なりと御呵りを受ければ、親子御仕置になりても毛頭御恨とは存せずと、達て出訴に及びければ御評議の上俵屋治右衛門江戸表より御召となり、対決数度の上両方へ身上書をさし出す様仰付らる、糠屋よりは俵屋の身上千貫目計とあり、又治右衛門方よりは三百貫目と書上る、七百貫目の相違なれば早速大坂町奉行永見甲斐守殿へ申来り俵屋身上御吟味の所、古帳面には千貫目余と見え新帳の表には三百貫目余とあり、銀代物都合四百貫目にも足らざる事申送る、是に依て治右衛門召出され帳面と有金相違の御吟味となり拷問にかゝり、治右衛門包みがたく、大坂長町畑野藤左衛門を頼み訴状を認め貰ひ礼銀として三百貫目遣はせし由白状に及びければ、早速大坂へ申来り畑野藤左衛門召捕られ網乗物にて江戸へ下り厳しく御吟味にて、藤左衛門元は松山の浪人にて軍学兵術の師範をし、公事訴状を書き賃銀を取て渡世とし、彼三百貫目にて武具馬具を拵へ、兼て軍学に高慢し諸家の浪人を語らひ天下を一呑せん抔との工みにて、由井・丸橋等に似たる陰謀の由白状に及ぶ、依て鈴が森にて磔となり、俵屋治右衛門は御公儀を偽り横道を搆へしと有て身上残らず闕所となり三ケ津払ひ、糠屋伝兵衛は理分を得といへ共金銀のつる切て空しく流浪しける、されば畑野ゆゑに武具馬具の細工人もあまた掛り合にて難儀しける当座なれば、此以後町家より箇様の品誂へある時は内々にてしらすべしとの兼てお触ありしゆゑ、加賀守市左衛門後難を恐れ訴へしが、利兵衛に御疑ひ掛りさま〴〵の拷問にあひしは時の不幸と謂つべし、利兵衛は後京都に退隠して歿す、墓は大将軍地蔵院(俗に椿寺)中にあり、法正院空誉士斎善士と塔婆に記せり、是等を真の任侠とも賞すべし、近松半二作太平記忠臣講釈の九つ目牢屋の段、役人を石堂右馬之丞・薬師寺治郎左衛門とし鍛冶屋を堺宿屋町二【一カ】文字金房と呼び、儀兵衛を拷問の所にて先達て云ふごとく、新田義貞が家臣畑六郎左衛門が余類の諸武士をかたらひ歩行との風聞当地にも其内縁ある由と云ひ、師直塩冶の時代なれば畑野を畑六郎左衛門にしたるなど実に作者の用心とは是等の事を云ふなり、忠臣講釈の牢屋にて敵討を儀平夢見て寺岡の注進を聞き白状するに仕組、また泰平いろは行列大切牢屋の場は近藤源四郎仮にさんぴんの太助といへる小盗人となり入込て、娑婆の噺しをして聞かせよかしと、牢屋の科人共取廻して聞たがるより、鎌倉にて夜討を見たとの話をするより儀兵衛白状に及ぶ、誠はまだ本望は達せねども、一日も早く儀兵衛を出牢させんと大星の指図にて入込しと作せり、故人名作者はかゝる事にもよく穿鑿足り感ずべし
去ぬる天保十三寅年三月木挽町河原崎座にて市川海老蔵家の狂言十八番の内景清牢破の段一場出せしが其時計らず御咎を受け東都を払はれ翌卯年冬まで諸所に漂流の身なりしを幸ひと浪華角の芝居へ出勤の願ひ叶ひ浪華の住人となり舞台出勤八ケ年去嘉永二酉の冬御赦免を蒙り再び江戸表へ帰り彼地にて出勤せしは全く忰三升(八代目団十郎)の孝心と云古き優家め長と呼るゝ家なればなり此御赦免の噂以前より江戸にて粗聞しに依り予弘化四年末の冬東都冬籠の徒然に古き浄瑠璃を題として海老蔵赦免の時勤めよかしと赦免景清と云ふ口切二段を書き草稿のまゝ三升に呉れたり牢破の景清役にて謫せられたれば共裏を象り赦免景清とは賦したり牢破の景清の原は謡曲の春親を題とせし者にて青竹の牢屋体の内に鬢桶[かつらをけ]に腰かけ地髪を四方より紙撚にて釣手械足械にかへたるものなり是は又思ひもよらぬ仕組にて古風ながら珍らしからんと草稿のまゝ爰に出す所謂筋書にて役者は其時の座頭によれば記さず役名は畠山庄司治郎秩父重忠梅沢屋五郎兵衛(宿の主)飛脚庄六榛沢六郎本田治郎備前大藤内伊勢小京太(伊勢三郎の忰)同妻豊久野上総小市郎(景清の忰)同妻宮崎悪七兵衛景清此内景清親子は海老蔵団十郎小京太は九蔵の積りなり外の役名は其時の見合としるべし道具一面の旅籠屋の表のかゝり大礒宿梅沢屋綟張観音開の門口出女旅人を留居る上ルリ「所とて往来の人を松が枝に並ぶや梅の花笠を笑ひながらも引とむる客大磯の脇本陣梅沢屋が門口に招婦女が泊らんせ〳〵鎌倉江の島御見物なら泊らしやんせ暮から道はとまります爰で泊て足休めお立の勝手のよい様に教へまするが花の宿大赦参りの旅の衆とまらんせとぞ声かくる国々の道者共幾組となく立よれば亭主五郎兵衛立出ててい主江の島かけて鎌倉御見物の御方ならお泊りが御勝手ヤア御一所にお泊りなされませ旅人アヽ是々待てもらはう是から鎌倉へは二里余りと聞たに爰に泊るが勝手とはどうした物ぢやなていしゆオヽ遠方のお方は御存知ないが御尤此度御先祖のお弔らひに付非常の大赦行はれ牢者科人を残らずお助なさるゝ頼朝様の御仁政大赦の時は罪有も罪なきも鶴が岡のお庭を踏めば武運長久と申伝へ近国の人々夥しい鎌倉参り夜は足弱に怪我有ては大赦行はるゝ甲斐なしと申て鎌倉への這入口に御門が立て暮過よりお打なさるゝそれゆゑ此大磯の宿中は常に増して泊人の繁昌今宵は爰に一宿して明朝お立がお勝手でござりませう旅人ハテ尊いおとむらひ大赦の噂聞てきましたそんならこちらは爰に泊らう旅人おいらの組も一所に泊らう御亭主早う八つ立に頼みますていしゆなる程宜しうござりますサアかうお出でなさりませ「打連れ奥へ件ひ行く跡より来る夫婦づれ伊勢の小京太武盛は生国伊勢に引籠り親の敵の生死をば尋ね合して月重ね女房豊久野諸共に表間近くさしかゝ伊勢小田原にて聞たる梅沢屋とは此家よな頼まうぞ〳〵ていしゆハイ〳〵御用でござりますいせ和殿は此家の御亭主よな某は勢州より鎌倉へ参る者承れば鎌倉に大赦行はるゝに付夜中にかしこへ入がたきよし奇麗なる奥の間で一宿頼たしていしゆハイ〳〵奥の間と申ては最前丁度お前方と御同年な御夫婦連へ貸ましてござりますが此方にお断申口の間とおかはりなされて下さる様おたのみ申して見ませうマア〳〵是へお通りなされませそれ女子どもすそぎをもて来いよ「主は奥へ走り行暫く看て奥の間に休息の夫婦連日向の国の住人下総小市郎景忠父の生死をはかり兼女房宮崎召達て爰に一宿したりしが亭主が頼聞入て上総夫婦ともおかはり申サヽ是へ「襖おし明け立出ればこなたの夫婦気の毒顔色いせ先達てお休息のお坐敷見れば貴公にもお刀携へ給ふお方へ近頃是は無体のお願ひ豊久野それ〳〵唯今夫が申さるゝ通り女子連は互ひの事やはり其坐にござりませ上総是は御挨拶手前は夜の内に立まするゆゑ端近がかへつて勝手宮崎私共は願のある身人様のお気にかなふは願成就の基ゐ上総さうとも〳〵御遠慮なしにいざ〳〵是へ也と御意あるに御辞儀は不礼然らば御免下されう「然らば御免と入りかはる女同士は和らかに辞儀も会釈も笑ひ合ひ間のしきりも宵の間は襖も立ず是や此一河の縁の二夫婦積る咄にいつとなくむつまじくこそ見えにけれ亭主は奥より立出てていしゆ申伊勢のお侍さまお風呂おめしなされませいせ也マア此方よりは御両所から上総級イヤ此方はお先へ入りました其元お入なされませいせ然らば何女共草臥休めにとく〳〵入やれ豊くの左様ならお先へあなたがた御免なさりませ「解てほどくやかゝへ帯夫の詞に随ひて浴衣片手に入りにけり日向の待つく〴〵と打詠め上総ノウお侍御夫婦中のむつまじさ傍から見てもよい物なアいせハレ当付たそりやお互ひ御自分は日向の国とござるが御内証のお詞には何かお願ひのある由是から何国へお越しでござるな上総されば女が半分お咄し申たれば願ひの筋お咄し申さう元来手前の父は少し由緒ある侍某が五六歳の時科有て牢びたしとなられ母も相果成長の後父が生死の聞まほしく存じながら鎌倉武将の牢獄なれば心に任せず其内此女が縁にひかれ国許にのみをりし所お聞下され此度大赦行はれ多くの科人御免あるよし拙者が父も存命ならばお助にあはんと存じ万事を打捨筑紫の果より鎌倉へと心ざしてござります「語るに付て小京太は我も牢舎の其中に親の敵のあるものをとあやしみながらさあらぬ体いせハレそれはおめでたやシテ御親父の入牢は何年になりまするな上総サア拙者が六歳の時なれば今年が丁度二十ケ年に罷りなります「聞て小京太胸ぎつくり牢舎と云ひ年数と云ひ扨はきやつが父こそ我敵悪七兵衛景清と悟れども色にも出ずいせハレ〳〵中々の御事でござるよなう「詞すなほに云ひながら忽心隔てしは世に敷越の挨拶は是より嫌ふ始かや折から妻は風呂上り豊くのサアこちの人いざお入りなされませ「いふに夫も座を立て胸に折込敵の枝葉目をのこしてぞあゆみ入る敵の子細しらざれば小市郎は気も付ず宮崎もけんよなく小京妻に打向ひ上総最前御亭主の御挨拶に勢州の御方とやら承るはる〴〵の御夫婦連いかなる事でこざるな「しとやかに打とへば豊くのされば連合のをさない時父御は不意の死をなされ其事に付仇ある者の候ゆゑ其者の生死を尋ね恨申に下りますのでござります「それとは云はず浅はかに語れば共に宮崎が宮それは深い思召お前も御夫婦こちとも女夫親々舅の事ゆゑとは思ひ合たる御一宿でござりますなア上総アヽ是々あなたも嘸お草臥此方も明日はとく立つ積り早く休まうゆるりとお休みなされませい「もうお休みと会釈して合の襖を立切りし伊勢や日向の旅宿り旅は物うき身の労れ枕に夢をや結ぶうち伊勢の小京太武盛は風呂よりひそかに立戻り見れば妻ははや臥したり襖のひまよりさしのぞけば日向の国の夫婦共是も疲れに寝入りし様子打うなづいて勝手口いせ御亭主ていしゆハイ〳〵御用でござりますかいせちと聞たい事がある是へ〳〵「亭主をそつと呼まねきかたへによりし足音小声小市郎はまだ寝入らねばそろりと起て襖に耳聞共しらず亭主五郎兵衛亭主ハイ〳〵何事でござりますないせアヽ密に〳〵尋ぬる事余の儀にあらす此度の大赦行はるゝに付牢びたしとて久しく年へし者ありや噂はなきか何と〳〵亭主成程外の者は存じませぬが先年壇の浦での戦ひにも名の高い悪七兵衛景清と云ふ者二十年以前より今日までも土の牢に入ありしが今度の大赦に助るとて是のみ噂いたしまするいせ何悪七兵衛景清が存命とや「ハア有難しと喜ぶ体小市郎は猶爺親の無事を悦び手を合せあなたの空を伏拝み是天道のお蔭ぞと両方無事をいさめども命救ふと殺すとは裏表なる襖ごし小市は猶も耳よすれば小京太は近くよりいせシテ鎌倉への堅めの門はいよ〳〵明六つ前ならでは明ぬぢやまで亭主いかにも左様おあつらひの七つ立がよい時分もうお休みなされませ「いひ捨奥へ走しり入る小京太跡に立直り心そゞろの足ぶみに女房が枕につまづけばアイタ〳〵オヽいたやのと目をさまし豊くの是は扨何うろ〳〵夜の内にたつ者が今までなぜにお寝ならぬサア〳〵ちやつと休ましやんせいなア「引よせられて小京太もなよ竹なびく風情にて障子引立臥にけりこなたに独り小市郎敵討ともしらばこそ我父上を尋ねしは何者やらん不思議やと小首を傾け手を組で思ひわづらふ折からに走り来るは飛脚の正六門口からすたき声正六是五郎兵衛殿お宿にか五郎兵衛殿〳〵「聞より亭主出迎ひ亭主オヽ是は正六夜中にりゝしいなり何処へ何の用でいかしやる正六さればいのお上からの急御用で今から直に伊勢の国までいかねばならぬ内を出しなに火打を忘れたゆゑかりによりました「聞もけはしき詞のすゑ端近なれば小市郎立寄聞けばてい主の声ていしゆオヽそれは大儀な事幸ひ此に旅火打是を持てゆかつしやれぢやがそりやマア何たる御用ぢやなア正六サア世には珍らしい事がある物今度の大赦は皆科人残らずしらべて助かつたにソレ二十年前から牢舎になりて居る悪七兵衛景清と云ふつはもの伊勢の国の侍小京太といふ者のためには親の敵勝負をするか了簡するか小京太に逢ふまではたとへいかなる事あつても牢より外へは出すまいと是独りで埒が明かぬそれゆゑ伊勢まで小京太といふ男を呼びに行く早飛脚随分無事でさらばぢやぞ亭主オヽそれは御苦労早く戻りや正六皆にもよう云ふて下されや「おさらばとかけゆく跡の門口をしめて亭主も入にけり小市はハツと心付飛脚がいひし小京太とは必定隣の相客ならん打はなさんとは思ひしが上総イヤ〳〵もしも人違ひせば父を動くる妨ならんハテいかゞした物であらうな「心を砕き気を削りとツつおいつに思ひしが隣の客に足音を悟られじとや添臥の寝ての思案とまどろめばすき間もれくる風につれ宿屋行燈の灯もしめり跡はくらやみあやもなく旅の疲れや出にけん二間の四人諸共に今を盛りの寝入花しばらく時こそ移りけれ夜はふけてもう丑の時八つ立の道者共大戸ひらいて打むれ出で旅人アヽまだ夜は深いさうなぞ旅人然し是程ゆるりとしてよからう旅人ソレ〳〵早い位にいて方々と見物しませう旅人サア〳〵皆静に行ませうござれ〳〵「皆々連れていそぎ行く跡の大戸はやりばなし明には遠き夜嵐にひは〳〵さつと谺に合し大戸はどふと打当るひゞきにびつくり二間の女房共に驚き起上りそれともわかぬくらがりに何事かはと胸騒ぎよく寝入りたる夫を起し宮崎オヽあんどの灯がしめつたか豊くの今の音はありや何ぞ宮崎是小市郎殿豊くの是小京太殿両人起さんせ〳〵「はや起きたまへとゆり起し急に起せば双方が一度にむつくりむく起うつとりしたる有様に宮崎ゆだんのならぬ旅の空豊くのちやつと目をさましやんせいなア「女心の諸共に枕元なる二腰を夫にさしこみあなたもおしこみ両人マア灯をともしてきませうわいなア「いひ合せたるごとくにて二人は勝手へさぐりゆく猶くらやみに小京太小市郎性根はいかに立上り途に迷ひしか寐ほれしかそこともしらず入かはり宙を探り闇を蹴て正体もなき折からに女房〳〵は勝手よりともし火てらし手燭をば風にけさじとかゝげ出るあかりを見るより小京太が何思ひけん駈出すをすかさずとむる小市郎妻と妻とがさし出す手燭叩落して跡白浪夢か現か魂の飛が如くにと三重にて幕
一面鶴ケ岡段蔓の道具笹龍胆の紋付の幕東西に仮屋口出這入床几を直し半沢六郎本田次郎上下にて赦免の帳を持打裂股立の侍大勢扣へ時の太鼓にて幕明「誹謗の罪も誅せざれば良臣来り集る習ひ御先祖の御弔ひ仁徳潤ふ大赦の庭右大将頼朝の仰を受け畠山の庄司次郎秩父重忠鶴が岡の段かつらに場所を構へ多くの牢者科人を助けゆるせる慈悲万行民を恵の印かや検非使の役目半沢成清本田近経赦免の姓名見あらため半沢のう近経殿此度右幕下頼朝公御先祖の御弔とて此鶴が岡の社段に於て主君重忠に仰付けられ科人大赦行はれ拠なき重罪人は残し置き皆それ〴〵おゆるしあるは有難い儀でござらぬか本田半沢殿の仰の如く大赦御免の科人共残らず助かり出たるが今一両人残の内廿年前より土のへ牢こめ置し悪七兵衛景清かれは伊勢の三郎義盛が忰小京太が為に親の敵と名乗此者に出合ずば牢より出じと申に付伊勢飛脚を立つべき旨主人の仰貴殿計らひ申されしか半沢夜前直様立たせたれ共伊勢と申せば遠方なればどうで当月中には事済まい本田景清一人にて跡々の一両人も事済まじ両人ハテ気の毒千万な儀でござる「眉をひそむる折からに重門をおしひらき下司罷出侍牢に残りし悪七兵衛景清が忰日向の国の住人上総の小市郎と申者重忠公へ直訴申度旨願ひ候が如何計らひ申さんや「いふに両人聞届け御前へかくと申上る検非使の別当秩父の重忠兼て設けの御座の間に装束正しく立出たまひ重忠悪七兵衛景清が忰願ひとあれば父を迎ひに来りつらんかの伊勢の小京太とやらんは其身をねらふ敵と有て牢より出じと老気をはる幸ひかな日向へ下りし景清が忰とあらば爰にひかれて助かる心もおこるべし其者是へ通してよからう「かくと伝へて出来る日向の国の住人上総小市郎景忠と申上たる若男大磯宿よりむく起に出し心は白洲の庭いぎつくらふて畏りいせ恐れながら某は廿年前牢舎せし悪七兵衛景清が忰同名小市郎と申者此度大赦行はれ某が父も御助命あるよし悦び迎ひに参上せり父をお助けあほぎ願ひ奉る「詞工みにいひ上る重忠とくと聞し召し重忠汝忰といふによも偽はあるまじさりながら実景清が思ふ子細もあるなれば一応心腹を尋問ひ其後対面とげさすべし先々かしこに扣へてよからういせ何分よろしく願ひ上奉る「かたへに扣へる折からに又も取次走り出侍伊勢の国の住人小京太武盛と申者御訴訟有て参上仕つてござりまする重忠ホヽ割符を合すが如き小京太より訴訟とな是へ通せ侍畏つてござりまする「案内につれて出来る是も齢は若男おめる色なくあゆみより御前遙かに畏り上総某は伊勢の小京太武盛と申者此度牢に残りたる景清は父にて候三郎義盛が敵に紛れなし御上の罪科御免あらば由井が浜へ連参り尋常の勝負仕りたしあはれ此小京太に景清をたまはらばいか計の御厚恩有難く候はん「申上れば重忠も双方一度の願ひゆゑしばらく工夫したまふ内以前の待つか〳〵とあゆみ出で御前に向ひいせ多くの科人お助あり父景清計りをばおゆるしなきは大赦の妨はや〳〵忰小市郎に下し置れませうならば広大の御慈悲有難く候はんと「願へばあなたの侍が上総慈悲の道は隔なし親の敵を討果さば則慈悲万行景清は某へお渡しなされて下さりませう「すゝみ出ればこなたにもいせイヤ忰の某へ上総イヤ敵の拙者めへ両人下し置れば有難う存じまする「あらそひ願ふに重忠もあぐみ果させ給ひけり折こそあれ小京太が妻の豊くのかけ来り小市郎と名乗たる男の傍に走りより豊くのノウ小京太殿推量に違はす此処へ来たまふは親の敵の景清を申受るお願私が為にも舅の敵夫婦一所に討たんため伊勢からはる〴〵付したがひし自を見はなしたまふは胴欲でごさんすわいなア「詞の違ひに重忠公各不思議と見る所に夫は妻を突飛しいせヤアこな女は何のたはこと某は小京太でないぞ以前日向にて人と成りたる小市郎親長漬を迎ひにこそ来たれ敵討とは何の事そこきり〳〵と立されい「目に角立て呵り付取ても付かぬ挨拶に女房豊くのぎよつとして豊くのこはそも何をのたまふぞ現在敵を親といひ小京太といふ名をば小市郎とは何事でござんすぞへなア「いへどもきよろりと答へなく付ほなければ顔打詠め豊くのコリヤどうした事ぢやぞいなア「思案工夫の其内に又も来るは小市郎が女房宮崎小京太と名乗る男の姿見るよりも門内へかけ入つて宮崎ノウ小市郎殿父御のお迎ひに来るは一所の筈女房の此宮崎なぜふり捨て来やしやんしたヱヽ胴欲なお心ぢゃなア「半分云はせづはつたとねめ付け上総ヤイ〳〵こゝなうろたへ者今ぬかす景清は某が親の敵我は伊勢の小京太武盛といふ者取違ひたる馬鹿者め相手にならぬぞすさつてをれ「云ふに恟り女房宮崎宮崎てもけうとい小市郎殿いつの間にやら名をかへて現在爺御を敵とはそりや何でゝござんすそへなア「いぶかしそうに立よればこなたの女房猶あやしく豊くのノウそこなおかもじさま扨めんようなこちの夫も其通り小京太ぢやない小市郎ぢやと連添ふ女房の私にさへけんもほろゝの挨拶は狐が付たか気が違ふたか只事ではござんせぬ心を付けてごらうじませ「互ひに夫に取すがり豊くの是小京太殿女房の豊く野見しつてか宮崎是小市郎殿妻の宮崎見忘れてか両人性根を付て下さんせいなア「いへど夫は両人共振放して怒りの体豊くのくてもめんような此有様宮崎コリヤマアどうした事ぞへなア「どうした事と諸共に鷺を烏の夫婦中何を云ふてもあんがうのとりしめもなき風情なり豊久野しばし思案顔豊くのハァ思ひ出したノウ宮崎さまどうやらゆうべ一所に泊りし時何かはしらぬ響に恐れ宮崎お前もこちらも夫をば急にゆすり呼起しそれより駈出し二人の衆豊くの互ひに詞のてんでんはよう寝入たる其人を急に起せば魂が入かはるとやら云ひ伝ふ宮崎おまへの夫とこちの人一度に起した其魂もしや入違ひはせまいかいのう豊くのいかさま世に云ふれし事なれば有るまい事とも思はれず物はためしぢや宮崎お前もわしも共に夫の魂に両人詞をかはして見るのが近道「心付くより両人が互ひに夫を入かはり宮崎ノウこなたの心は小市郎殿かいせオヽいかにも豊くの是こな様が小京太殿か上総オヽいかにも豊くのいかにもなれどいかゞせんいかに心は夫でも互ひになれぬ顔かたち宮崎こつちの心がすまぬものうかつに傍へもよられぬしぎ両人コリヤマア何んとせうぞいなア「顔打守り跡しさり二人が二人を見合せて又立戻ればねめ付けて傍へもよせぬ其風情豊くのお前も宮崎お前も両人コリヤどうぢや「こは何とせん悲しやと涙の糸もむすぼれてさばき兼たる計り也重忠委しく聞し召し重忠天竺の離波多尊者は骸をぬきかへ唐土の華陀が療治は心の臓を入かへたる例もあれば女が詞もあゐまじきにあらず又あやしくも不思議なり元牢舎の景清は平家方にて名高き兵又殺されたる伊勢の三郎義盛は義経公の家来にて以前大仏供養の頃景清を擒となし又三郎は義経の恨を報はんと魚の鱗を目にはめ我君を覘ひしゆゑ男山にて捕子とし両人共君に敵たふ科人なれど主の恩を報ぜんための敵たいなれば忠心を感じたまひ幼少の忰共へは助命さぜ伊勢と日向へ追払ひ二人を一つ牢舎させしが双方劣らぬ強力にて須磨壇の浦の合戦の物語我君所望有し時両人更に辞するの色なく互ひに戦ひの有様を力に任せてせし折から日頃は懇意の中なれども源平と立別れ武勇を争ふは武士の習ひはづみを討つて景清が打たるこぶしの強かりけん伊勢はあへなく相果たりむざんなれども定業にや伊勢は其侭生かへらず景清は此鎌倉へ召かへし土の牢屋につながせども此度の大赦を幸ひ助けんものとは思へども景清よろこぶけしきもなく昔にかはらず我を張て相手の伊勢が忰を呼べといふに是非なくけふのしぎそれ聞付て二人が願ひ何れを何れと分けがたし所詮景清を呼出してのうへ先此所にて対面させよ半沢本田畏つてござりまする「本田半沢両人に咡きたまへば打うなづきやがて御前を立にけり程もあらせす警固の役人前後左右を取巻て連て出たる召人は慈悲に弱らぬ丈夫の筋骨悪七兵衛景清と人も見しらぬ牢びだし助けとあるに随ひて御前にこそ畏る重忠ヤア景清子細は本田半沢等に承り定てとくと会得すべし汝二十年前よりの牢舎なれば敵の忰又我忰にも幼少の時別れ見覚えまじ夫ともに見しりあるか真直に申聞せよ大藤内いかにも子細承り得心致し候へ共何れが忰何れが敵と拙者めも見分け難し定めて彼等が申詞に偽りは候まじコリヤ〳〵忰迎ひに来る志孝心の程過分々々いざ同道して立帰れ「しづ〳〵と居直れば小市郎と名乗りし若者嬉しげに立上りいせ也ハアヽ有難や忝や我孝心のとゞきしかいざ御同道仕らん「云ひさ乳傍ににぢりより刀すらりと抜はなしいせ敵景清覚えたか「唯一刀に切倒しすかさず上にのつかゝりとゞめをさせば各仰天敵と云ひしかたへの若者上総こはたばかられしか無念やな「刀引抜き切掛るをはつしと受る間もあらせず透間を覘ふ互ひのはげみ二人の女房は気をあせり寄付かたもなき所に重忠怒りの声はげしく重忠腫ヤア此所を何処と思ふぞ双方共にしづまらふぞ「しづまれやツとの御上意にはつと双方扣へしが敵と云ひし若者はじだんだふんで声をあげ上総チヱヽ残念や口をしや何をかくさん我こそは誠景清が忰の小市郎魂かはらず性根も乱れず親人をお迎ひにと大磯宿まで来たりし所敵小京太に出合ずば牢より出じと宣ふよし飛脚が詞に聞しゆゑ俄の大事と女に包み小京太と名乗来て父を助けんとおもひしに油断して眼前にやみ〳〵きやつが手に懸り御最期させしが無念やなア「歯噛をなせばこなたの若者につこと笑ひいせハテ天道は明らかな我こそ誠は伊勢の小京太その大磯で飛脚が詞は聞かねども何卒敵景清を討て亡父に手向んものと心ばかりはいそげどもよく〳〵思ひ見れば大赦は人の命を助る作法敵討と云はゞよも御免あるまじと態と忰小市郎と偽り本望とげて満足やなア「いふに豊久野いさみ立豊くのオヽお手柄〳〵そうした心と露しらずよしなき案じは鼻の先智恵まん〳〵な我夫「あふぎ立ればあなたの女房夫の本心聞くにつけ落付ながら眼前に舅を討した無念さは胸にせまれど夫婦共上を恐れて扣へ居る本望蓬げし小京太は重忠の御前に向ひいせ私の宿意を以て上の大赦を妨げる科のがれがたしいかやうとも御制法に行ひ下さるべし「覚悟の体に小市郎やがて御前に両手をさげ上総子細は唯今お聞の通り此場で彼等と勝負をば仰付られ下されうならば有難う存じまする「願へば重忠取上げ給はず重忠汝が願ひは復讐叶はぬ〳〵小京太は親の敵を討たる事孝の道順の道大赦には搆ひなし急ぎ古郷へ帰るるべし「仰せは身にも冥加にもあまりてハツと浮立つ夫婦いせ豊くのヱヽ有難う存じまする「唯有難しと一礼し行んとするを小市郎反打かけて立ふさがり上総ヤアお上におゆるし有とても某がゆるさぬ依枯贔負あるお捌き場所の恐れももう搆はぬいざこい小京太サア勝負〳〵「いざこいやツと抜放す是非に及ばず小京太も運は天なりサアこいと月たんきれんの太刀捌き女〳〵も身をかためすき間を覘ふ鵜の目鷹の目重忠も詮方つき重忠ヤアヤア半沢本田最前云ひ含めし科人にあれあの争ひをとめさせい本田半沢畏てござりまする「御錠と共に両人が伴ひ出る勇気の老人中に飛入左右へはたと当わくる又打かくる二人が刀老気を張て弓手馬手しつかと柄を握り詰め留るにあらでこはいかに左右に持たる刀を重ね己が首に引かけてエイと引たる弓手の肩うんと引たる馬手の肩属しゝむらかけてすつかと切り左右へはなしどつかとふし各是はとてんどうの思ひがけなき仕業なり重忠ふし議と詞をはげまし重忠是々景清何故この最期汝が命を助けんとさま〴〵心を砕きしに無足にするかなゝなんと「仰を聞くより小京太かけよりいせヤア景清は某が最前手に掛け申せしが今また此者を景清とは麁忽なる御一言「妻も驚く其風情小市夫婦も共々に上総景清と申者但しは二人候や「ふしん立れば重忠公莞爾と笑ひを含ませ給ひ重忠愚や汝等最前敵と忰と入変り何れを何れとわかたぬゆゑ以前調伏の科ある備前の大藤内を断ざいの牢舎申付しが命助るといひ含め面体見しらぬを幸ひ景清に仕立小京太に討したり是たばかるに似たれども天下の科人討取りしは親の敵討たるに百倍の高名又小市郎にはひそかに父景清を渡さんと思ひしにその間も待たぬ若気の狼籍はて残念至極やなア「最期を悔む仁者の詞四人の者は一度にハツと計りに感じ入る手負の景清起直り景清頼朝公の慈悲心を無に致せし一通り又両人が刀にて相果る子細憚ながら重忠殿にも若者共もよつく聞け仮にも最前汝等が敵忰と偽りて来りしは偽ならずそれが則誠の事と計りでは合点ゆくまじ元小京太が親伊勢の三郎義盛と某は同年にて源平両家と争ひなきうち兄弟の如く中睦じくいかなる事にや諸共に四十二の二つの子をもうけし時は其子に災難ありといへば妻にもかくし藁の上にて汝等二人を取替たり四人ヱヽヱヽヱイ景清サヽ驚は尤も〳〵其証拠は此両腰備前正常波の平互ひに刀を相添へ養子とし共に災をのがれんと思ひしに災難はのがれずして夫より源平鎬を削り戦果て二人共主君の恨を散ぜんと頼朝公を付覘ひ終に擒となりしかど二君に仕へる所存もなく都に牢舎の折からに合戦の咄を好まれ望む所と我々両人仕方ばなしの物語に三郎は我に殺され北鎌倉へ此身はひかれ土の牢にこめられて二十年の春秋は身のふけゆくを思はずして伊勢と日向に人となる子供が年をかぞへしぞや「肉身わけし因果さは我長命はいのらずして小京太が手にかゝり景清敵討たる手柄者運に叶ひし侍と誉させたく云はせたく助る命を助からず牢にいぢばる我心「子ゆゑのやみとしらざるか景清又小市郎は健気にも敵といひ寄り助る所存孝行とも過分とも我子といへど根が他人冥加の程も恐ろしく汝が刀は右の肩小京太は左の肩実父養父の敵をば一度に本望遂げさせしぞかならず親を討たと思はず敵を討たと勇んでくれそちらが代りに嫁たちはせめて舅といふてくれ六十年来我を張りし矢竹心もけふの今一時に打れし景清が身のなる果を推量せよ「推量せよと双方に引寄〳〵かたるにぞ宮崎はすがり付宮崎養子とあつても我為には舅御様豊くのイヤ自が夫こそ真実の親ともしらず討んと云ひし身の冥加「勿体なやと銘々が言訳涙両人の夫々は諸共に不孝をゆるして給はれと四人一度に臥しまろび消入ばかり泣しづむは七里が浜の夕風に浪打上る計なり重忠深く感じたまひ誠や麟麟も老ぬれば駑馬に劣ると平家の一門西海に沈みしより我君を敵と覘ふ上総の景清忠義の程を感じたまひ御味方申せよと是まで度々すゝむれどもいつかな聞入る所存も見えねば二十年来牢びたしと相成りしが今日只今肉身の忰に逢ひて我とわがさんげの上に相果るも立通したる梓弓誠の武士はかく有たし伊勢と日向に追払ひし二人の忰は今日の大赦に付てお搆なし今より我君に奉公せん心はなきや二人の心底いかに〳〵「いかに〳〵と慈愛の詞二人もかたち改めていせすりや親々の誤りにて二ケ国へ捨られし咎めもあり上総我々両人今日より頼朝公へ御召抱へ下されうとないせ願ふてもなき此身の仕合せ上総有難くお受申すでござりまする「喜びいさめば宮崎豊くのあゝ有がたやとふし拝む景清慈悲心身にこたへ景清アヽ有難や忝や二人の忰は惣追捕使頼朝公に奉公とや神か仏か重忠殿の御恩忘るなよ伊勢と日向に育ちしゆゑ国は隔てど心は隔てないで〳〵生涯放れぬやう兄弟の縁を結ばん二人が持し其刀とく〳〵是へ「いふに随ひ両腰を右と左にさし出せば其まゝ両方取かはし景清小京太が刀は小市郎小市の刀は小京太とかう取かへて渡す心は最前女原が云ひし疑ひ今でおもへば神の告コリヤ刀は武士の魂を入かゆれば一体分身兄弟同然「いせや日向の魂が入かはりしと末代の文句に残す我筐景清死だ跡でも中よくせよさらば〳〵「死る今はも丈夫の景清重忠ふびんと立寄たまひ重忠ホヽウ勇ましき武勇の魂今相果る際となり二人が忰の身の面目その身の武勇あらはす為め八島の浦の戦を物語て聞すべし「所望〳〵と有ければ眠る眼をくわつと見開き景清オヽ面白〳〵かく戦国に生れし身は其合戦の物語所望とあらば身の誉いで物語て聞せ申さん忰共も承り末世の手本にいたすべし「物語らんとどつかと座し景清いで其頃は元暦元年船と陸との戦ひに我先かけんと敵味方「はやり切れども深手のなやみ重忠始伊勢上総嫁子〳〵も立かゝり重忠思ひぞ出る壇の浦の其船軍今ははやいせ閻府に帰る生死の上総海山一度に震動して豊くの船よりは時の声宮崎陸には浪の楯重忠月に光るは兜の星の影「水や空そら行くも又浪のたてとの打合ひさしちがふる船軍の掛引浮つしづむづせし程に景清景清心に思ふやう判官なればとて鬼神にてもあらず命を捨ばやすかりなんと思ひ教経に最期の暇乞陸に上れば源氏の兵「あますまじとてかけ向ふ景清是を見て物々しやと夕日影に打物ひらめいて切で掛ればこらへずしてはむかひたる兵は四方へハツとぞ迯にけるのがさじと謡 いせさまふしやかた〳〵よ源平互ひに見るめも耻かし謡上総一人をとめん事はあんの打物小脇にかいこんで景清何がしは平家の侍悪七兵衛景清と謡名乗かけ〳〵手どりにせんとておふてゆく三尾の谷がきたりける甲の錣を取はづし〳〵二三度迯のびたれ共思ふ敵なればのがさじと飛かゝり甲を追取エイヤとひく程に錣は切れて此方にとまれば主はさきへ迯のびぬ遙に隔てゝ立帰り景清 謡去るにても汝おそろしや腕のつよさと云ひければ景清はみをのやが首の骨こそ強けれと笑ふて左右へのきにける昔忘れぬ物語「語る内にも血死期時はや目をねむるだんまつま二人が嫁の介抱にもうお別れかとなき出せば心乱るゝ小京太小市いせ上総けふ逢始の宮崎逢納め景清秩父の庄司重忠殿重忠悪七兵景清景清忰らば四人おさらば「今ぞ往生安楽と落入る玉や伊勢日向入かはりたる魂よばひ咄しを世々に残しける
是弘化四末年の冬東都浅草綺語堂に於て一時の戯に書たる草稿のまゝ爰に記し置く者なり
我祖父西沢一風翁の作にて享保十巳年三月三日より豊竹座の浄瑠璃にて今嘉永三戌年まで百二十六ヶ年となれり
付り〔楠帯刀正行・宇都宮公綱〕は〔智謀武勇〕を〔つばさとして九重にはうつ日本のほうわうけいせいの服にも時至つて色香うみ出す吉の桜〕
南北軍問答 作者 西沢一風 田中千柳
幷に〔左兵衛督直義・高武藤守師直〕は〔奸曲我慢〕を〔つばさとして九重にはうつかまくらのてんぐあかはたにまき込泣顔のまゆ作り仁智の六本杉〕
序詞孟子三子者の勇を論ず。北宮黝は子夏に似れり。孟施舎は曽子に似れり。二子の勇は血気より出強きに似て実はよわく。曽子の勇は仁義にもとづき柔なるに似てかへつてつよし。我日の本の天津君後醍醐天皇。北条高時入道の逆意をしづめ暫太平の代なつしも再び花の九重に色香争ふ梅桜ヲロシ春やむかしの春ならぬ楠判官正成延元元年の五月雨や。湊川の泡ときえ新田左中将義貞は北国の雪に武威を凍し。手を出す官軍もなかつしかは。位は光厳院太上天皇
此軍問答四の切は赤坂城にて楠正行父正成の追善を営むに、焼香の列は軍功に依て定むと恩智早瀬等の女房を始め家中の女房揃の場にて、女形多く出る狂言なり、此中に泣男杉本佐兵衛シテの場なり、
佐兵衛本名は大仏陸奥守の忰にて、楠家は君父北条の敵なれば間者となつて入込居るいと珍らしき趣向にて、世人しらざる事残念なる狂言なり、泣男は太平記等に有てよき筋なれど、浄瑠璃歌舞妓に脚色しものなく漸やく歌舞妓に安永四未年顔見せに角の芝居にて潔楠噺にあり、是は楠昔噺の宇都宮公綱と蘭奢待の妻鹿弥三郎を混じて作し、馬鹿と見せて後本心を明すよき役なり、目計花野吉野山には泣坊主とて敵役に仕組めり、此余に泣男の脚色見えず、此軍問答の杉本佐兵衡は実悪の役にて仕手の役なり、浄瑠璃歌舞妓に滑稽役にて名高き物草太郎是は古き物語物にある名なり、是を本名千の利休として十帖源氏に出せり、次に謡曲の狂言に見物左衛門と云ふ道外役あり、是も本名有て歌舞妓にては謀反人とせり、小栗判官車街道の横山太郎或は太閤記の世界に曽呂利新左衛門等なり、道外の侭にては役かろくよき役に成り難きゆゑ、底を立役か謀反人と仕組む、此道外がゝりの役を近来歌舞妓役者は好まず、早く本心をあらはしたがりて馬鹿にていく場も出る事を嫌ひ、始より作り馬鹿を見えすく仕手甚多く、皆芸道の拙きより発るなるべし、濡事やつし役も是におなじ、昔やつし役はいつまでも女に迷ひこなし和らかなれば、いつもやつし役のみをしても当りを取れり、坂田藤十郎の女郎買などの名誉は云ふに及ばす、元祖小川吉太郎・元祖嵐三五郎の頃までは座頭にてもやつし役ならば外の役をせず、其後段々人気さかしくなるに随ひ、ぴんとこな(梨園通言きつとせしやつし)流行事とはなりぬ、今や惣ぴんとこな計りにて真の濡事やつし役者を見ず、世の流弊なれば是非なしといふべし
浄瑠璃歌舞妓の狂言に遣ふ人名にも種々の仕組に出るあり。又事蹟ありとても狂言に遣はざる人あり、所謂西行・一休・定家・行成などを始あるは長明・兼好近くは俳諧師芭蕉なんど狂言に遣ふ事少なし、中にも西行は軍法富士見西行あり、一休は一休噺あり、爰に享保年間錦文流の作に西行法師墨染桜と云ふあり、此西行の役は佐藤則清とて北面の優男入内ときまりし姫君に思はれ、加茂の競馬の節不義あらはれ追放となり出家して西行と改め、富士の根方への道行有て、江口の君比丘尼と成り廻り合て口説の文句あり、西行をやつし役にせし事いと珍らしき心地す、又享保の末に田中千柳の作にて本朝檀特山と云ふあり、是は一休いまだ在俗の時の狂言にしてやはりやつし役なり、仕組おなじく宗純親王と云敵役の王子の仰を受て姫君に入内をすゝむる役目にたつ、姫君一休に惚れて競馬の桟敷にて不義の汚名を受け遁世して一休となる、もと宗純親王と一休と取替子にて、とゞは親王亡び一休の名を宗純と名乗る、此取かへ子は役行者大峰桜に大友皇子と役の小角と取替子におなじき仕組にて、都て墨染桜の西行をはめて檀特山の一休とする、三の切蜷川新左衛門敵討の場などは墨染桜の侭なり、元禄の末近松の作最明寺殿百人上﨟と云あり、是は北条時頼記の女鉢の木によく似て鎌倉着到の席に諸侯の女房達計りを具し時頼の御台所出座あり、経世は妻に馬の口綱をとらせ着到すると仕組めり、又近松の作に兼好法師物見車といふあり、是は塩冶判官の妻顔世の前に高の師直恋慕して侍従といへる女を仲立に頼む、侍従は兼好の弟子にて師直の手打にあひ、兼好の庵室へ侍従爺親衛士の又五郎娘の最期を悲しみ告来るなんど、徒然草の文を書入れたれど何れも世に行はれず、まして赤人・人丸なんど歌道に名高くても伝奇に遺らず、画道には名高きなれど反魂香に狩野元信、信郷記に狩野尚信等遣ひ有ても浮世又平の方世人よくしりて狂言になるならざるあり、まして宗祖の名智識の事蹟などは狂言に有て堅づまりて其宗徒ならでは喜ばず、戯場小説の作者の得意とする者は其伝奇詳かならざるもの、年月時代のわからざる物を題として、善人を悪人とし悪人を善人とし、時代に古今の相違有ども道々の対する者を集めて狂言の種とはなせり、思へばあやしき業なりかし
宝暦年間京師の町々へ塩商人長次郎と云ふ曲者有て達なる胸前垂をして売歩行しを、堂上方のやんごとなき姫君此男を垣間見たまひ、門前を売声のする度にお物見より透見し給ひ、後々は門内へ呼込み塩を求めさせ、浮世噺などをさせ此者に懸想ありける体を見て、塩売或夜忍び込み姫君を盗み出し、二条新地とか六波羅とかに己が住家あるまゝ姫君を連帰り、むさくろしき埴生の小屋に入置き心の侭になぐさみける、館にては姫君見えさせたまはねば密々に御吟味ある所、やう〳〵見当り段々の御理解にて姫君を帰せとあれども、我を其館の主とせんには帰すべし、さなくては金銭に拘はらず姫はいつかな帰さじとて傍若無人の挨拶に及びければ、堂上家にも詮方尽き、御所司より町奉行へお頼有て油断をはかり、終に曲者を召とらせられ無事に姫君を取かへし、其曲者は梟首にかゝりしといふ一奇談有りけり、明和四亥年の盆角の芝居にて歌舞妓狂言に取組み則外題を大坂日記塩長次郎と賦して其頃の立役藤川八蔵塩売の役をしけり、明和六丑年の冬竹本座浄瑠璃に近松半二作近江源氏先陣館に是を書込み、塩売長蔵本名三浦之助北条時姫の事に作れり、是より後は塩売長蔵は美男の立役のする事と心得れど、実は梟木にかゝりしかどわかしの科人なり、続編に云聚楽町梅渋売の由兵衛とおなじき大悪人なり、文政四巳年中の芝居にて二の替り狂言にけいせい廓島台と賦して塩の長蔵に嵐橘三郎、三好長慶に松本幸四郎、足利時代に取組しが、姫の役を岩井半四郎に見込書上しを、杜若姫の役を断りしゆゑ蓍を失ひ、さまで当りもなかりしはいと残り多き事にて有りけり
播州高砂の船頭徳兵衛は一とせ漂流して天竺に行き、年月立て無事に帰国し異名に天竺徳兵衛と呼る、是等は歌舞妓作者の得意とすべき物にて謀反人とせうとも善悪心の侭に遣へる名なり、既に天竺徳兵衛聞書往来と外題して古く狂言□はなしけり、大阪廻船問屋に桑名屋何某とて有り、其船頭に海上乗の妙を得し徳蔵と云ふ者、大晦日の夜は渡海の船を出さぬ習ひなるを、尤も拠ろなき急物にて船を沖に出す、船にあやかし付て、今宵をいつとおもふ又恐ろしきものはなきかと、問ふ、其答に大晦日合点なり、世に恐ろしき物は世渡りなり、其余に恐るゝ物天地の間になしと云ふ、海上のあやしみ此返答に消散せしとは古く人口に膾炙していつの世の人といふ事をしらず、明和八卯年春中の芝居にて桑名屋徳蔵入船噺と外題して並木正三作せしからは是より前の人なるべし、際限なき大千世界なれば昔より漂着せし船頭も多かるべく、海上乗の名誉の者も数多あるべきに、此二人の名のみ高きは所謂其名の徳蔵・徳兵衛なるべし、此余船頭にて名高き者は豊太閤朝鮮征伐の御時、肥前名護屋へ渡海の船頭与次兵衛、おんどの瀬戸にて難風に逢ひ船を破りし誤りとて切腹す、与次兵衛灘と異名は冠れども狂言にては遊山桜に敵役に作せり、元より拵へ事にはあれども、逆櫓の船頭の名に福島の松より呼て松右衛門とはよく思ひよせたりといふべし、矢口の渡の頓兵衛とはとんよく深きといふ心にて福内鬼外も名付けしなるべし、爰に一笑話あり、船頭の因みに出す
寛政三亥年の盆狂言角の芝居にて響灘入船噺と云ふ狂言あり、船頭五太夫に浅尾為十郎、娘の聟の為に湿気日和合点にて海上へ乗船し破船【渡海カ】させんと風雨を厭はず乗出す場は序切なり、近来濃紅葉小倉色紙に島の小平冶嵐吉三郎のせしは此狂言をはめたる物なり、其時奥山(浅尾為十郎)一体狂言の働き烈しく早切早立にも妙を得たる事自慢の心なれば、若き折沖中にて難船したるも度々見及び又船に乗合せ難風に逢ひたる事も覚えあれば、此五太夫役にて難風に逢ふたる重船頭の苦心をして見せんと、道具にも誂有て、船の段々波に当つて砕くる所をまのあたりにして見せしが、余り正写しにて見物も心に小凄く覚え、別して海上商売の者は縁起悪しきとて一向見物に来ず、其場すみし跡へは見物来る、奥山は船頭の骨髄をして見するを自慢にて、見物揃ひてからでなくては此幕を明けず、後後は評判高く見物まるで来ず成りけりと云ふ、是等は余り凝り過て人の好嫌ひをしらざる所なり、是に似たる話あり、寛政五丑年角の春狂言勝武革奴道成礎に尼が崎・武庫川などにて年々催ほす花火狼烟を舞台にして見せ、花道戸屋の内へ筒を向け打こめば五色の絹など向ふ桟処の上にあらはれ出る趣向なり、作者並木五瓶奇を好む癖ありて、朝四つ時とも思ふ頃、序切にて本鉄炮の音二三十も鳴らせば、舞台にてはいかなる事をするやらんと早く見物をよせる工にて有りしが、子持の見物は音に恐れて泣子を抱へ迯て出るなど騒動せり、是も一つ二つなれば我慢なれ共二三十も響く事ゆゑ甚不評にて纔の興行にてけいせい陸玉川とかはりたり、又此前年の二の替り中の芝居にて入間詞大名賢義序切は大友宗鱗の養子殿大友市正沢村宗十郎、江戸よりの帰り立にて本国へ初入部の狂言、此時の行列は古今に珍らしき程の美を尽し、惣座中表方は云ふに及ばす、日々本行列の雇ひ共多く、紀伊様の行列を学び花道舞台明地もなく並び見せんとの趣向にて、乗馬に事かきいつもの芝居の馬にては恰好あしきとて、馬屋にて毎日三疋を借り此行列に引出し所、小道具の馬とはかはり見えよければ日々乗馬を遣ひ居し所、或日畜生の事なれば舞台にて糞をしけり、そりや馬が糞をせしよと笑ひ出せば桟敷場の人々皆同音に笑ひしゆゑ、乗馬驚き刎出す、それにつれて乗替の馬も刎出し、舞台花道とも行列並びいて馬をどこへも引出すべき所なく大に騒動して、翌日より是に懲てやはり小道具の馬を遣ひしとなり、是も五瓶が戯れより出て此不覚を取りし事云ひ出しては笑ひしと、以前は仮初にもかゝる滑稽の笑談あり
浄瑠璃歌舞妓にも有て世に名高きは彫物師左甚五郎なり、此人紀伊国根来東坂本の産にて彫工の名人なり、天正年間根来の乱を避て城州伏見に移り、皇都の寺院及聚楽・桃山城内の欄間の彫物に名誉を遺し、伏見にて歿す、此門人に左宗心・左勝政等あり、飛騨の内匠とて古く呼るは一人の名にあらず、飛騨の国にはよき内匠代代多かりしゆゑ然か呼来る名にして、甚五郎は左利なれば左の異名をその侭に呼ぶものにて、後人飛騨の内匠と左甚五郎とを混じて思ふも多かり、何を見ても古き彫刻物を見れば甚五郎の作なりと云ふは、其名高かりければ時代の新古に拘はらず左の名を呼ぶは幸ひといふべし、是等は狂言作者には誠に勝手よき名にていつの時代にも用ひてさし障なし、当時専ら歌舞妓に物する九条の里にて傾城を見そめ、丹精をこらしお山人形を彫る、その人形働きて後主人の姫の身代りとなる、狂言の元は彼鍛冶屋仁蔵、島原の全盛吉野太夫を見そめ恋病となる、吉野是を聞憐みて仁蔵を呼入れ煩悩をはらさせしとの一話は其磧・自笑の頃の双紙にまゝあり、山崎与次兵衛寿門松の浄瑠璃にはなん与兵衛(難波屋与兵衛)藤屋吾妻に恋病ひと近松翁は作れり、此鍛冶屋仁蔵に思ひよせて甚五郎傾城を見そめ其姿を彫刻するに精神具はり働くと作り設けし者なり、
目貫彫に名高き後藤祐乗の名をかり後藤又兵衛基次の事を三位重衡の後藤兵衛盛長と三つを混じて義経腰越状の目貫師五斗兵衛を作り、心は朱買臣身貧しく妻に詈られ後出世して其妻悔むとの事蹟を作りし物なり、又大津絵の諷【祖カ】なりと云湯浅又兵衛世に浮世絵の鼻祖なりとて、浮世又平を土佐の将監の弟子とし、手水鉢に肖像を画けば抜通りし妙を感じて土佐の又平光興と改るなどは反魂香に近松翁の作せしより、今物しらぬ婦女子なんどは実説なりと思ふ者も多かり、小栗宗丹といへばけいせい花絵合といへる歌舞妓狂言に色悪方に作せしより悪人と心得、長谷部雲谷といへば何の狂言にても敵役に遣はれり、其人々の幸不幸なるべし、
鍛冶に名高きは三条小鍛冶宗近なり、彫工の甚五郎とおなじく何にても古き刀剣類を見れば小鍛冶宗近の作と云ふ、所謂祇園の薙刀鉾の長刀、又北越くさり山のくさりは数年経れども打ず、宗近の作と云、尤も謡曲に小鍛冶有て名高きゆゑ然いふは理りなれ共、鍛冶にも薙刀もくさりも鍛ふ事はなるまじくと思はるゝに、何を見ても宗近の作といふも又をかしからずや、宗近の狂言は神勅嫁入小鍛冶と云有り、刀鍛冶には古来名誉の人多けれども新薄雪物語の浄瑠璃に五郎兵衛正宗、来国俊団九郎と共に刀を鍛ひ、団九郎湯加減を見んとて右の腕を切落され左計りにて後に打をてんぼ正宗と云ふ事を作り込みしより此三人は名高し、是に似たる話は四代目河内守国助代々名鍛冶の家ながら幼くして父国助におくれ奥義をしらず、小林伊勢守国輝に鍛煉の術を学べども、湯加減の一大事は秘伝なればゆるさず、故に国輝に一人の娘あり、貌醜陋なるを乞受て国助妻となし年月立て妻にかたるは、汝をむかへて妻とする事かの湯加減の秘伝をしらんが為と心底を明かせしかば、妻も鍛工の娘なれば道に切なるを感じ、近日一刀を鍛煉して湯を渡さんとする時、我病気発せるよしを告げやらば取る物も取敢へず来るべし、其跡を伺ひたまはゞ湯加減をしらん事必定なりと、謀を極めて待所に、何某より命ぜられ刀剣鍛煉の事有て国助も合槌に行、やがて湯を渡さんとする時、国助が小僕走り来て家室急病発し絶入したまへりと告しかば、国輝大に驚き河内にも来れと云ひながら、側にありし一桶の水を湯船にどうと入て走り出たり、国助は謀破れ茫然たり、国輝は国助が家に至り見れば娘は尋常の体なれば子細を問ふに、国助も走り来たり夫婦詞を揃へてかの湯加滅の事をかたり、火急の期に臨んで業に切なる事を感じ其罪死に当れりと謝せしかば、国輝も父祖以来の知音といひ聟舅の間柄惜むべきならねど、古も是を窺ひ片臂を打落されたるもある物をと深く秘したれども、重々の深意を見届けたれば相伝せしむべしとて委しく伝へけるより後、国輝国助一双の名剣を鍛ひ出せるとぞ、是国助を国俊とし国輝を五郎兵衛正宗、娘をおれんとしててんぼ正宗を団九郎と作り設けたる者なり
宝永五子年竹本座の浄瑠璃に近松門左衛門作にて〔高野山女人堂〕心中万歳草と云ふあり、紙屋宿雑賀屋与次右衛門の娘お梅と南谷吉祥院の小性成田粂之助との心中あり、此道行に高野の名所々々を出してとゞは女人堂にて心中対死の所の文句にいと珍らしき文あり、都て最期の場に及んではいつも南無あみだ仏とはいへど、題目を唱へるも口拍子あしく、大約が念仏なるにまして陀羅尼などは色気すくなくて唱へる事なし、此高野計りは念仏題目は唱へず、いかゞあらんと見れば「夫婦親子一蓮のしめしの時刻のばされず、只今ぞと脇差抜胸におしあて、おんあぼきやべいろしやのまかもだらまにはんどましんばらはりたやウンと突こむ、切先の肝に当ればのりかへりはりたやウンとくり通すあうん息もきえ〴〵とのツつかへしつ苦しむ声〔下略〕」此浄瑠璃今嘉永三戌年まで百四十三年となれど昔も是らは作者の穿とやいふべし
寛永年間六条柳の馬場より当時の島原へ廓の引けたる頃廓中に青葉と云へる女郎あり、余り繁昌もせず借金年々に嵩むを愁ひ、座都何都[いち]とか云ふ盲人と契り心中をせんと謀る、盲人も青葉が手管にのせられ或夜廓を抜出て樫木原より丹波路さして両人とも落行しが、途中にて青葉の心底かはり、かゝる盲人と死ん事このましからず、と云て今更変改もならずと何となく街道ならぬ山道へ連れ行、情なくも盲人を独り捨置て其身は廓へ帰り、何しらぬ体にて勤め居りしとぞ、盲人はかゝる事とはしらざれば、青葉〳〵と呼かくれども答へなければ終夜尋ね迷ひ、とかくする内夜も明たれば里人に道を問ひからうじて廓に帰り青葉の事を聞くに、勤居るとの事、元より表むきに連立出たるにあらねば、恨もいはれず、其薄情を唱歌に述、自ら手を付け絃諷ふたる青葉の唱歌なりとぞ、「こは情なの仕業やな、さのみ人にはつらからで悲しみの涙眼にさへぎりて、西も東も白波のよるべ定めぬうたかたの、いつそ浪とも消もせで、こがれこがるゝ身の行衛、青葉〳〵と呼べども浜のはまの松風音ばかり、松風浜のはまの松風音ばかり、そよと計りの便もがなと、恨み嘆くぞあはれなる」と恨の唱歌明らかなり、廓中に諷ひはやりしかば、女聞づらくやありけん亡命して行方をしらずと、此一話予幼き頃好人より聞けり、依て梅玉に此事を話したり、文政五午年の盆角の芝居にて恋女房染分手綱にて鷺坂左内・竹村定之進・座頭慶政・お乳の人重の井・比糖の八蔵、五役歌右衛門(梅玉)勤しが、慶政役にていつもは虫の音を諷ふ所を青葉に諷ひかへたり、其場の移り甚だよしと悦びける、名人役者はかく聞く事〳〵に捨ず用ふる所感ずべき事にあらずや
西沢文庫伝奇作書付録 下の巻終
西沢文庫伝奇作書 後集 上の巻
西沢綺語堂李叟著
| 《大歌舞妓戯場
三番叟之図
狂言の種に蒔たる鈴菜かな 綺語堂李叟》 |
| 《二の替り脇狂言花盗人之図
物いはぬ唇おかし春の風 大坂太左衛門》 | | 《京摂脇狂言炮■*06売之図
ほうろくのわれぬ日はなし花の春
塩屋九良右衛門》 ■*06 |
| 《中村座脇狂言酒呑童子之図
造り独活舌打してぞ味ひぬ
中村舞鶴》 | | 《森田座脇狂言甲子待之図
正本の蔵びらきせよ初子待 森田勘弥》 |
| 《市村座脇狂言七福神之図
なかぎ代にその名広ごれ春の水
市村家橘》 | | |
毎朝明六つの矢倉太鼓を打切れば三番叟初る、是に次て狂言の大序までの内に勤るを脇狂言と云ふ、囃子鳴物は太鼓・鉦・甲太鼓のみにて、二の替りには花盗人、前に図を出す通り盗人・大尽・酢口三人にて各無言仕方ばかりにて京師壬生地蔵堂の狂言の通りなり、次に炮■*06売・大名・羯鼓売三人、図は前の如く是は壬生狂言とは違ひ詞あり、此余地蔵祭・川渡・寺子屋・聟入・米盗人【未盗人カ不明】・奴駕籠舁等京師千本閻魔堂の狂言の如く数番ありといへども今は二の替りの花盗人のみかはらず、跡は大体炮■*06売にてすませる事とはなりぬ
■*06
江戸三座は四季に変らず狂言は其家々にあり、是も朝三番叟を番立と唱へ続いて脇狂言なり、中村座(勘三郎舞鶴)酒呑童子、市村座(羽左衛門家橘)七福神、森田座(勘弥当時河原崎也)長者開・甲子待共前に出る図の如し、是にも往昔は替り狂言ありて炮■*06聟・竹生島・寿大社・那須与市馬揃・寿二人猩々等あれども当時廃りて右図に出せる三番のみ勤る事なり、浄瑠璃歌の文句古雅なるゆゑ爰に出す、
■*06
貞光にて暫の役を勤めし時の句に、暫くは碓井嶺の春寒し七代目白猿将門冠初雪と云ふ江戸昔狂言の第一番目の三建目に加藤兵衛重光市川団十郎中村座にて〔荘子論語〕の編、暫のつらね団十郎自作の文に曰く、東雲南山に横たはれば西鳥塒を出るとかや、又北海に大魚あり此魚化して鳥と成る名付けて是を大鵬と呼ぶ、水檕桟敷切落中の間引船鼠木戸チイタチよりのお目見えは、云はずと御存知四年ぶり四国を廻つて猿若が、花の顔見世今日霜月の〳〵団十郎御所記【一本化に作る】の言伝も、まめで御無事で御取立立ば芍薬ト、すりや牡丹あるき姿はしんぞ、鬼百合鬼若衆鬼振廻の献立には敵討のこくしやうに、実悪の煮氷[にこごり]麁飯をくらひ酒を呑、うでをもつて枕とす、楽しみしんぞ新参者、死生命あり富貴天生むてつぱち此人にして向ふ見ず、学て時々首を抜く亦楽しからずや、三舛にして立五十にして天幸を知るとかや、かきの素抱の禿より一度に(も)御げん中島の、牽手あまたな公家悪に、今日といふけふでつくわして、お江戸一対のしやつゝらをならべ重光千万大慶に存奉る、祭は季氏泰山よりおもきは海老がゆづりのくま素袍【異本素きをとあり】、さきにあかつゝら一陽来復の御目見えは、八百八町おなじみの加藤兵衛の佐重光といふ肝癪若衆とホヽ敬白
召よする暫らく有て奥よりも、大格子の織物に紅の袴を着、鉄棒杖に突あたりをにらんで立たりしは、身の毛もよだつばかりなり、かたり聞んと申ける(此間せりふ)酒と聞しをよろこび、先客僧たちこなたへと椽の上にぞせうじける、合セリフ童子盃取上て一つ受てはさらりとほし頼光にさしにける、肴はなきかと有ければ今切つたると思しくて、股と腕とを板にのせ坐敷へこそは出しける、某こしらへ申さんと腰より差添すらりと抜、しゝむら四五寸おし切て舌打してぞまゐられける、合セリフ童子も却て頼光を礼拝するこそ嬉しけれ合セリフ鉄棒を突はつたと白眼[にらん]て立たりける合セリフ誠しやかにのたまへば合セリフ殊さら持参の酒に酔、たゞくりことゝ思し召我等も御身の其姿、うち見ては恐しげなれど別てつよい【異本馴れてつほひとあり】は山伏とうたいかなでゝ心付奥をさしてぞ三重
それいざなみいざなぎ夫婦寄合まん〳〵たるわだつみに、天のさか鉾おろさせたまひ引あげたまふ其したゝり、かたまりて一つの島を月よみ日よみ蛭子そさのをもうけ給ふ。蛭子と申は戎が事よ、骨なし底なしたあいなし。三とせ足立給はねば、手くる〳〵〳〵来る船に、のせ奉りて青海原へ流し給へば海をゆずりにうけさせ給ひ、西の宮の戎三郎いともかしこき釣針おろし、万の魚をつり、釣た姿はいよ扨しほらしや、ひけやひけ〳〵ひくもの品々さまがきはずみ琵琶や琴、鼓弓、三味線しのゝめ横雲、そつこでひけ小車、子供たちござれ宝引しよ〳〵と、帆綱引かけ宝船ひいて来た、いざや若衆網ひくまいか、沖に鴎のはつと〳〵立たは、三人ばり強弓ひよつぴき、ひやうりひよつと射落せば、浮つ沈みつ波にゆられて沖の方へひく、この水無月半祇園殿の祭、山鉾かざり渡り拍子で引で来た合拍子揃へて打や太鼓の音もよさ、鳴かならぬか山田の鳴子〳〵、引ばからころからりころり〳〵からころ〳〵〳〵やくつばみそろへて神の駿馬をひきつれ〳〵いさみいさむや千代の御神楽合神の利生はつげの櫛〳〵引て七五三縄のながきえにしを
甲子待に聟取りすました中にたつ人誰々なるぞ、事も愚かや戎三郎、扨又料理は布袋福禄、まち女郎には器量自慢の弁才天、十二の女郎が酌床盃おとりもちさせ給へや、金銀うら〳〵【異本からからとあり】福徳そく〳〵、家蔵まん〳〵億さい孫彦やしや子にかえつく、ひつつきさつさゑいさつさゑいさつさゑいさつさ数の宝を〳〵船に車に不二の山ぢやぞ〳〵、富士はこゝ拍子揃へて手拍子揃へて、祭る今宵ぞ叶ふたり千秋万歳末ぞ久しき
木を入るとは(拍子木を打つ事)きれたとは(幕がしまつたといふ事)きたとは(見物のうけのよい事)わつは詰[づめ]とは(何事もよいと云ふ事)あらしやばとは(始て役者になつた事)すかまたとは(間違ふた事)おべつとは(つゐしやうけいはくの事)楽屋落とよ(仲間ばかり分る事)首とは(縁切といふ事)性根があるとは(きが有といふ事)時代とは(古風なかたくるしき事)いたゞくとは(物事しくじりし事)鳶子とは(素人の子供の事)でんぼうとは(只見る見物の事)穴とは(土間桟敷の明てある事)丸とは(土間桟敷のかりきりを云ふ)とんちきとは(役に立ぬたはけの事)さしがねとは(我がかくれて人を遣ふ事)掌握とは(人の物を掠める事)ゑへんとは(間抜の事)はねたとは(馬鹿の事また打出しの事)桜丸とは(身銭を遣ふ事自腹を切るともいふ)鞘当とは(色の事にて不和なる事)しめろとは(ぶちのめす事)矢ぶみとは(無心の事)怨霊とは(催促の事)柳とは(女郎買の太鼓持の事)つゝ込とは(人の中言いふ事)忍ばせるとは(くすねる事)しやうがとは(しわい事)右の外に数言あれども通用せぬは略之
市川家代々の芸にして顔見せに限り時々勤る事ありといへども甚だ古風なる物にて、当時の人気にかなはぬ物ゆゑ大に廃れたり。暫の素袍は柿色に三升の紋と定む。市村家橘はかちんの素袍にて紋は渦巻を三升にして■*10とし、嵐雛助は紋を■*24、叶を角に改めたり、文化中江戸森田勘弥浪華へ来つて暫の役を勤めたれども、常に見付の古風なる狂言ゆゑ不受なりしが、是らは江戸荒事師の勤る役にて江戸の風土に叶ひし者なるべし七代目白猿碓井
■*10
■*24
此画は鳥居流にしかみと云ふ画なり、団十郎代々いつにても如此画なり、故に別に似顔を出さぬをならひとすと云ふ
伊物・源語は倭語の妙を得たる書なれば我国の宝とす、是に次ては清女が『枕の草紙』、赤染が『栄花物語』なり、此書始『世継物語』とありて他の作物語と変り歴世の事実を憚る所なくしるし、衣装の色、調度のかざり、言語の様其代の趣を尽したれば古の証とすべき事多し、爰に元禄より享保の頃、竹本・豊竹の浄瑠璃の中に近松門左衛門・西沢一風・錦文流・紀海音等が作せる文を見れば、はかなき世話の作物語とはいへども、言語のさま、調度の品、衣装の色まで其頃の男女の癡情趣を尽し其頃の一班を見るに足れり、『伊勢』・『源氏』・『枕の草紙』抔はやん事なき方々の弄物なれば其書も遺れど、此浄瑠璃などは纔かに遺り、薄き綴り物のうへ細字に仮名のみ多く、読に煩はしく年々に破れ損じてしみの栖となる事を惜み、佳本を原として読易きやう文字に直し、文に聊も筆を加へず世話の三段物六部を撰、書集めて後に評を著し、昔も今も変らぬ男女の痴情をしらしめ、勧善懲悪の端にもと三巻の双紙となし、外題をおもふに「癖物語」、「鄙源氏」などはとくに呼て、「今枕草紙」といへば浮きたる春画とおもへるもをかしく、其事実に近からんとの意をもて、『当世栄花物語』と号追々に巻を継て世に弘めん事を思ふのみ
維時嘉永四年亥春 浪華西沢一鳳軒李叟述
同初編より六編までの目録
〔濡髪長五郎・越川屋竹〕昔米万石通
〔刀屋半七・井筒屋お花〕長町女腹切
〔道具屋与兵衛・嫁おかめ〕卯月の栬
〔但馬屋お夏・手代清十郎〕歌念仏
〔よろづやおたか・しかまつや弥市〕梅田の心中
〔道具屋おかめ・助経法師与兵衛〕卯月の潤色
〔天満屋おはつ・平野屋徳兵衛〕曽根崎心中
〔大経師おさん・手代茂兵衛〕恋八卦柱暦
〔菱屋手代二郎兵衛・下女おきさ〕今宮の心中
〔八百屋お七・小性吉三郎〕恋の緋桜
〔槌屋梅川・亀や忠兵衛〕冥途の飛脚
〔油やおそめ・丁稚久松〕袂の白絞
〔柏屋おさが・茶碗や喜平次〕生玉の心中
〔八百屋半兵衛・嫁お千代〕心中二腹帯
〔井筒屋おゆか・藤木富之助〕男色加茂侍
〔紺屋徳兵衛・重井筒おふさ〕心中重井筒
〔甚阿弥おらく・井筒屋源六〕恋の寒晒
〔博多屋小女郎・小町や宗七〕博多波枕
〔笠屋三勝・茜屋半七〕二十五回忌
〔藤屋伊左衛門・扇屋夕霧〕阿波の鳴渡
〔琉球屋お万・菱川源五兵衛〕薩摩歌
〔江戸屋勝次郎・茨木や吾妻〕淀鯉出世瀧徳
〔菊酒屋おきく・手代幸助〕妹脊の中酌
〔南野屋小勘【南野屋草野カ】・大文字屋平兵衛〕刃は氷の朔日
〔紙屋治兵衛・紀伊国や小春〕心中天網島
〔天満やおしま・長柄市郎兵衛〕心中二枚絵双紙
〔関の小まん・丹波与作〕待夜小室節
〔椀や久兵衛・丹波や松山〕すゑの松山
〔八百屋半兵衛・嫁お千代〕心中宵庚申
〔雑賀屋大斎・浅田粂之助〕心中万年草
〔山崎与次兵衛・藤屋あづま〕寿の門松
〔万や助六・扇や揚巻〕二代紙衣
〔稲野屋半兵衛・巴屋小いな〕廓の色揚
〔浅香妻お才・笹野権三郎〕重帷子
〔糸屋おはつ・手代久兵衛〕心中涙の玉の井
〔梅の由兵衛・女房小むめ〕野中の隠れ井
都合三十六部各上中下三段物六部を一編(三巻)として奥に本説の時日書加へ興行の月日作者の名をしるし六編目まで出せり、猶是にもれたるを追々に七編より巻を継て譬はゞ〔額風呂小三・雁金屋金五郎〕 〔信濃屋おはん・帯屋長右衛門〕 等を始め前に出たる名前にも増補のおもしろき物は再び出し、後には三都の歌舞妓狂言・宮薗・宮古路・常盤津・富本・新内・祭文等に残りし名を挙る時は、心中情死の人名甚多し、其内旧本の正しきを撰好人に備ふ
傾城戦国策と賦したれども外題かたく色気少きにより恋女房の世界に寄せたれば繮の幕湯とは賦しけり但馬城崎の温泉を心にこめ手綱は但馬の似口なり有馬には幕湯ありて城崎に幕湯はなけれど所謂狂言綺語なれば唱へのよきを呼ぶなり殿を道之助家老を左京といふより由留木馬之助鷺坂左内と呼ぶを趣向のもとゝして但馬丹波は隣国にて同じ但州なればなり丹波の国守由留木左衛門は養子にて若殿馬之助の姉城崎御前の聟は当殿左衛門なり伯父敵高橋玄蕃の頭国を横領せんと鷲塚官太夫同弟八平次等とはかりて馬之助に放埒をすゝめなきものとせんと計り悪事を工む若殿は有馬の湯もとに遊んで島原の傾城を呼寄せ湯女交りに遊興しもと拵へたる短気者にて伯父敵を始め佞臣共を討すて家国に心を掛くる者共の根を絶さんとの心なり古く用達の町人丹波屋与三兵衛忰与作親子共有馬へ饗応方に付添ひ来て与作は若殿の放埒に遣ひ捨たる用金の科をあびて追放となり若殿は諌言する者を勘当し又は手討とするゆゑ国家老鷺坂左内若殿を預り帰るは序幕なり二つ目左内の屋敷に若殿と傾城預り有町人丹波屋与三兵衛若殿を日毎の見舞に来る以前若殿に勘当受たる伊達の与作と云ふ立役有て若殿の面体に似寄なるゆゑまさかのとき身代りにならんとの心にて左内の屋敷へ詫に来るこしもと重の井是に兼て惚れ居て左内は此二人を思ひ合たる中なれば夫婦としてけふ足利殿より若殿に切腹させよと使者来る故与作重の井を若殿と傾城の身代りに立よと謎々をかくる若殿は一間より立聞して身代りより我死んとの心なり暮六の時計にて左内は鳥目なれど隠して見ゆるふりして検使を出むかふ伯父高島玄蕃城崎御前入来り若殿に切腹させよと云ふ左内若殿に用意よくば是へと云て身代りの与作を呼出す誠の若殿奥より出て切腹する傾城も自害する姉君は誠の若殿故愁嘆伯父敵はよろこぶ左内は与作重の井の両人と心得見えぬ眼を見える体に見せ只尋常に御最期を云ひ居る姉君そうではないと云はんとするを若殿は左内にしらさぬ様に姉に仕方する与作重の井は事おくれて身代りにも立ず蔭より身をもむ八平次は序にて追放と成り官太夫は兄殿を城の崎の温泉の中へ毒を入殿は毒気に当り俄かに死去としらせに来る皆々驚く伯父敵はよろこんで跡目はさし詰おれじやと云ふ心にて切腹見届ければと官太夫を連れて跡にて御台兄殿は湯にて死し弟殿は切腹どうしたらよからうと泣く左内は始めて若殿の最期を聞て大に驚き与作重の井殉死せんといふを兄殿の様子覚束なしと館へ走らせ跡にてあら嬉しやなアと鳥目も偽りにて本名名乗り当殿は伯父の手をかつて死せ若殿を忠義顔して腹切らせ日頃の本望なりと謀反人となる御台若殿扨はと詰よるをあれ出して広庭へ突出す跡へ与三兵衛見付愁嘆若殿は切腹ながら与三兵衛を親人様と云もと丹波屋与作が誠の若殿にて馬之助と欲心にて取替おきし事あらはれ与三兵衛身の懺悔して腹切る与作重の井取てかへす御台は伊達与作を新左衛門と改名させ追放の丹波屋与作は誠は由留木のお胤なれば行衛を捜せと云付る新左衛門若殿の在家を捜しに出る是二つ目なり三つ目四つ目は彼神谷転といへる薦僧と成り居たる一話あり此こむ僧の実説はさして仕組となる筋にあらざれば安永年間の小説梅朧主人の作にしたる『続新斎夜話』の巻一農夫の信義公庁を感ぜしむと云ふ条を由留木の落胤丹波屋与作に綴りて脚色せり其本文
武蔵野の広き御恵の風に偃[のべふし]て草葉数多に結ぶ軒端の忍が岡近きあたりに泉屋某と云ふ酒肆あり棟高く住なしたる老店にて奴婢大勢扶持し貨財庫中に充ぬ一子得太郎は寛柔に長[ひとゝな]りて糶糴の術に疎く剰へ近年花街に入て多く金銀を費し侍りしかば父母大に怒りて家内を追出さんとせしを親属どもやう〳〵に宥め去るにても一旦若気のあやまちなれば有るまじきにもあらず以來をこそと得太郎へも教訓し遠からず婦を迎へてなどゝ世上一般の経済に父母も一子の事と云深き罪ならねば怒も春氷となりて兎角に迎婦の事を急ぎ得太郎も過を改め経紀【経書カ】に心を委ねしばらく実貞【体カ】に見えしが赤縄結び難くして三年計り過ぬ独枕のつれ〴〵又或夕紅塵を分けしに宴席の欣々たる紅閨の艶々たる腸にしみていつしか冷炭再び炎となり或時は酒を携へて龍山の花に遊び或時は船を浮べて墨水の月に戯れ放蕩先年に超過し亡失せし黄金忽ち二百斤におよび秘匱の一隅を空しくせしかば父母再び怒を発しこたびは親属どもに肯はて終に久離して一家を放逐しぬ得太郎詮すべなく元来一鵞の袖中に在るなければ只茫々然として路頭に彳しが窮情の内に一策を思ひ出して梵論寺走り入て身の上を語り托鉢せん事を訴しかば事務聞届けて兼て戯席にて玩しを幸ひに笠下に是を鳴して日毎に藩中を廻りぬ渠等が中にもさま〴〵の掟ありてかゝる放蕩者は同郷にのみ長居する時は又禍を生ずるものなれば遠境修行すべしと先達を添へて京師に送りぬ旅中とても唯一管の音中に得る一握の雑穀をもて薪にかへ塩にかへ宿り需ればいと心うき旅衣馴にし故郷のみ慕しく先非を悔ゆる事切なれども落花枝に還らず流水源に回らぬ身の上たもとの露の零落はて漸にして京都に至りかの先達の計らひにて幽なる旅宿を取与へられ先達は浪華の地に所用ありと別れ出ぬ得太郎其宿より出て洛中を托鉢せんと市中縦横に廻りしかど爰は元より町の名だに綾や錦を立続きたる紫■*27の地襤縷の袖の恥かしく何とやらん肩身すつけにて竹の音だに快からねば辺土の地こそ心やすく中々施物あらめと昨日は岡崎真如堂の辺を吹めぐりけふは太秦鳴瀧の在家そことなく修行し侍り夕かけて広沢あたりの農家の門に彳吹よりしを縄すだれの内より六旬余りの男出て修行者にこそ侍けれ今日は吉日なり進らすべきものはなけれども此方へといへば辞するに及ばず内に入りしに漸夫婦自炊のやうなり茶などを与へ天蓋をも取てくつろぎ給へと云はるゝに然らばゆるさせ給へと蓋打置あやしの折敷に強飯盛てさし出さる囲炉裏にふすぶる一塊は老婆莫怒飯飣無、笑指灰裏芋栗香と作れるもかくやと佗しく哀れなり御施に預りし御礼に一曲手向奉らんと竹取出ししばし吹て早日も暮近くなり侍れば暇たまはらんといふを主の男暫らくと留め扨も旅僧は何国の人ぞと問ふに東都の産のよし荒増を語れば泉屋某殿の所縁やと問れて大に驚き夫は如何にして見知たまふ申に付て恥かしく侍れどもかやうの身分になりて猶も命の捨がたく斯ぐ雲水の客と成りぬると語ればあるじ大に嘆息し扨野老は往時泉屋の奴にして御父の大人には数年恩恵に預り君の三歳に成らせたまひし年まで奉公せしが故郷の親老衰し家業を継ぐべき者なくなりて暇たまはり其折も深く恵に預りて爰許に帰りしが親も程なく失せ夫より打つゞき凶年に逢ひ今に幽なる煙を立侍れども大人の御恵みは束の間も忘れ奉らずけふ計らずもお顔を見奉りしが何とやらん大人の容貌におぼえたまふを夫とはかけてもおもひよらねど御面影のなつかしさにかく問奉る事のかくても朽ぬ三世の御縁にこそまづ〳〵我家にとゞまり給ひ心安く起居もしたまへ併しかゝる困窮の身なればゆるやかに養ひ奉る事は叶ひがたし日々托鉢に出給ひて助たまへと隔意なき辞に甚感じさらば兎も角もと爰に草鞋を解て日々近郷を修行し些の施物を収けり一日主の云君以往の非を改めて故郷に帰り父母の勘気を詫て家業を継給ふ御志はなきやと有りしに得太郎夫こそ夙夜の願ひなれども再応命に背きし不孝と云ひ何一つ志を改めたるといふ証拠なければたとへ貴丈の挨拶にても詮あるべしとも思はず尤もかくまで辛労せる身に不孝の罪を思ひあたりぬれば以来柳花を見る眼なしと涙を流す主が云ふ君その志おはせば試に云はん君彼費失せし二百斤の金子を弁じて故郷に帰り先非を悔て詫給はゞ双親の御怒解けざる事あるべからずと問ふいかさまさもあらば勘気もゆりぬべけれども天よりや降なん地よりや涌なん其驢年を待つべしと一笑すれば主色を正しうして若し誠に其数の円金有て帰郷の本懐成就せんならば我に一策ありいぶかり給ふなと云得太郎は主の我を慰むる志の老実なるを喜び厚く恩を謝しぬれども一顆の金銀だに日を重ねて入らざる門の何の計あつて斯くはいふよと心裏には肯ざりしに日を経て主得太郎を招き君の御運未尽ず今日斯の如しと二顆の黄金を袖より出しかくある上は明日急ぎ関東へ旅立給へ御名残はおしけれどとく〳〵と諌るに一向夢中の心地しこは何とも不審なりかゝる貧家の内に何としてかくまでの黄金を需めたまへる事よと問ば夫はお物語の長く侍れば後日野夫江都に下つて御帰家の悦びを述ん後寛々語り奉らん善は急げとやらん申せば少しも早く下り給へと其夜は首途を祝ひ一壼の魯酒をぞ汲かはしける得太郎は余りの嬉しさに終夜眠に就かず熟おもひ廻らすに去るにても貧窶人のいかにして得たる金なるや覚束なく是を受るも空恐しきやうなれ共人の志をもどかんもいかゞ也夫よりも少しも早く関東に下り彼者の鴻恩をも父母に訴へ其上にも我身の勘気ゆりずば再び京師に持登り主に返して後いかなる淵へも身を投べしと所存を極め曉深く立出るにも主夫婦の日頃の恩恵といひ況してや莫大の黄金を投ぜられし仁慈の程満口に霜を含める心地して袖の涙ぞ万分一の志を見せける斯くて旅中の要心に半は笠にかくし半は腰に巻て故郷に帰る道ながら父母の心のいぶかしければ錦にあらぬ旅衣日頃の恩を謝しかねて彼縄簾をのみ顧がちに遅々としてこそ別れけれ斯して逢坂山を越え大津の駅にかゝりしが路費なくてはと其所の交貨店に立寄り彼金を一片出して方孔にかへんとせしを交貨店の副手[てだい]其判金を見て甚だいぶかる体なれば若し怪しくば取替てんと又一片を出しければ是を取見て暫く思惟しけるが内に入て何やらん告ると見えしが忽ち三四人の力者出て来り盗賊遁さじと追取り巻きぬいかに麁忽と呼ばれども耳にも入れず直ちに縛して京師の庁官へ引行ぬ頓て京兆の前に曳出し交貨店の者申すは某の月某の夜我店へ盗賊入て判金百斤紛失せし事既に訴へ奉る所なり今日此者の懐中より出す処の二片の金我家の極印有て紛失の品に極れり公庁の糺明を願ふと言上すれば得太郎へ如何と公問有り得太郎は思ひも寄らぬ事なれば一言の返答もなく低頭して考ふるに是全く彼農夫が我を救はんため盗賊して得たる金と察せり是を陳ずれば咎を恩人に蒙らしむべし迚も我は是までの薄命なりと覚悟し今は何をか隠し奉るべき某月某夜渠が倉壁を穿て盗取たる所にて候曽て同類なく我に親戚なき者にて候へば速かに罪に行はるべしと款条明白なりしかば強て推問に及ばず獄中に囚はれ懐申の金は庁に預り置れぬ去るにても此上は死刑に行はれん事疑なし彼恩人の我が東行を果さゞる事を聞かば定めて恩を空しくせしを怒るべし是又黄泉の愁なり今又斯と告ばもし訴出て我を救ひ己を罪なはれん事も計り難ししかし我刑死の後にかゝる事ども告んにはと同じ獄中に居合せたる軽罪の人の此程に免れて帰るに因て伝言し我刑死せしと聞たまはゞしか〴〵の訳を広沢の農家何某に具に語り給はれ厚恩の程は生々忘れ侍らずと慇懃に頼みやりぬ其後大津交貨店に脱捨し天蓋の内に又百金のあるを見出して急ぎ持参り訴ぬるに扨は是は他の家にて盗みたる金なるべしと獄中より引出され再び糺問を蒙れども元来盗まざる金なれば此款条に当惑し只洛中の家々にて盗み集めぬるとのみ云ひしかば京兆甚だあやしみ先回の百金をも尽く出して交貨店の人をして見せ給ふに彼が家の極印は六七十片に過ず彼是故ある款条と見えたれば後日の糺明たるべしと又獄中に帰されぬかゝる折節誠の盗賊共の死刑に行はるゝ有りしをかの伝言を肯し者聞て今こそと広沢にて何某が家と尋行て細々物語りしに主大に仰天し其金は我女子有て幼よりさる槐家に仕官させ置たるが貌も見苦しからねば恵み深かりしを強て御暇を乞て直に島原の娼家へ売渡し償金として得たる二百斤なるにいかにして盗賊の疑ひは受け給ひけん我貧窮の内に大金を得たるを怪しみ思したるは理ながら大きなる齟齬なりしかし足下に語りて益なしと伝言の情を謝し頓て一通の訟書を捧げて庁前に斯くと告ぬ京兆固より彼金数の合ざると云ひ得太郎が欸状の潔き却て疑なきにあらざれば未だ其罪を決せず猶外々の穿鑿を促されしに果して如此なりしかば亡八を呼寄せ尋問ありしに何の違ふ所あるべきや其金は大津の交貨店の息男父が函鎖を穿て花街の奢に遣ひ捨にしを盗賊の入たる体にもてなしたる事まで掲然と露顕に及びぬ元是彼農夫が一渾の信義より得太郎が先非を改ると云且恩人のために命を拋しも大に公庁を感ぜしめ江都の父母へも始末の意趣を達せられ得太郎斯く志を改る上は不孝の罪をなだめて家業を継がしめ農夫が恩の厚きにめでゝかれが娘を島原より購身して得太郎に嫁せしめよ然る上は農夫夫婦も別に謝恩を待に及ぶまじかの購身の料は則此二百金を以て償ふべし交貨店の男は己が盗を人に託し既に過て罪なきを罪するに至らしむるの姦賊なれば死刑に行ふべしと一々微細に命じ給ひしを得太郎遮つて願ひ奉るは交貨店の男若輩の一応親の宝を掠し事小子も同じ罪にして彼者は双親まだ愛を断ず然るを死刑に行はれん事甚見るに忍び侍らず且今公命を以て小子が帰家を免され侍れども我父母に対して些少の功なし願くはかの二百斤の半を小子に給はり恩人の志を告げて父母の怒を解くの品となさしめたまへ交貨店の夫妻には男が罪を金百斤にて贖はせたまひ彼是黄鸝の金をもて娼夫へ購身の料に宛させたまはらば有がたからんと渧泣して訴へしかば京兆も得太郎が理を尽す詞と云仁恕あるを称し給ひ願の如く命ぜられしかば交貨店は多くの金を費すといへども豪富の愁とするに足らずして子の刑を免かれしをよろこび得太郎は窈窕たる婦を伴ひて旧里に帰りぬかくて後は心を正しくして家事を修め父母の後半生を安樂に在しめかの農夫へも寒暖暑冷を訪ふて睦しく世を渡りけるこそ愛度けれ
■*27
此一話を題として得太郎を丹波屋与作当時零落して梵露寺慶政[けいまさ]本名は丹州由留木家の胤馬之助也広沢の農夫を伊勢街道横田村彦兵衛島原へ身を売し娘を小万とし大津の両替屋を白木屋佐治兵衛息男の名を義兵衛役人の名を本田弥惣左衛門と呼び悉く恋女房染分手綱の人名をかり三段目四段目に仕組み五齣目沓掛の場竹村定之進後家の老母遺りゐて奴僕逸平馬士を渡世として老母をはごくむ重の井由留木家再興に付道成寺の能を先例にまかせ勤むべき旨いひて鷲塚八平次序にて定之進の能の秘書を奪ひ取持居て当時馬士江戸兵衛と改め此場へ出て勤めようと云ふ奴逸平能の秘曲を覚え居て江戸兵衛と能の秘事を問答していひ勝ち貧家にて屋根漏り柱傾きたる能舞台にて逸平道成寺を舞て重の井に江戸兵衛を討す場有て団円六齣目まで腹稿なれり逸平世話場にて道成寺を舞ふは旧勝負革[かわ]奴道成礎[じ]とて先に市川団蔵奴与次平にて勤め近来梅玉東都にて桜菅笠といふ外題にて勤めしかたを今の翫雀玉の手綱にさせしかど皆大序につかひ見所すくなしかゝる曲をするには狂言の奥に至て見せずんば佳境に入る事遠し依て今までの古き筋を捨て一部の趣向を新奇に巧み頗る穿多し抑恋女房の世界は世話時代を兼御家狂言にはよき世界の物なり始近松平安堂丹波与作と外題して三段物に作りし上巻は丹波由留木家の玄関先にて調の姫東へ輿入の用意の中へ馬士三吉道中双六を振て通し馬に雇はれお乳の人重の井と親子の愁ひ中の巻は関の宿に与作馬士となつて招婦[おじやれ]小万と艱難し三吉干糠の八蔵を殺し科人となり下の巻小万を馬に乗せて道行の跡銭掛松にて与作小万と心中せんとするを鷺坂左内両人を助け本知に帰ると作し後伊達染手綱と外題をかへたり此後恋女房染分手綱と呼て丹波与作の上の巻を十段目とし中の巻を十一段目大切とし重の井与作の不義あらはるゝといふ前狂言を増して書広げたる物ゆゑ旧作丹波与作とは齟齬したる所も有けり先旧本に沓掛とあるは京師より丹波街道へゆく沓掛なり道中双六の場は丹州の館の玄関先なるを恋女房には本陣宿とし沓掛を乳母在所と本文にあるを東海道に宛て関坂の下沓掛と作せり三吉の詞に乳母は鳥羽の祭の団子が咽につまつてと云ふは都の鳥羽なり伊勢街道沓掛の乳母都の鳥羽祭に行くは道隔りて聞えず然れども恋女房の方世に行はれて丹波与作の浄瑠璃を憶[おぼえ]し人少く庇貸て母屋とられしとも云はんか旧本丹波与作は其頃の当り浄瑠璃にして竹田出雲が作の忠臣蔵茶屋場に由良之助のせりふにも丹波与作が歌に江戸三界へ行んとしてとは浄瑠璃の外題丹波与作をさして云ふなり今是を外題とおもふ人稀なるべし猶此外に与作の考評多けれど当世栄花物語四編目丹波与作の部に出せば好人見たまふべし此世界に増補数多ありて東海道恋関札駅路[]どうちう小室諷新板道中双六けいせい染分手綱けいせい玉手綱浄瑠璃にては伊達染手綱と云も待夜の小室節といふも丹波与作の替外題なり予が繮幕湯に此世界の穿を委しく演んとおもひながら近頃の事遠慮なきにしもあらずと腹稿のまゝ出すなりけり
介石記に元禄年間赤穂開城の両三年前、伊予の国松山の城主にいさヽか過ち有て開城申渡さるヽ事あり、此時の城受取の役目は脇坂侯と赤穂の浅野侯なり、長矩病気に付家老大石内蔵助主人の名代に行く、城中に一家中籠城して防戦の用意まち〳〵なりしを、大石良雄理を解て速に城を受取りし事を記せり、海老蔵(七代目団十郎)此一話を忠臣蔵裏表四段目の裏に仕組くれよと予に托せり、松山開城には大石請取の役にて云ひし事、是は我主家の事にて道理おなじければ、近頃脚色してさせしが、忠臣蔵明渡しの場は兎に角狂言少く、実説によれば甚淋しく講釈を聞くがごとく、嗚物囃子等もあしらひ方なく、実に仕にくき場なり、故名人役者種々工夫を凝らせすれ共、朋わたし幕切に至つてはいかんとも仕難き役なり、海老蔵もとより此役に色々工夫をこらし、予松山開城を書入舞台にかけて見たる所、道理に背く事なく大によく、諸見物も批評なく其後誰々も四段幕切は皆是を真似する事とはなりけり、されども予が書きたる正本と海老蔵に一部書て与へし書のみにして、他に此本の散在する事なく有るべき筈なし、所謂盗本にてする事なれば其文句はいかなる事を云ふやらん覚束なし、元来仮名手本の世界にて予が増補ばかりも敷十部あれば、昔より浄瑠璃歌舞妓に珍らしき場のみを類聚して、『忠臣蔵類聚大成』四十七巻を著述して世に弘めんと思ひ草稿半にして果さず、此裏表四段目の裏も類聚大成に出すべき物なれど奸盗本[ぬすみほん]に言語の過ち有るを、予が虚名を売られん事を恐れ、爰に出す、是松山開城を種として脚色したるものなり
口幕の時浪幕を舞台前にひくト〔直におきのくらいのにの歌になり漁師腰簔にて三四人網を引きながら下手より〕外へ出て漁師何と皆の衆けふは天気もようて此様に漁のきく事も珍らしい同△それ〳〵此国は塩冶判官様の御領塩といふては日本一同□かふいふ結構の国にくらすはこちらの仕合せといふ物じや同▽此間から御先祖の御法事毎年大山寺でのおつとめ同○あれを仕舞ふたら国家老の大星さまも鎌倉へ行かしやるのぢやそうな同△思ひなしかゑらう網がおもいそ此勢ひに曳うぞや〳〵同皆々よからう〳〵〔ヨイ〳〵と網を曳きながら幕の内へはいるヨイヤナ此なみまくを切ておとす〕奥深に浪幕舞台一面に塩屋の屋根磯ばた打寄の書割後所返しになる仕かけ有り直に浄瑠璃になる「堪忍の文字は貴賎の宝なれども時によつてはやむ事を塩冶判官高貞一たんの短慮にて鎌倉にて御身の禍ひしらせを聞て国家老大星由良之助良金はけふ鎌倉へ出立と共に見送る一家中塩焼浜に立どまりト〔此内由良之助野袴ぶつさき跡より十内久太夫六丹平各上下にて見送りの心跡より家来大勢鎧びつ鑓など持出て上手より出て〕由良之助何れも見送千万忝う存ずる十内誠に此度鎌倉より早うち到来致すといへども其後何の沙汰もなければ先づ安心久太夫貴殿とくにも御発足のお心なれども御先祖の御法事も大切丹平是も例年の格式なれば打捨御立も心がゝり勘六然し今日御法事も勤終れば嘸御安心でござりませうゆら仰の通り此程早打到着より鎌倉表へ心はいそげど毎年御先祖の御法会殊に今年は五十回忌御大切の御名代此儀も相済したれば直様発足昼夜を分たず旅行いたす十内さぞかの地にもお待兼立四人道中随分御機嫌よふゆら各方にも御無事に「挨拶とり〴〵なる所へ漁師がどや〳〵と〔まく外の漁師籠にこのしろを山もりにしたをめい〳〵もち出て〕塩○ハイ〳〵私共は此浦の漁師御家老さまと御見受申して此肴がさし上たう存じまする同□此通りのこのしろが今一網に上りましたが船に山もりにして十三艘同△此辺に限り今までは一疋も取れませぬのに此様に取れるは珍らしい事同▽私共も心いはひ又は冥加のために御家老さまへお目にかけます同○納め下りませうならば同皆々ハイ〳〵有難う存じまするゆら此浜の漁師共が心ざし過分至極誠に見事なこのしろ東国にては沢山とるゝ魚なれども西国にては珍らしい漁皆さやう存じましておめに掛けます「大星つら〳〵魚を見やりゆら此つなせをこのしろといふは昔奥州に有徳に暮す老夫一人の娘をもつ国の領主其娘のみめよきを聞き娶らんと云娘は外に密夫看て嫌ふが故老夫領主に言訳なく娘は病気と欺り此つなせを棺桶に詰め野辺の煙となす領主此あらましを知つて詠みたる歌にみを奥の室の八島に立煙り誰が子の代につなせ焼くらん此辺には稀なる魚の日々に夥しく上るといふは十内浜方の大漁は御閉門も御免あるべき立四人吉さうでござりませうかゆらつなせを子の代りに焼しより子の代といふ此城の上るといふは立四人ヱヽゆらアイヤ国恩をおもひ志の段過分〳〵「汀の方より遠見の者あわたゞしく走り来て侍ハヅ御家老さま是にござりまするか只今早打と相見え御城内へかき込ますやうにござりまする立四人ヤヽすりや又もや鎌倉よりゆら早打とあらば対面のうへ発足なさん立四人御帰城〳〵「城内さしてぞ引かへす跡につゝくり漁師共と〔皆々上手へ家来魚かごを持引かへしてはいる〕漁○さてはまた早打が来たゆゑ御家老さまは走つていなれ同□しかし今御家老のはなしでこのしろとは子の代同△つなせを子のかはりに焼たゆゑこのしろ同▽此因縁もさつとわかつたサア皆ござれ〳〵と〔橋懸りへはいるチヨンチヨンにて所がへし〕向ふ遙か打抜の千畳敷橋懸り切幕の所鏡戸となり打寄の板は不残畳 のへりにかはり塩の屋根仕掛にて打返すと大衝立となる此陰に力弥後鉢巻上下の上を刎早打の形り気絶の体是を速見藤右衛門千崎弥五郎富森助右衛門片岡源吾上下にて立かゝり介抱の体城の太鼓にて道具納る四人大星力弥殿ト〔薬湯などのませ呼わる内奥より由良之助上下に改め跡よりまく明きの四人の諸士付出て由良之助能所へ座につく力弥少し心付きて〕力弥何れも此所は八人御本国のお館でござるぞゆら力弥〳〵過急の早打子細は何と力弥誠にお館オヽ親人何れも今日の早打は殿様の御大事お家の大変でござりますト〔いひさしのりかへるを皆々介抱する〕ゆら御大事とはして〳〵様子は力弥先達の早打にお聞の通り十一日勅使御到着の始より十四日御勅答の時殿師直を刃傷に及び給ひ師直は其まゝ安堵殿には扇が谷のお上屋敷へ厳しき閉門仰付られし所翌日御上使として石堂殿御入なされ私の宿意に依て殿中を騒がせし科と有て殿にはやみ〳〵御切腹仰付られてござちまするわいのう皆々ヤア〳〵〳〵力弥国郡は没収鎌倉のお屋敷も即刻召上られ候へ共猶予ならざる殿さまの御遺言かつはお筐の此短刀暫時も早く親人へ相渡せ委細は堀部安兵衛殿に言送らんと斧九太夫のお指図ゆゑ何か捨置はせかへりましてござりまするト〔箱入の短刀白布にて腹にまきしをといて渡す〕速水ムヽすりや閉門のおゆるしもなく殿にはやみ〳〵御切腹仰付られしとなア御切腹を千崎尤も日柄御場所も弁へず私の意恨にて師直を刃傷に及び給ひし誤はあれど富森さす敵の師直は安堵にて殿に切腹仰付らるゝとは近頃以て依怙の沙汰片山国郡は元より扇が谷の上屋敷まで即日召上らるゝとは余りといへば情なき四人御取計ひト〔と四人顔見合せ茫然と当惑のこなし由良之助いろ〳〵とこなし有て〕ゆら力弥シテ御台さま御家門方にはお咎めはなきや力弥サア其儀は私も心付かぬにはあらね共何を申すも過急の事殊に九太夫殿が諸事おさしづゆゑ其まゝ出立仕つてござりまするト〔由良之助つか〳〵といて扇にててう〳〵〳〵と打つ四人の諸士とゝめて〕四人大星どのコリヤ御子息を何ゆゑにゆら殿には御切腹国郡は召上られ是に上こす大事が有うか左様な大切なる国への早打此大役を勤めながら御台さま御身の納ち御家門方の御事なぜ聞たゞして出府いたさぬ九太夫が詞にしたがび御大切を聞糺さず生づらさげて本国へよくも帰りし大だはけ不忠者めが力弥其儀は程なく堀部安兵衛殿がゆら詞をかへすか立てうせうト〔きつとふゆゑ力弥是非なくしほ〳〵としてつい立の陰へ控へる〕片山由良之助殿御立腹は御尤なれどもそこはまた御若年ゆゑ富森殊に鎌倉より此伯耆まで二百里余りの行程と云ひ千崎五日半に来たられしは中々若年の力弥どのには忠義の一心速水殿御切腹と聞御当惑ゆゑか存ぜぬと我々が御詫申す四人御了簡下されいゆら各々方の御懇意忝う存ずる殿の御大事を告んとおもふ一念にて鎌倉より御国表へ五日半に参りしとは世の常ならずあのまゝにさしおかば心ゆるみて落命におよぷ唯今厳しく呵りしは張をゆるまさぬやうのためお家の浮沈御家中の安否いづれも退座無用とふれさつしやい速水畏つてござりまする何れも二度の早打来るまばは退座御無用でござるぞ四人心得ましてござりまするト〔幕明の四人下の鏡戸へはいる向ふより諸士一人走り出て〕諸士二番手の早打堀部安兵衛殿只今到着致されてござる四人それ待兼し此所へ早く〳〵〳〵ト〔諸士向ふへかけてはいる直に向ふより堀部安兵衛早打の拵にて上下の上なはれうしろ鉢巻にて走り出て花道でウンとのりかへる下座よリ元の四人の諸士出て薬湯を持出て四人の立役に渡す立役四人安兵衛を介抱して〕立四人本国の御城内でござるそやト〔きつといふ安兵衛心付向ふを見てはら帯をきつとしめ本舞台へつか〳〵と来て〕安兵衛由良之助殿何れも〔いろ〳〵心落付るこなし有て皆々を見て〕安家老には御出席か何れも是へ皆々ハツト〔双方より詰かけきて〕安先達のおしらせは御閉門とばかり委しき事は申さず初度のしらせは力弥殿より御聞の通り扇が谷の上屋敷門戸を閉して籠居の所石堂さま御上使として御上意の趣は私の宿意を以て御日柄御場所を弁へず執事高の師直へ刃傷に及び殿中を騒がせし科と有て国郡を召上られ殿には即刻御切腹相手師直はお咎なく手疵養生万事の御手当本復次第出席との事検使の横目は師直が昵近薬師寺治郎左衛門お下屋敷も明渡させ御本国の当城も受取有と直に発足今明日には当地に着せんまつた殿様御切腹の砌大星殿へ呉々との御遺言唯恨むらくは殿中にて加古川本蔵に抱留られ師直を討もらせし残念楠正成湊川の戦に人は最期の一念によつて生をひくと云ひしごとく生かはり死かはり恨を晴らさでおかうかと怒の御声諸共に短刀を逆手に取直し弓手に突たて引まはし御無念とゞまる短刀は大星殿へ御筐我欝憤を晴すべしと呉々との御仰有て立派の御最期御心底おし量り五臓六腑を裂く思ひ涙ながらに御尊骸は御菩提所光明寺へ在鎌倉の一家中御供申て御葬式まつた御台所は御家門縫[ぬい]殿さま御下屋敷松が岡の御別荘へ御移し申鎌倉屋敷の取捌は万事九太夫殿の指図にて一先彼地を離散なし城を枕に討死するか又亡君の御供に追腹殉死を致すとも追て本国にはせさんじ大星殿の御下知を受ん先づさしあたるは今にもあれ当城受取のため薬師寺の来るは条それまでに評定が肝心とサア此事を存ずるから善とも悪とも分らねど九太夫殿の指図を幸ひ鎌倉表の混雑を余所に見なして過急の早打御国鎌倉召上られ家もなければ主人もなし力とするは大星殿追腹殉死仕るか城を渡して離散するか生ての忠か死ての忠か二君に仕る心はなく一心極る評議は此座何れも大切の評議でござるぞかやう申せばおこがましいが新参者の某も古さんの各も忠義の文字に二つはないじぎに依ては親も捨義のためには妻も捨る恩愛妹脊はさゝいな事忠臣義士といはるゝも武名を泥土に埋むるも大星殿の御発言臍をかたむる極意の程が承りたい彼地を立て只今までこらへ〳〵し口惜なみだ何れも御免くだされト〔愁のこなしにて落涙す此内由良之助始終思ひ入にて短刀をおしいたゞき又箱へ入茫然と手を拱き思案の体四人の立役是を聞居るうち色々と身をもみ無念のこなしにて〕速水諸士の何れも我々四人大星殿へ密談の間暫時お次へおひかへ下されい四人心得ましたト〔皆々下座鏡戸へはいる〕千崎安兵衛殿には長途の御労れサア暫らく御休息なされいト〔安兵衛を介抱して下座鏡戸の前にすゑ二人づゝ由良之助の双方より詰めかけて〕片山由良之助殿只今安兵衛殿の仰せ一々御聞取なされたでござらうな千崎鎌倉詰の家中さへ過急の大変心の転動どうせ方角はござるまい富森其上斧九太夫殿とても老人の事なれば一朝一夕で帰国致さるゝ事でもあるまい速水いかにも左様その内只今にも当城受取の使者が参らば如何召さるゝ御所存ぢゃな片山貴殿御先祖八幡六郎殿より代々御家老の御家柄なれば下知に付くは一統承知千崎たとへいか程よい御思案でも是がのひては詮ない事申さば一家中が一期の浮沈富森我々始め一家中末々の者に至るまで貴殿の心底承つて安心が致させたい四人サア思召は如何でごさるなト〔双方より顔を詠めつめかけていふ由良之助だまつて居るゆゑ〕片山是さ御家老由良之助殿おし黙つてござつては相分らぬ千崎何となりとも御発言はござらぬか是さ御家老是は又どうした義でござる富森我々は代々殿の御恩を蒙る者御遠慮には及びませぬ速水いまだ御思案が付きませぬかハテ扨困つた義でござる片山此上は何れもまづあれへおこしなされい三人さやう致さう〳〵ト〔花道中程へいて四人座を組みふと安兵衛を見て〕片山各方あれ御覧なされい先刻より我々が評議御家老はまた御所存も有う富森いかさま安兵衛殿は早打の労れもあらうが我々が評議を余所におしだまつて居ても済ぬ儀速水堀部氏御手前も是へござつて相互に力をそへ評議さつしやれてもよいでないか千崎落付顔は其意を得ぬサア安兵衛殿是へ来しやつしやれ〳〵安イヤそれへは参るまい四人とは又なぜ安何れ大星殿のお思召もござらう手前は御家老の御意を承り其下知に付く存念その評議にはお省き下さい片山何れもあのたは言をお聞なされたか色々に申て見るが評議ではござらぬか省て呉うと落顔付富森捨ておかつしやれ〳〵ありや転動致し血迷ふてをる馬鹿者だ相手にさつしやるな〳〵千崎此上に評議は無益城を枕に討死は覚悟の前大手先へ出張して城受取の薬師寺めを討取申さう速水左様〳〵此方は必死の働き付添ふ奴ばら何千騎をるとも切て〳〵切死まづ軍神の血祭りは片山幸ひ臆病者の堀部安兵衛富森血祭にぶつ放し一家中への見せしめ四人是ぞ屈竟と〔つか〳〵と本舞台へ戻る〕安何に血祭りに此安兵衛を討ち果すとか切らばきれ突かば突け軍神の血祭りに討たれもせうがコリヤお手前達狂気したのか無分別と云うか気の毒千万片山さすが他家より養子の安兵衛千崎勇も武もなき臆病者富森譜代恩顧の我々にむかひ速水狂気したとは能々申た四人いで此上はト〔四人刀のつかに手をかくる安兵衛きつとなる此時とめて〕ゆらヤレ待たれよかた〴〵扨は城を枕に討死する御所存か四人いかにも我々が心は金鉄ト〔〕めい〳〵胸をたゝいていふゆらハテたのもしい忠臣と思ひしに揃も揃た不忠不義不孝不仁の無道人夫悪人とはお身達の事だはト〔きつといふ是にて四人顔見合せ安兵衛の方をすてつか〳〵と大星の前へいて双方よりつめかけて〕富森ヤア過言なり大星君のために命を捨る我々を片山不忠不孝不義不仁とは何のたはこと千崎大悪人とは法外千万聞すてられぬ速水今一言いふて見よ生ではおかさぬ四人なゝなんと〔反打てきつといふ〕ゆらまづ承らうは殿判官さまばかり御主人にて御台所は御主人にてござらぬか四人しれた事御台所も御主人さまさゆら然らば各々方大不忠者でござる四人とはまたなぜ〳〵ト〔反打せいていふ〕ゆら各々当城に籠城なし城受取の御上使へ敵たふは足利殿へ敵たふ同前是天下に対して逆賊ならずや然らば御台所は刑罪御家門方に至るまでいかなるお咎めあらんもしれず手はおろさずと各々方の心より主人を殺し奉るは是限りなき大不忠まつた鎌倉在番の衆は固より城中に住む一家中親子兄弟縁者の輩幾千の数をしらず御仕置となる時は子として親を殺す不孝城中五百有余の人々に討死さすは不仁ならずや類葉数多の妻子眷族何国にかくれ忍ぶとも天下の御威光を以て悉く大罪に行はるゝ時は是不義なり大悪不道人と申たが此由良之助が誤りか四人ムヽサそれはゆら誠の忠臣孝子と云ふべきは当城は天下の御城速に明渡し時節を待て御家門より御養子を願ひたとへ半知半所にても塩冶の御家相立ば是ぞ全き忠臣義士親兄弟の安心は目前の孝養多くの人命を助くるは仁なり義也然る時は仁義礼智信の五常に叶ひ美名を末世に伝ふべしサア拙者が所存はかくの通り上使到着の節すみやかに開城あるか但し不忠不孝不義不仁天下へ対し逆賊の汚名が取たいか四人サアそれはゆら城受取の御上使へ敵対なさば冥途黄泉より亡君のおよろこびあるべきか四人サア〳〵〳〵ゆら各命にかけがひがごさるか何れも方まだ了簡が若い〳〵ト〔きつといふ四人段々理窟に詰る思入にて互に顔見合せ居住をかへる内安兵衛下座にて是を聞居て此時すこしまへへ出て〕安ハヽアお国家老大星殿が只今の御理解安兵衛承知仕てござるト〔かんしんのこなし四人の立役銘々刀な提げ花道へつか〳〵といて中程にてすわリ互に吐息をつき仕方ない腹切らうといふこなしにてうなづきあい肩衣をはね肩をぬぎ素肌になつて腹切らうとする此内由良之助は安兵衛と力弥を招きさしづする両人ハツと奥へはいる花道の四人かくごして〕速水上使を引受け討死とは存ずれど今大星殿の仰にも逆臣反謀となれば是非に及ばず千崎御本城を明渡すを生頬さげてのめ〳〵と見てはをられず片山かゝる時節に討手を引受一筋の矢も得射出ぬは生身の腰抜同前富森塩冶の御家に耻をしつた武士はなきかと隣国まで物笑ひは亡君のお耻辱速水一命をおしみ浪人となつて朽果んは武士たる身の耻る所千崎元より我々二君に仕へて後栄を計らん所存は毛頭なし片山討手来らざる内いさぎよく切腹なさば城を枕に討死同前富森義によつて命は薼芥此場の殉死を望む所各心一致の上はおくれは致さぬ四人今こそ切腹ト〔立身にかまへ腹へ突立んとする本舞台より〕ゆらヤレ待れよ旁殉死とあらば承知致したが御一統にお心残の儀はござらぬか速水此期に及び何心がゝり千崎覚悟極めし我々が一命片山一旦つがひし詞は金鉄富森卑怯未練に生長らへる四人所存はござらぬト〔又刀を取直す〕ゆら拙者は敵師直を安穏に生置が死後の残念四人ヤアゆら各々には此儀心残にござらぬか四人ムウヽト〔思案してきつとなる由良之助是と制す四人かたを入てつか〳〵と本舞台へ戻り由良之助の双方より顔を詠める由良之助すこしひそめきて〕ゆら各々命を全うし時節を伺ひ師直を討取て亡君の御墓に献じ其後後切腹いたしなば亡君尊霊如何計りの御満足此場は無事に古例をたゞし作法を乱さず速に御本城を明渡しますイヤサ片手打の御沙汰とは申せども上へ対してお恨の筋はござらぬ唯一人でござるぞ昔が今に至るまでとゞまる所は各一心でござるぞ御承知御合点が参つたか御会得かムヽ手前に於ても千万忝う存ずるト〔四人は聞届るこなし由良之助は承知の礼をいふこなし有てきをかへ〕ゆらまづ御代々御金蔵に納めある御軍用金を配当仕り思ひ〳〵に当地を離散し手前直さま鎌倉へ立越え縫殿様へお目通りを願ひ御台さまお跡々の事どもお願ひ申くはしく御内談申上御思召を伺ひなば大体由良之助めが存じよりと恐ながら符合致す事も御座あらん中々の御才子様にござればお国勝手の拙者など迚も愚案の及ばぬ所でござるとくと御賢慮も伺ひし上ならでは容易に計らひませぬ最も御家門方には何の御沙汰も是なきよし是一つの安心直に手前は引返し都山科にしるべござれば是に引籠りまする御苦労ながら其節彼地にて御会合下されば各々方の御存意も承り手前が存寄も打明て御談じ申す各々方は御当家格別の御家柄ゆゑ御若年とは申せ共かくは御評議に及びまするぞ別て爰に一つの難事がござる今にもあれ城受取の御上使御発向の節若侍一統に御上使へ対し不礼慮外御座有ては相済ませぬ其砌手前一人が高声に申共中々以て行届きませぬ各方には手寄〳〵組下へ由良之助が下知なりと有て御制し下されい此義偏に頼まするぞ何事も委しき儀は山科にて再会のうへ心底打明し申談するでござらうまづそれまでは隠密〳〵ト〔各々を制する所へ向ふより幕明の四人の諸士をはじめ大部屋中通り紋中惣出にて上下諸士のこしらへ花道際より戸屋までつゞきならび出て〕久太夫只今遠見致せし所城受取の役人と見え早馬にて凡同勢五百騎ばかり御城下へかけ付ましてござる丹平して〳〵由良之助殿の御評議はいかゞ相成ましたな片山只今由良之助殿の心底承りし所千崎御軍用を配当して当城を明渡さん評議一決十内すりや当城を明渡し思ひ〳〵に離散となヱヽ奇怪至極勘六我々には上使を引受一合戦仕り物の見事に切腹致さん皆々何れもござれト〔勢ひこんで花道へ引返さうとする四人の立役千鳥に入替り此中へおし分け入り双方よりとめる由良之助は本舞台にて〕ゆらヤレ静まられよ何れも由良之助が唯一言申出す儀がござる立騒がずと各々方一同席に着つしやれト〔手をあげて云へども皆々やはり向ふを見つめかけ出す四人の立役待つしやれ〳〵と捨ぜりふにてとゞめる〕ゆらなしかた〴〵亡君御存生の節は愚昧の拙者が申す事お聞済あつたれどかく相互に浪々の身となればはや由良之助が詞取用ひはないと見える是非がない亡君の御無念御存意を達せんと思ひよりし儀もござれど手前が詞用ひなくば各々方には御勝手になされい冥途にて尊霊に申訳仕る御一統御介錯跡々よきに計らひめされト〔刀に手をかけ切腹せうとする手もとの諸士とめて〕諸皆ヤレはやまり召るな由良切腹とゞめ召さるゝは手前が詞用ひさつしやるか諸士皆々でも由良切腹せうか諸士皆々はやまり召さるな由良詞を用ひさつしやるか皆々でも由良切腹せうか皆々サアゆらサア皆々サア〳〵〳〵〳〵ゆらかやうに各々方をとゞむるには良兼所存がなくて申さんや待といふならサヽ引う〳〵ト〔手にて本舞台へもとれとする四人の立役ともにとめゐて手ぐりに本舞台へくリ戻し下手一ぱいに戻る由長之助下座の諸士皆々にむかひゆら御一統よく聞かれよ今にもあれ城受取の上使発向の砌不礼が有ては相済ませぬ亡君御死後の御耻辱と相成りまするぞ此義第一に承知召れよ又城を枕に打死と決心あらば各々方の一命は亡君尊霊現世に於てはかく申す由良之助大言にはござれ共各々方の一命を預りますが手前に預けさつしやるか御不承知か遠慮なく一身の外味方なければ御思召の通り答へさつしやれ又夫々に評議のうへ返答さつしやれかならず遠慮さつしやるな四人サア評議〳〵ト〔下に居さす是にて三人四人位づゝ膝を合せ七組にも九組にも別れ小声にて談合の思入にて四人の立役いろ〳〵何か言聞かす事暫く有てやう〳〵皆々得心のいたろこなしにて四人へそれ〴〵にあいさつする四人由良之助にむかひ〕四人由良之助殿一統承知仕つてござりますゆらすりや御一統御得心か皆々ハヽア〔つらりと並んで評議する〕ゆら忝いその志あるならば立騒ぐ所でない皆慎んで是を見られよ上「血に染る切先を打守り〳〵ゆら亡君の御無念残る御切腹の短刀は由良之助へ御筐恐れながら御無念の血肉は五臓六腑に守護し奉りやがて時至りなば御筐の短刀にて上「拳を握り無念の涙ハラ〳〵〳〵扨こそ末世に大星が忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくとしられけりト〔紫の帛紗に包みし短刀をさし出し愁のこなし皆々身をふrはし皆々すりや敵師直をゆら是ト〔きつとおさへて短刀をいたゞき納めて〕ゆらハヽア忝い亡君の尊霊嘸や御悦び遊ばされんサヽ何れも御席へ〳〵ト〔皆々行儀よく後ろへ並ぶ此内奥より力弥安兵衛本ま物の結搆なる位牌六つ帛紗に包み又文庫に入し結搆なる過去帳を持出して由良之助の前に置き後ろへ共にならんで〕安ハツ由良之助殿の仰の通りお床飾万端力弥御書院廻りの掃除等まで致しおきましてござりまするゆらお床飾おかけ物立花お表道具其外お持物おかざり付調ひたとなト〔右の位牌を一つづゝ出しいたゞき四人の諸士頭と力弥安兵衛に一つづゝ渡して〕ゆら御家の系園は台さま御持参なれば是もよしト〔右過去帳の文庫よリ結搆なる帖を出して始よりくり出し見て中程にて〕ゆら御当日は売切院さまばかりとおもひしに思ひがけなく当君にもト〔よみさし愁の心にてちよんと文庫へふくさぐち納めふたをして〕ゆら御先祖代皆々我々も代々ゆら皆々昼夜詰たる館の内「けふを限りとおもふにぞ名残りおしげに見返り〳〵ト〔皆々愁の思入にて後ろ向になりあたりを詠める〕〔むかふより〕御上使ト〔ふれこむ皆々きつとなつて〕皆々思へば〳〵ト〔言上るを宜敷とゞめて〕ゆら御上使是ヘ〔手をつくチヨンと木頭〕ゆらお通りあられませうト〔よろしく本幕〕
右正本は弘化三午年弥生角の戯場にて増補裏表忠臣蔵二十二段続四段目の裏趣向は東都眼玉堂白猿作者西沢一鳳軒李叟世に類本ありと雖も抜本又は写しなるゆゑ辞の長短語路の運び違失多かるべし今此本は西沢綺語堂直正本を以て爰に出す者なり
西沢文庫伝奇作書 後集 上の巻終
西沢文庫伝奇作書 後集 中の巻
尾州の藩中星野勘左衛門は寛文九酉年五月二日皇都蓮花王院の三十三間堂にて惣矢一万五百四十二本の内八千九筋通矢にて弓の天下なりしが、十九年後貞享四卯年四月二十七日紀州の藩中和佐大八郎惣矢一万五十三本の内八千百三十三筋通箭にて弓の天下は和佐に定りしと云ふ、是を歌舞妓狂言に大八郎を敵役とし勘左衛門を立役として坊州苗討松と云ふ外題にて潘播[しるたに]のお寅茶屋、山科の奴茶屋などを取組めり、此もとは何とか外題覚えぬ十五巻の写本(濃州大垣の家中に和田大八とか云ふ者の事を書て紀州の和佐大八郎とは別人なり)より出て、其後けいせい倭荘子出来たり、大和の助国、花壇の花を愛して後、蝶となり花壇に戯れしと云ふ『艶道通鑑』恋の部にある作り物語によりて仕組み倭荘子と題せり、是は矢数の狂言とは別物にて、京岡崎に妹殺しありしを戯場にても早速に仕組、建部凉帒(綾足とも云ふ片歌の祖なり)が作『西山物語』には大森彦七の末孫の事にして万葉体の古言に書たる三冊の小説あり、是岡崎の妹を殺せし話を書きたる物なり、倭荘子は小槙助国の名に直して古狂言をはめたれども、狂言一日に足らぬゆゑ、苗討松に出たる和田雷八と越野勘左衛門を交へてやうやく―つ世界の物とせしなり、以後是を題として増補するゆゑ、矢数の狂言にはかならじ小槙助国軍治兵衛等の役わり出て、和田雷八を敵とし星野を立役とするは和佐氏のいかい迷惑なるべし
寛元・弘長の頃鎌倉の執権北条時頼入道、最明寺道崇と呼て諸国行脚したまひしと云事、普く人口に膾炙すれどもたしかなる書に見えず、是謡曲の鉢の木に作せしより藤栄〔謡曲〕なんど作りもうけて、北条九代の内時頼を賢人と称する事尤も古く云伝ふる所なり、浄瑠璃にも北条時頼記・最明寺殿百人上﨟とて元禄・享保に西沢・近松等が作せしも、彼佐野源左衛門経世が事蹟をおもとして出たり、爰に天明四辰年三月二十四日に一奇事ありて、意恨のもとは前年卯極月五日お鷹野の折にして、佐野氏切腹は辰年の四月三日なり、浅草門跡寺中神田山徳本寺に石碑ある事は誰もよくしる所なり、其当座歌舞妓にて稲光田毎月と呼て曽我の世界とし、又けいせい含筒条[ふくみでう]と外題して梶原と結城の世界として始めしかど、未だ其境に至らず、夫より第六ケ年の後寛政元酉年八月十五日より堀江此太夫座の浄瑠璃作者菅専助有職鎌倉山と外題を呼び、佐野源左衛門経世、三浦前司泰村の忰荒次郎義勝を刃傷にすと作り、都て北条時頼記の役名を借りしは近来の浄瑠璃に珍らしき働なるべし、尤も時頼記にも鷹狩の場ありて由解大助・原田六郎の詰合あれば、それに倣ふて三浦と佐野とし、七つ目佐野の隠れ家に天逸坊をちよんがれ坊主につかひたるはよき書物といふべし、天逸坊の一話は享保十三申年秋八月大岡侯のお捌にて落着せし事是又よく人のしる所なり、佐野氏一件より五十六年前の事なれども、此狂言に書入たれば後には同時の事とおもふ者も多かるべし、此鎌倉山にて田沼の世界定まりし後はけいせい佐野の船橋・鎌倉比事青砥銭などゝ歌舞妓にて外題をよぶ事とはなりけり、先狂言の佳否は二段にして世界人名をよく案じ付たるは作者の手柄にして、前集に云ふ忠臣蔵の狂言は夜討の年より四十七年目に漸く高野師直・塩冶判官・大星由良之助と世界人名定りたるに、佐野は六ケ年目に世界定まりし、其すみやかなる事感ずべし
元禄の頃江戸新吉原にて万字屋の抱女郎八橋を切害しかの籠釣瓶の刀(水もたまらぬとほめたる謎なり)を以て廓中にて大勢の者をあやめ召捕られ死罪になりしと云佐野治郎左衛門は総州の郷士なり菊岡沾涼『近世東都著聞集』にも出し江戸にては歌舞妓に仕組青楼詞合鏡と外題して大通人と云紀文と混じて二番目物の世話狂言とせり紀文事は大尽舞の文句にもありて紀の国屋文左衛門とて東都の豪商なるが活達の聞え浪華の椀久に相似たり此紀文の外に植木屋文蔵お賎女郎と情死せしを紀文お賎と取組佐野に八橋お賎に紀文と対にし佐野源左衛門鎌倉山を前狂言とし切狂言は源左衛門の別腹の弟治郎左衛門と作り花菖蒲佐野八橋とせしもあり何分八橋治郎左衛門も紀文も江戸の事なれば京摂の耳には遠く狂言に呼ねば自らしらぬ人も多かるべし
慶安年間陰謀を搆へ梟首となりし由井・丸橋等が事跡をしるせし書数本ありて、何れも実説〳〵とあれど皆推量の説のみなれば信ずるに足らず、中にも『寛慶太平録』と云ふ書は『慶安太平記』・『鼠猫太平記』などゝ違ひ珍らしき所ありて実説に近からんかとも思ふ条もあり、此中には彼の宮城野・信夫に助太刀をして復讐の事を載せず、外に由井女敵討の助太刀せし事を記したり、由井・丸橋を浄瑠璃にて享保十四酉牟尼御台由井浜出と外題して泉の親衡に托して出したれども末世に行はれず、慶安某の年より八十ケ年後にさへかくの如し、是より後歌舞妓にも廓習昼夜正説[さとならひゐつゞけばなし]とてやうやく外題に小説と匂はせ見れど、もと謀逆の族なれば和らかみなく狂言になり兼たり、宝暦九卯年太平記菊水の巻にて南朝北朝を世界にかり宇治の常説鞠瀬秋夜と誣つけーより漸此世界とは定りけり、然れば慶安より百十年目に狂言とはなれど、するどき計りにて和らぎなし、安永九子年江戸にて碁太平記白石噺とて宮城野・信夫の敵討を題にせしより狂言に和らかみ有ていよ〳〵此世界とは定りぬ、其後は歌舞妓に姉妹達大礎など作して白石噺の作者烏亭焉馬が作功なりけり、今駿府両替町北側に梅屋勘兵衛宅の跡ありといひ、又府中上の口弥勒寺に姉妹の尼が由井の菩提のため建立せしといふ墳墓あり、是も安永の白石噺後姉妹の尼が建立なりと唱ふるにやあらんかし
享保三戌年近松門左衛門作にて山崎与次兵衛寿門松と云ふ浄瑠璃に新町ふぢや吾妻といふ傾城に身をうち【本のマヽ】与次兵衛狂人となる仕組あり、かの椀久に似て同時の頃の人なるべけれど与次兵衛には証とすべき者なし、是は全く淀屋辰五郎家屋敷闕所となり城州八幡へ引籠りたれば、其放蕩の事を写して、八幡山崎の対に見立、与次兵衛と拵へなしたるなるべし、新町の傾城も淀屋辰五郎が通ひしは茨木屋吾妻、与次兵衛が馴染しは藤屋吾妻なり、茨木屋幸斎奢侈の咎め請し事あれば藤屋とせしものか、又与次兵衛の父を山崎浄閑と呼たり、是山崎宗鑑によりて名づけしものか、又難波屋与兵衛(俗に是を南与平と云ふ)吾妻を見そめ、母より頼みて吾妻と盃をし兄弟分となつて金を貰ひ、江戸へ行き油商となりて立身する事あり、是は宗鑑の句に「宵ごとに都に出る油売更てのみ見る山崎の月」是よりおもひ設けて南与兵衛油商ひに利を得ると仕組し物なり、歌舞妓狂言にけいせい黄金鱐と云ふは、美濃国斎藤家の狂言にして先祖は庄九郎と云ふ油商人より立身せしと云ふ、系図をかたり家老に山形道閑と云ふあり、是も山崎宗鑑を云ふか、寿の門松には与次兵衛の嫁をお菊、舅の名を梶田治部右衛門とて淀の郷士となし、敵役は津の国服部の下人葉屋彦助と云、此狂言より八年後享保十巳年に昔米万石通とて西沢一風作、濡髪長五郎・放駒長吉の狂言出、是より又二十五年後寛延二巳年寿門松・万石通を一つに作して双蝶々曲輸日記と竹田出雲は作せり、然らば山崎与次兵衛は寿の門松より三十三年目にして双蝶々の濡事師役とはなりけり、此時浄閑の名を与次兵衛として、与次兵衛を与五郎と改め、治部右衛門を橋本の郷士とし、嫁をお照と改め、難波屋与兵衛(一名南与平)を八幡の郷士南方十次兵衛の忰と改め、狂言の筋は其まゝながら、世界爰に一変して淀屋辰五郎が事跡とは誰も心付かぬやうには成りけり、夫より後は長吉・長五郎の狂言といへばいつもやつし役は山崎与五郎をつかひ、南与兵衛の役名は第二義となりけり、芝屋勝助(司馬叟)長噺の内、売油郎と云唐山の小説を通俗して『油』と題し、山崎の油商人傾城を見染一生の思ひ出に此君を抱寝せんと、日々纔の銭を溜置後大尽の姿となりて青楼に遊ぶ一話を作す、此名を油屋与兵衛と呼、傾城を藤屋吾妻と呼ぶは旧寿の門松難与兵衛の事にして、かの宗鑑が職人歌合の油売の狂歌より出たるものなり、近松翁は都六条柳町の遊君芳野(後灰屋紹益の妻)太夫に惚たる鍛冶屋仁蔵が一話と、材木にて利を得たる河村十右衛門(河村瑞軒)の事を合せて、寿門松の難与兵衛とせし考は追加に出すべし、椀久の紋所は扇車なりとは自笑・其磧等が作の双紙に出、山崎与次兵衛の定紋は蛇の目なりと寿門松にあり、淀屋辰五郎の定紋は未だ考へねばしらずといへども若しや蛇の目の紋にやあらん、後人の考へを待つ
信濃なる浅間嶽のもゆといへば富士の煙のかひやなからんとの古歌より思ひ設けて謡曲の富士太鼓を作せしより、後に小説稗史浄瑠璃歌舞妓にも種々と趣向を付一かどの物とはなりけり、旧より作り物語にて根なしごととは云へども是等はいつの時代と定めず、其うへ舞楽伶人の雲上なる事なれば作者にはよき得意なるべし、自笑・其磧等が双紙に種々有て、浄瑠璃には弱法師(高安の一子俊徳丸)と混じ合せ莠[ふたば]伶人吾妻雛形と外題して享保十八丑年に並木宗助作せり、文化の始頃東都戯作者曲亭馬琴『三国一夜物語』とて小説を出せしより今は専ら此世界になり、歌舞妓にも是を潤色して復讐高音皷また内百番富士太皷と呼もあり、馬琴の読本に、御座船の内にて浅間と富士が舞楽の問答は、千路行者の作『英双紙』か『繁夜話』の中に豊原の兼秋音[ゐん]を知る一話をはめたり、かれは琴これは太皷と変りたる計りなり、因みに云、小説は英繁の作者(十河六蔵)に見所ありて京伝・馬琴よりは遙に立伸たるものなり、曲亭も毎度此小説を採たる文あり、又弱法師の俊徳丸を摂津合法辻に加へ半二は作せり、富士・浅間・住吉・天王寺の楽人弱法師は西門にさまよひて日想観を拝し、合法辻はおなじ所の古跡なれば、何れも荒凌山に縁あればおなじ世界に取組てよき見付物なるべし
剣術に名高き佐々木巌流はいつの時代に有りしか、其うへいつも敵役にせらるゝは不幸とやいはん、浄瑠璃には延享に花筏巌流島、安永に花襷会稽褐布染とて日本武者之助助太刀して敵討の仕組なり、文化の始宮本無三四(剣術名誉の人、書画をよくす)の実父吉岡太郎右衛門の敵巌流を討と剣法の達人に名高きを作り設け『二島英勇記』と題せし稗史出たり、是より旧の巌流島の狂言廃り『二島英勇記』に一変して、近来段々是を増補し東都の講釈師剣法名誉の人名を集め数日に読延し長々敷物語となしたり、され共狂言には成がたく、色気なくいつも剣術のするどき話のみなれば、『忠義水滸伝』を読ごとく心ばかり強くなり、りきんで聞くのみなれば講釈にはよく共、喜怒哀楽の四情に通せず、狂言には成がたし、敵討巌流島共復讐二島英勇記ともよびて近来歌舞妓に毎度すれども、旧浜芝居狂言にして無三四一人は変らねども、相手役一遍づゝ出合ひて後に出る事なく見所すくなし、是等を浜芝居狂言・竹田狂言と唱へて好者家には嫌ふものなり
嵐雛助(始中村十蔵小珉獅の事)寛政八九年の頃しきりに評判よく、見物より声かゝり褒てかゝれは其身も嬉しく、いよ〳〵舞台出精して肩をいからし楽屋に入りし時、父小六(始雛助小六玉なり)呼で、今見物の褒たるは誰を祝ひてほめたるぞと問ふに、珉獅付の下男、若旦那を褒てのぢやと(ぢやとは楽屋方言にほめるを云)いふ、小六小珉獅をにらみ付て、扨も〳〵苦々しき事なり、即座に褒る見物は浜芝居の見物なり、門へ出れば直に忘れて仕舞ふ切見の見物のする事なり、大歌舞妓の見物は一日の狂言を見、帰つて一日の惣評をして誰渠は上手なりと感心して褒るが故に芝居芸中に褒るものにあらず、それをしらず声さへ掛くれば嬉しがり、見えを切らずともよき所にて見えをきり、せりふの言はなしにも場当りよきを考へ褒るやうにするは下手役者、浜芝居の十文役のする事なり、大歌舞妓の古名人役者は誰言合すともなく仇褒をさせまい〳〵と計り考へて大事に勤む、去とては情なや、うぬが仕やうの下主張[げすば]ると見えたり、たしなみおらうと大音にて詈りこらせしとぞ、実に其道に秀でし名人の詞には金玉の論あり、感ずべし、右に云ふ二島英勇記の狂言に心を付て見るべし、二段目無三四凱陣してよりさせる役なきにより、■*11礎花大樹[めいしよのいしづへはなのたいじゆ]の中入、来芝が拍手公成いろはの桜子と傾城買の論、嘘より出たる誠真より出たる嘘といふ問をはめてすれども(此誠の嘘と云ふ事は『傾城禁短気』自笑・其磧合作の書にあり)実の濡事師ならねば狂言浮てしまらず、それより直に立廻り(金輪又は玉川の歌に合せ八人詰のたて)跡の出立はけいせい会稽山二段目加藤清正〔浅尾為十郎〕、上田慶治郎〔嵐吉三郎〕のはめ物なり、三つ目備前一の宮の場にて白倉の娘糸萩武者修行の無三四を見染、直に白倉屋敷より風呂場となり、命を捨て無三四を助くるとは狂言浅くしていはゞ仇惚する浮気娘なり、兼て大序にても見染ゐて一年と二年立事、狂言ならでは情ふかゝるまじと思はる、薄情の移り気は当世のはやり物ゆゑ、英勇記などは当時の人気に叶ふかはしらねども、但見ため計りよくて実少し、是を浜芝居狂言と云、又小六玉の忰に教訓するも大歌舞妓浜芝居の差別ある事を云ふなり、今や古への大歌舞妓の役者なければ見物もなし、賃子役者と賃子見物とが大歌舞妓の小屋に集り見せ見られつする事なれば、かく論ずるも無益ならんか、世の流弊のなす所嘆ずべし〳〵
■*11
延宝の頃江戸新よし原に名高き女郎多かる中に、三浦屋高尾は三股にて提切となりたればこそ意気張強き美名を遺しけれ、卑しき女郎と一口にいはゞ云へ、其廓中に流を汲む輩は神とも仏とも崇むべし、爰によく似たる一話あり、梅朧主人の作せし『新斎夜話』に作りもうけし話ながら、或る日大石良雄次男大三郎を連れ北野の聖廟に詣で絵馬堂にやすらひ、あれ是絵馬を見するに、大三郎王昭君の絵馬を指して其訳を問ふに、良雄くはしくとき聞せ、古人の詩にも昭君若贈黄金賂定是終身奉君王と作せりと語る時、後の方に口惜き詩の誦しやうかなといふて過る者あり、老たる法師の御灯の油をさして本社の方へ行にぞありける、良雄心に掛れば本社に至りかの老法師に逢ひ、今昭君の詩を吟ぜしを御僧の聞咎め給へるはいと心にくし、我等は田舎に育ち仮名付本のみ読習ひし事なれば、都の人の耳には嘸をかしと思さん、今の詩はいかによめるがよき事に侍ると問へば、法師の云、我等こそ遠き田舎の生れにて侍れば、梁塵の雅声などは夢にだに聞侍らず、されどいさゝか手爾遠葉にて事の大意大に違ひ、題の趣も作者の心もかくる事あり、愚案をいへば、昭君が画図に写されし時、外の宮女の中にも昭君に劣らぬ美人いか計有けんに、今其名をだにしる人なし、昭君独千載に哀を残し顔かたちのみか、心の内の正しき事美しかりし事誠に天下の美人といふべし、譬ひ外はおとらぬ貌ありとてもかの黄金贈りし心の醜さはいかで愛するに足るべきや、諺にも人は一代名は末代といへる如く、利欲を離れて名望をおもはんにはしかじ、されば江の相公も其心をふくめて、昭君もし黄金の賂を贈りなば、定て是身を終るまで君王に奉るのみならんと作り、賂を贈らねばこそ末代に美名を残しつれとの意を含ませて、昭君が潔白を賛し給へるなるを、足下の吟じ給ふやうにては昭君が清潔を過てる様に心得給ふやうに侍れば、不図難じ侍るなり、凡今の世に仕ふる人を見侍るに、其心得違ひあるも少なからず、桀紂は天下に王たれども人是を悪み、夷斉首陽に餓たれども人是を好す、清盛の栄華ならんよりは、正成が薄命なるぞ羨しき、僧の利の為に法を説を売僧といふていやしめ、士の利のために仕るを商奉公といふて譏る、名利両ながら忘れてこそ道に近づくとも云ふべけれと、老法師の高論に、良雄は内に思ある身にしあれば感じ別れ、重ねて尋ね侍りしかど其僧はいづち行けん、しる人なしと書けり、高尾は事こそ替れ喜は相同じからずや、貴人におもはれ身の幸ひを喜ぶべきを、兼て契りし浪士に操を立意気地を立通せばこそ提切ともなれ、其侭貴人に仕ふれば誰高尾ともいふものあるまじ、廓の意気地といふは則操なり、操を守つて清潔の名をとゞむる、是らを廓中の王昭君ともいはまほしき事なりかし
或書に是は大久保家に有りし事なりとあれど、天明二寅年江戸浄瑠璃加々見山旧錦絵と外題せしより、加州の奥向にてありし事とはなれり、諸候お屋敷の大奥には是に限らず毎度あるべきともおもはる、古くは『鎌倉見聞志』に局松島、朝比奈義秀を思ひて北条朝時に嫁するを忌て自殺の時、召使の婢女に書置を渡す所、粗尾上のお初に状箱を渡す内に似たり、〽鏡山いざ立よりて見てゆかん」と黒主の古歌ありて江州の事とし、文字に加賀見山と書て聞せしものを、東都歌舞妓三月狂言には年々歳々仕尽し、其世界を北条にし、足利にし、色々増補すれども惣名を加々見山と唱ふるもをかしからずや、中にも金龍山婦女行列と云ふ外題あり、是等は打出して東都の事と顕はし、鏡山と始て外題に付し時の作者の苦心はむだと成りけり、忠臣蔵の世界にても浪華にて本国を伯州と唱へ、法を崩さず、江戸にては播州赤穂とあらはして唱へ、両国橋の、泉岳寺のと、あらはに唱へても咎めもなく仕来りしと見えたり、されば東都は唯闊達に土地広きがゆゑ瑣細なる事は咎めず、狂言に取しまりなく、着物を重ね着して梢をしめず歩行におなじとは、江戸狂言のよき悪口なり、浪華は古くより狂言の作り方甚だ手渋く、やゝもすれば狂言の穴を見出す輩多ければ、浄瑠璃歌舞妓ともに作に骨の折たる所なりしも、近来何事も江戸物といへば通ぢやとか、意気なとか褒て、江戸狂言の帯解広げなるを咎めもやらず、見事とはなりけり、三都名物も多き中に、浄瑠璃歌舞妓の狂言は浪華第一の名物なり、上手下手の位は浪華の相庭に極る所なり、年々衰へ諸芸人はもとより見切者とてもなくなりしは流弊の世是非なしといはんか
所作景事に扇の手ありて、故芳沢あやめ・故中村富十郎妙を得たる事は前にも演たる如、能太夫より流儀を伝はり我一流とする事勿論なり、中にも蝶の道行とて倭荘子に小槙・助国番ひの蝶戯れて花壇に遊ぶさま故来芝[こらいし]・其答[きとう]に始り、今は扇を蝶と見て遣ふ事になりたり、又鴛驚の景事は大歌舞妓にはけいせい素袍裡に故來芝・其答に始り中芝居にはけいせい妹脊鴛鴦とて泉川桶蔵・芳沢吉松勤む、是は謡曲能に鷺乱の所作あり、神泉苑の池の汀にて五位の位を賜りたるを歓びて舞ふなり、此能には秘伝ありて前髪ある者ならでは勤めずと云ふ、実にそれなるや不知、歌舞妓の鴛鶯の所作番ひ蝶の所作は鷺乱より趣向を取て所作を作せるものなり、文化中に三ケ津三番ひ鴛鴛の所作事を出しけり、彦三・大吉、来芝・友吉、芝翫・いろはと三組なり、此時の見功者おし鳥にてはなくあひるの所作事なりと批評せしが、其後は木兎か梟にてやあらん、家鴨のうち今一組残らば歌舞妓もかくは衰へまじきを昔恋しとやいはん、因みに云、昔は能も手軽き事にて臨時に見物より所望の能を勤し事、今の御乞におなじ、当時は数十日前より番組を定め騒ぐなり、猩々の乱昔は太夫の心にて若切幕より扇を広げて出せば、囃子の役人心得て乱を打、然らざれば常の猩々なりと、是らも手軽く其道に達者なるゆゑなり、芸は下手になり、事は重々しくなる事何の芸もおなじ
安永五申年盆狂言に博多小女郎浪枕(近松門左衛門作)の浄瑠璃を題にすゑ和訓水滸伝と外題して志摩の小平次異国へ漂着の一話を書加へ歌舞妓狂言になしけり、其時の役割は小町屋惣七〔元祖〕小川吉太郎、小女郎山科甚吉、島の小平次中山文七〔黒谷〕、そろの後平治[ごへいじ]・毛利九右衛門二役浅尾為十郎〔銭屋奥山〕なり、此九右衛門役は海賊の頭なれば衣裳みな唐物ならでは写り悪しとて、着付羽織は白羅紗の対、下着は唐更紗、足袋は金唐革、其余提物に至るまで古渡りの唐物計りをつかふとて五十両の用内(給金の外入用金を云)を奥山は取けり、此頃は衣裳小道具とても甚質素なる者なりしを、五十両の用内を取りし事ゆゑ定めて美々敷衣裳ならんとおもひ初日に見れば、着付羽織は白の紋羽、足袋も木綿に摺込みし金革紛ひなり、興行人より奥山へ約束の違ふ事をせめしかば、奥山云大金を出すが故に噂をする、噂高ければ見物おどされて紋羽も羅紗と見る、さすれば羅紗を着ようと紋羽を着ようと奥山の徳分にて毛利九右衛門が取るなり、大金を出すゆゑ噂高く始より紋羽ですると有ては人気よからず、斯様な用内を取るは此役と此役者とに有と云ひしが、羅紗金革と見物は見て取る、古今の大当りを取りしとぞ、近来御趣意後は止みたれ共、其以前は銘々衣裳小裂までも金銀にあかせ善美を尽せども、芸道の拙きを衣裳にて錺るのみにて着曠する事なかりし、先璃寛〔二代目嵐吉〕は衣裳好み上手なるうへ着曠して、何の時の衣裳かの時の衣裳を見物もよく見覚えし程なり、既に青柳硯道風の役勤めし時、洛東山狼唄窟の主人〔俳師大卵〕より官位に合ひし本装束を取寄、舞台に勝手よき様それを手本に仕立させ用ひたり、釈迦如來転法輪処の文字を書くにも四天王寺額の大掛物を特々床にかけ、三五年前より隙ある時は書習ひ居たり、狂言も故名人の仕来たりしをよく見覚へ居て工夫に渡り勤めしゆゑ、小野の道風と云は此様なものにもあらんかとおもふ計りなり、かやうな役は軽卒に勤むべき役にてはあらじかし、当時けふ云ひ出して翌から始めんと芝居にもかゝるむづかしき役を勤むる芸人の心行計り強く、所詮妙境には至らざること知るべし
内外二百番の謡曲の内故作者大約に取用ひ浄瑠璃歌舞妓稗史小説にも出し鉢の木富士太鼓の類ひ各其世界を定め仕はやせる物から見物にも皆馴染となり種々増補もする事になり望月なんどは能にても俗に近く見るにいと面白き物なれども絶て浄瑠璃歌舞妓の狂言に出ず予は兼て是を歌舞妓にせんとおもふ事久し以前半書きかけたる草稿あり小沢刑部友房をすべき俳優とては当時是なきものから打捨おきしが徒らに紙虱の栖とならん事を惜み草稿筋書のまゝ爰に出す石橋の所作を得たる役者は亭主の間を仕兼亭主の役をこなす者は石橋の業を得勤めず是らは花実兼たる名人役者ならではうかつに勤め難き役なりかし後世此役を勤むべき役者出なば愚の喜ぶ所なり尤も追善とか一世一代とか唱へて道具衣裳万端再吟の上出すべき場なりやり付急稽古等にてはせぬ方余程手柄といふべし
一面化粧やね軒に講札張詰たる宿屋のかゝり下手に見事なる門甲屋と印せし宿屋の印爰におじやれ四人仕出し旅人を呼て居る旅人の仕出し五六人留られ居る体有在郷にて幕ひらくお百おとまりぢやないかいなア女三人泊らんせ〳〵旅人いや〳〵おいらは武佐までゆかねばならぬ小女郎むさ所か鏡までもよつ程ムんすぞへお半守山で名代の甲屋はこゝでござんす小万旅籠も安うて坐敷も奇麗でござんすぞへお百またお伽が入るなら私がゆくがどうぢやいなア旅人あゝなさけないいかに三上山の近所ぢやとて百足の妖物を伽とは御めん〳〵旅人ソレ〳〵あちらの三人の内が伽なら旅人おいらも一所に泊る気ぢやお百是々あの衆達ぢやとてわしぢやとて味にかはりがあるかいなア旅人いや味にかはりはなけれど貴さまはえならぬかざがする旅皆ほしか納屋ヘマ入ったやうなハヽヽヽヽ旅人サヽござれ〳〵ト〔わや〳〵いふてわかれ這入る〕何ぢや泊らにや泊らぬでよい事をわしを百足の化物ぢやの嗅がするのとあの赤とんぼめらが小女郎お百殿もうよいわいの何ぼう此様にお客を引ても肝心の旦那様やお家さまのおるすコリヤどうした事であらうのお半されば此十日程已前からお家さまは坊さまを連てふつと出やしやんして今に行衛がしれぬよつて近所のお衆が毎晩〳〵かねや太鼓で尋ねさんしても小万しれぬと云ふて現在女房や我子の事近所のお衆に苦労をかけるも気の毒なといふて旦那さまはきのふから尋ねに出て是も今に戻つて見えずお百めんようなこちのお家さまは抜参りさしやる年でもなし一体わしとは違ふて器量よし今度の家出はてつきり狐が見入て旦那さまに化て毎晩〳〵稲村の陰で狐にだかれて寝て居やしやんすか小女郎何のマアそんな事があらうお百さうでなけりや叡山の天狗が鼻をじまんで女房にして居るか女三人あれまだあほらしい事計りホヽヽヽト〔笑ふ此時橋掛りにてかね太鼓をたゝき〕百姓大勢かへせ〳〵おちかを帰せよし松かへせ親子をかへせ〳〵ト〔大勢はやして出る〕小女郎是は〳〵皆々様御苦労でござんすお半まあ〳〵お茶なと上つて下さりませ篠七サア皆の衆一やすみしませうト〔めい〳〵腰をかけ〕お半さうして何ぞ手掛りでもしれましてムんすかへ篠七いやしれぬ〳〵気の毒はお内儀といひちつさまでのう皆の衆むさ八サア息子のよし松計りなら迷子の子ぢやが母親も一所にしれぬからはこりや迷子の親子ぢや何ぼ尋ねてもしれぬとはもつけな物ぢややす吉サアそれでおいらも気の毒さに随分と精出して夕べ彦根の町から日野長浜まで尋ねたがしれぬ篠七あゝ嘸才兵衛殿も気がもめうが皆々才兵衛殿は内に居られるかのひ小女郎イエ旦那さまもゆふべから尋ねに出てゝござんすやす吉さうであらう内儀や息子の事内にじつとして居られうぞおいらなら気違ひになれどいふても以前が武士の果むさ八今は宿屋の亭主でも以前は歴々かういふ騒動にもあはてず落付た物ぢや皆々さうでござるわいのト〔在郷になる花道より亭主才兵衛羽織一本差にて若君の子やく着ながしかゝへ帯旅なりの北の方を連れ立出て花道にて〕才兵衛是は思ひ掛けない所で御親子様御対面を仕りましてござりまする北の方そなたに逢ふたは主従奇縁の尽ぬしるし此子のため自らが喜び何かの様子をとつくりと才兵衛何を申すも爰は往還あれに見えますが私が宅むさうはござりますれどマア〳〵御二方共にト〔本舞台へ来て両人を下座に置きずつと通る〕女四人ヤア旦那さまお百皆々本に才兵衛殿才こりや皆近所のお衆此間女房忰が行衛がしれぬゆゑ思はぬ御苦労に預ります篠七何の苦労はいとひませぬが何ぼう尋ねてもお内儀や息子殿の行衛が今にしれいでお百アヽ気の毒にござるわいの才サア私もあなた方のお心ざしが忝なさせめてはと存じましても昨日から大津の方を心ざして尋ねに出ましたが女房の事は何共存ませぬが道々も余所の子供が遊んで居ると忰めが事を思ひ出しイヤ〳〵二人の事はとんと思ひわすれて幸ひの事ができましたお百皆々才兵衛殿幸ひな事とは女皆々旦那さま何でござんすヘ才サアそちらも喜べ近所のお衆にも御苦労を掛けずもつけの幸ひな事ぢや皆々なんぢやもつけ幸ひぢや才その様子只今お目に掛けませうト〔北の方にさゝやき〕才ハテ何であらうと私次第に成てマアお通りなされませト〔北の方と若君を皆々の前へ連て出る〕お百皆々是此女中や此子は才此才兵衛が女房忰皆々ヤア才サア出船あれば入船と行衛のしれぬ女房忰それを尋ねに出た道でふつと相談して儲て戻つた是此女房忰お百皆々ハアヽそんなら此女中や此子を才早速私が女房忰にしませうと連て帰つたは何とよい手まはしではござりませんか篠七成程行衛のしれぬ女房子を尋ねに出て直に女房子を連て戻つたは本に出船あれば入船ぢや小女郎申旦那さまいかに行衛がしれぬとてあんまりさつきやくなお手廻し今にもお家さまが帰らしやんした其時は皆々それ〳〵大事あるまいかの才何のかまふ事皆のお衆も聞て下され女房のお近は現在の男に暇も乞はず忰を連れて家出をしたは皆々オヽしたは才狐狸の所為か但しは不義間男か皆々何のまあ才マア其詮議は二段にして帰せ戻せの迷子ぢやのと近所のお衆にまで思はぬ苦労をかけまするは皆々オヽ掛るは才時にけふで十日計りも行衛のしれぬ女房子どうなつたやら向ふもしれぬ事に幾日も掛つては居られぬ事又お前方に事をかゝすといひこちの身の上はめつきやくの基でござります皆々成程尤ぢや才そこで似合なあの女房忰連て戻つて改めて持替るは今物怪の幸ひぢやあるまいかむさ八いかにも〳〵幸ひなる事ぢやこりや持かへたがよからうやす吉それでおいらも晩から尋ねに行くを助かるといふもの才サアそこで両だめに持つ女房子何と皆の衆聞えましたかお百皆々オヽ聞えた〳〵才此上は女子供わいらも随分気を付てせんの女房お近どうせんにおもふてくれよお半アイ〳〵さういふ事なら申家さま女皆々おたのみ申ますぞへお百申新米のお家さまへ北の方ヤアお百なぜ物をいはしやんせぬぞい北の方サア何といふてよからうやら才アレアレ皆の衆見て下されまだうひ〳〵しいよつて恥かしがつて挨拶も出ぬぢや篠七そりや道理ぢゃ恥かしい筈ぢや見れば見る程あたま付と云ひ衣裳付お百ても結構な形ぢやが申旦那さま百女皆々一体此女中は才白拍子ぢや皆々何ぢや白拍子ぢや才サア野上の宿の白拍子年が明けての身の片付そこで我等が女房に呼迎へて候篠七ヨウお百ヨウ皆々聞えた才此上はあの形もかへさせて宿屋の嚊小女郎髪は私がゆひ直して上げうわい北の方そこは宜しう頼みまする若君母さま早う都へおのぼりなさらぬかいの北の方イヤ〳〵都へ上るに及びませぬ此上はあの刑部に才アヽ是ぎやう〳〵御忌[ギヨキ]参りなら正月に都の智恩院へはおれが連れて参ツてソレ大工が忘れた傘を見せるはいのう女房ども北是そなたも母次第になつておとなしうして居やヽ若それでもわしはとゝ様の才爺さまといふはおれぢやぞヱヽ是なじみがないによつて無理もない小万アレ見やしやんせ内のよし松さんと違ふておとなしいぢやないかいな篠七時に才兵衛殿が新らしいお内儀をもたれたら下地の内儀を尋ねるにも及ばぬ百皆晩からかへせもやめにせうわいの才さうして下さりませ今までは段々お世話でござりましたむさ八おいらもしんどいめを助つたは物怪の幸ひやす吉ソレ〳〵いんでやすむもゝつけの幸ひ篠七幸ひ尽しの祝ひ事は追ての事才成程祝言の時藷方も呼ませう膏そりや璽い時に今迄かへせ〳〵と尋ねあるいた此太鼓かねやす吉素手でいぬるもどうやら張合がないぢやないか篠七サアそこはおれが思ひ付才兵衛殿は物怪幸ひ女房子替へた〳〵百皆々お近をかへたよし松をかへた〳〵ト〔太鼓鉦にて皆々はやして下手へ這入る〕お半申旦那さま何はなく共晩の御祝言の拵をしませうかいなア才オヽよう気が付たおれはいふても花聟の事なれば構はぬ程にわいらよいやうに拵てくれ〳〵女皆々そんならお家さま才ハテ女房共に挨拶はいらぬ早う〳〵女皆々アイ〳〵ト〔奥へ這いる〕才それ島台も餝つて雑煮もがてんかト〔奥口伺ひ相方になり両人を上座に直して〕才御主人の北の方白菊さま若殿花若君北以前の家来小沢刑部友房才ハアヽ恐れ多い拙者が其名乗も御主人安田の庄司友治[ともはる]公の一字をたまはり大恩を蒙りし身も御不興によつて今町人と成て賎しい宿屋は仕れど何卒元の主従と帰参の義を平日の大願所に今朝瀬田の橋詰にて不思議に御対面申せし御親子さま途中の事ゆゑまだ様子は承りませぬが心元なう存じまするして事の子細はどうででざりまする北友房そなたに様子を語るも無念なやら悲しいやら今更涙が先立つ計りぢやわいのう才イヤ〳〵申北の御方左様に御愁嘆あつては事の様子が相しれませぬたとへいかやうの儀でござりませう共拙者が対面申上憚かりながらお気遣ひはござりませぬ何故御親子上方へさまよひお上りなされしぞ其様子早う仰聞られませう是はしたりやはり御愁嘆誰ござらう甲斐信濃の御主安田の庄司友治公の北の方ではござりませぬか北サアその我夫友治公には人手に掛りて相果なされたわいのう才ヤヽ何と仰せられますな北口をしや我夫には過つる葉月名におふ姨捨山の月御遊覧の帰るさ長柄の鑓をもつて乗物ごしに突通され急所の深手にやみ〳〵と御最期をとげ遊ばしたわいのう才ヱヽ〳〵〳〵北そのうへ家に伝はる司馬法の一巻まで奪取られたわひのう才ナニすりや大江の匡房公より伝はりし兵家の奥儀をしるせし司馬法の一巻を奪ひ取らんためチヱヽ若母様早う都へのぼつてとゝさまの敵が討たい刑部討たしてくれいやい才若君様には健気なお詞然らば北の方には敵を討ん其ために北此子を連れて上洛の道にてそなたに対面とげしは神仏のお引合せ才君父の仇には倶に天を戴かずと申せば北どうぞ親子の力となつて才御不興の拙者なれど北以前のよしみ才古主の敵北かならず共に才オお頼みなくても討たにや叶はぬ二君に仕へぬ拙者がたましひ何卒御不興のおわびを申今一度御圭人とお目見えとげんと思ひしに武運の拙き御主人の御不幸してその敵は何者名苗字とくと御存じでござりまするか北サア我夫の御最期に御無念の血汐をもつて肌着の袖に印し給ひし敵の姓名〔ト懐中よリ白絹を出して見せる〕才流石は御主人御最期の場所に天晴の御賢慮何敵望月左衛門秋仲を討取て修羅の妄執を晴すべきものなり安田庄司友治すりや敵といふは北望月左衛門秋仲都在番とあるゆゑ才お気遣ひなさるな敵の名苗字しれし上はお家の重宝奪ひかへし拙者が助太刀北夫の敵此子のためには親の仇才御圭人への修羅の忘執北サ一時も早う才心はやるはお道理なれど敵望月は名におふ大名うかつに向ふは事の破れ是には手立がござりませう〔ト手を組みじつと思案する向ふよリ問屋場役人袴羽織にて関札をかたげて〕役人サアござれ〳〵甲屋はきつい仕合せぢや役人□△さうでござる共才兵衛殿〳〵才オヽ仲間衆けたゝましい何事でござる役人是めでたいは〳〵爰な内へ大名衆のお着ぢやしかも都在番のお大名ぢや役□随分と丁寧にせにやならぬ其代り旅籠代は掴取ぢや役△とんと銭もうけの昼になッて来たぞや才是々こちの内へ大名のおつきかな役○サアどういふ事やら本陣をさし置て甲屋がさし宿ぢや才アノ都在番の御大名がこちの内をさし宿で役○追付お着ぢや此席札を表へ立ておくぞや才どれ其席札を役○何ぢやおいらはヱヽよまぬ字だ〔トさし出すを見て〕才望月左衛門宿北ヤア才もしお喜びなされまし望月左衛門が私方へのさし宿北思ひがけなう此家へ来るも才時節到来北天の恵みか才御主人のお引合せかヱヽ忝い役○オヽ悦びは道理ぢやおいらは迎ひに行ねばならぬ座敷も奇麗に掃除しておかしやれ役△○此宿札はかう立ておくぢや役○本においらもあやかりたい□役△サア〳〵ござれ〳〵〔ト三人しか〴〵有て橋がゝりへ這入る北の方若君懐剣を出し身ごしらへして〕北サア花若用意がよくば日頃の本望とげさすぞ若嬉しうござる北サア友房約束の通リ才敵望月を討せまする北サア一刻も早う才ハテ一途にはやるはお道理なれど我家へ来る望月は袋の鼠網の魚せいては事を仕損ずる何事も拙者に任せマアそのお姿も改めオヽ憚りながら女房忰が着物なりと〔ト押入をひらききがへを出す〕北そんなら是を才旅籠屋の女房忰と心をゆるます一つの手立北成程尤も才ちやつとお召かへなされませう〔ト所知入に成り向ふより先挟箱行列の人数しづかに出て来る北の方若君に才兵衛手伝ひ世話なリを着かへさす行列立派に台傘立笠の人数出て次に女房おちか衣裳襠にて子役吉松上下大小にて連出て花道能所にてとまりお近皆々様御大儀でござんしたもう爰がわたしが内しかし辛気な事にはおまへ方も今宵は一所にとめましたいが大勢の泊人では内にも方角があるまいよつて侍イヤ〳〵拙者共は先達て下宿は申付てござりまするちかそんならお前方は外に宿をかつて置て下さんしたかへ侍御意の通りでござりまするちかそれはマア〳〵気のきいた事そんならちやつとそこへいて休んで下さんせ役皆々ハウかしこまつてござりまする〔ト両人を残し行列花道へ引返へして這入るお近あとを見て〕ちかいかい御苦労をかけました其かはり爺さまにわしがいふて知行をましてもらふてあげうぞへ本に大名の娘といふものはたいてい気のはる物ではないそイヤ是坊ちやつと此様子をこちの人にいふて喜ばさうサア〳〵わが身もおじや〔ト子役の手を引てずつと内へ這いる此内北の方若君きつとなるを才兵衛とゞめながらおちか子役見て恟りして才ヤアそちや女房おちか忰よしちかこちの人やう〳〵今戻りましたよし松とゝ様おそかつたかや北ヤアそんならあの女中と子供は才此間から行衛のしれぬ私が女房忰でござりまする北ハテなアちか是はなアこちの人終に見なれぬあの女中と子達はどなたぢやヘ才サア此二人はちかさうして見ればありやたしかオヽやつぱりさうぢやよし松わしが着物を着てこちの内に居るからは才イヤ大事ない者ぢやちかヱヽ才サアマアあの形よりはがてんのゆかぬ結構なわれが形といひ坊主がなり殊に今の供廻りの大勢におくらして戻つたはちかイヽヱイなア私よりはあの女中はヘ才ハテありや下女ぢゃちか何ぢや才オヽ下女ぢやサァしかもけふ置た留女子着がへがなさにそれであの着物をおれが出してかしてやつたも是からは道者の下り上り大名の参勤交代で此街道もいそがしい夫で置た下女あの又ちつさは丁稚ぢやが何としたちかどうぢややらがてんのゆかぬわしが留主の間にあんな美くしいマア下女なら下女にしてわしは爰の御家さまじやぞオヽ慮外ながら才兵殿の女房ぢや是下女の女子衆何ぢややらぞへ〳〵として宿屋に奉公しそうなふうとは見えぬマア一体今迄そなたはどこに居やつた北サア自らはちか何ぢや自らぢやアヽそんならこぶやに奉公して居やつたの北そんな事はしらぬわいのうちかしらぬわいのうとは横柄なそうして名は何といふぞ才ハテわれ何のためにあの女子に吟味するのぢやちかイヤ吟味せにやならぬわいのうおまへはだまつて居やしやんせサアわが身の名は北ハテ白菊といふわいのうちか何ぢや白ぎくぢやア才コリヤ〳〵あれはお菊ぢやナサア是までどつこへも奉一公にゆかず元より勤めた事もないお菊すりや白ぢやなしらなお菊ぢやによつてそこで白菊ハテついお菊といへばよいにちかエヽとつとどき〳〵と辛気な事ではあるぞよし松是とゝ様ぼんは侍になつた是見て下されト〔大小をひけらかす〕才オヽけうとい〳〵あつぱれのお侍ぢやがコリヤお近此様子はサアどうぢや早ういへちか是お前もそれ見てはあんまり腹は立まいがな本にこんなめでたい事はござんせぬわいな才サア其目出たい様子ちかサア其様子はな才その様子はちかあの女子は下女に蓮ひないかヘ才何にぬかすサア早う云はぬかちかコリヤ皆爺様のお蔭ぢや`いなア才何親の蔭とはちかサア聞て下さんせソレお前にも兼々はなした通りちいさい時に別れて名も顔もしらぬわたしがとゝさまこちやお前にそふて居るゆへ親があるとも思はずにうか〳〵と暮して居たが此間坊を連て草津の八幡さまへ連て参つた所が姥が餅屋で隣に腰かけて居た侍衆がふと此子に提させて置た守りの裂を見て委細をいはずに親子共に乗物にのせどこともしれず舁てゆく本にこわいやら恐ろしいやらコリヤマアどうなる事ぢと気が気でなかつたが聞かしやんせ乗物を出た所は都室町の結構なお屋敷でれつきとした殿様が出やさんして守りの裂に見覚え有と段々と様子を問はれ思ひもよらぬ親子の名乗びつくりせまいものか本に産の親の慈悲といふ者は忝い有難い物でござんす爺さまの云はしやんすには現在血を分けた娘親子の名乗するからはもう宿屋などはさしておかれぬ孫諸共立身さしてやるといふて直に是見て下さんせ此子もわしも此形殊にお前の身の上けつくわたしはしらね共爺様はようしつて居やしやんすぞヘ才何此才兵衛の身上をやちかサア爺さまのいはしやんすにはコリヤそちが連添夫才兵衛は安田家とやらの浪人小沢刑部友房とて由緒ある侍ぢやてゝ才すりや安田家の浪人といふ事までちかようしつて居やしゃんしてお前に頼まにやならぬ子細もあり追付いてお前にあふて聟舅の名乗もしたうへ元の侍にしてやるといふてぢやわいな才そりやマア耳よりなはなし幸ひこちからも折入て頼まにやならぬ子細も有なア申北成程さういふ大身なれば後立に才こちらも大名舅も大名まさかの時はちか是お前は何をあの女子にいはしやんすぞいなア才イヤサ客あしらひをとつくりとをしよふと思ふてちかイヱ〳〵そんな事は旅籠屋の女房の役男のいひ付る物ぢやござんせぬ才マアそれは格別女房共今度ふしぎに廻り逢ふたそちが真実の親父といへばおれが為にも現在の舅其舅殿の名はマア何といふぞちか爺様は慮外ながら甲斐信濃両国の殿様望月左衛門秋仲と云ふお大名才ヤア〳〵〳〵〳〵すりやそちが親といふはアノ望月左衛門秋仲〔ト大恟りにて北の方と顔見合て両人思ひ入〕ちか何とけうといとゝ様を持うがな北舅は親聟は子といへばどうも爰にはサア若おじや〔ト若君の手を引て立上るを〕才是まつた何国へござるぞ北イヤそちには智舅の縁があれば才サアその縁があれば猶いなされ女房共北さかヱヽ〔イ心々にこなし〕才ソレ一旦いひかはした約束の詞を反古にして今出てゆかうとは尤なれどあれあの表の関札に心が付かぬかどうで今宵イヤサ今宵祝言の盃をせねばなるまいがな北それでもどうやら才ハテ友にちからイヤ友白髪まで添ふといふたは偽りか北サアそれはのちかこちの人そりや何をいふのぢやぞいなア才イヤ此お菊は下女といふたが誠はおれか女房ぢやちかヱヽ〔ト大恟り北の方も恟りして物いはふとする〕才ハテ扨下女となり女房となるも皆望みを達せうためサア女夫となるは其身の本望であらうがな〔ト北の方へ顔にておさへるおちかいろ〳〵にこなしあつて〕ちかそりやこそ〳〵乱騒ぎだてつきりわしがこんな事であらうと思ふた是こちの人イヤお前は〳〵〔トむなぐらをとるをふりはなして〕才ヱヽ見苦しい何をするのぢやちか何とせうぞいの現在わたしといふ女房のあるのにあれあの女子づらをあたすばやいようも〳〵内へ引こんでおかんしたなア〳〵一体マアお前はお前とも思ふがあたなめたあつかましいあの女子づらがようマアわしをふみ付けたなよい〳〵いつそわしが追出してと〔北の方へかゝらふとするを才兵衛とめる北の方こなしあつて〕北事おくれては何角の妨どうで此所へ来るはぢやう途中に待受さうぢや〔ト若君の手を取て出よふとするを引とめ〕才今駈出すは事の破れを好む心か北サアそれはちかヱヽあたいやらしいかまはんすな〔ト引わくるを才兵衛北の方を上手へ突やリ女房を下へ引まはし〕才女房去たちかヱヽ才おちか我には縁切れてひまやつたぞちかヱヽそんならあの女子と添ふばかりに才オヽ去た程にこまごと言はずときり〳〵と出てゆけちかいやでござんす才ヤアちかサア私も今までのおちかぢやござんせぬぞヘアイ慮外ながら望月左衛門秋仲と云れつきとしたお大名の爺さまがござんすからは侍の娘侍の娘といふ物はそのやうにかるはづみに男に去れる物ぢやござんせぬそれにマアあほらしいいかにあだ美しいお内儀さまが出来たと云て私にはまた何の科どういふ誤りがあつて去らしやんすサアその訳を聞ませうか才サア其訳はオヽさうぢや嗅いちかヱヽ才サア嗅い〳〵もう古くさいぢやに依て我を去て爰に居る此新しい女房を持つのぢやが何としたちかさう云はしやんすからはお前もくさい〳〵わいなア才何ぢやおれが嗅いそりや何がちかサアくさい〳〵水くさい才ヤアちか僅か十日程内に居ぬ間にちやんとあの様に女房子まで拵へて科もない私を去るといはしやんすは何と水嗅いぢやござんせぬか才ハテ飽た女房を去るのは男のこうけぢやちか何ぼ男のこうけでもわたしには是此よし松と云ふ子まであるぞヘ才オヽ其坊主めも縁切て追出す一所に連て行おれト〔よし松をつきやる〕よし松かゝさまこわいわいのう〔トおちかに取つく〕ちかオヽ道理ぢや〳〵可愛さうに何を此子がしつた事現在血をわけた我子にも思ひかヘヱヽ是も皆あの女子めゆゑ〔ト北の方の方へゆくを〕才コリヤお菊はおれが大事の女房指ささす事もならぬとつとゝ出てうせおらぬかちか夫程までに〔ト身をもだへてきつとなるを〕よし松かゝさま堪忍ぢやわいのう〔ト取つく〕北思ひ廻せばどうでも血筋兎に角此家を〔ト立上るをとめて〕才是誰が何と云はうが大事ない現在の女房子にも見かへる今宵の祝言それを立破つて出ていては一もとらず新枕はもとより三々九度の盃すんで四海浪も目出たう打ナア納める迄はめつたに身動きはなるまい〳〵北サアそれは才ハテ追付抱て寝る程に是じつとして待ちやいの〔ト下におくお近きつとなりて〕ちかそうぢや〔トゆかふとするよし松とゞめて〕よし松かゝさまどこへいかしやるぞいのうちか所詮わしがどのやうに云たとてあの様にのぼり詰ていやしやんすこちの人是からは爺様を頼んで望月左衛門といふ大名の威光でもとの女夫にしてもらふわいのうよし松そんなら坊もゆかうちかイヤ〳〵わが身は爰に居やわしがつい一走り〔ト又ゆかふとするよし松とりつき〕よし松いやぢや〳〵〔トしがみ付てなく〕ちかヱヽ因果なそなたまでが邪魔するかいやい〔ト抱上げながらとんと下に居て〕ちか才兵衛殿こな様はのう〔トキツト才兵衛が顔を見る〕才たとへ大名で有うが公家を親にもとうが縁は別物いかうでもつい立でもさつたといふからは金輪際さりこくるのぢやぞちかさう云はしやんすとわたしも意地もう〳〵金輪際去られまいがどうさしやんす才さうぬかしやいつそおのれを〔ト箒をとる北の方とめて〕北是まつた此争ひも自らが此家に居ねば才イヤ祝言するまでは滅多に動かけまいがな北サアそれはちかヱヽ〳〵あた腹の立つ〔ト煙草盆を投げる〕才ヤうぬ投打さらすなちかオヽ何をせうやらしれぬぞ〔ト又はり箱様の物を取て来て投付る〕才オヽさうすりやおのれ〔ト箒ふリ上る北の方とめるお近段々そこらの道具を打付る此内奥よりお百お半小女郎小万出て〕女四人ヤア家様ちか是がお家さん所か〔ト又打付る四人取さへ〕小女郎是は何となんす女三人マア〳〵いお待なされませちかイヤきかぬ〳〵才あれあの通りなればお百旦那さんも待たしやんせさつきの言付晩の拵へ祝言の料理は出来ましたぞヘちかヤアそんならそちらまでが取持でどうでも祝言するのかいやい女四人マア〳〵お待なされいなアちかイヤ〳〵はなしやはなしや〔ト身をもむ〕北此体をじつと見ては才ハテ気兼に及ばぬ幸ひ祝言の料理出来たとあれば奥へいて盃を北それじやといふて才ハテ大事の前の小事じやがや〔トきつと云ふ北の方是にて成程といこなしにて若君の手をとるおちかおこづくを突はなして〕才搆はずと奥へおじやといふに〔ト歌になり才兵衛若君北の方を連て奥へ這入る〕るちかアレ〳〵あれを見てはどうも〔トゆかふとする女形皆々とめる〕よし松かゝさま堪忍ぢや〳〵お百是坊さんが泣てぢやわいなア小女郎お道理なれどマアお気を皆々しづめ成されませいなアちかイヤ放しや〳〵〔トもみあふ内最前のぬぎすての衣裳をほうり付る白絹ちらほら女形皆々コリヤ叶はぬとにげて這入る〕ちかおのれおめ〳〵と祝言をさゝうか〔トゆかうとするよし松とり付き〕よし松是嚊さまいのう〔ト引とめるおちかきつとなりてよし松を見て〕ちかヱヽとかく子が〔トじつとしづまりふと白絹と衣裳を見て取上〕ちかこりや何ぢやあたいやらしい此絹に血で書てあるは大かた二世までもかはらぬと云ふ起請であらうヱヽ憎てらしい〔ト奥をきつと見て絹を広げ〕ちかぢや敵は望月左衛門秋仲討取て修羅の忘執をはらすべき者なり安田庄司友治敵は望月左衛門秋仲討れたは安田庄司友治こりや夫の古主ムヽそんならそれで此子やわしを〔ト奥を見又絹を見いろ〳〵思入ありて〕ちか成程程さうぢや胴欲とおもふたはかへつて情ホヽホイ〔トとんと下にいてワツと泣落す〕〔向ふより〕望月左衛門様のお着〔ト呼ばおちか向ふをきつと見て〕ちかアとゝ様がよし是かゝさま設〔ト取付くをきつと抱上け〕ちかさうぢや〔ト奥へ行かけるチヨン〳〵所知入に成り道具まはる〕粧屋根引上見事なる破風付の欄間おりる正面三間の二重少し上手へよせて両方落間下手青竹けつかい付能の橋懸りと見ゆる廊下を前へ突出す所々に若松の実米[みき]正面屋体より下手へ続け大襖能舞台と見せる模様都て本陣宿を能舞台と見ゆる好み二重橋懸り共にすツと前へ突出す留の木にて所知入やむ静に序の舞になる橋懸りより緞帳をあげさせ望月左衛門素袍立烏帽子にて長上下の近習二人付出て上手に並ぶ次に塩灘仙右衛門狂言方拵にて望月の刀をさし出し出る下座切幕の所より神主斎宮烏帽子装束にて仕丁二人に獅子頭入たる唐櫃を荷はせ出て橋懸りの下に座す仙左衛門御主人には今朝都室町の舘を出駕有て当守山の宿にお泊り遠路の旅行嘸かしお草臥にござりませう望月何さ〳〵当近江の国守山の宿には本陣あれどもちと思ふ子細有て甲屋とやらんへ旅宿申付たが中々存じたよりはよい住居ぢやわへ仙御意でござります夫に付け此度室町殿へ願ひに出し上諏訪の神主御射山斎宮当宿迄お供申御挨拶に罷出ましてござりまする望オヽ上諏訪の神職みさやま斎宮大儀〳〵斎宮ハツ此度室町殿へ出訴致したは信州甲斐の境に絶所の谷間凡四五十間余り谷の深さは底しれず是迄橋杭を組立大勢の人夫を掛け成就仕懸けて砕くる事両三度夫故此御工夫を願ひし処幸ひ望月秋仲公には此度甲信両国を賜り御入部ゆゑ万事御工夫を持て橋普請成就の儀を願はんため御供仕つてござりまする望此度甲斐信濃の両国を安堵の御教書を賜り入部の某我領分の事おろかが有うか橋の工夫も付置たれば追付普請成就させん甲信両国の百姓共は仕合せ者だ此望月が国の守となれば尭舜の世も同前戸立ずに寝ても盗賊にあふ気遣ひない追付甲斐信濃に麒麟や鳳凰が出て遊ぶてあらう樂んで待たがよか斎其儀に付橋成就の節は渡り初の奉幣獅子の諸曲乱舞を相催せとの神託を蒙り則装束獅子頭共此の如く持参仕てござります〔ト唐櫃より獅子頭取出し見せる〕望オヽよいてや〳〵谷間に橋の工夫は元より渡り始の獅子の乱舞も相勤むる者も此方にあれば気遣ひ致すな斎然らば拙者は一日も早く帰国仕りたう存じまする望オヽ聞届けた仙獅子頭装束の唐櫃は家来共に渡しておきやれ斎ハツ畏てござりまする〔ト仕丁に唐櫃もたせはし懸りへ這入る〕仙先程より此家の亭主めがお目見えも致さぬ憎くい奴いかに此家の亭主はいづくに居る是へ出ませい才ハアヽ〔トのつとになる才兵衛橋懸り緞帳より狂言長上下にて三宝へ盃をのせ若君の子役に持せ長柄の銚子をもちつれて出て能可にて下に居て〕才ハツ甲屋の亭主めでござりまする仙誰有ふ今空飛鳥も落る御主人の御威勢望月左衛門秋仲公のお宿を致すは願ふてもなき其方が仕合せじやぞよ才左様存候間御礼の為に麁酒を持たせて参り候然るべき様に御申候へ仙お聞あられましたか望何さま一献くもふ酌を致せ仙かしこまつて候〔ト仙右衛門酌する望月一つ飲んで〕望此家の亭主其方に指さうか才アノ私に望オヽゆるすサヽ一つ才有難う存じまする〔トにじりより盃をいたゞく〕仙お盃頂戴とは匹夫に似合はぬ果報者〔ト銚子をさし出す才兵衛取て若君にもたせ〕才それお酌〳〵〔ト若君望月の方を見てきつと成る顔にておさへて酌をさす仙右衛門若君に目を付け〕仙コリヤ〳〵亭主わつぱめは何やつぢや才ヘイコリヤ放下師でござりまする仙何放下師とは才此宿に住居致す親子の放下師母親は八撥をうち又此忰は此青竹一名を玉すだれとも申すを遣ひまする故おれき〳〵のお着にはいつも御前へ召されて御機嫌を取りまするが親子の者の業でござります望亭主がもてなしとあらば夫を肴に所望いたせ仙其青竹とやらを始めい〳〵才然らば御意にまかしまして〔ト盃を三宝のうへにかへす仙右衛門酌して望月取上る花若きつとなり行かうとそるを才兵衛程よく留て〕才サア御大身の御前ぢや随分心を付けて此青竹を遣ふた〳〵若君ヱヽ打たいなア才オヽうたふてほしくば聞覚えて居る青竹の小歌は是〔ト目顔にておさへる鳴物にかゝり拍子を取て〕才おもしろの花の都やサンヤ物の始めは天の浮橋是も神代のをしへ草ぬれてとるのは粟の穂にひくや鳴子のサンヤ〳〵さつと生たや花手桶又取直せばあまの岩船金襴緞子綾や錦の帆を十分に風をたもつや柳の梢サンヤ〳〵〔ト諷ふうち花若青竹を遣ひなから望月のかたへ行かうとするを才兵衛宜しくさゝへる仙左衛門目を付け居て仙ヤイ〳〵〳〵先程より見る所何共あやしきわつぱめが振舞御主人御油断あられまするな才イヤ何も胡論な者ではござりませぬ次には女が八撥を打まする仙ナア其の討つと云ふが主人の禁物まづ其わつぱめを〔ト立上るを〕望コリヤ〳〵仙右衛門何をざわく〳〵其稚き者の母が八撥を打ではないか仙サア討といふのがあやしうござれば望ナニそれ式亭主其者是へ通し候ヘ才ハツ御所望なるぞ急いで是へ〔ト橋懸り緞帳の内より〕北ハアヽ〔トかつこな付撥を持ち出るよしの龍田の花紅葉更しなこしぢの月雪の歌になり北の方かつこの舞にいたり間々は望月の方へゆかうとするを才兵衛よろしくとめる望月は大ように見て居る仙右衛門は始終目を付け油断せぬこなしいろ〳〵此内三役よろしく有て舞をさむ仙最前より親子の者が立振舞主人をねらふ結構よな才イヤ中々左様ではござりませぬぞ望成程仙右衛門があやしむも道理安田の庄司友治が妻子ありと聞たるが年頃と云ひ似よりの者共仙ぢやに依てめんばくいたさん〔トつか〳〵と北の方花若の方へ行かうとするを才兵衛よろしくとゞめ才イヤ此者共は元より放下師左様の者ではござらねど安田の庄司の妻子には何科あつて其様に望庄司友治は姥捨山にて何者共しれずやみ討となり不覚の最期を遂げしゆゑ所領は残らず没収にて従類をたやせよと厳命受けし某なれど見のがしおくは武士の情仙それを有難いとも思はず反つて主人を恨む馬鹿者望たとへ彼等が恨むとも此方に何も恐るゝ覚えはないてや北覚えないとは卑怯の一言才是々放下師の親子お大名の御前立騒いで無礼千万ひかへませうぞ〔ト両人を顔にておさへる〕望仙右衛門気遣ひするな此家の亭主も唯の者ではないてさ仙サアそれ故彼等が力と成て望何の〳〵聟舅の中麁略が有うか仙すりや此家の亭主は望身共が聟それゆゑ宿を申付た仙扨は此程召寄せられし御息女の望いかにも幼少にて別れ此頃不思議に名乗り合ふたる娘の聟先刻より名乗らぬも心あつてさ才拙者も先刻聞と恟り併し舅はお大名聟は宿屋も似合はぬ縁組望イヤ今こそ宿屋の主なれど以前は小沢刑部友房といふ侍才妻子もしらぬ我本名をどうして又御存じぢやな望天眼通を得て居る某凡そ世界の事に身共がしらぬ事はない刑部嘸討たからうな才何をな望そちの古主安田庄司友治が敵を才ヱヽ望姥捨山にて闇討となりし庄司友治はそちが古主無念にあらう口惜からう其敵が討たからうと云ふ事さ北花云ふにや及ぶ〔トいはうとするをきつとおさへて〕才所を何とも存ぜぬてな望ヤア才友治公が討れさつしやつたと云てさのみ無念口惜しいとも存ぜぬなぜと申せ以前勘当を受けたれば主従の因は切れ古風な侍堅気をいはふより今は此通り宿屋の亭主とかく欲徳にかゝる方がマア当世でござりませうかい望友房そちや中々の粋ぢやわへ仙なぞと申てめつたに油断はなりませぬ才ハテ何とござりませうやら望何と刑部其方とは聟舅のよしみもあれば共に活計歓楽の身に取立て呉れうが身共頼みたい子細がある何と頼まれて呉れうか才縁組むからは迯れぬ中改つたお頼みとは望外でもない安田の庄司友治が所領たる甲信両国を某に賜り則安堵の御教書をもつて此度の帰国しかるに甲信両国の堺に通路叶はぬ絶所有て是まで橋を架さんとすれど急流に橋杭立たず足場砕けて成就せず是をすみやかに掛くる工夫そちや能く存じて居ようがな才イヤ存じませぬ絶所の谷間へ橋を架す工夫なぞとそのやうな智恵があれば宿屋商売は致しませぬ望イヤ〳〵偽るな此事計りは其方より外に存じた者はない事身共よく存じて居るわいオ是は迷惑何しに其様な工夫をば望しらぬか才存ぜぬが有様望ハテ深う包むなア刑部絶所の谷間に橋をかくるは年まだ若き婦人と其骨肉の男子とを人柱にたて蟇目の口伝を以て成就させる兵家の秘密是を能く存じたる者は其方一人存ぜぬといふ事はよもあるまい其上普請成就して渡り始には獅子の乱舞を催せよと諏訪神託元より謡曲乱舞に堪能の其方此儀を勤め呉るに於ては甲州の郡内の庄をあたへる所存名を取うより徳を取るが当世と只今も申たでないか聟舅の間柄此外に望みもあらば聞て得さそう何と望みを叶へて呉る心はないか才成程何をいふも欲徳づく殊に甲州郡内の庄を下さるとあらば絶所に橋をかくる工夫親子二人の人柱を立蟇目の口伝もあら方は存じてをるアツと云ふてお受申まいものでもなけねど俗眼に通ぜぬ秘文の梵字をしるせし一書を所持せねば事成就は受合はれぬ望其義ならば気遣ひ無用秘文の梵字をしるせし一書は身共が所持して罷りある才すりやアノこなた様が望我手にあれども読下らず唯いたづらに此ごとく肌身放さず所持する某〔ト懐よりふくさに包みし一巻を出して見せる〕才オヽそれこそ大江の匡房公より伝はる兵家の秘書司馬法の一巻北あの一巻を所持するからは若いよ〳〵敵にきはまる望月〔ト両人きつとなるもちづきちやつと一巻を懐中して〕望扨ことおのれとあらはす本名仙いでまつ二つに〔ト北の方を若君へかゝる才兵衛さゝへながらきつと留り〕才その一巻を所持あるからは敵はいよ〳〵望イヤ身共はしらぬ覚えはないぞ才それに又どうしてこなたが望授つた才ヤア望庄司の敵は身共は知らぬ此一巻は善光寺にて通夜の折から夢の告で如来の手から授つたさすれば阿弥陀が敵であらう北ヱヽをがくつもいはゞいはるゝ若日頃の無念父の敵仙何をこしやくな〔トかゝるを才兵衛仙右衛門を突きのけ北の方と若君をポン〳〵と当る仙右衛門恟りして仙ヤアコリヤ親子の者を才当殺したは舅へ面晴望すりやいよ〳〵身共が頼を才秘文の一書があるからは橋を渡して立身の足代仙刄むかひ立する親子の奴は才年ども似合の人ばしら〔ト北の方と若君に手早く縄をかける〕望それで是から夜が寝よいて仙ハテ味い手つがひだなア望いで此上は成就の手はじめ才獅子の乱舞を御覧に入れう仙それを肴に改め一献才いで獅子頭をかつぎ参らん仙オヽサちつとも早く才然らば舅殿〔ト両人の縄を取り引立る〕望持つべき物は聟だなア〔ト歌になり才兵衛は北の方と若君を引立橋懸リへ這入る望月跡を見て立上る仙右衛門近習二人手伝ひ上手鏡戸をあけて這入る跡すぐにばた〳〵にて下手よリ北の方若君走リ出て縄をとき懐剣を以て上手へゆかふとすろ女房お近よし松の子役出て是をさゝへ一寸立廻り有てあやうく下座へおふてはいる〕後見紅白の牡丹付の台をもち出て能所へ直し這入る能程に正面の鏡戸と見せたる襖を残らず引て取る奥深にまた能舞台の書割になる此前に褥を敷き望月左衛門此上に酒宴の体仙右衛門近習二人銚子を持ちひかへ居る囃子方本行の形にて橋懸より静かに出てゆるりと拵有てテン〳〵と太鼓にかゝり地謡にて「しゝとらでんは時をしる雨むら雲や奏すらんあまりに秘曲のおもしろさに猶々めぐる盃の酔をすゝめばいとゞなほねぶりも来るばかりなり〔ト此内本行望月獅子の形にて才兵衛出てよろしく獅子の曲納る望月仙右衛門も眠り出す所を才兵衛獅子顕在取りすてあいづする北の方若君出て望月を両人切る才兵衛は仙右衛門を切すてるはやし近習はにげこむ才ホヽウお出かしなされた北若此年月の恨みのすゑ今こそはるれ望月左衛門覚えたか〔トばた〳〵にてお近よし松走り出て取りつき近よし扨は討れさしやんしたかいなア〔ト泣落す内才兵衛望月の懐より一巻を取り出しあらためて〕才是こそ尋る司馬法の一巻北若チヱヽ忝い才敵は亡びてめでたし〳〵「かくて本望遂げぬれば〳〵かの本領に立帰り子孫に伝へ今の世に其名かくれぬ御事は弓矢のいはれなりけり〳〵〔ト謡にて才兵衛よろしく舞納む〕目出度打出し幕 此復讐望月譚一段物は以前文政七八年頃小沢刑部友房に歌右衛門〔後に梅玉〕望月左衛門秋仲に鰕十郎〔初代新升〕甲屋女房お近に三光〔後に松江富十郎〕安田の北の方白菊に国太郎〔始錦子〕等と見こみて草稿なりしも追々故人となり徒らに打捨おきしが此頃ふと文庫より取出し爰に誌す者なり
西沢文庫伝奇作書後集中の巻終
西沢文庫伝奇作書後集下の巻
『源平盛衰記』・『平家物語』・『東鑑』等に与市と云ふ名甚多し、真田与市・浅利与市・関原与市・那須与市等也、抑与市と云ふ名は総領を太郎と呼て、二男を二郎、三男を三郎と段々十人目の十郎までに及びて第十一人目に当るを余一郎と昔しは付けしものといへ共、確と定めがたきか、此うち那須の与市宗高は下野国那須の住人にて、西海の戦に扇の的を射て武名最も高し、浄瑠璃に那須与市小桜威と云ふあれど、善光寺如来を信向して、五十嵐文次に預けられし身の明り立ち本知に帰るのみにてさまで狂言なし、後並木宗助那須与市西海硯と題して化生屋敷にて狐の面をかづき、育君の手にかゝり愁の場を三の切に仕組めり、其頃は大いに行はれし狂言なれども当時の人情にかなはぬと見え浄瑠璃に語るさへ稀々なりけり、是に化生屋敷を与市申受けしと計にてさせる仕組なきにより、予兼て趣向をもうけ、平家の女﨟玉虫、鎌倉の明屋敷に隠れ住妖怪の人を威すといひふらせる、与市宗高妖怪を退治せんと荒屋敷に来て正体を見顕はし玉虫を助け見遁す、後西海の戦ひの時扇の的を射て弓勢の誉を顕はさんと約束の場を二の切と仕組み、又宗高の塔今山城深草の東大亀谷に在て、西国へ出陣の時堂前の幡をかりて籏となし誉をあらはし、後即成就院とて一宇を建ると寺記に見えたり、是等を思ひ合せて西海硯を増補なし、三の切を仕組一部の読本浄瑠璃に筆を建たれども半にて捨たるが、三の切の草稿を見出せしまゝ『扇的西海硯』と題して爰に出す、猶与市宗高の事蹟は予が『綺語文草』四編目深草即成就院の条に出せば好人是を見給ふべし
薪伐る鎌倉山の星月夜綺羅を磨ける其中に那須の与市宗高は武門の春に扇が谷さしもに人の恐れたる化生屋敷を申受弓矢の徳に居納て新たに繕ふ普請の結構その身は西国合戦の加勢願ひに登城の留守心なき妼婢一つ所に寄こぞり妼春の何と皆の衆此お屋敷はもと化生屋敷の妖物やしきのとおぢ恐れた地面をばこちの殿様宗高様が蟇目とやらのお徳にてあやかしをお払ひなされし御褒美とあつて御拝領妼夏の直に御普請の出来次第松葉が谷から此お屋敷へお移りの当座はもし妖物は出はせまいかと気味悪うおもふて居たれど今では奥さま始め召仕のこちらまでが化生やしき妼秋それ〳〵殿様には鎌倉中の誉め者其うへ此度西国の平家とやらを攻めに行軍の御加勢にお出ましなさるゝお願ひの御登城妼冬又御兄弟の若殿様には銘々お乳の人が付添八幡さまへ御参詣ほんにそれはさうと春のどのや小夏どのは此お家に長う御奉行なさんすゆゑ委しい事を知つてゞ有う若殿様は慥かに孖ぢやないかいのう妼春サア其孖ゆゑお二人共寸分違はぬ様にお育てなされ兄御様のお乳の人には御家老の刑部様の娘御お菊殿お付人には御台さまの兄御五十嵐小文次さま妼夏御次男の小次郎様にはお蘭殿と云ふお乳の人お付人には刑部様と何でも対に拵て育るとお達者なといふ様ぢやわいのう妼秋成程それで様子が分つたが刑部様は小次郎様方お蘭殿は小太郎さまと贔負〳〵でいつともなう親子御の中でもすれる様子妼冬夫にお蘭殿は口やかましいお人と云ひ本に笑止な物ぢやわいのう「よればかはらぬ取沙汰も皆下々の習ひかや呼とはなしに表の方若殿のお帰りとしらせの声に妼共妼春そりやこそ二人の若殿一時にお帰りなされた妼夏すれば影がさすと呵られぬ内御出迎ひ申さうわいのう「そしらぬ顔に出迎へば程なく惣領那須の小太郎跡に付添ふお乳の人お蘭と呼で端手ならず年も三十に三つか四つ取りなりしやんと襠に武家の育の片簪こなたは次男小次郎とて年は元より形[なり]かたち兄小太郎に寸分もかはらぬ出だち誰目にも孖と見えて付添ふはまけぬ姿の乳母お蘭和子を自慢の鼻高く双方家来打連てしづ〳〵と座に着けばおらんは皆に会釈してらんオヽ皆さまお出迎ひ御苦労若殿様にもけふの御歩行嘸御草臥でござりませう小太郎イヤ〳〵わしが草臥より心掛りは父上の御登城もうお帰りなされたかや妼皆イヱまだお下り遊ばされませぬ蘭西国の平家を攻ん御加勢の御評議小次郎父上にも其お願ひゆで隙取うし母様はいづくにぞ妼皆今奥にお休み遊ばしまする菊オヽそれは重畳の儀和子様には御武運長久祈のため鶴が岡の八幡様へ御参詣ようおひろひ遊ばしたな蘭そんなら兄御様は鶴が岡へ御参詣か此又和子はたくましい星合寺の馬場先へ弓箭の御稽古にお出でなさりましたわいのう小太郎オヽ小次郎殿はよい心掛星合寺の本尊は弦かけの観世音弓箭取る身は銘々に信ずるにしくはない小次郎サア私も常々刑部が咄にも利生を祈る稽古の的場と存じて今日参りました菊オヽそれはマアようこそお越誠に此度西国表平家の大敵須磨の都に籠りしを義経様の軍配にて只一戦に勝利有たも弓箭を守る弦かけの観音様の御利益此上にも御仏の力信ずるにしくはござりませぬ蘭アヽ是々お菊どの観音の力をかつて軍に勝とはちと廻り遠いぢやござんせぬか早いためしは今度の軍に鎌倉中のお侍達終に普門品一巻読だやうなお人もなけねどさしも手ひどい平家の大敵四国とやらへ追落したは者我君頼朝様の御勝軍けれう仏と思へばこそ稽古がてらの御参詣観音位の御利生でかつまい軍に勝つたやうで人が聞ても不外聞ハアヽ聞えたお前は和子様をお連れ申て鶴が岡へ参らしやんしたゆゑ兎角神仏を祈るがよいと云はしやんすのか詞の艶いふも程があるこちらの和子そんなまどろ嗅ひお気ぢやないヱヽたしなんだがよいわいのう上「強い自慢に我ひとり高慢顔を聞流しよらずさわらず柳に受け菊ホヽコリヤいな事がお蘭殿の虫にさわつた御機嫌を損じたは私がいひ下手堪忍して下さんせ成程神仏の力を頼めば武士の身の不外聞一分のすたるといふ事弓箭八幡私は今までしらなんだ是を思へば古への坂の上の田村丸とやらは鈴鹿の鬼神を随へられしも清水の観音の御利生を蒙り嘸外聞を失はしやんして後悔でござりませうホヽハテ笑止な事ではある程にの上「笑止な事やと打笑ふこなたはひよんな事いふてぎつちり詰つたふくれ顔小次郎上段の間の床を指さし小次郎申々兄上あれに餝つた日丸の陣扇きのふ父上にも母様にも申上て置たれば此小次郎が貰ひますぞや小太郎サアあの扇は父上が大事にせよと常々の言付ほしくば一本分う程に好たを取て大事に持ちや「兄は兄だけしとやかに云聞かすれば弟は懐育ちの気侭者小次郎イヱ〳〵陰陽揃ふた陣屋どちらが一本足らいでもならぬもの一本なればほしくはないサア二本共私が貰ふひ小太郎そりやそなたが欲どしい一本あれば事はすむてふど二人が分けて取り又ほしい折には貸して遣ります小次郎イヤ〳〵侍の子が貰ひ掛け貰はずに得おくまいそれ共成らぬと云はつしやりや兄上でも用捨はない小太郎オヽやらぬと云へばどうするぞ小次郎オヽ力づくでも貰うて見せうひ小太郎さういやると猶やらぬ上「言ひつのつたる中違へせりあふ兄弟付々の乳母諸共に引わけて菊是は又せり合ひ遊ばすかおとましい妼皆おしづまり成されませいなア上「取さゆれども子供の癖いつかな静まる気色もなしお蘭は以前の出過にこり素知らぬ顔に只まぢ〳〵傍に見兼て兄の乳母菊マア〳〵お待ち破成いなアヱヽこなお子は御無理計り勿体ない兄御様にむしやぶり付てどうした事おたしなみなされいなア上「つかふど声の破れ茶碗はちわりましの弟の乳母むつと下地に針持つ挨拶蘭アヽ是々お菊殿御主はかはらぬ小次郎様けん〳〵云ふて貰ふまい又しても〳〵兄さま〳〵と惣領風に身を入て晩稲の和子を吹ちらして下さんすなヱ上「苦い詞にぐらゝの返答菊オヽ惣領風がいやならば養君にわんぱくを云はせぬやうに育ちやいの上「ぶつけり云へば燃木に油蘭オヽ置てたもそなたの口からわんぱくとは舌長な慮外であらう弟子とはいふものゝおなじ月日の御誕生なりやどちらを兄とも弟共別にかはつた事もなしもしや兄御のない時は御次男でもお世継け侮どつて蹴つまづき惣領育てた高い鼻へし折られぬ用心しやあんまり鼻が高いとの天狗が妬んでつまむぞやアヽ笑止な事ではある程にの上「口に任せて出放題云はれて居ぬ兄の乳母きくオヽさういやるので奥より口天狗は扨置そなたの心小太郎様がないならば小次郎さまに此家を継せたいと思ふ欲心折々お威しにおしやるやらうたゝ寝のおそはれ枕刀にお手かけられおひんなる事があつても御結構でおうようで見遁し給ふを有難い冥加ないとおもやいのう仇どんくさい事いやると安閑と聞ては居ぬヱヽあた〳〵あほうらしい上「是ぞと覚えない事もさもあるやうに云ひふせればこなたもまけず憎て口蘭アヽちいさい時は虫驚きとてまゝある事それを妬むといやるならこつちのお子も威[おどし]に来やるか御結搆でも大ようでもそなたが育たお子計り余り結搆過るとのあの字とほの字の異名が付く自慢せずともおきやいのうきくそりやそなたがいやらいでも御兄弟共お主の事どちらをどうと云ひはせぬ是こな様は丁度そのお子には三人目のお乳母殿五つのお年から育た事なりやどういやつても馴染が浅い私はそも奥さまがお産なされた其日から片時放さぬ大事の和子結搆づくめにいふたが無理か蘭そりや結搆な事でござんす譬へ五つが七つからでも育て上げたはこつちの手柄現在お前の父御[てゝご]の刑部さまでも此お子計りは兄御より遙か器用で発明で一口に云はれぬと褒てござるに何にもしらず我身贔負きくハテ身贔負とはそつちの事刑部殿と親子ぢやとてお主に仕へりや私事忠義の道にはかへられぬらんこつちもおなじ忠義でござんす我得手勝手にいひ並べるのはお免しぢやきくハテいはいでもかいの弓も引方らんそつちがいふゆゑこつちも云ふのぢや妼皆ハテもうようござんすわいなア上「やつつ返しつ乳母とうば互にまけぬ争ひは何国もおなじ事やらん小太郎始小次郎もとゞめ兼たる折からに駒の井御前立出で給ひ駒の井二人共はしたないコリヤ何事小太郎ヤア母上様きくらん御台さま妼皆しづまらしやんせいなア上「制す詞に是非なくも静まる二人を近う寄せ駒銘々子供を大切におもふての小いさかひ悪うは思はぬ去りながら人毎に此屋敷を妖怪屋敷と云ひならはし誰も住人のなかりしを我夫与市殿申受て納り弓箭の徳を褒らるゝ其子供等が寝覚にもおそはれるのおびへるのと沙汰あつては第一は家の疵殊に夫は西国へ加勢の願ひ兄小文次殿の取次にて吉左右待つも心のいたみ其訳しつたそなた衆がよしない争ひ不遠慮な以後をきつとたしなんだがよからうぞや上「呵りながらも子をおもふ心に惚れし風情なりきくらん段々の不調法御免なされて下さりませう上「折からとつかは次の間より主人に先達立帰るは御台の兄たる五十嵐小文次相家老宍戸刑部加勢の願ひゆりしゆゑ心をいさみ打通小文次刑部御台所是にござりまするか駒オヽ小文次殿にも刑部にも吉左右を待兼ました小文次ハツ兼て主君の念願通り加勢の願ひ相叶ひ今宵諸軍諸共出陣せよとの御上意刑部御台およろこび遊ばせ殿には帰りに松葉が谷の尼公へ御暇乞にお立寄小文次我々は此趣しらせのために先へ帰宅仕りました駒オヽ夫は両人共御大儀御大儀母様にも嘸およろこび夫の誉此上が有うかそれ女子共には門出を祝ふ熨斗昆布軍にかちん打飽祝儀の料理用意しや妼皆畏りましてござりまする上「俄かにざゝめく館の内妼共は奥にいる小文次威儀を改めて小某事は御台駒の井とは兄弟なれども元より譜代の家老なれば此度の出陣にも供に付添ふそれに付二人ある子息の内何れぞ一人連行たき主人の心底刑部此度の戦ひは源平刄金をならす曠[はれ]の軍以後の心得にもなる事と主人の仰せ夫ゆゑ御台所への御相談小何れぞ独とある仰兄小太郎殿を召連らるゝか刑但し御舎弟小次郎殿を御同道なさるゝ心か御台の御所存小刑承りたう存じまする上「様子ありげに伺へば駒の井も途方にくれ駒されば自らへの御相談とは我夫の思召どういふ心かしらねども軍は時の運といひ討死の程も覚束なし是非一人は国に残さねば家相続の心当り去りながら何れを残し何れを遣つてよからふやらハテどうがな上「二人を始め付々の心の程をはかり兼思案の内より兄の乳母きくアイヤ〳〵御台さま始め何れもさまの思召もござりませうが同じ年どの御兄弟とは申すものゝ小太郎さまが常々おつしやつてござる事もござりますればお聞なされて上の事に遊ばしませなアそれ和子さまそれ申ちやつと兼々おつしやる事お願ひなされたがようござりまする上「袖を引また素振りでしらせ耳へ吹こむ気の張弓さし心得て母の前おし直つて手をつかへ小太郎惣領は家継ぐ役跡に残さん御評議かは存じませねどもし此度の軍にゆかねば弟さへ供するに兄が腰が抜けたりと人のそしりも恥かしゝ小次郎は弟の事跡に残して私をお供に連れてたまはる様偏に願ひ上げまする上「詞もいまだ終らぬ内はや負けぬ気な弟の乳母小次郎に目交して手先で切合馬乗の仕方でをしへ願へよとしらせに小次郎おとなしく小次郎申母様父上がどちらぞとは定めて私とのおさしづならん今お詞が違ふては常のお教が嘘となる是非に私を今度のお供にのう乳母らんそれ〳〵今も今とて惣領ぢやのお世継ぢやのと育た人の広言いやといはれぬお留守の役わんぱくでもわるさでも私がいはぬ其内にようお願ひなされた流石この乳母が育てたお子程あるオヽおでかしなされた〳〵上「褒そやして諸共に是非にお供と願ひいるこらへ兼て兄の乳母小太郎おしのけずつと出きく申御台さま一時半時でも先へお宿りなされたりやこそ御惣領とお定めなされたを兄御をさしおき小次郎さまをお供にとは憚りながら御思案違ひ但し子達に依枯贔負でも遊ばしての儀でござりまするかな上「我親ながら刑部がまへ詞するどに遠慮なくたくしかければ駒アヽ是乳母子供がためには内縁ある小文次殿さへ批判なきを慮外であらうとサア呵るではないよう聞やゝ兄弟共に大がらには見ゆれどもまだやう〳〵ととしよわの十四連合が日比から射芸の道は教へおけども小文次殿刑部も何と思やるぞ小さればサ討物取ての戦ひは手の内のかたまらぬと申せば兄弟共に同じ事さすれば何れと申て頼にならず刑夫故にこそ御主人が篤と評議を取極め何れぞ一人定めおけよと呉々の仰とはいへ贔負とおもふも気の毒小文次殿の心底は小さあればかう致したらどうかな刑どうでござるな小イヤ〳〵それも戦場一人残しておきたいとの仰も尤駒よい分別のあるべき事三人ハテどうがな上「三人が又も思案にとつおいつ暫く有て駒の井御前駒誠にあやうい軍場へ是非にと望む二人が心底どちらをどちらと定めがたし此上は鬮なりとも引かせたうへ天利に任せて軍の供何と此思案はどうあらうの小何様コリヤ御台がよい御思案双方依怙なき此許らひ是に増したる儀はあるまじのう刑部殿刑オヽしたり〳〵夫にこそ屈竟の儀がござる是々この陰陽の軍扇を矢竹に挟み東西の庭に立わかれ射る矢の的と定めおきお二人の内何れでも射当てたるをお供に連られもし射損じたるを跡に残さん是で双方依佑なき道理駒オヽそれこそは敵に射かつ軍の門出によい前表小幸ひ主君のお帰りまでに奥庭にて勝負を催しあづちの稽古を見るも同前刑射るも慰み見るも楽しみ駒ソレ小太郎小次郎二人の乳母も合点か小太郎願ふてもなき扇の的箭小次郎時に取ての曠の勝負小太小次きつと射当て見せませうきくオヽいさましい和子さま伯父御ぜの小文次様がお仕込の手練をあらはすは今此時らんそりやこつちもおなじ事刑部さまの教を受け大人も及ばぬ和子の強弓かならずお負けなさるなへきくホヽウ譬刑部さまの教を受けいかなる弓箭のお上手でも小太郎さまのお勝とは目に見えすいて有るわいのうらんてもあつ皮なおきく殿けふの勝負はこつちが勝のぢやきくアノこな様がらんアノおまへがきくかたしやんすからんかたして見せう上「まけずおとらず角芽立つ中を隔て小文次刑部小文是は姦しい静まり召れ刑其争ひより勝負が肝心駒たとへ射損じ残るともかならす恨とおもやんな小文いで双方共奥にて用意小太小次畏りましたらんどりやそれまでに私らもきく奥へ参って共々に刑イヤ〳〵娘其方にちと申聞す子細もあればきくアノ私に刑いかにも駒そんなら刑部刑御台さま小文次殿小太郎サア母上様小次郎乳母もこいよらんサアお供申ませう小文まづ入らせられませう上「勇む兄弟付々を乗しづめつゝ駒の井は打連れ奥へ入にける跡には家老お乳の人親子の中も付々の育君には敵と敵鎬を削る胸の中いひ出す詞も物に角きく申父上私に用とは何の御用銘々的場の用意に気がせくちやつといふて下さりませ上「いらつて掛れどこなたは落付き刑ハテいら〳〵と世話しいやつ其方ばかりいらつても双方一度に射術の試み此方にも用意が出来ねば詮ない事何も其やうにいそぐ事はないイヤそれに付て娘其方を召連当那須のお家に有付たは御兄弟の若殿の生た年思ひ出せば早十五年よもや忘れも致すまいハテ光陰は矢の如しぢやてなきく爺さまにはもと京家の武士私はまだ十六の年ゆゑ有て御浪人嚊さまはお果なされ親子二人が鎌倉へ来た当座私がよしない不埒を仕出し其先の人の名もしらず顔もしらねど種をやどししるべの方に預けられ身二つになるその内に爺様には幸ひと此那須のお家に御奉行刑其時当家の奥方にも御懐胎娘のぞちも同じ臨月主人の奥方といひ独の娘双方共に恙なう安産のあれかしと願ぴし甲斐にあれあのごとくお家には玉のやうなる男子の二子きく其御誕生の日もかへず私も念なふやゝを産み其夜は悩みに気を失ひあくる日聞けば産れたやゝは男子ながらはやくさの病にて産れて直に死別れかへつて此身は悩みもなうひだつたを幸ひに刑主君の若君は孖なれば乳母がなくては叶はぬと娘のそちに乳のあるを幸ひ惣領の小太郎殿へお乳の人きく十四年のけふが日まで親は御次男の小次郎さま付私はまた惣領の小太郎さまの乳人役今那須のお家でも大勢の御家来衆にもてはやさるゝ身の大慶是もみなお主さまの御恩と寝た間も麁略におもはぬ此身刑すりや忠義に心を砕くぢやまできく男女子の品こそかはれあなたは小次郎さまの付人ゆゑ育君を大切になさるが忠義の道此身は育た小太郎さま大事に掛けいでなりませうかいなア刑ハテういやつ出かしたなア女ながらも忠義を忘れぬ志此刑部も聞て安堵さりながら其方が産落した忰其節に死ずとおつて此祖父がともかふも育て上げてをつたらば何ぼうそちが忠義にこり主君大事とおもふても親子の愛情はまた格別忠義の的も狂ふであらうのきくホヽ是はまた爺様の改つたおつしやりやう譬へ我子があの時に生ながらへて居やらうが夫といへば名もしらず顔さへしらぬ中といひ世間の人にも面ぶせ殊に主人に仕へるからだもし誰子と問れた時何と答へん詞もなしおもへば死だが物怪の幸ひ何の未練を残しませうぞ刑ムヽすりやあの時の孫が生ながらへてをつた所がきくなまなか我子が生で居ては御主人へ不忠にならうもしれず死ずは不通にやる心死で呉れたが互ひの身のため今では年月育た和子さま麁略にせぬが此身の冥加それをまたこと〴〵しう何とおもふて問はしやんすへ刑イヤサ其事を尋ねたはそちが忠義にこりかたまり育君を大事にかくるは娘ながらも此刑部感心はするものゝもしや今にもそちが忰此刑部が独りの孫無事に生長いたしをつたりや嘸其方も嬉しからうがもしや忠義の切先もなまりはせぬかとためして見たのさきくホヽてもマア色々の事をいはしやんす譬へその子が爰へ今生のばはつて出やつても親子の輪廻に引されて一旦尽した忠義の道忘れる様な女ではござんせぬ刑オヽさう有う我子の事さへ思はぬからは兎角育君の小太郎殿大事おなじ主人のお胤でも御次男の事は苦になるまい此又刑部も育君小次郎殿にけふのかけ的物の見事に勝して見せう其時そつちにおくれを取りむごい親ぢやと恨むなよきくそりやおつしやらずとも互ひの事こちにもおくれを取らさぬ用心譬へおまへが恨ましやんしても親子の中は私事忠義の道にはかへられぬこつちに勝して見せませう刑アノ見事そちがやきくアイおんでもない事刑此あらそひもきく武門の意地刑とはいへ孫のきくヱヽ刑イヤサ的場の用意言付おきやれきくさやうならば刑部さま刑お乳の人早く〳〵きくお先へ参ります上「互ひにそれとおれそれも行儀崩さぬ武家育矢竹心に兄の乳母爺には心奥の間へ用意にこそは入りにける跡見送つて父刑部何か心の一思案刑ムヽあの心底ではかの事を今更どうもかうかうと親の口からあからさまにはなされず今まで仕込みし此一条ハテ何とがな上「胸に手を当て工夫の只中奥よりそつと弟の乳母伺ひ寄てひそく〳〵声らん申刑部さま刑オヽ乳母して的場の用意はらんアイ何も角も拵すみ是からが勝負の一段しかし案じらるゝは大事の和子軍のお供は跡目の定め此勝負に射まけては今まで高い此鼻がへしやげる計りか和子の外聞殊にお前の娘御ぢやが小太郎様のおうば殿にこなされるのが口おしい御家来なれど伯父御の師範兄御を相手の射合はこわ物こつちばかり勝つ工夫はござりませぬか刑部さま刑身共とても其工夫をしておる所オヽ幸ひ〳〵よい計略上「お蘭を近付け耳に口聞たび毎に小躍りしてらんすりや曲り矢を小太郎殿に刑アヽ是静かに合点からん心得ました刑ちつとも早く上「しめし合して両人は奥と口へぞ〔トオクリにて道具庭先紋付の幕張りし射場になる〕上「別れ入る程なく奥に御台の声駒双方共に用意がよくば射術の試み早う〳〵小太小次ハアヽ上「ハツといらへて一間より小太郎小次郎りゝし気に乳母〳〵も付近ひ双方に控ゆれば御台を始め小文次刑部指図に随ひ妼共かの陰陽の日の丸の扇各竹にゆひそへて家来は心得弓と箭を二人が前にさし置たり是ぞ矢島に高名の扇の的の前表を爰にしらすも花やかなり何れをひけと思はぬ親の心の気配り目配り小文次刑部も片づを呑み乳母〳〵は息をつめ差出す四手の手もふるひ風に木の葉の散るごとく小太郎は西の方東は弟小次郎が射向の袖のしほらしく引かためたる一筋勝負矢声を掛けて一時に切て放せばあやまたず東は射当西の方兄は射はづす心の騒ぎ弟の乳母は飛上りらんあたり〳〵「悦びの声を聞くにも兄の乳母扇を捨てゝどうと伏し無念涙に暮れ居たる刑部は勇の声をあげ刑ホヽウお出かしなされた育君小次郎様には軍のお供に極りましたぞ小文小太郎殿の射はづせしも家を継ぐべき御瑞相神仏の加護頼もし〳〵駒オヽ勝も負るも軍の習ひかならず遺恨に思やんな上「詞に千貫百貫の鷹を放する軍だち刑いで〳〵和子には尼公の御隠居とがみが原まで出陣あれ小文此小文次は鎧親出陣の儀式御親子餞別のお盃申上ん駒其内我夫にも御帰舘なされう出かしやつた小次郎とは云ふものゝかわいや小太郎上「心の内を思ひやり態と勇みの声はげまし駒サア皆もこなたへ皆々まづお入あられませう上「こなたへ来たれと引連れていさむ弟につく乳母としほるゝ兄のお乳の人よそに見なして五十嵐も鼻打かみて紛らかし小文いざ刑部殿刑まづ〳〵上「ともなひ一間へ入にける跡に小太郎打しほれ涙に暮れし有様を乳母は思ひにくれながら態と詞のはり強くきく是申和子さま大功を立んと思ふ者は小事にかゝはらぬとやら何をくど〳〵思召軍に立ずばあゝまゝよまんまの皮でおすましなされくし〳〵と思召との又ぎく〳〵が出まするぞやヱヽ気の細い何ぞいのう上「しかる内にもお道理と胸に涙をこぼし居る小太郎思案極めても面へ見せず目をおし拭ひ小太郎オヽいやれば本にさうか いのう去りながら父上には最前からまだお帰りなされぬか今一応とゝさまへお願ひ申してたもらぬかそれが本の念ばらし上「いふ顔つれ〴〵打守りきくオヽおいとしや夫程にまでお心残りなかオヽ御尤ぢやお道理ぢや成ると成らずと殿様のお帰り次第この乳母が願ふて見ませう其お返事をいふまでは此庭先にござつてはお風をめすサア〳〵いつものお間へござつて是此刀などかならず手に取て下さりますな一筋なお生れゆゑ短気な心が出ようかとそればつかりが気掛りな上「サア〳〵こちへと抱かゝへ袴の塵を打払ひ落散る弓矢を拾ひあげ案じる涙しほ〳〵としほれて奥へ入相の齢〔ト小太郎おきく居流れにて静かにもとの道具へ戻る〕
上「鐘につれ立つ夜嵐は無常の風と身にしみていとゞ思ひに小太郎は涙ながらに硯箱書置品ぞ哀れなる小太郎獅子は我子を谷へ捨その勢ひを見るとかや父も我子をためせども其甲斐もなう射はづせし不覚は此身の未熟から上「さぞや詮なくおぽされん面目なさと口おしさ小太郎腹切て相果るはせめては恥をしつたかと思し召下さるべし上「おなごりおしいは母さま小太郎お頼み申すは乳母が事不便を加へて下さりませ上「繰返し〳〵書ては目をすり袖絞り小太郎よつく武運に尽果たか上「わつとばかりに声をあげ我と我身を打付て消入る計に泣居たり時しも強く吹風の音につれたる襖戸障子ぐはた〳〵〳〵ざは〳〵〳〵と一時に騒ぎ出しは風にはあらす化生屋敷と人毎に云ひしに違はず家鳴震動心魂に徹する響きは物すごき愁にしづむ小太郎が勢ひふんですつくと立小太郎アヽラ不思議や兼て妖怪有とは聞けど是まで障碍なさゞりしが心気疲れし弱みを見こみ性根を奪ふと覚えたり憎さも憎し冥途の供いで引つれてゐて呉れん上「窺ひよつなる心の不敵案に違はず一間の障子はつしと蹴破り飛出る化生はとしふる野干の眼は日月利剣を引提げ怒りの歯をかみきくヤアぬしある舘としりながらうぬが弓矢の高慢にて望んで受たる主を始め家内の奴原取殺しほむらをやすめんアラ嬉しや上「はつたとにらみし有様は身の毛もよだつ計なり其時小太郎ちつとも騒がず南無八幡大菩薩と心中に祈念し小太刀を抜て討かくればひらりと外すを付入てぐつと突こみ一ゑぐりゑぐればかつぱと伏す所を乗かゝつて声はりあげ小太郎ヤア〳〵化生の物を小太郎が組とめたり突とめたり明し〳〵上「をりあへやツと呼はるこゑス八事こそと御台小文次刑部も共に走り出見ればあやしき化生の姿こは〳〵不思議と銘々が引立見ればかづきし面落てあらはす乳母の顔刑ヤヽこりや娘小文誠に乳人駒お菊かいのう上「人々是はと興さめて呆れ果たるばかりなり驚く内にも小太郎は乳人にひしとすがり付小太郎のう情ない何ゆゑにおそろしき姿となり我手には掛りしぞ子細を語つて聞しやいのう上「いふさへもおろ〳〵涙手負は其まゝ抱き上げきくオヽ健氣によう遊ばしだお出かしなさつた是でこそ我育たお子程ある悲しい事はござりませぬぞや泣て苦にして下さりますな申奥さま御惣領を云ひ立軍のお供を願へども十四やそこらで腕かたまらず弟御連にも同前とはおめがねが違ひませう是見たまへ右の腕より左の肩胸骨かけての働きはあつぱれゆゝしきお手の内是を見こみに軍のお供連れましていて下さりませ大事の一矢を射損じて面目ないと突つめたお心の程いとしほく恥を清めてあげましたくあざとい智恵の古狐化生屋敷といふを幸ひ鑓初折て剣となし手遊びの面引かづき畜生道を此世からまねんで死るも和子の為なすのゝ原の狐共那須のお家の野干とも云ひならはして十五に足らぬ小腕にて変化の物をしとめしと触れ流し言ひふらし手柄と末世に云はしてたべ上「死る今はの際までも思ひに暮れし有様を聞くに刑部は胸に釘実に断りと小文次も詞を出さす扣へ居る御台はワツと泣叫び駒のう浅ましやいとおしや其身は四足の数に入り畜生道の苦を受けても手柄にさせんとおもふ厚恩小太郎かならず忘りやんな尤も刑部が娘と云ひ親子諸共家来なれど世の譬にも云ふ通り乳母は他人とおもひしに手汐に掛ければ夫程にいとしかわいゝ物かいのう不便の最期を見る事ぢややなア上「くどき立〳〵嘆きつれて小文次も涙の外の挨拶は袂をしぼる計り也刑部は始終詞なくさしうつむいて居たりしがこたへ兼しかつツと寄り傍に落ちる小太郎が刀を取るより早く我腹へがばと突立れば人々是はと驚に又驚を重ねつゝ顔見合せて茫然たりおきくは苦しき息継あへずきく是爺さま何故にお前までが此様子上「様子聞かして〳〵と問はるゝ度に苦しさの刑部は涙呑込〳〵刑オヽとはずとも語らねば娘は元より御台五十嵐嘸此刑部が切腹を不思議にも思はつしやらう是なる娘が忠義心我身を死しても育君にひけを取らさぬ心の程遖れともけなげとも夫とは替り此刑部不忠のさむげに此切腹駒何是なるおき仁が忠義を感じ小文切腹の上さんげとはきく深い様子がござんせう三人なんと〳〵刑サヽ此事を物語るには人々の前といひ我子ながらも娘の手前おめ〳〵生きては居られぬしぎ今日の只今まで主君御夫婦の目をたばかりし悪事の報さんげのために此自殺アヽ思ひ出せば十五年已前我当家に仕へし頃御台所の産み給ひし孖の内惣領の小太郎殿は達者にて今一人の御次男は生れ落ると早瘡にて産声あげし計りにて跡は忽御落命駒ヤア〳〵すりや其時の二子の一人は死やつたか小文それに又あの小次郎殿は刑サア人として始より悪人といふはなく其時ふつとおもふには世の諺にも二子の内もし一人が相果れば残る一人も育てぬものと聞に付とやせんかくやとおもふうちしるべに預けおきたる娘も其日身二つになりしと密かにしらせの一書を見るより思ひ付たる心の目算京都より親子連当地へ下り仕官の当座主人大事とおもふに付娘の産し子の親は何国の誰とも相分らず父のゆるさぬ徒ら孫表立て育てもならず是ぞ幸ひ和子の死骸と其孫を取かへて御兄弟共御無難と当座を欺り置く時は主人の喜び孫めの仕合両方よしと馳帰り娘に出生の男子は相果てしと言聞かせ今日の只今主人の和子とかしづきし御次男の小次郎殿こそコリヤ娘そちが産だる忰ぢやわいやい上「始てあかす孖の素性聞くに御台も小文次も余りの事に興さめてあきれ果たる計りなりおきくはかなしさやるかたなくきくヤア〳〵〳〵そんなら我子と和子とを取かへおき現在産の親子さへしらぬお前が心底は善か悪か様子があらふ駒取かへおきしは忠義ときこえ其後長の年月を現在の娘にさへ包み隠す心底は小文主君に云へずば某に咄も有うに根深く工む悪心か三人サヽ様子は何と〳〵上「不審はれねば双方より詰よる中に手負の刑部いた手を屈せずどつかと座し刑サヽ夫故にこそ此切腹アヽ情なや世の人情始は忠義とおもひしも月日の立つに随ふて段々募る我欲心たつた独りの初孫め爺の素性はしらね共日にまし夜に増し不便さ増り主人は元より我娘も此事をしらぬを幸ひ二人の和子に乳を上んと主君へ申して娘を呼寄せお乳をくゝめて見し所どうした縁か惣領の和子に娘はお乳をあげ我肉身小次郎殿には余の乳母取て是も養育兎角浮世の事とては思ふやうにならぬも因縁其内娘は育君大事〳〵と一図に思ひ小太郎殿の乳母は元より付添の某まで親子の中にも隔してうかつに心をゆるさぬ様子さほどにおもふ我娘に取かへ置たと云ひ出されずけふやいはんか翌やいはうと思ひながらも送る年月積りつもつてけふの今主君は西国へ軍の加勢此お供には何れぞ一人召連んと主人の仰聞くと其まゝ心の悪念何卒弟小次郎殿に首尾よく跡目も取らせたし殊には末世の亀鑑にも残さす程の高名もさせたいが腹一ぱい又乳母のお蘭こそ悪人梶原が身寄の者上べは忠義と見すれども那須のお家に仇するもの我意を立んと悪事の腰おし孫子に迷ふ某に何かと悪事をすゝむるゆゑ幸ひ彼に申付け曲りし一矢を人しれず小太郎殿にあて行ひ我孫の小次郎には狂はぬ矢をば持たせしゆゑ扇の的には射かつ筈それから起つて娘には妖怪変化と姿をかへても和乎の手抦に身を殺しお供を願ふけなげの最期むざんな死をさせたるも元はと云へば娘にもしらさぬやうに取かへし孫に家督を継さんと祖父父の悪事の報い来て今此果を各のお目に掛るがせめての言訳かくの通りでござるわいのう上「包みかくせし身のさんげ扨はとばかり主従は呆れて詞なかりけり小太郎怒の声をあげ小太郎扨こそ〳〵そちが肉身の孫を軍に立さんため我には態とまがり矢持たせ不覚を取らせしにつくい奴切腹とはまだしも〳〵いで小太郎が恨の刄とは云ひながら親はおや乳母はさうした工みとしらず我を大事と育てしうへ身を捨てゝまで某に忠義を立る志おもへば是も不便の有様母さまコリヤマア何と致しませう上「胸の怒も義理故に刄もなまる曇り声御台はあるにもあられぬおもひ駒オヽ其悔は尤もなれども長の年月我子ぢやと偏りおふせし刑部が悪心憎惜さも憎し小次郎も共に此座へ呼出して科糺さんとはおもへども是とても刑部が工み露ちり程もしらぬ事殊には乳母が肉身の忰とあれば乳兄弟小文主君の心は存ぜねどいかなる重き罪科も懺悔には滅すと聞く今刑部が切腹せしうへは乳母が深き忠義にめんじ小次郎が科をなだめ改めて家来の数に加へ長く忠義を尽さすやう此小文次が受合しぞ上「安堵しやれと五十嵐が詞に刑部は有がた涙お乳は中々義理さがしくおもき頭を打ふつてきく其お志はありがたけれど化生野干の姿となつても育君のお手にかゝるは忠義の道是まで受けし御恩報じなまなか今はに我子の命此乳母ゆゑにお助あるは情の罪科和子の敵何ぼうでも始から死だ我子に相違はないハテ生なりと殺しなりとなされた上お家の掟を立るが道ことの起りは此乳母がよしない若気の徒らから子をもうけたるばつかりに爺さまの欲心もおこるといふもの彼是きくも冥途の迷ひ皆さまおさらばなむあみだぶつ上「おもひ立たる忠義心いつかなたゆむけしきなく懐剣取て引廻す其手をおさへて御台小文次マア〳〵待てと引とゞむ立よりながら小太郎もとめてよいやら悪いやらいつか果てしも泣入る折から遠音に聞ゆる貝鐘は早西国へ出陣の人数を揃へる時刻ぞと人々驚く其隙に一間の内より声高く宗高ヤア〳〵刑部親子とも那須の与市宗高が申聞す子細あリマア〳〵まて上「声かけ出る崇高が甲冑姿に采配打ふりしづ〳〵出る優美の出立跡に付添ふ家の子郎等刑部はハツとうづくまり乳母は苦しき息ながら御台小太郎小文次も共に姿を打守り駒ヤアあなたは我夫いつの間に小今鳴響く時の声小太郎扨は最早御出陣か刑始終の様子をお聞あつてきく最期をおとゞめ遊ばすは皆いかゞの子細でござりまするな宗ホヽウ我兼てより刑部が心底合点ゆかずとおもふゆゑ態と母尼公の屋敷へ立寄時刻を移す体にもてなし裏道より立帰り様子委しく聞取たり去るにても恩愛に引かされ宍戸刑部が悪心は取も直さずそれ其弓もとは直なる竹なれど娘と孫が弦を張り欲に曲りて身を果たす又乳母おきくは主思ひ矢竹心の一筋に親ならぬ身の親よりも深き思ひに身を捨つる云はゞ忠でも義でもなく真実底から大切が余つて死る不便さに今はの際の両人に我心底も云ひ聞さんため出陣の時刻と云ひ世話しき中に呼とゞめしぞかならすはやまる事なかれ上「さすが源氏のものゝふにも弓箭は並び那須の宗高物に動ぜぬ其振舞さもゆかしくぞ見えにける刑すりや取替子の事兼て君には御存じとや駒それに又今日までしらぬ体にてお過し有たは小文深き御賢慮有ての義かな宗いかにも是なる小太郎が誕生の折からおもひも寄らぬ孖の出生惣領は小文次に預け次男は新参の刑部に預け両人共に乳母を取り育つる内刑部に預けし次男の顔よく〳〵見れば母には似ず兄小太郎が乳母たるおきくの面体によく似たれば合点ゆかずと思ふゆゑ物によそへて様々と付々の者をためして見るにそれなるおきくは忠義一図刑部は始終に次男を世にたて惣領をなきものにせんと計る様子扨は刑部が我孫を取かへをきしに相違なし此事とくよりたゞさんとは思へども云はゞ忰の乳兄弟と育置しも我情然るに先程より此場の様子聞くや否物のためしは親と子の血合せをして証拠を見んと小次郎が腕を引某も又かひなを突き二人が血汐を合せし所思ひも寄らず一つに寄りしは誠の親子ならずして血汐のよらん筈もなしそれゆゑ今はの汝等を呼とゞめしも此子細そもアノ小次郎を身に宿せしおきくが夫といふは何者今はにせまる親子の者委しく語つて此世の思ひ出迷ひをはらせサヽなんと上「何と〳〵と尋ねられ今更何と返答もおきくはおもなき其風情刑部は痛手も打忘れ刑有難き殿のおしめし我孫の小次郎と殿の血汐が一つに寄りしはいかにしても合点がゆかぬコリヤ〳〵娘そちが身籠りし其様子かくなる上は包むに及ばぬ委しう語つてお聞せ申せ上「早う早うといらだつ爺親娘は息をつぎあへずきくヱヽ此事はけふが日迄言はず語らず済せしが今はのさんげも罪障消滅恥かしながら聞てたべ思ひ出せば十五年前爺さまには瀧口のお侍傍輩の讒言にて御浪人その内私は深草の庵室に叡山横川の大徳たる恵心僧都の説法ありて正真の阿弥陀仏の姿を拝んで刻み給ふと都の人々通夜あれば私も共にお通夜の内つひとろ〳〵とまどろむ間に明りは消えて真のやみ隣に是も通夜のお人どうやらしたが縁のはし勿体ない事ながら其くらがりの忍び路に多くの人の入込なれば後のしるしと其お人是此香包を渡し置かれ是【彼是ヵ】する間に群集に紛れ夜明けてさがせどお顔も見とめず是非もなく〳〵我内へ帰る其日が吾妻へ旅立爺さま諸共有付のため此鎌倉へ心ざす内たつた一度の其夜の契りおなかに宿して此成行香の包に一首の和歌鎌倉とあるを便りはる〴〵尋ぬる甲斐もなう夫には行あはず我子は死だとおもふたゆゑいつそ夫子に逢はぬがまし此身は一生尼同前再び殿御を持ぬ身に乳母の役が相応とお主大事和子大事とおもふより外心も移さず暮し〳〵たけふの今なまなか我子は生残り爺様のさんげといひ思へば此身は因果者恥かしい情ない我身の上でござりまするわいなア上「身のなり果のかなしやとどうと打ふし泣さけぶ始終の話しに宗高は思はず膝をはたと打ち宗ハヽア奇妙〳〵不思議としれし小次郎が素性コリヤおきく其方が深草の庵室にて忍び合し男より後の筐と送つたる香包に一首の和歌とあるからはもしや掻くもりなどか音せぬ郭公鎌倉山に道やまどへるとはしるしなきやきくヱイ〳〵〳〵あなたはそれをどうして御存じ宗しらいでならうか其夜の男といふはかくいふ那須の与市宗高なるわい皆ヱイ〳〵ヱイきくすりや其夜の殿御といふは宗高さまであつたかホヽホイ宗オヽ我其頃は父諸共左馬頭義朝の手に随ひ都にありしが叡嶽横川に居給ひし恵心僧都の説法ありと聞しより深草の小庵へ一夜の通夜をなせし折からふと若気の移り気より通夜の女と契りをこめ後の筐と自筆にて実方中将の和歌をしるせし香包を彼女に渡しおきしが扨は其夜の女は小太郎が乳人にて小次郎と入かへ置し刑部が孫は廻り廻つて我肉身の忰にて有りしよな上「コレハ〳〵と感じ入る年月過し物語り扨はと皆々疑ひの晴るに付て恥かしきおきくは元より刑部が仰天余りの事に詞も出ず互ひに顔を見合せて溜息ついたる計りなり折から庭の小影より窺ひ聞たる乳母おらん小踊りして走り出てらんヤア聞た〳〵もと此蘭は梶原様の家来番場の忠太がおめかけさま乳のあるを幸ひに乳母となつて入こみしも御主人に意恨ある那須の家をなき物にせん工みサア此上は小太郎兄弟始として皆の奴原を打取て手柄にする覚悟しや上「懐剣引抜我慢のおらん宗高目がけて切かゝる刑部は居ながらさゝゆる内ヱイと放せし矢声と共にお蘭はワツと息絶えたり何れも是はと見かへる内衣の間より弟小次郎小桜威に身をかため弓箭携へあらはれ小次郎最前から委しい噺し一間の内から聞ましたが父上と血合せしてやつぱり誠の親子とは分りながらも何故と疑ふてばかりをりましたが扨は兄小太郎殿の乳人といふたは実の母家来刑部は祖父さまで有たかしらぬ事とは云ひ乍ら此身を世継にせんために祖父さまの悪心も元はと云へば此お蘭めさつきに曲りし一矢にて兄上に不覚を取らした其報い我矢に掛けて此通り悪事の報い覚えたか上「刀すらりと抜放しおらんを直にとゞめの刀さしも苦しきお乳親子オヽ健気やと云ひたさも早引息の断末魔見るにたへ兼ね人々もワツと計りに泣しづむ共にあはれの小文次は立上つて小太郎引立小文次小次郎殿には産の親又小太郎殿には乳母ならぬ云はゞ其身の守り神父御の仰を待たず共弟御に先越されずいそいで出陣の用意用意小太心得ました父上御めん上「いさみに詞なき捨てゝ一間の内へ駈入たり駒オヽ潔よし〳〵是々何れも目出たい子供が初陣に嘆きはかならず無用〳〵宗ホヽウいしくも制されたりそれ二人の忰が馬ひけやい〔内にて〕ハアヽ上「ハツと引出す栗毛の駒小次郎ふわと打誇り小次郎ノウ〳〵父上常々からの仰の通り国を出る時親を捨軍の場所には其身さへ忘るゝは武士の習ひ始めて聞た此身の素性誠の母や祖父様に別るゝは悲しけれどそこを泣ぬが兵ものとやら婆さまの御隠居砥上が原までお先へ参る父に越たる先陣ぞや上「呼はり駒を乗廻すそのけなげさを見る母も祖父も今はのよろこび顔小文次はいさみを付け小文天晴候小次郎殿いそいで先陣いたされよ上「下知に随ひ手綱かいぐり一鞭当て乗出す所に小太小次郎待た〳〵上「おゝい〳〵と声を掛け兄小太郎も緋威の鎧にひしと身をかため金覆輪の筋甲猪首に着なし月毛の駒に打跨り広庭に駈来り小太ヤア〳〵小次郎御隠居尼公のお屋敷砥上が原まで是より二里半三里に近き道の法馬の腹帯がゆるんでは鞍かへされんあやうし〳〵上「しめ直されよと呼はるにぞ実に尤と乗ながら小ゆすりしてしめ直す其間に小太郎あふりぼつ立真一文字に駈通り小太郎御免候へ弟殿是は最前一矢の勝負射まけし返報に去んぬる頃宇治川にて梶原を出しぬきし佐々木殿の謀事ちよつと学んで候ぞや上「につこと笑ひて乗すゑたり今はの乳母は起上りきくオヽ其智謀がもう手柄刑未来の土産にする本望宗刑部親子は冥途へ出陣我又親子が菩提のため深草の小庵を修造して仏前の幡を乞受け笠印となし即成就院と末世に呼さん心残さず成仏せよ刑きくヱヽ忝い上「なむあみだ仏と引く息のよわるにつけて此世の別れハツと気も落小太郎が駒引かへせば弟がはや乗出すいさみの駒先取られじと涙の手綱くりかけ〳〵くり戻し色香あらそふ児桜駒其姥ざくら散りゆけば小文胸に涙の糸桜小太小次もつれあふたる兄弟が宗駒のいなゝき轡の音上「あぶみにあふり手綱にむち打引立引立引廻し虎の尾をふむ軍場へ花をちらして宗いそげ小太小次ハツ上「かけり行〔三重〕幕右は天保三壬辰年の著作にして其節の役割は那須与市宗高実川額十郎乳母おきく坂東寿太郎宍戸刑部中村歌右衛門駒の井御前嵐璃光五十嵐小文次中村歌七乳母おらんに大谷友衛門那須小太郎中村芝翫小次郎中村梅花の心当に脚色しも其まゝにて打捨置しが追々役者は故人と也二十ケ年の内役割のうちの俳優一人も残らず残るものは草稿と予計りなりと笑ひながら爰に記るせり都て立役よりする女形の芸には皆すこしづゝの曲ある役ならでは勤めぬ者なり所謂女戻重の井〔子別れの段〕安達が原の袖萩〔祭文の段〕花上野のお辻〔志渡寺の段〕和田合戦の板額〔市若初陣〕先代萩の政岡〔御殿〕等にて皆一つの癖をつらまへて女形を勤むる者なり今女形払底の世なれば良もすれば真女形〔戯場方言に若女形を云ふ〕の勤むる役を立役よりする事あれども譬はゞ矢口の渡のお船大内鑑の葛の葉などは若女形より勤めずは真情通じ兼れど近来は立役よりする事乏はなりけり右に云ふ曲者の役は往古より立役より仕来り今真女形の勤ては何とやら物たらはぬやうに思ふも当世の人気なれば是非なし此西海硯の乳母などはいまだ歌舞妓にて仕たる事なし本文西海硯は享保中の狂言なれば脚色たらずあつさりとしたる狂言なれば斯書広げずば当時の狂言とは成り兼るなり
寛永元年より寛政十一年まで百七十六ヶ年が間の世話事を見易からんがため爰に出す、寛政十二年より後五十年余りは近き事ゆゑ略す
寛永元 | 子 | 江戸中村勘三郎座始る |
寛永二 | 丑 | 山崎宗鑑・北村季吟歿す |
寛永三 | 寅 | 矢代家対決落着す |
寛永四 | 卯 | |
寛永五 | 辰 | 松前屋五郎兵衛落着 |
寛永六 | 巳 | |
寛永七 | 午 | |
寛永八 | 未 | 宇都宮騒動 |
寛永九 | 申 | 日本橋にて馬切狼藉 |
寛永十 | 酉 | 伊賀越敵討 |
寛永十一 | 戌 | 江戸市村座始る |
寛永十二 | 亥 | 石川丈山歿す |
寛永十三 | 子 | 寛永通宝を鋳る |
寛永十四 | 丑 | 島原切支丹起る |
寛永十五 | 寅 | 天草一揆 |
寛永十六 | 卯 | 瀧本松花堂歿す |
寛永十七 | 辰 | |
寛永十八 | 巳 | |
寛永十九 | 午 | 民谷坊太郎敵討 |
寛永二十 | 未 | |
正保元 | 申 | |
正保二 | 酉 | |
正保三 | 戌 | 国性爺日本へ加勢を乞ふ |
正保四 | 亥 | 大久保彦左衛門歿す・累絹川にて死 |
慶安元 | 子 | |
慶安二 | 丑 | 宮城野・信夫仇討 |
慶安三 | 寅 | 細井広沢歿す |
慶安四 | 卯 | 由井正雪・丸橋忠弥死罪 |
承応元 | 辰 | 合邦辻敵討 |
承応二 | 巳 | 松永貞徳歿す |
承応三 | 午 | |
明暦元 | 未 | 林道春歿す |
明暦二 | 申 | |
明暦三 | 酉 | 江戸大火人多く死す・回向院立 |
万治元 | 戌 | 江戸日本橋始めてかゝり、吉原山谷へうつる |
万治二 | 亥 | |
万治三 | 子 | 森田勘弥座始る |
寛文元 | 丑 | 去年姫路にてお夏清十郎心中 |
寛文二 | 寅 | |
寛文三 | 卯 | さつま源源五兵衛お万心中 |
寛文四 | 辰 | 京大仏木とかはる |
寛文五 | 巳 | |
寛文六 | 午 | |
寛文七 | 未 | |
寛文八 | 申 | 京六条吉の太夫歿す |
寛文九 | 酉 | 星野勘左衛門矢数 |
寛文十 | 戌 | |
寛文十一 | 亥 | 累怨霊解脱す |
寛文十二 | 子 | 奥平家敵討 |
延宝元 | 丑 | 隠元禅師寂す |
延宝二 | 寅 | 椀久歿す |
延宝三 | 卯 | 高尾三股にて死す |
延宝四 | 辰 | |
延宝五 | 巳 | 伊達原田対決 |
延宝六 | 午 | 扇屋夕霧歿す |
延宝七 | 未 | 平井権八死罪 |
延宝八 | 申 | |
天和元 | 酉 | 安宅丸一見堀田稲葉刃傷 |
天和二 | 戌 | 八百屋於七火罪 |
天和三 | 亥 | 西山宗因・山崎闇斎歿す |
貞享元 | 子 | 於三茂兵衛召捕らる |
貞享二 | 丑 | 御堂前敵討 |
貞享三 | 寅 | |
貞享四 | 卯 | 和佐大八通し矢 |
元禄元 | 辰 | |
元禄二 | 巳 | 梅野由兵衛死罪 |
元禄三 | 午 | 姫路にて於清十郎心中(寛文元と重複) |
元禄四 | 未 | 灰屋紹益歿す |
元禄五 | 申 | 佐野次郎左衛門吉原にて人殺 |
元禄六 | 酉 | 井原西鶴・芭蕉翁歿す |
元禄七 | 戌 | 細野藤左衛門死罪 |
元禄八 | 亥 | 三勝半七千日寺心中 |
元禄九 | 子 | |
元禄十 | 丑 | 岡本一抱子歿す |
元禄十一 | 寅 | |
元禄十二 | 卯 | 京にて於花半七心中 |
元禄十三 | 辰 | |
元禄十四 | 巳 | 浅野吉良刃傷・亀山敵討 |
元禄十五 | 午 | 義士夜討・五人男死罪 |
元禄十六 | 未 | 小三金五郎・於初徳兵衛心中 |
宝永元 | 申 | 河村瑞賢歿す・於房徳兵衛心中 |
宝永二 | 酉 | 淀屋辰五郎闕所 |
宝永三 | 戌 | 梅田心中・服部嵐雪歿す |
宝永四 | 亥 | 於亀与兵衛心中・榎本其角歿す |
宝永五 | 子 | 高野女人堂おむめ粂之介心中 |
宝永六 | 丑 | 揚巻助六千日にて心中 |
宝永七 | 寅 | 今宮かけ鯛・小かん平兵衛心中 |
正徳元 | 卯 | お染久松心中・梅川忠兵衛捕らる |
正徳二 | 辰 | 崇禅寺馬場敵討 |
正徳三 | 巳 | 小松屋宗七死す |
正徳四 | 午 | 貝原篤信歿す・奥女中江島流罪 |
正徳五 | 未 | 竹本筑後掾・森川許六歿す |
享保元 | 申 | 去年国性爺浄瑠璃始る・小西来山歿す |
享保二 | 酉 | 長吉長五郎死罪 |
享保三 | 戌 | 祐天上人寂す |
享保四 | 亥 | 白かねや与左衛門つる木や本之助死罪 |
享保五 | 子 | |
享保六 | 丑 | 小春治兵衛心中 |
享保七 | 寅 | お千代半兵衛心中・池西言水歿す |
享保八 | 卯 | 京御影堂心中 |
享保九 | 辰 | 近松門左衛門・英一蝶歿す |
享保十 | 巳 | 新井白石歿す |
享保十一 | 午 | 北条時頼記浄るり始る |
享保十二 | 未 | 白木屋おくま死罪 |
享保十三 | 申 | 天一坊死罪・徂徠先生歿す |
享保十四 | 酉 | 交趾より大象を献ず |
享保十五 | 戌 | |
享保十六 | 亥 | 西沢一風歿す |
享保十七 | 子 | |
享保十八 | 丑 | |
享保十九 | 寅 | お半長右衝門桂川心中・室鳩巣歿す |
享保二十 | 卯 | |
元文元 | 辰 | おしゆん伝兵衛心中・北の新地五人切 |
元文二 | 巳 | 大安寺堤非人仇討 |
元文三 | 午 | 伊丹鬼貫歿す |
元文四 | 未 | |
元文五 | 申 | 木づや吉兵衛追放 |
寛保元 | 酉 | 江島屋其磧歿す |
寛保二 | 戌 | 紀海音歿す |
寛保三 | 亥 | |
延享元 | 子 | |
延享二 | 丑 | 八文字舎自笑歿す |
延享三 | 寅 | 豊竹越前掾一世一代 |
延享四 | 卯 | 日本左衛門死罪・太宰春台歿す |
寛延元 | 辰 | 忠臣蔵浄瑠璃始る・菊岡沾涼歿す |
寛延二 | 巳 | かしく死罪・おその六三郎心中・梅川新七心中 |
寛延三 | 午 | 観世太夫一代一能興行 |
宝暦元 | 未 | |
宝暦二 | 申 | |
宝暦三 | 酉 | |
宝暦四 | 戌 | 二代目芳沢あやめ歿す |
宝暦五 | 亥 | |
宝暦六 | 子 | |
宝暦七 | 丑 | 竹田出雲歿す |
宝暦八 | 寅 | 柳里恭歿す |
宝暦九 | 卯 | 塩売長次郎召捕らる |
宝暦十 | 辰 | |
宝暦十一 | 巳 | 半時庵淡々・藤川平九郎歿す |
宝暦十二 | 午 | |
宝暦十三 | 未 | |
明和元 | 申 | 鈴木伝蔵唐人殺し |
明和二 | 酉 | |
明和三 | 戌 | |
明和四 | 亥 | 根津四郎右衛門歿す |
明和五 | 子 | 岩井ぶろ人殺・四文銭通用 |
明和六 | 丑 | 去年加茂真淵歿す |
明和七 | 寅 | |
明和八 | 卯 | |
安永元 | 辰 | 二朱判金通用 |
安永二 | 巳 | 並木正三歿す |
安永三 | 午 | 京大丸馬切 |
安永四 | 未 | 加賀千代歿す |
安永五 | 申 | |
安永六 | 酉 | 伊勢御影参 |
安永七 | 戌 | |
安永八 | 亥 | 烏石葛辰歿す |
安永九 | 子 | |
天明元 | 丑 | 黒谷文七一世一代 |
天明二 | 寅 | 浅間山焼る・横井也有歿す |
天明三 | 卯 | 佐野田沼刃傷・尾上菊五郎歿す |
天明四 | 辰 | 因幡小僧召捕らる |
天明五 | 巳 | 与謝蕪村歿す |
天明六 | 午 | 中村富十郎歿す |
天明七 | 未 | 近松半二歿す |
天明八 | 申 | 京都大火 |
寛政元 | 酉 | |
寛政二 | 戌 | |
寛政三 | 亥 | 肥前島原焼る |
寛政四 | 子 | |
寛政五 | 丑 | |
寛政六 | 寅 | |
寛政七 | 卯 | 小金原鹿狩 |
寛政八 | 辰 | |
寛政九 | 巳 | |
寛政十 | 午 | 京大仏焼る・江戸新大橋敵討 |
寛政十一 | 未 | 明年蔵前敵討 |
元禄中浅野吉良殿中にて刃傷の年より二十一ケ年以前、天和元酉年十二月十五日殿中にて刃傷ありけり、大老堀田筑後守殿を若年寄稲葉石見守殿刃傷に及ばれ双方相討になりしと云ふ一奇話は、浄瑠璃歌舞妓の狂言に綴りなばおもしろき筋なれども、其仕組なければ人口に伝ふる事稀にて、赤穂又は佐野の刃傷の如く世に取沙汰をせぬ話なり、或書にて読み、東都にて講釈に聞しまゝ爰に記す、今東都大橋の東御船蔵の側に安宅といふ地名残れり、こは文緑の頃豊臣朝鮮征伐の砌安宅丸と号し御座船金銀珠玉を鏤め善美を尽し作られしあり、元和以後東国に移し豆州下田の湊に置れしを、後々東都へ御取寄せ有て御船蔵に入置れしゆゑ、其船の名を以て安宅とは呼ぶなり、爰に天下御政事御役向も多き中に大老職といふは誠に重き御役柄にて、酒井讃岐守殿勤められ、次に酒井雅楽頭殿、次に堀田筑後守殿〔上州安中城主十万五千石〕御大老御勤めの頃、お船蔵辺の水中にて夜陰に至れば物悲しき声にて伊豆へいのう〳〵と呼声聞ゆ、依て此声を聞しもの段々噂をして、全く安宅丸の泣声にやあらんと市中専ら此噂さのみなり、公儀より其声のする所を聞とめんと、夜更に小船に乗り或ひは川岸ばたに夜を明し声ある方を聞とむれば、水中に自然と声ありて姿を見とむる事かたく、諸役人一統の評議となりけり、時に大老堀田侯の曰く、昔三井園城寺の鐘を叡山法師奪取て帰れば、其鐘自と三井寺へいのうとの音声を発し、近くば妙国寺の蘇鉄も音を出せしと聞ば、安宅丸にも精有て其声を発するなるべし、彼是と評議せんより此船を破却なし、錺の金具等は公儀の物とすれば子細あるべからずと申出され、衆議是に一決して彼大船を破却し取片付ければ、何のたゝりもなく事済みける〔元和年中安宅丸を伊豆より江都へ引きたる時船重くして動かず、此時中村勘三郎音頭を取りければ船自由に動きしゆゑ御褒美として猿若と呼ぶ芝居をゆるされたるなり〕、其頃の御老中稲葉美濃守殿〔相州小田原城主十万三千石〕此御分家若年寄稲葉石見守殿或日本所中屋敷へ帰路、一人の酔狂人乗物先に立塞り狼籍に及ぶ、家来用人等もてあまし縄付にして中屋敷へ連帰る、やゝ時移り其者酔も少し覚めたりければ始て心付き、見れば縄かゝり居たる事なれば大に驚き、こはいづくにて何故此身を縄付にせしぞと問ふ、番人本所稲葉石見侯の屋敷なりと云ふ、其者弥驚き酔に乗じて前後は覚えねど扨は伊豆へいのう〳〵の悪事露顕せしか嗚呼恐るべし〳〵と、誰が問はぬ独り言を吐き嘆息しける、近習是を聞咎め主人石見守に此事を告る、石見侯も兼て安宅丸一条に付、堀田侯の所為合点ゆかずとおもはれければ、密に其者を目通りに引すゑ御尋有ければ、始は彼是陳じけれ共詮方なく白状しけるは、此者産は上州安中にて吉右衛門と云者、水練を得たるがゆゑ堀田侯へ心易く出入し、水中に沈み一日一夜居たり共労れぬ事取得に頼まれ、お船蔵の水中にて伊豆へいのう〳〵と毎夜叫びしは此吉右衛衛門なり、又船を破却して一歩通りは公儀へ上り、九歩は堀田侯へ私欲せんが為なり、我には其褒美として江戸川々の船役仰付けられ過分の役徳を賜るとまで皆白状に及びければ、石見侯は先其曲者を屋敷中の籠屋へ打こみ番を付け世間に此沙汰せざるやうにし、扨堀田侯に日頃怪敷と思ふ悪事の箇条書をして『堀田行状記」と外題を付け、本家稲葉美濃守殿へ委細を告げ、天下のため禄を捨て一命を擲ちて私の宿意のやうにもてなし、十二月十五日殿中にて刃傷に及ばれしとなり、是古今比類なき忠心より出る所にして、表立て此吟味となれば天下の騒ぎ、時の将軍家へ対してもかゝる不忠の人に大老職を仰付られし過を咎るに当りて不敬なりと、扨こそ私の宿意にもてなされたるなり、されば後々浅野佐野の人々は私の意恨なり、是はいさゝか意恨なけれど、天下の為に一命をはたし家断絶するを心得ての意趣なれば、言外の余情いか計りか深からん、然れば其座の人々にも何の故といふ事をしらず、大老を切害に及びしゆゑ、我も〳〵と石見侯にかゝり其日の詰衆のために石見侯は討れて何れを善とも悪とも分らぬなりに、双方死したれば事済しけり、石見侯の家臣に夏目茶右衛門と云ふ忠臣あつて、死骸下され引取る時おもしろき問答あり、是ら講釈にては真事嘘言取交へ云ふ事なれば、狂言に作らばいかなる脚色せんともまゝなるべけれど、前々の戯編にも演る如く筋よきは狂言に成り難しと故人作者の見残しなるべし
是も『地蔵通夜物語』とか云ふ書にありて今現に下総国佐倉領将門山宗吾明神の社とて遺り、東都にて講釈に講じ流行せる話なり、年号は聞忘れたれども近き頃の事とおもはる、佐倉の城主堀田相摸守殿の領内に宗五郎とてもとは由ある百姓なり、年々堀田侯より年貢の取立厳しく領分の百姓困窮に及ぶゆゑ手立に尽き、数十ケ村申合せ愁訴に及び、もし聞入なき時は一揆を企て年比つれなき地頭・代官を始め領主の屋敷まで狼籍に及ばんと一決するを、宗五郎はまだ老年と云ふにもあらねど常々正直なるうへ才覚もある者ゆゑ、隣村の者等此宗五郎を頭とあがめいさゝか詞をもどく者なし、宗五郎も一揆徒党をさせまじと色々利害をとき諭し取りしづむれども、多人数の飢窮にせまる事なれば是非なく、年老の者共四五輩を撰み、江戸堀田原相摸守殿屋敷へ愁訴し、聞届けあらばよし、万一聞届なき時は自分等の望に任せ一揆を発すとも支へ申すまじと能々申聞せ、江戸屋敷へ趣きけり、若手の百姓此返事を聞んため、数百の徒党半は国に残り半は左右を聞んと下総より江戸までの道一町毎に二人程づゝ待受て国への返事を告んとす、国には道場・寺院等に集り竹鑓を持ち蓑笠にて返答次第恨を晴さんとぞ待かけたり、然るに江戸堀田原の屋敷にて頭取たる五人の者召捕れ既に牢舎ともなるべき所、家老何某〔姓名は忘れたり〕領主の弟なれども家老役となる堀田侯に諌言して、五人の牢舎を救ひ屋敷内に今宵はとゞめ、明朝取捌き得させんと有るに、宗吾は兼々浅草観音を信仰なれば、事なく此度の一件済むやうにと独り忍びて浅草へ通夜に籠り、残り四人は屋敷へとゞまる、かの情ある家老は退出すると残り四人をひし〳〵と縄かけ牢舎となしけり、門外に様子を聞かんと付来るもの屋敷内の様子を聞けば、弥々重き牢舎ときゝ、宗五郎も共に手討にもなりしと心得、国の方へ注進に帰ると、待もうけたる百姓共善悪の合詞を申合せ返事を待ゐる事なれは、取上なき趣を大音にて呼継ぎ十里余の道を三時が程に佐倉領に聞えければ、今こそ出あへと道場・寺院の釣鐘・半鐘を打立て惣勢がゝりに荒出し、日頃つらかりし地頭・代官をこと〴〵く家をこぼち佐倉の城内へ狼籍に及ぶ、此趣江戸表へ注進しければ、江戸より一揆の者共を一々召捕に来るなど古今未曽有の大騒動となりけるは是非もなき事共なり、宗五郎かゝる事とは夢にもしらず、其夜は観音堂に通夜し翌朝堀田原へ帰らんとせし道にて噂を聞けば、早夜前一揆起り江戸屋敷より一揆ども尽く召捕に行やら、行徳船橋の街道筋往来も自由にならぬ程の大騒動なりと聞くより、宗吾はこは夢かや現かやと驚きながら老分の四人はいかゞなりしや、其程も聞たく手拭にて面体を包み、堀田原近辺にて聞合す所、一揆の頭分は江戸屋敷に禁獄にて、惣棟梁の者夜前迯去りしを今日召捕らんため街道筋にて旅人残らず吟味のよし噂取々なるゆゑ、宗吾も今は詮方なくお尋ね者の科人なれば姿をかへ、江戸近辺をさまよひ段々国の噂を聞くに、数百人の一揆は皆村方へおもき預けとなり、棟梁宗吾の配符廻り人相書を以て御詮議のよし聞えければ、今更宗吾も思案に尽き、所詮将軍家お成の折直訴して数百人の命にかはり科を引受んものと覚悟しながら、夫婦の中に三人の子あり、妻子は如何相成りしやら其程を案じられ、或夜雪降も厭はず我村里へ忍び帰り、我家ながらうかつにも得入らず、外面に立聞く折、内には女房三人の子供を寐させ居る体、三人の子供此爺さまはどこへ行かしやつた、もう帰られそうな物、みやげを待つと頑是なき詞に母は愁ひもだへて、土産を持て戻る程ならかくまで辛苦はせぬ物と、涙ながらに添乳して寝さすを見屈け、戸口を明けて入る、宗吾の影を見るより女房は外へ突出し、領分は素より別して我家のほとりには吟味役人鵜の目鷹の目、もと江戸へ出訴の折から聞届あればよし、若し願ひの叶はぬ時は諸人にかはつて死んものと妻子へ心の暇乞して出たる心はや忘れ給ひしか、今更おめ〳〵妻子にひかされて縄目の恥にかゝる所存か、ヱヽ腑甲斐なやと励まされて、元より我は其覚悟なれどいつ幾日ならでは将軍家のお成はなし、其内一度暇乞にと立帰りしといふも仕方と咡きて涙ながらに立出る、子は三人共起上り爺さまのうと取付くを母は引分け呵り付け、宗吾は其まゝ駈出す、此愁の間は講釈にて第五日目位の性根場なり、帰りに渡場あり、雪にて川は埋れしを手ざしにさへて渡らんとするを役人に見付けられ誠に危き折、渡し守治右衛門といふ善人是を助けて役人をさゝへ、船を向ふへ突遣られ命から〴〵其場をのがれ、歳の暮上野御仏参の折から宵の口より上野黒門の前に三枚橋といふあり、此橋の裏にかき付〔かき付解しがたし〕隠れ居て将軍お輿の前に飛出て直訴に及びしを、御供廻りに支へられしが半死半生ながら終に将軍家の御聞に達し、御老中へお預けとなり、願の如く棟梁一人の命にかへ数百人徒党の科を身に引受け其身は磔と科落着しけり、爰に哀をとゞめしは宗吾の従類を絶せよと領主の命にて、三人の忰女房まで宗吾と共に場所へ引出し打首となるを、隣村に宗吾の妻が為に一人の伯父坊あり、出家の願ひにて子供の命をもらひに出れど聞届なきゆゑ伯父坊主あたりの池に身を投じ、宗吾夫婦子供三人伯父坊と以上六人の命を下総国佐倉領に捨、数ヶ村の一揆の百姓残らずゆるされにけり、此後伯父の霊崇りをなし、佐倉の領内に種々の怪しき事多かりしとなり、一揆の百姓命の親の宗吾なればとて、則爰は相馬将門の旧地なれば、将門山と唱へ宗吾大明神と一つの祠を立て神と崇めて祭りしより、伯父の霊も出ぬやうになり、当時江戸近国より公事訴訟に出る者は先此社に所誓をかける時はいかなる入組みむづかしき訴訟にても速に上に達すると有て、詣人多く年々歳々この社美麗となり、今は一と廉の宮地とはなりけるとぞ、予この一話を聞かんため講釈師何某を呼で未明より読切らせ聞し所、其筋のみを講ずるに夜九つまでに読切けり、此余宗吾始他国より来り伯父に便り百姓宗五郎方へ養子となり両親を見送り我二代の宗五郎となる話、堀田相摸侯の先祖より当主までの伝、又宗五郎の死後堀田家成行の事など種々の話あれども一揆にかゝはらぬ事は大方忘れたり、是を狂言に仕組よと或人予に勤めしかど、東都にてはよく人のしりたる事なれど、京摂にては余り耳遠き話なれば、東都歌舞妓狂言に書んものとあらかた腹稿をしつゝ其侭に捨おきたり、重ねて彼地に遊ばゞ書くべしと腹稿を爰に出す、同じ堀田侯の名にしあれば安宅丸を一番目〔上方にていふ前狂言なり〕宗吾を二番目〔上方にて云ふ切狂言なり〕と見込み世界はおなじ続狂言なり、看官其心にて読たまへかしと云ふ
世界は鎌倉星月夜の人名にて木曽の公達清水の冠者義高頼朝の息女大姫の聟となり七里が浜にて大磯の傾城を呼よせ放埒の序幕なり爰に長井別当時実盛の忰斎藤吾は今武門を遁れ秩父在の長井村に百姓となり名を隠して藤吾と呼び父の遣言を守つて余所ながら冠者義高の力となり居る然るに袂の浦に義経奥州より蝦夷へ落んため羽州佐竹の一党に言付渡海の大船を作らせ有り名を佐竹丸と呼び善美を尽し拵へたる船も義経滅して後鎌倉へ取寄せ袂の浦の御船蔵にこめあり此海にて夜に入り蝦夷へいのう〳〵と此船のうなる声すと聞清水の冠者若気の放埒により梶原平次稲毛三郎等にすゝめられ此船を売払ひ大磯の太夫新造等を身受する事あり道具かはつて鎌倉の営中にて此船の詮議となる御台政子の方の前にて平次と稲毛は科を冠者義高にぬり付け義高罪となる所へ梶原源太父平蔵所労に付本国一の宮に在て父にかはり別当職を預り居る至極実体なる立役にて是を捌き稲毛と弟平次が悪事を見あらはし義高の科を言訳して比企の能員に預け此場を取捌く政子の方も共に大姫を比企の能員に預くる是序幕なり次幕に結城七郎朝光滑川の屋敷へ帰りがけ船番所の忠太酒の上あしく乗物に行当り悪口を云ふ家来の銘々反打を乗物の戸を明け結城七郎家来の麁相を詫て名を聞くに袂の浦の船番役人番場の忠太をしらぬかと梶原風を吹かせて悪口いふ結城わざと家来を呵り屋敷へ連帰つて馳走すべしとなま酔の忠太を連帰る道具かはつて結城の屋敷に成り友光種々の馳走をして忠太を酒責にする忠太大に酔てかう酒で責付らるゝは偖は蝦夷へいのう〳〵の一件が露顕したかと云ふそれより妼婢いろ〳〵たらして白状させる忠太景季の謀反をかたり義高に科をぬり付け佐竹丸は皆梶原が押領その泣声は則鼻が水中より船の声色をつかひしなりと問ず語りに悪事の段々をいふ妼皆々奥にむかひ殿さまお聞きあられましたかと云ふ襖を開き結城朝光出て忠太をぽんと切る妼共を立せ忠太の家老夏目主膳を呼寄せ梶原行状記といふ書を書き主従暇乞の内は桃の井と本蔵の如く此行状記を秩父の重忠に渡せと言付る早幕にて引かへし殿中となる結城朝光梶原を殺し乗かゝつて腹を切る重忠彼行状記を懐中して出て遖れ忠心と云ふをいゝや私の意恨にて討たりと云ひなすばた〳〵にて東西より梶原平次夏目主膳死骸を請取にくる朝光落入る重忠心に感じるを一番目大詰の幕なり二番目比企の判官能員義高大姫を預り物入多きと云ひ立領内の百姓をしひたぐるゆゑ百姓一揆を催して比企の舘をこぼたんと云ふを藤吾比企の舘には義高が居る事ゆゑ一揆をとゞめ皆々にかはり願ひ其返事次第にせよと云ひながら比企の屋敷へ訴訟にゆく能員の家来の敵役此願ひ叶はぬと云ふ所へ千葉之助常胤冠者義高を見舞にくる比企能員斎藤吾が大勢になりかはつて来たからはそちや一揆の惣大将かとなじり藤吾の額をわり討すてんとする千葉之助是を拯ふて藤吾を救ふ藤吾此まゝでは帰られぬゆゑ鎌倉長谷寺へ通夜して和睦なるやうと参る千葉之助も帰る跡にて比企義員家来にさゝやき預りの科人冠者を云ひ立百姓共へ課役をかけしを藤吾はしつて愁訴にうせたきやつめを討とれば百姓共は何千あつても気遣ひなしと家来に斎藤吾を殺しに遣る返して並木松原にて百姓一揆藤吾の返事を待わびる所へ敵役の家来来て見とがめ棟梁の藤吾は最早討取たと偽りおどす百姓藤吾が討たれたと聞てあれ出し家来を一々竹鑓にて突伏せ比企の屋敷へ行く屋敷になる爰へ大勢の一揆出て屋敷をこぼちあれまはる大ばた〳〵にてかへし鎌倉長谷寺夜の体にて藤吾右の一揆を夢に見た心にて堂の内よりつか〳〵と出て大勢をしづめる独言をいふてふと心づきあたりを見まはし爰ははせの観音堂そんなら今のは夢であつたかアヽ嬉しやどうぞ正夢でなくばよいがと胸撫おろすを幕次幕藤吾世話場藤吾はお尋の身の上女房と子供三人泣悲しみ居る所へ伯父阿静坊安念見舞に来て愁ひ中へ冠者大姫落足にて爰へ迯来る比企の家来詮議に来る安念坊と女房はかくまふた覚えはないと云ふ証拠は是ぢやと渡し守治衛門を引立馬士船橋の鉢兵衛出て爰の内へ迯込んだとくり上になる千葉常胤鷹狩の形にて出て取捌いて情をかけ皆々を引立帰る伯父安念坊村界まで送つてゆく跡浄瑠璃になり藤吾暇乞に帰る子役取付き本文の如く夫婦の愁ひ有てとゞ振切出ようとする鉢兵衛伺ひ居て藤吾にかゝる治右衛門支へる段切幕次は鶴が岡段かづら三枚橋将軍頼家公御供には秩父重忠輿にて御社参右の橋の下より藤吾古上下を着て出供廻りに支へられ鬢は乱れ着物上下も破れ縄にかゝる比企の能員出て反打を重忠出て将軍にかはり取捌く能員は女房子供三人を縄付にて引出さす安念坊命乞に出る能員こばむ千葉之助は義高大姫に姿をかへさせ家来のごとく連れ出て将軍の厳命を伝へて藤吾の死罪に極り数百人の百姓をお助と云ふ藤吾よろこんで女房子に覚悟せよとの愁ひ有て水盃を重忠の情にてさせ三人の子供にかはつて安念坊能員に手を負はせ腹切る藤吾は松の梢にくゝられ重忠鑓にて突く千葉之助は冠者と大姫を藤吾に見せる藤吾苦しみの中に是を見てにつこりと笑ふて落入る女房子役泣落すとまで趣向は付置たり凡狂言の筋を立るには先つかやうに見込書事なち原條さへ立置時は仕組に掛り枝葉のをかしみ人数のさしくりは其時の筆拍子によつて幾らにもおもしろおかしく替るものとしるべし鎌倉時代に取ては梶原家滅亡の時は清水義高滅して五六ケ年も後の事なれど是を引出して斎藤吾をつかひ安念坊は十ケ年も後の人名なれど此世界と定むる時は年号月日に少々の前後あれどそれに拘はらず名高き人の名と馴染ある名を遣ふ事肝要なりとしるべし所謂狂言綺語の抜道あれば実説本文をよく胸に納め扨著作にかゝる時は些にても実説本文に近からぬやうに書くべきなり実説本文といへども作文にて講釈なんどは其時々聴人に読かゆる物なれば確と正読とは云ひがたくなまなか本文実説にからまれては狂言となりても片詰り堅く淋しく取とめし所なく一日一部の趣向に体を失ふ事あり都て世話時代にかゝはらず狂言著述は本文をよく心得構へて実説に遠ざかるべし著作道第一の心得なり
西沢文庫伝奇作書後集下の巻終
西沢文庫伝奇作書追加上之巻
西沢綺語堂李叟編
享保二酉年八月竹本座浄瑠璃に近松平安堂が作にて、鑓の権三重帷子上下二段物は、妻敵討の書物の始と見へ、国は因州鳥取にて、藩中浅香市之進は、武芸の外に茶道を嗜み、一流の奥義を極め、真の台子の飾付は、印可の巻の認め一子相伝の外に伝へず、今度にて若殿御祝言相調ひ、お国に於て近国の御一門方を振舞に付、市之進の弟子の内に勤せさよと仰有、笹野権三郎は年若けれ共、好の道ゆへ此印可を受て役を勤んとす、市之進妻お才は三人の子持にて、惣領娘お菊の聟に取たき望あるゆゑ、権三に印可を譲る、同家中に川側伴之丞と云は、かねて浅香の妻に心をかけ、妹お雪と権三とは兼てわりなき中なれば、権三をけのけ印可を受んと思へ共、権三の方へ役目仰付られ無念の余り、夜中浅香の茶室に忍び込、お才権三は数寄屋に入て奥義を伝ふに、お才妬ふかき気質ゆゑ、娘にかはつて悋気をす、深更に及び男女二人茶室に入ての事ゆへ、伴之丞両人の帯をもつて不義密男也と、舅岩木太兵衛へ告ゆく、両人詮かたなく此場を落行、下の巻市之進江戸より帰り、三人の子を舅に預け、妻の弟岩木甚平諸共女敵うちに出立して、伏見京橋の上にて首尾能権三お才を討とると書り、文中には昔噂の高かりし様に書あり、此比有し噂ものと思わる、各の年数を文中にのせて、色情の浅深をのせたるは近松の働妙也、浅香市之進〔酉年四十九才〕、女房お才〔酉年三十七才〕、笹野権三〔酉年廿五才〕、お才娘お菊〔酉年十三才〕と有、此狂言出たる事も酉ゆゑに然書たる物か、是は都てお三茂兵衛の昔暦の裏を仕組たると見へ、何ぶん作意には自在を得たるもの也、され共当嘉永四亥年迄に、百三十五年ともなる古狂言ゆゑ、川側伴之丞の妹お雪の行衛など立消となり、仕組足らぬ所も有、是よれ廿六ケ年後、歌舞妓狂言に丹州笹山妻敵討と云外題、角の芝居春狂言に出たり、又重帷子より三十三年後、寛延二巳の秋中の芝居にて、高麗橋距躍念仏と云外題出たり、此角外題に享保二丁酉年七月十七日、今年卅二年に当妻敵討と記せり、然れば重帷子の年なれば、伏見京橋にて妻敵討有し事明らか也、扨此高麗橋にての妻敵討は、役割重帷子とは変り、密夫は敵役なり、池田文治に民谷十三郎、夫政井宗味に山本小平治、女房おかねに富沢喜代崎との役割にて、此余に紺屋吉兵衛片岡仁左衛門、合羽屋九郎三に嵐三十郎と、二人の男達有て六段続の狂言也、是は此年に高麗橋にて、実に有たる事を鑓の権三の卅三年に当りしゆへ、め敵討といふ事を、角外題に出して仮たるもの也
伏見京橋の喧嘩は、いかにも古き事にて、里見伊助といへる侠者の狂言にて、延享四卯年春角にて伏見京橋弥生戦、又安永六酉の盆中の芝居にて伏見京橋諍実録と云外題を出す、此余此ごろ京橋の外題度々出る、享和元酉年の盆、摂州高槻の城下にて、盆踊の中にて人殺の有しを、名作切籠曙と外題して、中の芝居にて樽屋お仙里見伊助と役名を呼しは、伏見京橋の世界に名を仮りたるにて、事皆伏見にて仕組たれ共、今誰にても高槻騒動と通称して、里見伊助は伏見京橋の人名なる事を不知、前に云鑓の権三は伏見京橋、寛延の妻敵討は高麗麗橋にて、然も両狂言とも盆踊りの中にてなり、都で盆替りは昔は水狂言とて、皆水辺を遺ふものから、雷電源八の喧嘩は高麗橋、五雁金は安治川橋、出入の湊は新町橋、故人作者如才なく遣ひたる所感ずべし、さればとて五条の橋といへば橋弁慶となり、瀬田の橋といへば俵藤太となり、渡始錦帯橋には陶全姜大内毛利の時代に遣へり、余戯れに東西花道と舞台と場の中へ、四ツ橋を鑃上、世話狂言の仕組兼て腹藁あれども、いかに大道具好の芝居興行人も、頭をふるべしと思ひ拾ぬ
夕霧の事跡は、前々の編に挙たりといへ共、もれたるを再び爰に出す、東都居館園の主人が作せしと云、『夕霧文章』といふ端歌あり、菊永撿校にさづく、菊永津山撿校につたへ、糸に合せて調ぶと云、〽何九年公界十年花衣気侭に遊ぶ鶯の〔発端の辞は、稲津祇空翁が女達磨の賛也、近来東都より出板の随筆に、吉原の全盛何某が方に価身せられ、九年面壁は物かはといひしを、英一蝶が女達磨の画賛せしといふは非也〕梅に廓の恋風や、其扇屋の金山と、名に立昇る全盛が〔鶯より梅に廓と賦したるは、難波津の廓新町ときかせたる也、扇や金山折屋夕霧と二人の名を混じたると云ふも付会の説なり、俗に扇屋の金箱と褒たる詞にて、霧は山より立のぼるなれば也としるべし〕松に柵らむ藤かづら、馴染て恋紫の暁の鴉もそれなりに〔松にしからむと作せしを、柵らむと思ひ誤るなるべし、爰より近松翁があわの鳴戸の藤屋伊左衛門を心にこめ、松の位の太夫に藤をかけたる文也〕鐘も憎まず、寐乱れ髪のむすぼれて、好た同士の中さへも〔鳥かねをかこち恨むはきぬきぬの情なり、憎まぬといふは寛闊なるを褒たる詞としるべし〕仇に別れて丸一年、二とせ越しに音信も〔是も阿波の鳴戸、吉田屋餅つき段口話の文句、去年の暮から丸一年、二とせごしにおとづれなくを云〕泣て明してかこちごと、恨を誰に夕霧が〔明石の浦の朝霧にと古歌をかけたり〕二世とかけしをつく〴〵と、もたれかゝりし床柱〔延宝六戌年正月六日、扇屋座敷にて夕霧歿、花岳芳春信女、下寺町浄国寺に墓有、此塚は柳なくても哀也、鬼貫の句有、夕霧病床の床柱、近年迄扇屋に遺り有、今廃してなし、日蓮大士池上本門寺にせんげの時、寄かゝりの柱有、同日の論なるべし〕思ひを沈む、恋は浮世の何じやぞいな、達磨さん〔発端女達の賛あれば爰にて結句にもどす文体也〕色事しらぬ殿達は、玉の盃底がない〔徒然草色このまぬ男はの文によりて也〕お前の裾の本来は、減てないので有そな物を、しよふ事なしの恋しらず〔文意明らなれば云ず、おしきかな恋の文字四字有は少々拙なし〕文政十丁亥年正月、夕霧百五十回の追善廓中扇屋にて営み、摺物として配るに、古代の遊女の図を写し、長山孔寅筆追悼の短冊に村田春門詠あり、
人ならはなげくをなどゝ真木柱、よりそふ跡になくさめやせむ
夕霧自筆の文の写(こゝには筆跡を示さず)
こゝもともことのふかんし申候くしくは御めにかかり候上侯べく候
御なつかしき折からよふそ御しめしあさからすなかめ参らせ候いよ〳〵かわらぬ御やうす何よりめてたくおもひ参らせ候此かたとてもおなしいろにい参らせ候されと此ころは口中いたみそれゆへつとめそこはかと成参らせ候とかくはるならではゆる〳〵とも御めもしなるましく候いよ〳〵すみもとにてまちわひ申参らせ候たつ三郎事なを〳〵せいだし申候いかふおとなしう成参らせ候あわれはるはさら〳〵御のほり候へかしおそく御こし候てきのごくにそんし候
十七日 きりより
八十様
参る御返事
此一帖の図は、著作堂〔曲亭馬琴〕か『簑笠雨談』に出す所、享保中余が板行の草紙物の写し也、夕霧歿後四十一年也、今迄百卅四年と成、延宝六年二月三日より、夕霧名残の正月と云歌舞妓狂言を出し、藤屋伊左衛門坂田藤十郎、夕霧に桐浪千寿にて大に繁昌し、後宝永六年まで夕霧の狂言以上十八度出せしが、皆悉く繁昌せしと云、是夕霧は浪華第一の名妓、坂田は俳優中の名人なりしこと、是にてもしるべし、また浄瑠璃にては、夕霧歿して三十三年後、近松門左衛門竹本座にて、夕霧阿波の鳴門と云狂言を出しぬ、此浄瑠璃世におこなはれて、今歌舞妓にも是をする、其口説の文句に
【原本『愛敬昔男』の挿絵一葉を摸写したれども略す】
去年の暮から丸一年二年ごしに音づれなく、それは幾瀬の物案じ、それゆへに此病、痩衰へが目に見へぬか、煎薬と練薬と針と按摩でやう〳〵と、命つないでたまさかに、逢てこなさにあまようと、思ふ所を逆さまな、こりやむごらしいどうぞいの、わしが心かはつたら、踏んで計おかんすか、叩ひて計置んすか、是死かゝつてゐる夕霧じや、笑ひ顔みせてくだんせおがんます、ヱヽ心つよい胴欲な憎やと膝に引よせて、叩いつさすつゝ声をあげ、涙乱れて髪ほどけ、わけも性根もなかりけり、
右吉田屋の段、口説の文を東都六樹園飯盛和文に書て、栗田信充が夕霧伊左衛門の画の賛にかへたり、因みに爰に出す、
いぬるとしのしはすより、かそへ見給ふにはや一とせになり侍り、こぞことしと年をこへ侍れど、おとづれをだにしたまはず、さるはいかばかりの物思ひかつもりぬらん、さてなんあいたさもまさりゆきて、かうさまにやせさらぼひて侍るを、わきみの御めには御覧じいれぬにや、せんやくと丹薬はさら也、はりのくすしはらとりの人々にたすけられて、からうじてはかなき玉の緒をつなぎとゝめて侍り、けふたまさかに見へ奉れば、あまえてよろづかたらひ聞へなんと思ひ侍るを、なか〳〵にうきめにみせ給へるは、いかなる御こゝろにか、まろにあだなる心し侍らば、ふみにじりてのみおかせ給ふか、うちたゝきのみしてやみ給ふにや、今はたゞよはりによわりて、なかばはなきひととなりたるなり、ゑましき御顔をこそ見まほしけれ、きづよくおはすこそつらけれと、かきくどきつつ泣きわぶるさま、袖たもとには空にしられぬ雨ふりいでゝ、衣にぬひたる玉あられに、さそひて落くるにぞ、こよなきいろをぞぬらしそへたる、
六樹園
八文字屋自笑・江島屋其磧のことは、既に前集に出せしが、爰に正徳五乙未年正月出板、三都芝居評判記三巻のうち、『役者返魂香』京之巻の口に、口上評判作者其磧と書て、此返魂香の作者は、去春も目利講に印候通、八文字屋八左衛門方へ、去る卯の年口三味線と申評伴を綴り候てより、年々八文字かたへ仕遣し、去々巳の年まで十五年が間仕候作者にて候へ共、八文字や身がち成仕形有之候に付、去年の春より此江島屋かたへ仕遣し候ゆへ、八文字方には去年より素人の新作者をやとひ、右年来の作者のふりを仕、世間の人様へかづけ申候、殊に去冬狂言本の口書に、めつたなる評伴出し候とはいか成申分に候哉、去年御嘉例の作者の評判は、此返魂香と申本に御座候間、外題御吟味なされ御求め可被下候、尤八文字方より出申評判本、其外風流本共に前の作者とかはり、素人の新作にて御座候、自今は江島屋と申本やの方は、御なじみの作者に紛無御座候間、珍敷趣向ども御よみくらべ、被遊御覧可被下候、紛敷申者有之候ゆへ御断申上候と有、是より六ヶ年後、享保五子年正月出板の評判記、『都の花笠』の序に、両家和睦せしと見へて、八文字自笑、作者江島其磧、と両名並へ、いつもの判を押けり、次に自笑問、是〳〵其磧、一旦は世間の人様もおかしう思召ほど筆先でいさかふたが、今は墨と硯の濃中となつて、互の作は外へ出すまいと相仕の契約、嘘でない本屋の商売をする身が、此比大和山の顔みせの本に、作者其磧と二色迄名の出た新板の外題が見ゆるが、ありや人おどしの犬、其磧か子細がきゝたい、其磧身にとつては嬉し悲しの無才の僕が述作の草紙を、世間にお尋ねなされ下さるゝは本望の至り忝ない、一度そなたと一ツ心になつた上に、又外へ愚作をつかはそふ筈がない、今つく〳〵思ひ出せば、前々書捨の反古共を置て来たが、其取あつめ物に書そへて、其磧作とあらはし、あの方の評判本くるみに紛らはしう見せた物じや、自笑と一所に名書のないは、愚作と必思ふてたもるな、そなたの不審をはらそふ為に分て断を申ス、猶此以後も、外へとては山をあげた疱瘡と同じ事で、書てはならぬいひかはしがみつちやとなるはさて、子年正月吉日八文字屋八左衛門ゑじまや市良左衛門板と出したり、先の絶交の比の本は、嘉永四亥年迄百三十七年となり、和睦の本は百三十二年となる、近比の小説読本の口上などゝ違ひ、昔の文には飾らぬ質朴なる事感ずべし、
【操年代記は『新群書類従第六』中に全文を収めたれば此の抜書は畧す】
操年代記下の巻に左の図有、写して其頃の容をしらしむ、【図は略す《
新日本古典籍データベース》】此比の出語りに、台なく舞台に氈を敷、木偶に手摺も見へず、平舞台に道具飾付其上にて出遣と見へたり、シテ豊竹上野少掾〔のち越前〕、ワキ豊竹和泉太夫、三弦野沢喜八郎、最明寺人形近本九八郎、白妙木偶藤井小三郎、玉笹人形中村彦三郎、此狂言にて数多の徳分つき、北条蔵とて土蔵建たる事珍らしき当り狂言也。
行方定めぬ道なれば、〳〵、こしかたもいづくならまし、是は一所不住の沙門にて候、我此程は信濃の国に候ひしが、あまりに雪ふかく成候程に、先此度は鎌倉にのぼり、ざせんにこもり春に成修行に出ばやと思ひ候、やざりもがなと夕顔の、それにはあらぬ小家の軒、たる木まばらにかたぶきし、雪折竹のあげ簀戸や、主はひん女と思しきが年も三五の玉箒、ひさしの雪をかき落し、おとせばゑりに袖口に、首筋もとにひやひや〳〵、アヽつめたやと手をふくも、下主近ふしてなをやさし、最明寺殿まがきにたゝずみ 申〳〵お女郎、越後より下総の檀林へ通る所化の僧、今日の大雪先へも跡へも参りがたし、すの子のはしに只一夜頼みますると有ければ、ハアヽおやすいことながら、主のるすに私がとゞめまするもいかゞ也、わきをお頼なされませ、おいこし様やとあいきやう有、ムウ主のおるすとは扨はこなたは御内衆か、いゑ〳〵主はわたしが姉婿、此比他国いたされて主といふは姉様、ヲヽ然ればこなたも主同前、江口の君がかりの宿に心とむなと申たは、それは色あるやさ法師すみのおれか木のはしかといふやうな此坊主、色事の用心ならば気遣有なとの給へば、娘もにつこと打笑ひ尤色といふ物は、みめかたちとは云ながらどふやら時のはづみでは、鼻そげでもいぐちでも、油断がならぬと走りこむ、天下をさばく御身にも、此返答に行暮て彳み給ふぞ殊勝なる、世の中は、何か経世が留主住居、妻は手足も土大根蕪ゑぐなもつみ持て、帰る山路の白妙に、アふつたる雪かな、いかに世に有人のさぞ面白ふ見給ふらん、それ雪は鵞毛に似て飛でさんらんし、人は鶴氅を着て立て俳徊すといへり、されば今ふる雪も、もと見し雪にはかはらね共、我は鶴氅を着て立て俳徊すべき、袂も朽て袖狭き、細布衣陸奥の、けふの寒さをいかにせん、あらおもしろからずの雪の日やな、最明寺殿是こそは以前の女が姉ならめと、なふなふ主のお方に候か、御らんのごとく旅僧の身、お宿の御無心申せしかど、主のおるすと有し故、待もふけたる御帰り、前後をばうずる大雪、今宵計の御めぐみ、頼入とぞ仰ける、げに〳〵やすき御事ながら見苦しき賎がふせや、何とてお宿と申べき、いや〳〵旅と云三界の、家を出たる世捨人、草の莚も我為の、玉の台と有がたし、是非に一夜との給へ共、あれ御らんぜ我々夫婦兄弟さへ、住居かねたる体なれば、とゞめ申さんやうもなし、是より十八町あなたに、山本の里と申てよきとまりの候へば、暮ぬ間に一足も、急がせ給へと云捨て、庵の内へぞ入にける、なら曲もなや、よしなき人を待つるよ、浮世の人の情なきも、我誤りと返りみて、あゆみつかるゝ計也、妹の玉づさ涙ぐみいたはしや御出家様、最前お宿と有しかども、姉様の心いかゞと存、外にたゝせ置ませし、かく落ぶれしも前世の因果、責て出家にちぐうせば、経世様の武運もひらけ、後世の為にもわるい事、なされた様にはよも有まじ、とめてさへしんぜませば、別に馳走は入まいと、わしや思ひますと云ければ、ヲヽやさしやよふぞ気が付た、是程の大雲に遠くはよもやと表に出、なふなふ旅人お宿参らせふなふ、余の大雪に申事も聞へぬよの、いたはしの有様やな、もとふる雪に道を忘れ、今ふる雪に行方を失ひ、一ツ所にたゝずみて、袖なる雪を打払ひ〳〵し給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒とめて袖うち払ふ影もなし、さのゝわたりの雪の夕暮、かやうによみしは大和路や、三輪がさきなるさのゝわたり、是は東路のさのゝわたりの雪の暮に、迷ひつかれ給はんより、見苦しく侍へど、一夜は泊り給へやなふ旅の僧、旅のお僧と招かれて、それは嬉しき心ざし、かりの浮世にかりの宿、汳初ながら値遇[ちぐ]の縁、一樹の影のやどりも、此世ならぬ契也、それは雨の木影是は雪の軒ふりて、うき寐ながらの草枕、是へとこそはせうじけれ、いや是玉づさ、せつかくお宿と申ても供養いたさん物もなし、お淋しからふがどふせふぞ、姉様幸ひ粟のまゝ、さもしけれ共お慰とひつ取出せば、アヽそんな物何のいの、折節わるふ九献もなし、お菓子はないかと夕霜の、おかぬ棚をやさがすらん、是御両人、旅にしあれば椎の葉にもるとかや、粟の飯とは日本一の醍醐味、御馳走に預りたしとの給へば、やれ〳〵それはお嬉しやせめては何もきれいにと、萩の折箸かはらけも、よし有げ成もてなし也、耻かしやお僧様此粟ご申物、古へ我夫世に有し時は、歌によみ詩に作り湿るをこそ承れ、今は此粟をもつて、命をつぎさふらふぞや、げにや盧生が見し、栄花の夢は五十年、其かんたんのかり枕、一醉の夢の覚しも、あは飯かしく程ぞかし、あはれやげに我我も、うちも寐て夢にも昔を見るならば、慰む事も有べきに、なふ御らん候へ住うかれたる古郷の、松風寒き夜もすがら、ねられねば夢も見ず、何思ひ出の有べきと、そゞろに涙をうかべける、旅僧も哀れに催され、墨の袂をしぼらるゞ、更行まゝに夜寒さまさりひへ渡る、何をか焼火に焼てあて参らせんや、思ひ付たり我夫世に有し時鉢の木にすき、数多の木をあつめ侍れ侍ひしを、ケ様のさまにおとろへいはれぬ貧の花ずきと、皆人々に参らせて、今は漸三本残て、あの雪を持たる梅桜松、わきて夫の秘蔵なれ共、今宵のもてなしに是を焼火と立んとすれば、アヽしばらくしばらく、是は思ひも寄ぬ事、御志は有難けれども、重て世に出給ひての御慰、無用になして給われとよ、いやいや、とても此身は埋れ木の、いつのさかりにいつの花、いつの時をか待べきぞ、唯徒成鉢の木を、御身の為に焼ならば、是そ採果汲水の、法の薪と思しめせ、しかも誠に雪ふりて、仙人につかへし雪山の薪、かくこそあらめ我も身を、捨人の為の鉢の木伐共よしや惜からじと、雪打払ひて見れば面白や、いかにせん先冬木より咲初る、窓の梅の北面は、雪報じて寒きにも、こと木より先さきだてば、梅を伐やそむべき、見じといふ人こそうけれ山里の、おりかけ垣の梅をだに、情なしと惜みしに今更薪になすべしと、兼て思ひや桜を見れば春毎に、花少遅ければ、此木やねぶると、心をつくしそだてしに、今は我のみわひて住家桜伐くべて、火桜になすぞ悲しき、扨松はさしも実[げに]枝をため葉をすかして、かゝりあれと植置し、其かひ今は嵐吹、松はもとより常盤にて、薪となるは梅桜、伐くべて今ぞ御垣守、衛士の焼火はおため成、よく寄てあたり給へや、なをざりならぬ御深切、寒さを忘れ、はだへは弥生きさらぎの暖木にあたる梅桜、花見る心地候ぞや、扨しもいか成人の御行末、男主の仮名あざ名は何とか申候ぞ、自然の時のお為にも、何か苦しう候べき聞まほしと仰ける、アヽ人がましやな古へを、名乗もさすがおもてぶせ、さりながら此上は、何をかさのみつゝむべき、是こそ佐野の源左衛門経世がなれる果、哀れと御覧候へや、扨も過にし建長四年、鎌倉は北条相模守時頼公の御捌き、夫の経世は将軍の御供して在京の其跡の事、経世が父我為には舅、さのの兵衛政経、故もなく人しれず、やみ討に討れ給ひしを聞とひとしく我夫は、取て返し下向の時、一族の讒によつて鎌倉へも入られず、道より直に御勘気とて、所領しやうゑん召上られ、経世親子が累代の知行、一所も残らず伯父源藤太絶景に押領せられ、生がひもなき此有様、親の敵も大かたは推量にまがひなけれ共、実否を糺し討ん為折々他国に身をやつし、跡ふりかくす雪の庵、雪は春にも消残る、夕べもしらぬものゝふの、身の上あはれみ給へやと、さめ〴〵とこそ泣居たる、実々それは聞及びたる物語、何迚鎌倉に上り其沙汰は候はぬぞ、さればとよ夫婦もさは存ずれ共、運の尽とて最明寺殿諸国修行に出給ひ、万機をいろはせ給はねば、天照神の岩戸にこもり、月日の光隠れしごとく、理非の別れんやうもなし、さりながらかく落ぶれては候へ共、取伝へたる梓弓八十梟ははりつめて、あれ御らん候へ、是に武具一領長刀一枝、又あれに馬をも一疋つなひで持て候、経世常々申せしは、只今にてもあれ鎌倉に御大事有と聞ば、此具足取て投かけ、錆たり共長刀かいこみ、やせたり共あの馬にかけ鞍置てふはと乗、女房に口とらせ一番に馳参じ、御着到につらなつて扨合戦始らば、敵何万騎有迚も一番にわつて入、手に立軍兵より合打合、ぶんどり高名誉れを顕はし、一方を責やぶり君のお馬のまつさきがけ、思ふ敵の大将とむんずと組でさしちがへ死んず身の、ヱヽ口をしや此侭ならばいたづらに、きかんにせまりしなん命、何ぼう無念の事さふぞと、兄弟かつばと伏しづみ泣くどくこそ道理なれ、旅僧も至極のことはりに、衣の袖をぞしぼらるゝ、よしや浮世のうきしづみ、かくてははてじたゞ頼め、我世の中にあらん限りは後の誓ひを願ひ給へやと、詞を残し残る夜も明方ちかく隙しろく、雪もおやめばさらば迚、いとま申と出給ふ、かゝる所へ佐野の源左衛門経世、古郷へ帰る錦の袖汗にひたしてかけ戻り、ヤアヤア女房鎌倉にて敵源藤太に出合、首取て帰りしぞ、玉づさ諸共悦べといきをひ切で呼はれば、兄弟夢かと嬉しさの、そゞろうき立お手柄〳〵、僧を止めて供養せし、仏の方便神の力、共に悦び給はれと、旅僧に語れば、重畳〳〵、何をかつゝまん我こそ時頼入道最明寺道崇也、汝が慈悲心ふかきをかんじ、天よりさづくる幸有、こよひ寒気をしのぎしは梅桜松三本の、なさけにあたふる三ケの庄、加賀に梅田越中に桜井、上野に松枝合せて三ケ三庄を、子々孫々にいたるまで相違なき条安堵の御判、三人はつと嬉し顔、中になを経世は〳〵、悦びの眉を開きつゝ、さのゝ舟橋取はなれし、本領に安堵して、お供の装束はなやかに、さくら栄へる北条氏、末代迄も香ばしき、梅の花びら五代めの、君が帰館を松の色、千秋楽とぞ祝ひける、
豊竹越前少掾高弟豊竹筑前少掾と院本に奥書有、初編西沢の条に出せし、会稽雪後日鉢木の狂言は、天保八酉年九月中の芝居にて、故人中村慶子が廬生が夢の五十回忌の追善狂言によからんと、其盆替り北の新地芝居にて、紅桔梗女団七の狂言大当りせしゆへ、九月始当り振舞にと、能勢妙見宮へ詣、多田の温泉に浴し、両三日滞留の内、此後日鉢木に書たる也、其の摺物に、
五十回忌の追福も実に光陰は矢車の紋所、其縁に寄る段書は
加賀の梅田による御馴染の〔梅〕定紋越中の桜井に寄る御存知の〔桜〕の替紋上野の松が枝に寄る御贔屓〔松〕の誂紋
将[いで]其時の着到に離[ちぎれ]具足の武者ぶりは思の外な焚火の返報情にこもる三木の其名芳経世が忠心
会稽雪後日鉢木 本領合三ケ庄
扨も其後の雪降に細布衣の艶容姿は以の外な子故の愛着筐に残す三人の其名懐し白妙が貞心
乍憚口上
さいつ比摺物にて御披露申せし元祖慶子五十回忌に何をがなと思ひよる家の芸の中にも、北条時頼記は故人西沢一風の作にしてすでに浄るり外題角力の大関とまで世にもてはやされし名誉の狂言なれば此女鉢の木と定め侍りぬ、されど古めかしきもいかゞと今の西沢一鳳が増補をせられしも所縁尽せざる所にして、先祖も嘸嬉しからめととりあへずこたびの手向ぐさとなし侍るは、身のつたなきをかへり見ずおこがましき業ながら、初日より賑々敷見物に御入らせの程を呉々もねぎ上奉るになむ
鎌倉御下馬先勢揃の段
佐野の庄経世屋敷の段
弓削の大助 中村芝翫
佐のゝ松喜代 中むら梅太郎
同 桜之介 嵐吉太郎
同 梅太郎 嵐三津吉
原田六郎 中村歌七
佐々女小五郎 中村歌菊
二階堂信濃の助 中村又十郎
建部源蔵 中村寿郎
伊具の十郎 浅尾大吉
安達弥九郎 浅尾友蔵
河野左衛門 中村翫十郎
畠山軍藤太 中村蘭九郎
羽山丹治 中村芝蔵
三浦監物 中村東蔵
遠藤太経景 浅尾与六
北条時頼 中村歌右衛門
作者 西沢市鳳軒
一枝をたむける菊の白たへに昔をしたふ雁の玉づさ 中村富十郎
ふるき家名をつぎて追悼をつとむる
今の慶子がけなげさをよろこびて
名をあげし佐野の常世が狂言の後日を弔ふも手柄也けり 中村玉助
造り物平舞台向ふ一面の石垣城の塀、正面に見事なる大手の門、都て鎌倉城廓の体螺の音、遠責にて幕開く〔ト右門の両脇に又十郎友蔵小手脚当陣羽織にてりゝ敷軍兵大ぜい随がへ左右に立別れ陣床几に懸り居るやはり遠責生殺しあるべし〕友蔵何と二階堂信濃の助殿、我君時頼公にはどふいふ思召にや、今日俄に陣鐘太鼓を乱調にひゞかせ、狼烟をあげて関八州の大名を、此鎌倉へお召被成るゝは、いかゞな義でムらうな又十郎是は安達弥九郎殿のお詞共覚えませぬ、都て治世に有て乱を忘れぬ武士の心掛、夫ゆへ太平の御代に鷹野猪狩の催し、殊に賢君と呼れ給ふ時頼公なれば、深き御賢慮有ての義と存られます、夫は格別伊豆相摸の諸大名は、大判着到残る六ヶ国はいまだ相見へませぬ友蔵いろ〳〵触を廻して、けふの着到追付軍勢も揃ふでムらふ〔ト遠責打込にて、向ふばた〳〵歌菊鎧かづら鉢巻りゝ敷なりにて、軍兵一人兜を持、籏持一人付そひ出て、花道能所にてしやんと留る〕又十郎あれ見られよ、安達殿いまだ若木角髪乱れ出立ゆゝしき花の武者、何人の御子息なるぞ、奥床しふ存ぞる友蔵誠に遖れの若武者、その名を承わつて着到に印さん、何と〳〵歌菊さん候某は、月の武蔵の児玉党、団扇指物改て祇園守も家の紋、籏の印も御存の、父は相州桐が谷、ませたやつめとお呵りもかへり見ず、此着到の数に加はり、何れも様や大将の、下知に随ひかけまくも、神か仏か釈迦が谷、それに続た領分の、苗字もその侭佐々目の小五郎吉晴といふ若輩者、宜敷御推挙願奉る又十郎ムヽ扨は佐々目の御子息よな友蔵此弥九郎も同じ氏、同じ流れの一族なれば、よろししく取なし仕る、先城中へ早く〳〵〳〵歌菊然らば御両所後刻又十郎、友鉄ムれ歌菊ハツト〔ト又遠責きびしく軍兵二人づれ門の内へ入〕又十郎遖れ末頼母しい小五郎殿ではムらぬか友蔵左様でムる信のの助殿、あれ御覧被成ひ〔ト向ふ戸屋の内を見て〕向ふへうたすは、慥に常陸の御人数か、但しやはり鎌倉の軍勢か〔ト此内又十郎橋懸りを見て〕又十郎こちらは上総下総の一党、あれ〳〵きら星の如く参着又十郎誠にいさましい出立じやなア〔ト又遠ぜめ打込にて、花道より東蔵芝蔵寿郎大場橋懸りより蘭九郎翫十郎播蔵助六右四人づゝ、何れも陣立にて或は半切陣羽織銘々好の形り、籏さし物をかざし、両方一時に出て見へよく並ぶ遠ぜめ静める」又十郎遖れ勇々敷何れもの出立、御姓名を承り着到帳にひかへ、君の御前へ伴わん友蔵各早く御性名を名のられてよからう東蔵仰にや及ぶ、非常の陣ぶれ陣太鼓、聞とひとしくまつ先かけ、駈参つたる某は、そのかみ当国衣笠の城に、武名をとゞめし平氏の一族、大助が末孫三浦監物義村蘭九郎つゞいて当家恩顧の譜代、弓矢打物関東に、並び名越の出丸より、真一文字にはだせ馬、あをりかけたる畠山軍藤太芝蔵録も知行も軽けれど、君にもしろし召れたる小坂の郷に隠れなき、葉山の丹治直元とて、坂東一のなくれ者翫十郎元より拙者新参の列も末座に月影の、照す武蔵に名を得たる、河野左衛門宗貫寿郎連なる武名も御存の、時に取ては矢つぎ早、夜討朝がけ昼下り、手習師匠にあらね共、建部源蔵一騎がけ播蔵桃粟三年豊年の、兆を爰に桐ケ谷、矢倉太鼓の一番に、其名も高き比企の時員介六高名戦場十方旦那、拙者風情も着到に、鯰の味はまだしらぬ、千形入道福辺の兵丹大ば扨どん尻におくればせ、名のるもおこがま獅子が谷、ふぢか谷なるさいそくに、大手搦手笹瀬の下知、承つて一手柄、長尾の大部と帳面に皆々何れも着到おしるし下されい〔ト本舞台へくる\友蔵時頼公にもお待兼、追付御前へ伴ふでムらう〔ト是れをきつかけに囃子入にて謡ひ〕「いそげ共〳〵、弱きに弱き柳の糸の、よれによれたるつかれ馬なれば、打どもあほれ共先へは進まぬ、足弱車の乗力なければ、追欠た〔りト謡打上る向ふより、玉助ぢぎれ具足に錆長刀をかいこみ、躶馬の口を取出て来て、花道能所に直り、皆々をきつと見て〕玉助ハテきらびやかなる諸軍の出立、人々にかはり某が物、その数にあらね共、所存は誰にかおとるまじ、今此鎌倉の御大事と、聞とひとしく欠付しに、いまだ軍勢着到ならば、息つきあへず駈参ぜし、其甲斐有て諸軍の中へ加はるも、弓矢神の加護なるか、ヱヽ悦ばしヤなア〔ト向ふを拝んで留る、本舞台の人数皆々見て〕東蔵あれ見られよ、何れも東八ケ国の諸大名、思ひ〳〵の鎌倉入、けふを曠との出立に、其様見吉敷武者一騎、推参せしは何れの何人蘭九郎誠にきたなきちぎれ具足に錆長刀、おめず臆せずかけ付しは、馬鹿者とやいはん皆々但し乱心者なるか玉介イヤ全く以て狂気にあらず、我も北条譜代の侍、東八ケ国の諸軍勢を、鎌倉へお召と承り、扨は一大事ござんなれと、とる物も取あへず、其侭是迄欠付し某又十郎ムヽ譜代とあれば、同じ北条の御家来、拙者義は軍勢別当を預かる二階堂信のゝ助道秀、貴殿の御姓名承り升せふ友蔵さやふでムる、此安達弥九郎も同じ役目、性名を聞て着到にひかへませふ、シテこなたの所領国は何国玉介イヤその義はお尋御めん下さりませふ東蔵イヤ〳〵そふでない、同じ味方の性名を存ぜぬは我々が耻辱皆々サア苗字は何と実名は玉介イヤサ名もなき匹夫雑兵同前翫十郎雑兵匹夫といへど、名がなくては叶わぬ筈芝蔵たゞし名がいわれずは、領分所領は何国それ承らふか、玉介サアその所領は、伯父たる者に横領せられ、お羽打からし貧苦にせまる、無念のかいきやう又十郎所領がなければ扨は浪人皆々コリヤ名所を名のらぬ尤東蔵道理であのざま、頬の皮厚くよくも此所へ翫十郎着到抔とは身の程しらぬ素浪人芝蔵其浪人もさまざまあれど、てんつるてんの一銭目もないからけつ浪人、是天竺浪人のうつむけでムらう蘭九郎殊に以て花やかなる、諸軍の中へあのざまは、悉皆黄金仏の来迎に、貧乏船が交つた同前皆々貧乏神とはよくムるフヽハヽヽヽヽ〔ト皆々笑ふ〕玉介大功は細きんのかへり見ず、斯浅間敷我身の上、いかやうに嘲弄有ても、さらさら恥辱とは存ぜぬ、此上は何卒別当始、各の情を以て着到の数に友蔵罷りならぬ、譬へ諸軍の執成でも、貴様のごとき見苦しい、家来が有ては時頼公の御耻辱玉介サア我君時頼公のおめにさへかゝりなば東蔵我君には先達てより勘当でもしられたか、追放にでもあつたか、どふで落度誤がなくては、素浪人にはなるまい翫十郎イヤ何れもこふいふ貧乏神の傍に立交れば、各や拙者が身の穢れ又十郎いか様此上はいそひで我君の御前へ皆々いか様さやう仕ろう〔ト皆々立上る〕玉介何卒拙者も諸共に〔ト共に立上るを〕友蔵ハテ叶わぬ事を〔ト突のける〕玉介ササそこをどふぞ芝蔵議ヱヽならぬといふに〔ト又突のける、是より一人〳〵に右の通りにて、玉助取付をけがれるのきたないのと出来合の悪口雑言有て、段々と門の内へに入る、玉介門の内へは入ふとする、内よりしやんと門の戸をしめる、玉介思入有てはつと投首すると、又かすめた遠せめにて、橋懸りより大八中つる菊五郎駒十郎同敷武者のなり、此内人静に一人〳〵出てくる、大八と玉介と向ひ合せになり、玉介会釈して、我なりの耻かしき体にて〕玉介是は〳〵勇々敷武者ぶり、御名床しふ存られまする〔ト追従する、大八返答なくねめ付てすれ違ひ、上手へ通る、又中つるに行合ひ〕アヽ是も劣らぬ御出立、白金物の打上たる、糸毛の具足アヽ立派に見へ升る、定て名作ものと存られ升る〔ト何なといふて取つく、中つるもがてんの行ぬこなしにて入替る、又菊五郎に向ひ〕是は存よらぬ貴殿は、慥相州の何某殿ハテ珍らしい菊五郎イヽヤ身共は相州ではないぞ玉介ヱヽ菊五郎その隣の安房ぼう州、平郡の領主だ〔トにらみつけ上へ通る、玉介見かへる拍子駒十郎に行当る、玉介ふりかへつて〕玉介是は麁相千万、御免下されい〔ト駒十郎ムヽト反打一遍付廻してずつと上手へ通る、玉介こなし有て〕各も着到の御人数と見受、拙者がお願ひ四人の中へ加へ、城中へ御同道下されまいか大八イヤ下されまい、見る様子が殊の外匹転武士、それをめし連ては我々が名をれ中つるヤおれそなやつ、此度の着到に目を驚かす身共が出たち、それに何ぞやちぎれ具足のぼろ〳〵鎧、一所にいては武士の仁体がそこねるてや駒十郎見ればうろ〳〵きよろ〳〵と、色青ざめし貧窮男、我々が雑兵でさへ升形に残し置たに、その方等を召連てよい物か菊五郎何れもどふか心得ぬ、あの者にお搆ひなく共、我々は早く着到に付升ふか三人さやうがよくムらう〔ト皆々門を叩き〕大八天野の四郎中つる六浦左衛門菊五郎大野郡八駒十郎安田十郎四人只今着到〔ト内より是へと門をひらく、四人ばら〳〵とは入らふとする、玉助もまぎれては入らふとする、駒十郎ヱヽ、見苦しいと、外へほふり出して、又しやんと門の戸を立る、玉助いろ〳〵こなし有て〕玉介チエヽ是義は金鉄に思へ共、世に耻かしめらるゝ此身の拙なさ、アゝ貧は諸道の妨じやなア〔ト長刀を杖に突馬の綱をひいてしいをりと成る此見へ遠責かすめチヨン〳〵にて道具廻る〕く送り物城中陣立の摸様、双方に逆茂木の書割、正面に小高き座を搆へ、三ツ鱗の陣幕を張、此前に又十郎友蔵到着帳をひかへ居る、歌菊東蔵蘭九郎芝蔵始返し前の人数、皆々並よく相引にかゝり、遠責にて道具納る東蔵二階堂殿安達殿、最早着到の人数相揃ひ申てムるが又十郎今日君の仰によつて、関八州の諸軍残らず、触を廻して召集め友蔵姓名印せし着到帳、是にて人数揃ひし上は、我君の御覧に入るでムらう芝蔵それはそふと、最前門前迄参つたちぎれ具足の侍は、ありやマア何者でムらふな蘭九郎さればあれも少し社領でも付ました、小宮の社家か何ぞでムらう東蔵まづ当時の諸侍には、見うけませぬ者でムる、イヤもふ見すぼらしい形りでムつたが〔ト此時橋懸りよりおなりトふれる〕東蔵君のおなりでムる皆々シイ〳〵〔ト序の舞に成る橋懸りより、歌右衛門ちよつへい頭巾、大口直垂好みの形りにて出る、跡より長刀の結搆成と手箱を持、近習二人付出る、万六鷺介富士五郎慶蔵皆々陣立りゝ敷形りにて出る、万六敷皮を敷く慶蔵陣床几を能所へ直す、皆々平服する、歌右衛門敷皮の上に直り、陣床几にかけて〕歌右衛門約を違へず早速の到着満足〳〵、最早性名記録の通り揃ひしか又友ハツ斯の通でムり升る〔ト両人帳面を前へもち行〕歌右衛門祝着〳〵イヤ何道秀又十郎ハツ〳〵歌右衛門そちに尋問ふべき子細は、今日着到の軍勢の中に、ちぎれ具足を着し、錆たる薙刀を持、欠付し武者一騎あらんが心付ざりしか又十郎さん候その出立の武者一騎、いかにも着到にはせさんじ御人数の中へ加へくれよと、ひたすらの願なれ共友蔵イヤモあまり姿の見ぐるしく候ゆへ、様々頼めど取あへず、やはり御門前にうろたへさまよふておるでムリ升ふ歌右衛門夫は幸ひ、その武者是へ早く伴ひ来れよ友蔵ハツあの見苦しい、ちぎれ具足めを歌右衛門いかにも時頼直に対面せん東蔵ムヽ君の御賢慮、扨はまさしく盗賊か謀反人翫十郎いで我々が皆々召取つて〔ト皆々立上るを〕歌右衛門やれしづまられよ旁、夫に及ばぬ時頼対面すれば相わかる、佐々めの小五郎、其方一人門前へ参り、右の武者を此所へ穏便に伴ひ来たれ歌菊ハツ畏てムリ升る歌右衛門いそげ〳〵歌菊ハツ〔トりゝ敷向へ走りは入る皆々顔見合〕皆々何の事じや蘭九郎折角着到に付た我々謀反人と存たるゆへ芝蔵召取て手柄をあらはそふと存たに菊五郎案に相違の君の御諚寿郎ハテ御対面の上様子が知れませふ皆々いか様さやうでムる〔ト此内ばた〳〵にて歌菊出て花道より〕歌菊仰の通りちぎれ具足を着したる武者只今是へ歌右衛門それ待兼し、弥九郎早くと伝へい友蔵ハツ〔ト立上り花道付際より向ふを見て〕我君の仰ちぎれ具足に錆長刀、随分見苦しき武者、此方へ通り召れ〔ト向ふ戸屋の内にて」玉介ハヽア〔ト大小入の合方に成り、玉介いぜんの形りにて長刀をかい込、しづ〳〵出て花道能所にて思わず、本舞台を見てハツと跡すざりして、花道中程迄下り下に居る、此内始終相方、此内本ぶたいの面々ゆびさい、玉介をあざけり笑ふ事あるべし〕又十郎我君仰の武者皆々只今是へ〔ト歌右衛門花道の玉介をきつと見て〕歌右衛門ヲヽ源左衛門経世か、ハテ珍らしい玉介ハヽハッ〔ト平伏している〕歌右衛門面をあげい、過し比宿りを求めし旅の修行者、見忘れはせまいなア〔ト玉介じつと顔を上見て〕玉介ハツ仰のごとく、其折からは常の旅僧とのみ心得、.我君とも存ませねば、ぶ礼の段真平御高免下さり升ふ歌イヤ不礼でない、其身は貧苦にくるしめ共、忠義を忘れぬその方が誠心、感ずるにも猶余りあり、其折我こそ最明寺時頼也と、名のり聞せんとは思ひしかど、名を明さぬは其方が心底をひき見ん為、以前申せし詞の如く、当鎌倉に大事あらば、早速に欠付んご言ひしに違わず、けふの着到悦ばしう思ふぞよ玉介こは冥加なき其お詞、経世めが骨身にこたへ有難ふ存まする歌右衛門ムヽ皆の者、あれが咄しの源左衛門経世じやわい東蔵扨はあの者こそ、お家譜代と承りし、佐野の兵衛経政が子息皆々源左衛門経世とな歌見れば其折申せしごとくちぎれたり共その具足、錆たり共其薙刀、関八州の大小名の、見る目も耻ず花美を飾らぬ質素の振舞、武士は斯く有たき物じやて玉落ぶれし面目なさ、先刻門外にて性名を名乗ぬも、先祖の耻を存るゆへ、斯く着到には駈付ながら、所詮御門内へは通されまじと、心いため歎きしに、御対面の上冥加に余る君の御諚、何れもよろしくお敢なしを、願上奉り升る歌イヤ〳〵一たんは其身を耻、名を名のらぬも尤、くるしうない近ふ皆々御意でムるぞ玉ハヽハツ〔ト膝行して本舞台へ来て下座に住ふ〕歌今日我催ふしは経世が心底探らんが為、又当當参の面々は訴訟の旨を聞んが為、理非によつて沙汰有べし、我民を撫育せん為、薙髪をなして諸国を廻り、今鎌倉へ帰国して、再ひ武家の柄を取れば、その方が本領佐野の荘卅余郷、伯父源藤太経景が横領せしを取返し、改そちに与るぞよ玉こは重々厚き御高恩、いつの世にかは報ずべき、旅僧を君とは夢にも存せず、優曇華勝りのけふの拝顔、恐れながら命あればでムり升る〔ト歌右衛門も少々砕けたるこなし、好の合方に成る〕歌ヲヽ我もさこそ思ふわい、誠に思ひ出せば是も又粟の飯の一睡の昔がたり、いつぞや信濃路より下野へ通りし時、比は厳寒山路も里も一面に降り積りたる大雪に、雲水の身も絶兼て、宿りもがなと夕顔の、それにはあらぬ小家の軒玉此経世めが隠れ里、雪折竹の揚簀戸や、垂木まばらに傾きし、雪に埋るゝあれ庇歌一夜の宿と求むれど、主のるすに婦人の断り、我は悉皆木の端か、炭の折かの沙門の身なれど、男女席をおなじふせずと、教の詞に是非なくも、山本の里ごやらへ心ざし、数百歩あゆむ道筋、吹雪倒れに手足も覚へず玉其跡へ立帰り、御いたはしやと在るゆへ、其道筋を眺ぬれば、もと降る雪に道を忘れ、今降る雪に行方を失ひ、袖なる雪を払ひ給ふ有様は、定家が古歌に駒とめても思ひ当りてお跡より歌のふ〳〵旅の僧、御宿まいらせんと呼返されしその嬉しさ、思へば其日の雪景色、風雅の眺もどこへやら、アゝ寒かつた〳〵玉誠にその時はからずも、御宿とサア申もおこがま白雪に、経世が六の花ひらく歌焚火にあてし鉢の木に、もてなされたる馳走ぶり玉草の莚のいぶせきも歌玉の台に宿りし心地玉値遇の出合も尽せぬ御縁歌一樹の影も三世の因み玉先其時は歌主と玉旅僧歌げに懐旧の玉雪でムり升たなア歌いでその時の鉢の木は、源左衛門アヽ何やら玉恐れながら梅松桜、某が秘蔵と申せどさゝいな麁木歌ホヽ其返報に加賀に梅田、越中に桜井、上野に松枝合せて三ケ庄の墨付呉ん玉何三ケの庄を安堵の御墨付下されんとな歌ヲヽそれ覗〳〵又十郎ハツ〔ト結構な硯を出す、歌右衛門さら〳〵と書印を出してきつと押〕歌それ〔トさし出す、友蔵受取行、玉助いたゝきよんで見て〕玉コリや是君の〔トいふわとすると〕歌子々孫々に至る迄、相違なく安堵いたせ玉かさね〳〵の御厚恩、有難く頂戴仕つてムり升る歌経世その錆長刀是へ玉何此長刀を歌錆たり共経世が誠心、金鉄にも比すべき長刀、時頼乞ふて武士の錆を賞翫いたす、是ヘ〳〵玉ハヽハツ〔ト歌菊にじり寄て長刀を請取歌右衛門の前へもち行、歌右衛門よく〳〵見て、万六にもたせる長刀をとつてさし出し〕歌此薙刀は先祖時政公より伝来せし神束と号し、一ふり取かへ遣はす、守護して持伝へよ〔ト玉介恟りして〕玉何御先祖より御伝来の御長刀をハヽハツ〔ト玉介長刀を取て嬉しきこなし〕皆々すりや神束の長刀まで玉是見給へや人々よ〔ト謡に成り〕「始笑ひしともがらも、是程のみけしき、嘸浦山しかるらん〔ト長刀を持宜敷舞ふて平伏する〕歌経世玉ハツ歌満足なか玉ハツ〔ト長刀をいたゞく〕歌皆見い〔ト扇をひらくチヨンと木の頭〕よい侍じやなア〔ト思わずあほぐ、皆々共におも入、玉助じつと辞義する、此見へよろしくひやうし〕幕
下の巻慶子追善、佐野の舘の場は、いと長やかなれば巻をかへて次に出すべし
西沢文庫伝奇作書 追加 上之巻終
西沢文庫伝奇作書 追加 中之巻目録
一 後日鉢木の続佐野の場
一 同大切雪女鉢の木の段
凡二条
此齣の役者替名の次第 一 由解大助春行 中村芝翫
一 佐野源左衛門経世 中村玉助 一 伊具治郎義成 浅尾大吉
一 同末子 松千代 中村梅太郎 一 原田六郎兼貫 中村歌七
一 同次男 桜之助 嵐佶太郎 一 源藤太経景 浅尾与六
一 同惣領 梅太郎 嵐三津橘 一 経世妻玉章 中村富十郎
一 同 六ツ花 中村慶治郎 一 雪女の精白妙 中村富十郎
一 同 吹雪 中村松代 一 作者 西沢一鳳軒
凡二条
西沢文庫傳奇作書 追加 中之巻
西沢綺語堂李叟編
造物三間の間二重見付金襖、上手落間網代塀、此前雪積りたる松の実木手水鉢、尤雪持下手跡へ寄て結搆成馬部屋、窓よリ口幕の馬休めあるを見せ、此前寒紅梅柴垣のあしらい、尤雪持にていつもの所に風雅なる枝折門、是にも雪積らせ、舞台前一面花道にも白木綿を敷、屋根にも白木綿を敷、硝子の氷柱下りある、都て佐野の舘の摸様、美々敷奇麗に有へし、〔平舞台の真中に三ツ橘・おぼこ、かつら、袴股立襷がけにて雪を束ね、胴切のためし物にて木太刀な振上搆へている、上の方に吉太郎同じく高股立襷がけにて竹刀をもち中腰にて控へいる、下の方に、梅太郎芥子坊主同じ形りにて是も小太刀を持扣へいる、此後に松代慶治郎奴にてひかへ居る、〕右宜敷三味線入白囃子にて幕開く吉太郎申々兄梅太郎様胴切は都て腰の備へ腰の塩梅と兼て爺様の教、おまへは夫をよふ御存でムり升かへ三ツ橘弟の小しやくな事、一ツでも兄に生れたゆへ稽古もそれだけ早ひ、それで此雪を束ねて胴切の腕だめし、松千代その方もとつくりと見ておきや梅太郎面白ひ兄様の手の内見た上、わしは又雪を人形にして此小太刀で、から竹割か大げさの手の内を見せ升ふ吉太郎此桜の介は鑓の手の内、竹刀にて突留るはお望次第梅太郎兄様はやう三ツ橘合点じや拳を堅めてこう〔ト始終白囃子にていけころし、三ツ橘木太刀を振上ヶ身搆へして雪を胴切にする、仕かけにて両方へわれる、直に吉太郎梅太郎走りよつて、両方の切口を見て〕吉梅あつぱれ手の内三ツ橘弟兄だけの手が有ふがの梅太郎イヤ〳〵めつたに兄様には負ぬ、わしも大げさの手の内〔ト雪をすつぱりとはすに切はなす、此内吉太郎竹刀なりう〳〵としごき、上を突又下をきつと突て〕吉太郎是わしがけいこは又格別、上段は乾の鑓、直に下段の坤の鑓三ツ橘ヲヽ出かした弟〔ト木太刀にて打てかゝるを、竹刀にて受〕吉太郎コリヤ兄様何とさつしやる三ツ橘ハテ油断するかためして見る〔ト又梅太郎にかゝるを〕梅太郎爺様の教、めつたに油断はしませぬ吉太郎お前はわしが〔ト是より白囃子烈しく、三人一寸立廻り有てどつこひと納る、此時上手より富十郎駒下駄をはき、手に目籠に蕪ゑぐな大根を入しを持出て〕富十郎是はしたり、三人の子供雪の庭で稽古とはあぶない〳〵、もふよしにしやいのうけい二郎それ奥様がおとめ遊ばす松代マア〳〵暫らくお休み遊ばせいなア三吉梅はゝ様今のを御らうじ升たか富ヲヽ見たとも〳〵、兄の梅太郎が胴切、桜の介が鑓、松千代が大げさ迄あつぱれの手の内、稽古の出精夫経世様が御帰舘なされたら嘸御褒美で有ふ、また此母は奥庭の雪を掻わけ摘取て来た、是此大根蕪ゑぐなと、それ〳〵に民の辛苦をついやさず、手作りのはたつ物、是も昔の貧しき折を忘れぬ心の慎み、是そなたらはとつくりと知りやるまひが、此母が姉様、白妙様と夫源左衛門殿の中に出来たは惣領の梅太郎と二男の桜の助、又此松千代は連合が鎌倉へ出府の折から、妼はしたにお手かゝり出来たゆへ、三男として国もとへ連帰つての御養育、その内姉様はお過被成、三人の子供は幸ひ血筋の此玉章、今経世殿と夫婦となり、三人共にわらはがほんそ子、義理ある中と隔もせず、母様〳〵と孝行にしてたもる心ざし嬉ひぞや、ヲヽ是はしたり、此つめたひに心もない問ず語り、是取わけけふは姉様の御命日、仏様へも備へたし夫への馳走ぶり、跡は皆に相伴させ升ふぞや、妼どもちやつと三人ともおみやを洗ふてやつてたもいのう慶松代八イ〳〵畏りました〔ト角盥に湯を入れ、三人の子役の足を洗ふてやる、此うち富十郎は二重へ上つて、火鉢を引よせ火をつくらひながら〕富サア〳〵ちつと稽古も休み襷をはづし、奥へいて巨燵へでも当りやいのう三ツ橘イヱ〳〵申母様侍は雪霜をいとはず、戦場へ赴けば常からめつたにかじけぬ物と父上のおしへ吉太郎雪はおろか躶身で氷の中でも寐臥を致しておめにかけ升は梅太郎わしやつめたい事も寒い事もない、稽古が面白ふムリ升すわいなア富ヲヽ流石は経世殿のお胤程ある遖れの心がけ、然しけふはもふ稽古をやめて三人中よふ遊んだがよいわいのう三ツ橘イや遊ばふよりは試合のけいこをサア二人共吉太郎兄様のいわつしやる通りサア松千代梅太郎おもしろい参りませふ三人そんなら母様〔ト双方よりおとなしく辞義する〕富ハテつめたいにもふよしにはしやらいで、妼共けがさゝぬよふ気を付てたもや慶松代畏り升てムり升る三人後程お目に掛り升ふ松代慶サアかふお越遊ばし升ふ〔と合方に成り、三人に付添慶松代慶二郎奥へは入る、富十郎はしか〴〵有て跡を見送りこなし有て〕富本にマアあの子供らがけなげさを見るにつけ、思ひ出すは姉様白妙様の御最期、いにしへ此佐野のわたりに貧しいお暮らし、其折柄鎌倉の騒動ときゝ、経世様にはちぎれ具足に錆長刀をかいこんでの御着到、此身は又用有て山本の里までいた跡で、留主の内何者ともしれず姉様を討て立退、大雪の夜に情なやお命消へし其悲しさ、今御出世のお身の上、浮世とは言ひながらわしが為には現在の甥の子三人、他人の手汐にかけさすまいと此玉章が養育の縁はいなもの、いつともなしに源左衛門様と夫婦になつたも、縁にひかるゝ子供が可愛さ、草葉の影の姉様、かならす呵つて下さんすなへ〔ト愁ひの思ひ入、此時雪ちら〳〵降る、富十郎空を見て気をかへ〕本に又けしからぬ此大雪、経世様には御領分の御順見、嘸おひへ被成れふに、女房のわしがあたゝかに、こふして居ては道にそむこふ、富貴にあつて貧しきを忘れすとやら、其いにしへを思ひ出して、そふじや〳〵〔ト面白き誂らへの合方に成り、富十郎こなし有て手拭かけの手拭をつむりにかけ、庭下駄をはき手箒を取て、あたりの雪をはき枝折門、また馬部屋の庇の雪を掻おとし、思入れ有て〕もマアつめたい事ではある程にの〔ト手をふくむ思入、やはり右の合方の中也、出端の次第を打掛る、雪やはりチラ〳〵降る、向ふより与六鼠木綿の着付、破れ衣いが栗坊主にて雪もちのやぶれ笠、藁づとを脊負ひはだしにて足をつま立乍出で来る〕謡「行衛定めぬ道なれば〳〵、越方もいづくならまし〔ト此謡の内、本舞台へ来て枝折門の外より富十郎を見て〕与六申々お上﨟、是は上方の胴楽坊主、子細有り下総辺へ通る者、今日の此大雪先へも跡へも参りがたし、すの子のはしにたゞ一夜明さして下さり升ふならば、忝ふ存升る富是は是はお安ひ事乍物堅ひ屋敷の内、殊に主のるすに私が留升るもいかゞなり、脇をお頼被成升せ与アヽ是是そふもぎどふにいふて、浮世の人のつれなれば、我誤りと爰を立、帰つた跡からアヽ是申お宿参らそふのふと、呼かへすは知れてある、むだにあちこちさゝずと是非とも一夜さ富イヤ炭の折か木の端かといへど、やつぱり御出家情を商ふ江口の君さへ、西行法師をとめなんだと申升れば与ハテそれはずつと昔の事、今ではかふしつほりとした、此雪降の物ほしい時分見て、此愚僧が〔ト言ひ、ずつと内へは入、笠とわらづとを取、後より富十郎に抱つく、富十郎恟りして富ヱヽ滅相な何をするのじやぞいのう与イヤサ時のはづみには猪口でも鼻そげでもと言ではないか、是愚僧は少形りはむさけれど、顔の道具は揃ふてあるじやによつて、雪の降るのにお宿の御無心〔ト言々又抱付ふとするを〕富ヱヽ、穢らはしい、御出家だてら武士の妻をとらへて、慮外しやるεゆるさぬぞや〔トきつとなるを〕与ハテそふいわずと雪の肌へに、此坊主めを富ヱヽいやじやといふにひ〔ト両人もみ合事宜しく有て、与六富十郎の顔を見て〕与ヤア〳〵〳〵そちや白妙ではないか〔ト大に恟りする〕富何白妙とは与イヤサ源左衛門経世が女房白妙は、日外身共がハテめんよふな富イヤ其白妙といふは私が姉様、こふいふわしは妹の玉章与すりやア妹の玉章、ハテ兄弟とは云ながら姉の白たへに妹の玉づさ、てもよく似たなア〔トこなし有て〕シテ此家は富慮外ながら佐野の源左衛門経世が舘与ムヽ扨は姉の白たへが相果たる故、妹のそちを経世が女房に、兄弟ともにこりやしめおつたな富がてんの行ぬ旅の僧、姉様の御最期をしつて居るといひ、殊に夫の身の上迄与知らいでならふか、源左衛門経世が為には現在の伯父、佐野の源藤太経景がなれの果富すりや兼て夫が噂に聞た、伯父景経殿とな与いかにも最明寺時頼公が計らひによつて、佐野一円の所領を押領したる源藤太なりと、浪人の経世を贔負して鎌倉へ呼寄身共追放、源左衛門に所領をあたへし執権のよこしまゆへ、武士を見限り世を捨坊主、所に此度越後守時兼公の見出しに預り、一ツの功さへ立ば、元の身の上にと則是〔トわらづとの大小を出し、腰にたばさみ上手へ通る〕富ムヽ一の功とは、扨は夫源左衛門殿を与越後守時兼公の御吟味に富ヱヽ何と与玉章シテ甥の源左衛門は富今日は領分の順見与アノ此大雪にや富我身をいとわず民を恵むと、生れ付たる夫の仁心与ムヽハテなア〔ト思入有て二重へ上る、雪ちらちらふる、富十郎思入て〕富アヽ降るは〳〵、駒とめて袖打払ふ影もなし佐のゝ渡りの雪の夕暮与それは大和路三輪が崎富爰は名にあふ上野の、佐のゝわたりの雪の夕ぐれ与ムヽ誠に白妙が最後を思へば富本にはかない姉様のお身の上与てふど此通りの大雪に富雪にすゝぐの声あれば、其時の悲しさ口惜さ与玉章そちや姉の敵が討たいか富女ながらも武士の娘与ハテしほらしい心底〔ト云ながら、ずつと下りてだまし討に切かける、富十郎突廻し、有合ふ手箒にて急度受とめ〕富こりや伯父様何と被成る、与イヤサ是は富始て逢た経景殿、過つる大雪の夜に姉様の最期の様子、委しう知つてムると云ひ、今又此玉章を手にかけふとは与イヤサそふではなけれど、白妙が最期は現在甥の経世が女房ゆへ聞伝へて居る、殊に姉の敵を討たひといふ、其方何ぼう武士の娘でも、日比の心がけとくと手の内見やうと思ふて〔ト引はづして又切付るを、始終立ち廻りにて〕富ハテ御深切な伯父御様、助太刀頼まぬ姉の敵は大方それと、雪の最期は雪であらはれ与ヤヽ何と富サア是も実否を糺した上〔トトン〳〵と立廻りあつて、両人共ツカ〳〵と二重へ上り、与六が刀をもぎとり、与六を追つめ胸ぐら取て、抜身をきつと突付乍ら〕何と是でも伯父御様、姉の敵は打れ升まいかない〔ト与六ムヽと身をちゞめて思入、此時トヒヨにり、向ふより鷹一羽引糸にて本舞台へ来てすぐに台へ、ひらりと飛向ふより、ばた〳〵にて芝翫歌七大吉陣笠ぶつ先羽織一様の鷹匠好みのなりにて三人ツカ〳〵と出て花道に並び、中腰にて本舞台を見て、鷹杖をふる、本舞台の両人も見へよく空にきつと目を付双方一度に〕芝翫紀の関守がたつか弓、白鳥と化して飛さりしはか七例も古き白鳥の関大吉身よかたゞさき一物の羽つかひ富それ鷹は三国に通伝して其来る事久しいと夫の講釈与誠にあやしき鳩と鷹との争ひ芝夫中春に鷹化して鳩となるとは礼記に見へたり、また七月有て元の鷹に帰るか七日本鷹狩の始りは仁徳帝四十三年大吉依納の阿□舌といふ者怪しき鳥を奉る芝百済の王子酒の君、始て此鳥を泉州百舌野の御狩にすへて多くの雉子を奉る富是は正しく時の変、今鎌倉にて仁心深き時頼公には、都へおるすを幸ひに、若殿照時公を追退け、伯父御越後守殿北条家を横領ある与それゆへ甥の源左衛門を味方に進める経景が計ひ、さすれば此身の立身出世芝勝べき鷹の忽にか七群る鳩に勇気を乱す大吉是北条家の忠臣心を一致になして、照時公を世にあらせんと云前表なるか富今鎌倉に羽をのす越後守殿の逆意、天のしらしむ所かか七イヤ時頼親子滅亡の印富何にもせよ大事を告る与此雪中に芝鳥類のあらそひ富ハテ怪しき次第を皆々見る事じゃなア〔トどろ〳〵にて鷹をけ落し、鳩不残天井へ引上る、与六ムヽとおこづく、富十郎引廻してとめる内、花道の三人ツカ〳〵と入て〕か六芝鎌倉より御上使富何思ひがけない御上使とは芝我々は北条家の家臣弓削の大助春行か七原田六郎兼貫大吉伊具の治郎義成芝則越後守時兼公の上意を蒙りか大鷹野の場所より直様当所へ富鎌倉の御上使とあれば、イザ先是へ〔ト与六も出向ふて〕与富お通りあられませふ〔ト合方に成り、芝翫か七大吉ずつと二重へ通る、富十郎こなし有て〕富雪深き越路に隣る此国へ、遠路のお入御苦労に存升る大扨はこなたが佐野源左衛門経世殿の御内方よな富玉章と申升る芝次にひかへし出家の身に似合ぬ両腰をたばさみこもに出迎はれしは何人与イヤ愚僧は則経世が伯父同苗源藤夫経景大すりや先達て時頼公の御勘気を蒙りしといふか七イヤ〳〵伊具の次郎殿、大助殿にも御存ないが、所領にはなれ一たん出家なしたる源藤太経景なれど、主人時兼公のお見出しに預り、一ツの功さへたてば元の武士、其取次は此原田六郎、それゆへ血筋の源左衛門経世が心底探らんと、我々より先へ此所へ与武士は互ひと原田殿の御推挙にて、時兼公の仰を受た拙者、帰参をすれば御両所ともに傍輩、以後はべつこんに芝ハテ存よらぬ源藤太経景、鷹匠の我われへ今の挨拶ノウ伊賀殿大誠に御帰参有たら、それが彼鷹も傍輩犬も傍輩〔ト芝翫と顔見合〕芝大ムヽハヽヽヽ〔トあざけり笑ふ、与六むつとして〕与イヤ御両所何と云つしやる筋目正しい佐野の源藤太を犬とは何事、今一言承らふか〔トきつとなる〕か七いかにもそふじや、拙者が推挙の源藤太、犬と有ては此六郎も武士が立ぬ〔トともにきつと成る〕芝ハテこりやいな事がお耳にさはつた、今治郎殿が犬といわつしやれたは鷹匠からの思ひ付、是世の譬へさ大またまた譬へを以て言ふなら、足の裏に疵有物は、笹原を得走ららぬと申でないか、さゝいな事にきつぱ廻す、御両人もどふやら心に一物がか七イヤ譬尽し置つしやれ、日比から世になし者の左馬の助照時に心をよせる貴殿達、それゆへ今日の上使も身共が望んで是へ加役与何わ格別、拙者を犬とのお見立は千万忝ひ、犬の手の内とくとお目に掛ふか大そりやこつちに望む所か七武士に似合ぬ耳こすりより真剣にて芝アヽ見事拙者を相手に与かおんでもない事芝大コリヤおもしろい〔ト芝翫か七与六大吉相手迎ひに反打詰かける、此うち富十郎思入有て、此時真中へおしわけ立て〕富何れもさま、こりや何事でムリ升るなよかイヤサ今の雑言芝大あまりといへば〔トやはり双方きつと成る〕富ハテ伯父御様は格別、御三人は上使の御役目、その大切な御上意の趣も御間られぬ其内に、聊な詞争ひにつのつて刃傷に及び、お役目が立まするか四人イヤサそれは富憚り乍大事は小事、些御麁相かと存られ升る四人いかにも〔ト銘々じつと下にいて〕芝大誠に珍事ちうよふよか時のはり合〔ト四人顔見合せ一時に〕四人失礼の段御免下され〔ト元へ直る富十郎会釈して〕富シテ越後守様よりの御上意の趣、仰聞られ下され升ふならば有難ふ存升る芝イヤ其儀は源左衛門経世殿に御直談、去乍御内室の心底承りたいはムヽ幸ひ〔ト合方に成り、芝翫最前の富十郎の持出し目籠を引よせ〕是此目籠に摘取たる土大根は取も直さず時兼公大成程大助殿のよいお見立、蕪ゑぐなは是当時日影の御身たる照時公かヲヽサ此蕪大根と二ツの内何れへ心を寄るといふ、源左衛門殿の所存の程与連そふからは是玉章、知らぬといふ事は有まい、その心底が聞たい〳〵芝大何とでムる是玉づさどの〔ト是にて合方かはつて、富十郎めかごと蕪大根を前に置て〕富いにしへ筑紫に何某の押領使有けるが、大根を良薬として朝毎に二つ宛焼て食する事ひさしく、ある時敵不意に寄て来り四方を囲み責入る所に、何国ともなく鎧ふたる武者二騎あらはれ出、命を惜まず防戦ひ、むらがる敵を追退ける、時に不思義と其性名を尋るに、此年比我を頼みて朝々に食せし土大根の精也と、其侭消へて危難を救ふかすりや源左衛門殿にも、其大根にならふて時兼公へ富すは今にも鎌倉に大事あらば、以前に替つてさねよき鎧に五枚兜、最明寺様より預り奉る神束の長刀かいこみ、丈なる馬に打乗て、此玉章に口綱とらせ、第一番に駈参す夫の心底よヲヽ其心底はわかつたが、照時殿に見立たる蕪ゑぐなを捨る心か富ホヽ此蕪ゑぐなこそ、冬に育てゝ春をまつ、青陽の七種若菜鈴菜と和歌によみ、人の心は和らげど、又武に取ては蟇目に用ゆる、矢の根は則蕪のかたちなりや、文武を兼し蕪の矢の根に力をそへ、悪逆不道の大敵を、亡す事は夫の胸に芝ムヽ扨はやはり鎌倉へ、忠義を尽す経世殿の所存とな富御先祖時政様より時頼様迄五代六代に至つて、照時時兼お二人の内、跡目定まらぬ執権職、是此ゑぐなも土大根も、同じ畑のはたつ物、何れに愚が有べきぞ、麁略に思わぬ夫か心底、それゆへ本国に引籠つての閑居同前大すりや何れへとも、心を決せぬ経世殿の心底富去ながら何事も経世殿は領分を順見のるすなれば、帰られ次第御上使の趣承り、直々返答致され升ふ与いか様甥の経世、他出とあれば芝大帰りを待てわれ〳〵も富暫しは奥の一間にて大芝長途の休息仕らふ与此経景は残り居て、源左衛門立帰らばおしらせ申そうか七ヲヽそりや幸ひ、何かに心を付てな、合点か与心得ました富さ様ならば何れも様芝大思へば〳〵〔ト又急度なるを、富十郎とめて〕富イザ御案内申上升ふ〔ト唄になり、めい〳〵こなし有て富十郎先に奥へは入、与六ひとり残りこなし有て〕与六郎殿と兼て言合した通、甥の源左衛門が心底探った上、弓削大助伊具の次郎めも、手次手にムヽよしよ〔トうなづき思入、合方に成つて雪段々降り出す、与六かぢけるこなしにて〕ヲヽ寒〳〵、首筋もとがめつたにじは〳〵と、ヱヽすさまじの雪ではある、どこもかしこも縮み上るよふな〔と傍りを見て火鉢を取て来て、火をかきさがし〕ヱヽこりや幽な火じや、こりや焚火でなけりやこたへられぬ〔ト庭を見廻し、雪持の柴を取て来て、へし折、雪を払ひ火鉢へくべる此時〕向ふより殿の御帰舘〔とよぶ、与六向ふをきつと見て〕与何だ殿の御帰舘、ムヽ扨は源左衛門めが戻りをしらすか、ハテ御たいそうな、よし〳〵帰り次第心底をためし見た上、只一討〔ト刀の鯉口をくつろげる、大どこ〳〵ねとりにて、与六物の見事に二重にて扣ンと返り起上り乍恟りして〕ヨヽヽヽヽどいつもおらぬに今のはどふだ、ムヽ扨は身か巳前手に掛た白妙の死霊めがなす業か、何を猪口ざいな〔トきつと成る、大どろどろにて与六死霊になやまさるゝ思入にて、二重より下へ見事にかへり落、すぐに刀に手をかける、刀のぬけぬ思入にて連理引の心、始終ねとり大どろどろ下座の柴垣の前に焼酎火すさまじくもへ、与六いろ〳〵かるき事さま〴〵有て、トヾ正面へ立直り、又見事にポンとかへりもんぜつする、是をきつかけにどろ〳〵ねとりシヤントやむ、直に雪の独吟になる「花も雪も払へば清き袂かな、ほんに昔の昔の事よ、我まつ人は我を待けん、鴛のおとりに物思ひ、羽の氷る衾に啼音も嘸なさなきだに、心も遠き夜半の鐘〔ト此内雪おびたゞしく降る、向ふより徒士四人、菅笠紙合羽にて出ると、次に玉助りつぱなる上下高下駄にて、長柄の傘雪持ながらさしかけさせ跡より紙合羽菅笠の供大勢付添出て、花道中程にて立どまり、四方をきつと見て〕玉助アヽ降つたる雪かな、それ雲は鵝毛に似で飛て散乱し、人は鶴氅を着て立て俳徊すといへり、されば今ふる雪も元見し雪にかわらねど、我も今は鶴氅を着て立て俳徊す、又其古へは袂もくちて袖せまき、細布衣陸奥の、けふの寒さをいかにせんと、世をうらやみしが有難や、時頼公の御恵みによつて、世に会稽の本領安堵、誠に誰憚からぬ佐野の源左衛門此経世、あら面白の雪の日やなア〔ト思わず供廻りの方を見て思入有て〕家来共勝手へ参つて休息の致せ供皆々ハアヽ〔ト目礼して、玉介に傘をわたし向ふへ皆々引かへしては入る、此時又かすめて薄どろ〳〵ねとりにて独吟〕「聞も淋しき独寐の、枕に響く霰の音も、もしやといつそせきかねて、落る涙の氷柱より、つらき命は惜からね共、恋しき人は罪深く、おもはん事の悲しさに〔ト玉介跡見送り向ふへゆかふとする、此時大どろ〳〵にて本舞台に焼酎火もへる、花道付際へ富十郎二役雪女の拵、白妙の幽霊にてせり上る、玉介きつと見て〕玉ハテあやしやなア、次第に降つむ大雪の、帰る山路の白妙に、姿おぼろに行先を、さへぎるはムヽ扨は昔に聞たる雪女が怪異をなすかハテいぶかしの〔ト始終寐とり、どろ〳〵富十郎じつと顔を上て〕富イヽヤなつかしや我夫玉ヤヽなんと富日暮れば淋しき物を、あそ沼の鴛鴦の衾に比翼の契り、二世の誓ひも世に落ぶれ、佐野の船橋降積り、あるに甲斐なき夫婦が身の上、さいつ比鎌倉着到の其留主に、氷の刄淡雪と、命も消し妻の白妙、雪にこがれて愛着の、姿は爰に雪女玉すりや女房白妙、不便やそちや迷ふたなア富アイ迷はにやならぬ我子の身の上、梅桜松三ツの木の、栄を祈る親心、中に一木は取わけて、義利の柵せき兼る、御身の大事と家の浮沈、此身の仇ももろともに、はらす忘執おまへの心底、此世をさればうたかたの、満れば欠る私か疑念玉我鎌倉へ着到の、跡にて空しくなりし其方、今活計の身の上を、思ふに付て思ひ出すは、そちが最期仏事法事の暇はもとより、子供の養育幸ひと、血筋を引たる玉章に、縁を組たる某が、恋慕と心得嫉妬の念に迷ふて来たか富イヽヤ色即是空、色には迷わぬ輪廻にも引されぬ、有難いとい吊ひ、今生を引たる私が思ひは源左衛門経世殿、御主人へ忠が重ふムんすか、但又親御へ孝行がおもふござんすか玉身体八腑をわけられし、親の恩な須弥山に譬へれど、其親をはごくみ先祖の氏を輝かすは、全く以て主君の御恩、すりや言ずとも忠義が莫大富そんなら弥おまへは玉ハテ孝よりは忠義が重いは富ヱヽ嬉しうムんす、それ聞て落付升たわいなア「捨た浮世、すてた浮世の山かづら〔ト又独吟にて富十郎正面へ居直る、大どろ〳〵にて富十郎せり下る、寐鳥焼酎火どろどろちやんと止む、玉介思入有て〕玉すりや某が心底を聞ん為、ハテ迷ふて来たじやなア〔トこなし有て本舞台へ来る内、与六心付起上り、あたりを見てため息をつき〕与ハテ恐しい今のはいよ〳〵手に掛た白妙〔ト言かけちやつと口に手をあてふりむいて、玉介を見て恟りして〕ヤア源左衛門経世か玉珍らしや伯父経景殿〔ゴじつと眺め乍、入かわつてずつと二重へ通る〕伯父と呼からは、血筋の身共を忘れぬその方、先は安堵〔ト思入有て下に居る、玉介与六が顔を見て玉君子は其罪を憎んで其人を惜まず、経景殿ハテよくいらつしやれたなア〔トこなし有て下に居る、奥より三ツ橘吉太郎梅太郎出て来て〕子三人父上只今御帰館被成升たか玉いかにもシテ奥玉章は何れにをる三ツ橘母様は奥の間に吉太郎鎌倉より御上使様お入り故梅太郎何かの御心遣ひでムり升る玉ムム何御上使のお入り、扨は越後守時兼公より与其方の心底探らん為、弓削大助原田六郎、伊具の治郎三人共に此所へ、愚僧も倶にと仰を受て玉すりやこなたにも与一ツの功さへ立ば時兼公の御家来元の身の上玉何にもせよ某立帰りし様子早く申上よ子三人畏りました〔ト三人は入、与六こなし有て〕与イヤ甥の殿源左衛門、そちが世に出たゆへ此経景は世に落ぶれ、心に思はぬ今道心、又元の侍になるといふても此ざま、此大雪に領分の順見は、我身をいとわず民を恵む、そちが仁心と最前玉章が詞、他人を恵むそちなれば、現在伯父の此源藤太経景も、天晴見ついでくれるで有ふな〔ト此内又雪ちら〳〵と降る、玉介思入有て〕玉雪は豊年の貢物、民の辛苦を見て我身をこらす領主の禁め、今活計の源左衛門、現在血筋の伯父御じや物、アレ〳〵今降る雪も同前与銀世界に黄金の山をなして尊敬する気か玉いつたん所領没収の仇も打はれ与親はなきより親のかたわれ玉忠義は重いとはハテよぐ尋ねたよなア〔ト雪を見て急度思入、此時奥より芝翫か七大吉出てきて〕芝源左衛門経世殿か七只今御帰舘召れたか玉是は鎌倉のお歴々承れば御上使とある先以て役目御苦労に存升る〔ト三人を上手次に玉介座につく〕か七イヤ何大介殿伊具殿経世殿へ早く御上意の趣を仰せ聞られぬか玉御上意の趣逐一に承知仕たふ存升る大鎌倉よりの仰余の義にあらず佐野の源左衛門経世義は最明寺時頼公のお見出しに預り今に本領安堵の上本国此上野に引込病気届けもなく、参勤の懈りは所存有てか何にもせよ、其実否を糺せよとある、武将宗尊親王の上意を蒙り、則越後守時兼分の厳命芝察する所先君最明寺殿の御高恩を蒙りし源左衛門経世殿、時頼公には道崇と改、今都嵯峨の奥に閑居の御身、まつた御嫡子たる左馬之助照時公には御身持放埒と侫人共の舌頭を以て、秋田家へお預けの御身の上大旧恩を忘れぬ経世殿今日影の照時分をもり立北浄家相続の思し召か芝但し又自分の逆意を企本国に引込み、時節をはかつて北条を討亡し、鎌倉を横領する所存なるかか何にもせよ、鎌倉の疑ひ立たる源左衛門心底篤と承らふ芝大此返答は如何でムる玉こは思ひよらぬ御難題、時頼公の御舎弟たる時兼公まだ照時公には御血脈、何れを何れと計兼本国に引籠れば、逆意なりと武将の御疑ひ是非に及ばぬ此上は、とくと思案を廻らし鎌倉へ申訳の仕らんか其疑ひ掛りし源左衛門に北条家代々の重宝神束の長刀は預置れず、某に請取帰れと時兼公より改ての仰与夫ばかりじやない、次手に三ゲの庄の御教書もノウ原田殿かいかにも二色とも請取ふ芝イヤそれも逆意に極つた上の事、未不分明なる源左衛門申訳さへ相立なば二品を受取には及び升まいかよシテ又武将への言訳はな芝源左衛門殿逆意でないと言誓紙を受取升ふか玉何と仰らるゝな芝今笑の中に剣を振り、互ひに疑ふ時節といひ、殊に貴殿は武将の御不審逆意でなくば鎌倉へ、不忠を思はぬといふ誓紙を認の渡されよと、是とても拙者が差図ではなひ宗尊親王よりの御内意玉すりや誓紙さへ相認なば芝自然と申訳は相立道埋大誠に誓紙を書は戦国にまゝ有習ひ玉そりや何より以て心安ひ義かイヤそふもあるまひ玉そりや又どふしてかハテ其誓紙を認るは只の事我姓名を印せし下に肉身分しお手前が子息の内何れぞ壱人の首打て其血を血判にそへねばならぬががてんかな玉すりや忰が首打其血判にハテなア与何ぼう大腹中に呑込でも是ばかりは出来にくからふ、何をするも甥子の為だヲヽそふだ〔トツカ〳〵とする玉介よろしくとめて〕玉待た伯父者人こりや何国へ与ハテ知れた事奥に居る三人の子供の内身共が見わけて、そつと首を打放してやらふと思ふて〔ト又行ふとするを玉介きつと留手〕玉ハテ御深切な思召しかし肉身の忰でも切兼る経世でもムるまい、御自分の御世話にやならぬ、立騒ずとひかへてムれ〔ト与六ムヽとおこづきながら下にいる芝翫か七大吉詰かけて〕芝か七経世殿弥々誓紙を認召るか玉いはひ致さば逆意のおとがめ、三人の忰の内何れぞ壱人首打取誓紙にそへてさし上ませふ芝すりや逆意なき条誓紙に認めか見事我子の首打て、渡すじヤまで与ハテ沢山な子供の内、壱人は切ても大事あるまひ大其刻限も暮六ツ迄に玉先それまでは奥の間にて三人御返答相待申す〔ト歌に成り、互ひにこなし有て、芝翫か七大吉与六奥へは入る、跡合方に成り、玉助跡見送りこなし有て〕玉今日本の賢人と、呼れ給ふ時頼公には、仏門に入て都の御閑居、照る日の神の岩戸に籠り給ひし如く、世はとこやみに侫人はびこり、照時分を追退け、越後守外戚のいをふるうがむやくさしさ、態と本国に引籠り、照時公へ心ざしをはこぶ某を、逆意と有て武将の疑ひ、此言訳には三人の忰の内〔ト思入有て、火鉢を引寄思案のこなし、奥より富十郎着流しにて台十能に火を入れ持出て〕富是はしたり、御帰舘の様子は承り升たれど、御上使のお入ゆへ、よふ〳〵只今嘸お冷破成たでムり升ふ、マア〳〵是にて〔ト火鉢へ火を入るこなし〕玉奥玉章左様な事は妼共に言付召れぬ富イヱ〳〵あなたが日比のお示し、富貴に有て貧しきをわすれず、兎角以前の憂を思ひ出して、此身の慎みそれで私も〔ト云乍をつくらふて〕サア〳〵よくよりて当り給へや〔ト火鉢をさし出す」玉ムム成程なア、拾年立ば一昔、浪人の身の夫婦兄弟、けふの煙りも立兼しが、其時は奥玉章富ヱヽ〔ト顔見合おも入〕玉そなたの年もまだ三五の娘盛で有たが、今で思へばアヽきつふふけたぞや〳〵富ふけた筈でムり升、三人のこの母じや物玉誠に春立は夏来り秋去れば冬に至り、光陰に関守なく、我身の上は目にもかゝらず子供が成人富兄は拾一中は九ツ乙は七ツ玉そなたが姉の白妙も富てふど今年が七回忌玉中陰の間は身共は鎌倉に有て、本領安堵の悦びに、いさみすゝんで立帰れば白妙が最期の悲しみ富剣の難もあなたはしら雪、こふいふ空に御最期と思へば、雪も恨めしい玉雪は花より花多く富むつの街に六道能化玉降敷庭に雪の塔〔ト是よりしつほりとした合方に成、又雪ちら〳〵ふる、富十郎庭下駄をはき、最前胴切の雪を石塔の心にて能所へ直し、二重へ上り合掌する〕玉法名は真月院花岳妙雪大姉富俗名姉上白妙様玉幽霊出離頓生菩提両人南無阿みだ仏〳〵〔ト両人宜敷ある、奥より与六しろ目天窓一ツついはでなる夜着を引かけ出かけいで〕与与身共も馴染の仏じや、回向してやらう〔ト前へ出る〕富ヤア伯父御様いつの間に与天窓も刺立此様に、ぬく〳〵と成たも皆甥の殿の影、時に源左衛門疑ひ立た申訳は何とする気じや玉そりや拙者が胸中にムるわひ与甥の其方案じるは血筋だけ富私も血筋姉様の敵を、申我夫どふぞ打して下さんせぬか玉ムヽシテ白妙を討たる敵は、それと相知れたか富大方それと最前の詞のはし、慥に伯父御と〔ト与六の方へきつと成る、玉介富十郎を引廻して〕玉ハテ事の実否もわからぬ内、伯父御に向つてたわけ者めが与イヤ〳〵源左衛門苦しうない、玉章も武士の娘姉白妙が横死と聞ば、敵が討たいは道理〳〵、甥嫁の事身共が助太刀して討してくれふが、敵は何者じやサヽいへ〳〵富サアその敵は与よもやしれまいアヽ不便な事な玉此源左衛門鎌倉の滞留中、先妻白妙を手に掛しは、おふかた道ならぬ横恋慕、主ある女に無体を仕かけ、聞入ぬ恨みとてかよはき女を手に掛しは、よもや常体の武士でもあるまひ、しかも世に捨られし悪党坊主の鉢ひらきか、人非人の乞食非人めでサア有ふと、推慮したなア玉章富アイそふじやわひなア、そふでムんす、十が九ツしれて有のに、空々しいおいとしや、姉様をヱヽこなたはのう与アヽ是々そりや何をいふ、扨は此源藤太が白妙を手に掛たと存じて、それで最前から身共に向ひて白まなこか、伯父をにらんでひら目同前、源左衛門が手前もあるのふ、身共はしらぬヲヽ芥子程も覚はないぞ、しらぬ事をば、悪事災難いかに女じやと云ふて、ツイ推慮で姉の敵とは、コリヤ何とも迷惑千万な事だわへ〔トこなし有て下にいる、富十郎思入有て最前の台十能に雪を一すくひ入れ来て、玉助が前に置て〕富申我夫源左衛門殿、此雪は白ひ物か黒ひ物でムんすかへ玉ムヽ何見ても雪程黒い物はなしと、面白躰の俳諧にもかくいへば、水の体にて黒ひも断り富ナア白ひはしれた雪なれど、黒ひと言が俳諧とやら、夫を察してお前の心は玉夜を昼に雪の力や明り窓富そりや宜士とやら云学者の故事玉イヤサ其先妻の敵、そちが為には姉の敵も、やががて討すは富姉様の恨み晴さいで置ふか与アヽ討すはよひが、邪推は無用〔ト立かゝるを、玉介がわつて夜着の袖を取〕玉無用の用は夜着の袖、取ては形見苦しく、看ても両手は通されず、是が則無用の用〔ト立廻りにて〕富敵は討れず見のがされず〔ト詰かくる玉介とめて〕玉女の手際しばしの辛抱富丈を延して褄辻あはゞ〔ト与六の首筋を取る。与六夜ぎすつぽりぬける〕玉ハテその時は名乗かけて与コリヤどふやら此身の綻びが〔ト又ふり切立ふとする、玉介よろしくおさへて〕玉是サ何事も皆推慮じや驚くまひ与でも〔ト富十郎を見る、富十郎よらふとする、玉介留る、本釣がね暮六ツ打〕富ありやもふ暮六ツ玉鎌倉へ有無の返答〔トシヤント立上る〕与降てわいたる雪空も富曇りなき身は晴わたる玉名におふ佐野の夕暮に与じみ〳〵消る忰が命〔と立上る富十郎きつとなつて〕富積る恨みの雪仏〔ト与六へかゝる玉介突廻して〕玉イヤ跡吊ふは出家の役〔ト与六を下へ突やる〕富何のあの経景殿が〔ト与六ちやつと庭に向つて〕与南無あみだ仏〔トなじる、富十郎又行ふとするを〕玉ハテ仇を情にコリヤ玉章〔ト手を取富十郎ぎせいするを玉マア奥へ参れといふに〔ト唄に成り玉介富十郎をつれ奥へは入る、跡本つりがね残つて、与六そつと跡見送りこなし有て〕与今源左衛門夫婦が五音では、身共が白妙を手に掛た様子、ありや推慮でないとつくりとしておるわへ、此上は何も角も短兵急に佐野の所領をせしめた上に、夫婦共に返り討〔トきつとなる、又どろ〳〵見事にかへつて〕アヽ情ない又なやますか、コリヤ困つた物じやわへ〔ト二重にべつたりと尻居にへたる、此見へよろしく本つりがね上るりヲクリチヨン〳〵〕かへし
.
造り物三間の間、数寄家体本椽付、雪降積りし本屋根、上手落間連子窓付の塀柴垣のあしらい、此前に浄瑠璃出語、台下手落間にして風雅な塀、庭木石燈籠のあしらい、皆々雪積り有、能所に鉢植棚に雪持の鉢の木幾つも並べある、家体の前に数寄屋障子一面にしまり有、やはり雪ちら〳〵と降り、本釣鐘かすめて道具納る上「雪風にさ野の船橋音す也、手馴の駒の帰り来る、道さへ雪に埋れて、遠寺の鐘の音も氷り、今はそびへし庭の木の、梢を払ふ吹雪さへ、身にしむ思ひ源左衛門、常に動せぬ武士も、主家の為と恩愛の、我子の命わけ兼て、胸の氷も砕くる思ひ、始終を影に立聞と、夫の心白雪に、ふるふ足もとふみしめて、伺ひ居る共白ま弓、矢竹心の張つめて〔ト能程に前の障子を引てとる、内に玉介衣裳羽織にて、刀かけに大小をかけ、手を組思案の体、上手柴垣の間より、富十郎襠をかいどりじつと伺ふ、上るりの跡床二挺のめりやす、雪おろしの音玉先刻不思義になき妻の、白妙が姿を顕はし、忠と孝とはいづれがおもいと、よふす有気に尋ねしは、合点行ずと思ひしが、今ぞ此身に思ひしる、鎌倉よりの逆意の疑ひ、此言訳には誓紙を認め、我三人の忰の内、一人の首を討血判せよと上使の難題、さすれば三人の忰の中に、もしや彼若君の身の上を○イヤイヤ加様な事もあらんかと、玉章には勿論先妻の白妙にも、包み隠せし我子の素性、余人のしるべきいわれなし、ハテその意を得ぬ上「思案工夫のとつおいつ、聞居る妻が身もわな〳〵、左程大事の若君の、御身の素性今までも、包み隠すは胴欲と、恨の詞いゝたさも、じつとこたへてしめなきに、涙は氷と成ぬらん、様子聞付一間より、子は親に似て利発者、父がまへに合掌し〔ト両人別々に宜敷愁ひのこなしある、奥より三津橘吉太郎梅太郎出て、玉介が前に手を合せ〕三吉梅サア父上様、私が首を早ふお討被成て下さりませ上「首さしのべて覚期の体、女房ははつと気も狂乱、留に出よふかどふせふかと、あんじる胸は幾瀬の思ひ、父はほと〳〵打うなづき玉ヲヽ忰、そち達は先程のよふすとくと聞たな三ツきちアイ逆意とやらの申訳に、此梅太郎が首切て、お渡し被成て下さりませ吉イヤ父上の申訳にはこ桜之助、サアとく遊されて下さりませ梅太郎イヤそりやならぬ〳〵、首切らるゝは此松千代、サア爺様ぼんが首をころりと切て下さかませ三イヤ死るのは此兄じや梅イヤ弟の私じや吉イヤ中取てわしじや〳〵上「互ひにあらそふけなげなさに、父はひと敷ひきとゞめ玉三人共に出かしたなア、いづれ不便に甲乙はなけね共、ぜひ一人は首討て渡さねば、鎌倉への言訳立ず、もし此事を玉章の、耳にいらばなさぬ中の義理を思ひ、邪魔せんな必定、時刻移らぬその内に、父が直々手に懸る、冥途へ行共残る共、かならず共に恨むなよ、覚期はよいか忰共上「南無あみだ仏と観念して、刀すらりと抜放せば、是なふ待てととんで出、そこと爰とに三人の、我子を囲ふ両袖に、泣て居たのを顕はせり、夫もはつと思ひしが、態と突のけ声あらゝげ〔ト此内富十郎ツカ〳〵と出てよろしくとゞめて泣落す〕玉ヤア玉章か、最前よりの様子、定て物影より聞つらん、今改て物語るにも及ばぬ、その方もしるごとく、忝くも北条時頼公最明寺殿と御名を呼、勿体なくも民の歎きをしろし召れんと、諸国行脚の姿と成り、遍歴し給ふ折こそあれ、降来る雪に悩され、此さのゝ渡りに行暮給ふを某御宿参らせしに、その比は貧しき暮し、何御供養申さんにも、あだでなく粟の飯を進め参らせ、更行まゝに夜寒さ増り、焚火にいとなむ物もなく、有合ふ庭の鉢の木の、梅桜松を伐くべて参らせしに、その返報に加賀に梅田、越中に桜井、上野に松枝今三ケの庄を給わる、その縁を以て三木になぞらへ呼し、兄弟三人是昔時頼公の、御恩もあつき広大無へん、せめては御嫡子左馬の助照時公を、御世にあらせんと、心を尽す源左衛門なりや、恩愛の躮なり共、主君の為にはかへられぬ、あれ三人の忰共、君父の為に死をいそぎ、首さしのべるけなげ者、父の手づから介錯する、妨げせずどそこのけい上「只一討と振上る、袖にすがつてさゝへる女房、サア〳〵ぼんをと欠よる松千代、母は引留いだきあげ、梅も桜もちりいそぎ、イヤちらさじと押かこひ、我身をかせにすりより〳〵富マアマア〳〵待てたべ、お前は夫でも済まふが、生先ある子を先だてゝは、義理もあるまだその中には、大事の〳〵育君の、イヤ育子を殺さす事はなり升ぬ、子の恩愛に引されて、お主を思わぬ此母と、思召なら御上使への言訳には、此母を手に懸て言訳被成て下りませ上「是手を合せ拝みます、拝むわいのと声をあげ、わつと計に泣叫ぶ、なさぬ我子へ立る義理、過分と礼のいゝたさも、こたへる臓腑はずた〳〵に、さぐる思を張つめて玉ヤア聞訳なき玉章、鎌倉よりの仰には、愛子の命とれよとあれど、女のそちが首とれよとの仰はない、なさぬ中の子をかばい、死したる姉に義理を立、此経世が逆意の言訳相立ず共苦しうないか富サア夫じやといふて玉さなくば忰を是へ出せ富サア夫は玉富サア〳〵〳〵玉なんと上「何と〳〵と押詰られ、我身を切らるゝ苦しみより、百倍増る憂涙、消入ばかり歎きしが、よふ〳〵心取直し富成程心得ました、さりながら親子は一世の別れといへば、此世ばかりの契りゆへ、せめて先立その子には、暇乞をさしてたべ、是のみお願ひ聞居てたべ経世殿上「涙ながらに立上り、襠とればその昔袂もくちて、袖せまき、細布衣身にまとひ、姉が筐のつゞれ帯〔ト此時富十郎襠をとる、いつもの女鉢の木の姿になる、立上つて〕昔忘れぬ此姿、こふした憂目に陸奥のけふの歎きをいかゞせん上「あらかなしさの雪の日ごと又さめ〳〵と泣しづむ、経世も目にもる涙を払ひ玉実にや盧生が見し栄花の夢は五十年、そのかんたんの仮枕、一睡の夢のさめしより、まだ〳〵はかなひ躮が命富是を思へば身を富て、此悲しさを見んよりは、貧しい元の身の上には、なぐさむ事も有べきに上「松風寒き夜もすがら、寐られねば夢も見ず、何思ひ出のあるべきと、そゞろ涙にくれけるが玉ヲヽそれよ、更行まゝに時刻も移る、我いにしへ世にありし時、鉢の木をすき数多の木を集め持しを、いわれぬ貧の花好と、皆人々に参らせしが富今はそれには引かへて、是此梅桜松と三人の子、わきて夫の秘蔵なれど玉何是いまだ小枝の苧切、くべて煙となさんそ〔ト謡のかゝりに成、玉助刀を抜ふとする、富十郎一寸さゝへて三津橘をかぼふ、玉助ふり切て刀をふり上る、富十郎二重へツカ〳〵と上り、上より一寸連り引の心にて急度とめる、玉介刀をふり上ながら、合点のゆかぬ思入にて、上をふりかへつて急度見上る、一寸寐鳥にて富十郎直にちやつと飛下り〕富アヽ是雪打払ふて見れば玉面白やいかにせんそれ上「先冬木より咲初る、窓の梅の北面は、雪封じて寒きにも、こと木より先立は、梅を伐やそむへき〔ト両人よろしく、富十郎三つ橘を突付乍〕富見しといふ人こそうけれ山里の上「折かけ垣の梅をだに情なしと惜みしに富どふマア是が上「今更薪になすべしとは、かねて思ひきや〔ト三津吉を後に廻して、吉太郎をさし付る玉介見て〕玉桜を見れば春毎に、花すこし遅けれど富此木や佗ると心を尽し育てしに上「今は夫のみ佗てすむ、家桜伐くべて緋桜になすぞ悲しき〔ト両人よろしく愁ひのこなしにて切かくる、とめる、梅太郎此中へわけ入て〕梅父上どふぞわしをわしを〔ト取付てせがむ、玉介じつと見る富十郎又是をかこふて見へ〕玉松はさしもげに上枝をため葉をすかして懸りあれど、植置しにその甲斐今は嵐吹〔ト梅太郎を抱乍玉介を突廻して、上座へ直し、三ツ橘と吉太郎を玉介の前へ突やりながら〕富松はもとより常盤にて上「薪となすは梅桜、切くべて今ぞ御垣守富衛士の焚火はお為也、サア早ふ切給へ〔ト愁ひ乍三津橘吉太郎を突出す、玉介始終富十郎のそぶりにこゝろを付るこなしにて、ムヽと切かくる、梅太郎ツカ〳〵下りて〕梅/イヤ母様、兄様より坊を〳〵〔ト取つく富十郎だきあげて〕富アヽ母様とは勿体なひ若君様玉ヤヽなんと富是我夫三人の子の内に、此松千代君こそ勿体なくも、誰有ふ時頼様のおたね、おなかは替れど照時様の御舎弟君でムんせふがな玉ヤヽ深く包みし若君の御身の上、どふしてそちは知たるぞ、サヽ子細を語れなゝなんと上「語れ聞んと詰よれば、妻はつれ〴〵顔打眺め富知らいでならふか経世殿、生ある内こそしらねども、此世をさりし業通にて玉ヤヽなんと〔ト二重へどつかとかけてきつとなる、寐鳥うすどろ〴〵に成る、床にて修羅よぶの相方に成る、富十郎玉助をきつと見上て〕富ヱヽ聞へませぬ源左衛門殿、夫婦は二世ときく物を、あの若君の御身の上、譬へお前が胤にもせよ、生ある時は義理ある中、何のさもしい分隔、麁略に思ひ升ふぞいなア、まして夫婦が大恩ある、時頼様のお胤じやもの、此様子をば最後のきはまで、私に包み隠すとは、日比に似合ぬ無どく心、もし恩愛にひかされて、いかなる不忠のあろふもしれずと、仮に妹の姿となり、詞かはすは二世の縁、お主大事、夫大事我子可愛の愛着心、凝り固つて今爰に、あらはれ出し我一念上「是見給へと立上れば、今迄見へし粧ひも、忽柳の乱れ髪、花の姿もちり失て、身は白妙の雪女〔ト此時大どろ〳〵にて焼酎火もへる、寐鳥にて富十郎引ぬきに成り、幽霊の姿となる、玉介急度成つて〕玉ムウ扨は白妙が霊、妹玉章の姿ちなり、あらわれ出しは我下借腹の忰と偽り、藁の上より育させしを、時頼公の御胤と、此世を去りし業通にて知つたる故、影身にそふて守りしか、ホヽウ生ての貞女死しての操、出かしたなア、左程迄に思ふ者、是まで包み隠せしは、我誤り恨をはらすは則是上「懐中より取出す錦の袋は安堵の御教書玉始には三ケの庄の御墨付、終に印給ひしは若君の御身の上、二階堂信のゝ介が娘玉豊と女云に、仮の契りの御胤宿り、平産の上男子ならば、その方が忰となし、養育たのむとある奥書、夫ゆへ連そふそちらにも、深く包みしその子細は、御台様の嫉妬といひ、又我君の御舎弟たる、越後守殿の積悪、照時公を追しりぞけ、執権の職を横領あらば、まさかの時は照時公のおひかへと、人にしらさぬ我所存、様子といふは此通りじやわい上「始てあかす松千代が、素性はすぐに白妙が、常盤の松の色かへぬ、操のかゞみ曇りなき、育抦とぞしられけり、聞に白妙疑ひの、始てとくる朝日の雪富ヱヽ嬉しうムんす忝ひ、おまへの心底きく上は、未来の迷ひも晴渡り、又血筋の妹に、此身の仇の経景を、試してもらへば恨もとけ、孝と忠義は恋の重荷、百とせ過て未来はやつおあり、半座をわけて経世殿上「名残りは尽じおさらばと、すがる子供をかきのけ〳〵、姿は冥途へ雪女、かき消す如く失にけり〔ト大どろ〳〵にて三人の子役とり付をふりのけ、下座のよき所へ富十郎をけす、かけゑんしやう雪けぶりぱつとちる子役三人うろ〳〵して〕三大梅ヤア母様がどこへやら、母様いのふ上「わつと泣出す三人を、なぐさめかねて折こそあれ、始終を影に伺ひ聞、あらわれ出し源藤太〔ト下手柴垣より与六着流し刀を持ツカ〳〵と出て〕与雪女と妖て来た、白妙めが今の噂、松千代といふは時頼のたね、一ツの功はこいつのそつ首上「討取呉んと切つくるを、経世すかさずぐつと引つけ玉ヤア血筋と思ひ用捨致せば、段々つのる悪事の増長、女房白妙はこなたが手にかけたで有ふな与ヲヽいかにも心に随がはぬ恋の意趣、しばり上て雪責の苦痛を見せてなぶり殺し、夫婦は一体うぬも一所に上「我慢の切先切付る、ゑたりとかはしてしんのあて、心地よかりし次第也、折から立出る以前の上使〔ト奥より芝翫か七大吉ツカ〳〵と出て〕芝か大経世殿誓紙受取升ふか玉契約の通り某が、血筋の者の血判を仕らふか七ヲヽ其血判にはいで此松千代玉イヤ血筋の者は則是に上「伏たる経景引起せば、イヤ夫よりはと六郎が、ぎせいをとゞむる春行義成、無法の経景心づき、何をとかゝるその隙に、長刀引提玉章が、姉の敵と薙立られ、わつと苦しむ経景が、血汐の穢れに池の氷もとけて逆巻水勢〔トか七子役にかゝるを、芝翫大吉きつとぎせい、与六玉介に切てかゝる内、奥より富十郎もとの玉章役にて、前まくの長刀を持、ツカツカと出て与六をポンと切、運気の合方にて与六の血汐前の池へ流れると、見事に水気上る、二重には大吉芝翫か七と立廻り、皆々きつと目をつけ〕玉ハテ心得ぬ、今伯父源藤太が血汐、此池水に流れ入るとひとしく芝陽気めぐつて氷も砕けか七忽水気巻上るは富ムヽ扨は江の島明神より、伝へ給ひし神束の薙刀、血汐の穢れに此ごとく大水気を上る長刀の奇特皆々ハテあらそはれぬ奇特じやよなア〔トきつとなる水気納る与六か七皆皆を突のけて〕与いでその長刀か七此小びつちよ〔ト両方へかゝる芝翫大吉はか七を取巻、富十郎は与六と立廻り〕富最早遁れぬ姉様の敵芝大謀反の一味の原田六郎玉躮どもには母の敵よか七何を〔ト双方とん〳〵とよき見へにてどつこいと納り玉まづ今晩は是切〔ト右宜敷く打出し〕目出度幕
西沢文庫伝奇作書 追加 中之巻終
西沢文庫伝奇作書 追加 下之巻
西沢綺語堂李叟編
不是尋常非人斎、衒敵兄弟蒲鉾栖、一巻襤因辛苦破、
重代刀為態物携、卑怯加村寐込伺、流石春藤途方迷、
任教後終遂本望、于今名残大安堤、
右襤褸錦下之齣
漸定身替気未平、検使在番勢縦横、呑咳源蔵刀欲抜、
見首松王眼不明、幡顕帷出文庫影、梅飛桜枯門口声、
有合乗物入死骸、舁送夫婦無限情、
右手習鏡第四齣之終
約束出入行不行、更使濡髪我屋迎、擲俵共尽相模手、
扣戸時呼盗賊名、異見於関声弥抖、律義長吉首堪傾、
誓言立処講中喜、事終遂結兄弟盟、
右双蝶々米家之齣
大星遊興日夜昌、面無千鳥手鳴方、斧九試剪生蛸足、
力弥竊渡密書箱、於芟釵白楷梯落、寺岡咄因愁歎長、
蛻籠計略終仕損、水雑炊飲鴨川傍、
右忠臣蔵第七齣
曽共三太法眼随、皆鶴恋慕身上知、己殺淡海豈云駐、
直名牛若欲奥之、開襖忽現天狗像、取面卻驚鬼一姿、
六韜授娘早切腹、主従離別此場悲、
右鬼一法眼第三齣之終
貧家渡世草鞋営、借銭乞来感孝行、乗馬三吉無余念、
盛餅乳母祝誕生、八蔵砥刀致言訳、桂政把杖立深更、
豈図火鉢有金子、門口為突慕跡征、
右恋女房孝行之齣
庭移致影金閣寺、久吉智謀此地興、軍平追立直信憫、
雪姫被縛大膳憎、抜刀共怪龍映瀑、画花却驚鼠切縄、
借問慶寿何処在、更揚烟火三重登、
右信長記第三齣之終
盗賊事畢林未眠、開乎開乎菊之前、忠度已忍此家在、
在屋竊帰其由伝、比興梶原催夜打、仁義六弥近暁天、
可憐右腕終被落、戦死於軍一谷辺、
右一之谷第二齣之終
治世為恨深編笠、欲来詠入蛙之争、背顔老母異見勁、
叉手盛長返答明、教訓聞居源蔵逼、去状擲出女房驚、
更拾小石当鐘処、相図大鼓分死生、
右古戦場第二齣終
殺舅団七気愈雄、女房愁歎知始終、葛衣縫共恋慕綻、
草履印因親切同、結帯一寸抜協指、袒肩三婦押屏風、
捕手役人来欲縛、貫緡掛首落備中、
右夏祭第七齣
手携燈籠花園回、言是斎藤追付来、欲立身替衣裳揃、
為取音頭踊躍催、覆宮出子夫婦意、拭目運眼上使方、
無端抜刀打孫首、天晴忠臣鳴老哉、
右大塔宮第三齣
長持切錠出於安、五人又手頼万端、誕生在処小弁告、
御運開初来現歓、把鏡委解島辛苦、挙顔漸語都愁嘆、
山上時戦血気男、云是非爾亀王丸
右姫小松第三齣之終
聞弟密通置霜驚、卻訝門前嫁入声、健宗難題含儕恨、
道風神文因老情、縦使野未軒端彳、莫必父上名字明、
毎手割竹被追巻、不知霑々指何行、
右道風第二齣
世営鍛冶夫婦親、誦咒行者毎日瑧、愛恋思因狩衣益、
離別争為荒神新、宝剣打処最後近、御経書終落涙頻、
高松時来刺脇腹、初驚老母顕其直、
右磯馴松第三齣之終
内侍曽伴六代公、尋来和州上市東、家来弥助雲井近、
娘之於里恋路工、梶原顕実羽織裡、権太直曲酸桶中、
肝癪親父刺腹処、初語妻子共尽忠、
右千本桜第三齣
弁斎御供落鳰照、不知高定縁組虚、火摩猶遺両家恨、
鞘破忽出一通書、上使蔵人卻殺害、覚悟千晴驚躊躇、
紛失唐鞍雖取返、夫如無刀太刀何、
右愛護雅齣之中
芝居意趣欝不開、更待雁金鰺川隈、欄干近赦鯉口伺、
下駄遠鳴橋板来、一向誤入丈夫案、無息打殺強気雷、
可憐角左武運尽、五人歌行相談哉、【此詩一字脱字あるべし】
右雁金安治川齣
【右十七回各画あれども略す】
【右抜書及び「女鉢木の評註」「近松平安堂の肖像」はいづれも難波土産に載せたるものと同一にして、同書は『新群書類従第六』中に既に収めあればこゝに之を略す】
近松門左衛門作梅川忠兵衛冥途の飛脚は、正徳元卯三月五日より竹本座にて、前狂言新いろは物語、切狂言に始て出る、今嘉永四亥年まて百四十一年になる、此のち傾城三度笠、又恋飛脚大和往来などと外題を呼ぶも、旧は此冥途の飛脚より出て、少しの増補あるのみ、本文の旧本は余か撰『当世栄花物語』四編目中の巻に出せり、此評に云上の巻段切は、淡路町亀屋の場より、屋敷為替の金をもち、堂島へ行をうか〳〵と、米屋町まで歩行所、重井筒四ツ辻の段によく似たり、中の巻茶屋は、佐渡屋町越後屋と有て、梅川のせりふに太夫天神の身でもなしとあれば、店女郎なる事明らけし、丹波屋八右衛門は歌舞妓にて敵役に作したれど、冥途の飛脚の書かたを見れば更に敵ならず、道行相合駕に勝曼坂の事を述たるは遙に遠きより見渡したる心也、廓中の女郎禿まで、正月元日六月朔日勝曼愛染へ参詣する事、昔は今宮十日戎に同じく賑ひて、此日は門出も咎めず、出は入心の稀なりしも、中興絶てずなりぬ、下の巻新の口村は博多小女郎波枕中の巻、心清町の段の裏を作せしもの也、是は梅川忠兵衛故郷へ行、小女郎惣七の方へ父惣左衛門尋ね行かの違ひにて、壁越しの愁ひ裏表の作意双方とも本文を読見て感ずべし、扨此道行を享和三亥九月中の芝居にて、浅尾為十郎一世一代に増補して、亀屋忠兵衛に浅尾奥治郎、槌屋梅川に叶珉子、馬士江戸六、下女お弁、つるかけ斗治兵衛、針立道安、伝がばゝ、垂井村助三郎、新口村孫右衛門右七役浅尾為十郎相勤べき折、病気にて浅尾工左衛門代りを勤大当りせり、太夫宮薗美羽太夫、ワキ宮薗志津太夫、三弦鶴沢文吉にて有し、此七役は地狂言計にて所作事ならず、天保二卯年盆替り、中の芝居にて中村歌右衛門〔梅玉〕道行の中へ、七役早替り所作事を勤し時、余作せし其役割は、新口村孫右衛門浅尾額十郎、槌屋梅川中村松江、針立道安嵐舎丸、お影参り芸者路江瀬川路之助、忠三妹お竹中村梅花、伝が婆中村歌七、蔓掛とぢ兵衛浅尾国五郎、福寿屋長命中山文七、亀屋忠兵衛万歳才蔵馬士仕合よし蔵、大和屋法六、願人坊主道安、娘お福道六役中村歌右衛門相勤む、元孫右衛門と七役のつもりなりしを、額十郎にさせ役割には俳諧師唄玉の相手は、垂井村助三郎に小川吉太郎を出したれ共、所作多ければ略して六役にて果しぬ、其時綴本の歌浄瑠璃出すべき所出さず、爰に正本を書、
造り物浅黄幕、並木の松雪降の体、在郷にて幕明〔ト花道より巡礼古手買西の通ひ道より節季候二人出て舞台にて行合ひ〕節季候節季候同だい〳〵紙屑てん紙屑巡礼巡礼に御報謝〔ト双方窺ひ〕節季候宅兵衛殿順門平殿古手弥藤治殿せき候伝蔵殿同我々かく姿をやつし徘徊致せど古手かの梅川忠兵衛二人の者せき候一向に相見へぬは三人如何致した物でムらふ順イヤ此大和は生国なれば何れ一度は参るでムらふせき候然らば今一応尋ねて見升ふ古手せきさやふ仕り升ふ順何れもぬかり召れな三人心得ました四人おわかれ申す〔トわかれ東西へは入口上ふれ出て直に上るりに成る〕「落人の為かや今は冬枯て、薄尾花はなけね共、世を忍ぶ身は跡や先、人目を包む頬かむり、隠せど色か梅川が、なれぬ旅路を忠兵衛が、心細くもふたりづれ〔ト此内浅黄まく切て落す、向ふ遠見に在所雪ふりの書割二重のけごみ草土手、松の実木、松の釣枝雪つもり有、此二重の上に歌右衛門着流し、一本差ほうかむりにて、手に三度笠を持、松江にきせている、松江着流しけいせいの形りにて居て〕歌イヤのふ梅川、そなたは廓より外へといふてはあるかぬに、雪道といひ定めて草臥たであらふ、持病の癪でも起りはせぬかや松イヽヱ私よりお前の心遣ひ、それを思へばしんどもムんせぬが、全体爰は何といふ所でムんすへ歌ヲヽ爰はわしが生れ在所、四五丁ゆけば実の親孫右衛門様の内なれど、不通といひ殊に今の身の上では、おめにかゝるは大きな不孝、直に逢も面ぶせ、其上そなたと一所に死んでは、師匠治郎右衛門様へ義理立ず、又義理の親妙閑様やおすはにも言訳立ず、そなたに科はない事なれば、どこへなりとも落のびて、翌日わしが召捕られ、お仕置に合て死だれば、一遍の回向香花をたむけてたも、是梅川頼んだぞや松マア〳〵待て下さんせいなア上「梅川もせきくる涙、今こな様のその様な、憂めは誰かさすぞいな、あじな一座の付合に、思われそめて思ひそめ、いとしつかへに可愛が癪、逢たいが色見たいが病ひ、恋しい顔が薬より、按摩様より灸より、気合がよふなりや悪ふなる、お袋様の御機嫌が、そこねて見へぬあけの日は、ふみでくり出し口舌でとめよ、その揚屋の勤にも、やく待宵の鐘を恨み、お前に逢夜の暁は、きぬぎぬの鳥をかこち、笑ふてわかれ泣て待、流れの里の苦をのがれ、身侭に成て侭ならぬ、同じ浮世におんなじ花、吉野初瀬の常夏に、桜がさこじやあるまいし、雪は白ふてお月様は、いつでも丸ひじやないかいな、譬へ掟にあふとても、ふたり一所に是此ごとく、手に手を取てといだきつき、又とりかわし泣涙、袖の氷と閉あへり、忠兵衛もとも涙歌そふいふそなたの心なら二人一所に死出三途、あれ〳〵ずいと向に見へる藁葺は、忠三といふて親達の家来も同前、久しぶりで逢たふもあり、今宵はむかふで夜を明し、たとへ死とも古郷の土松アイ〳〵夫は嬉しふごさんす歌何かの咄は忠三方にて松そんなら忠兵衛様歌梅川おじや上「いたわる身さへ雪風に、こゞへる手先懐へ、あたゝめられつあたゝめつ、石原道を足曳の、大和は爰ぞ古郷の新の口村へぞ着にける〔ト上手より雪もちの屑家を引出しとまる〕歌是梅川爰が則忠三が内じや、どれ尋ねて見よふわいの松わたしが居ても大事ないかへ歌ハテ何のかもふ事、おじやおじや忠三殿お内か、久しふお目にかゝりませぬ上「おとなへばづつと出たる妹のお竹梅花アイ〳〵どなた様じやへ〔ト梅花在所娘の拵、前垂たすき下駄がけ火吹竹を持出〕どれからお出なさんした歌ムヽ忠三殿にはお内義はなかつたか梅アイ忠三は手前じやが、兄様は今の先庄屋殿へ、どこからムんして何の用でわせさんした、わしや隣り在所へ奉公にいて、近比内へ戻つたゆへ、兄様の近付しりませぬが、もし大坂の衆じやないかへ、こちの親かた孫右衛門様の息子殿、大坂へ養子にいて、けいせんといふ者をたんと買ふて、人の金を盗み、その傾せんを手に提て「ヤア走つたとやら、辷つとやら、代官所からきつい御詮議、孫右衛門様は久離切て、おかみの搆ひはなけねども梅血をわけた親子なれば、いとしや年よつてきつい案じ、兄さんも馴染ゆへ、もし此あたりをうろついて、見付られはさつしやぬかといかい気苦勢「庄屋からは呼に来る、ヤア寄合じやの印判じやのと、節季師走に爰らあたりは、傾せん事でにへかへる梅アヽうたてのけんせんやのふ「しらねば遠慮もなかりける歌成程〳〵、大坂でもその取ざた、わしらは夫婦づれで年籠の参宮、なつかしさによりました、ちよいと呼できて下さらぬか梅ヲヽそれは安い事、一走り行てきませふが、爰からは大ぶの道、是女中様、まゝが仕かけてある程に、出来そこなはぬ様に、是さしくべて「下さんせやいのと、かたまへ下りに水鼻たらし、おいどよぢらかし出てゆく、跡に夫婦がうつとりと、暫し詞もなかりしが、泪にまじる袖の雪松あれまた雪が降るわいなア歌忠三殿の帰らるゝまで、内でしばらく待合そふ「いひつゝはいる西受の、反古障子を細めにあけ〔ト窓より覗く、此時吹かへに成る〕松忠兵衛様見やしやんせ、雪風で寒けれど、よいけしきでムんすなア「見やる野風の畑道、後しぶきの雪ふゞきかたげていそぐあみだ笠、道場まいりぞつゞきける〔ト仕出し、下駄傘肩衣にて西の通ひ道より花道へはいる〕「梅川見や今向ふへいかれた衆は、在所の近付の衆じやはいのワキ「お前の念比もムんせふなア馬士歌「あいがねエとふけりやナァヱ上「吾妻からげに頬冠り、腰に馬びしやく手に轡、とりなりしやんと鈴の音も、いさみて急ぐ片手綱〔ト直に大坂はなれての歌に成り、東手より歌はやし方の台突出す、西のかよひ道より、歌右衛門馬士にて路之助ゆかたがけ、ぬけ参りの拵、馬に三味せん箱をつけ、面三ツ四ツを付、跡より出て中にて〕歌いめ〳〵しい畜生め、ー番立ずくみやアがる、何たばりでもこくかふん張め、箱根山でも通りやしめし、叩なぐられるなよ路あれサ馬士どん、此雪道はすべるゆへじや、どれ〳〵跡足のわらんじがきれてある、マア向ふではきかへさせておやりよ歌ヱヽいま〳〵しい上「ヱヽこう腹もひる、さがり口綱引ぱりあゆみくる歌サア姉さん、是からひら地だ、早く乗て貰ひ鯛の目だ路ヲヤ地口かへ、此三味線箱で乗悪いわいな歌ヱヽ三味線かわつちや刀箱かと思つた、さみせん箱にしちヤアかわつたよふだ路イヽヱこりやお客様に貰ふた、延棹じやわいな歌ムヽそんなら参宮をするのに是がいるかへ路サアそこが抜参りの女の事、路用といふては持て出ず、此三味線さへ持て出りや、泊り〳〵でお客をつとめ、お参り申たその上で、馬士どんわつちや生れは江戸じやはへ歌ハヽア道理こそ路五年跡にこつちへ来てな、本に〳〵、お馴味もなひ、ふつゝか者の道案内、うへうへの上町様が橋渡し、堂島せふか高麗橋かと、皆様の心はぼさつ米屋町、本町〳〵啌じやムリませぬ、もはや御礼の安土町を越升て、道修まちかこうせうじ、安治川な御縁から、御贔屓あまる尼か崎、沸がごときの泉町、帰る塩町心納屋町何順慶町な事いゝおる、唐物町へなと江戸堀へなりと、博労町に久太郎町にいにくされと、平野町にいわれまして、ハモウ淡路町のお心かと、備後町の便もなく、御恩の程を大宝寺町、再び参りて会所町、いろ〳〵口に岩田町でも、木津川つよふいひ兼て、心の竹屋町をつど〳〵に、ざこばつとした口上を、隅から炭屋町まで、づいと申上まする歌よふ浜村屋ア時に駄賃がなけりや三味線て暇乞、駄賃に引たり〳〵路イヤモだめのだめ迄お前のお世話、そふして此馬に付た張子の面は何じやへ歌是か是はね煩脳〳〵こちの娘がみやげに頼んだ此安面、近所のがきへも手みやげじやて〔ト面を取上る、歌之助三味線取〕歌サア駄賃がはりに一曲所望じや〳〵路アイ〳〵合点じやわいなア路歌「三味せんのなアやれ三筋の糸の三瀬川アヽヤれ駒にひかれて花の浪花を暇乞ヤアあゝれ「下妻のナアアヽやれ檀所の御所化の事づけにアヽやれお久ぜうはまめなかねねこそだつヘヤアあヽれ「下むらのなアアヽやれ出店にかけし染絞りさアヽやれ梅玉め玉とよくも染わけましたとなやアあヽれ〔ト路之助三味せん歌、歌右衛門うかれて踊り〕歌ヨウ〳〵面白ひ〳〵、そんなら一番餞別に爰でおれが、伊勢みやげい〔ト右の面を三方へつけ、四方めんに成て踊り〕歌「よいサことしやお影で〔ヨイセトコセイ〕達磨さんもまいる〔ヨイセハレハノセ〕足がヨウないので〔ヨイソリヤ〕施行駕サヽヤアトコセヨイヤナハレハノサコレワノササヽなんでもせ〔ト是より路之助、曲びき歌右衛門踊り有て〕上「行も送もお影の歌、おつと音頭ではやし立〔ト是にて路之助をのせかけ、歌右衛門つまづく、路之助歌右衛門を馬にのせ、鉢巻して手綱をとり〕路箱根なア八里ハナアンヨヱ歌ヱヽぼゝした報ひかやらかせ踊り〔ト早歌に成り花道へ走りは入る〕上「世の申に商人でなく職でもなく、杖一本で世を渡る、瓜のつるかけ斗治兵衛とて、年は八十はつたつしたる達者物、あゆむ跡から炮■*06屋さむさでふるひ御隠居と、声かけられて立留り〔ト西の通ひ道より国五郎、ほうろく頭巾、肩衣杖傘跡より歌右衛門せわやつし、ほうろくやの荷をかつぎ出て〕国五郎ヤア誰じやとおもや、豆入丁の大和屋のほう六か、師走商ひわ御苦労踊り歌斗治兵衛様おとしに似合ぬお足もと、御げんきてムリまするなア国こりや茶にしてほうぢるか、年は八十歯も丈夫、耳も聞へる眼は目がねかけず、現銀かけねなしじや歌国ハヽヽヽヽ上「笑ひながらにあゆみ行〔ト本舞台へきて〕国時にほう六や、此マア土で拵た物を、その様に沢山に持て、何ぼ程利になる物で、ちと外の物でほねを折、もふらくやになるのがよいてや歌アヽ勿体ない事いふて下さり升な、今夢がさめての此商ひ、田畑かけ家屋敷残らず人に取られたる、もこを糺せばおやま芸子にうか〳〵と歌「赤い海道で巾着ひろたとなアズイ、あけて見たれば古札ばかりでなアズイ「あまり叩くと思ふなきせる、にくてすわりよか吸くちをしよんが「さつまさつまとさしてはゆけど、いやなさつまのかな山しよんがへおもしろや国それで其身の楽じや〳〵歌もふらくじや上「らくじや〳〵と戯れて、急ぎ〳〵て行にけ〔ト是にて両人向ふへはいる〕上「大女子骸へ月のさゝはりが、めぐり過たかほた〳〵と、牡丹餅腹ぶと名代もの細き野道を傘で出かねる伝が婆々、栗毛荒馬緋威、関取の噺の種や道草に、大和万歳道連にて、愛敬有けるあら玉道、いそぐ達者ぞ徳若き〔ト西の通ひ道よりか七伝がばゝにて下駄傘跡より歌右衛門万歳の形りにて連立出て〕か七是目出たや殿、噺するうち見やしやれ、忠三が門まで来ましたわいの、イヤ又おいらの息子と違ひ、お前方は銭もふけして親を養ひ、大坂へいても目出たや〳〵と人にすかれて銭もふけじや、マア〳〵随分達者で帰らしやれや歌ハイ〳〵申婆々様、その替り二月の末に戻る時には、みやげを買て来てやりやんしよしづかにムれやか七アヽ是々才蔵殿でもせわしなひ、マア門出の祝義に立舞りて行がよい、どれ〳〵餞別心で冬の内から春まつゑんぎじや〔ト財布より百の銭出して紙にひんねじて〕サア万歳殿、内の清めをして下され歌是は有難ひ〳〵、そんなら相手はいぬけれど、鼓も舞もひとりして、さらば爰にて始めよふか「万歳とや二人連なる万歳が、ひとりは峠でごそ〳〵と、跡にのこりし万歳は山の麓で友よふ調ヱイすぽぽんのぽん〳〵すつぽすほ〳〵すつぽほんと、打てば友を呼て候、べらべんのべん〳〵べら〳〵口をつかふどに、いふもお前のつらの皮、張と意気地に二度の芸子を引眉、すつぺらほんのぽんとだまされて、三味線蛸の出来るまで、勤たわたしでムり升、野辺の小松のひくにひかれぬ事はない、なアそふじやないかないかそふじやないかいな、百万年の御長寿と、祝ひ申て通りける〔ト歌右衛門先にか七花道へは入る〕上憂事のつもれば雪が癪のたね、腹にでつかりてゝなし子、産月までもてうまんと、おなかゞしく〳〵針立のどふあんじ、てもいかれぬゆへ、親が引立此道へ、咄も呵るもふくれ頬〔ト西の通ひ道より、舎丸頭巾羽織相口さし医者の拵、歌右衛門おたふくふり袖もめんやつし娘にて、傘をさし乍つれ立出て本舞台へ来て〕舎丸扨々徒ら娘にかゝつて、霜月師走の果に、不孝不埒の爺なし子を孕んでおるを、親方が是は懐胎ではあるまい、ちようまんであらふちよふまんじや〳〵と、芝居果見る様に身持をかくし、帰さつしやつたはてゝ親がしれぬ故、全体おのれは誰とつるんで其様な腹にはなりおつたぞ、サヽそれいへ聞ふサアぬかそふぞ上「腹立まぎれにのゝしれば、娘はとかうの詞さへ、たゞなくのはきゑんがわるけれど、十四のとしに番太郎の四ツ兵衛さんに、あら○○を割ていふのも身持ゆへ、それから横町の〳〵うどんやの二八さん、夜食のぶつかけふるまはれ、それがこふじて大道で、たび〳〵さしたる傘枕、とゝさんゆるして下さりませと、水涕垂し落しいる、道庵始終手を組て、覚へぬ針で多くの人の、腹へ針して殺した報ひ、針は立ねど腹のたつ程おこるは今まで薬代を、我等にしたかと思われて、いかり狂ふぞ道理なる〔ト舎丸にらみつける、是より六段の合方、歌右衛門腹のいたむこなし恟りして〕舎ヤアヽヽヽ扨はけが付たか、ヱヽ是途中といひ身共一人、コリヤ〳〵しつかりと心を丈夫にもて、のるな〳〵〔ト六段段〃はやめる、歌右衛門くるしむ、舎丸介抱して傘な見物の方へ直し、すてぜりふにて介抱する、本つりがねを打、赤子笛をふく〕そりや出たは〔ト恟りしてへたる、歌右衛門傘をとる、子役赤子のぬいぐるみにてひよつと出る、歌右衛門舎丸恟りして、子役をとらえふとする〕上恋の重荷にやすやす安ざん、あとをしとふて〔ト三重に成り、赤子すりぬけ一さんに向ふへ走りは入、歌右衛門舎丸跡おふて走りは入る、直に鳴物に成、歌右衛門願人坊主にて花道より出る〕歌「寒の師走も日の六月も、暑ささむさのなき坊主、奇妙ちよんがれとらづくし、白いゆかたに紅ひのふんどしどしと、雪道を寒紅梅のきてんもの、こなたへ来かゝる分限者は、福寿屋の長命といふ男、丁稚を打つれて行かいさまに声をかけ〔ト西の通ひ道より文七分限者の形り頭巾羽織一本差、丁稚の子役供して出る、双方本舞台にて行合ひ〕歌おつと旦那お物参りと見たはひがめか、願人が行て薄着の夏衣一文ぐらいはいが栗のちよぼくれ聞て下さりませ文七扨もげんきな願人殿、ちよんがれといへど修行者殿、金太よ銭進ぜいでつちハイ〳〵〔トはやみちより銭を出してやる〕歌ヱヽ有難ふ存升、さらば是にてやらかし升る歌「腰の釈杖ふり立て、丑寅の御方には、御一代の守本尊、ほぞんかけたか時鳥、八千八声なくときく、森の木枯我からと、をはをからすの羽根ばたき、一文もなし梨子も礫もないお女郎、此方すこしもくいやいなし、襟袖口のふくろびも、綿さへ足にかゝりうど文七ヲヽ願人殿ゑらい〳〵是着て寒さをしのがつしやれ〔ト羽織をほつてやる〕歌ヱヽ有難ふ存ます歌「赤いらしいと名にたつとても、したがよいぞや緋ぢりめん、ちらり白いはだへに雪の中なる紅ばいのいふてたもるの、是のいふてたもるの、とふ〳〵来たりやとふきたり、鶴の毛衣げんけの毛衣、けれんとうち掛ぬつくりこつくり、くゝめる蔵入ずつしり〳〵、粉米のなまがみこゝん粉籾の二歩金か、鼈甲〳〵共にひかれて臆てふや、万歳〳〵万々歳とつかり〳〵結こむ、大金はずつしり〳〵、向ふの小蔵の小溝に鯲ちよつとによはり踊る拍子もおもしろや〔ト文七もうかれて、頭巾きものも歌右衛門にやり、でつちもはだかにして、歌右衛門にやる、大太鼓相伴入にて、歌右衛門頭巾を着て、文七釈枝をもちでつちもうかれながら、向ふへは入る、此時下座出ばやし引こむ、花道舞台一面に白もめんを敷〳〵よき程に窓の内より松江歌右衛門かほを出して〕歌あれ〳〵あそこへ見ゆるは親仁様、段々の不孝跡、おゆるし被成て下さりませ松アヽあの綟子の肩衣が、孫右衛門様でムんすかいなア歌お年もお足もともよわつた、もふ是が今生のお暇乞でムり升る、随分お達者でお暮し被成て下さりませ松本に親子はあらそはれぬもの、目もとなら鼻筋なら、お前によふ似た事わいなア歌サア夫程よふにた親と子が、詞さへも得かはさぬは、何とした身の因果じやぞいのふ松私もけふがお顔の見始の見納め、申わたしは嫁でムリ升、夫婦は今をもしれぬ命上「もゝとせの御寿命すぎ、未来でおめにかゝり升ふと、口の内にてひとりごと、夫婦諸共手を合せ、むせび歎くぞ道理なり、夫れともしらず恩愛の、子ゆへに迷ふ親心、孫右衛門は老足の休み〳〵門を過、野口の溝の薄氷、すべるをとまる高足駄、花緒はきれて横さまに、どうと転べは南無三と、忠兵衛もがけど出られぬ身、梅川あはて走り出〔ト額十郎の出より本行なれば略す〕
■*06
西沢文庫伝奇作書 追加 下之巻大尾
近世専ら流行するものは腰かけの料理家と諸家の随筆なり、文花日々にひらけ、事物自由となる世の中に、此二事は感ずべき事也かし、矢大臣店との聞へは安けれども、山海の珍味嘉肴を小皿に盛、酒は池田伊丹の印ものを飲せ、湿気魚切の断りをいわず、また読書に万巻の書を集すとも随筆ととなへ、神儒仏より詩歌連俳野史雑書に至る迄、我好む書を抜書して、世に弘む、是をよむ人は随筆学文とて博識家には笑るゝろも、早学文の司なるべし、此西沢文庫伝奇作書と題せる書は、梨園の作者の伝をあげて、後のちの巻は編者李叟が随筆也、かゝる戯場の事を書たるは、諸家の随筆に見る所なれば、いと珍らしき心地せられ、既に巻を次で前集残編拾ゐとあるうへ後集付録続篇追加と七編に及ぶ、追々に書なば尽る期は有べからず、されど李叟は此七部にて筆をとゞめ、梨園の七書を唱へたき趣を言ひ越しぬれば、此ことわりを誌して聊跋にかゆる事しかり
時嘉永四庚亥初秋
皇都 西六条隠者 久貝老人
■*01
■*02
■*03
■*04
■*05
■*06
■*07
■*08
■*09
■*10
■*11
■*12
■*13
■*14
■*15
■*16
■*17
■*18
■*19
■*20
■*21
■*22
■*23
■*24
■*25
■*26
■*27