FILE 59の8

【 今の人形浄瑠璃 】

 
 
今の人形浄瑠璃
阿部 次郎
marionnette 1巻3号 p82−83 1930.7.28
 
 
 私は今の人形浄瑠璃に対して、その様式の根本をかへる注文な全然いたしせん。根低に於いてそれが伝統的保守的であるやうに心から望みます。ただ、徳川時代の長い歴史の間に色々付加物がくつついて、不純になつて来てゐるところがありますから、それを洗ひおとして、本来の面目に帰つて貰ひたいと思ふところはあります。それは総括して云へば、小手先の技巧に囚はれた瑣末な写実主義をすて、もつと様式の統一を持つものにしたいのです。これは私の考へによれば復古ですが、歴史家によつて人形芝居は本来そんなものではなかつたといふことが証明されるなら、革新でも構ひません。
一、 シテの人形遣ひの細かさを見せるために脚本の内容上、当然かげになるべき場合でも、盛んに活躍しようとする心掛をすてゝ貰ひたく存じます。一例をいへば堀川の与次郎です。特にその前半です。お俊お俊とよばれて奥から出て来るお俊の出は、素浄瑠璃では特別にシンミリしたところですが、与次郎の活躍がその心持をどれほど邪魔をしてゐるか知れません。かういふところをもう少し考へなほして、全体の統一をはかつてほしいと思ひます。
 
二、 サワリの間の形は人形遣の苦心のところで、中々面白い型が多いのですが、それでも場合によつては、カセに使ふものが多すぎてうるさく感ぜられることがあります。今一寸適例を思ひだせませんが、これも文句に使はれずに、文句のあらはす心持を、つながりの意味ある身振の連続として表現する工夫の余地は、十分にあると思はれます。さうしてその工夫をしても、人形芝居の本領は決して失はれないでせう。此処に現在の人形遣ひの新工夫をこらす問題が残されてゐると思ひます。
 とにかく、今思ひついた右の瑣末な注文だけでも、人形遣諸君に聞いておいて貰ひたく存じます。