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【 人形浄瑠璃の首 】

 
 
人形浄瑠璃の首(かしら)
南江 二郎
marionnette 1巻 p61−72 1930.7.28
 
 
 仮面を著ける事を本格とする能楽と、人形を以つて、演劇の具現的創造演伎者とする人形浄瑠璃とは、必然に姉妹関係を有すべきであるにも拘らず、従来、能楽と人形浄瑠璃との関係に就て、殆んど考査されてゐないのは何故であらう。その過去に於いて、歌舞伎よりもより大衆的であつたと共に、その発生当時から芸術上以外の写実万能を盛んに発揮した人形浄瑠璃と、能楽との対比的考察など、まるで問題にならないとでも云ふのであらうか。然し単に能楽は象徴芸術だ。人形浄瑠璃は写実芸術だ、と片附けて了つていいのだらうか。能楽は単なる様式化に依る消極的象徴芸術であらうか、人形浄瑠璃は単なる怪奇的強調に終始する写実芸術だらうか。この大別に甘んずる事は認識不足でなからうか。少くとも能面と人形浄るりの首(かしら)とは、その大成期及以後に於いて、能楽は積極的自覚から、人形浄瑠璃は無生命の人形を演伎者として、写実万能を貫徹させやうとした矛盾から生じたデイレンマから、と云ふ各自の立場に基く判然たる区別を持つてゐたとは云へ、象徴的写実主義を窮極とし、窮極としなければならなかつた、結果に於いて、全然離して考へることの出来ない関係にあるものではなからうか、かうした異端的(?)考察もまた、何かの参考であらう。
 
一 能楽と人形
 
 先づ初めに準備的考察として、能楽と人形芝居、引いては人形とが関係を有することを思はせる古文書を紹介しながら、それがどの程度の関係であったかを明示したい。
 それに就て、先づ第一に紹介したいものに、最近、京大の島文次郎博士から私に与へられた暗示的教示がある。これはまだ確証を得ない想像の範囲を出でないものであるが、この方面の研究材料として、私の知る限りに於いて、未だ曾つて世に公表されてゐないと思ふ最も貴重なるものであちた。即ち同博士の説に依ると、『蔭涼軒目録』等を初め、当時の諸家の日録、日記等を見ると、猿楽以外に、『手傀儡』の散見に混つて、『手猿楽』と云ふもののあつた記事が見えるとの事である。この手猿楽なるものがどんなものであつたかは、残念ながら現在までに同博士に依つて蒐集された記事だけでは知ることが出来ない、然しその『手』と特記されたところに疑問の中心点を置いて、より詳細なる記事の発見に依るか、或ひは、それ等を取材とした当時の絵巻物類の発見に依るかして、若しそれが一種の原始的偶人劇であつたことが証明されるとしたら、それ が能楽発生以前のものであるだけに、非常に面白い結果になりはしないか、との事であつた。事実、若しそれ が証明されるとしたら、あの直線的な身振動作を多分に持つ能楽演伎の、拠つて来るところを明確に表示され得るであらう。
 この猿楽を人形に拠つて演じたかも知れないと云ふ想像は、さほど不自然なものではない。例へぱ有名な大江匡房の『傀儡子記』を初め、それ以前のものとして藤原明衡の『新猿楽記』等に依つて、上代末期から偶人を操るものがゐたと云ふ事や、前述の手傀儡と特に傀儡の上に『手』が附せられたものがあつたと云ふ事や、看聞日記、後法興院記、言継公卿記等に依る、足利時代には既に勧進にかつて興行した女猿楽など云ふものまであつたと云ふ事実、等とを照応させる時、多くの暗示を与へられる。又、能楽がその影響を受けたかも知れないと云ふ事に就ても、前記直線的動作の事の外に、能楽の鬼面ものの演伎が飛躍の型を多分に持つ事と大江匡房の『傀儡子記』等に依つて彼等が曲芸的要素を多分に持つてゐた事と、等を照応させて、臆測してみる事も出来る。然し。
 等の考証は後日に譲るとして、ここに特に附記して注意をうながしたい事は、能楽が今日の大成されたものになるまでの草創期に於いては、その演伎の生命をなす能面が伎楽面の写実主義、舞楽面の様式主義、等の影響を受けたと同様、演伎其他の全般に渡つて、今日の能楽に見る如き中間的表現法に依る演伎に終始してゐたのではなからうと云ふ事である。然るに今日の如き中間的表現法を創造するに到つたのには、其処に何らかの必然的理由が存在しなければならない。この疑問は後記の浄瑠璃人形の審美的価値を考査するに際して、多くの暗示と教示を与へるものである。
 さて、本筋に戻つて、では能楽が或程度まで大成されてからはどうであらうか、と見ると、一例として、永禄、天正年間の事として、『御湯殿上記』に「度々大内へ夷舁参り、御車寄等にて人形を舞はし、時には能の所作なども演じ』といふ記事が見える。これに依るとせいぜい三番叟ぐらいの舞ががりのものを物真似式に演じたものであらう。然るに、高野辰之博士の考証に依ると、この当時既に、上杉謙信が弄んだと云ふ、二千人の敵味方が入り乱れた城攻の操機関(あやつりからくり)があり、小瀬甫菴の『太閤記』醍醐の花見の条にも『殿下此処にしばしおはしまして、てくる坊の上手、あやつりの名人を長谷河宗仁を以召て色々風流を尽すべしと宣ひつつ、各を慰めたまふ』とあつて、操術そのものは或程度まで進歩してゐた事を物語つてゐる。従つてこの二者の比較のみに依つても、人形はその当初から能楽などとは全然離れた形で、布教具、其他として従属的に使用されたもの以外は、 そのからくり仕掛の面白さと、まるで生きた人間がやつてゐるやうだと云ふ『如実』に集中させてその道を進んでいつたものと思はれる。
 この人形の『如実』万能は、人形浄瑠璃の大成期なる貞享二年から、延享、寛享前後に到る、竹本、豊竹両座に於ける人形に種々工夫してほどこされた構成上に於ける歴史を一見する時、最も明瞭に示される。即ち、享保十五年八月に豊竹座は『楠正成軍法実録』の興行に際し、近江九八の考案で利田七の眼玉の動く工夫をし、同十八年四月竹本座は『車還合戦桜』の興行に際し、人形・大森彦七の指先を動かし、翌年の『芦屋道満大内鑑』の興行に於ける初めての人形三人遣ひを経て、同二十一年には『赤松円心緑陣幕』の人形・本間入道の眉毛を動かせてゐる。之等の事実だけを見ると、能楽と対比しての歴史的考証などは、あまりに馬鹿/\しい事のやうに思はれる。然るにここに、人形が浄瑠璃、引いては三味線と結びついて、所謂人形浄瑠璃なるものを作ってから後の話しとして、人形芝居が能楽から教示を受けてゐる、と云ふよりも、受けねばならないと述べてゐる古文書がある。例へぱ『声曲類纂巻の壱』浄瑠璃節の始の条に引用された、
  「其頃の三味線は琵琶の手のごとくにして、今の世に行るゝ如く手のしげきものにはあらざりし、浄瑠璃も平家の節にて少し和らげ謡に似たるもの故に、浄瑠璃に師匠なし、謡をもつて師と心得よと中古の名人井上播磨其門弟へ伝へしとなむ。」
 と云ふのがある。もつともこれは『節』に就いて謡曲に学ぺと云つてゐるので演伎に就ては不明である。ただ、人形の動作が現在と同様、三味を基調として動いたものとすると、手のしげきものではない三味につれて動いた人形は、能楽の如く或程度まで様式化されてゐたものであつたかも知れない。この井上播磨は寛文十二年に大阪に下つて、操り芝居を興行したものであるが、その後年の同じ『声曲類纂』に写されてゐる寛永四条河原芝居見世物屏風中の人形芝居図(原画、村井吉兵衞氏蔵)を見ても『翁』らしいものを演じてゐるから、少くとも一人遣ひの古浄瑠璃時代には、演伎伎法の上にも能楽の影響を持つてゐたかも知れない。それは次に引用する原盛和の『奈良柴』中の言葉と照応させても考へられる。即ち、
  「凡上るりは何節とても操を以て体とす、あやつりは能太夫の能にひとし、いかふ碁盤猶同じ、然るに近世操を勤し太夫、三絃人形の  妙手迄皆たへて、少しばかりのふし事のみを要とするは、能太夫の能を不知して、小謡のみうたふが如し、悲しむべし」
 と云ひ、続いて
  嗚呼古代の達人並人形の妙手まで皆々うせて、江戸操の正しき格式もしれる人もなく操を勤し太夫三絃も、少し計りの小歌ごときふし事をのみ要とする、あやつりは能太夫の能なり、ゆかふ碁盤もこれに等し、……(中略)…人形妙手庄五郎、庄三、べん六、六郎兵衞、小山兵三、門三などとて上手は有り、人形もめつたに身振こまかに、人のごとくつかふを上手とせず、体をくずさず、能の如くにきつとつかふに習ひありて、少しのつかひ方に数年心を尽し、少し計のおもひ入、ちやりのきりやうにも、種々むづかしきつかひ方扇のさしやう、拍子のふみやう迄に、朝暮心を尽すといへども名有人形の上手には不及、今は人形一つに三四人取付き、人のはたらく如くにするは、互におもひあいたる名人也」
 と云ひ、又、
  「是も近世の人形のつかひかたとおなじく、むりむたいにも達者にまかせて、とんづはねつさへすれば、我も上手と覚え、人々の誉るに、いよ/\募りて、所作といふ事は失ぬ」
 と述べてゐる。さてこれを材料として考証するに際して、第一に注意すべき事は、第三の章句に於ける当て擦りの皮肉に了解される如く、『人形一つに三四人取り附き、人のはたらく如くするは、互ひにおもひあひたる名人也』と云ふ言葉が彼等を褒めた言葉でないと云ふ事である。では原盛和は三人遣ひの人形よりも一人遣ひの人形の方に、より芸術的価値を、その『美』を認めてゐたと見るべきだらうか。少くとも三人遣ひが出来てから、人形が堕落した事を物語つてゐると見るべきだらうか。
 勿論、この場合、三人遣ひが原盛和慨歎の直接の原因となつた事は確かであらう。然しそれは単に人形の三人遣ひなるものを責めたと云ふよりも、もつと鋭く深い芸術的観照から出たものではなからうか。あたかも世の人形浄瑠璃の世界は、延享、寛延の爛熟期の余波を受けて、宝暦以後、人形芝居と云ふ人形芝居が悉く竹本系の浄瑠璃に帰りつつあつた頃である。鳶魚氏の考証に依るとこの勢力は江戸にも及んで、『奈良柴』の書かれた明和四年には、既に江戸操は喪失してゐたとの事である。それ故にこの言葉は、所謂竹本系の、三人遣ひに根強く含むでゐる写実の為の写実味が、三人遣ひよりは原始的な、従つてそれをよりよく生かす為には自然、その原始的な古朴さを写実的様式化と象徴化によつて補つてゐたであらうと思はれる、一人遣ひを特質としたらしい江戸操に親んでゐた原盛和には、どうしても親しめなかつたのだ、と思惟する方がより正確ではなからうか。換言すれば三人遣ひそのものよりも、それに含んでゐる写実の為の写実と、その芸術的無自覚に基く誇張的演伎とを排斥したものであらう。
 この解程に依つてのみ、初めて『あやつりは能太夫の能なり』とか、『人形もめつたに身振こまかに、人のごとくにつかふを上手とせず、体をくづさず、能の如くにきつとつかふに習ひありて、』など云ふ言葉がよりよく生きて来ると思ふ。では『あやつりは能太夫の能なり』と云ふ言葉は、あやつりと能とを同一視した言葉だらうか。勿論さうではないであらう。第一に一人遣ひなるものが竹本系の三人遣ひの人形ほど、微に入り細に入つた写実味がなかつただけに、仮りに能楽の演伎法が含むでゐたとしても、脚本、歴史、其他、能楽との根本的差異から見ても、むしろ一人遣ひの方が時により怪奇的な写実味を持つてゐたのではないかとも想像される。又、さうでなかつたとしても、これだけの事が云へる原盛和ほどのものが能楽と人形浄瑠璃とを混同し単純に同一視してゐるとは思はれない。私はむしろ、人形浄瑠璃が無生命の人形を演伎者としながら、芸術上の写実万能主義を写実の為の写実で貫徹せしめやうとした為に、なし得ない事をなし遂げやうとした矛盾から、おのづから、デイレンマに堕入つたのであるが、それを自覚せずして写実の為の写実で進まふとしてゐるらしい竹本系の人形浄瑠璃を見て、これを笑ひ、同時に、操りは能楽と同じ道を進むべきであると云ふよりも、能楽が教へてゐる象徴的写実主義から暗示を受けよ、と云つたものでなからうかと思ふ。では、果して前述の盛和の言葉が、許されるか、どうか、と云ふ事を、現存の人形浄瑠璃及首(かしら)を参照しながら、主として人形及びその首(かしら)を中心として考察してみよう。
 
二 人形浄瑠璃の首(かしら)
 俳優の表情は、舞台に於いて、劇中の人物の『生具的な性格』を表現しなければならないと同時に、その表現したものを観客の観照に対して普遍的に徹底せしめなければならない。然るに生ける俳優がこの『生具的な性格』を顔面に表現しようとする時、常に表情筋の制限を受けて、生理的に許される以上にその表情を印象的に表出することが出来ない。全くクレイグをして其『仮面論』で『私は俳優の顔に六百の表情を見るよりも、六つの表情を見る方がいい』と叫ばしめたほど、人間の顔面表情は概して不十分だ。従つて、さうした不十分な表情を観客席の隅々まで徹底せしめることは尚更ら困難だと云はなければならない。然るに人生は屡々
  「必要により又芸術的気分によつて自己の顔面表情を誇張し又様々に変化せしめたいと希ふ。その最も著しい場合は演伎である。演伎に於て人は啻に表情の印象を鮮明ならしめたいとを欲するばかりでなく、屡々同一の人間が性の区別、年齢の相違、人種的差違、さういふものを超えて自己の顔面表情をそれに順応せしめたいと思ふ。」「思想」第二十号所載、岩崎真澄氏の「能楽に於ける仮面使用の意義」参照。
 こゝに演劇仮面使用の動機が生ずる、この演劇仮面の特点を世界の古今東西を通じて、最も有意義に生したものが能面である。仮面の欠点として、誰れもが第一に挙げる事は、演劇の具現的創造過程に於いて、をのづから生じて来る人物の内的勘定の変化を固定せる仮面で表現せしめる事は困難であると云ふ事である。然しそれすら、 能面は所謂中間的表現法の案出に依つて、その欠点から逃れてゐる。 (これに就ては野上豊一郎氏著「能」の中で詳細に記述されてゐる。即ち、勘定表示の主要素となるべき能面の動かない目と口は、面をクモラシ、或はテラス事によつて、或時はほゝえみ、或時は憂ふ、と云ふやうに,仮面の傾斜の角度に依つて、それに生ずる光線の微妙な作用に依つて、自由に感情表現を変化化さす事が出来るのである。
 仮面と人形の首とが姉妹関係に有る事は既に述べた。従つて、仮面の特点と欠点はまた殆んど総て人形の首に踏襲される筈である。(詳細、拙著「人形劇の研究」中の「人形の型態的特性」(参照)ただ、一般論としての両者の差異は、人形の頭は、終始、生命なき偶人に附属してゐるものであつて、たとひ、それを操る人間があつても、仮面をつけた人間に依つてなされると同様にそれを生かす事が出来ないと云ふ事である。然しこゝで注意すべき事は、人形浄瑠璃の如き代表的手遣ひ人形は、生けるかくされた俳優、即ち、人形遣ひと融合してゐる事に依つて、より近く深く、仮面劇に接近してゐると云ふ事である。では人形浄瑠璃の首は如何にして、その特質を生かし、その欠点を補つてゐるであらうか。
 この考察に入るに際し、私は先づ現在の文楽の人形浄瑠璃を中心とし、大正十五年十一月末の焼失後の遺存の人形及び首を基礎としなければならない為に、幾分の憶測に墜入る事をお断りしておく。さて現存の人形浄瑠璃の首を一覧すると、其の歴史が証明してゐる如く、人形の首は演劇に於ける仮面乃至人形面使用の意義を自覚し、その特点を意識的に最も有意義に生かしてゐない事が裏書きされる。能面に於いてはこれを、神仏類、尉類、男類、怪士痩男、鬼神、悪尉[病+悪]見類、女類、老女霊女類、鬼女般若蛇類等に大別し得ると共に、これを又細別すると各部十数類、多くはそれ以上に分類し得るほどの多きに達してゐる。然るに人形浄瑠璃の首は、大略、老首(ふけがしら)、若男、娘、老女形(ふけおやま)、道化及びつめ、特殊首及び変化(へんげ)もの、 等に大別すると、各部の種類は十種に満ないと共に、あふふちの源太と普通の源太との差は、 僅に眉の動くか動かぬかの差と、口元の表情がやゝ異るぐらひで、能面の如く、同類のものでも、位によって微妙な異りを示してゐるものなごと比較すると、其の表情変化の表現法は甚だ粗雑だと云はなければならない。又、例へぱ『文七』の首が『寺子屋』の『松王』、『太十』の『光秀』、『陣屋』の『熊谷』に併用される事なども、衣裳其他が幾分の欠点を補つてゐるとは云へ、脚本を或程度まで重要視する時、大ざつぱな分類法だと云はなければならない。
 かくの如く、人間の顔面表情の不充分に代るべき仮面の特点が、むしろ人間の顔面表情を写すことに終始することから、充分に応用せられなかつた為に、前述の仮面の欠点を痛感する事も少く、従つて意識的に中間的表現法を取ることもなく、写実の為の写実に甘んじて安居してゐたやうに思はれる。否、甘んじてゐる方がいい立場にもあつたのである。例へぱ一時人形が生ける俳優に代つた事や、人形浄瑠璃の大成期(ここでは近松の作「曽根崎心中」が上演された元禄十六年頃から寛延末頃を指示す。)から世話ものの隆盛をみた事等が、その立場を作る要素となつてゐたり、観客本位の興行政策上から、生ける俳優のやうだと云ふ事が重要視されてゐたり、時にはその時代々の婦女子の心を惑乱せしめた若衆女形(おやま)の生人形を写出すことが必要だつたりしたからである。例へぱ近頃のものとして此処に『笹屋』(文楽座のものは焼失した。これはその写しだと云ふ)と伝へる娘頭があるが(挿画参照)これがやかましく云はれたのも一つは、その娘々した可愛さの中に漂ふ色気が、人形遣ひの名手に依つて充分に生かされる点が、重宝がられだのであらう。殊に人形の年増女の持つ色気は、人間だと余程すつきりしてないと持ち易いいやみがないだけ、汲めども尽きない味がある。私達は悲しみのサワリに乗る『太閤記十段目』の操からさへ、なんとも云へない色気を感ぜずにはゐられないのである。全くこの人形の『色気の美』だけでも、世界独歩のものとして誇り得る価値がある。
 然しこゝで注目すべき事は、この卑近なる『色気』が単なる卑近に終始しないで『卑近美』として生きてゐるのは人形だからだと云ふ事である。換言すれば、描写に不自由だつた木版浮世絵がその不自由さの為に如実の極致をねらつてゐながら単なる卑近に絡始せないで、芸術上の『卑近美』(岸田劉生氏詳論)に迄達してゐるやうに、人形なるが故にこの写実の為の写実が、一種独特な写実的様式化をもつて芸術的に生かされてゐると云ふ事である。同時に、人形の首もまた仮面と同じ木彫なるが故に、写実万能を貫徹させやうとしながら、為し得ない事を為さうとした矛盾から墜入つたデイレンマの為に、或程度まで象徴的写実主義を窮極として、能面の持つ中間的表現法を無意識のうちに踏襲と云ふよりも、含有しなければならなかつたと云ふ事である。私はその代表的な実証を本文に挿入した定之進、白太夫、婆等の首図(かしらづ)に見るばかりでなく殆んど総てのものに渡つて見る事が出来ると思ふ。
 尚、この実証は、それ以上の写実主義が人形の本格とする写実的『卑近美』を、一見、より強調するかの如く見えながら、かへつてこれをこはしてゐる事を次に証明する事によつても明示される。その甚だしいものは『口開き』である。顔面筋肉が動かないでゐて口だけ開ける事は人形を阿呆にするだけである。民衆芸術が持たねばならない愛嬌として、その作成の動機と位置を察し認めるとしても、ウフフ、アハハの笑ひを六十回も繰返す『近江源氏』の時政の人形遣ひの苦心は察するに余りある。吃の又平の道化を仮りに許すとしても、舌をかきむしらうとする時のあの口開きは、吃の事実からしても間違つてゐるし、写実を離れての効果も決して出てゐない。『朝顔話(あさがほにつき)』の祐仙の笑ひに至つては、若し出語り太夫の笑ひがなかつたら、誰れ一人としてその笑ひに誘はれないであらう。(この点本号巻頭の坪内逍遙博士の言葉は名言である。)これと、盲目の袖萩や朝顔が、一見甚だ無表情に見えながら、白面のグロテスクの中に生きる微妙な表惰とを思合す時、前者が悲劇の極とも云ふべき文学の力に、後者が節の面白さに助けられてゐると見ても、思ひ半ぱに過ぎるものがあらう。次に目の動きは浄るり人形の特質として認めるとしても首(かしら)の面(おもて)使ひに依つてのみ生きてゐる事を知つておく必要がある。
 又、人形の面(おもて)には『清絵』『毛がき』などと称して隈取風の化粧がほどこされるが、これは余程、上手にやらないと、人形が舞台に出た時、その顔面表情がぼやけて阿呆になる。これに反し人形遣ひがこの『清絵』よりも、線香粉をもつて人形面にわざと凸凹を作る事を重視して、細工化粧をほどこすのは何故であるか、総て人形の面(おもて)の彫を角度にあたる光線の作用に依つてよりよく生さん為である。人形が首を観客席の真正面に向ける事の少ないのもその効果の為である。
 諸君はこれと能楽の面使ひとを参照してみるといい。この一時すら知らずして新劇まがひの写実光線を照らすなど、愚劣の極である。
 ともあれ、これに依つて原盛和が能楽を引張り出した真意は了解されたであらう。よし盛和がさうでなくとも、私が能楽に対照してこの考察をした真意は了解されたであらう。要は人形もまた物真似と所作とを基礎として初めて生きるものである。序説が長くなつた為にこれを詳論し得なかつたのは残念であるが、いづれより正しき深き徹底的な考察を後日に期して一先づこれで筆をおく。不明の点はそれまでに教示されたい。
                         (未定稿)