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【 写実か非写実か 坪内逍遙 】

 
 
写実か非写実か
坪内逍遙
marionnette 1巻 p58−60 1930.7.28
 
 つい此間、復興文楽座の休憩室で、日向島の景清や山姥の八重桐の人形を一覧して、今更のやうに感じたことがある。同座の人形は、遠くから見ると、顔が割合に、小さくて胴体が長く、腕や脚も、時としては、割合に長いかのやうに見える。けれども接近してよく見ると、案外比例がよく取れてゐる。顔の大きさも、手足の大きさ、胴、脚、腕等の長さも、著附けのゆきたけも、少くも主な役々のは、それ/\釣合つて出来てゐる。見物席からは非常にグロテスクに見えた人形の顔面表情も、たかが、目や口が比較的大きく出来てゐる位ゐのことで、他はむしろ尋常で、写生式だといつてよい。
 とりわけ,女性の人形は写実的である。例へば、お園や八重垣姫や重の井や野崎のお光などは、見物席から見ても、四肢五体の釣合がよく取れてゐて、故紋十郎や今の文五郎のやうな名人が操縦すると活人形であるかとさへも疑はれる。
 美女や美青年の人形となると、目も口も動かず、すべて綺麗過ぎるほどに作られてある。例へぱ、鳥居派の劇画のやう。敵役や荒事役や立役などは、相応にグロテスクに書かれてあるが、女や優男[やさ]は、どれも/\一様にのつぺりとした顔に画くのが鳥居風なのだが、文楽のとは限らず、わが操り人形は、一人づかひのそも/\から、一般に鳥居派以上の写実式ではなかつたか?、私の知る限りでは、淡路のも文楽のとほぼ同型。武蔵、上総、信濃辺に遺存してゐる人形もさう。
 さういへぱ、例の有名なイタリーの操り人形も、写真で見たところでは文楽以上に写生式である。糸操りだけに、其操縦も、わが結城式であらうから、写実本位であらうと想はれる。
 こゝに疑問がある。そも/\人形劇の芸術としての極致はどこ在るのか? 写実か? 非写実か?不即不離か?
 どこの国の劇芸術も、其欄熟の結果は、写実に窮極する。さうして其進歩が停止する。最も象徴的だといはれるわが能楽とても、其技芸の様式は別として、其仮面だけを見ると、超自然物のそれの外は、頗る念入りに写生的である。じつと見てゐると、生々しい。時としては無気味な感じさへ起る、少くも伎楽の仮面や赤淵種族の使用する物などに比べると、ずっと写生的である。幸ひに舞台装置や服装や芸風が象徴的であつたり暗示的であつたりして、うまく現実離れをしてゐたからよかつたが、さうでなかつたら、今の歌舞伎以上に、とうに廃頽してしまつてゐたかも知れない。
 おなじ事が文楽の操りについてもいはれる。若しも黒衣や[衣+上][衣+下][かみしも]姿の出づかびに依つて醸されるあの非写実味がなかつたら、見物席から見た側の感じのあのグロテスクネスがなかつたら、浄瑠璃太夫のあの昂奮した表情や三絃手のあの不思議な掛け声や非実際的なあの舞台装置がなかつたら、果してよく今日まで其特殊芸術としての命脈を維持し得たであらうか、疑はしい。
 大衆は常に、いや、芸術観賞家も、どうかすると、芸術の極度を写実に求める。画でも、彫刻でも、劇でもである。が、果してそれが芸術の極度であらうか?
 写実か、非写実か?、グロテスクか? 不即不離か?
 私は新偶人劇の創作家に此質問を提出しておく。
          (昭和五年、六月十五日)
 
金平歳旦発句の挿画(絵入浄瑠璃史所載)この挿画の頃に鳥居清信の全盛期也