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【 人形芝居の台帳としての近松の浄るり 】

 
 
人形芝居の台帳としての近松の浄るり
石割松太郎
marionnette 1巻2号 p49−53 1930.5.15
 
 古くは、三馬種彦、明治になつてからは、饗庭篁村幸堂得知、尚近くは坪内逍遙博士の指導の許に早稲田の学園に近松門左衛門の研究が盛んであつた。この早稲田の近松研究会の第一会が明治廿九年十月で、この研究の結果を一纏めにして『近松之研究』といふ単行本が出版されて、早稲田が一段落を告げたのが、明治三十三年十一月とすると、約四ヶ年間、早稲田文学の上で、近松の浄るりが盛んに論議された。
 こんな風潮を受けて、爾来近松門左衛門の作品の選集、評釈、全集までが可なりの数に上るほど出版された。が、それも近松門左衛門二百年忌の記念として、藤井紫影博士の校註で出版された『近松全集』十二巻で一段落を告げたやうである。
 然らばこれで尽く近松の研究が至り尽したかといふに、決して然らず、私は近松の研究は実はこれからだと思ふ。今日までの近松の研究は、読むものとしての浄るり、丸本を机上に乗せての研究は、或は一先づ一段落の感があるかも知れぬ。−−校註、或は近松の修辞、人物の性格批判、作の由來影響などは、不完全ながら略ぼ一段落を告げたかの如き観がある。−−然し近松の作品は机上で読むものではなかつた、三味線に合はして語るべきものである。そしてその浄るりに合して舞台上で『人形』が動かねばならぬ約束のもとに製作された一つの根本(ねほん)だ。『人形芝居』の台本だといふ事は、まるで忘れられてゐるやうに思ふ。こんな事は申すまでもない事で判り切つた事である筈で、今日までの研究者は、この大事な事を、一等大切な事を忘れて近松の美辞麗句に酔ひすぎてゐる。この意昧において古今に冠たる作者だといふに、私は不満足の意を表したい。
 この意味において、近松門左衛門の作品に対して、その研究者はもう一度読返へして下さい。−−語り物としての人形芝居の根本としての作品であることを頭にまづおいて『再吟味』を私は要求する。
 すると、近松の作品を読むものとしての価値にはさして影響はあるまいが、『人形芝居の台帳』としての近松の作品はどんな事になるだらうか、量り知るぺからざるものがあると思ふ。この近松の語り物としての浄るりの研究、人形芝居の根本としての研究が行届いて、初めて人形浄るりの将来に、ハツキリとメドが付くのではあるまいか。今日の文楽座に対して、新作を要求したり、或は近松の復活を唱道するのは、この研究が十分に至つてゐないからで、未調査のまゝ推移することは、四百五十年の歴史ある人形芝居のために、危険な事ぢやあるまいかと、私は常におそれてゐるのである。
 これを具体的にいふと、『大和往来』でない『冥土の飛脚』の近松の原作で、嘗て士佐太夫が『封印切』を語つた事ある。この時に私は『節』と『人形』との二つに就いて疑問を与へられた。この土佐太夫の語る節が、一体いつの頃からの節だらうか、梅忠が出來たのが正徳元年で、その後絶えて舞台に出なかつた。ずつと後になつて文政三年に、今日の文楽座が文楽軒の手で、稲荷の芝居時代に染太夫によつて復活されてゐるものである。土佐太夫の節が、残されてゐたものとすれば、この染太夫の節でなくばならぬ。近松が創作の当時は、三味線の連名顔ぶれを見ても、精々三人四人の三味線であることから押して、浄るりの三味線は今日のやうな手のこんだものでない事を推することが出來る。恐らく今日の浪花節の三味線の如く、一つの伴奏にすぎなかつたものと思ふが、文政三年の染太夫の時には、もう今日の浄るりの三味線で、単なる伴奏でなくて、語る太夫と両々相俟つて、『弾いた』ものであることは疑ふべくもない。されば土佐太夫のは文句は『冥土の飛脚』の原作であるが、節は文政の染太夫か或はその以後の『冥土の飛脚』である事に疑ひはない。
 これに比して人形の舞台はどうあらうか。人形の今日の舞台を構成するまでの歴史は、一朝一夕には説けないが、今日舞台の第一歩をなしたのは、何んとしても辰松八郎兵衛が、『用明天皇職人鑑』で出語出遣ひをしたのに始まると見ていゝ。それは実に宝永二年。『冥土の飛脚』が舞台に上る前六年の事である。これに見ても、『冥土の飛脚』の初演の舞台は、極めて原始的舞台であつた事が想像される。人形のいろんな工風の出来始めたのが、享保十二年からであるから、『冥土の飛脚』が初演の後十六年の年所が経て、やう/\人形の工風が出来て世人が、アレ眉が動いた、口があいたと驚いた位であるから、人形の舞台も土佐太夫の時のは後世のものであるに疑ひはない。
 が人形の舞台は、そのテキストである浄るりの文句の範囲内しか動く事が出來ない。『節』の変遷が放奔自由であるに比して人形の舞台変遷には制限がある。浄るりの制肘を受けねばならぬ。
 名人と呼ばれた初代団平の日記によると、節の復活に関して左の如き意味を云つてゐる。−−
 古人の残した丸本に付せられた節章−−ホンの僅かな節章を辿つて一つの節章の最後と、次の節章の最初との間に橋を架けて、節章のない処に節を作る、これが節の復活であつて、丸本に現有する節章の一点なりとも無視する事は出來ない。これを無視するのは節の復活でなくて、節の新作であり、古人への冒涜である。
 と、言つてゐる。
 が詮ずる処人形の舞台の驚くぺき変遷と発達とは近松時代の人形の舞台を想像するさへも難い。されば『梅忠の原作』といふ土佐太夫の時の舞台も、今日の創造であり、少くも文政の染太夫当時の創造である。
 これによつて、原作の梅忠の舞台を見ると、梅川の出までの舞台に、人形がゴタ/\して、舞台の人形をよく動かしてゐない。即ち近松の作品の多くが、人形を舞台に生かすことを知らない。言葉を換へると『人形芝居』の根本の作者としては近松は極めて凡庸なる作者であつたことが判る。
 これを今度の文楽座の新築記念興行の近松の作である『平家女護嶋』の人形の舞台をよく御覧になると分るが、この人形の舞台も、節も共に勿論近松当時のものでなく、同じく染太夫乃至彌太夫が復活した時代の創造である事は、『冥土の飛脚』と同じ事が云へる。処で、この『平家女護嶋』の鬼界ケ島の一段を見ると、現今の人形遣ひに才分の不足をいふよりも、原作の『鬼界ケ島』が、何んとしても舞台を生かすことが出来ないやうになつてゐる。原作によつて立派な舞台を、今の人形がクリエートすることが出來ないといふよりも、原作が人形を生してゐないといふ事を適確にいふ事が出來る。
 尤も今日の三人遣ひは、享保十九年から初つてゐる、そして近松の死んだのは享保九年であるから十年後の三人遣ひを予想しての浄るりでない、近松当時の一人遣ひの『さし込み』人形を予想しての舞台であるとの弁護説はさもあるぺき事であるが、私はさうは思はない。茲が近松再吟味を要求される所以である。
 例へぱ、今度の『鬼界ヶ島』を御らんになつた読者は、心付かれた事と思ふが、千鳥がクドキの『不便や浜ぺに只独り友なし千鳥泣わめき……足ずりしては臥まろぴ人めも恥ぢず歎きしが』でクドキが済んでゐるに拘らず『歎きしが』の『が』で再ぴ千鳥のクドキが初まり『海士の身なれば、一里や二里の海こはいとは思はね共……』と、文辞が続いて來る。こゝらの文章が美辞麗句に眩惑されて読むものは『節』と『人形の舞台』とを忘れてしまふ。これが今日までの近松の研究者の常であつたといへる。
 机上の研究−−それもいゝが、もう一度、『節』と『人形』を基調とした近松研究が、再ぴ新規に行はれざる以上、近松の研究は、まだ出来てゐない、手が付けられてゐないといふ事の方が適当な申分ぢやあるまいか。
 私の近松再吟味を主唱する所以がこゝにある。(昭和五年一月)