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【 人形芝居の景事 】

 
 
人形芝居の景事
−忠臣蔵八段目−
 
小寺融吉
marionnette 1巻1号 p13−19 1930.2.15
 
 人形には人形の世界がある。その世界の中に於ける人形の特殊のをどり、即ち俗に云ふ景事(けいごと)と云ふものを考へて見たい。その景事も先づ道行から考へて見たいと云ふので、こゝに仮名手本忠臣蔵八段目『道行旅路の嫁入り』を例に引く事にする。昭和三年七月下旬、明治座で吉田文五郎(妻戸無瀬)桐竹紋十郎()が、豊竹つばめ太夫以下五枚、野澤勝市以下八挺の浄るりで勤めた時の覚え書と、昭和四年七月、新橋演舞場で桐竹政亀(妻戸無瀬)桐竹紋十郎(娘小浪)が前と同じタテの五枚六挺で勤めた時の覚書を基として書いて見る。然し型の記録は必らずしも正確ではないが、大体の事は見なかつた人にも想像は出来やうと思ふ。もと/\記録のために記録したのではなく、人形の道行の概念を調べるために覚え書を取つたに過ぎないのである。
 
舞台 此の母と子の旅は、鎌倉から山科までの道で、その道中を歌つたものだから、現代人の理屈から考へると、舞台面は歌の文句と共に東海道を西へ西へと進行すべきだが、一杯の道具ですませてゐる。即ち背景の中央正面に富士山を大きく描き、その下に松並木の切出(きりだ)しを置き、東海道それ自身を象徴化したのは名案であつた。これは古い型らしい。そして舞台は二重を用ひず、平舞台だけですませてゐる。前の手摺の張物は砂手摺である、ことも当然である。
 
人物 歌舞伎では母と娘の他に、たゞ賑やかしのために出てくる者がゐるが、人形では原作通りの二人だけで、戸無瀬は白の妻折笠、道行を着て竹の杖、小浪は塗笠の赤姫(赤の振袖)で、道行はなく銀の杖を持つ。但し二人とも笠は手に持つだけで冠らない。墨川亭雪麿作の『忠臣蔵替伊呂波』に、五渡亭国貞が描いたロ絵?に依ると、江戸式の一人づかひだが、戸無瀬は娘と同じく塗笠を冠つてゐる。然しこれは笠を違へた今日の文楽座の方が好い。『舞踊装』所載の附帳では、大正十五年十月の歌舞伎座で、秀調(戸無瀬)芝鶴(小浪)寿美蔵(馬士鈴六)家橘(飛脚可内)所演の型に依るが、母子共に菅の妻折笠、たゞ笠の当(あ)ては母のに浅黄、娘のは赤となつてゐる。そして母は女竹の杖を持ち、娘は杖なしである。之は娘は若くて、母は老いてゐるといふ対照であらう。国貞描くにも杖は娘が銀を持つだけだが、之は絵の都合で母の杖の有無を断することは出来ない。たゞ国貞の絵で面白いのは、母の人形使ひは男、娘のは振袖の女形が使つてゐることである。今は文楽座は常の地あたまの出づかひで勤めてゐる。また国貞の戸無瀬は大小を挿してゐるが、今の人形や、『舞踊装』には、その事はない。
 
ヲキ 山おろしで幕あくと、一杯に紅白の段幕、上手鍵の手に太夫と三味線、口上が床の連名と人形出使ひの由を云ひ糸[終]ると、再び山おろし、打上げて、前びき早めて、太夫はツレて「うき世とは誰がいひそめて飛鳥川」。ヌテの一挺一枚「ふちも知行も瀬とかはり、よるべも浪のしたびとに」、再びツレて「結ぶえんやの誤りは、恋のかせぐひ加古川の、娘小浪がいひなづけ、結納も取らずそのまゝに、ふりすてられし物おもひ」。ワキの一挺一枚で「母の思ひは山科の、婿の力弥を力にて、住家へ押して嫁入りも」となる。タテは娘を、ワキは母を語るので、「邦楽年表」の義太夫節之部を見ると、此の道行は古くは太夫二人だけであつたのが、三人となり、四人となり、今のやうな五人となったのだ。そこで絃はツレて今の手になり、「世にありなしの義理遠慮、腰元つれが乗物も、やめて親子の二人づれ、都の」の次ぎに長い花やかな合の手あり、同じくツレて「空に」で柝が入り、段幕を切つて落す、「志す」と語り納める。
 
 上手に母、下手に娘が正面向きで立つてゐる、
 
一段  仮りに一段二段と分けよう。型はところ/\を記すのだが先づ三枚目が「雪の肌(はだへ)もさむ空は」で二人は静に前に出て、母は上手上を、左の笠と右の杖を胸にあてゝ仰ぎ、娘は下手上を、笠と杖は膝の辺にあてゝ仰ぐ。二人の形の違ふのも面白い。「手先おぼえず凍え坂から」、次にツレて「薩土+垂峠にさしかゝり」で、二人はその位置で上手向きになり、杖で拾ひ/\歩くのが、道行の心持である。三枚目が「見返れば」で、山おろし、二人そのまゝ足を止め、裏向きになり「富士の煙の」と、首だけ左に振返るのが、人形らしく可愛らしく、「空に消え」と、右を振返る。この後見得(うしろみえ)の時は裾を手摺の張物の上に垂らすやうにする。
 江戸末期の所作事では、背景に富士山の絵があるから、後を向いて富士山を眺めるだけですましてゐるが、空に消える煙を見る心で振返るのが、振付として上乗なのだ。「ゆくえも知れぬ思ひをぱ」と二人右に廻つて正面向きになり、ツレて「晴らす嫁入りの門火(かどび)だと」と前に出て、下に座り、「祝ふて三保の松原に」とやゝ早めて語ると、母は左に笠と杖を持ち、右で右膝をさする、娘は右に笠と杖を持ち、左で左膝をさする。仮に二人の両手の仕事を逆にして考へると、甚だやさしみを欠いてしまふ。これが踊の振付の根本的約束の一つなのであるそして此の時は人形だから、立膝した足は張物の上にのせる。以上第一段はつまり序(じよ)である。
 
二段 ノリ早く「つづく並松(なみまつ)街道を」で、正面の松の切出しの向ふを、大名の嫁入行列が上手から下手にゆく心で、鋏箱や何かの上端だけが見える。これは古い型らしい。公然と舞台に出したら好ささうなものを、絵模様に留めたのは、古人の趣味なのであらう。そして上手から下手へ行かせるのは、母と子が途中で出会ふ意味で、之も後から来て先きを越されるより出会ふ方が風情がある、「狭しと打たる行列は」で母が、これに気づき、右手に笠と杖を持ち、立上り、下手の娘のそばにゆき、上手を指さして娘を助け起す。そこで母を先たに二人は上手向きになり「たれと知らねど羨し」と、大太鼓、大拍子の行列模様の鳴物に合せ、上手に歩く真似をする。之は一つの御愛嬌(ユーモア)と見られる。
 ワキ「アヽ世が世なら、あの如く」で二人は歩みを止め、母は廻つて下手奥を、娘は上手奥を見こむと、行列は下手に入り終る。「伊達を」とワキ、ツレて「駿河の府中すぎ。」と、二人は向合ひ、母は前を下手へ、娘は奥を上手へ「城下すぐれば気散じに」まで歩く、実際は二人が同じ道をゆくのに、かう正反対をゆくのが、人形らしい道行の振付である。所作事の道行では、男と女が上手と下手へ分れて出て立ちどまり、あとずざりして中央で脊を合せ、思ひ入れになる型は紋切型の一つだが、これは全く人形独特である。以上第二段は次の段を起す準備になつて、そのために行列を出して、一転すゐ[る]動機とさせてゐる。
 
三段 こゝはクドキ模様で、タテやワキの独吟になる。即ちワキ「母の心もいた/\と、二世の盃すんで後」の間に、母は下手にゆき、下手斜向きに座り、杖を手摺に立てゝ一寸上手の娘を見、「二世の盃」で酒を飲む真似をする。此の間に娘は上手正面向きに座り、笠と杖は下に置いた心で後見に渡し、始め両袖を胸にあてゝ思入れ、次きに懐から化粧鏡を出して、 髪を直し始める。二人とも府中の町外れに来たので、一休みしたところである。
 酒を飲む真似をして母が立上るのが、ワキの「ねやの睦言さゝめごと」で親しらず子しらずと」とサシ廻して、「つたの」と下手に、「ほそみち」と上手に、「もつれあひ」と一足づ々拾ふやうに踊り出て、而して「嬉しからうと手をひけば」となるのが原作のまゝだが、今は入れ文句があり、原作でも少しえらいのが、更にえらくなつてゐるが、そこが人形趣味であらう。
 即ち「もつれあひで」一足づゝ拾つて、上手の娘へ近づき、また正面に直り、合掌し、次に左手を右の袖口の下へあて、次に右手を左の袖口の下へあてるのが、「小松の肌にひつたりと、しめて(ナントカ分らず)にいまくら」で頬に手をあてゝ枕する型あり、トヾ懐手して極る。此間に娘は上手斜向きのまゝ。「めうとが仲の若みどり」で、母は娘のそばに近より下になると、娘は母を見て、あはてゝ鏡を隠し、両袖を胸にあて、そつぽを向く。母は懐手のまゝ立つて、「抱いて寝松の千代かけて」と、抱く振をし、足拍子ふみつゝ娘に近づき、足を辷らして踊り、「恋るまいその睦言は」と膝で、座つてゐる娘の肩を押してたはむれると、(何と人形式であることよ)娘は両袖で顔をかくす。「嬉しからうと」今度は母は左手で娘の肩をゆすぶる、娘は母を見てハツとして顔をかくす、「手を引けば」で、母は下手にゆき、合引に腰かけた形で正面になり、前に立てゝおいた村につけた火縄の火で、次ぎの奴の踊の間煙草をのむ。第三段は母のシヌキ、次は娘のシヌキの振になる。然し此の母の入れ文句は第四段のためには、有つて無益、邪魔のものだと思ふ。原作の通りの簡潔が至当である。恐らく或る時代の戸無瀬の人形使ひが名人で、それが作らせた儲けどころなのであらう。
 
四段 有名な「殿御始めの新まくら、瀬戸の染飯こはいやら、恥しいやら嬉しいやら」の文句のある娘のシヌキだが、今は此の文句は省いてある そこでタテ「アノ母様の差合ひを」と娘は袖と袖をすり合せて恥しきこなし、「わきへこかして」と両袖振りつゝ、恥しげに初々しく立ち、「まり子川、字都の山辺のうつゝにも」と、袖を胸にあて、その袖を右左と順に見おろすのは、紋切型の一つで、此の場合に好くはまつてゐる。そして「殿御はじめ」になるのを「夢にも(ナントか)」とサシ廻し、左を向き右を向き、膝行したりして、「大井川」と下手向きに極る、凡てが人形の動きで、身を浮き沈める所が人間の踊のそれと違ふのも面白い。
 「水の流れと」も紋切型で正面向き左袖を上げ、右手を左袖の上から右の下へ二度おろす、之で水の流れの形容になり、「人ごころ」と両袖を左袖に上げて見得になる。上手斜め向きである。次の合の手で立つそして原作では「もしや心は変らぬか、日蔭に花は咲かぬかと、いふて島田のうさはらし」と続くのだが、また入れ句があり、「都の花に比ぶれば」で左手は左に右手は右前に招くやうにして上手に出、「日蔭のもみぢ」 と廻り「色づいて」 と正而向き、両袖返し、躰を沈めて右左と身体を振り拍子を多く踏む、そしてトヾ両袖も直して顔を隠すのが「つい秋がきて小男鹿の」とか云ふ文句で極りになる。合の手で手は袖口に入れたまゝ袖をふると、母は又も悠々煙草をのみ直す。「つま故ならば」と右手を出し左袖の端を持ち、「朝夕に」と針仕事の真似をし、一寸下手の母を見て恥しき心になる。
   合の手で両手ひろげ「この手がしはの」で、立膝して左袖の端を右手で抱き、その袖を外から左手で撫でるのが、抱いた子をあやす形のつもりで、「二人が仲に」と、その袖に頬ずりし、立つて、あやしつゝ下手にゆき「やゝ生んで」と又頬ずりし母と顔を見合ひ、ハツとなり次の合の手で足拍子ふみつゝ、子をあやしつゝ中央に来ると、母はじつと見る、「ねんねころ/\」と左向き、右向き、左向き、右向きと向きを変へてあやすのが面白く、「どこいた」と左袖放し「どことは知れた」と右袖も元に直しバタ/\と上手に来て、両袖を少し上げ、「ひの」とあとすざりして、「人に」と右下を見おろす。そして直ぐ裏向きになり両袖合して反つて見得。こゝで母は煙管をしまふ。「逢ふて恨みを」と廻つて母のそばにゆき、座つて母の膝に手をかけゆすぶり、母は額に手をあてゝ閉口する。こゝにナントカ短い納めの文句があつたらう。
 第四段の娘小浪のシヌキは、要するに結婚の喜びに夢中になり、それからそれと未来の幸幅をとめどなく予想し、急に我に返つて母を困らすわけになつてゐる。原作とは大分変つて遠慮が無くなつてきたのも面白いが、とにかく人形の景事の気持をよく現はしてゐると思ふ。
 
五段 「しんき島田のうさはらし」と娘は上手に来る、母も立つて招くやうにして中央に出て、「我が身の上をかくとだに」と娘は上手斜め母は下手斜め、を各々見こみ「人しらすかの橋こえて」と二人向合ひ「ゆけば吉田や赤坂の」と両袖胸にあて、「招く女の」と下手を見、「声そろへ」で右足を右に伸し、左足は一寸折つて形をつけ、二上りの合の手を聞き、娘は上手、母は下手にクツログ。
 此の二上りは千本桜の道行の雁と燕と同じく、花やかなヲドリ地模様で、太鼓当り鉦入り、無意味に踊躍するのだが、始めは二人が離れて、同じ型で踊る。「縁を結ぱゞ清水寺に参らんせ」に合掌があり、「音羽の瀧にざんぶりざ、毎日さう云ふて拝まんせ、さうぢやいな、しゝきがんかうがかいれいにうきう」。この最後の文句は陀羅尼だらうが、御分りの方は御教へ願ひたい。「神楽太鼓にヨイコノエイ」は三番叟式の袖扱ひあり、「こちの昼寝をさまされた」には枕の型がある。「都殿御に」で娘の右手を母が左で取り、「逢ふて辛さが語りたや」と上手にゆき、「さうとも/\」で娘は下に座り、左手を膝、右手は立つてゐる母の左手を取り、母は右手を胸の所で娘を招くやうにする。「もしも女夫とかゝさまならば」と娘も立ち、二人下手にきて、「伊勢さんの引合せ」と合掌し、返しのタテ「ひきはせ」で、母は立身、下手にゐて右でサシ左は左下にやり、その上手、娘は座り斜め下手向き合掌合の手でクツログ。三味線の調子が直る。
 此の第五段のヲドリ地は、途中に賑やかな部分を入れて、前後を引きしめるためで、ヲドリ挿入の基づいた古い型は、私はまだ調べてゐないが、これは人形の景事と歌舞伎の所作事に共通の重要問題である。
 
六段 原作の「鄙びた顔も(歌も?)身に取つて、よい吉左右の鳴海か潟、熱田の社あれかよと」は省き山おろしで娘は上手、母は下手から笠と杖を持つて出てツレ「七里の渡し帆をあげて、櫓拍子そろへてヤッシッシ」で、右足を張物にかけ、上手向きて、右に笠と杖を持つたまゝ舟漕ぐ形をし、早目の「舵とる音は松虫か」で居どころで廻り「いや鈴虫か、ぎりぎりす」で娘は前を下手に、母は後を上手に入代り、「なくや霜夜と詠みたるは、小夜更けてこそ暮れ迄と」の文句は有つたか無かつたか、とにかく「限りある舟急がんと」で母は上手、娘は下手から向合ひ、「母が走れば娘も走り」と二人上手向きに出で、「空の霰に笠おぽひ」と母は左に笠と杖を持ち、振返つて右手で娘を招き道を急げの心を示し、娘は左に笠と杖を持ち、右袖を巻き返して、母の跡を追ふて大きく上手から中央に廻るのが「舟路の友のあとや先き」にはまる。
 「庄野亀山せきとむる」は省いたか否か忘れた。トド「伊勢と吾妻の別れ路」で、母はしやがんで、娘の膝の塵を払つてやり、「駅路の鈴の鈴鹿こえ」で、母は娘を座らせ髪を直し汗を拭いてやる。こゝはいつも喝采される所になつてゐる。この時だけ一寸、母は笠と杖を下に置くトド二人うなづきあひ、娘も立ち、「あひの土山雨が降る」と娘は上手斜に、母は下手斜めに出てゆく。
 「水口(みなくち)の葉に云ひはやす、石部石場で」は省いたか否か、とにかく今まで早目に語り込んで来たのを「大石や小石ひろをて我つまと、なでつ、さすりつ手にすえて」は、静めて語り、娘は座つて(上手斜め向き)、笠と杖を下に置き、小石を拾ひ撫でるこなし、母は下手から立身で覗き、娘の心を察し左手を口にあて笑ひを押へ、右の杖で娘を打つ真似をしてまた笑ふが、娘は気がつかない。「やがて大津や」で、娘は笠を取り仰向けにして膝の上にのせ、笠の中へ小石を入れて両手で持つて見こむ。母が近づいて覗く、娘が気づいて母を見てハツとなり笠を隠すのが「三井寺の」にはまり、「ふもとを越えて」で、娘は立つて俯れて下手に母と入代り、「山科へ」 と前の道行の母を先きに上手向きの形に帰り「ほどなき里へと」、で母は一寸後すざり上手を指し、又二人歩き、に柝つき母はよろけて、上手で右で前に杖をつき、その上に左の笠を重ね、下手の娘を見こんだ形、娘は下手で母に脊を向けて、笠と杖を構へて見得、三重の三味線でオモヅカヒは人形を後見に托して張物に手をついて辞儀、幕といふことになる。
 
 
 さてそこで、今日文楽座で演ずる八段目は、以上の如く原作に手を入れて華麗には改めてゐるが、なほ道行の本家の味を残してゐる。妹背山や千本桜の 道行は、道行と云ひながらも、少し芝居がゝつて来てゐる。けだし八段目のやうなものでは、単調と思はれたからであらう、歌舞伎では、八段目は出ても 戸無瀬と小浪はワキに廻り、他の偶然東海道を歩き合はせた者がシテに廻つてゐる。全体武家の女房と娘の道行といふ事が、既に江戸人の趣味に合はなかつたからなのであらう。これは全く義太夫情調、大坂趣味である。道行と云へぱ、すぐ若い恋人同士と思ふのが、気の早い江戸の人情であった。親子がワキに廻された所以である。お軽勘平の道行に、取つつ代られた所以でゐる。
 然しながら以上記したものは、人形の道行として古風ばかりでなく、歌舞伎の極く古い所作事の姿をも暗示してはゐないかと思ふのである。また近松の殊に世話物は道行の文章が人に愛誦せられてゐるがそれが舞台芸術の実際に於て、どんなものであつたらうかと云ふことは、一寸想像できないのだが、幸ひに此の八段目の型を見て、始めて多少の想像がつくやうに考へられる。
 また説教ぶしの小栗判官の中、照手姫が餓鬼病み車を曳く景事があるが、私はラヂオで聞いて、非常に演出欲をそゝられた。これも道行である。そしてかうした場合の研究資料としては、上に掲げた八段目の型は、非常に珍重すべき古典の如く考へられるなほ更に筆を改めて他の景事に及ばう。
                    (一月五日)