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【 穴手本集珍蔵・義太夫變痴奇論 】

(2022.03.31)
提供者:ね太郎
 
 
 
岡鬼太郎 江戸紫 鈴木書店 1912.5.25 国立国会図書館デジタルコレクション
穴手本集珍蔵
義太夫變痴奇論 繪本太功記尼ケ崎の段 新版歌祭文 野崎村の段 菅原傳授手習鑑 寺子屋の段 義經千本櫻 すしやの段
   

穴手本集珍藏 江戸紫 pp266-275
 大序
直義は師直が傍若無人の詞の間、十分苦々しき思入あるべきなり、顏世御前の注文としては、唐櫃に立派な兜を澤山に入れ置かせ、到底(とて)も外々の人が見たのて、何(ど)れが義貞のか分りかぬるやうにすべし、種々(いろ〳〵)取出す中(うち)に唯一つ立派なのがありては、顏世が目利をするにも及ばぬ次第となる、それから、唐櫃の葢(ふた)が明いたら、直義始め列居(なみゐ)る面々一同に鼻をひこつかせて、アヽ好い匂ひだと云ふ思入ある事肝要なり、蘭奢待の名香を炷(た)きしめたる兜を納めあるからは、薫りは櫃に充滿(みち〳〵)て、何(ど)の兜にも浸み渡り居る事疑ひなし、龍頭の兜が出てからバッと薰りし名香のなどゝ、急に匂ふやう書きたるは、作者出雲が無智短才の致す所、樟腦を入れた本箱の葢を明けても大抵知れた話ならずや、若狭助は二度目の出に、何か落し物でもした心あるべし、軈(やが)て還御にもなる頃、何をマゴマゴと以前の所へ戾り來りしにや、唯來懸(きか)かツたのにては、勤むる役者の氣が惡し、師直に惡口(あくこう)され今一言が生死のと、刀の鯉口握り詰むる件(くだん)にては、師直の家來か、或は直義の臣かを大勢出すやうにすべし、それでなくては、還御とばかりで刄傷中止變なもの、還御だらうが出御だらうが、家を忘れ身を忘れての意趣晴し、今といふ際に肱(ひじ)など擲(なぐ)らるれば尙斬掛(きりか)くるが人情ならん、役者にして此の邊を考ふる者なきは、誠に以て心細し。
 
 二段目
芝居にては本文(ほんもん)を變へ、あらぬ事にはして見すれど、松切りの件(くだん)は流石に捨てず、本藏が主人の詞を聞きて後其の差添にて松を切り、脂(やに)で鯉口をくツ付ける型、もツと念入りなのは、松の小枝を差込んで無理に刄を納めるなど、一寸考へたのがあれど、これ皆鼻下思案(はなもとじあん)なり、若狹助腹立ち紛れに引つこ拔かば、脂(やに)や止物(とめもの)ぐらゐが何んの役に立つべき、よし役に立つにしても、登城の節外の業物でも差替へて出でなばそれ限り、何(ど)うせ本文通りに演ぜぬからは、若狭助が登城するとて着物を着などしてゐる間に、本藏が差添の鞘へ膠か鉛でも注込(つぎこ)む處を見すれば、看客(けんぶつ)も少しは得心しやうといふものなり、チヨロツカな事では行かず。
 
 三段目
此節は若狭助の出より演(や)るのが流行(はやり)なるが、花道に坐つてキツと見込み、師直を見るが否や肩衣跳退け駈寄るは、若狭助として大間違ひなり、こんな不量見を演(す)ればこそ、何(ど)うかして刀の拔き難いやうにと、前の場で本藏までが無い智惠を振ひもすれ、喧嘩場の若狹助は十分覺悟の落着き拂ひ、何氣なく師直に近付き、鶴ケ岡にての遺恨の次第申聞けて後、スツパリとやるべき筈、斯(か)う段取れば師直の方が、相手の姿を見るなり直ぐ腰の物を投出して謝り閉口する、若狭助は餘りの事に馬鹿々々しく、何をツと柄に手を掛けはずるものゝ、米搗阜螽(こめつきばつた)では張合ひなく、拔くまでに至らずして事濟(ず)み、と斯(か)う無理なく行くと本藏も刀を拔き難(にく)くする苦勞要らずになるといふもの、後段(ごだん)おかる勘平の樂天的悲劇、前段進物場の喜劇は、共に論なし、工夫に及ばず。
 
 四段目
判官が愈々刀を腹へ突込まうとして、由良之助はと向ふを見込むは量見違ひなり、原ツ場で切腹するのではなく、座敷の眞ン中で死ぬのゆゑ、向ふを見たとて何も見える筈はなし、爰は由良之助が早打で來る其の氣息(けはひ)、若(もし)や其人の足音でもと、耳を澄ます心あるべし、由良之助は早打で來たとするが先づ理窟なるべく、さすれば亂鬢(らんびん)のまゝ取亂して駈出で、ハツと平伏、刀を杖に立上るくらゐの事はあるべきなり、何にせよ今の芝居の四段目は何(ど)れも是れも理窟に合はず、現在主人の死骸を與に乘せた儘小身者に擔出(かつぎだ)させ、御臺所も供に立つに、二人の家老諸士頭まで後に居殘り、力彌一人に任せツ限(き)りは隨分なり、後段門外になると、力彌其他の葬式に行つた男達は駈戾つて來れど、御臺始めの女連(をんなれん)は何(ど)うなッたか譯分らず、是れ等は前に由良之助がチャンと駄目を押して置かざる可からず。
 
 五段目
六月の二十九日に暖かさうな服裝(なり)をして、夕立の最中猪を追駈け步く勘平あれば、馬鹿藏とやら云ふ獨よがりのオツチヨコチヨイの惡洒落から、自分ばかり涼しさうな姿になツた定九郞あり、芝居の五段目は實に滅茶苦茶を極めたりと謂ふべし、與一兵衞なる老爺(おやぢ)、何も夜々中(よるよなか)金の事など獨りグヅ〳〵饒舌(しやべ)るには當らず、是れは定九郞に幾らか持つてゐると見込まれ、追剝がるゝ段取がよし、定九郞が向ふから來る手負猪を見て、稻叢(いなむら)へ隱れるは、怖ろしく眼の良き男なり、勘平は是とは反對(あべこべ)にて、暗夜(やみよ)に猪でも打たうといふ人間が、火繩を持つてゐながら彼方(あつち)へ打突(ぶつか)り此方(こつち)へ當り、揚句に定九郞の死骸を散々扱(いじ)つてからコリヤ人、旅人(たびゞと)などゝ大騷ぎ、盲にも劣つた奴なり、而も定九郞を旅人とは何(ど)うした譯、自分がおかると踊りながら來た時の事を思つて、素足即(そく)旅人(りよじん)と早合點したか知らねど、兎に角爰は一工夫ありたき處なり、辻褄の合ふ樣にするには、與一兵衞が出て文句なしに稻叢の前に休む、直ぐ定九郞が突いて出て財布を奪ひ、思ひの外の五十兩と宜くあッて行く向ふから猪が來る、闇の中なり惡事の仕立て、ハテ物音はと稻叢を楯にして透し見る、猪が通るので吃驚(びつくり)して引込み、ソーツと出る途端に胸板を打貫かれる、爰の出を四ン這になり、定九郎が態々猪の高さになつて鐵砲王の見當をよくする型あれど、素人の鐵砲は玉の上(あが)るものゆゑ、定九郞が左樣(さう)まて氣兼をするには及ばず、偖(さて)勘平は猪打止めしと思ふゆゑ駈けもせず、旨(うま)く行つたと火繩振り〳〵靜々立出で、死骸に近き透かし見れば、猪らしくなし、オヤと立寄ると人間、コリヤ人と傷所(きづしよ)を探る中(うち)不圖(ふと)手に當る金財布、これを取りて矢の如く舞臺の上手へ駈込めば、猪より先へ一散の本文(ほんもん)通りなり、仁左衞門の型の中(うち)には、此の場へ勘平が犬を先に立てゝ驅出(かけい)で、六段目へも連れて歸り、終ひまで犬が門口に寢てゐると云ふのがあり、至極道理(もつとも)なる着想(おもひづき)といふべし、尙外に新案あり、末に記す。
 
 六段目
夕立以來夜通し駈廻りし事なれば、家へ歸ると直ぐ勘平は飯でも食はうとする處を見せたきものなり、併し客來(きやくらい)にてそれも出來ずとならば、おかるが出て行とく時、膳立(ぜんだて)はしてあるぞヱとか何んとか云つて貰ひたし、勘平が財布の帛(きれ)を見比べるとて、與一兵衞の歸りの遟いを案じるに托(かこつ)け門口(かどぐち)へ出る型あり、名案なり、幕切近くに、三人の獵夫(れふし)から聞いたとて、與一兵衞橫死(わうし)の悔みに近所の者少し出るなど亦名工夫たるを失はじ、此の家の門に寺岡與一兵衞と表札を出すかた型は無理、二人侍が血判を受取る時、扇の眞中を破り穴を明け、之を連判狀の上に置き、此の穴から血を附けさす型は、大いに苦心したものらしく感服なり、二人侍が幕切に外へ出るは不人情のやうに思はる、勘平の側にゐて合掌すべし。
 
 七段目
おかるが彼方(あつち)から廻つて來ると云ふをも氣遣つたる由良之助、身受けの金を渡して來るとて、今度は一人殘して行く事(こと)前後不揃ひなり、平右衞門を呼出し張番(ばん)させて奥へ入る、後(あと)で兄妹(きやうだい)顏見合せるといふ段取にすれば無理がなし、それから由良之助が釣燈籠て見てゐる文を、緣の下で九太夫が讀むは辻褄合はず、讀みたくても讀めぬゆゑ氣を焦る、其の氣息(けはひ)を由良之助が悟り、後(のち)に疊をソツと上げ、根太(ねだ)の隙より突刺す事にすれば無事なり、力彌は着物の裾に少し土埃を掛け置くべし、一里半の道を息を切つて來たといふが本文なり。
 
 九段目
五輪の塔は力彌の手細工なれば精々不器用にありたし、本藏が懷中より取出す繪圖には、自分の血が附いてゐるなど面白からん、尙此外にも名工夫少からね餘り長くなりし故略す。
 
 新五段目
勘平彌五郎の出會ひ例の如く濟み、與一兵衞が出る、定九郞が大時代にオーイオーイで出る、お約束で金を出せと云ふと、與一兵衞は丸本通りの長臺詞(ながぜりふ)に掛かる、定九郞は道傍(みちばた)の石地藏を蹴倒し、臺石に腰を掛け、鑷(けぬき)を出して髭を拔く、處が、髭は終(しま)ひになつても與一兵衞はまだグト〳〵云つて居る、爲(せ)う事なしに、煙管を出して一服と思ふと詰つて居るゆゑ、後ろの掛稲の稻を拔いて刀豆(なたまめ)の掃除をする、と與一兵衞の臺詞が切れる、其處で例(いつも)の段取になり、定九郞太刀(だんびら)で斬殺し、死骸を蹴込む、と猪(しゝ)が出る、定九郞は吃驚(びつくり)仰天下手の松の木に上る手順は昔々にあッた型で行く、猪は舞臺へ來て上手へ入り掛け、萩の生へて居るを見てチヨイと其下に寢轉ぶ、定九郞は此間(このま)にと木から下り、行かうとすると猪の動くに又吃驚、愸(なまじ)ひ逃げたら追はれるだらうと頓智を出して、地藏の笠を取りて冠り、地藏の身振で最前の臺石の上に立つ時、猪は人臭いとて起上り、其處等(そこら)あたりを駈廻る、その中(うち)本鐵砲の音して定九郞に彈丸(たま)の中(あた)つた科(こなし)例(いつも)の如く、定九郎は全くの石地藏のやうにシヤチコ張つて落入る。猪は逃げて入る、と勘平出て探り寄り、笠を扱(いじ)り、手つきを考へ、プツと飛退き、コリヤ地藏、と云ふを木頭(きがしら)、チヨンと道具替りは新案なるべし。
 

義太夫變痴奇論 江戸紫 pp276-308
 
繪本太功記 尼ケ崎の段
 十次郞と云ふ小倅隨分の篦棒(べらぼう)にて、猫の額の如き茅屋に在りながら、『これ今生の暇乞ひ』などゝ自分でベラ〳〵饒舌(しやべ)つて置き、初菊が偸聞(たちぎゝ)して泣出せば、『コレ〳〵聲が高い』と云ふ、己(うぬ)の聲の方が高かッたればこそ、初菊に聞かれもしたれ、さりとては口の減らぬ奴なり、而(そ)して初菊に、『思ひ止つて給はれ』と縋り歎かるれば、『こなたも武士の娘ぢやないか』と豪さうに小言を云へど、自分も最前、『思案投首萎るゝばかり、漸々涙押止め』とベソを搔いて居たるにあらずや、『覺られたら未來永々縁切るぞや』が聞いて呆れる次第なり。
 こんな不覺な男ゆゑ、血だらけになッて歸つて來て、親父(おやぢ)は『怒りの髪逆立ち』怒鳴り廻してゐる眼の前で、『初菊どの名殘り惜や』などゝ手を引張り合つて悲しがりもしたのなり、見られた樣では無かツたに違ひなし。
 初菊も亦未練至極にて、二言目には『祝言』だの、『こんな殿御』だの、『切(せめ)て今夜は』だのと忌らしい事を云ふ、十次郞がヘロ〳〵になッて歸れば舅姑逹の前をも憚らず、『二世を結ぶの枕さへ』とは呆れ返つた淫亂娘、それも良人(ていしゆ)に死ぬ程惚れてゐての結果と思へば、多少の我慢の出來ぬでもなけれど、十次郎が『モウ目が見えぬ』となツても一緒に死んで了ふではなく、『殺してたべ死にたいわいな』と口先ばかり、それ程死にたければ、ヨタ〳〵の十次郞に殺してなどゝ出來ない相談をするに及ばず、默つてサツサと自害するがよし。
 斯ういふ料簡方の女なれは、『切拂ふなる尼ケ崎』と黑髪を切つた處で、何うせ滿足な修行は出來ず、十次郞の百ケ日あたりには、何處ぞの坊主の大黑にでもなツて了つた事ならん、苦々しき小女郞(こめらう)なり。
 此の場の武智光秀と來たら、世界の馬鹿を一人で脊負(しよ)つて立つてゐる程の糞白痴(くそだわけ)、今更云ふでもなけれど、『聞ゆる物音心得たり』と竹槍を突込めば阿母(おふくろ)が七轉八倒、是れが何んの『心得たり』で、これ程の不心得が又と世にあるべきにあらず、久吉ばかりが生物(いきもの)でなければ、阿母(おふくろ)だとて女房子(にようぼこ)だとて物音をさせぬには限らず、イヤ男の物音久吉の物音と思つたから突いたとなら輪に輪を掛けた馬鹿野郞にて、其のくらゐの見定めも付かぬ間拔けさを以て、敵の大將を只一討は食(しよく)過ぎたり、白痴(こけ)が球轉がしをするやうな、そんなヤマカンで旨い事が出來て堪(たま)るものにあらず、さればこそ報ひは覿面(てきめん)阿母(おふくろ)を突ツついて。『殘念至極』と『仰天』する大へマを仕出來(しでか)したれ。
 併し己(うぬ)が麁怱で阿母(おふくろ)を芋刺にし、『殘念至極』などゝまだ洒蛙(しやあ)つくな事を云つてゐる程の男とて、親と女房に痛めつけられても口が減らず、『女童の知る事ならず』と擬勢(ぎせい)を張りてテレ隱しをなし、飽くまで圖々しくはやッたれど、伜が敗軍の注進には赤くなッて腹を立て、『ヤア言ひ甲斐なき味方の奴原』と逆(のぼ)せたは大笑ひなり、總大將たる自分が竹槍を急拵(きふごしら)へにして大間違ひの婆アを突刺し、殘念至極などゝ其の婆ア様の隠居所で騒いでゐる始末で、軍(いくさ)の勝てる筈がなし、四方天あたりが聞いたら反對(あべこべ)に、言甲斐なき武智光秀と云つたかも知れず。處で光秀髪逆立ちはしたものゝ、女童に口説き立てられて大いに悄氣(しよげ)込み、『雨か涙の汐境浪立騒ぐ如くなり』と、終ひに手放しになツたは酷し、何も其の間默つて聞いてゐずとも、早く久吉の行方でも尋ねれば好い事を。
 斯くて手放しの最中、『人馬の物音矢叫びの聲』が聞えて松の木に駈登り、『千生(せんなり)瓢(ひさご)の馬印』を見て、『光秀を討取る術(てだて)と覺えたり』とは無駄を云つたもの哉、覺えるにも覺えぬにも、敵勢が押寄せ來る以上は討取る爲めとは知れ切つた話なり、それを一人で悟つたやうに云ふお目出たさゆゑ、『ヤア〳〵武智光秀暫らく待て』と久吉に呼留めらるゝや、『光秀見るより仰天し』と直ぐドギマギして了ふなり、阿母(おふくろ)を突いては仰天し、久吉に出し拔かれては仰天し、番毎(ばんごと)吃驚して居る樣では負軍(まけいくさ)勿論、情ない男と謂ふ可し。
 光秀此時眼が眩(くら)み仰天してゐる癖に、久吉を『ハツタと睨み』、『此世の引導渡してくれん』は好く出來たり、むこれでは『廻り小栗栖』でギユーと行つたも無理はなし。
 久吉と云ふ男も御苦勞な代物にて、他所(よそ)の家へ駈込んで湯を沸かしてやり、光秀來りと見るや逃出して了(しま)ひながら頓(やが)て又姿を變へて立顯はれ、『對面せん』と云ひは云つても何んの用があるでもなく、『今此所で討取つては義あツて勇を失ふ道理』と、その位なら何も態々(わざ〳〵)、『陣羽織小手臑當』で出直して來ずともの事なり、而も『諸國の武士に久吉が軍功を知らさん爲、時日を移さず山崎にて』とは忌な奴なり、此の息では出直して來たのも、何んと己(おれ)の早變りは旨からうと云ふ己惚(うぬぼれ)からかも知れず。
 久吉早變りの支度は何處でしたるにや、旅僧姿にて飛出して後、家來共は陣羽織小手臑當等を携へて、嘸(さぞ)方々(ほう〳〵)と迷誤(まご)ついた事なるべし。
 皐月及び操は格別論ずるに及ばず、但し皐月が臨終(いまは)の詞に、『思餘つて此の最期』とあるはハツキリせず、初めより態と伜に鼻を明かせる爲め、久吉に代つたとなら餘計なお節介と云ふべく、間違ひて突かれたのなら、惡く恩に被(き)せた間に合はせの言草(いひぐさ)と云ふべきなり。
 
新版歌祭文 野崎村の段
 お染は名うての婬奔娘(いたづらむすめ)、珍しさうに兎や角(かう)いふには當らねど、下女のおよしを連れて丁稚久松の家へノコ〳〵逢ひに來る大膽不敵、斯ういふのが紳士へ嫁入りでもすると、婦人會だの何んのと名を附けては藝人買をやらかすのなり、お光が劍突(けんつく)を食はせると『眞(ほん)にマア何んぞ土産と思ふても急な事、コレ〳〵女子衆』と、持合せの品を出して頭ごなしに相手を百姓扱ひにする權高(けんだか)、小面(こづら)の憎い阿魔ツちよならずや、お光に其の品を叩き返されしは當然(あたりまへ)なり。
 久作お光が納戶へ入るか入らぬに圖々(づう〳〵)しくも內へ駈込み、『逢ひたかッた』と久松に縋付くに至つては、他人の思はくも關(かま)はぬ向ふ見ず、色情狂(いろきちがひ)と云ふの外なし、それより久松に思ひ切れと云はれては、生きて居ぬと剃刀を捻操(ひねく)り廻しながら、お光が尼になッても留められるを好い幸ひに死なうとはせず、又母親に看付(みつ)けられても死にさうにもせず『ヤア母様(かゝさま)ハアはッと』差(さし)俯向(うつむ)いた限(ぎ)りとは、用意の剃刀も、お光を捨てさせ久松を無理に自分のものに爲(し)やうためばかりの、脅迫道具とより外思へず、此のお染のする事宛然(まるで)賣女(ばいた)の類(たぐひ)なり、歸り掛けに船の中から聲を上げ、『縁を切らしたお憎しみ、勘忍して下さんせ』との捨臺詞(すてぜりふ)、何處まで人を喰つた奴にや、死なうとすれば久作一家も共に死ぬとまて留められ、それで惜しからぬ命を捨てもせず心苦しく存(ながら)へるとなら、お光に傚(なら)つて尼になり、一ツにはお光始め其の二親への申譯をなし、又一ツには姦通同様の不埒を働きたる身の罪を許嫁の男に詫びるがよし、留められたからとて阿容(おめ)々々と母親に連れられ、淋き久作一家(け)三人の者を遺して久松共々大阪へ歸るとは、何程(なんぼ)色情狂(いろきちがひ)なればとて、其の無情冷酷鬼畜にも勝れり、果れ果てたるスベタなる哉。
 お染の母親も我子に甘き一方の馬鹿女なり、病人への見舞の印(しるし)と銀(かね)を杉折に入れて出し、久作が過つて取落し中身が如れると、『表向きで受取つたりや事は濟む、改めて尼御へ布施』とは何たる言草ぞや、表向き受取つたとなりさへすれば、後から直ぐ戾しても事の足りるものならば、何故最初に勘辨はしてやらぬ、久作は『僅の田地着類着そげ、お光めが櫛笄まで賣代なし』血の出るやうな銀(かね)を用意したのなり、受取つたが本意でなき故戾したとてそれで、元々になるのにはあらず、久作の方には、我方(わがかた)に落度ありての事なれば此の苦勞も仕方なしと諦めんが、斯程(かほど)な辛い思ひをさせて後(のち)、實はそれにも及ばなかッたのさとは、人を玩弄(おもちや)にした惡い洒落の極頂(こつちやう)なり、加之(おまけ)に銀(かね)を杉折に入れて持參し默つて歸つたら、後(あと)で銀(かね)を見ての久作老爺(おやぢ)何んでその儘に請取り置く可き、態々油屋まで戾しに行くは知れ切つた話なり、麁忽で折が引繰り返つたればこそよけれ、然(さ)うでなかツたら又面倒の起るべきお茶番、それを名趣向のつもりか何かで差出し、最初には病人への見舞と云ひ後には尼御への布施と云ふ、一つ銀(かね)で幾つもの義理を足し恩に彼せる金糞根性、久作等に對して耻かしとぐらゐは思ひさうなものなるに、『取込みの中長居も無遠慮』とサツサと出掛ける大家面(たいけづら)、如何樣此親にして此子あり、お染の不行跡奉公人の不埓、店の亂脈も所以なきにあらず。
 それに此の母親の思慮なき事驚くばかりにて、既に我家に間違ひのありしに懲ず、『言譯が立つからは久松も元の通り、戾つて目出たう正月しや』と、姦通(まおとこ)の取持をするも同然の取計らひ、それ程世間も外聞も關(かま)はず娘可愛の一點張りかと思へば、其の口の下から、『内に口善惡ない者もあれば、何彼に遠慮せねばならぬ』事の、『別れ〳〵に去るのが、世上の補ひ心の遠慮』のとは、何が何やら些(ちつ)とも分らず、是れでは婬亂娘を出して世の笑草にもなツた筈、子を持つ親はよく〳〵分別すべき事なり。
 お光はサツパリした娘なり、お染に久松の事を尋ねらるゝや、忽ち其の生體(しやうたい)を覺りて引ツ斷り、下らぬ物を出されては、『在所の女子と侮つてか』と叩き返すなど痛快至極、灸に風が當るとて門口を締めてお染を隔て、『振袖の持病があツて』と久松の不品行をチク〳〵痛めつけるなども智あり情あり、可愛き悋氣の段々大出來といふべし。
 併し久松に添はれぬと諦(あきら)むるや、白無垢を着込み五條袈裟を掛けて顯れるなど、少々茶氣を配劑し來りたるは感服せず、着類着そげを賣代なしたる折にも、婚禮用の笄白無垢は殘し置いたとしてからが、袈裟のあツたは腑に落ちず、イヤ何うかしてあッたものとした處で、『脱がす機(はづみ)に笄も』と、切つた髷(わげ)をソーツと載ツけて其上に綿帽子を被つて出たる如きは詰らぬ洒落、止(よ)しにさせたかツたり。
 又盲の母親に知らすまいと、『サ、死ぬる覺悟て居やしやんす母樣の大病』だの、『思ひ切つた、ナ、切つて祝ふた髮容』だのと云ふも芝居氣過ぎたれど、爰等は兩方へ掛けたる話しなれば一々咎め立てするに及ばず、久松お染等の出行くまで貞女の心よく通じたり、斯かる娘を久松如き不所存者に添はせざりしは天の冥助に疑ひなし。
 久松といふ素丁稚、奉公先の娘を引掛け親には太(いか)い苦勞を掛け、許嫁のお光には辛い想ひをさせながら、少しお光が當擦(あてこす)りを云つたからとて權柄に怒(おこ)り付けなどして、親父(おやぢ)の前で面目ないとも思はぬ洒蛙(しやあ)つく、成程道(そ)でない事もする筈なり、お染の母に歸れと云はるれば、貞女のお光を見捨て又もノコ〳〵出掛け行く、人外と云へば足れり。
 久作は粹も甘いも嚙分けた老爺(おやぢ)だけ、悲い中で洒落を云つたり、早咲の梅を贈つて、『目出たい春をまつ竹梅』と口上茶番のやうな事を云つたり、中々氣爽(きさく)な處あり、油屋の阿母(おふくろ)ごとき頓痴奇にはあらざれど、久松の育て方は誤つてゐるなり、久松に向つての異見の詞に、お前の親は武士だ、己(おれ)の妹がお前の乳母であつた緣て家沒落の後引取つて子にして育てたが草深い田舍に置くよりは、『智惠づけのため油屋へ丁稚奉公』と、大切な主人の若殿を、智惠づけの爲め町家(ちやうか)へ丁稚に出したとは不料簡なり、誠主人の爲めを思はゞ外に思案も分別もあるべき筈、それにモツ一つ心得ぬは、『さツきに買ふたお夏清十郎の道行本』と、其の本を出して異見をする事なり、先の頃か先の程か何れにもせよ百姓の家で詰まらぬ本を買つたものなり、幸ひ異見の折のお芝居に使へたからよいやうなものゝ、然(さ)うでもなかツたら何にするつもりなりしにや、此の爺イ樣洒落氣があり過ぎて、時々變な事もすると見えたり。
 盲の阿母(おふくろ)は無駄口を利かず未練ならず、義理人情をよく辨へたり、人物は第一等といふべし。
 
菅原傳授手習鑑 寺子屋の段
 武部源藏といふ男、誰の子でも孫でも關(かま)はず、役に立ちさうな雁首がありさへすれば、其奴(そいつ)をボカと斬つて、若君の身代りに爲(し)やうといふ程の量見、無法とも亂暴とも云はうやうなき無茶苦茶には相違なけれど、主人だけには感心と忠義を知つてゐる譯なり、併し、自分さへ好ければ、他人の難儀は云つてゐられぬといふ樣な考へで居られては、武士道の怖ろしさ、誠に浪花節以上にて、こんな師匠を取當(とりあ)てた弟子達其の一族(まき)の不運、お悔み申すに詞もなし。
 涎くりは別物なれど、此奴(こいつ)が菅秀才に口答へをしたからとて、餘(あと)の子供が一同して押取卷き、兄弟子に對して生意氣なり、苛(いぢ)めてやれと立騷ぐは、師匠の伜に胡麻を摺つての狼藉、源藏が豫(かね)ての躾方も思遺られて淺猿(あさま)し、これでは元來(もと〳〵)主人の若君一人を隱し果さうの量見ばかりより、村の子供を案山子に集め置きたるにて、丞相の志しにも背きたる致し方、手前勝手を忠義とは、何んの傳授の卷にありしにや。
 源藏は斯く他人に不信切なるのみならず、思慮も根ツから無かツたに違ひなし、村の饗應(もてなし)と欺かれて、ノコ〳〵庄屋の方へ出向きたるは、不意の事とて仕方なけれど、菅秀才の庇隱(かくま)ひ方が初めからドヂだツたればこそ、突然(だしぬけ)に『退引(のつぴき)ならぬ手詰』にも遭ひたるなれ、歸宅して小太郎を視るや、『器最勝れて氣高い生れつき、公家高家の御子息といふても恐らく耻かしからず』と云ふ程なれば、御本尊の菅秀才その人は、公家高家の御子息に疑ひなき器量なりし事勿論なるべし、イヤそれ處でなし、『滿更鴉を鷺とも云はれぬ器量』と、それ程の小太郞を尙割引して評せしより思へば、若君の氣高かツた事身分以上なりしなるべし、
 然(さ)るを手習師匠づれの源藏が、『我子ぞと人目に見せて片山家』と、幾ら田舎だからとて、己(おのれ)の子だと胡麻化さうとは無分別、『訴人あツて明白』となツたも皆自分の間拔けよりにて、誰を怨まう樣もなし。
 『世話甲斐もなき役に立たず』と、豫々(かね〳〵)子供を世話するのは命でも貰ふ時の爲めと、云はぬばかりの言草は、ムシヤクシヤ紛れの言損ひ、これは然(さ)して咎め立てをするに及ばねど、『爲まじきものは宮仕へ』と、他人の命を害(そこな)ふ酷(むご)さに泣きたるは、切ない餘りの愚痴にして、詰まりは小太郞母子(おやこ)を殺さんず殘忍、赦す可きにあらざるなり。
 扨(さて)愈々檢使來り、松王に『古手な事して後悔すな』と云はれ、忌々しさの餘りとは云へ、『紛れもなき菅秀才の首追付け見せう』と赤くなツたも思慮がなし、誠若君の首討つ者が、主人を本當に殺さなくツて何うするものかと、疝氣筋に然(さ)う息り立つて怒鳴れた譯のものにあらず、身に後暗い事があればこそ、それを氣付かぬ玄蕃の馬鹿さ加減は、次に於いて尙大いに委しく云ふべし。
 首實檢となツては、源藏一途に逆(のぼ)せて、無分別の行止りとなれり、『忍びの鍔元寬げて』松王を狙つてゐては、僞首と折紙付けたも同樣の始末、幸ひ松王は味方玄蕃は大馬鹿であッたればこそ好けれ、若し何方(どつち)か一人でも、滿足な敵方であッたが最期、首を見ぬ中(うち)早や露顯、危(あぶな)し危し、便り少なき忠臣なる哉。
 源藏は武藝も甚だ未熟なりしと見ゆ、高の知れた舍人の女房風情に後ろより斬付け、幾ら相手が用心してゐたからとて、一刀に仕留めもならぬどころか、文庫で受けられ、『待つた待たんせコリヤ何うぢや』などゝ、相手の千代の方には綽々として餘裕あるにも關らず、三度目に漸く切つたと思へば、お生憎それが人間でなくて文庫の、中より出た品々にアツと後退(あとじさ)りとは、女一人に飜弄されてゐる生地(いくぢ)なし、こんな手際て、『松王めを眞二ツ、殘る奴原切つて捨て』と女房への氣焔、駄法螺も大體(たいてい)にするがよし、戶浪が若し何うかした女だッたら、此の一事に愛想を盡かして、後(のち)に追ン出られる事請合なり。
 松王軈(やが)て本心を告げ、御臺所を連込めば、『方々とお行衞尋ねしに』など、嘘か誠かシヤア〳〵と、『橫手を打ち』などして鼻毛を拔かれしを耻ぢず、最前は無暗矢鱈と主人を擔ぎ、『天成不思議のなす所』と、松王の眼を節穴の樣に吐(ぬ)かせしが、種を明かされても、全體已(うぬ)が間拔けのなす所とはまだ思はず、『一禮は先づ後の事』と云つた限り、若君の命助かりしは松王の計略、御臺の無事なりしも亦其人の働きなるに、遂に一言の挨拶にも及はず、『野邊の送りに親の身で』と、世俗の習慣ぐらゐを言立て、人の子を殺したテレ隱しをなし、それも體(てい)よく斷られて、成るほど左樣で御座るかとは、蠻勇が幸ひに役に立つたる過ちの功名に、辛(やつ)と武士の面目を保つた丈けの野猪男(ゐのしゝをとこ)、カラ氣働きのない工合を、公家侍とも云はゞ云ふべくや。
 戶浪といふ女、これも可なりのグヅなるが如し、子供達が喧嘩をすると奥より立出て、『又コリヤ例の爭鬪(いさかひ)か』と、これでは餓鬼共の亂暴年中なりと見ゆ、亭主も亭主、女房も女房、困つた手合なり。
 千代が伜を連れて來て挨拶すると、良人(つれあひ)源藏は『振舞に參られました』と云ふ、正直でよけれど、相手が眞劒の寺入りなら、稽古中弟子を置ツ放しにして、振舞に參られるやうな師匠ではと、一應首を捻る事ならん、口は愼んで利くべきなり。
 良人(をつと)の顏色(かほいろ)を見樣子を見て、唯事ならずと察したは、滿更の腑拔にもあらねど、小太郎の母が戾つて来たら、『女同志の口先で』と猪牙掛(ちよきが)かりを云ふ工合、御多分には洩れぬ猿利口なり、『報いは此方が火の車』と、悄氣(しよげ)た處は何分(なんぶん)か氣の毒なれど、それも子殺しを中止するのでなければ、ホンの通り一遍の義理の歎き、先(ま)ア〳〵未來を觀念したのを大負けに買つて置くべし。
 松王に机の數を咎められ『寺參り』と迷誤(まご)つきはしたれど、早速『菅秀才のお机文庫』と言直したは手柄なり、併し本當のお机文庫が其處になくツて仕合せ、有つたら一體何うなッた事か、物騒千萬。
 實檢となッてからは、『身を固め』て『天道樣』ぐらゐの處、先づ無事なり、『首が黃金佛ではなかッたか』と疑ぐッて見たは、亭主殿が『不思議のなす所』と豪さうに見極めたよりも罪が輕けれど、『似たと云ふても瓦と黄金』は餘(あん)まりの言ひ樣なり、夫婦の量見別々なるにもせよ、斯う上げたり下げたり殺されたりでは、小太郞も浮かばれまじく、松王夫婦も聞いたら定めて愚痴が出て、何うせ瓦で御坐いませう、黃金佛では御座いませんと、忌(いや)な事の一ツぐらゐは云ひしなるべし。
 千代の歎きに共涙、『他人のわしさへ骨身が碎ける』と、ベソを搔いたは流石に女、殊勝には見ゆるものから、酷(むご)い事をして氣の毒だとも、主人の爲めだ惡しからずとも一言言譯の沙汰に及ばぬは、身に染(し)みぬ悔みの述べ方なり、相手は得心の上なれど、此方(こつち)はそれと夢にも知らず、沒義道(もぎだう)にやツつけたる一條なるに、覺悟の上と聞いて、それなら先(ま)ア好かツたは圖々(づう〳〵)し、是れでは小太郞の死骸を抱いて出た時、若君が何んぞの時の用心にと、膽を取る考へぐらゐは出したかも知れず。
 春藤玄蕃と云ふ奴、法(かた)の如くの大痴者(おほだわけ)にて、來ると早々松王に、『ヤレお待ちなされ暫く』と一本參られ、それから內へ入つては、源藏の見脉(けんまく)、驚破(すは)と云はゞ斬死もしかねまじきを見ても、根つからそれと氣が付かず、戶浪が『寺、イヤ寺參り』と云つて松王に叱られ、『これが即ち』などゝ甘口な言譯をしても、松王がそれ以上問究めぬを亦怪まず、『檢分の詞證據に出來した〳〵』は、よく出來た箆棒なり、『何にもせよ暇取らすが油斷の基』と、松王と一途(いつしよ)に突立ち上るほど大役を心得てゐるならば、源藏が確に首を討つか、逃支度でもしてゐるか、一寸家來に覗かせて見るがよし、さすれば源藏が奧の間で、小太郞に向つて、『若君菅秀才の御身代り』と言聞かせ、相手が『莞爾(につこり)』と高慢ちやくれた顏をしながら、『潔う首差延べ』てゐる處が殘らず知れ、僞首を摑ませられて歸るやうな氣の利かぬ事は起らぬなり、時平はよく〳〵直(ろく)でなしの家來ばかりを持つたと見ゆ。
 千代は滿更捨てたものでなし、伜を連れて源藏方を訪れての挨拶、詞少なくして用向よく分り、音物(つかひもの)を差出し、子を取殘して行く段取まで、なか〳〵確なものなれど、自分等の名を名乘らず身分を云はず、『此の村外れに輕う暮らして居る者』とばかりは、些(ち)と物足らぬ口上ならずや、尤も前に問合はした時、云つて置いたものとしても好けれど、それならそれで『此の村外れに』など、改まツた事をいふが變なり、爰は一番失錯(ぬかり)なるべし。
 笑顔で連れて來て、覺られぬ間に別れて歸つたは氣丈な女、如何樣源藏如きの刄に命は落さぬ筈なり、併し、我子の文庫に『經帷子南無阿彌陀佛の六字の幡』を仕込んで持込み、二ツに切らして源藏の毒氣を拔いたは、茶番氣がある形、イヤ、文庫で受ける機會(きつかけ)がなかツたら、後から別に取出し、殺されたからの負惜みでは御座いません、コレ此の通りと云ふつもりでもあツたらうなれど、源藏に刷毛序(はけついで)と狙はれるを何れ承知て又出掛けたは、女だてら糞度胸なり、それにしても、ヘン斬付けられたら受けるばかり、その中(うち)には亭主が來ると、高を括つて掛かられた源藏は、何處までの生地(いくぢ)なしと見られしにや、さりとては情なし。
 『伜はお役に立ツた』と聞き、ワツと泣いたは道理ながら、『死顏なりと今一度見たさに』は逆(のぼ)せたり、生血(いきち)を取らせに寄越(よこ)したのでない故、死んだが最後首はなきもの、首がなければ顔も無いは分ツた話、『亡骸なりと』と、云ツて貰ふと、お千代さん一層器量を上げたものを。
 我子の事を『育ちも生れも賤しくば』とは、身柄に似合はぬ僭上の沙汰なれど、是は美しく生れたといふ事の前置を、些(ち)とトツチたのだと負けて置くべし。
 松王の小言によれば、千代は『内で存分ほえた』といふ、さもあるべし、さすれば源藏の方へ行きし時には、眼も泣腫れてゐたらうと思ふに、『來た女房ば尙笑顏』とあるは、前にも一寸感心して置いた如く、實に大した表情家、良人(をつと)に負けぬ瘦我慢の名人といふべきなり、併し後に至り、『其の伯父御に小太郞が、逢ひますわいの』と亭主に『取り付い』た時には、源藏夫婦も少々頭に手を置いたかと思はる、それから白無垢を着込んで來たについては、又少し云ひたき事あれど、それは松王の方て云ふべし。
 松王は身上(しんしやう)有り丈の智惠を振ひしと見え、執念深く企みしが、机の數を檢(あらた)めしは藪蛇なり、戶浪の返答胡亂(うろん)ならば、玄蕃に直(す)ぐ樣、噫危險(けんのん)〳〵、それに女房を二度目に先に遣ツたも物騒な段取、『梅は飛び』を門口で判じ物をやッてゐる中(うち)、若しお嬶が源藏にスパリと殺(や)られて了ッたら何うする氣にや、尤も、相手の武藝を見蔑(みくび)つての事とは思へど。
 女房の歎きを止めんと叱る中(うち)に、『御夫婦の手前もある』と云ひしは感心なり、悲しくないと齒を喰しばるお約束の男がりよるも情があッてよし、なれども、伜が最期の模樣を聞き、『健氣なやつや九つで』と、笑泣をしながらの駄洒落は止(よ)させたかツたり、それに夫婦とも白裝束を着込んで來て、野邊送りとは前の謀計(はかりごと)に似もやらぬ淺慮(あさはか)、若し途中で時平の家來に見付けられたら大事(おほこと)壞(こわ)し、喉元過ぎれば熱さを忘れるのでは、此の松王餘り豪い男でなし、特(こと)に現在の主人を欺(たばか)り、舊恩の菅丞相に盡すといふも筋違ひの忠心、嘘を吐(つ)いてから暇を貰ひ、而(そ)して主從の緣を切ツたのでは褒められず。
 御臺若君小太郞涎くり等、一々論(あげつら)ふに及はず。
 
義經千本櫻 すしやの段
 助平ッたらしきを以て有名なるお里、此奴(こいつ)を今更何(ど)う斯(か)う云ツて見た處で、始まらぬ穿鑿ながら、係り合なれば一應は云はねばならず、先づ、母親を捉まへて、『明日の晩には內の彌助と祝言さす程に、世間晴れて女夫になれ』と、昨日父さんが云はしやれたに、日が暮れてもお歸りのないは、嘘かいなと、耻かし氣もなく婚禮の催促、これでは彌助と乳繰合ッたも不思議にあらず、明治の今日に居さしたならば、緣日や公園の相場を狂はせ、亡後(なきのち)には式部連から銅像でも建てられた事なるべし。
 親爺(おやぢ)と彌助と密々(ひそ〳〵)話の濟んだ處へ、寝道具抱へて立現れ、『二ツ並べてこちや寢やう』とは、本能家大喝采の所、嗚呼淫亂娘のもた〳〵娘、われ等聖人の目より見る時は色氣違ひと云ふの外なし。
 なれども、彌助實は惟盛に、一時の慰み物にされたを知つて泣出し飛起き、若葉內侍に向ひ、『此家の娘いたづら者』と、身の不體裁(ふしだら)を白狀に及び、『情ないお情』にあづかッたと悔んだ處は、はうたゞまだ〳〵正氣がある方なり、但し、『雲井に近き御方に、鮓屋の娘が惚られうか』は信(あて)にならず、前の樣子では危いものなり、梶原が來ると聞いての後(のち)は格別の事なし、惟盛出立の際(きは)、尼になると云ひしかど、『お里は兄に成代り、親へ孝行肝要』と說得されたれば、軈(やが)ては婿を貰つた事なるべし、附いてゐる母親がお人好の佛性(ほとけしやう)、遠慮なしに云へばグウタラベヱ故、何うせキチンとした譯には行かなかツたに相違なし。
 權太と云ふ奴は、思切ツた無法者なり、母親を欺して取ツた三貫目は、『惟盛樣御夫婦の路銀にせん』との考へなりし由、臨終(いまは)の際(きは)の懺悔によツて明かなり、成程、金吾より騙(かり)取ツたる荷物の中の、惟盛の繪姿を見て、彌助の身に不審を打ち、全く然(さ)うなら助けやうと想着(おもひつ)いたは殊勝なれど、彌左衞門夫婦が大切にしてゐる彌助を、不信用極まる自分が横合から落してやる、其の路銀に親の銀(かね)を引出すとは、呆れ返ツた篦棒ならずや、誠惟盛の路銀が入用と見極めたなら、晝間騙(かた)つた二十兩を土臺に、尙外々(ほか〳〵)で騙(かた)るなり盗むなりして銀(かね)を都合し、それを親に渡して梶原の手段(てだて)をも内通し、惟盛を助ける工夫をなすべき筈、こんな猿智惠の慌て者ゆゑ、勝手口より躍出て、『お觸れのあツた內侍六代』などゝ、云はでもの事を怒鳴つたのなり、惟盛等親子三人が落ちぬ前なら威(おど)かして落ちさせやうの計略かとも思はるれど、お里を脅かして見た處て何んにもならず、アヽ世話の燒けた奴ではある。
 唯一ツの取柄は、前髪の小金吾の首を、野郞頭にした手際()てぎはなり、自分の女房忰を、三位中將惟盛樣の御臺若君に仕立て、『梶原程の侍』と我が口から云つてゐる其の梶原を、誑(たば)からうとは亂暴なり、後(あと)になツて、『命を騙らるゝ種と知らざる淺間し』と、悔んだ處で然駄(むだ)な事、何しろ下らぬ破落漢(あぶれもの)と云ふべし。
 若葉內侍は無事の方なり、惟盛に圖(はか)らず逢ひ、『都でお別れ申してより』の始末、小金吾が討死の次第を手短に語りし後、『袖のない此のお羽織此のお頭は』と、亭主の意氣地もなき有樣に泣いた道無(もつとも)千萬。『臥したる娘に目をつけ』て、『斯くゆるかしきお暮しなら』と、怨みを云つたも當然(あたりまへ)、お里の愚痴に同情し、『内侍も道理の詫淚』と、氣の毒がツたも感心なるが、定めし亭主の箸まめなのを苦々しいとは思ひしなるべし。
 權太に出會ひ、『茶汲の姿となり』て、彼れが吹く一文笛の聞える程の處に、梶原が歸るまで忍んてゐたは物騒なれど、惟盛も得心の上一緒の事とて、是れは何とも仕方なし、亭主には氣の利いたのを持つべき事なり。
 彌左衞門は忠義者に相違なけれど、サア一大事といふ際(きは)に、『君の親御小松の內府重盛公』などゝ、悠長な物語、何もこんな處で先祖代々を云ふには當らぬ事ならずや、斯うした氣の長い老爺(おやぢ)ゆゑ、『鳥を鷺と言ひ拔けては歸れども、邪智深い梶原、若(もし)や吟味に參ろも知れず』と、惟盛に現在話してゐながら、サア早くお落ちなさいとも云はず、『遠いが花の香が無うて』と、イケ年(どし)をして馬鹿な口も利いてゐたのなり。
 忠義の一心、我子を刺して、『天命知れや不孝の罪』は、流石以前は武家奉公をした丈けの事ある腹立、爰は無理とも思はれず、權太の善心になツたを聞き、悔み歎きしも道理(ことわり)なり、又陣羽織を取出し、豫讓が例に倣(なら)はせしも思ひつきなり、彌左衞門が是れをやらねば、梶原の趣向何んにもならず、隨つて賴朝の茶番氣も分らねば、惟盛等の身の納まりも付かず、大手違ひになるべき處、これは確に大出來〳〵、それから妻子を跡に、內侍六代の供をして出て行くも、燒け糞のやうなれど、此の場合斯(か)うやる外に仕方があるまじ、として見れば、此の阿爺(おとつ)さん先(ま)ア〳〵缺點(あら)の少ない方なり。
 惟盛は何んと云ふ愚圖にや、『娘がつけた鮓ならば』と評判になる看板娘お里を何時の間にか胡麻化し、若葉內侍が云ふ通り、『一門殘らず討死』と噂のある最中、彌左衞門に能野浦から連れて來られたを幸ひ、鮓屋の居候になツて天晴れの色男氣取り、妬(や)いて云ふではなけれど、實に怪しからぬ行迹(ぎやうせき)なり。
 彌左衞門に事新らしくお談義を聞かられた揚句、『父重盛の厚恩を受けたる者は幾萬人、數限りなき其中に、おことが樣な者あらうか、昔は如何なるものなるぞ』とは、馬鹿野郞大抵にするがよし、熊野浦から月代までさせられて此家へ來り、早くも娘を案文(あんもん)に及ぶほどの身の上で、其の肝腎の主人(あるじ)が以前何者なれば斯(か)く信切にしてくれるかと云ふ事も知らず、イヤ氣の善い兩親だ、娘とイチヤ〳〵してゐる中(うち)には、鮓の拵へ方も覺えるだらう、然(さ)うしたら、彼女(あいつ)と一緒に出店でも出さうぐらゐのノホホン男、此の時まで身の上を語らぬ彌左衞門も彌左衞門なれど、聞かうともせぬ惟盛も惟盛なり、餘まり呆れて物が云へず、と云つて默(だん)まりにもならぬは、係り合の因果なり、今少し痛めてやらん。
 重盛の恩になツた者は多けれど、お前のやうな者はないとは、何程(なんぼ)落目になツたからとて、卑屈極まるおべんちやら、彌左衞門だとて、恩返しのしたさに日本六十餘州を駈廻り、無理に惟盛を引張つて來た譯ではなし、娘を宜くお願ひ申した處が、外に類(るゐ)と眞似なしの忠義となら、此奴(こいつ)今の世に云ふ色魔の類(たぐひ)なり、縱令(よし)然(さ)うまでゝないにしてからが、幾萬人の中に恩を知つた者唯一人の汝のみとは、父の不德を吹聽するに齊(ひと)しく、後先思はぬ不屆の言草たるを免れず、豚兒全く度す可からず。
 お里が先へゴロリとなるや、『枕に寄添ひ』云ふ事が仰山なり、『これまでこそ假の情、夫婦となれば二世の緣、結ぶに辛き一ツの言譯、何を隱さう某は國に遺せし妻子あり、貞女兩夫に見えずの掟は夫も同じ事』と、それほど理窟が分つてゐるなら、何故最初に手を出せしぞ、婚禮さへしなければ、女が兩夫に見(まみ)えるのとは違ふと云ふなら、若葉内侍も式さへ擧げねば、外の男と巫山戯(ふざけ)てもよき理窟ならずや、ト何も赤くなる事はなけれど、惡く道學先生染(じ)みた事を吐(ぬ)かすが癪に障るなり、當時の風習妾(めかけ)手掛(てかけ)はありうちの話、出來たものなら仕方がなし、實は妻子もある事ゆゑ、女房にはされねども、決してお前を見捨てぬとか何んとか、其處(そこ)を正直に云ひさへすれば、此方(こつち)にも亦勘辨の仕樣があらうといふもの。
 斯(かゝ)る不調法な男なれば、『一夜の宿』と賴まれても、『此家は鮓商賣、宿屋では御坐らぬ』との返答、何んたる胸氣(むなき)な業突張(ごうつくばり)にや、若葉內侍ともあらう上臈が、心細い聲を出してさへ此通り、若(もし)も唯の野郞が胴間聲(どうまごゑ)でも出した日には、水でも打掛(ぶつか)けられる事請合なり、第一又鮓屋だよ宿屋ぢやないとは云はでもの事、如何(いか)な間拔でも、何んの稼業か分らぬ家(うち)を、勝手に宿屋に極めて了ふ筈はなし、ヱヽ、ジリ〳〵する程業腹な『靑二才』なり。
 加之(おまけ)の果(はて)に、『重々厚き夫婦が情、何がな一禮返禮と思ふ折抦娘の戀路』、『仇な枕も親共へ、義理に是れまで契りし』との述懷、義理や返禮に人の娘を疵物にするとは、貞女兩夫に見えぬ先生、旨い法を考へたものなり、梶原が來ると聞き、『最早開かぬ平家の運命、檢使を引受け潔く腹掻切らん』と云つては見たが命が惜く、逃げて權太に助けられ、陣羽織を裂いてクリ〳〵坊主とは、到底(とて)も死に得ないと賴朝の見極め通り、イヤ状(ざま)はなし。
 梶原其他は一々文句を云ふ程の事もなければ略す。