FILE 146
【 忠臣蔵人物評論 扁屈道人(銅脈先生) 】
(2022.04.01)
(2022.04.12)
提供者:ね太郎
忠臣蔵人物評論 扁屈道人(銅脈)天明元年六月
慶應大 愛媛大 新日本古典籍総合データベース
翻刻 浄瑠璃雑誌 325-328,330-331
(注)
大澤美夫:「忠臣蔵人物評論」と「忠臣蔵偏癡気論」,経済集志43 別号 pp. 86-96,1973.11.30
銅脈先生全集 下巻 斉田作楽編 pp.127-146,太平書屋,2009.11
忠臣蔵人物評論序
扁屈道人忠臣蔵を讀て。目をむき大きに罵て曰。大星めが大馬鹿。何としてくれうぞ。又莞爾(につこり)と笑て曰。鷺坂殿の忠信。古今例(ためし)少し。大に感心々々。(1オ)扨師直判官を初め。其外の阿良逹(わろたち)も。世間で無上(むしやう)に誉るやら悪(にく)がるやら。一向(いつかう)泥田棒(どろたぼう)な評判。鷺を烏と誤るハ。同じ鳥類なれば見違も有べし。是は蕃薯(さつまいも)を見て。野猪(いのしゝ)じやといふやうな(1ウ)見やう。アヽ盲千人盳(めくら)千人なる哉。去(さる)人の曰。此様な扁屈臭い事をいふてハ。浄瑠璃も語られず。芝居も出来ぬ。こんな事世話焼ずと。さらりと柳にやらしやんせと。鼻唄ましりに若い衆が呵(しか)れ(2オ)ども。此愚老浄瑠璃もいや。芝居もきらひ。微(ちつ)とも構ひに成事でなけれバ。脹(ふく)れた腹を少し耗(へら)さんと。うそ暗い窗の中にてぽち〳〵と書附侍る(2ウ)
忠臣蔵人物評論
高武蔵守師直
師直ハ鎌倉の執事[からう]職足利直義社参に就てハ第一の大役殊更(ことさら)勅使馳走の大小名を指揮[さしづ]して例式作法を教授[をしえる]す。博達[かしこき]聰明の士にあらずんハ此役義勤り難し。然るに塩谷判官等此度馳走の役義を蒙り、万事師直が引廻しに預り時宜(しぎ)の指圖をうけ、殊にハ礼法古実(3オ)の師範なれバ諂(へつら)ふにてもなく阿(おもね)るにてもなく身分相應の謝義[しうぎ]贈り物ハ有べき筈なるに。是まで何の会繹にも及バす剰(あまつさへ)舘におゐて女房よりの文箱を手づから達し師直に恥辱を与へんとする仕方、言語道断不出来の至りなり。きかぬ薬を飲てさへ相應の謝礼をするハ世上の習ハし。ましていはんや判官等師直なかつせバ座頭の杖を失ふごとく、忽役義の勤まらぬハ目前。郷右衛門等が吝嗇[しわい](3ウ)から起る事とハ云ながら、師直の立腹むりならぬ事也。若狭之介ハ本蔵が計(はか)らひにて師直が取成(とりなし)もよく役筋首尾よく勤。第一ハ君への忠義、身の面目ひとかたならぬ手柄と云べし。世間只師直を譏(そし)る、役筋一途におゐて少も瑾(きず)なし。只判官が妻かほよに戀慕の事、師直が不調法也。併(しかし)文歌(ふみうた)などの徃来(わうらい)斗(バかり)にて聢(しか)と密通したるにもあらざれハ、さまで咎(とがむ)る程の(4オ)事にもあらじ。或人の曰師直程の侍か判官に切かけられて抜合(ぬきあハ)せもせず迯(にげ)隱るゝハ、比興(ひけう)の至りといふべしや。予が曰しからず。是ハ直義社參の本陣、殊に勅使饗應の折柄(おりから)なる故に塲所を憚り抜合せざる也。かゝる急塲に望ても君臣(くんしん)の義を重んず。進退礼を守るの士(さふらひ)といふべし。然る故に判官にハ切腹抑付られしかども、師直にハいさゝかの咎(とがめ)もなし。是等にても考(4ウ)知るべきなり
○塩冶判官高貞
上使攝待(あしらい)にハ極れる法式あり。判官其礼を知らず。上使に出會(しゆつくわい)するに當世様の長羽折、第一失礼也。上使書院へ通り座に着か着ぬうちに、御盃の用意せよ抔(など)つまらぬ事なり。尤祝義事とかいふやうな節にハ、上使へ饗應ある事、是又礼式也。此節(このせつ)迚(とて)も上使の前にて盃など申付る(5オ)事不礼なり。兼て勝手に用意有べき事也。殊更今日の上使ハ切腹の檢使と兼て覚悟ならバ猶更の事也。其上上使の前にて帯を解(とき)衣服を脱(ぬぐ)事これ又失礼なり。切腹の期(ご)に臨んで由良之介ハまだかへらぬかと度(たび)〳〵のよまい言(ごと)、未練の至り也。灸婆々(やいとばゞ)してから乳母を尋る小児の心にひとし。武士の恥べき所也。此余ハ師直が條下に記(しる)すれバ再び是を論ぜす。誠に酒興か(5ウ)血迷ふたかに相違ハ有まじ。
桃井若狹之介安近
舘にて師直に恥しめられ、無念一心に凝り、已に討果すべきに所存を極め、家老加古川本蔵に輕からざる誓言を立させ意趣を明し、且また本藏に励されしうヘハ、是(ぜ)にもせよ非にもせよ、思ひ込だ一念を仕通すが武士の意氣地。夫がぐわらりと相違して、かすり疵だに負(おほ)せずね(6オ)たば合せし、刀の手まへも面目を失ひ、屋敷へ帰り本藏へ何と云訳すべきや。家来とハいゝながら、武士に誓言まで立させて極めし胸が此やうに飄(ひるがへ)り、女童(をんなわらべ)の遊事(あそびごと)見る様に成て氣の毒千万。しかし若狭介若輩の事なれバ挙て論ずるに足らず。
大星由良之介義金
其主判官没して後忠士を集め旦夕(たんせき)仇(あた)を(6ウ)報ひんことを議(はか)り山科に蟄居して竊(ひそか)に銳氣[するどきき]を養ひ、時節を伺ひ終(つい)に敵師直を討取事、如何にも唐土(もろこし)の豫譲にも恥べからず。然れ共治世の良臣とハ云(いふ)へからず。かほどに忠義を盡すの心あらば、かやうに敵討などゝいふ様な禍(わざハひ)の出来ぬやうに、兼て計らふべき筈なり。身ハ家老の職分一國一城の権柄(けんへい)を握る由良之介、ヶ程(かほど)の大事出来するまで安閑として国に居るハ何事(7オ)ぞや。是その一。主人判官短慮故の事抔(など)とのへらず口、左程短慮なる性質[むまれつき]をよく存じ居らバ、何ゆへ由良之介早速(さつそく)鎌倉へ罷越(まかりこし)、馳走役を御断(ことハり)申さざるや。主人御受申せしを家老の請(うけ)ざる例(ためし)、古今少からず。短慮といふも本(もと)癇疾[かんしやく]にして、平生(ぜい)ハ無事(ぶし)のやうなれども、身におゐて大病也。大病を以役義(やくぎ)辞退するに、誰か是を不埒(ふらち)といわんや。是其二。力弥が一力ヘ持参せしかほよの(7ウ)密書人多き揚屋の座敷にて披見し、たちまちかる九太夫両人に見付られ、無念の餘りかるを身受し殺さんと迄計る不仁(ふじん)のふるまひ、是又自分の思慮うすく大事を思ひ立ながら酒色に耽るゆヘ也。是その三。手負の九太夫に大事を明す事ハ、是ハ鴨川で水糝(ミづぞうすい)を食(くハ)して仕舞ふつもりゆヘ、他へ泄(もる)る事あるまじけれども、人出入多き揚屋の内餘人の見聞(ミきゝ)(8オ)をも憚らざるハ不念(ぶねん)の至也。是其四。蛸を喰た其時ハ四十八の骨々が碎るやうに有たとハ、定而(さためて)主人の逮夜に據(よんどころ)なく精進を落(おち)たといふ事成べし。左程逮夜を太切に思ハヽ其夜茶屋遊興ハせぬ筈也。蛸を喰ふよりも不慎(つゝしミ)の至り也、是其五。夜討の時に雨戶をはづす由良の介が工夫、竹をたわめて絃を張(はり)、鴫居(しきゐ)鴨居にはめ置て一度に切て放す時ハ、鴨居たわんで(8ウ)溝はづれ障子のこらずばた〳〵〳〵と、由良之介が侘住居の鴫居(しきゐ)鴨居は竹の力にてもゆるミたわむべけれども、師直ハ大名、屋敷も堅固に建まへも丈夫なるべし。中〳〵竹の力を借(かつ)て雨戶をはづす事心得がたし、是その六。由良之介天河屋義平に謂(いつ)て曰、亡君御存生(ごぞんじやう)の折ならバ一方(いつハう)の籏大将(はたたいしやう)、一国の政道を御あづけ申たとて惜からぬ御器量と左程(9オ)に思ハヾ、判官存命(そんめい)の節(せつ)吹挙して、一国の政道ハ預けずとも何ゆへ武士にハ取立(とりたて)置ざるや、賢を知て挙ざるハ不忠の至り也。今始て義平が賢なるを探(さくり)知たるにあらず。其證據ハ泥中の蓮(はちす)沙(いさご)の中の金(こがね)とハ貴公の事、左もあらんさもそうづと見込んで頼んだ一大事。此由良之介ハミぢんいさゝか御疑ハ申さぬといへり。是(これ)従来[まへかたより]義平が心腹(しんふく)を能(よく)知てゐる(9ウ)ゆへなり。知らずんバ何ぞ此度の一大事をふか〳〵と頼むべきや。しからバ則主人存生(そんじやう)ならバ一方の籏大将、一國の政道を預るのとハ誠に九太夫が所謂ぬらりくらりの正月詞(ことバ)にして、一時義平におもねるの虚談[うそごと]也。是婦女の心にして武士の取ざる所也、これ其七。由良之介ハ判官の家老、義平ハ判官へ出入の町人、格式をならへ論ずる時は玉と炭團(たどん)ほどちがふ身分。夫に何ぞや(10オ)由艮之介長持より出るがいなや義平に向ひ手をつかへ、扨〳〵驚入たる御心底なとゝ甚(はなハた)相違の礼節なり。浪人したるゆへ身を卑下するといふ謂なし。殊更亡君の仇(あた)を報ぜんと旦夕心をつくす由良之介、浪人しても家老なり。出入の町人へ對してハ万端(ばんたん)詞付(ことハつき)丁寧過る所あり。是主人より受る所のおもき職分を陋(いや)しむるに似たり、これ其八。取手(とりて)を以て義平(10ウ)を囲ひ心底を試る事、是もせまじき事にはあらねども、今夜鎌倉へ出立する期(こ)に望んで、心底を試ミたとて何の益かあらん。左ほど疑しく思ハヾ、㝡初(さいしよ)何事も頼まぬ前に試ミるがよし。今義平に異心あらバ何とする事ぞ。前後不都合の仕かた、これ其九。敵(かたき)師直を討取て牌前[いはゐのまへ]にて焼香の節、第一ばんに十太郎ハ尤の計(ハから)ひなれども、第二番に勘平(11オ)に焼香させる道理なし。主人判官大切の役義を蒙り一世一度のはれの登城、其供先にて女に戯れ足利直義八幡宮社参の陣所を穢し、剰(あまつさへ)主人判官が大切の場所にも有合さず、其場より女の親里へ迯行(にげゆき)、古傍輩(こほうばい)の千崎弥五郎に出合、面目なさの詞の塩に用金を調へ、それを力に御侘などゝ云かゝりに成て、出来もせぬ金の才覚に舅までを人手に(11ウ)かけ、敵討の場所へも出ず犬死したる勘平、先(まづ)第一義士の連判に加るべき人柄にあらず。女に委る根生を以主人の仇を報ひんなどゝハ、鷹の真似する鳶と云べし。殊に赤心の忠士数人を差越(さしこへ)二番に焼香さすべき謂なし、是其十。也餘はこと〳〵く筆頭に盡難し、故にしバらく是を舎(おく)
斧九太夫(12オ)
九太夫ハ能(よく)物を、未萠[いまだきさゝざる]に察す先見[ゆくすへをミる事]明らかなる人といふへき歟(か)。郷右衛門が曰、花は開く物なれば御門もひらき、閉門も御赦さるゝ吉事の御趣向といへり。九太夫ハしからず。此度殿の越度輕ふて流罪重ふて切腹といへり。果して判官切腹なり。扨又我子定九郎が平生(へいぜい)の行義(ぎやうぎ)を見て行末を察して勘當せり。果して定九郎盗賊辻切(つぢきり)をなし、終(つい)に人手(12ウ)にかゝる、是先見見へすく程に明らかならずんハ、何ぞひとりの子を勘當せんや。只惜むらくハ国家の菑害[わざわい]を未萌(ミほう)に察せざる事を
加古川本藏行國
若狭之介が若氣の短慮を諫めず、却て悪行(あくきやう)を励し勧め、裏より廻て師直へ賄賂[まひない]の進物、此計(はかりこと)極て拙し。是等を表裏の侍と云ならじ。然れ共由良之介に比すれバ、本藏を(13オ)優(まされり)とす。拙き計(はかりこと)といへども主人恙なく役義を勤させたるハ時に取ての功と云べし。虚無僧に成て京へ上りむこ力弥が手に懸(かゝり)て娘の縁談を極(きハむ)る事、子に迷ふ親心とハいへども、まちつと仕様も有そふなもの。委しくハ九段目を考(かんかふ)へし
鷺坂伴内
伴内ハ忠臣藏中第一の忠臣也。旦夕(たんせき)師直に近侍して一も心に違ハず、竊(ひそか)に妙計を以九太夫を(13ウ)なつけ、深く敵中に入て大星か渕底(しんてい)を探る。しかのミならず師直㝡期(さいこ)の時節にハ紛骨碎身[ほねをこにしミをくだき]忠戦(ちうせん)をなし、所をもかへずその場にて討死したるハ遖(あつはれ)忠臣、敬(けい)して不違(たがハす)労(らう)して不怨(うらミず)能(よく)主(しう)を知ると云べき也
大星力弥
殿の御氣を慰めんと鎌倉山の八重九重いろ〳〵桜花を献ずる事はなハだ不審也(14オ)主人判官ハ扇が谷の上屋敷、大竹にて門戸を閉て嚴しき閉門なり。しかるに鎌倉山の桜を折来るハ、力弥に羽でもはへたか、よし羽有とも閉門を飛越出入(いている)事、足利家を恐れざる不届(ふとゝき)のふるまひ也。万一露顕せバ主人判官罪に罪を重ぬる事也。慎まずんバ有べからす。且又小浪と縁組云約束(いひやくそく)した上は、力弥が為には本藏ハ舅なり。然るを鑓玉に上る事、(14ウ)いかゝぞや。㝡初(さいしょ)より力弥在宿の事なれば、ヶ程にむつかしき取合(とりあひ)にならざる内にかけ出て取さへざるや。一方ハ母一方ハ舅、いづれに怪我過(あやまち)が有てもすまぬ大切の両人、其音(をと)を聞ながら奥にすつこんで居る事、甚不埓なり。本藏が心底打あかした上、左あらバとて小浪を妻(さい)に極めし事、其趣意聞へがたし。此類委しく吟味せバ猶有へけれ共、若輩(15オ)者の事なれバ強て論ぜず。由良之介が丸めし雪の隠(なぞ)、力弥解(とき)得て甚妙也。父由良之介が日影者の比諭[たとへ]極めて拙し、空中(くうちう)塩を散(ちら)すと云べし
早野勘平重氏
勘平ハ人を殺し金を取(とる)大賊也。後日にこそ親の敵といふ事知れたれとも、殺せし時はしんの闇、旅人を殺し金を盗ミしに相違(15ウ)なし。是大賊の證據也。それハさて置、宿所へかへりゐる時、舅与一兵衛人に殺されたとて戸板にのせて持来るに、いかに我(わが)殺した注文に合バとて、何ゆへ死骸をあらため見ざるや。極て殺したに相違なくハ、せめてハ死骸になりとも一通り誤り殺すのことハりを述て、而后(しこうしてのち)に切腹せざるや。よし舅ハ横死にもせよ(16オ)病死にもせよ、それなりにして見向もせぬハいかゞの心ぞや。我家(わかいゑ)の飼犬でも死(しん)だと聞ば、人にたゝかれて死だか、マチンても食(くら)ふたか、切られても死だか、病でも付たかと、一應は見とゞけてから取捨(とりすて)させるが人情なり。いかんそ舅の死骸を改め見ざるや。是則鉄炮疵にあらざれハ切腹にもおよバぬ事なり。不念(ぶねん)の至りと云(16ウ)へし。かやうな麁相者、何ぞ敵討の仲ヶ間に入べき。餘は大星の條下に委しく論じたれバ此に略す
按ずるに足利尊氏時代にハ鉄炮なし、弓にて有べし。文字の誤りたるか又後世の杜撰か後人よろしく可考(かんがうへし)
戸無瀬
となせハ誰が娘なる事をしらず。うたがふ(17オ)らくハ花車か仲居のなり上りか女郎の果(はて)歟(か)、極めて侍の娘にてハ有まじ。判官より力弥使者の節、小浪に取次させんとて、いつハつて積(しやく)をおこし、アイタあいた家老のおく様ハ氣を通してぞ奥へ行。これ何の事ぞや。ひつきやう花車風(くわしやふう)の粹だて、武士の女房ハかくハはからハし。いはゞ判官より若狭之介かたへ大切の使者、(17ウ)家来の女房の取次さへいかゞしきに、小尼[こめろ]に取次がす事はなハだ濟ず。第一使者へ對しての失礼、ニツにハ若狭之介が屋敷の風義自堕落に見えて外聞あしし。よし使者ハ云号(いひなづけ)の聟にもせよ、今日ハ表向の使者なれば左ハはからハぬはづ。ことに山科へ行ての大不出来。一々かぞふるにいとまあらす。詳(つまびら)に九段目に見えたり(18オ)
石
石は実(まこと)に武士の女房なり。詞のはし〳〵きつとして、和らかに柔(やわらかき)も茄(くら)ハず剛(こわき)も吐ざる勢あり。戸無瀬等と同日の論にあらず
天河屋義平
義平ハ男だてなり、外に論なし。しかし何にてもあれ家老職の由良之介より(18ウ)贈物とあらば、先(まづ)一應ハうくべきはつなり。礼物受ふとて命がけのおせわハ申さぬとの一言、はなハだ卑しうけぬ、のミならず進物を足にて蹴飛□事、此上もなき非礼也。町人の町人たるゆゑん
大田了竹
吾(わが)かゝらねバならぬひとりの娘を義平へ嫁につかハし、二三年も連そふたうへ何の訳も(19オ)いはずに親了竹方へかへし預置(あつけをく)。了竹も聟の事なり娘の事なり、據(よんどころ)なく一旦ハあづかり置(をく)物の様子知らねば心許なく、後日(こにち)に聟義平かたへ行子細をたづぬれ共云(いハ)ず、しからバいつまで預り置も迷惑也。今までの通りに引取れハよし、それもならずバいつそいとまを遣されぬかとの相對(あいたい)は、自然の道理にて了竹に少しも無理なし。われ〳〵ならば(19ウ)㝡初(さいしよ)預る時に訳を正し、隙取ものか預らぬ物か此ニツの外に出じ。さすが了竹老ハ醫業もせらるゝ程の人物ゆへ、学問もあり心におのづから優なる場所もありて、先何角(なにか)なしに預り置事誠に温厚の君子といふべし。世間此人をそしる事謂なし(20終オ)
天明元歳丑六月
書林 寺町通姉小路上ル
錢屋惣四郎(20ウ)
浄瑠璃雑誌 325(1933.8)pp.11-12 忠臣藏人物評論[(一)] 忠臣藏は古今の名作名狂言にして淨瑠璃の獨參湯と天下萬衆が公許し誰一人異議をいふものなかるべし、然れども見方とり樣によりては又色々と異るものありて世間は廣く人間は多し腦髄は種々賢愚と眞面目と洒落と滑稽、狂言綺語、これ程の區別を辨へ偏屈道主人の忠臣藏人物評論を読む事強ち無價値と斷ずべからず。理窟は捏ね樣、味噌はつけ樣によつて盬梅よし、味噌くそ混淆の野暮を超越した所を味はるれば幸甚、本評論必ず珍らしきもの新しきものと早合点し玉ふな。(六字庵怠佛)、 序文、高武藏守師直
浄瑠璃雑誌326(1933.9)p.14 忠臣藏人物評論(二)盬冶判官高貞
浄瑠璃雑誌327(1933.11)pp.8-9 忠臣藏人物評論(三)大星由良之助義金
浄瑠璃雑誌328(1933.12)pp.12-13 忠臣藏人物評論(四)斧九太夫、加古川本藏行國、鷺坂伴内、大星力彌
浄瑠璃雑誌330(1934.3)p.5 忠臣藏人物評論(五)早野勘平重氏、戸無瀨、お石
浄瑠璃雑誌331(1934.4)p.11 忠臣藏人物評論(五 [六])天川屋義平、大田了竹
なお、末尾に 「文政二己卯年七月下旬 川崎久茂写」と翻字されている。