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【吉田榮三の歎息−續「文樂物語」(その三)】

(2019.12.09)
提供者:ね太郎
吉田榮三の歎息−續「文樂物語」(その三)
 改造 1940 9月号 pp236-251
 (のちに 『續文樂の研究』収載 pp55-82【昭和十五年初夏稿 十六年七月改修とある】)
 
 大阪の百貨店高島屋の舊館の裏通り、鰻谷の狭い通りに小さなお寺がある。その餘り大きくない寺の前に、如何にもその住み手の人柄を思はせるやうな、小ぢんまりした一軒のしもた家がある。このあたりも大阪流にそれぞれ商賣家ばかりであるのに、この失禮ながら小さい家だけは、一見商人の家でない。かといつて金持の隱宅にしては小さすぎ、質素すぎる。大阪に多いある種の控へ家にしては、何となく色彩がなまめかしくない。勿論役者や文士のやうな、變つた仕事の人人の家らしくはない。
 それでゐて更に變つてゐるのは、その小さな格子戸の入り口の傍に、「百草根代理店」といふ細長く小さい藥の看板が掲げられてゐる點である。で、これは「藥屋」かと思ふと、看板こそ「百草根」といふ以上、藥らしいが、一切外の藥品は見當らない。−−何といふ不思議な家!しかも、度々いつたやうに小さいが小綺麗に掃除は行届いて、主人が決してやりつ放しでないらしいのはよく分つてゐる。
 この物靜かで、古びた小さいながら、何となく異様な印象を與へる家! それこそ私がこれから禿筆を振つて書かうとする所の、文樂座の人形遣ひの紋下格として名實共に當代第一で、技倆は正に名人の域にはいらうとしてゐる吉田榮三氏の家なのである。
 併し、かういへば、忽ち大抵の人が「成程」とうなづかれたであらう程、この變つた感じの家は、人形遣ひなる凡そこの人生で變りも變つた仕事の人の住み家なのであつた。風變りな印象は道理であつた。尤も、我々も變つた方の仕事の人間に違ひないが、その數は實に意外に多數であらう。毎年出る「文藝春秋」社の手帳に出てゐる諸氏や、「文藝家協會」の會員の名簿を見てさへ、その數は實に夥しい。私などその名前だけで顔すら全く知らぬ人が多いのに驚く。が、この人形遣ひに至つては、大阪の文樂座全體でさへ今はやつと三十人にすぎない。その外に文樂式の精巧な「三人遣ひ」の人形遣ひといふと、日本廣しと雖も淡路島の一隅と、東京市の一隅とのみであらう。淡路島は、私は前年見學に行つて調べたが、今では人形淨瑠璃の座が、大體三つ程度で、一座の人形遣ひは、文樂より尠く廿人内外と見ていい。東京市の一隅のも同じく一座でその範圍以下であらう。して見ると、この變つた仕事は日本全國でさへ、僅に百人程度に尠い。文士も或はその程度といへようが、文士はその程度としても、失禮だが世に「文士の玉子」は無數である。それは文運を盛大にするわけだが、「人形遣ひの玉子」だけは、恐らく日本に一人もないであらう。將來の人形遣ひの玉子として、どこかの片田舎で人形遣ひの風雲を望んでゐる青年などは全く考へられない。と、かう考へてゆくと、この人生で凡そ變つてゐて、珍しい仕事といふと、何よりも第一にこの人形遣ひであらうと思ふ。それ故にその「親玉」の榮三の家が、何となく變つた感じであるのは、いはば「餅は餅屋」であり、名は體を現はす類であらうか。
 けれども、「百草根代理店」の看板は不思議である。榮三氏が内職にそんな藥の小商ひでも始めたのかと、下らぬ想像をするにしては、榮三は潔癖すぎ、人柄がよすぎる。そこで私は榮三氏をも亦十三年ぶりの訪問だが、挨拶をすますと、それとなくこの「百草根」の理由を遠まはしに訊ねて見た。
 と、榮三氏がいふのには、人形遣ひは「藝」の仕事と共に立派な「勞働」だ。殊に、榮三のやうに立役の人形を遣ふ者は、その大きな人形の目方だけでも、女形以上に長い間には身にこたへて來る。それに明治五年生れでもう七十に近い身は、近年は腰が痛む。肩がこる。足がしびれる。身體の骨々節々が重い人形を持つ力業で痛み通す。その上、文樂座は人形淨瑠璃専門の小屋だから舞台が完備してゐるが、困るのは東京(地方巡業も同じ)で興行すると、明治座あたりは元來劇場だ。お客には見えぬが、あの舞台の「廻り舞台」に實に惱む。それはどの劇場も芝居の以上、「廻り舞台」があるが、あの「廻し」の丸い板と舞台の下の板との切れ目(註、劇場の舞台は一面に板ばりと見てよく、その中に「廻り舞台」をえぐつて造られてゐるわけ。)が實に危險だ。特に、榮三のやうに身體が小さくて立役の人形を遣ふ人は、人形遣ひのはく下駄を、人並より一層高く、尠くとも二三割は高くしなければならない。その人より高い下駄をはいて、重い人形を持つて歩く時、その下駄が右の下の舞台と廻り舞台との切れ目にふれると、實に大變な危險になる。どの劇場にも舞台と、その切れ目の廻しとにでこぼこがあるが、足許で僅か一分のでこぼこでも、高い下駄をはき、兩手で人形を持つて、全く手を奪はれてゐる身では、肉體全體として一尺位の凸凹の危險になる。その下の板のでこぼこが二分なら、肉體には二尺、三分なら三尺といつた比例で身體に響く。だから人の三倍位のあし駄をはいて、石ころや岩のある山道を、兩手を縛ばられて歩くのと同様の危さになる。(寫眞は下駄をはいた足許)
 それ故に、東京その他の地方巡業の劇場へ出る時、榮三は舞台でどれ位この危險に出會つたか知れない。足許に文樂座の時の二倍、三倍の力を入れぬ以上、下の切れ目にひつかかると打つ倒れて大變な怪我をするからだ。それを用心するため、足と腰とに力を入れる結果、愈々足と腰とが痛み出したわけである。
 所が、近年東京へ興行に來た時、榮三が足いたや腰いたに惱むのを知つてある人が、これを塗つて見てくれといつて、貰つたのがこの膏藥の「百草根」だ。つけて見ると意外によくきく。そこで榮三は大阪へ歸つてからも、直接それを東京の京橋の發賣元から取り寄せた。そして同じ苦痛に惱む文樂の人に分けてやつた。と、大抵の人々にも利いて榮三に又取り寄せてくれと註文する。そこで榮三がその代理となつて本店へ註文する。−−これが結局半年程續き、代金で五十圓程榮三が註文した頃、先方からよく買つて貰ふから、何とかお宅をこの藥の特約店にしてくれとョんで來た。そこで榮三氏も向ふのいふなりにして今日に及んだ。「百草根代理店」の看板はかうした理由である。が、いつも生眞面目で餘り笑はぬ榮三が私に「いつの間にか藥の代理店になつたりしまして、それを思ふとをかしうてな。」と、くすくす笑ひ出したものである。……
 一方、私は私で京橋の「明治製菓」へ勤めてゐるT君[注]が、私の近所の藥屋から、近頃時々大阪の文樂の人形の榮三氏の家へ、大きな箱の荷物を送つてゐますが、あれは一體何でせうといつたのを思ひ出した。そしてその妙な荷物がこれと分つて、私も亦噴き出した。……
 併し、さうして足腰を痛める程、人形遣ひの苦が、意外な所にあるのを教へられて、私が平素から考へてゐた人形遣ひ位、夏は暑苦しい仕事はあるまいといふ話題を提出して見た。これは私が夏が殊に嫌ひで、持病のため、夏の暑さに毎年どれ位苦しむか知れぬ結果、ついさういふ察しがつくからだ。それは人形遣ひは人形を持つて直立した一人、その人形の左手を脇きから、やや前へかがんで遣ふ一人、足ばかりを專門に持つて遣ふ一人共に、舞台に出てゐる以上は、殆ど自分の手を自由に動かせないからだ。役者ならどんな大役をしてゐても、例へば「勸進帳」の辨慶のやうな最も精力を使ふ役であつても、時々後へ行つたりする動作、蔭へ廻つて息をぬくすきがある。そしてその時一寸顔を直したり、汗を押へたり出來る。が、人形遣ひはいつも手を人形に奪はれてゐるため、それが出來ないし、第一芝居のやうな意味の專門の後見がないから、顔に流れる汗を後をむいてふかせたりする餘裕がない。成程夏は帷子の着物を着てゐるが、役者と違つて腰を掛けたり坐つたりする事はない。舞台に出た以上常に直立の姿勢なのは兵隊のやうである。で、私は夏の暑さを思ふと、いつも人形遣ひの諸氏の暑さを思つてゐた。榮三氏にそれをいふと、「へえ、さうです。夏は子供が傍へ來ても暑苦しいのに、我我は三人かたまつてゐるのですから、その暑さは話になりません。」
 誠にこのやうに、人形遣ひは何の因果か大抵一つの人形を三人で集つて遣ふのだから、お互の温氣はこもつて、一人がそれぞれ三人分の暑さを感じるわけでないか。この「察し」は強ち私一人の思ひすごしでなかつた。榮三は顔をしかめて夏の暑苦しさを喞つてゐた。それだけにその夏の樂屋を見ると、人形遣ひ位、誰も彼も裸でゐる人種はないと思へる程、全く「裸の道中」のやうである。勿論近年各劇場に冷房装置はあるが、人の知るやうに大抵の劇場の冷房は客席だけだから、舞台で働く人々は冷房の恩典に浴してはゐない。
 そこで私は思ふ。この世の中で一番暑い仕事は汽車の機關車の火夫、工場の釜たき、それから多分人形遣ひであらうと。聊か誇張のやうだが、人形遣ひは何百燭光の電燈の下で手に人形を持つて突つて立つてばかりゐる以上、それは炎天に大きな鞄を兩手に一つづつ提げて立つのと同じ理窟だからである。時節柄珍しく暑い仕事故に、「百草根代理店」の由來と共に併せて誌上で敬意を表しておかう。
 二 故榮之助の話
 私が既に書いた鶴澤友次郎の述懷で分るが、文樂座は三味線のみでなく、人形遣ひにも後進の者がはいつて來ない。即ち、新しく人形遣ひを志望する少年は絶無といつていいやうである。
 けれども、日本の傳統藝術が大抵さうであるが、更に人形遣ひだけは少年の時から修行せぬとものにならぬ。それには理由がある。先づ人形遣ひの修行は、この道へ入ると、最初は見習ひとして、師匠たちの舞臺用の下駄を持ち運んだり、小道具の始末をする。それから上手や下手の出入り口の小幕をあけたり、しめたりするのを手傳ふ。又は木(文楽ではカゲを打つといふ)を打つたりする。これを四五年やつてゐて、大體舞臺のコツが分ると、そこで初めて輕い役の舞臺で科や詞のない役の足を遣ふやうになる。だが、この輕い役の足を遣ふだけでさへ、足は下へかがんで持つて動かすために、背が高くなり、大人になると到底本當に遣ひ切れない。つまり、まだ一人前の大人にならぬ中、いはば骨が硬直してしまはない少年期の延長時代に、本當に足を遣ふ秘傳を知つてしまはぬと、立派な人形遣ひになれるわけがない。
 併し、近年は尠くとも義務教育を了へて人形遣ひになるため、十三四歳で斯道へはいつたとして、それでは生理的に少し手後れな位だ。が、それは日本人の以上、仕方のない義務として不可抗力とはするものの、再びいふが、小學校を出た者で斯道へ來る少年がない。萬一稀にあつたとして、今の人間であり、父兄がある以上、すぐと「將來の保證」を問題にして來る。何年たつとどういふ給料になるかの條件を問はれる。それは如何にも當然な話であるが、榮三、文五郎共に斯道の大家ながら、松竹の一使用人にすぎぬ以上、將來の問題となると、どの程度に責任を持つていいか分らなくなる。自然折角志望者を見つけ出してゐて、その儘物別れになる場合が多くある。
 といつて、少年の志望者を求めぬと、斯道の衰微を來す外に、先づ足を遣ふ若者がなくなつてしまふ。尤も、足を遣ふにしても人形の「勸進帳」の辨慶のやうな大役、又、景事物の「千本櫻の道行の忠信」のやうな役は、足が中々むつかしい。それらは踊りの手の一つも知らぬと遣へぬ役故に一人前に出來る人形遣ひが、特に足を遣ふが、それ以外、人形の足だけは若い者でないと、既述の理由で大人では却つて不適當なのだ。そこで榮三にしろ、文五郎にしろ、何とかしてこの「足」のために少年の志望者を捜す外なくなる。それが必要なのは實に「足」のためといふのも不當でない。だが、志望者がない。そこでこれらの元老の人々は、それを求めるには困りぬいてゐるやうである。
 但し、榮三は苦勞した末、やつと一人の少年を見つけた。それは四ツ橋に新文樂座が出來た昭和五年であつた。小學校を出たばかりの十六歳の少年をやつと捜し出した。そしてこれは吉田榮之助と命名した。(寫眞參照)が、手堅い藝風を以て傾く人形遣ひの藝格を、獨力で支へてゐるやうな榮三故に、やはり手堅い用意を考へた。他人といへ一且自分が引受けた以上、この多難な方面へ入れて將來生計に困るやうにしては哀れと思つた。そこで徴兵檢査がすんで、一人前の廿五歳位になつた時、給金だけで生活が覺束ない仕事とて、小さな借家をし、女房を貰つてやるやうな時、その女房に小商ひをさせて、家賃と米代位を揚げさせよう。そのためには廿五歳なり、廿七歳なり迄の十年餘りの間に、出來るだけ貯金をしてやる。そしてそれを資本にして、女房に内職の小商ひ、榮之助には人形の方を勉強させる。と、かう榮三は堅い生活法を考へたのである。
 そこで榮之助が弟子ときまると、それを自家の内弟子とし、寝起き、食事、着物萬端、榮三は自分の子か何かのやうにすべて自費で賄つてやつた。そして文樂から給金、恐らくそれは極めて少額の金であらうが、それを殆ど全部貯金してやつた。その上、兎に角斯道の第一人者の榮三だ。何かの用で目上の人や、相當の人の所へ榮之助を使ひに出すと、多少の御祝儀を貰つて來る。さういふ金を全部貯金しておいたのである。
 が、それから約六年間たつて榮三の深切な心掛けの貯金が、積り積つて千百四五十圓になつた。榮三は本人にははつきり知らさずに、もう一と息だと思つて、本人のために前途の光明を祝つてゐた。所が、その六年目の昭和十一年一月榮三の丹精の結晶の榮之助はふと風をひいた。そしてほんの暫くねてゐてぽつくりと死んでしまつた。
 榮三はいふ「弱りましたな。折角私が一人前にしてやつたのに、急に死なれましてな。もうそれから弟子をこしらへるのが嫌になりましてな。」
 と、彼は歎息する。全く榮之助を育てるのに苦勞した彼は、もう一度これを繰り返す根氣がなくなつたといつてゐる。かといつて若い者を求めずにゐるわけでない。すてておくと「足」を遣ふ者に困るやうになる。だが、松竹はそこ迄人形遣ひに就て深く考へてゐない。そこでいづれかといふと明るくて、からつとした職人肌の氣質の榮三さへ、この後進の問題で私へ對して甚だ憂欝になつてしまつた。そして更に「私はそれで頭を使ふてゐます。一體どうしたらよいかと、本當に頭を使ふて…」
 重ねていふが、朗かな榮三が「頭を使ふて、頭を使ふて」と繰り返へす。名人ながらああいふ單純な肌合ひの人がいふ「頭を使ふて」の歎息は、それはインテリの歎息より、ある意味では深く眞劍な氣さへする。それは「鬼のかくらん」のやうに、丈夫な人間が生れて初めて病氣になつて苦しむやうに、さうした熱氣を以て一圖に私に迫るのを禁じ得なかつた…。三、嫌ひな役
 やがて人形の藝談をたたかはす。夙に私はこの人の識見、教養の正確、非凡を斯道第一と推してゐるが、所謂「學問」はなくて、これだけ一見識を持ち、傳統を確保してゐる人形遣ひは珍しい。それだけにこの榮三や、女形専門の文五郎以外、文樂の若い人形遣ひに人材がないのが情ない。若い文樂研究家の人々の話を聞くと、それらの若い人形遣ひは殆ど修行の心がなく、太夫が語る淨瑠璃さへ丸で知らない不勉強加減だといつてゐる。その中で一人榮三の弟子に扇太郎といふ人がゐた。これは私も榮三の樂屋で再三會つて知つてゐるが、いつも榮三の傍で、話し合つてゐる藝談に耳を傾けてゐた。人間もおだやかで感じのいい人であつた。無論榮三は信ョしてゐたし、誰もが有望と認めてゐた。その人さへ、不思議に同じ昭和十一年二月突如死んでしまつた。まだ四十二歳の油の乗りかかつた人で、もしこの人が健在なら若手の紋十郎あたりに、十分對立出來るわけであつた。さういふ意味では榮三は「弟子運」がない。氣の毒である。
 扨、榮三が人形を遣ふ場合、最も困るのは近松物の研究的上演だといつてゐる。即ち、近松物を原作本位で復活上演する時、淨瑠璃の方は稀に節づけが殘つてゐたりするし、兎に角語るだけだから、なまじ傳統が分らぬだけどうにかお茶はにごせる。だが、人形は全く演技が絶滅してゐて見當がつかない。語る方は何分「耳」に訴へるだけ故に、ごまかし易いが、「目」に訴へる人形は誰にも分り易いだけにごまかしがきかない。「目」に訴へる芝居より、「耳」に訴へる義太夫の方が至難なのと同じ理窟だからである。
 去年九月歌舞伎座で吉右衞門が復活した近松原作の「碁盤太平記」も、文樂の人形淨瑠璃で數年前に手をつけた。その時榮三が由良之助を遣つたが、これなども動きは尠い役故に全く困つた。更に、十數年前御靈文樂時代に、「博多小女郎浪枕」を上演した時(「元船」を今の大隅太夫、「奥田屋」を古靱。)榮三が惣七を遣つたがこれにも困つたといふ。そこで私はすぐとあの「元船」で惣七が海へ落ちる所をどうしたかと質問した。すると榮三はそれには餘程困つた。即ち、芝居だと大勢の船頭が惣七をかついで海へ投げ込むわけだが、人形では本文本位のややこしい描寫を考究した末、惣七が自ら飛び込むのを見せた。だが、人形はさういふ場合胴や足が不恰好だから、到底器用にいかない。かといつて人形だけを捨てて、海へ投げるわけにはいかない。仕方なく榮三が惣七の胴を持つた儘、足遣ひと一緒に海へ、つまり、正面むきに舞台の下へ飛び込んださうである。元よりこれは甚だぎこちなく、今思つても冷汗が出る心地でゐるらしい。
 かうして演技に丸で根據のない近松物は、人形には甚だ苦手で困るらしい。そこで榮三が一番好きで、これ迄手をつけてゐないでやりたい役は?と訊くと、幽に笑つてそれは「新薄雪」の「園部兵衞」だといふ。尤も、これは榮三は自分の「自傳」の中に述べてゐるさうである。
 併し、この「兵衞」と聞いて私は友次郎の藝談を思ひ出した。その話は「友次郎巡禮」に割愛したが、偶然榮三が人形で、友次郎得意の「合腹」の「兵衞」を遣つて見たいといふためここに述べておく、殊に、友次郎の一糸亂れぬ手堅く澁い藝風と、榮三が常に一分のゆるぎもない堅實で地味な藝風とは、どこか共通した妙味があると思ふからである。
 友次郎のその「三人笑ひ」は、それは一寸書いておいたやうに、その一段を最も得意とした五代目豐澤廣助師匠直傳の藝である。さういふ意味でも亦友次郎得意のものに相違ない。所が、あの一段で至難で皮肉なのは寧ろ兵衞の役だ。特に、使者が刀を持つて來る。兵衞がそれを見る。と、その刀は刄先のみにほんの少し血がついてゐるだけだ。そこで初めてこれは伜を助けてくれて、伊賀守が腹を切つたと察しるわけだが、それと見てとつて初ていふ「うむ、よく打つた」の詞の前後に秘傳がある。それには刄先の血をとつくりと見て察しると共に、目を思はず遠く揚幕の方を見る心地にする。さうして遙に伊賀守に感謝の心持を通はせる。それを十分間を持つて現はしてから、初めて右の「よく打つた」の詞になる。−この間の目の使ひ方、氣の入れ方は蓋しこの一段中の性根だと友次郎は力説してゐた。
 そしてこれから見ると、伊賀守の方は役者がやれば別として、義太夫ではさう口傳はない。唯、左衞門が、忍んで出て來たのを知つて「消えてなくなれ」(本文では「早消えろ、亡くなれ歸れ」となつてゐる。)と叱る所だけは、伊賀守が腹を切つてゐる苦痛を忘れて、思はずどなつていふのが、皮肉な口傳となつてゐる程度と見ていい。
 所で、澁い藝風の榮三は、かうした最も皮肉で澁い兵衞の役を遣つて見たいと思つてゐるのであつた。これは如何にも榮三らしい。それだけに友次郎が恢復して、もし津太夫がこれを語り、その三味線を引くと假定して、この「合腹」(榮三はこの一段を「薄腹」と呼ぶ。)を出し、榮三に兵衞を遣はせたら、これこそ寧ろ「三人喜び」であらうか。
 一方に「嫌ひな役」を榮三に訊くと、甚だ明快である。それは赤穂義士外傳の「赤垣」の「赤垣源藏」だといつてのけた。これも亦私はわが榮三だと思つた。即ち、榮三は「赤垣」が出るといつも源藏を遣はされるが、あの役は腹はなし、科はなし、浪花節と同じでねといふ。私は内心喝采した。これでこそ榮三だ。私も亦偶然義太夫の「赤垣」はつまらぬと思ひ、あれは後世に出來た駄作で、浪花節に讓ればいいと思つてゐる。十年前演舞場で大隅太夫が苦心して語る「赤垣」を聞いて、あれこそ正宗白鳥氏がいはれるやうに、つまらぬ文章を意味あり氣に大切がつて語つて何になるといふ説に同感した。尤も、これは何も彼も分つてゐながら敢ていはれるらしい氏一流の見方であるが、義太夫はさうした惡文にせよ、その節づけなり、リズムに妙味があるのだと某義太夫通はいつてゐるやうだ。でも、「赤垣」や廿五年前吉右衞門が演じて面白くなかつた「松王下屋敷」は眞つ平であつてこれらは正宗説に十分一理がある。それを嫌ひといつてのける榮三も亦一見識であらう。
 四、東京での勞苦
 内部的事情を私は物知り顔に受け賣りするやうだが、文樂の人形淨瑠璃の人々は旅興行でやつと息をつく。即ち、本場の大阪では誰しも収入は僅少らしいが、地方へ出るとどうにか報はれるやうな待遇になるらしい。それに理由はなく、一つの習慣といへ、一面この藝術が如何に日本全國に、狭いながら興味を持たれてゐるかが分る實例と見ていい。即ち、地方へ出て待遇がよくなるとは、文樂に限つて旅興行に殆ど不入りがなく、どの地方でも大抵大入りを續けるからであらう。
 東京の興行はその代表的なものだ。成程東京でも大正末期は全く悲境のみで不入りが多かつた。が、その後尠くともここ十年以上は東京は必ず大入りだ。劇場側は玄人故にいつも「駄目でせう。」と觀察してゐるに拘らず、意外な程それは逆に入りがいい。東京の文樂の興行の豫測だけは、近年玄人的見方が殆ど負けてゐる。その結果人形遣ひも亦東京へ來るのを近年大に喜んでゐる。そして大入りをとつて大阪へ歸ると、元來善良で單純な彼等は鼻高々で威張つたりして、大阪の文樂の人々を手こづらせてゐる無邪氣さである。
 所が、さうして彼等が喜び、彼等の上京を喜ぶ東京ではあるが、人形遣ひに限つて東京興行中に非常な勞苦がある。それを榮三が私に委細に話したが、聞いて見ると成程尤もと思ふ事柄ばかりであつた。−−
 それは何かといふと、東京だと短日時の興行故に人形遣ひが、出し物の變る度にやる「人形の手入れ」が實に大變なのである。即ち、東京では近年妙な習慣で、人形淨瑠璃に限つて、出し物を四日目、いや、三日目毎に變へるからだ。そのやうに短い日數でぐるぐる出し物を變へ、入りがいいと見てとると、昭和十二年六月興行のやうに、芝居と同じく廿五日間日延べして打ち通す。かうなると太夫や三味線引きも亦その用意、稽古に大變なのは事實だ。初日が出ると、すぐもう次の出し物の稽古にかゝらねばならない。それを二三日に素早くやつたとして、又次の初日になる。用意、稽古、又初日、用意、稽古、初日、又用意、稽古である。
 併し、これが人形遣ひとなると、太夫や三味線以上にその組織的な仕度が實に大變になる。即ち、人形に限つては、人形遣ひがすべて頭の手入れ、仕度、衣裳、小道具の用意をしなくてはならない。芝居だとそれ等にはそれぞれ各部門に專門的に人がゐて、かつらは床山、衣裳は衣裳屋、小道具は小道具の係りと各自が分擔して手傳ふからまだしもだが、原始的藝術の人形では、いづれも人形遣ひが、舞台に出る片手間にやらなくてはならない。例へば、人形の下座、即ち「おはやし」は、嘗て私は紹介したが、笛、皷、鐘など全部一人のはやし方がやる。芝居の大勢の人から成る下座とは大變な相違で、その忙しさはないのだ。それと同じく人形の仕度も又各自人形遣ひの負擔で一人一人でやらねばならない。つまり、舞台に人形遣ひが人形を遣ふ役者同様で出てゐて、一歩樂屋へ歸ると、彼等はその人形のあらゆる仕度をする職人にならねばならない。即ち、「役者」と「職人」とを兼ね、しかも、出し物は三日か四日目毎に變るのでないか。−晝夜兼行でも東京へ來た場合この人形遣ひは暇がない位である。
 これが女形ならまだいい。女形の人形は原則として足がないし、立役の侍大將のやうに一々刀をさすわけでない。鎧を着るわけでない。武器をつけるのが珍しいだけでも手數が省ける。だが、榮三のやうに立役で主役のみを遣ふ人は一つの人形の仕度をしたとして、その後で槍、刀の大小、鎧、鐵砲、弓と小道具の用意すら一通りでない。まして人形は役者と違つて一つの役で前と後とで變る場合、一つ人形を變へるのでない。即ち、さうした場合には一つの役で、前と後とに出るために二つの人形の仕度が入る。機械同然の人形だから、役者のやうに自分で舞台上で着物をぬいだり、つけたり出來ないからだ。假りに舞台上で、人形が着物を着かへると見えても、それは、別に着物を着かへた人形を仕度してゐて、前の人形とさつととりかへるのであつて、一種の手品のやうな調子で行く。
 實例に就ていふと、榮三の立派な藝の「熊谷陣屋」の熊谷の場合である。熊谷の人形は芝居同様あの一段中で四度變る。即ち、初めて出て來た熊谷が「物語」をする迄が先づ一つ。それが引込んで「首實檢」のため長袴の姿で二度目に出る分が一つ。それがすんでから後で鎧を着た姿で出る分が一つ。それをぬぎすてて僧形の姿に變る分が一つ。と、かく以上四つ姿を變へる要がある。これが芝居の役者だと人間だから、出入りの度毎に自分でやつて來るが、人形の悲しさは、これを一々違つた人形で、それぞれ別々の姿の仕度をしておかなくてはならぬ。それ故に、人形の熊谷では、豫め以上四つの人形を作つておく必要があるのである。
 が、この四つの人形を一つの役のために作る手數は如何にも煩雜である熊谷の頭は「文七」であるが、先づこの熊谷の役のためにその「文七」の熊谷の頭が四つ入る。それからそれぞれの手が二つ、胴、足とくつける。(寫眞參照。これは文樂の人形の頭取の吉田玉次郎使用の人形を裸にした分だ。)それからそれぞれ四つづつの衣裳を別々につけ、刀や鎧、珠數から一切の持ち物迄別々につけさせねばならない。かうして「熊谷陣屋」の熊谷の役一つにさへ、榮三は四つの熊谷の人形を仕度せねばならない。しかも、それが大阪だと廿日間興行位だからいいが、東京だと僅に三日か四日かだ。そしてその初日があいたと思ふと、もう次の變り狂言の「寺子屋」なら松王(これも三と通りの人形が入る)。「盛綱陣屋」なら盛綱(これも三と通りの人形が入る)の人形の仕度をせねばならない。それに手、胴、足。又手、胴、足。…榮三がこれをいつて東京で悲鳴をあげるのは全く尤もである。それに弟子を手傳はせるにしてからが、その弟子たちも亦それぞれ自分の役を持つてゐて、その仕度に同じく又頭、頭、胴、手、手、足、足であるから、結局自分は自分でやる外なくなる。これでは榮三が足や腰同様肩をこらしてしまつて、「百草根」の家元格になるのも當然であつた。けれども、これは流石に明治座あたりの事務員や、長年ゐる案内の女給諸君は氣がついてゐて、私に「何分三、四日毎に狂言が變るんで、人形の方は全く可哀さうでございます。」とよくいつてゐたものである。
 それだけにこの人形が東京へ來る時の荷物が大變だ。旅興行に使ふ獨得な大きなつづらがあるが、あの最も大きなつづらを四つか五つ持つて來なくてはならない。そしてそれにはそれぞれ手、胴、足が一杯はいつてゐるのだ。もしそのつづらを何も知らずに、深夜そつとあけて見たとしたら、それはまつ白な手と胴と足とで一杯だ。「骸骨が一杯はいつてゐるつづら」として、一つの怪談が生れさうである。
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 話はつきない。文樂の一流の人々の限り、こちらが相當な知識と誠意とがあれば、相手はいつ迄も藝談に耽る。そのやうに彼等は狭いが深い。私としてそれ等の人々に對して負けぬ位の「息はつづく」用意はあるが、夏に弱い私は暑さを恐れて、本誌のために三ヶ月連載の約をするのに止めた。そして不十分ながらその三ヶ月を、人形の三業なる三味線、義太夫、人形遣ひと一と月づつを割り當ててかうして記述して見たのであつた。わが至らぬ筆と不備とは重々お詫びする。併し、私はここ十年間、何故にこの文樂の記録をのみ多く書くかといふと、私は自分のさうした研究に自信があるからでない。いや、私は「文樂の研究」のみには餘りの至難さに、悲鳴をあげてこそゐれ、毛頭自惚れはない。が、これをのみ多く扱つて來たのは、その人形淨瑠璃の人々が、意外に不遇であり、氣の毒であつて、しかも、一流の人々の限り、精進努力の人と共に善良な氣質なのは正に想像以上である。それ故に、この立派な傳統藝術の人々の不利すぎる立場を、出來れば社會的に呼びかけたいからであつた。即ち、かういふ立派な藝術と、それに携はる人々とのために、一應人間的、生活的な認識を求めたいからであつた。
 中にも社會的に最も考慮を欲するのは人形遣ひである。人形淨瑠璃の三業の中、三味線なら友次郎級、太夫なら津太夫、古靱のやうな一流人は「武士は喰はねど高揚子」の諺を守つて、金になる素人の稽古はしない。古靱などは最近京都の帝國大學から招かれて、學生のために講堂かで「一の谷の組打」を語つて聽かせた。その時さへ、無報酬なら參りますとの條件で行つて學生のためにいはば無料で語つたのだ。そのやうな所謂日本精神を、痩せても枯れても彼等は傳統として持つてゐる。だが、それ以外の中以下の三味線や太夫は、大抵内職に素人の稽古をしてゐる。そして生計をしてゐるわけであるが、人形に限つては、生活に困るからといつて、内職の稽古はない。素人で人形を遣ふ稽古をしようとする人などは、今の時代にはあるわけがない。
 人形遣ひはかうして「稽古屋」が出來ぬだけでさへ、この三業中で一番困る筈だ。それ以外義太夫や三味線は修行としては、一人で各自稽古をして暇な時は修行が出來る。相撲取りでも本場所がなくても、土俵さへあれば稽古は出來る。併し、人形だけは一人で人形を遣へないし、人形遣ひの修行は一人では出來ない。つまり、義太夫の演奏があつてこそ人形は稽古、修行があるが、義太夫がない以上、つまり、文樂が休みの間など彼等はかつぱが陸へ上つたやうである。物質的意味以外、修行に於てすら人形遣ひは三業中最も不利であらう。
 そこで榮三は後進の養成に種々苦しんでゐる。その頭痛の種の歎息は既に述べた。だが、それ以外に前年榮三は、獨力で後進養成不能を知つて、松竹の某幹部へ、文樂座で人形遣ひの募集をョみ、應募者があれば一種の徒弟學校のやうにして、養成に當らうとする案を出した事があつた。が、それは勿論うやむやに葬られてしまつて、彼は近年手鹽にかけた既記の若い榮之助に死なれて、更に歎息してゐるわけである。
 その上、私は久々で文樂の人々に會つて皆それぞれ年をとつたのに驚いた。これで愈々心細いと共に、現存の五六人の三業の名人級の人々がゐなくなつたらと思ふとそぞろ肌寒い氣持がする。但し、最近それ等の名人級の人々の映畫化を松竹大谷社長が決心し、私は喜んで構成編輯を引受けたから、不備にせよ何等かの形式で次の時代へ殘す記念品は出來る。市川中車が死んで、その肉體の外廓が全く見られぬ寂しさだけは逃れ得ると思ふ。
 さういふよき機運が生れつつあるといへ、この儘文樂を見殺しにしていいのであらうか。例へば、七月の歌舞伎座を見ると、菊五郎、羽左衞門で一番目に「夏祭浪花鑑」を出してゐる。帝劇を見ると吉右衞門が中幕に「盛衰記の逆ろ」を出してゐる。つまり、帝都七月に二つある歌舞伎劇の興行では、二つ共實に以上の丸本物、人形淨瑠璃のテキストの御厄介になつてゐる。そのやうに私の持論なるよき歌舞伎劇とは今では丸本物が第一なのだ。從つて日本に歌舞伎が存在する限り、人形淨瑠璃の丸本物を捨ててよき歌舞伎はない。換言すると歌舞伎は結局今も昔も丸本物なり、人形淨瑠璃のおかげを蒙つてゐる。しかも、丸本物は例外を除き、比較的健康で日本人的大和魂の發露を狙つてゐて、歌舞伎固有の脚本の南北物などにあり勝ちなデカダン藝術でない。それでゐながら今は益々危機にゐる。古靱の言でないが、これでは十年後の昭和二十五年には一體どうなつてゐるであらう。
 殊に、危機は再三いふが人形である。が、人形遣ひは不遇になれてゐるし、さう過分な物資を要さずに何等かの救濟法、誘導策があるかと思ふ。昭和四年であつた。故小山内薫氏、故山崎紫紅氏、故結城桂陵氏、和田英作氏、安部豐氏、それに私などで文樂の「擁護會」を作つた。その時表彰法を考へたら、衆口一致で先づ人形遣ひを表彰と決定した。それには當時七十歳の人形遣ひ中の古老で、中以下の人ではあつたが、吉田冠四なる老翁を慰めようとし、それに金一封を與へた。それは僅に五十圓にすぎなかつたが、不遇な冠四翁は、私にその後いつたが、自分が人から頂いた金としては七十餘年の一生の中でこれが一番大金ですと喜んでゐた。勿論この老人は間もなく死んだが、二流の人といへ人形遣ひとはかうした一生と見て大差ないと思ふ。
 それ故に私は思ふ。人形遣ひ後進養成法など話は割合に無雜作に出來ると思ふ。それ以上、全體的人形淨瑠璃誘導策すら、意外に手輕に行はれるかと思ふ。能樂のために富豪が拂うてゐる犠牲より遙に尠い負擔で、この日本演劇の母胎なる人形淨瑠璃振興策が可能なやうな氣がする。くどくもいふが彼等は單純で贅澤はさう望まない。例へば、この五月末、文樂座の連日の大入り祝りをしたが、それは土俵を築いて相撲をとる事であつた。私はそれは見なかつたが、「大毎」の新聞記事によると、津太夫や古靱が検査役になつて、彼等は本氣で相撲をとる騒ぎだつた。かういふ氣質から察してさへ、文樂全體、又は人形遣ひ救濟策は割に手輕に實行出來るか知れない。そしてさういふ振興策が社會的に出來上りでもすると、彼等は喜びの餘り再び土俵を築いて相撲をとるか知れないのである。さういふ方策は津、古靱、榮三、文五郎が兎に角健在な今この時のみだと思ふ。この四人がゐる間のみ。−それは實に今、實に今この時節のみであらう。(完)
 
 注 T君
 「人形の榮三にしても、座頭としての門戸を張る最低限の經濟的保障はあるけれど、遣ふ人形の手入れはもとより自分でする、藝の上でゆるがせな氣持を有つ事が出來ず、たえず自分に鞭を打つてゐる。
 以前何かの折があつて、一度榮三に會つた事がある。その時私は「隨分身體はお疲れでせう」ときいた。榮三は心もち答へを躊躇するやうな顔つきで、しばらく默つてゐたが、「えゝまあ、しかし馴れてますから、大したことおまへん」といつた。つい此間、私の勤めてゐる社の近くにある、皇漢藥の店の前に、かさ高な木箱が荷造して積まれてゐた。その藥は肩のこりを治すといふ効能で有名なものであつたが、木箱の背に筆太に記された宛名には「大阪鰻谷吉田榮三様」とあつた。肩が痛んでならぬと見えて、始終かうした藥を榮三は買つてゐるらしいのである。「大したことおまへん」と榮三はいつてゐたが……。この木箱を發見した日は、うららかに晴れた春の午下りであつたが、私はきびしい冬の烈風に肌を曝したやうな心持を味つた。」(戸板康二 「「改修文樂の研究」の事−三宅周太郎氏に」三田文学15(6) p191 1940)