竹本播磨少椽曲帯塚に就て
並に豊竹筑前少椽宝塔移転記録 浄瑠璃雑誌 326:p15-16 1933.9
昭和八年七月二十日四天王寺西門納骨堂裏、無縁墓地整理に付大阪因会の手により元納骨堂傍にありし当筑前少掾宝塔を此場所に移すにあたり、図らずも塔内に藏め置かれし師並に妻女自筆の法華経二部を発見したるにつき後日の為め此の記録を添ゆるものなり。
師は大阪南区島の内太左衛門橋北詰北へ入西側に住み合羽屋を業とし、通称岸本屋善兵衛、妻女を豊子と称す、初代竹本此太夫と号せしが寛延元年忠臣藏初興行の紛擾より豊竹座に入り豊竹姓に改む、至芸稀に見る名匠声無くして人を呼びし竹本播磨少掾の風に倣ひ而かもより以上の小音なりしと、時人称して玉子酒と評語す、其の意は下程味ひ深しと、師又文才あり豊竹上野と称し、三国小女郎曙桜その他の浄瑠璃著作あり、明和五年十一月五日行年六十九歳を以て逝く、此宝塔は其生前宝暦九年門弟等相集り師恩感銘の志にょり建立されしものなり。墓碑は別に天満西寺町本伝寺及高津中寺町正法寺にあり、遺族は天保末年まで相続き岸善とて著名の置屋なりしが其後明かならずと云ふ。
尚ほ同日竹本播磨少掾曲帯塚も同上の理由により、此の碑に並んで移せしが碑文に示す如き師の曲帯及び経典は遂に見出すことを得ず、但其身石と墓石との間に正に蔵置されしと覚しき場所を認めたるも空虚にして淤泥の堆積を見るのみ、真に遺憾に堪へず、想ふに往時既に位置移転の事ありて其際之れを他に取出したるものにあらざるか、併録して後の教に俟つ。
さはあれ小音、微声にして而かも斯道の巨匠と仰がれし播磨、筑前両師の墳が期せずして同日此処に移されし事は芸縁、仏縁共に尽きざる不思議の因縁とし追憶更に深急ものあり。
昭和八年七月二十日
木谷蓬吟 識
因に当日立会者氏名は左の如し
二代 豊竹古靱太夫
七代 竹本文字太夫
四代 竹本大隅太夫
二代 鶴沢寛治郎
竹本敷島太夫
豊竹宮太夫
郡信二郎
樋口吾笑
木谷蓬吟
以上
附記
以上記する如く宝塔内より発見されたる筑前少椽夫妻自筆の写経は再び元の如く塔内に蔵置せしが参考の為め其様式の大概を左に示す
師の写経は縦四寸九分幅
七寸大の紙三十九枚を綴り
表紙に 奉納大乗典
妙法蓮華経序品第一
願主藤原為とあり(為は為政の略)
妻女の写経は縦四寸六分幅六寸六分大の紙三十枚を綴り、表紙に
妙法蓮華経
提婆達多品第十二
妙法蓮華経
妙来寿量品第十六
妙法蓮華経
妙来神力品第二十一
願主岸本氏豊女
と記し、経文は平仮名にて写されたり。
以上二部共に整然として何の汚損もなく、無色亦聊かの変化も見へず、宝暦九年以来百七十五年の星霜を経しものとは思へざる程なり但しこれを改めたる包紙は相当年代の古色を見せ稍汚損変色あり、
表に 奉納大乗妙典
願主現当二世心願満足藤原為政とあり、
裏に宝暦九歳已卯五月吉日
と記されたり。 (蓬吟記)