FILE 123

【昭和十年代新作浄瑠璃文楽座床本集 大楠公】

(2016.08.15)
(2018.07.15補訂)
提供者:ね太郎
  

◎ 大楠公 PDF
 昭和12年4月
 乍憚口上
花は佳し柳の風に香こぼるゝ今日此頃皆々様のお晴やかな御機嫌を祝福申上げます。文樂を護れ!の汎き篤き御聲援と御激勵に彌々健歩、丑年第四陣を確固不拔の精進を競ふ花形連が「文楽の陽春」を謳歌すべく起りました狂言の儀も寔に忠孝道の極致、世界の華と謳はるゝ「大楠公」を鶴澤友次郎獨自の脚色、新作曲に依り御觀賞を仰ぐと共に更に名だゝる傑作「戀女房染分手綱」「ひらかな盛衰記」「攝州合邦辻」「戀飛脚大和往來」を配列、春宵一夕の宴に供さんとするもの演出者の熱と潑溂さを御ひゐきに何卒絶大なる御後援の程只管御願申上ます。
  月   日
     四ツ橋
       文楽座敬白
 
  鶴澤友次郎脚色作曲
 
 大楠公[だいなんこう]
 
  櫻井驛訣別の段
楠正成が、千早城を棄てゝ金剛山に籠り味方の不利なるを見て覺悟を定め櫻井の驛で正行[まさつら]と訣別して湊川に向ふ、金剛山の正成の居城に殘る奥方方柏の前と息正行の許へ正成が湊川討死の注進にて正行は悲しさに持佛堂で父の記念菊水の短刀で切腹せんとす母はその不心得を誡める特に此段を鶴澤友次郎が脚色、作曲なし御尊覧に供します。
 
 (床本) 櫻井驛訣別の段(前)
三重〽とゞめけれ扨も楠多門兵衛正成智仁勇を兼備し死を善道に聞る勇將こんどの合戰味方必定負軍討死の時極れりと本國へも立歸らず、すぐに五月十六日有合ふ手勢七百餘騎、馬物のぐをかゞやかし心の花も咲かへる櫻井の宿に着にける、かゝる所へ遠見の武士馳歸り、只今、河内より和子正行様御出候、と知せに程なく庄五郎正行、隼人を伴の案内に馬上ゆたかに出來り、夫と見るより馬乘捨父が前に手をつかへ、お父上には御機嫌能お嬉しう存じます。京都よりの御書状により、御見送りのため是迄參上致せしと、ゐんぎんに相述る正成、遉愛着の是今生の別れかと怯む心を取直し、ヤア正行汝をさなくとも能聞をけ、忝くも我帝の勅定を蒙り命を敵の矢先にかけ身を戰塲になげ打こと譽を敢て名を殘さん爲にもあらず、又子孫の榮花を願ふにも有ず、朝敵を亡し國家安全のゑい慮を休め奉らんと義を重んずる斗なり、今度の合戰味方必定打負王法忽ち傾き御代を奪れ給わん事鏡に照すが如くなれば、我れ一つの謀を以て度々諌め申せども坊門の宰相邪の理を勸め君用ゐさせ給はねば力なく打ツ立ツたり、直に兵庫湊川へ向ひ父が一期の名殘の軍華々しく戰ひ一戰に腹を切るべきぞ、おことは是より故郷に歸り父が最期と聞ならば彌身を全ふして廿にも餘る時金剛山を要害として勤王の同士を集め、住吉天王寺に打て出で賊徒を亡し君を御代に立參らせ父が憤りを散ンぜん事、いかなる佛事孝養も是にはなどか勝るべき、今生にて汝[そち]が顔見る事も是までぞ、必ず詞を忘るゝなと勇気撓まぬ弓取も恩愛父子の臺別れ泪をはら/\とぞ流しける正行聞もあへず、口惜しき父の仰やな楠正成が嫡子正行こそ負軍を考へ出陣もせざりしと世の嘲りに落ん事、屍の上の恥辱に候、殊に親の討死と思ひ定めし軍塲を見捨るなや候べき、是非御供に連れられずは吾等一騎駈拔け楠河内の判官が嫡子帶刀正行生年十二歳と名乘てよき敵に駈け合せ、引組で刺違へ冥途の道の先駈と思ひ詰めたる正行、敵の籏をも見ぬ先に歸れとは恨めしや、幼くて戰塲の妨げと有るならば只今此所にて腹切らん、介錯してたべ人々と芝の上にどうと居て聲も惜まず泣ければ、並居る軍兵感涙に鎧の袖をぞぬらしける、正成も共に涙は先立どもわざと聲を荒らげ、ヤア弓取馬の家に生れて討死するが彌うしきか、おことを年し月養育せしは父が最期の供せよとては育てぬぞよ、傳へ聞く獅々は生れて三ツ日の内親獅々是を千仞の崖の上より突落し其強弱を試すとかや、汝は今將に獅々の子なり櫻井は千仞の崖の上、河内は崖の底なり、汝崖の底に落されて成長を遂げ再び義旗を金剛山に翻せば、今日汝が兵庫に來り父と共に死するより其功は幾倍ぞや、斯してこそ庄五郎は父の子なり、汝勇士の機分[うつは]備らば數萬の敵の鉾先の巖石も凌ぎて碎く獅々の勢ひ、泰平の御代とは取返せ、吉野初瀨の名木も老木は次第に枯るれども、こぼるゝ種の色香をつぎ花の名高き山たかし、二葉の苗を殘すこそ岩ほとならん楠が、長き世までの形見ぞと、腰に帶たる御刀恭々しく押戴き、コレ此一刀は畏くも今帝より賜はりし菊作りの御太刀是を汝に與ふる間今日以後此刀には恐れ多くも大君の御稜威と父が魂の宿れるものと心得て、大切に奉持せよと、正行が手に渡しサア、予も是より出陣せん、汝も疾く河内に歸り君に忠勤怠るなサ、云べき事も是限りさらばと斗り馬を引寄ゆらり打乘思ひ切たる心にも、ゆゝしき我子の武者振りを見るも限りと目に脆き儘に歎きの正行も親の教訓詮方も涙押へて立上り手綱かいぐり打乘て、親子此世の別れの詞さらばとだにも云ばこそ、互ひに駒を引返し東西に別れしが振返り/\親は我子の身の行衛子は又親の最後の末思ひ包みて弓取の。泣ぬを今の泪とは餘所の袂にせきかへる湊川へぞ。
 
  (床本) 持佛堂訓戒の段(後) 
 五丈源の秋の夕ア、星落て蜀都荒たり夫は唐土古る事の例を遠く我朝に、引て返らぬ弓取の習ひと云どいたましや楠判官正成の奥方久子の前忠義の二字に恩愛をかへて、河内の觀心寺に佗住居、兼て覺悟はしながらも夫の身の上いかゞぞと、心元なさ氣遣ひを間の襖の明く度に戰塲よりの便りかと胸とゞろかす憂思ひおもひは同じ稚気に嫡子帶力正行は一間を出てしとやかに母の前に手をつかへ、申母上御殘り惜しきは此度の戰ひ父上の御伴して花々しき初陣と思ひし甲斐も情なや、櫻井の驛路より命ながらへ故郷へ立歸れとの御教訓、たつて願へば御勘當、行に行かれず是非なくも立歸りしが淺ましや、是ぞ最期の一戰と語り玉ひし父上の、死出の軍サを餘所に見ておめ/\歸る口惜しさ、御推量下さりませといふに、こなたも打しほれ、ヲヽ遉は父の子程有るまだ十二歳の身を以て父が先途を見届けたいとは健氣にもよふ云やつたなア、心の内のせつなさは母もそなたと同じ事、去ながら誠父御のお覺悟は我謀を大内に用ひ玉わぬ故にも有らず、世を見限つて潔く最期を遂しと聞へなば軍慮に淺き公卿達も諌めを用ひたまわんかと命を捨ての御奉公、爰の道理を辨へて身を大切に成人して、楠家二代の忠臣となつてたもと、我子を諌め勵まして互ひに涙押隱す胸のやるせぞせつなけれ、かゝる所へ竹童丸湊川の戰塲より早馬にて立歸り草鞋ぬぐ間もせわしなく中院の玄關に聲高く、奥方夫におわするや、奥方様/\と呼はる聲に久子の方、正行供々走り寄、ヤアそなたは竹童丸シテ/\味方の勝利はいかに、早く語つて聞せよと詞せわしく問かけられ、竹童丸はつく/\とお二方の顔打守り、チエ、是非もなき御運の末お舘様には兼てのお覺悟湊川原の朝霧と消てはかなき、御有様、と聞よりはつと胸せまり泣じとすれどせき上る涙は袖の露時雨、晴間は暫しなかりけり、竹童やがて涙を拂ひ、ハヽア御心中察し奉る、去ながら我君此度の御最期は古今無比の大忠臣弓矢の面目此上や候べき、其の日の軍の次第をば一通り申上げん、扨も去ンぬる廿五日五月雨晴るゝ東雲に足利勢は三十萬騎、野にも山にも滿々て和田の岬に押寄たり、味方は僅か七百餘騎今日を名殘り晴軍皆菊水の旗の下と死するは安き湊川、名のみ生田を跡にみて、敵陣近くよりければ、正成、正氏[まさすゑ]御兄弟馬の鼻づら押並べ鐙踏張り大音上、楠判官正成、曰く正氏是にあり、我と思はん賊徒原駈け來つて勝負せよと云より早くドツトおめいて攻入つたり、敵は魚鱗の備へを立前後左右を取りこめど我君事共したまわず後の敵を蹄にかけ前の敵を切立薙立鋭き太刀風さしもの大軍あしらひ兼ね、矢種を惜まず指つめ引つめ射かくる征矢は雨霰、いかに味方は猛くとも多勢に無勢次第々々に亡び失せ、殘るは僅か七十餘騎、是までなりと御大將北の一方を打破り傍りの民家に入玉ひ鎧をとけば御身十一ケ所の御手傷、正氏公を見返りて死しての後ニハと問給へば、申迄も候はず只七生まで人間に生れいで朝敵を亡さんと云もあへず御顔見合せ打笑給ひ、腹一文字にかき切て遂にあへなく成給ふと、始終を聞て正行はわつと斗に泣居たる、ハヽ其御歎きは御尤殘る七十餘人の方々皆指違へ見事の最期某も死出の御伴と既に覺悟を致せし處、汝は生[いきなが]らへ此塲を退き大切なる菊水の旗急ぎ國へ持歸り討死の次第傳へよと御主君の確[かた]き仰詞背き難く、惜しからぬ命をながらへたち歸つたる心の内、推量下され、奥方様、と涙と倶に物語れば久子の方泣目を拭ひ、誠や忠臣は君有を知て身有を知ずと聞つるに悲しむは女の愚痴悔んで返らじ、只此上は頓生菩提ナニ竹童丸そなたも嘸や道中勞れ宿へ下がつて休息しや、自は佛間にて亡き人々のとひ吊ひ南無阿彌陀佛、/\と唱名となへしづ/\と佛間へこそは入にける。御跡見送り竹童丸心有げにしほ/\と納戸へ入や入相の鐘も衾や五月雨のそらに一聲時鳥歸り來よとは聞ゆれど父は歸らぬ死出の旅、思へば無念、口惜しと身をふるわせて正行は恨の泪はら/\と聲を忍びて歎きしが、やがてむつくと起き上り都の方を伏し拜みこなたへ直り諸肌ぬぎ父が形見の寶劒を押いたゞき/\拔けば玉ちる氷の刄、逆手にとつて兩眼とじあわや斯よと見へたる折しも、様子うかがふ母君はかけ寄て刀もぎとり涙と倶に聲ふるわせ、ヤア血迷ふたか正行、いかに幼ければとて十ヲにあまればおとなぞやなどさ程にも辨へなき、せんだんはふたばよりかんばしと云たとへも有り、正成が子ならずや、かる/\しく命を失ひいつの世にか天皇さまを御代に立テ父亡魂の本意をとぐるぞや、コレ此尊き菊水の御刀、父が是を讓られしは今日そなたに腹切れとの仰たりしか、思ひ見よ亡き父の兵庫へ向はれし其時櫻井の驛より、そなたを歸されし御心は國に有つて一族郎黨を扶持し、成長の曉には朝敵を亡し帝の御代に復し奉れとの仰にはあらざりしか、親しく此母に語り聞かせし其方がいつの間に忘れしぞ、かゝる淺猿しき心にては迚も朝敵を亡す事は得叶わぬ、そなたは楠の根を打枯さうの所存なるか、今此塲で自害して天下の爲には益もなし、幼とも楠正成が子六十餘州をおもにゝ持ち大事の身とは思はぬか、エヽ恨めしや情なや是に付ても正成殿今三年[と]セ世にながらへ、おことが十四十五にならばかくうきせわもせまいもの、はかなき浮世や淺ましやといさめくどきて泣給へばさしもにいさむ正行も母の歎きに亡父の顔を今見る心地して母のひざに抱付き聲も惜まず泣居たる親子の歎きぞ哀なる、やゝ有て正行、アヽそふじや君の御爲父の仇、講ずば冥土の父上に何と云譯有べきぞ、只今の御教訓きつと忘れず身を謹み父が武略を受け繼いで義兵の旗上なすならば、たとへいか成大軍も只一息に踏破り怨敵尊氏兄弟が首とつて父が修羅の妄執を晴し申さん、心安かれ母上と義をかためたる正行が四條畷の合戰に美名を殘すも此母が育かうとぞ知れけれ、ヲヽ天晴れ健氣の其詞楠家の運も末ならず母も安堵致せしと心の雲も解晴て御悦びぞ限りなき斯る折しもこなたより恩地左近、和田五郎、衣紋りゝしく奥庭傳ひいで來り奥方に一禮なし、ハヽ委細ハあれにて承る遉は楠家の御嫡子生先芽出度存じ上る、去ながら勇有て智なきハ大將の器にあらず今暫くは世を忍び時を待て旗上たまへ、必々血氣にはやり大義を誤り在るな、と詞を正し理を盡す實も楠家の重臣と世に賴母しき武士なり、久子の方かい立て佛間に直せし御旗うや/\しく携へ出、これぞ祖先左大臣橘ノ諸兄公より家に傳はる秘藏の御旗、今更めてそちに與ふる夢々汚する事なかれと、渡せば取て押戴き、コハ有難き御賜もの父が形見の此太刀と倶に我身の六陷[りくとう]三略、スハ合戰の時來らば家の重寶菊水の旗眞先に押立々々敵何萬騎寄するとも身命は國家に捧げ奉り只一戰に追散さん、ホヽホヽヲ遖々いさまし、其時こそは、我々も亡君の吊ひ軍敵の大軍引受けて骸ハ土に埋むとも名は青天に輝さんヲヽ正行とても其如く忠義の二字を頭に頂き花々しく軍サして末世の手本になすべしと詞はゆるがぬ武士の花咲春や三吉野に、二代の忠臣菊水の流れは世々に芳ばしき武勇の旗をぞなびかせり。