事歴 ◎ 藤井小勝翁

(東京浄瑠璃雑誌 2巻2号 p48-52)

(開巻第一面写真参照)

 

人の短(たん)を言はず、我(わ)が長(ちやう)を語(かた)らをず、超然(てうぜん)として義太夫界(ぎだいふかい)に独立(どくりつ)せるもの、我(われ)、藤井小勝翁(ふぢゐこしようおう)を推(お)す。翁(おう)は、天保(てんぽう)四年十月廿三日、摂州(せつしう)兵庫(へうご)北仲町(なかてう)に生る、藤井某(ばう)の男(だん)なり。年甫(はし)めて十一、大阪(おほさか)に出でゝ両替商(れうがひしやう)(なにがし)に仕へ、専(もつぱ)ら心を営業(えいげふ)に用ひ、諸事(しよじ)に忠勤(まめやか)なりしかば、主人(しゆじん)も又なきものに思(おも)ひ、目(め)をかけて愛憐(いたはり)けるとかや。こゝに兵庫東出(ひがしで)町に、焼酎(せうちう)醸造元(じやうざうもと)にて、旁(かたはら)、米商(べいしやう)を営(いとな)む八木弥三兵衞といふ人あり。家号(やがう)を網屋(あみや)といふより、網忠(あみちう)というて、兵神灘(へいかうなだ)(め)をかけ、素人(しろうと)義太夫界(ぎだいふかい)第一等の語人(かたりて)なりき。斯人(このひと)の師(し)と恃(たの)みしは、竹本越前大椽(だいじやう)[五代目染太夫]竹本長門太夫(たけもとながとたいふ)[初代]にて、善(よ)く其の口吻(かたりくち)を学(まな)び、尚我が工夫(くふう)と鍛錬(たんれん)とに由(よ)りて、天晴(あつぱれ)の語人と持(も)てはやされ、遂(つひ)に名(な)を福原大椽(ふくはらのだいじやう)と改(あらた)められき。さて其の語物(かたりもの)は、時代(じだい)と世話(せわ)とを問はず、ドスとツヤとを論(ろん)ぜず、如何なるものにても、巧(たく)みに語りこなされけるが中(なか)に、人々(ひと/\)の最(もつ)とも感歎(かんたん)せしは、近江源氏(あふみぐゑんじ)八、日向島(ひむかじま)、薄雪(うすゆき)、大安寺(だいあんじ)、千軒長者(せんげんちやうじや)三などなりき。さて、米商(べいしやう)の事(こと)とて、月(つき)に幾回(いくくわい)となく堂島(どうじま)へ往復(わうふく)せられける折〃(をり/\)に、翁(おう)が許(もと)を訪(と)うて義太夫の物語(ものがたり)せられしを、翁も性得(しやうとく)(この)める道とて、技養(しやう)の念(ねん)(た)へがたきを、奉公(ほうこう)の身(み)なればと、自(みづ)から戒(いま)しめては、思(おも)ひとゝまりけり。年廿歳となりて忙(いそが)しき中(なか)に、いさゝか閑(ひま)の出(い)で来(き)ぬれば、こゝに始(はじ)めて福原大椽(ふくはらのだいじやう)を師(し)として学(まな)びぬ。かくて稽古(けいこ)の功(こう)を積(つ)み、月会(つきくわい)順会(じゆんくわい)などに出席(しゆつせき)して、やゝ名を人に知られけれども、曽(かつ)て游芸(ゆうげい)の為めに、一日(にち)も片時(へんし)も主人の間(ま)を欠(か)きしことなく、いと謹直(きんちよく)に勤(つと)めければ、主人も翁が箇程(かほど)の芸(げい)を知らぬ程なりきとぞ。大椽(だいじやう)七十三歳(さい)にて世(よ)を去(さ)りしかば、翁は暗夜(あんや)に燈火(ともしび)を失(うしな)ひし如く、歎(なげ)き悲(かな)しみけるが、後(のち)長月庵十三(ちやうげつあんとざん)に就(つ)いて学びぬ。十三は道修寺町(だうしうじまち)の薬種商(やくしゆしやう)、塩野屋(しほのや)の惣本家(そうほんけ)にて、本名を小牧(こまき)藤次郎といふ。この人(ひと)(いた)ツて多芸(たげい)にて、茶湯(ちやのゆ)、挿花(いけばな)、俳諧(はいかい)より、碁将碁(ごしやうき)賭事(かけごと)にいたるまで、其の道(みち)を究(きは)めずといふことなく、殊(こと)に義太夫に至(いた)りては、当時(たうじ)(なら)ぶ者も無き程(ほど)にて、一座(ざ)のドツサリたる太夫(たいふ)すら入門(にふもん)するものあるに至れり。今(いま)の大隅太夫(おほすみだいふ)なども其の一人なりきとかや。さて其(そ)の語物(かたりもの)(かず)ある中(なか)に勘平鎌腹(かんぺいかまはら)、瓢箪(へうたん)町、廿四孝(かう)三、紙治(かみぢ)茶屋(ちやや)(とう)は、最も人を感動(かんどう)したりといふ。翁また善(よ)く其の型(かた)を取り、其の声気(せいき)口吻(こうふん)、人をして十三生写(いきうつし)の思(おもひ)あらしむ。されば、翁が技芸(ぎげい)は、網忠(あみちう)に創(はじ)まりて十三に大成(たいせい)したりといふも、強(あなが)ち誣言(ふげん)にあらざるべし。翁、常(つね)に謂(い)ふ、一口(くち)に素人(しろうと)/\と、世の人さみすれども、素人(しろうと)にこそ却(かへ)ツて名人(めいじん)は多(おほ)けれ。さるは太夫は、謂(い)はゝ役目(やくめ)にて、楽(たのし)んで語(かた)るよりは、已(や)むを得(え)ず見台(けんだい)に向ふもあれば、こゝぞといふ処のみに心を用ひ、その佗(た)は程よく語(かた)りこなして、只(たゞ)前受(まへうけ)の宜(よ)からんやうに務(つと)むるが多し。素人は然(しか)らず、冒頭(まくら)より結尾(だんぎり)まで、一字一句といへども、吟味(ぎんみ)に吟味を加(くわ)へて、丁寧(ていねい)に切実(せつじつ)に、いさゝかも油断(ゆだん)なく、声(こゑ)を惜(をし)まず、力(ちから)を惜(をし)まず、前受(まへうけ)は兎(と)もあれ、其の人物(じんぶつ)性行(せいかう)を語(かた)り分けんと務(つと)むるからに、かいなでの太夫等より視(み)るときは、無駄骨(むだほね)のやうなれども、まことの太夫は耳(みゝ)を傾(かたふ)くるなるべしと実(げ)に此頃(このころ)は、素人に名人(めいじん)(おほ)かりき。翁は、此の名人なる福原大椽と、長月庵十三(ちやうげつあんとざん)とに由りて技芸(ぎげい)を成就(じやうじう)したるなり。尚(なほ)前後(ぜんご)に於いて師事(しゞ)せしは太夫には、竹本筑前(たけもとちくぜん)太太、竹木住(すみ)太夫[盲人]、三味引(しやみひき)には鶴澤(つるざわ))才治[播磨]鶴澤勘治郎(かんじらう)、豊澤廣作(とよざわひろさく)[団十郎云]豊澤廣助等なりき。翁芸名を湖静(こせい)と呼(よ)び、当時(そのころ)少年(わかて)の語人(かたりて)として、到(いた)る処に名を轟(とゞろ)かしゝ小勝(こしよう)と相(あひ)伯仲(はくちう)せり。小勝は、先年物故(ぶつこ)せる竹本綾瀬(あやせ)太夫の素人名なり さて小勝、相生(あいおひ)と改名(かいめい)して、太夫となりしかば、同好(どうかう)の人々(ひと/\)、小勝の名の、そのまゝに埋(うつ)もれんことを惜(をし)み、翁に勧(すゝ)めて襲名(しうめい)の事をいふ。翁、辞(ぢ)しけれども、猶(なほ)すゝめて止(や)まず。以謂(おもへ)らく湖静(こせい)と小勝と国音(おくおん)相近(あひちか)し。今(いま)(し)ひて之を辞(ぢ)して、人々の意(い)に忤(さか)らはんよりはとて、遂(つひ)に小勝の名(な)を襲(つ)ぐことゝなりぬ。当時(たうじ)(こ)の二人(にん)の、如何(いか)に世にもてはやされしかを知(し)るに足(た)らむ。翁ことし齢(よはひ)七十歳、頭髪(とうはつ)斑白(はんぱく)にして、歯(は)一枚(まい)だに留(とゞ)めず。しかも矍鑠(くわくしやく)として壮年(さうねん)の如く、其の浄瑠璃(じやうるり)を語るに及びては、神出鬼没(しんしゆつきぼつ)変化(へんくわ)(きはま)りなく、人をして端倪(たんげい)すべからざらしむ。たま/\賞賛(しようさん)するものあれば、此(こ)れ福原大椽(ふくはらのだいじやう)、長月庵十三(ちやうげつあんとざん)の模型(かた)のみ。不才(ふさい)にして、その十が一をも真似(まね)ること能(あた)はず、洵(まこと)に愧(はづ)かしき芸(げい)なりと、謙遜(けんそん)(おほむ)ね此の如し。されど知るものは知ることなれば、翁が只管(ひたすら)いなむを肯(き)かず、強(し)ひて教(をし)へを乞ふ者数多(あまた)なるが中に、故(こ)竹本織太夫(おりたいふ)、竹本文(ぶん)太夫、竹本錦(にしき)太夫[由良]又素人は枚挙(まいきよ)に遑(いとま)あらず。さて東京に移住(いぢう)せしより、鹿声(かせい)、梅翁(ばいおう)、語遊(ごいう)、北玉(ほくぎよく) 素狂(そきやう)、梅石(ばいせき)、大子(だいし)、喜双(きそう)、遊鶴(ゆうくわく)、和楽(わらく)及び予等にて、竹本熊玉(くまぎよく)、鶴澤文璃(ぶんり)等も、就いて学びぬ。今此の人々の教(をし)へを受(う)けし外題(げだい)を挙(あ)ぐれば、勘平鎌腹(かんぺいかまばら)、瓢箪(へうたん)町、二十四孝(かう)三、三日太平記(たいへいき)九、宗玄庵室(そうげんあんしつ)、安達(あだち)三、菅原(すがはら)四、合邦下の巻、忠(ちう)四、二度目(どめ)平右衞門腹切(はらきり)、講釈(こうしやく)七、吉祥院(きちじやうゐん)、御所桜(しよさくら)三、熊谷陣屋(くまがへぢんや)、加賀見山(かがみやま)又助内(またすけうち)、さて予(よ)に伝(つた)へられしものは、大安寺(だいあんじ)[敵討まで、此は五行本に無き所也] 沼津里(ぬまづさと)[小揚より平作腹切まで] 志渡寺(しどじ)、箱根餞別(はこねせんべつ)[天神堤より] 平仮名盛衰記(ひらかなせいすゐき)三[一枚も抜かず権四郎の舟歌まで] 伊賀越(いがごえ)八、彦山(ひこさん)五、八幡(はたの)引窓(ひきまど)等にて、尚教(をし)へんと云はるゝものは、布(ぬの)四、紙治(かみぢ)茶屋(ちやや)、箱根瀧(はこねたき)、八橋村(はしむら)、長兵衞内などなり。さて常(つね)に三味線(みせん)なくて語(かた)ること得(え)ずと、歎息(たんそく)せらるゝものは、長柄(ながら)の人柱(ひとはしら)、小栗(をぐり)の三段目(だんめ)等なり。以つて翁が芸道(げいだう)の奥底(おくそこ)知れぬを見るべし。然(しか)るに、翁、超然(てうぜん)独立(どくりつ)して、人の短(たん)を言はず、我が長を語(かた)らず、人と応対(おうたい)するに、謹厚(きんかう)寡黙(くわもく)にして、一見田舎爺(ゐなかおやぢ)の如(ごと)く、何人が浄瑠璃(じやうるり)を語(かた)るとやうの風采(ふうさい)あり。古語(こご)に云はく、良賈(りやうこ)は蔵(をさ)めて虚(むな)しきが如し、諺(ことわざ)に云(い)はく、能(のう)ある鷹(たか)は爪(つめ)を蔵(かく)すと、夫れ、我が藤井小勝翁を謂(い)ふか。 附(つ)けていふ、予(よ)この事歴(じれき)を編纂(へんさん)せんと欲(ほつ)し、翁(おう)に問(と)ふこと度(たび)/\なりしも、名聞(めうもん)は願(ねが)ふ所(ところ)にあらず。大阪(おほさか)に在(あ)りし間も、大会(おほくわい)の摺物(すりもの)、又(また)は素人番付(ばんづけ)などいうて、種々(しゆ/\)の申込(まをしこみ)ありしも、皆これを避(さ)けたれば、今さら物に書(か)きとゞめられんこと、洵(まこと)に迷惑(めいわく)の至なりとて、肯(うべ)なふ気色(けしき)も見えず。僅(わづ)かに撮影(さつえい)することのみを許(ゆる)されたり。されば、この事歴(じれき)は、予が四年間、翁に親炙(しんしや)して、見聞(けんぶん)せるまゝなれども、中(なか)には見(み)あやまり聞(き)きたがひ無しとしも云ふべからず。看(み)ん人その心(こゝろ)してよ。 壬寅十一月初六 晩学 万亭一力謹識

 

(2006.08.19掲載)
提供者:ね太郎