○ 世の所謂堂摺党 (禁転載)

            横濱太郎

東京浄瑠璃雑誌 2巻2号

桜坊(ぼく)は筆を持(も)つのが稼業(しやうばい)では無(な)いのだから。文章(ぶんしやう)云々(など)は御免(ごめん)を蒙(かうむ)る。只桜坊(ぼく)の覚(おぼ)えて居る事柄(ことがら)を未(いまだ)(しら)ぬ人に紹介(しようかい)するのだ。
 世(よ)の所謂(いはゆる)堂摺党(だうするたう)なる者(もの)を書(か)く前(さき)に。此(この)東京(とうきやう)に何年頃(なんねんごろ)から義太夫が。流行(はや)つて来(き)たかを云(い)はねばならぬ。東京に女義太夫の流行(はやり)(はじ)めたのは。明治十二三年の頃なので。名古屋屋(なごや)から信州(しんしう)の飯田(いひだ)へ興行(かうぎやう)に行つた竹本京枝の一座が。帰路(かへり)のついでに寄(よ)つたので。浅草廣小路の鈴木田と云(い)ふ定席(せき)が女義太夫の掛(か)け初(はじ)めで。 (注) 女の太夫も東京で定席(よせ)への掛(かゝ)り始(はじ)めなのだ。此鈴木田の跡(あと)を倭太夫が買(か)つて今(いま)の東橋亭に改めたので。鈴木田時分から居る清さんと云ふ男(ひと)。今(いま)(げん)に東橋亭の番頭(ばんとう)を勤(つと)めて居るが。始(はじ)めからの事(こと))を詳(くは)しく知(し)つて居るのは此(この)(ひと)ばかりなので。
 此(この)時分(じぶん)は木戸銭は弐銭五厘だつた。処(ところ)が。段々(だん/\)上つて廿二年の弐月に京枝は小久、岡伊(今の京子の母)京久、京駒等(ら)を連(つ)れて復(ま)た上京し、一層(そう)の人気(にんき)を得(え)やうと此度(このたび)は薬師(やくし)地内(ぢない)の宮松亭に看牌(かんばん)を掛(あ)げて。木戸銭を四銭に直上した。是(こ)れが例(れい)となつて一般に定席(せき)は四銭となつた。東京に於(お)ける京枝は木戸銭直上げの元祖で。女義太夫の定席(せき)に出(で)られる道(みち)を開(ひら)いた開祖(はじめ)だ。
 徳川(とくがは)の末(すゑ)。水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)の為(ため)に女義太夫は総(すべ)て定席(よせ)に掛(かけ)る事(こと)を禁(きん)じられて。明治の始め迄は両国(れうごく)の廣つ場(ひろツば)に葭簀張(よしずば)りの小屋(こや)を建(たて)てゝ稼(かせい)で居(ゐ)た様(やう)な訳(わけ)だから。余(あま)り世間(せけん)からは。高尚(たかく)には見られて居(ゐ)なかつたのだ。処が。今源氏節(げんじぶし)が流行(はやり)つて居(を)る様(やう)に。若(わか)い女(をんな)の太夫(たいふ)が定席(よせ)の高座(ぶたい)で。義太燕夫を語るのだから。わい/\と大勢(おほぜい)出掛(でか)ける。定席(よせ)では入りが有(あ)るから。其所(そこ)でも此処(こゝ)でも(か)ける様(やう)に成(な)る。
 此(この)折柄(をりから)綾の助と云ふ小娘(ガール)の義太夫語りが顕(あら)はれて益々(ます/\)衆目(しゆうもく)を引(ひき)。衆耳(しゆうじ)を聳(そば)だたしめたから。廿三年の五月に住の助なる小女の太夫が小住の三弦(いと)で神田(かんだ)の小川亭から打(う)つて出(で)る。之が競争(きやうそう)の元(もと)でも有るまいが。睦派(むつみは)。正義派(せいぎは)と云ふ二派が出来(でき)。別(わか)れ別(わか)れに成(な)る。折(をり)も折(をり)とて。改進新聞の投票(とうひやう)が始(はじま)つて。睦派の綾。正義派の住と。相(あひ)(たがひ)に鎬(しのぎ)を削(けづ)つた絶[結]果(けつくわ)はと云へば。二万九千四百八拾二票と云ふ最多数で。住の助は兎(と)に角(かく)(か)つた。
 勝(か)つた住の助は旅稼(たび)に出掛(でか)け廻(めぐ)り廻(めぐ)つて秋田の秋田座に駐韓兵士の慰労義捐興行を終ると。俄かに病気に成り拾七歳を一期として。廿七年の九月七日に到頭秋田の露と消えてしまうし。卅一年の六月には綾の助が其卅日限り両国の新柳亭を名残りにでん界の足を洗ひ島田を丸髷に結び替へて今は濱町辺に住んで石井と云ふ人の細君と成る。此間(このあひだ)には小土佐、越子、小房、土佐玉、小巴津、新吉小豊後。二代目住の助。誰々(たれ/\)(など)各々の全盛(ぜんせい)時代(じだい)も有(あ)つたが。栄枯(えいこ)は何者(なに)にも有(あ)るものと見(み)え男(をとこ)では綾翁が逝(ゆき)。播摩が引いて了(しも)うし。女(をんな)の方(はう)はとんと御話(おはなし)に成(な)らず。僅(わづ)かに伊達太夫の上京や。昇の助組幸等(など)が来(き)て居(ゐ)たのででん界は御茶(おちや)を濁(にご)して居(を)るが。実(じつ)に今日(けふ)此頃(このごろ)のでん界の有様(ありさま)と言(い)つたら気(き)の毒(どく)の様(やう)だ。
 是(これ)と云ふのも無暗(むやみ)に義太夫聴客の肩入(かたい)れ連(れん)を。世間(せけん)からは。混同(こんどう)して。蛆虫(うじむし)か何(なん)んぞの様(やう)に。見做(みな)し。一口(ひとくち)に堂摺党と云つて居(を)るが。大(だい) の間違(まちが)ひだ。決して世間(せけん)の所謂(いはゆる)堂摺党(どうするたう)なる者(もの)は。そんな訳(わけ)のものでは無(な)いのだ。
 さ。是(こ)れから愈々(いよ/\)。堂摺党の起源(おこり)を書(か)くのだが。前(ぜん)に言(い)つた様(やう)な訳(わけ)で。義太夫を聴(き)いても其(その)妙所(みやうしよ)と云ふものが。分(わか)らない。処(ところ)が。段々(だん/\)と聴(き)き込(こ)んで来(く)るに従(したが)つて。妙所々々(よしあし)が。分つて来(く)る。分(わか)れば褒(ほ)め度(た)くなるのは人情(にんじやう)だ。そこで。感慨(かんがい)(ふか)き処(ところ)へ来(く)る。思(おも)はず賞賛(しようさん)の声(こゑ)を発(はつ)する即(すなは)ち堂摺る々々。猶(な)ほ分りよく言(い)へば。如何(いかに)にして巧(うま)いだらうの感歎詞(かんたんし)なのだ。も一つ言はうなら。薬師(やくし)へ来(く)る。大出来と言(い)ふ爺(ぢい)さんの如(ごと)きなのだ。(以下次号)

 

 水野悠子『江戸東京娘義太夫の歴史』女義中興の祖 京枝 の項で「明治十六年東上説は、大幅に繰り上げなければならない。」とする

 

(2006.08.19掲載)
提供者:ね太郎