○ 皆さまがたへ

初代 竹本綾の助

東京浄瑠璃雑誌 2巻2号

 

季秋(あきのくれ)の砌(みぎり)御社(おんしや)倍々(ます/\)御隆盛(ごりうせい)の段(だん)奉賀(がしたてまつり)候 偖(さ)て此間(このあひだ)に五(いつゝ)の新聞紙(しんぶんし)に私儀(わたくしぎ)改名(かいめい)の上再(ふたゝ)び出勤(しゆつきん)(いた)すやの噂(うはさ)相立(あひた)ち申よし承(うけたま)はり申候 廃業(はいげう)このかた数(かず)ならぬ身(み)の枯尾花(かれをばな)(と)くより世(よ)に捨(すて)られ申候と思(おも)ひ居候は足(あし)かけ七年目(め)に綾の助の名、今(いま)に噂(うはさ)に貽(のこ)り申候とは何(なに)より面目(めんぼく)(み)にあまり申候次第(しだい)に御座(ござ)候、実(じつ)の処(ところ)は陰(かげ)ながら嬉(うれ)しく喜(よろこ)び申度儀(たきぎ)には御座候へ共(ども)(こゝろ)にあられもなき事(こと)を兎(と)や角(かく)申さるゝ程(ほど)迷惑(めいわく)の事(こと)は無之(これなく)と存(ぞん)じ候、よしんば如何(いか)なる事情(じじやう)の差(さ)し起(おこ)り候ても再(ふたゝび)出勤(しゆつきん)は致(いた)すまじと誓(ちか)ひ申候当初(たうしよ)の志(こゝろ)に背(そむ)き申候ては聊(いさゝ)か遺憾(ゐかん)に思(おも)ひ申候、私儀(わたくしぎ)も足(た)らはぬ生(うま)れには候へ共兎(と)も角(かく)人間(にんげん)と生(うま)れ候上は言葉(ことば)を変(へん)じ志を違(ちが)へ申候事(こと)は微塵(みちん)も致(いた)し申さぬ覚悟(かくご)に御座候廃業(はいげふ)と佯(いつは)り一時世間(せけん)を售(う)り申候儀(ぎ)は良心(りやうしん)と申すものと御座候処(ところ)には別(べつ)して出来(でき)(がた)き儀(ぎ)と弁(わきま)へ申候、鳴呼(をこ)がましくも綾之助の名(な)を他人(たにん)に譲(ゆづ)り申候も其実(そのじつ)、私自身(じしん)に此名(このな)を握(にぎ)り居(を)り候ては他日(たじつ)(かさ)ねて各席(せき)へ出勤(しゆつきん)する下心(したごゝろ)ならんなどゝ口善悪(くちさか)なき人々の噂(うはさ)もチラホラ耳(みゝ)に聞(き)こえ申候まゝ、斯(か)くては又々迷惑(めいわく)(いた)す事(こと)有之(これあり)候はんと存(ぞん)じ彼是(かれこれ)にて終(つひ)に二代目の綾の助を出だし申候も先(ま)づ重(かさ)なる原因(げんいん)に御座候 子(こ)を視(み)る事(こと)、親(おや)に如(し)かずとやら申す儀(ぎ)もかね/\承(うけたま)はり居り候ひしが自分(じぶん)の技能(ぎのう)を判断(はんだん)仕り候は自分(じぶん)より克(よ)く相解(あひわか)り申候ものは有之(これある)間敷(まじく)と存(ぞん)じ候私儀も看版(かんばん)を挙(あ)げて凡(おほよ)そ十三年の間、海山(うみやま)にも啻(ただ)ならぬ御贔屓(ごひいき)を被(かうむ)り申し候まことに拙(つた)なき技(わざ)に対(たい)してたゞ/\呆(あき)れはて申候程(ほど)に御座候私儀自ら芸道(げいだう)の未熟(みじゆく)を承知(しようち)(いた)し居り候ものが、しかも数年(ごろくねん)の今(いま)と相成(あひな)り再(ふただ)び御眼見得(おめみえ)仕り候などとは世(よ)に申す井(ゐ)の中(うち)の蛙(かへる)大海(だいかい)を知(し)らずとの御叱(しか)りも御座候のみならず私に於(おい)ても又(また)幾分(いくぶん)か恥(はぢ)てふ事をも承知(しようち)(いた)し居(をり)候へば斯(か)かる事(こと)の出来(でき)(う)べき儀(ぎ)無之(これなく)と存じ候。

右申上候次第(しだい)に御座候へばたとへ此後(こののち)如何(いか)なる御方の御勧誘(おんすゝめ)有之候ても又仮(か)りに如何(いか)なる事情(じじやう)の差起(さしおこ)り候とも折角(せつかく)(かみ)かけ誓(ちか)ひ申候志(こゝろざし)を水泡(みづのあわ)に致(いた)し申し候儀は毛頭(もうとう)(いた)し不申候覚悟(かくご)に有之候、唯(たゞ)此上(このうへ)御願申上候次第(しだい)と申すは二代目綾の助儀(ぎ)芸道(げいだう)(いたつ)て不熟(みじゆく)のものに御座候へば私(わたくし)を慈(いつく)しみ被下(くだされ)候儀(ぎ)と思召(おぼしめ)して何卒(なにとぞ)同人(あやのすけ)を御愛顧(ごひいき)御評判(ごひやうばん)被下(なしくだされ)候へば老(お)い朽(く)ちたる身(み)の私(わたくし)の喜(よろこび)こよなき事(こと)に御座候。手前勝手(てまへがつて)の愚痴(ぐち)のみ記(しる)し御社(おんしや)の御紙上を涜(けが)し申候儀は何共(なんとも)以て恐入(おそれいり)候へ共実(じつ)はアノ新聞紙このかた諸所(しよ/\)よりの御尋(たづ)ね越(こ)し今(いま)までに十八通の多(おほ)きに及び一々御返事(へんじ)差出(さしだ)し候儀も相成(あひな)りかね殊(こと)の外(ほか)迷惑(めいわく)いたし居り申候故(ゆゑ)無拠(よんどころなく)不文をも顧(かへり)みず厚釜敷(あつかましき)を忍(しの)んで斯(か)く御訴(おんうつた)へ仕候間何分(なにぶん)よしなに御吹鼓(ふいちやう)なし下され候へば私儀(わたくしぎ)も実(じつ)に此上もなき仕合せにぞんじ申候、風(かぜ)は蕭颯(しようさつ)として怨(うら)みもし悲(かな)しみもして私の心を訴(うつた)へ申候程(ほど)(ちか)き浜辺(はまべ)の芦(あし)より起(おこ)り申候数行(すうぎやう)の過鴈(かり)も又私の意中(こゝろ)を忖りてこの文(ふみ)を持(も)ちさり申候草々

 

(2006.08.19掲載)
提供者:ね太郎