『道八芸談』(鴻池幸武)
「壷阪寺の段」
「――花が咲かしたいなアヽ(カワッテ)(一一九)というたところが、(ウレイの間を置いて)罪のフカーイ(と突込み)此身の上、
せめて未来は(十分泣いて)」
「うきが情か」で一寸「間」をおいて、その無の間にウレイの肚を語り、カワッテ今度はカブセテ「情がうきか」と続け、
また次に無の間を語り、「チンツ、チチンツチツンツ」は気を替え、「露と(間をおいて)、消え行く」は十分寂しく、
次の「テチン」は特に大切に、沢市の気持でカブセ、「我身の」は極めて寂しく、「――の」について「オホッ」と涙がこぼれ、
ここまで来てはじめて「ウレイ」を表面へ出します、そのてれかくしに全然カワッテ「ウウウエハ」からノリはじめ、
沢市の「ヲヲどこヘ――」の一語は、沢市が自分の死場所を教えられたところですから、慌て気味の動揺した肚で語り、
「行うぞ」で一寸留り、無の間を語ってそのてれかくしに、カワッテ、「今夜から観音様と『ヤ』ク、ビ、ビキ、ジヤ」と拍子を十分ツメて
註解 武智鉄ニ
(一一九)心理や情景の変化の技法を″カワリ″という。息の間で肚が変るのが秘訣。
また、義太夫節は太夫ひとりで多くの人物を表現しなければならないので、カワリを基とする芸術ということもできる。
″カワリ″は義太夫節の基本技術である。
『芸談 河庄』(八世竹本綱大夫大全集
K30-A9A)
「『語ればうなづき思案顔、外に』とこれが、こういうところが、その、実にむずかしうございます。
これがその今の四季ガワリですか、
とても、ぱっと、今まで孫右衛門であったのが、ぱっと『外』のこの間一髪、今の三味線のチチンというだけで変わるんです。
これが中々ほんとのとこ言いまして変われません。なんか前の音が付きまして。」
『全講心中天の網島』(祐田善雄)
語れば点き思案顔――ここは大変むつかしく、四季ガワリといわれるところ。
「思案顔」チチン。この三味線だけで場面が治兵衛に変らなければならない。
なお「語れば」は小春の文句であるが、演奏の都合でここから侍客の発声になる。
「天の網島時雨の炬燵 茶屋場の段」
「此段を語るには「中太夫の四季変り」と云ふて、変りの名人であるから、人情の変りを大事に修業せねばならぬのである。
夏が秋に変り冬が春に変るやうに、男女の人情、喜怒哀楽がサラ\/と変る丈けの修業の腕前がなければ、歯が立たぬ物である。」
さきにも述べた″中大夫の四季がわり″とは、まことに不思議な用語である。
その意味をかって鶴沢綱造に質したところ、音遣いがころころ変わることだと教えてくれた。
綱造の父は、斯道の重い名跡を継ぐ六代目清七だから、演奏の技術はともかく、れっきとした文楽の本流に位する。
また綱造自身は、河庄を十八番にした昭和初期の紋下津大夫の相三味線であったから、その答えは伝承に基づいている。
そこで中大夫に話を戻すと、師の完成した『心中紙屋治兵衛』の語り口を捨て、
中大夫は音を遣って河庄を一代の売り物に仕立て上げたと考えられる。文政五年(一八二二)には、外題名も『増補天網島』と改めた。
このように考えると、河庄の演出は決まる。理詰めで情を追求する政大夫系(『心中紙屋治兵衛』)と、
音を遣って酔わせようとする中大夫系(『増補天網島』)、どちらを取るかは演者の判断である。
「一ツ家の段」
ソコデ『恋絹有るにもあられぬ思ひ』とかわられるのである。古人の咄しに、義太夫節に「カワリ」のないのは義太夫節ではない。
常盤津、清元までは「カワリ」が本となつて居ない、古浄瑠璃の修業は総て「カワリ」の修業である。
夫が仮名切れが息で「ピシ\/」と切らねば、三味線も太夫も「カワリ」の芸は決してされぬものであるとの事。
『無明を払ふ大燈明、胸の曇りを晴さふござれ』は「カワリ」てきびし気も「ウレイ」気もあつて宜いのである。
『コレ照葉様、其頼み人は誰が事』から又がらり「カワリ」て芝居が初まるのである。
『歯の根を砕き身をふるウウ、イイ、イイ、イーー』と語る時、
太夫が心の底から、おとはの心情に成抜いて悔しい心持を語ると云ふが秘伝であるとのこと。
ナゼなれば『ボウつと、もゑ立火焔はいかに』の「コハリガヽり」の「カワリ」が移つて語れぬやうになるのである。
「鮨屋の段」
それから『娘お里は今宵待つ』の「長地」からは全く気を替へて語る事、
『奥へ行跡』の「ハルフシがゝり」も皆此種は「ハルギン」に挨拶する事、
『蒲団敷』からパット変りて、『惟盛卿はつく\/と』と云ふ腹構へと心持と運びの語り方の良かりし事、
天下摂津大掾の右に出る者はあるまい。
「一力茶屋の段」
只だ此所から由良之助の変りが腹の中にも、詞遣ひにも厶り升、即ち力弥が来てからの押合、又九太夫に声を掛られてからの押合は、
又コロツト違ふ腹加減が厶り升
「山科閑居の段」
此九段目は義太夫節中の大王とも云ふべき六ケ敷い物にて、先づ是以上の困難な物はあるまいと思ふ。
第一に本蔵の出までは他に類のない程「カワリ」斗りの六ケ敷い物にて、
太夫も三味線も鎖で繋がれて居て、「カワラ」ねばらぬのである。
「綿繰馬の段」
大阪の文楽座で、長尾太夫の語るのを聞いたと思ふが、大分実盛の品格と瀬尾の詞「ガワリ」が好かつたやうに思ふ。
『九郎助女房』は世話に「カワル」事。
ハット気が「カワリ」て、『聞も及ばん宗盛公』となつた時は、大隅が名人やら何やら解らずに、生きた実盛がズーット浮み出たのである。
『口に白絹引くわへ』から「カワリ」て、サッ/\と『浮きつ沈みつ泳ぎぐる』と、庵主は面白さに目がくらんで、酔うて仕舞うた。
「質店の段」
次に『質店の帳箱に廬生が枕肝胆を砕く、久松思ひ寝の夢驚かす初夜の鐘、ふつと目覚し』と「カワッ」て、
この段の本問題に入られるのである。
それから久松の独言の「カワリ」がチャンと語れねば、『ノウ久松々々』とお染の詞の「カワリ」になれぬのである。
是から先は「カワリ」斗りで、三味線も太夫も修業の修羅場である。
夫から『涙ながらに稚子を』と云ふ「文弥」の出は、段々名人の弾くのも沢山聞いたが、
今の友次郎が若い時に、津太夫を弾いた時程、甘味く弾けたのを聞いた事がない。
是は芸捌きの困難な事が解つて来て『共にしぼるる目に涙』の「フシ」からポイと「カワリ」で、
無調法な撥で弾いたから、「涙ながら」になったのである。この人生涯の上出来として、今日まで覚えて居る。
此段の「カワリ」斗りは、只だ手の弾ける丈けの人では甘味く行かぬ物と覚悟したのである。
「芝六住家の段」
夫からお雉子の詞を聞いて『ムウ、実に、一命を差出し、頼まるゝ程の玄上太郎、とは云ひながら草も木も、我大君の国なれど』と、
最も品よく「カワリ」て語るのである。
斯様に綱太夫風は「カワリ」の篏込みに油断なく語る事。
「有常物語の段」
四、有常の詞遣ひは品のある中に、強い処があつて、「変り」に能く気を付けてサラサラと修業する事。
「岡崎雪降の段」
○幸兵衛の息込み。捕手の小頭と応対の詞と政右衛門と応対の詞との「変り」は中々六ヶ敷い。
「新吉原揚屋の段」
夫から『舞うて飲むやら唱ふやら』の「カワリ」は芸の気で腹から「カワル」事。
「日本賢女鑑 十冊目 片岡忠義の段」
夫から槇の戸の「詞ノリ」に「カワツタ」手ギワと云つたら妙であつた。『イヽヱイナア現在連添ふ私さへ』の「カワリ」もよかったが、
「伊勢音頭恋寝刃 油屋の段」
夫から喜助の意見の詞遣いから、其「変り」の心持が出来ねば、忠実の心が現はれぬ。夫から十人斬る事になつては、
「息」と「間」と「運び」が極つてから、「変り」方を語る修業鍛錬が、出来ねば人間所ではない、大根一本も斬れぬ事になるのである。
「忠臣二度目清書 寺岡切腹の段」
此『二度花の色香もなく』からは、平右衛門が物語り中の六ケしい「カワリ」で、節は少しも六かしい事はないが、
カワツタ腹の思惑が聴衆の腹の中に、分け入らねばならぬ程の、声と情と息とが、活ねばならぬ。
「本蔵下屋敷の段」
是から全く若狭之助の「カワリ」となる。夫がハツキリ語れねばイカぬ。
「三日太平記 九ツ目切 松下嘉平次住家の段」
總て浄瑠璃に「カワリ」と云ふ物は六ケ敷物となつて居て、三味線も太夫も、一生苦労をする事ではあるが、
此鐘場の「カワリ」と云ふ物は又格別に六ケ敷物である。
只だ腕達者、口達者丈けで語つて居ると、夫がモウ風にならぬから、滅茶滅茶になるのである。
「カワリ」も一つ一つ違ひ、「息」も一つ一つに違ふのであるから、
何にしても覚へて仕舞つた太夫でなければ語れぬと心得て居らねばならぬ。よい加減では決して遣れぬのである。
「山名屋の段」
夫からがらりと「カワリ」て探り気味に『あやなし浦里は』と云つたので、アヽ何所までよく語る事を鍛錬したものかと感心したのである。
「忠臣義士銘々伝 赤垣出達の段」
『ヲヽ、……曾平太か』と云つた「カワリ」の大きさ、又ビツクリした。