黒白 12巻7号(昭和3年7月)

義太夫虎の巻

平仮名盛衰記三段目切、 逆櫓の段

胴摺帽人 寄

(邦楽年表)に因るに、此外題は、元文四年巳未の四月一日竹本座に上場し、作者は、千前軒、文耕堂松洛可啓小出雲、等である、太夫場は、大序、播摩少椽(即ち二代目義太夫)其切が、此太夫、又二ノ切が、播摩少椽、三ノ切、即ち逆櫓が、播摩少椽[掾]夫から四段目の神崎揚場屋(かんざきあげや)は、内匠太夫(即ち大和の椽[掾])を以て切場と思ふて居たら、アレは四段目の(中)で夫が即ち神崎揚場屋で鐘場になつて居るやうで、夫を内匠太夫が、語つたもので切場の(源氏出陣)は矢張播摩少椽[掾]が語つて居るやうである。左すれば、此全部の切場は、序切を除いて、全部播摩少椽[掾]が、一人で語つて居る事が分る。サア、ドウである、昔日(むかし)の太夫の修業と云ふ物は、全く命掛けである。一人の太夫で、一日に、三段も四段も、語つて、夫が後世まで,其風が残るやうに、語つたとは全く鍛練の力でなければ、出来ぬ事である。扨枕からの語り方は(素人講釈)に、大略書いて置いたが、兎も角、義太夫節の元祖とも云ふ、二代目様(さま)の語り風であるから、誰人も、能く腸(はらはた)を締めて、稽古して覚へて、置かねば、外の義太夫節は、語られぬのである『[「]松右門様はこなたか、お名を知るべに」と云ふ、知るべにと云ふ、知るべが、皆移つて居る知るべにまでは、チヤンと伺[詞]で云ふて、息を詰めて「はる/\尋ね来つた者」と(三上)の音を遣つて、ハツキリ(地色)で語るのである「忝ふござるよ」とチヤンと(地色)で云ふて、又(三上)で「物ご――イイ、ノヲ、しと――ヲヲ――ラ[ヲ]、ヤカアサ」と、(播摩がゝり)で語る事、夫から「お顔見知ろふ様はなけれ共」の「ハリマ」は、チヤンと(本播摩)に語る事、即ち「お顔」と、下げてきて「見知ろ」ふは、又(三上[+)]の音である)[、]「やう――ヲヲ、は――ア――アアなけ――ヱヱ――レ――ド――ヲモ」と丁寧に語るのである、夫から詞の六かしい事は、殊に此段に限つて、大変な事であるけれど、夫は又別でなければ書かれぬから、地合丈けの事を、書く、「取違へた者でコザンす」と云ふたら此処で権四郎に変るのに、筆にも口にも、云はれぬ、何とも云はれぬ味のある、面白い間があるのである、ソコデ「道理で見た様な顔じやと思ふた事」と云はれる、コンナ事を、何処もかしこも、弁ヘねば(播摩地)は,語られぬのである、夫等が一つより、二つと積み重ねて行つて、古浄瑠璃の風の大きな、情(じやう)の深い、動かす事の出来ぬ、真似の出来ぬ、芸術となるのである。総て芸術は、細工や、拵へ事では、駄目である。腹の底から、湧き出て来る、真情でなければ、何にもならぬのである、夫を得るは、修業である。鍛練である、夫から、サラ/\と(地色)斗りを、味深く語りて、進んで行くのである、其中(そのうち)は「我子は如何に、孫はいかに」の(詞ノリ)の、手を附けた、力量と云ふたら、全く劇的の真髄であると思ふ、夫から、お筆に変りて「今さら何と、返答も」となつて来ては泣くも泣かれぬ一種の面白さである「差うつむき」となつては、色々に語る人もあるが、是非とも[+「]さしうつむ、き――イイ、イイ」と「ヘタツテ」詰めて、好き間で「シバラア、アアア―アク――ウ――ウ、コト――ヲヲバア、モ――ヲヲヲ、ナ――カ、アア、アアリ――イシ、ガアアア、アア、アア――ンナアア……」と云はねば、ならぬと聞いて居るのである。夫から「取違へたお子は、其夜に」まで、情を一様に云ふて(チン/\/\)と弾かせては、イカヌとの事、只だ間を持つて、詰めて(チン)と弾いて「はかなく、成たまふ……」と云へるやうに、前から工夫して、語るのである、夫で(チチン)と弾いて「キ――イテ、ビツクリ」「トトハ何故に」と、情が語れるやうに、する事、夫から又「大事の若君、取返さんと、かけ廻る、月なき夜半の」の(ツキ、ハズレ)の処、何とも云へぬ程、面白く語る事「主君の女中も、其座で」此処の様な処では、是非とも(チチチン([)]と(ギン)で呼出して語る事、総て(ギン)でなく、(チチチン)と、呼出す事は、力の付く程、双方共考へて、芸をせねばならぬのである、ナゼなれば、非力な者が(地色)や(詞ノリ)を、語つて居ると、力の足らぬ為めに、ドウしても(チチチン)と呼び出さねば、なら[+ぬ]やうになる。左すれば(地色)も(詞ノリ)も(メチヤ/\)になるからである、故に「あじきなき身上」も成べく(チン)で「泣いて斗り居た物を」も(チン)にして語るは、「オ――キナ災難」と勝手に音を替へても、構はぬ(地色詞ノリ)にさへなれば、夫で好いのである。「アヽ有難い忝い、と悦ぶ私の心が、ドコヘ行かふ」と云ふ(詞ノリ)は、天下一品の譜であるから、立派に修業して、後進に伝へねばならぬのである。夫から、樋口の詞に「アヽコリヤ/\」と止まつて夫から改めて「ムウ、聞へた」と高い声で云ふ事「若君は身が手に入つて気遣ひなし」は、極低く云ふて、能く聞へるやうに云ふ事「アヽ必ず樋の口」をから、高く云ふ事、夫から又、樋口の詞に「天地に轟き鳴る」と止まつて「雷の如く」と、別に云ふ事、又樋口の(詞ノリ)は、三味線はサラ/\弾いて、太夫は腹に、ネバリ気を持つて、語る事、又「ヤミ/\と御生害」の樋口の(大ノリ)は、此段の大事の処であるから、樋口の位を忘れぬやうに、語る事、夫から、「権四郎ハタと手を打つて、ハア――」と大隅が地色に稽古する時の息と云ふたら、六十五歳の今日まで、大隅の顔が、権四郎の顔に見へて、チヤンと頭の(レンズ[+)]に残つて居るのである、又(お筆嬉しく)以下の(詞ノリ)は、大隅が天下一品であつた、夫から(およし)の(詞ノリ)と云ふたら、其(カワリ)が、決して真似が出来ぬのである、夫から「納戸の持仏へ、火をともせ」(かゝり)と云ふたら、此処まで語り込んで来た大隅は、二分位の調子で、膝を叩いての稽古に、彼の目には、涙が光つて居た、此(かゝり)一つで、庵主は大隅の(かゝり)の語り方の、ドレでも六ケ敷事を覚つた。夫で「手に取上る笈摺の」と云ふた心持は、今庵主は筆先では、説明出来ぬのである。其息で「千年も生かそふと」云ふ時は、庵主は涙を禁じ得なかつたのである。夫から「タツタ三ツで、……―南無阿弥陀――」と云ふた時は、其声が、アノ芸力で、此処まで語り込んで、始めて出る声で、決して大隅が、只だ云ふて、出る声ではない事が分つた。此が浄瑠璃と云ふ芸じやと思ふた。夫から[+「]倶に涙に暮の鐘かうかう」と云ふ(ヲクリ)は、何と云ふ淋しい声であつたらふ、夫から「早約束の」と、調子の上つてからの(カワリ)方と云ふたら、今までなかされた庵主は、全く、夢を見たやうな心地がしたのである、…………ドウか此段を、修業する人は素玄の外なく、斯る腹構へを忘れずに、語つて貰いたい為めに斯くは及ばぬ筆で書くのである。