黒白 12巻5号(昭和3年5月)通巻127号

 

義太夫虎之巻

おしゅん伝兵衛 近頃河原の立引 堀川猿廻しの段

胴摺帽人 寄

 

 此外題は(邦楽年表に依るに)天明三年卯の三月十五日、大阪北堀江座に於て、豊竹八重太夫が、奥前共、出語をなし、三味線は、鶴沢寛治と、鶴沢東五郎とかが、弾いて居るやうである。人形はおしゆん、豊竹菊次、伝兵衛、豊松国八、与次郎母、豊松十五郎、与次郎、豊松元五郎)である、座元は豊竹此吉。太夫は。豊竹若太夫と、豊竹此太夫である。庵主は長年、斯る名作の、譜節(ふし)附けをした三味線弾の名前を、詮儀して居たが、此本によりて見ると、或は寛治か東五郎かが節付けをしたかも知れぬと、思はるゝのである、元来往昔から、斯芸の権威の上、太夫が横暴にして、三味線弾を虐待した事は、此一事でも分るのである、三味線弾も、立派な芸人である、夫に其太大の語る、一切の節を附けて居るのに、太夫の名計りを書いて、滅多に三味線弾の名を、書残したのがない、此は言語同断である、此を立派に書残してない事は、斯道の大欠点である。此時八重太夫が、江戸土産として此堀川を上場した、天明三年から、昭和三年まで、百四十六年の間、日本の津々浦々まで、殆んど間断もなく(そりや聞ヘませぬ伝兵衛さん)と、口癖にまで、語らぬ日とてもない程の名作を、太夫計りの名を残して、之を弾いた三味弾の名を捨てゝ顧みざりしは、何と云ふ残念な事であらうか、後の世の今日でも、太夫横暴の風は残りて、現今歌舞伎座などに、大阪の文楽が来ても、太夫の名を大きく書いて、三味線弾の名を、小さく書く風がある、其大きく書く太夫が、ドンナ太夫さんであるかは、其芸を聞いたら、直ぐに分るのである、斯る心得違ひの天罰は覿面で、斯芸は正さに、滅亡の暮鐘が鳴響いて居る、元々一人で出来る芸でなく、二人で出来るやうに、拵へてある芸を、太夫は三味線弾を蔑視し、自分一人で威張り蔓こると云ふ、其心情は、実に憎みても余りあるのである、芸道は、下手でも、礼儀が本である、太夫は三味線弾を尊敬し、三味線弾は太夫を、表芸として押立てゝこそ、其芸が、 一団の砲丸の如くなつて、聴衆を貫き、大世間にも,充満して来るのである。爾後此段は、世の中に大流行となつて来て、其翌々年の己年にも、江戸の肥前座に上場したが、其時には、語つた太夫の名が見へぬ、唯作者の名として、為川宗輔、筒川半二、奈河七五三助と三人の名が、書いてある丈けである、夫から同じ、天明八年の八月廿九日には、大阪堀江市の側で(出語)、豊竹七重太夫、鶴沢清七が演じ、夫から十九年後の、文化四年の六月廿九日に、大阪御霊内の芝居で、又八重太夫が語り、又文化九年の正月二日にも、八重太夫が語り、文政三年の八月朔日にも、御霊内で八重太夫が語り、同四年の十一月八日には、大阪稲荷内にて、重太夫が語り、同八年の二月八日には、大阪御霊内にて、豊竹若太夫が語り、同十年の四月には、伊勢の国にて、又若太夫が語り、同年の閏六月六日には、座摩内にて、又重太夫が語り、同十一年の正月二日には、大阪御霊内にて、豊竹君太夫が語り、同十二年の正月九日には、大阪稲荷内にて、竹本大和太夫が語り、天保元年の九月廿五日には、大阪御霊内にて、又重太夫が語り、夫より廿五年の後、安政二年の九月には、大阪稲荷東芝居にて、津賀太夫が語り、同四年の九月には、同所にて、竹本春太夫が語り、同六年の十月には、大阪御霊内にて竹本岩美太夫、豊沢仙糸にて語り、元治元年の正月には、竹本泉太夫にて語り、同年の十月には天満戎門にて、豊竹富司太夫が語り、慶応元年の九月には、大阪天満芝居にて、豊竹三光斎が語つて居る。此の如く、名人計りで語つて来た物も昭和の今日には、ドンな名人が語つて居るであらうか、考ヘて見たら、期道が滅亡するかせぬかゞ、直ぐに分る、夫は芸に魂が、入つて居るかドウかを見れば分るのである、ドレモ/\殆んど、満足な太夫は、語つて居らぬ(破れ屏風に、ポコ/\三味線、此与次郎と、婆々の情合の、詩的気分になつて居るのが、何所にある)此間、庵主の贔負の太夫と、三味弾が、邦楽座で此(堀川)を語つて居た時庵主は(面白かつたと云ふて誉た)が、其後歌舞伎座で、同じ両人の太夫と三味線弾が、(実盛物語)を語つた時は、此結構な、大役を受取ながら、殆んど、挨拶も出来ぬ程、勝手が悪るかつた(九郎助内の、舞台が弾けず、語れず、実盛や、葵御前の、品合が、弾けず、語れずしては)此段に潜んで居る錆びたる、詩は読めては居らぬのである、要するに、修業が届いて居らぬ証拠である、故大隅太夫が堀川を語つた時は、「チリ/\テン/\」を二代団平が、「マクレ」ては居たが、命掛けで弾いて居た、大隅が(母を大事と)と云ふた声は、幾十年の後までも此淋しい、浄瑠璃の情が、庵主の耳を突貫いて居る、即ち大隅が、一生懸命の中に、涙が漂やふて居た、彼が(アハヽヽヽ)と笑ふ声は、皆涙であつた、庵主が夫を誉めたら、

「アンた、私が泣いて語つて居るのンが、分りましたか、………有難ふ………[」]

と云ふて居た、三代目越路は、只だ好く語つて居た、………大掾が、「半太夫」を語る時は、身も心も、お俊の情合に、投込んで、浄瑠璃を忘れて語つて居た、其時庵主が大掾に

「お前の「半太夫」を語る心持を聞いて居ると、私は此稽古を、止めたくなる、[」]

と云ふたら、大掾眼を光らして、

「夫は、好い御思案で厶い升………貴下(あなた)が、此等の商売人におなりになつても、其心持が分つたら、(堀川)が語れるか語れぬか、分りませぬ、貴下の、気に入るやうに、自分で語りやはつたら、「半太夫」の方は、屹度崩れて仕舞ふて居り升……「半太夫」と云ふ物は、心持と、譜(て)の修業が、一致せぬ事には、只だ語る丈では、物になりませぬ貴下が、月に僅か、三日や五日、大阪にお出になつた、其稽古では、お止めになつた方が宜ふ厶り升、[」]

と威かされて、庵主はトウ/\、此段の稽古を止めたのである、夫から名庭紘阿弥が、(更け行く)と云ふ「オクリ」を弾くのが如何にも、淋しくて、庵主が、面白くて溜らぬから

「お前は、ドウして、あんな「ゴワ/\」と云ふ、荒い撥を遣つて、アンナに、淋しく弾けるのか、」

と聞いたら、絃阿弥曰く

「毎日/\、二見さんと、合せて居升が、二見の親爺さんが「マダ撥が、軽いやうじや、/\/\」と云やはりますから「夫はアンタ、清水町の、師匠のが、耳にあるさかい「ソナイ」に云やはりますと思ひ升が、「ソンナ」無理な事を、考へて居やはつたかて、明きまへんと申升と、二見さんが「私は、近年一度も「ホンマ」に、堀川の語れた事がない「サカイ」ほんまに、弾いて貰ふて「ヲヽヽヽヲ」そうじや。/\/\/\と、云ふやうに、語つて見たいのじや」と云ふて、笑やはります「サカイ」今私が、凝つて居る、最中で厶り升、[」]

と云ふて居た、荒い大きい、撥を遣ふてこそ「チリ/\チリ/\」と、云ふ「カスメ」撥が、つかへるのである、夫を絃阿弥は、凝つて居たのである、其後絃阿弥から、手紙が来た、

「此間お咄の(堀川の更行く)の「オクリ」は、夫から段々凝り升たが、風斗(ふと)、松葉屋の師匠が、弾「キヤ」はりましたのを思ひ出し升て、夫を弾込んで、弾升たら、二見さんが「ヲヽヽヽヽヲ、そふぢや/\/\」と、云やはりました、一ぺん、聞に来て戴きたいと思ひ升、[」]

と、其手紙に書いてあつた、庵主は飛立程面白く、其手紙を見たが、トウ/\忙くて、聞に行けなかつたが、味の分つた真の芸人の、凝るのと云ふ物は、大抵コンナ物である、芸と云ふ物は、要するに、智恵や、才覚や、腕先(てさ)きで、出来る物ではない、魂が入らねば、総て駄目である、此外は、素人講釈の方にも、大略 書いてある筈であるから、参照して見て貰いたいのである(了)