黒白 11巻7号(昭和2年7月)117号 p40−42
義太夫虎之巻
梅川忠兵衛冥途飛脚 新町封印切の段
胴摺帽人 寄
此外題を、帽人が曩(さ)きに、正徳元年卯三月竹本座初演と書きたるは、何も拠るべき書物がないから、「声曲類纂(商)の巻」竹本座の外題中に「梅川忠兵衛冥途飛脚」(近松作)とあるを取つて書いたのである、其後「近世邦楽年表」の発刊ありしにより、取る手遅しと調べて見たるに、安永二年十二月廿三日「大阪曽根崎新地芝居」にて「座本豊竹此吉」にて開演し、此時の外題は「けいせい恋飛脚」となつて居る又天保元年三月に「大阪北堀江市の側座本鶴沢福造」にて「新の口村」丈けを開演、此時の外題は「恋飛脚大和往来」となつて居る、其後数回芝居には上場して、表題は以上の二つに分れて居れるが、内容は矢張「飛脚屋」と「新町」と「新の口村」とになつて居る、左すれば此外題は、何れも一定せずに、内容斗りが同じ物であると云ふ事が判つた、故に『正徳元年の梅川忠兵衛冥途飛脚は、近松門左衛門の作ではあるが」夫に色々の名題を付して、後世上場した物と思ふ、万延元年の十月に「稲荷境内東芝居」で「竹本長登太夫の紋下」で弥太夫が「飛脚屋」で「長登太夫が封印切」であるが、是も外題は「けいせい恋飛脚」となつて居る、故に帽人は此外題を何れとも一定せず、只だボンヤリと矢張正徳元年の「梅川忠兵衛冥途飛脚」の儘として置くから読者は追々研究して、遠慮なく之を指導せられん事を切望するのである。
「ナヲス」「青、編が――アサア――ノ。モヲーミイ――ヂシテ。スミ――イビホノメク、ユウベマデヱ。」と「音」にかゝつて運んで来て「ム――ムメ――ヱ、カ――、ンンン、バシク、マツタカキ、クーウ、ラーア、イ――イ、ワアアア、ヨシヤ、ヒキシメテ、と淀みなく心地よく運んで「橋がかけたや」となつたら「ウキギン」の気味で舞台の仕込を語るとの事「此梅川が今の身を、少しは泣いて貰ひたい」から「泣しみづいて語るにぞ」までは語り込まぬやう、ダレぬやう又「息々」で情が成丈け深くなるやうに語るとの事「一座の女郎身の上に」から「カワツ」てサラ/\と語る事、色々議論も聞いたが、帽人は矢張「つらや所在と恨らん」の「フシ」までを夕霧文章として(ナヲス)事になるがよいと思ふ「中の島の八右衛門九軒の方より浄瑠璃聞付」から全く気をかへて、陽気に/\と語る事、夫には「詞遣ひ」を鍛錬せねば「カワリ」が付かぬのである「必ず/\云まいぞ」からは面白く「ノリ」て「皆ミーイナ、ア。ア。ア…………」と「ノリ」て「送り」を語るのである「サ爰へ/\」から「調子下る」となつて居るが、夫が中々塩梅よく「詞」まで頃合が付かぬのである、即ち夫が鍛練で面白くなるのである、以下「忠兵衛」の出から「漏るゝぞ仇の初めなる」までは心持斗りの浄瑠璃で、其六ケしさは筆には書かれぬのである、故に「フシ」は師匠に習ふべし「心持は」自分で定むべしと云ふが、此所の事である、夫から「八右衛門」が決して敵役でない事を語り明す事が中々面倒である、昔から太夫の誰れも困難する所である、コンナ事が「此太夫」の世話語りに、一種独特の妙味のある所である、「八右衛門」の「長詞」は四五十度も読んで見ると、其「八右衛門」が敵役でない気分が出て来ると云ひ伝へてある「故大隅太夫」には、「彼手附の五十両」と云ふて息があつて「どつから出たと、思し召」と云ふ「色」の面白さ、大抵「ドツから出たと、思し召」と大声で云ふが「大隅」は「五十両」と云ふて、何とも云へぬ息があつて「ドツから出たと、」小声で云ふて「思し召」と首を前に出して、低い声で「色」を云ふた「さらば正体顕はして」と、「下コハリ」で云ふた腹込は、其恐気の立つ所、何人も真似は出来ぬと思ふ「身を縮むれば」で「カワリ」て「二階には」となる「短気は損気の忠兵衛」から又「カワリ」て此「忠兵衛」の「地色」は其心持が中々語れぬ只だ「心持」を修業する事「是非もなき」の「フシ」で又「カワリテ」「八右衛門水入取上」となる「いつかな/\直らぬ」で「カワリ」て「曲輪で此沙汰ハツとして、寄せ付けぬ様に願ます」を小声で云ふ、コレと同じく、心持さへ出来れば「ヤコレ、可愛くば寄付けて下さるなへ」は大声でも云へる事ともなる、夫を受けて「語るを聞けば梅川も」が独りて情が浮いて語れる事にも成るのである、大掾の稽古を聞く時「舌を切つても、死たいと」の「死たい」は「二本」も高い所から出て「クリ下げる」其面白さは形容が出来ぬ、此所は、声の悪い人でも亦た此所に一種云ひ知れぬ面白い情を語る事の出来る所である、「下には各推量して」から「袖を絞りけり」までは程能「ノリ」て「三ッ入」に収める事「忠兵衛元より」から「八右衛門が膝にむんずと、居かゝり」までは一息に大掾は云ふた、夫から「むんず」と云ふ中に、何とも云へぬ息があつて「居かゝり」と「色」を語るか、其跡に「是丹波屋の八右衛門」と云ふまでに、何とも云はれぬ息の妙味があつて、筆には書かれぬ、兎も角「二歩」位の調子で、叩いて語つて聞かせて居るが、眼色(めいろ)が変り、腰構へが違ふて、側で聞いて居るのにも、恐気立つて聞取れぬのである、夫が心持の出来た太夫であるから、斯くなるのである「猶かやさねば一分立たぬ」の跡「サコレ此金、我が目には見へぬか。コレ/\/\/\/\コレ見いやい。フウ、ヲツ、………。モウ是までと」丈けの文句は、ドウしても書入れねば、文章の押が利かぬ事になる、又「カワリ」て「梅川涙に暮れながら」から「声を上げて泣けるが」の「フシ」まで語りて「足をかへ」て「情なや忠兵衛さん」と運ぶ、此梅川の「サワリ」と「口説」の足取は外の物に類がないとの事であるから「延縮」と「仮名切」と「音のカワリ」とを能々気を付け鍛錬して、情を深く/\語つて、少しの苦もないまで呑込まねば、何んにもならぬのである、此所まで語ると、モウ跡は段切が困難な丈である、併し是は師に就いて幾度も/\鍛錬すれば自然と情は浮いて来るのである。(了)