黒白 11巻6号(昭和2年6月)116号 p33−37
義太夫虎の巻に就いて
其日庵主人稿
従来雑誌黒白紙上に、義大夫節の素人講釈を「胴摺帽人」と云ふ名にて庵主が投稿し始めてから、最早十ケ年斗りとなり、其段数も殆んど百段近くとなつた、ソコで庵主門下の三角農学士は、之を一括して単行本となし、之に「義太夫素人講釈」と命名して、黒白発行所より一般に之を発売し、其収益を挙げて化学研究所の資金に充当すべく、相談を庵主に持掛けて来た、庵主は一も二もなく,学士の提議に同意をした[、]ナゼなれば、元々此原稿は庵主が、明治十四年巳の六月に「大阪稲荷文楽座」で「竹本摂津大掾(当時二代目越路太夫)の「合邦庵室」の段を聞いて以来、此芸術の偉大深奥なる事を感じて、此太夫と懇意になり、従来研究して居た「謡曲」や「富本」や「常盤津」等の事を止めて、此義太夫術の研究に肩を入れ替へた、其長い間に摂津大掾、大隅太夫、名庭絃阿弥(元豊沢広助)等の老師連より聞いた事、習ふた事の記憶にある事丈けを、思ひ出すが儘に書連ねた、斯芸の風儀風格の事のみを筆記した物である、夫も一の参考書等を基礎とした物でないから、若し書物となるならば、逸早く之を世に公けにして、庵主の達者な間に、大方先覚の人の非難や、訂正を受けて見たらば、比較的に正しき物となつて、或は他日斯道向上の一助になる事もあらうかと思ふたからである、元来斯道の風格と云ふ物には、参考とすべき文献は、皆無と云ふても宜いのである、先づ「声曲類纂」や博文館出版の「近松………」とか「浄瑠璃………」とか云ふ集編や「種本」や「風来山人著」(平賀源内)の何………とか、曩時(のうじ)には「秋山清君著」の「義太夫鑑」とか、最近には又「東京音楽学校編纂」の「邦楽年表」とか、誠に従来得がたき結構な書物も出来たが斯芸の風格を論じた物は、一つもないのである.元々芸と云ふ物は,風格の事を云ふ物で、恰も文字の如く、鉛筆で書くのも字で、ペンで書くのも字である、又縦に書くのも字で、横に書くのも字である、只だ夫は読める丈けの字で、即ち字を書くと云ふ芸術には、先づ其字の風格を学ばねばならぬ、其風格には此芸術に幾多の研究をして苦労を積んだ、先づ「王羲之」とか「文徴明」とか「張子昂」とか「董其昌」とか云ふて、楷聖草聖と云ふやうな先輩が沢山ある、絵画でも「南画」とか「北画」とか日本では「土佐派」とか「狩野派」とか「四條派」とか、一番斯道に苦労をして動かぬ風格を残した先輩が又沢山ある、先づ夫を学んでこそ、芸術の道に入つたと云はるゝのである、夫を一切無視して、古人も人間で、一派を出したのである、俺も人間であるから、コウ云ふ風に書画を書いて、一派を出すのじやと、大声疾呼して勝手気儘に自分の思ふた通りに書く者が、今で云ふ画なら、朦朧画、書なら金釘流である、無学な百姓町人の日記も、帳面付けも字は字である[、]即ち今の学生の鉛筆や、ペンの筆記も字は字であるが、字と云ふ風格は少しもないのである、其拠る処のある風格を書かねばならぬから修業と云ふ事が必要となつて来るのである。故に今の義太夫節も、文句も解れば、事柄も解るには相違ないが、義太夫節の芸術では決して無いのである、「近松」や「出雲」の書いた文章も、鉛筆やペンで書いた字のやうに修業の目的のない、好い加調な朦朧義太夫であると断言が出来るのである、古人が「礼楽起らずんば蒼生を如何せん」と嘆いたやうに、斯修業の道と云ふ物が廃れて来ると、師弟の間の礼儀と云ふ物が廃れる、此礼儀が廃れると、師弟の恩義が無くなる、師弟の恩義がなくなると、芸術が少しも尊くなく[、]芸術が尊とくならぬと、一般社会が之を尊敬せぬ事になる、一般社会が芸術を尊敬せぬ事になると、其演芸に誰人も感服せぬ事になる、吾人共に感服の出来ぬ演芸を聞きに行く阿房は居らぬ事になるから、茲で斯道は滅亡して仕舞ふのである、人間の精神を慰和する、各方面の芸術が亡滅して来たら、人間は皆鬼になるのである、即ち楽芸は人間の心の食物である、是が心の食物になるには、感動せねば食物にはならぬのである、感動せしむるには修業をせねば其食物はお甘(い)しくない事となる、夫を修業するには、師弟の礼儀が正しくなくては、師恩と云ふ物に絶対の尊敬が払へぬのである、師恩を尊敬して、其芸術が貴くなる、ソコデ始めて一般社会がお甘しく其演芸に感服するのである、感服して始めて其演芸を尊敬するのである、尊敬してこそ、満天下の人が、此芸を歓迎するのである、然るに今の芸人は、其芸術は鉛筆やペンで書いたやうな粗末な物を演出して、「土産物」を沢山贈りたり、頭をピヨコ/\下げたりして、芸道に対しては、無学文盲な聴衆に初めから媚びて、人気斗りを欲しがる、之は乞食の「門芸、大道芸」と同じ事である、ドコに芸術と云ふ物の尊敬がある、即ち此時に芸道は亡滅すると云ふのに、少しも異議を云ふ事は出来ぬのである、之を匡正するには、昔日のやうに、興業師と云ふ者を抜きにして、芸人が結束して、自分で興業をするの一法あるのみである、芸道の亡滅は,興業師が先駆である、多くの芸人を誘拐(かどは)かして、金さへ儲かれば、尻振り踊りを踊つても構はぬ、入場人さへ沢山あらば、夫で何の異議もない、芸道の善悪に何等交渉のない、精神堕落者の道具に遣はるゝ事を、一期の光栄と心得て居るから、芸人が斯く卑しくなるのである[、]自分等が座本興業主となつて、演芸をなす時は、不鍛練な演芸をすれば、自己が損をすると、根本が確定したらば、サア今のやうな好加減の芸では,無給金で働いた上に、手出しをせねばならぬ、ソコデ相互に励み合ふ事になる、芸人共が夫がイヤじやから、其損を興業帥に塗り付けて、胡魔化しの粗末な芸を掴ませて、給金斗りを掻払つて逃げて行くのである[、]是では興行師も芸人も、二度三度の後には屹度亡滅するに極つて居るのである、此等は芸道でも、興業でも、何でもない互ひに詐偽の為(し)つくらで、見物こそ宜い災難である、要は自己の品物が悪くて損をするのは、各々自己が負担せねばならぬ、即ち芸と云ふ物は、先づ為る丈けの修業をして,損得の責任を自分で負担して見ると、克(よ)く解る物である、総ての物に責任がないと、何でも滅亡するのである、元来芸と云ふ物は、智恵や才覚の拵へ事では、一寸も動かぬ物である、夫れは素人の天狗の芸を聞いて見れば直に解る、此経験には庵主が一番のチヤンピオンである。一寸語れるやうになると、天狗の絶頂に昇り詰めて、ドンな名人の語るのでも、聞く事がイヤになつて来る、始めは出入の職人などを、煎餅位食はせて聞かせて居るが、下手の上に長いので、睡くなつて、明日の稼に関係して来る心配をしつゝ、お出入を四九尻(じる)のが嫌さに、我慢をして居るが、終には義理にも辛抱が出来ぬ事になるので、色々と煩悶の末、ヤツとお仕舞になつて、一寸お世辞を云ふと、サア直ぐに蛸の糞のやうに、高慢が段々と上つて、立て付け/\毎晩々々の催しとなる、ソコで腹が痛い疝気がツリ付けた、親戚に不幸があつた、仲間の寄合があると云ふやうな風に、此催のあるか無いかを嚊に偵察をさせて昼の中から其聴衆たる応募を免かるべき予備考慮をして居るのである、斯くなると、モウ人間の精神は悪化して来て、仮令出入は四九尻るとも構はぬとの決心をする事になる物である、ソコデ今度は方面を変へて、友達を募集すると、是も始めは浮狩(うつかり)り来て見るが、下手の上に長いので、モウ煎餅と茶位では聞かぬ、強(た)つて呼寄せると、鮨とサイダー位は出せと云ふ、三度目にはビールの一本位は出せと云ふが、四度目にはビール斗りがぶ/\飲んでは居れぬから、正式にお膳を出せと云ふ、五度目には唖の物を食ふやうに沈黙つて飯を食ふては居られぬから、芸者を二三人位は呼べと云ふ、六度目には飯を食ひには行くが、今夜は義太夫を語るか語らぬかと云ふから、少し斗り語るのじやと答へると、拠なく他へ一軒用達しに行つて、少し遅れるから、構はずズン/\始めよと云ふて、演芸の仕舞へた頃に来て、飯丈を食ふてズン/\帰る、七度目には今夜は語るか語らぬかと云ふから、語ると云ふと、食逃げに遭ふから、今夜は絶対に語らぬと云ふて、先づ呼んで置いて、膳を出して彼等が酒を欲み始めた時、間(あひ)の襖をサツと開け放すと、チヤンと師匠と見台が並んで居る、ヤア欺し討じや/\と云ふて、少しも演芸は聞かずに飲んで食つて酔ふて、ズン/\帰つて行く、八度目にはモウ他人の名義でなければ来ぬが、庵主の顔を見ると、心中に不安でも感ずるかして、立つて行つて先づ次の間を点検した上でなければ、落付いて酒も飲まぬ事となる、最早此処まで下手も語り詰めれば、素人義太夫滅亡の暮鐘である、斯る終点まで行詰めた上げ句の果の庵主は、扨て何をするかと云へば、モウ仕方がないから、芸人イジメに取掛るのである、此処になると必ず生命に係る問題となつて来るのである、元々弱い商売の芸人であるから、面と向つて反抗はせぬが、アノ親爺奴、早く死ねば好い/\/\と全部の芸人共が呪ふて居るのである、素人義太夫も、芸人イジメをするまで行詰めると、芸道の滅亡よりも先きに、庵主の身代の滅亡が、目睫の間に迫つて来るのである、斯る程度まで行詰めて見ても、扨てと心を落付けて芸道の事を顧れば、義太夫節と云ふ物は決して語れる力量は付かぬ物である、決して/\智恵や才覚で出来る仕事ではないと、大きな判を押して断言して置くのである、ソコデ庵主は此上何事を覚れば好いかと云へばモウ多くの人が聴いても呉れず、芸人も云ふ事を聞いて呉れず、庵主の身代も滅亡に近付いて居るから、曩日(さき)に二三の禿茶瓶の親爺共から聞いた丈けの風格を書残して置く丈けの仕事をするのである、夫を人が読んでも読まぬでも、書く事は俺の権利自由であると、焼糞を云ふて書いたのである、夫を彼三角農学士が単行本となして出版したらば、早速に庵主の贔屓の或る芸人が、間違の個所々々を親切に訂正して呉れた、夫でモウ大安心をして此義太夫三昧を庵主の生存中は止める事にした、所が或日友人の福島春甫君や副島八十六翁が、大声に庵主を呶鳴付ける、何と云ふかと思ヘば
「貴様の書いた「義太夫素人講釈」を通読するに、アレは貴様が考案して書いた物ではなくて、全く斯道先輩の摂津大掾、大隅太夫、名庭絃阿弥等の口授の聞書を筆記した物である、然るに何様仕事が粗末である、頭を書いて尾を書かず、花を書いて幹を書かぬから、アレは間違もない義太夫節の朦朧講釈である………長い年間にはマダ親爺共に聞いて居る事が沢山あるであらうし貴様自己の考へもあるであらうから、夫を有丈けサラケ出して、書いて仕舞へ、夫を読んで見たらば、或は後世の為めに役に立つ事があるかも知れぬが、今の儘では、全く無用の出版で、役にも立たぬ反古本である、サア屁古垂ずに書いて見よ/\[」]
と責め付けられるのである、庵主とても稀世の親友等から、コウ口汚なく呶鳴付られて見ると、長くもない残生に、此上少々の恥を掻き増しても、濡れぬ先の露で、余計の揖得もないやうであるから、仕方がないから、思ひ出した丈けを又書いては見るが、夫とても従来と同様、間違ふた事が嘸ぞ多からうと思ふ、しかし夫は親切な先覚の人々が、又従来の如く非難訂正をして呉れる物として、従来書いた百段斗りを更らに繰り返してボツ/\と調べて、増補の心で再たび筆を馳せて見る事にするのである。