黒白誌掲載記事と較べ、素人講釈で赤字は削除され、[青字]が追加された。
 
 
黒白 第5巻11号(大正10年11月)通巻56号
 
義太夫虎の巻 ひら仮名盛衰記三段目切 松右衛門逆櫓の段
 
            胴摺帽人 寄
 
 
(十) ひら仮名盛衰記 三段目切 松右衛門逆櫓の段
 
 此外題は、元文四未の四月[(大正十五年を距る百八十八年前)]竹本座に上場せし物で、[作者は文耕堂、三好松洛、浅田可啓、竹田小出雲、千前軒であるとの事、又芋屋平右衛門と云ふ人、竹本鳴太夫と名乗つて始めて出座したとの事。]役場は二代目義太夫、即ち竹本播磨の[少]掾である[と聞く]。此人は、元祖に較べると、極々の小音の人で、全く修業の一点張にて、成[功]した人である故に、音遣ひが其芸術の骨子と成つたので、音遣ひの点になると、寧ろ元祖よりも六ヶ敷ので、後世に伝はる音譜の運は、此人の方が元であると云ふてもよいのである[との事]。斯道中興の祖とも云ふべき、筑前の掾の語り口などは、其淵源を全く此二代目義太夫に取つて居るやうに思はるゝのである。先づ『妻恋ふ鹿の』ハルフシ風が「一」に落ぬやう、尤も上品に語らねばならぬ、大抵はお筆に色気があつて[り過ぎて]困る[、]お筆はソンナ人形ではないぞ」と云ふ[のであるから、]出の文句である。故に[にも]『妻恋ふ鹿の果なら[で]』と書いてある。『難儀硯の海山と、苦労する墨憂事を、数書くお筆が身の行衛』との名文は其作者たる文耕堂と、松洛と小出雲と千前軒と[等]が作中の誇りと賞へられたのである。故に此文句を語り出す太夫は、大概は位負を為るのである。故団平は「逆槽の枕は私の覚へて居る丈[近来]の太夫さんでは、ドンな豪い人でも、物に成つてる人は一人もなかつたやうに[と]思はれ[る][ただ]巴太夫さんに[(柳適太夫ならん)]此枕を云はせた時斗りは、アー良なア、是が本当の逆櫓の枕ぢやなアーと思ひ升た」と云ふたとの事である。左すれば大掾も大隅も、団平の耳には[、]夫が面白くなかつたと見[え]るのである。『ナンー[ーンーーン]スズリノ、ウミーイ、ヤマト』と音に就いて[で]語るが此風であるとの事。『クロ[ー]スルスミ、ウキコトヲーヲーヲ』、と音で走るべき味がある。『カズカクオフデガ、ミノユ[ー]クーウウエ』と足を極めて語る事が六ヶ敷との事[。]夫から『松を見当に尋ね寄り』は「ユリナガシ」に品よく収めるのが正式だと聞いて居る。[此「ユリナガシ」と云ふ手を能く味わはねばならぬ。二ノ口村の「二ノ口村へ着きけるが」、湊の町の「湊の町に着にけり」、又「ギンガヽリ」では、玉三の「白書院」、布四の「庭の紅葉斗りなり」等の如く、皆此節で語方弾方が違ふのである。]夫から「詞」から「地中」から「地色」から、皆音の操縦が秘决である。其遣り方運方で、此段が自然と田舎じみた、漁村の漁師小屋[の家]となるのである。夫から後段になつて『踏砕く頭の皿微塵に成つて死してんけり』になつて、何時も素浄瑠璃では、「ツンルン/\/\/\」『涙にむせぶ腰折松』となるが、是は無理とも無法とも、芸にも咄にもならぬが、然らばと云ふて『畠山の重忠』や『権四郎の船唄』などを、五行本の通りに入れて語れば、惰劣て仕方がない故に、帽人[庵主][大掾の頼みで]五分間斗りで仕舞へるやうに此繋を書足して置いたので[ことが]ある。夫は他日書く事にする。(了)